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2007年06月21日

「硫黄島からの手紙」と「父親たちの星条旗」

  ゴールデンウィークに「硫黄島からの手紙」と「父親たちの星条旗」という映画を観ました。これはクリント・イーストウッドの2部作で、米国側と日本側の双方から撮った映画です。この手法に近いのが黒澤明監督の「羅生門」でしょう。人は相対する両面それぞれの心情の表現を通して、より真実に近づくことができます。まさに「学ぶ」ということの本質はここにあるのではないでしょうか。

 今回とくに驚いたのは、「父親たちの星条旗」です。硫黄島を占領した米軍の「英雄」が、戦争継続のために国債を使って資金を調達する手段に利用された様子を赤裸々に描いています。そもそもハリウッドはmade in U.S.Aの文化やコンセプト、政治的正当性を全世界に宣伝する役割を担っていると思います。「英雄」の輩出もそこから派生するものではないでしょうか(もっともこれは米国に限らず、どの国でも多かれ少なかれ、映画、ドラマ、スポーツを含め「英雄」の演出の陰には、利益、政府や時の権力者の正当性などいろいろな思惑が隠れていることが多いものですが)。

 クリント・イーストウッド監督はその陰のしかけの部分をあぶりだしてしまいました。しかも米国の立場のみならず、日本の立場からの映画もつくってしまいました。もし「父親だけの星条旗」だけであったら、日本人という東洋の命知らずの不気味な人種をいかに苦労して撃破したか、だけになってしまう。ところが「硫黄島からの手紙」を観れば、いかにその不気味な日本人が、本当は普通に家庭があり、どんなに悲しい思いをしながら戦地へ赴き、生きようとしたり、断腸の思いで生きることをあきらめたりしたかを知ることができる。

 今日、スポーツ選手、歌手・アイドル・タレント、若手経営者など様々な若者が英雄として祭り上げられ、その時々の力のある大人たちに利用されてきています。テレビをつけると英雄である「若者」がテレビコマーシャルに、バラエティ番組に、あらゆるチャネルでひっぱりだこです。一方的な心地よいストーリーをつくり、印象的に「英雄」である若者を祭り上げることで、その裏にある誰かが利益を得たり、大衆を動かせたりするのです。

 若き「英雄」をあがめる最大の弊害は、人生の実際を、多くの若者に見誤らせることです。経験は能力と同じくらい生きる上で重要な要素です。若者を簡単に金持ちにしたり、英雄にしたりする背後には、そうすることでお金儲けや目的達成をもくろむ人がいる場合が多いです。

 最近成功したある若手経営者は、そのブログや出版物で、老人を否定し、経験を否定し、釈迦やキリストまで否定しました。悟りを自己欺瞞と切り捨てました。しかし一時的にお金持ちになることで、老人を否定したり、釈迦やキリスト教や儒教など歴史英知を否定すること自体が、矛盾を生んでいると思います。なぜならまだ本人は老人を経験していないからです。ニーチェは言います。自分と同じ高みに登らなければ、その高さを理解することはできないと。若者の早合点は、若者全体を安直な方へ向かわせ、ニートやフリーターの増加など、将来深刻になるであろう問題を大量生産します。

 太平洋戦争がなぜ起きたか、というと、もちろん様々な要因はありますが、私は、人の「心の問題」として二つあげろといわれれば、「日清、日露の戦勝」と「若者の暴走」にあると思います。人は成功すると慎重さを失います。日清、日露の勝利は国民全体に「日本は戦争に強い」という自信を植えつけました。

満州事変の成功は長期の不況の脱出のきっかけとなり、米英の外圧も強まることにより、国民の支持が軍隊へと向かうようになりました。その結果石原莞爾という一中佐を日本の英雄に仕立て、陸軍の若手は第2の石原莞爾となるべく、中国戦線を拡大していきました。

 そして、日本のリーダーたちは若者をコントロールすることができなくなってしまいました。それが日米の若者が硫黄島で地獄の経験をすることにつながったのです。

 「世の中万事塞翁が馬」です。そのようなことを言い始めた自分は人生の後半にいるからなのかもしれません。ただ最近、若いころの自分の思い上がりを思い出しては後悔し、恥じ入るばかりになりました。

 そんなことを考えるきっかけとなった、2本の映画でした。

2007年09月17日

遅ればせながら、今年の春の話

毎年の桜の季節は、私の場合、家の前の神社の枝垂桜から始まります。2月くらいから藪椿が咲き始め、3月中旬くらいから枝垂桜が咲き始めます。そして2,3週間ほど咲くと、また椿だけになります。枝垂桜の散り始め、境内の地面に桜の花びらのじゅうたんができ、そこにぽつ、ぽつっと椿の花が転がっているのは比類なく美しい。私は、結城に下駄をはき、神社のお社の縁側に座り、枝垂桜を眺めながら、骨董市で買ってきたがらくたの青磁でちびりちびり日本酒を飲むのが、この時期の休みの過ごし方の定番です。

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しかし今年は、事件が起きました。枝垂桜が咲き始めた3月19日の翌朝、この境内で縊死された方がおりました。枝垂桜の下にある小さなお稲荷様の祠の軒に縄をかけたのだそうです。37,8歳の男性の方だったそうです。どういういきさつかは存じませんが、ご冥福をお祈りします。この話を私が知ったのは、1か月後だったのですが、それを聞いたとき、そういえば、この神社を題材にした短編小説があるのを思い出しました。水上勉の「崖」という初期の短編小説です。

水上勉は昭和25年ごろ、この神社の近くの農家の離れに3歳になる娘さんと暮らしていました。そのころの生活をモチーフにしたもので、主人公の「私」は会社が倒産して、その退職金で、妻と、農家の離れで暮らしていました。しかし家を買おうと、妻は新橋のキャバレーに勤めに行きました。そして高台にある神社のふもとの小さな家を買いました。しかし妻はあいかわらずキャバレー勤めを続け、「私」は毎晩終電のころ、旧中仙道を16分歩いて浦和駅まで妻を迎えに行きました。

ところがある日、妻は終電で帰ってこなかったのです。それ以来、「私」は妻の不貞を疑い、浮気現場を捕まえようと、旅へ出る、と言って縁の下に隠れていました。すると車の音がし、しばらくすると、外人と妻が睦む声が聞こえ、その声が収まったころを見計らって飛び出すと、妻は首を絞められて殺されていました。
亭主である「私」は疑われて一度は逮捕されたのですが、証拠不十分で釈放されました。しかしそれから数日後、「私」であるその主人公は神社の境内にある木で縊死していたのを発見されました。なぜ「崖」という題かというと、この地域は大宮台地の先端で、当時は崖になっていたのです。

私が小さいころ、この神社は遊び場だったのですが、まだ崖がありました。武蔵野線を作っていて、砂利が広々とした土地に山高く盛られていて、そこの上から見る夕焼けが印象的だったのを覚えています。神社は薄暗く、よく遅くまで遊んでいると、神隠しにさらわれるぞ、と周りの人に脅かされました。

まあ、ブログにのせるにはいかがなものかな、の話かもしれませんが、神社は人々の生活にかかわりながら、何百年、もしくは千年以上も続いてきました。そのなかで、人は育ち、お祝いごとをし、祈り、時として命を絶つこともあります。そうやって何百年もそこに神社があるのです。

この付近の「白幡」の由来は、平安時代、京都から清和源氏の祖である源経基が地元の郡司武蔵武芝との争いのおり、ちょうどこのあたりに陣をはったそうです。源氏の旗が白だったので「白幡」と名づけられたそうです。この神社も大宮台地の先端にあるので、おそらく出城か陣、もしくは物見やぐらなどに利用されたのでしょう。

この神社は明治に入り、廃仏毀釈のおり、近所の神社と統合されました。そのため、社が5つもあります。

以前、家の前に迎えに来てくれたタクシーの運転手さんが「この神社は百済系だな」と言っていました。本当かどうかわかりませんが、渡来の歴史にさかのぼって神社の由来を調べてみるのもおもしいかもしれません。

2007年09月19日

高田屋嘉兵衛とシリコンバレー

もう、何年も前の話です。北海道出張で函館に行ったときのこと。帰りの列車までまだ時間があったので、元町のバカラ美術館に行きました。場所がわからずうろうろしていると、高田屋嘉兵衛資料館というのがありました。この名前は聞いたことがある程度で、「おろしや黒務箪」という緒方拳さんの映画があったかなあ、という程度。あまり関心はなかったがバカラ美術館の場所を聞けると思い、入ってみました。ところが高田屋嘉兵衛なる人は江戸時代最大の商人で、幕府のお取りつぶしに遭った時には1200万両蓄財していたということでした。これは現代で換算すると国家予算の4分の1だそうで、江戸三大豪商のひとり銭屋五兵衛でも300万両だからいかにすごいか、ということです。

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(小樽にしん御殿より湾を望む。昔ここににしんを追い込んで漁をしました。高田屋嘉兵衛も海産物の貿易で巨万の富を作りました。)

この人が歴史で有名になったのは、1800年初頭、ロシアの軍艦が日本に漂着し、その乗組員が函館にある松島藩に2年にわたり幽閉された、「ゴローニン事件」です。ロシアは日本に対して武力で乗組員の奪還をはかろうとしたが、たまたま函館沖で高田嘉兵衛がロシア海軍に拉致され、その事情を知り、幕府に掛け合い、ロシアの乗組員の解放に成功しました。

これは日本とロシアの戦争を回避することにもつながり、もしこのとき戦争をしていたら、当時のロシア帝国はもっとも隆盛を誇っていた時期でもあり、日本は占領されていた公算が大きいようです。にもかかわらず、高田嘉兵衛は、その家を幕府に取りつぶされました。その死後であったのがせめてもの救いです。あまりに強大になったからです。江戸時代、大商人はみな取りつぶされました。淀屋橋で有名な淀屋、銭屋、高田嘉兵衛、紀伊国屋文左衛門などなど。三井、住友は徹底的に質素な暮らしと、幕府への献納で現代まで生き延びましたが、これは奇跡に近いそうです。

思えば士農工商どの家にも四書五経が置いてあり、国民の7割が字を読めました。こんな国家は世界中なく、大変優れた国家であったのは疑いありません。しかし隆盛を誇った企業をつぶすという愚挙は江戸幕府の寿命を大きく縮めたと思います。経済は信用で成り立っています。それなのに、商人が儲かると、幕府が難癖つけて店をつぶす、ということは、経済自体を破壊しているわけです。その場では膨大なお金が直接入るでしょうが、ひとつの経済のポンプをつぶすことにより、お金の流れは何倍もの勢いをなくします。

江戸時代の役人は現代の役人と通じるものがあります。企業と国家の問題は大変重要な政治問題でもあります。アメリカは強い政府という印象を与えながらも、企業の売り込みまで政府がおこないます。むしろ企業が主で国家が従であるという印象すらあります。日本は官主導で、国家予算を補助金や受注としてうまく取り込める企業が成長してきました。建設、医療、教育、通信、米をはじめとする食品、農業などなど・・・。

そういう意味では、戦後から高度成長までは、ほんとうに巧く経済が成長していったのだと思います。そして世界第2位の経済大国になったことはもちろん有史以来はじめてでしょう。江戸時代の経済政策とは雲泥の差です。江戸時代は、せっかく戦国時代を経て安定した政治や開墾の奨励で大幅に生産高を上げたのに、中期以降は農民の締め付けで、貧農といわれる人を多く生み、彼らは農業を捨てるようになり、大幅に生産高は減少していきました。それに比べ、戦後の復興計画は、満州での15年にわたる国土建設の体験をもとに国土計画を立て、着実に経済復興を遂げました。

オイルショックを乗り越え、円高不況を乗り越え、80年代後半に入ると、経済成長は成熟期のいきづまりを打破できなくなりました。そこでバブルというマジックで好景気をつくり、バブルがはじけ、未曾有の不良債権が発生しました。そのいきづまりを打破するために、構造改革がおこなわれ、戦後日本のビジネスの構造は一変されてしまいました。
どう変わったか、というと、より自由競争が活発化されたのです。

これからは本当に企業経営を真剣に考えなければなりません。実は今、サンフランシスコに来ています。ドリームフォース07というイベントの視察です。これはgoogleに次ぐ成長を遂げているセールスフォースというIT会社が主催しているイベントです。日本ではまだなじみは薄いのですが、ネット上でシステムを利用するSaas(Software as a Service)というビジネスモデルの大成功例です。ネット上でシステムを改良していくので、システム上の工夫をどんどんできることが特徴です。このイベントに参加するには一人500ドル、ブースに出展するには日本の実に10倍の金額にかかわらず、5000人以上の人が世界中から集まり、300社のサードパーティが出展しました。

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(ツインピークスよりサンフランシスコを望む)
今、世界中で経営革新に経営者やリーダーは注目しているのです。より自由化された市場では、個人や企業のイノベーションは必須です。特にいかにもアメリカらしくマーケティングのツールが多く出展されていました。

当社も「NextRevolution」というSaas型経営支援ツールを開発したので、先行しているアメリカの状況を把握するのが視察の主目的でした。当社のシステムは、個人の生産性が企業内でいかにあがっているかをリアルタイムに把握でき、そのために個人はいかに組織を有効に活用し仕事を工夫して生産性をあげるか、という人材開発のツールなのですが、このようなものはまだ世界中にはないようです。まさにジャパニーズマネジメントシステムなのです。

もともとサンフランシスコは、小さな漁村だったところに、1848年に金鉱脈が発見され、
世界中の人が押し寄せ、金鉱脈だけでなく、ジーパンのリーバイスなど発掘する道具や衣類の産業も大きく栄えたそうです。また稼いだ金の保管などで、銀行も栄えたそうです。現在は近郊にシリコンバレーがあり、まさにゴールドラッシュならぬITラッシュとなっているわけです。

日本企業もビジネスマンも、早くビジネスツールの工夫に関心を持たないと、世界中に遅れをとることになるのではないでしょうか。10年前、米国コムデックスのイベントの時には、日本とアメリカのITの進歩の距離はそれほど離れていない気がしました(市場規模という点では離れていましたが)。しかし、今、アメリカともヨーロッパとも大きく距離が開けられたように感じます。とくに企業でも個人でも学校でも、お客様の意識という視点で。そういう意味では、明治維新のとき同様、海外視察は大変重要な行為になってしまったのかもしれません。こんなにも情報が発達したにもかかわらず。

日本ではITはもしかして必要ない、と思っている人も多いのではないでしょうか。
私たちメディアファイブは、企業はもとより、ビジネスマン個人の方々にも、学校関係者の方々にも、今年リタイアする個人の方々にもビジネスイノベーションを一緒に考え、お手伝いさせていただきたいと思います。近々そういうサイトを作成する予定です。是非皆様もご参加ください。

2007年10月01日

バーチャルとリアル

ゲームソフトや携帯電話に代表されるITのツールが教育によくない、という識者の意見をよく耳にします。残酷な暴力シーンの多いゲームソフトは、子供の犯罪を助長する、とか、携帯電話や携帯メールは援助交際を助長する、とか、ゲームばかりすると脳が退化する、などなどです。確かにごもっともな意見だと思います。

資本主義の世の中では、当然ITをめぐっても、人の欲望や享楽を満たす市場が拡大することは仕方のないことです。まずその市場が拡大し、目立ち、問題が起きるのは、資本主義国家での新しいビジネスのたどらなければならない道だと思います。自動車が普及を始めた昭和30年代、カミナリ族は公道をマフラーを抜いて、暴走していました。ITの一時欲求的な利用方法からなかなか抜け出せないところに問題があるのです。

世界の人口がビックバンのごとく急増した今日、人間のコミュニケーションはITの活用なくしては不可能だと思います。ただITに関する精神面、文化面での議論がまったく進んでいないことが、今日のITの弊害をことさら、増大しているのだと思います。暴力シーンの多いゲームソフトは相手がゲームであるから、ゲームキャラクターの感情を考える必要がない。こういうゲームに慣れてくると、生身の人間に対してもその人の感情を考えなくなる人が増えてくる。しかし本来、ITはより人の気持ちを理解したり、コミュニケーションを密にしたり、人と人の関係を円滑にするためにあるべきなのです。そういった人と人の精神面、そして文化面でどうITを利用して、よりよい関係や世の中を築いていくかを考えていかなければなりません。

ITの問題、すなわちバーチャルとリアルの問題は実は大昔からあるのです。色即是空 空即是色という般若心経の有名な一節があります。形あるものはすなわち無であり、無はすなわち形あるものとなる、という意味なのですが、平家物語の諸行無常のように形あるものはいつか滅びて無になる、ということだけを言っているのではないと思います。これこそバーチャルとリアルの関係、デジタルとアナログの関係なのではないでしょうか。

孫子の兵法は、いかに気の流れを読み取り、それを生かして、戦いに勝つか、ということが本質なテーマです。戦上手は戦う前から勝敗を理解できます。つまり孫子の兵法は、まず心の中にコンピュータをもって、バーチャルなシミュレーションをしろ、ということなのです。バーチャルの中で勝てれば、リアルでも勝てる、というノウハウ集なのです。

ビジネスでも人間関係でも、心があり、人が動き、形ができる。IT社会になるまでは、この過程の時間が長かった。インターネットが人々の生活の主流になると、ネット上でのあらゆる活動がそのままビジネスに直結する、という点で本当にバーチャルが魔法のように現実(リアル)に影響するようになりました。ソフトバンクの孫正義氏は、リアルなビジネスは限界があるけれどバーチャルなビジネスのインパクトは無限大だ、と言っています。
リアルなビジネスで苦労して会社を上場させ、バーチャルなビジネスで飛躍した初代の成功者の至言だと思います。

しかし、バーチャルなビジネスには参入しやすく、ちょっとしたことですぐにひっ繰り返されもします。だから玉石混交であらゆるものが参入し、マネーロンダリングの温床となり、ある意味、胡散臭いイメージが生じてしまいます。しかしそれは新しい時代に対する警戒や嫉妬も含めた世間のイメージなのかもしれません。

大化の改新後、中大兄皇子は10年も天皇になれませんでした。平清盛はなりあがり者として最後まで公家に陰口を叩かれ、頼朝は権力の中心である京都から離れて鎌倉に新しい都をつくりました。建武の親政は失敗し、世間からさんざん落書きされました。信長はうつけとされ、秀吉は猿とののしられ、家康はまったく世間に人気がなかった。明治維新の元勲たちは田舎侍の西欧かぶれと言われ、戦後、第2位まで経済大国に押し上げた日本のビジネスマンたちは世界から働きねずみとののしられました。世間の嫉妬は、実はバーチャルな最も強大なパワーなのかもしれません。

石橋湛山によれば太平洋戦争は、日清戦争で自信をつけ日露戦争でつけあがった日本国民全体の責任、と指摘されていますが、まさにそのとおりでしょう。ITが普及するにつれ、世間のバーチャルな意志がリアルに実現できる可能性が高くなる、ということは、より多くの人に富をもたらすチャンスでもあるのでしょう。しかしその一方で深くものを知り、考え、慎重な条件で行動しなければ、失敗や敗北に遭遇しやすいということです。その意味では、脳機能ブームで思考力、判断力を鍛えるのもひとつの方法かもしれません。

太古より、戦争により国を奪い、富を得られる時代には、体が大きく、一騎打ちが強い男が尊ばれたでしょう。奈良平安時代は宮廷内の政争に強く血筋のよいものが尊ばれたでしょう。鉄砲の時代になると、秀吉のように頭脳と人間的魅力が重要になってきます。近代にはいると、秀吉のような人間がますます要求されてきました。

ところがIT時代になると、黎明期では、ネット上での成功がすべてを制してきました。そこには人間的魅力が介在しなくてもよいのです。頭だけでネット上でアピールすることが成功に結びつくのです。モーツアルトのように人間はめちゃくちゃでも、音楽は神の手にゆだねられたごとく、ネット社会でもそういう人間が出現したら、そこに富が集まるのでしょう。

しかしIT社会も成長期に入り、成熟期に近づいてくると、国民ひとりひとりが大人として責任をもち、二律背反的な判断でなく、常に学び、慎重に考えながら生きていける国家こそが繁栄するのだと思います。わかりやすく片方の意見を切り捨てれば、そのなかに隠れている真実も切り捨てられるのです。IT社会こそ二律共存的な生き方が可能なのではないでしょうか。


今日、日本と欧米でのITにおける技術格差はそれほどあるとは思いません。深刻に差がついているのはITにおける教育、文化、哲学面だと思います。欧米の人々はITを通して二律共存的な発想をしている人が多くなっているように感じます。先日ご紹介したSaas(9月19日「高田屋嘉兵衛とシリコンバレー」)は、みんながどんどんビジネスのアイデアを出し合って、自由に利用する、という発想です。昔のように自分だけがシステムを囲い込む方法は、時代遅れになってきているのです。

でも実はその二律共存の発想の原点は日本にあるのです。江戸時代の循環社会、職人の技術、アイデア、和の精神、などなど。

これからわれわれが目指すITの教育、文化、哲学の家元は日本なのです。それをすでに欧米の人たちのほうが気づいている。日本でもせっかく一昨年くらいから和への回帰ブームになっているのですが、単純な懐古主義的なブームで、それをITと結びつけるどころか、かえってITを敬遠している人たちが増えているように感じます。

ITを教育や仕事、家庭でいかに利用するか、より日本の多くの方々に深く、深く考えていただきたいと思います。そして世界にそれを問うことを目的として英語を勉強すれば、英語も身につくのではないでしょうか。みなさんの経験や人生観を世界中の人が待っているような気がします。

2007年10月23日

玄象

先週、国立能楽堂で玄象を見た。玄象とは弦上とも書き、弦の神様という意味です。

ここへきたのは10年ぶりで、懐かしい思いがこみ上げてきました。

若和布というなまめかしい狂言のあとに、その能は始まった。

太政大臣藤原師長は琵琶の名手で、日本国内には自分以上の名手がいない、と思い、ひそかに唐土(中国)に渡ろうとした。須磨の浦まで来ると、日も暮れて、塩屋の主に一夜の宿を頼んだ。主は恐縮しながら師長を家へ入れると、主と姥は、師長に琵琶を一曲頼んだ。

琵琶を弾いていると、浜風の音や小屋の屋根板に打ちつける雨の音が琵琶の音に合わず、師長は弾くのを止めてしまった。姥は苫をとりだすと、板屋に葺き、雨の音を琵琶の音に合わせてしまった。

師長が、そなたたちはただものではないとお見受けした、是非とも琵琶をお聞かせ願いたい、と言うと、主は琵琶を、姥は琴を奏で、あまりのすばらしさに、師長は驚いた。

「自分がこの国で一番の琵琶の名手と思っていたが大変な思い上がりだった」。師長がそうつぶやいてその場を立ち去ろうとすると、姥は師長の袖を引き、とどめようとした。

師長が、そなたたちは何者なのですか、と尋ねると、主は「玄象の主、村上天皇とは私のことだ。この姥は梨壷の女御である。そなたが唐土へ渡るのを止めに参った」と告げてしばらく消え、村上天皇在りし日の姿となって再び現れた。

そして師長に三面の琵琶を渡すと、それを師長に奏でさせた。天皇も合わせて奏でると、竜神が現れて激しく舞った。その竜神につられ天皇も舞った。

その天皇の舞いは、観世宗家である清和氏が舞いました。宗家の舞はいつも神々しく美しい。白い貴人の衣装を身にまとい、上品な面をつけ、その舞は本当に神のようだった。

能であるから、能管と大鼓、小鼓、太鼓だけで演奏をしているのだけれども、頭の中で藁葺きの板間に打ち付ける雨音をBGMに激しく琵琶の音が鳴っていた。村上天皇はその琵琶のなかで、徐々に舞の激しさを増していった。

現代劇だったならば、そこに琵琶と雨の音の効果音がことさら大きく入ると思います。しかし能ではその音を観客に想像させることで、単純なものから最大限、その存在感を引き出させます。つまり「秘めたるは花なり」、これこそ能の醍醐味でしょう。

しかし私は、いつも観世流宗家の舞を見る日は、偶然にも嫌なことが起こります。不思議とこの大きな感動を、毎回のように、暗澹たる気持ちの中で味わっている。きわめて美しい女性と付き合うと運が悪くなる、といわれますが、それに近いのかもしれない。いまでは自分は美と心中する気概はないので、大人になってからは、そういうものを避けてきました。こういうことが、こう何度も続くと、宗家の舞を見ることが、少し恐ろしくなりました。これからは心して見なければなりません。

そのようなことを考えていると、私は高校時代を思い出しました。女性にはおくてでしたが、当時、わけもわからず美や芸術のことで頭をいっぱいにしていたからです。特に小林秀雄の文庫本はいつも鞄に入っていました。

そのなかでも「当麻」という能を書いた文章は、当時繰り返し読んでも意味はわからなかったのですが、一番好きでした。今、改めて読み返すと、初めて理解できたような気がします。

簡単に言えば、世の中はどんどん複雑になりはしたけれど、中世のシンプルな生き方が、それは史家からは乱世とは呼ばれているが、もっとも健全なのだ、ということです。

本文にある有名な一句「美しい花はあっても、花の美しさはない」とは、花の美しさを分析しても意味はない、現代社会は分析ばかりするが、それは現実を複雑にするばかりだ、といいたいのでしょう。

私は複雑になりすぎたこの現代社会を、ITという未来の申し子を利用して、中世のシンプルな生き方に戻せる道具を作ろうとしているのです。

時代そのものは元には戻りません。未来をシンプルに生きることが、これから私たちが目指すべき人間の理想的な生き方なのだと思います。

それは宗家の舞う能のように、美しい夢幻の世界のように思えますが、必ず実現させよう、と決意を新たに秋の深まりを感じさせる、肌寒い夜道を帰りました。

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2007年10月24日

15の夜

久しぶりに、三重の美杉村という山奥で弟の自動車に乗る機会がありました。アウディのオープンカーで、BGMに尾崎豊の曲が流れていました。山間の秋風がとても心地よいものでした。このような自然のなかで聞いたからかもしれませんが、久しぶりに聞くその歌唱力が、とても魅力的なのに驚きました。特に、「15の夜」という彼の代表作を1曲全部聞いたのは初めてですが、その歌詞に改めて驚きました。「盗んだバイクに乗りながら、自由を求める・・・」という歌詞です。

戦前は権威に支配され、地域の共同体があり、お国のために、という義務をまず押し付けられ、すべてがなくなった戦後、若者は、「15の夜」に代表される「自由」と「自分」を模索する青少年時代を送るわけです。

NHKスペシャルで、「学徒兵 許されざる帰還」というものを見ましたが、パイロットを希望した学徒兵が、拒否してもむりやり特攻隊に組み入れられ、使い古した訓練機で特攻に行かされ、死ねないで戻ってきたら寮に隔離して、罵倒されながら次の特攻に行かされる、という実態でした。戦後、人々は自由社会の中、利己主義に走り、モラルの荒廃が嘆かれますが、戦前のように軍人や憲兵が不当に威張り、役人が威張り、町内会の長が威張り、リーダーたちが本当に威張っていた時代よりはましだと思います。

権威は道徳も強制しますが、そういうものがなくなれば、当然社会から道徳も希薄になるでしょう。規範や道徳は、個人が組織の中で有形無形に強制行動するためのシステムといっていいでしょう。現代人にとっては、道徳が個人の利益につながる場合ならば、それを受け入れられるでしょう。

以前、テレビをつけたら偶然幻冬者の社長、見城徹氏がインタビューで尾崎豊のことを話していました。尾崎は見城氏に対し、絶対的な愛を要求し、常に愛情を確かめるために踏み絵をさせ、意にそぐわないと暴れまわったそうです。

だれでも若いころは、感覚が鋭敏なため、自分の感情を持て余した経験はあると思います。それが尾崎ほどの天才になると、自分の感情に収集がつかなくなるのでしょう。天才が若死にするのは、暴れまわる感情が肉体を蝕むからだと思います。

そういう意味では、戦前は、不当な強制が外部から強烈にあるので、自分の感情を暴れさせている暇はなかった。特に軍隊では環境が肉体的にあまりにも苛酷だと、根本的欲求、つまり食欲と睡眠欲しか沸かないものです。大学時代、ワンゲルの夏合宿で日高など険しい山を2週間はさまよいましたが、食べたい、休みたい、怖さから逃げたいという欲求以外はまったく起きませんでした。下界でちまちま悩んでいたことが、とてもちっぽけに思えます。

だからといって、都会の便利さや安全に囲まれた、食べ物に不自由しない、下界での悩みがチープだというつもりはありません。苦しみは同じなのです。なんのよりどころもない社会であることが、人々を不安にさせるのです。ヒトラーは「大衆は支配されたがっている」といいました。これはこう解釈するとわかりやすい。「大衆は依存することができるから、支配されたがる」。よりどころがほしいのです。よりどころは人々のつながりによって成り立ちます。

心のよりどころは、自由な社会でも、独裁的な支配社会でも必要なのです。極端な言い方をすれば、個人の心のよりどころが満たされていれば、どのような環境下でも人は前向きに生きられるのかもしれません。尾崎豊の場合は、人との愛だったのでしょう。

自分のよりどころを見つけることも、学習しなければならないのかもしれません。自分のよりどころとは、「自分を活かせる場所」ではないでしょうか。「自分を活かす」とは自分の能力、自分の性格、自分の過去、自分のネットワーク、自分の外見などなど。より自分を「活かす」には、今列挙した自分を磨くことも大切ですが、どう今の自分を「活かす」かが、もっとも重要なのではないでしょうか。

それは恋愛のパートナーとでもあるし、学校のクラスでもあるし、スポーツやクラブのチームでもあるし、会社の中でもあるでしょう。また不特定多数でも、お客様が喜ぶ商品を提供することもその中に入るでしょう。家族や組織の中でどう活かすか、ということでしょう。

前にも「ジョージ・ルーカスと教育」で述べましたが、今日生きている人間の数は、過去生きてきた人間すべての数の20倍といいます。そのような異常事態の中では、当然人々が自分の居場所を見出すことは難しくなっているのだと思います。

それを解決する可能性があるのがITというコミュニケーション革命だと思います。ITをいかに活用したら、人々は自分の居場所を見つけるか。自分を活かすことができるか。これが現代人に与えられたもっとも大切なテーマのひとつだと思います。

私はその鍵を「分配の法則」にあると思います。そのことはまた次の機会にお話したいと思います。

2007年10月26日

分配の法則2:君主論から学ぶ

マキャベリの君主論を読んだことがありますか? 君主を社長に、国を会社に置き換えると次のようになります。特に現代に通用しやすい内容を抜粋しました。( )内は私の勝手な解釈です。

抜粋1
会社を安定させるもっとも有効な対策のひとつは、社長がオフィスや現場に机をおくこと。こうすれば、社内は安定する。
(現場の雰囲気や会話は経営上の大切な定性情報です。また社長が現場にいると、野心家は企みにくくなる。野心家は社長への情報伝達を、いつも自分の有利な言い方で行います。可能ならばその人の仕事ぶりを直接見て評価するに限ります。)

抜粋2
社長が与える給料や報酬に対してそれなりの感謝を期待しても、社員は不満を持つ。その理由は、報酬を与える側の傲慢と、受ける側の傲慢が、報酬の値段について折り合えないためである。
(分配の最も難しいところです。)

抜粋3
社長は陰謀からわが身を守ろうとするならば、自分がえこひいきしていた人物こそ、十分警戒をしなければならない。
(不平等は、損する人に不満を与える危険性以上に、得する人を甘やかし、理不尽な考えを抱かせる危険性のほうが怖い。)

抜粋4
社長は自分に関わるあらゆる人に重大な侮辱を加えないように心がけなければならない。
(上から下への侮辱は、気がつかないうちに水面下で重大な問題を引き起こす原因となる。特に上がジョークと思って言っていることが、下には大変な侮辱として取られ、強く恨まれるケースは多い。)

抜粋5
反乱はほとんど成功しない。それは反乱が一人ではできないからである。つまり誘う人に、現状以上の成功報酬の約束をしなければならないが、実際、反乱を実行することすら困難なのに、実行後に成功報酬を満足に出すことはほとんど不可能なのである。
(永遠の真実)

抜粋6
社長が注意しなければならない相手は、少数の野心家だが、彼らの野心に対する対策には、いろいろな手段があり、それほど難しくはない。
(しかしそれを知っている人は、そのノウハウを絶対人に公開しないでしょう。でも私は公開します。Next Revolutionを導入しましょう!)

抜粋7
乗っ取る会社内の社員を利用して会社を手に入れた場合、それに荷担した社員は後々問題をおこす。なぜなら新社長はとうてい彼らの期待する報酬に応えられないから。 それに裏切りやすい性格の人材は誰も危なくて使えないでしょう。経営者は、多少無能でも信頼できる人間を社員に選びます。
(裏切りやスパイ行為を他社から誘われてどんなに成功しても、あとで切り捨てられるのが離反スパイの末路であることは、いつの時代でも変わらぬ真理。だからこれだけは確実に身の破滅。)

抜粋8
上記のことから、元の会社に不満をもち、そのために乗っ取る側の社長に通じ、乗っ取りに手を貸した人々を味方にするよりは、旧政権に満足していて、新社長を敵視した人々を味方に引きつける方がはるかに安全である。
(前の会社の社長の悪口を言う人物を採用すると、たいてい失敗します。)

抜粋9
もっとも懸念しなければならないのは、お追従者である。自己愛こそはあらゆる追従者のなかで、もっとも気をつけなければならない。人間は自分のこととなると、実に身びいきである。この点をつかれると人にだまされる。
(お追従者を引き連れて、いつも飲み歩いている社長は必ず滅ぶと思います。)

抜粋10
天の使命を感じなければ、社長になってはならない。天の使命を感じている間は、社長は天の使用人になれる。
(至言ですね)

社長やリーダーの方はご参考になったでしょうか。君主論を書いたマキャベリは15世紀から16世紀にかけてのイタリアの政治思想家です。ローマの歴史を丹念に分析してまとめ、メディチ家のロレンツオに献呈した政治論です。有史以来、組織の中の人間の感情と行動はまったく変わらない、ということでしょう。

人間は感情的な生き物です。そして組織の中で自分を有利な立場に持っていこうとすることは人間の本性です。争いや分裂や陰謀はそういう人間の本性のぶつかり合いでおこります。

陰謀家は人の恨みやコンプレックスを巧みに利用します。そして人情家を装い、同情やおだてで人を誘います。極め付きの言葉は「僕たちの会社を作らない?」と周囲を誘います。しかし野心家はだれよりもあくなき野心をもっています。最後は、その周囲の人たちを蹴散らし、「僕」の会社にしてしまうのです。

シェイクスピアの「ジュリアス・シーザー」は読んだことがありますか? カシアスはシーザーの暗殺の企てにブルータスを誘うとき、まずブルータスが、いかに民衆から人気があり、求められているか煽てます。そして次に正義と平等を前面に出し、シーザーのささいな欠点を責めます。シーザーが溺れかけたことや、発作をおこして醜態をさらしたことなどです。

ブルータスはシーザーにかわいがられていたにもかかわらず、シーザーにどこか嫉妬心を持っていたのでしょう。シーザーはブルータスをかわいがり、カシアスを嫌っていました。カシアスが陰謀を持つのは当然としても、ブルータスはシーザーの寵愛を受けているがゆえに、自分の能力や魅力を過信してしまったのです。トップからかわいがられることに慣れると、自分はトップ以上の能力を持つ、と錯覚するのです。本来リーダーの仕事能力と実務の仕事能力は別物です。つまり抜粋3の教訓です。カシアスはブルータスの心の隙間に情をもって入り込みます。そしてシーザーの暗殺は実行され、あの有名な「ブルータス、おまえもか」ということになります。

抜粋6で野心家を封じるには、「Next Revolution」を利用することをお勧めしました。
君主論で言っていることは、トップは公平、平等に組織を治めなければならない、ということです。極論をいえば人よりシステマティックに組織を治めることが理想かもしれません。だから「Next Revolution」こそ、組織を公平、平等に治めるためのツールなのです。

人と人の関係は、目に見えないシステムで結ばれています。親と子、妻と夫、部課長と部下、社長と社員、経営者と株主、会社と顧客などなど。そしてそのコミュニケーションは言葉や文章で伝達されます。しかしコミュニケーションが届かないところがあります。そういうところは人間の信頼関係や正義感、理屈や道理で補います。しかし野心家が、ひとたび悪用しようとすると、確実なコミュニケーションの届かないところを狙います。だからそこをITで補う必要があるのです。

なぜそんなこと言い切れるか、ですか?
そう、読者の皆さんはもうお気づきかもしれません。私は5年前、社員の造反で、本当に痛い目に会いました。組織を感情や正義で治めることの限界を知りました。そして5年がかりでこのシステムを開発したのです。今はすばらしい社員たちと目標をひとつにして、仕事にまい進しております。

2007年10月28日

分配の法則 番外編 「富の再配分について」

富の再配分」について
企画営業部・田中 祥平

北畠社長と雑談の折、ひょんなことから「富の再配分」について愚説を披瀝したところ、早速、それを我がブログに書くべし、との命を受け、僭越ながら、述べさせていただく次第です。

この稿では、人間の歴史にとって、「富の再配分」という課題が如何に重要であったか。また、その解決法に如何にして人々は腐心してきたかを、簡潔に纏めたいと思います。いささか抽象的なお話しになることを、お許し下さい。

人間は、群れを作って生き抜いてきました。自然の猛威や獣害から身を守るため、或いは、他部族からの攻撃を避けるために。そのような共同体を「利益共同体」と呼ぶことにします。貨幣経済の発達した現代では、すべてが金銭価値に換算されます。しかし、物々交換が当たり前であったいにしえには、生きるための食料確保が、最優先されたことでしょう。

「利益共同体」の単位は、我が国では、日本国、都道府県、市町村、会社法人など様々な様式があります。そこにおいては、「富」という形で生きる糧となるものが集積されます。

我が国の歴史上、超有名人と言ってよい聖徳太子は、当時の大陸・朝鮮半島が絡んだ血みどろの争いを何とか解決しようと腐心しながらも、結局、各部族を融和させるには至らず、「夢殿」に籠もってしまったと言われています。六世紀から七世紀にかけての頃です。(現在、奈良・法隆寺にある夢殿は、太子の宮跡に再建されたものです。まだ法隆寺を訪れたことのない方は、是非一度、参拝されることをお勧めします。我が国初の世界文化遺産です。)

よく知られている「和をもって貴しとなす」と伝えられた太子の言葉は、僕には、問題を解決しえなかった太子の苦衷・心の叫びに聞こえます。

このような内乱は、幾つかの要因に分析できるでしょうが、「富の再配分」を巡って生じたものと見ることもできるでしょう。「富の再配分」とは、そのように戦争の原因にもなる重大な課題なのです。

聖徳太子は、解決策として「仏教」の導入を選択されました。この場合の「仏教」は、「システム」と読み替えたほうがいいでしょう。見方を変えれば、仏教の歴史は、そのような解決策を模索する過程であったと申せるかも知れません。解決策を別の言葉で表現すれば、「欲望のコントロール」ということになるでしょうか。

少し時代は下って、平安時代(八~九世紀頃)、弘法大師・空海が中国・唐からもたらした「鎮護国家(ちんごこっか)」という「法」(システム)がありました。そのシステムは、国を平安ならしめ、民の安寧を計る目的を持ったものです。広義には、「密教」と呼ぶことができます。これも、「富の再配分」を解決する方法のひとつと言えるでしょう。(京都・東寺を訪ねれば、その装置<システム>の一端をかいま見ることができます。)

また、鎌倉時代(十二~十三世紀頃)には、「絶対他力(ぜったいたりき)」を説く阿弥陀信仰が隆盛しました。簡単に申せば、現世における栄達や繁栄を諦め、来世での幸福を阿弥陀如来に全面的に委ねる、というものです。「諦める」ことで、無用な摩擦を避けて、争いの元になる「欲望」を押さえ込み、平安な状態を保とうとしたと思われます。それも、「富の再配分」という課題を解決するための欲望のコントロール法のひとつ、と言えるのではないでしょうか。

さて、人の「欲望」とは、何でしょう。生命体が本来持っている生存欲、子孫を残すという生命力そのものが、「欲望」の源泉です。そこから、食欲・性欲・睡眠欲などが派生すると見ることができるでしょう。つまり、生きるためには、「欲望」を全面的に否定することなど不可能ということになります。そこで、コントロール法が重要な課題となるのです。

それはさておき、少し話題がそれるのをお許し頂きたく思います。ITを宗教の歴史の中にどのように位置づけるか、というテーマです。何を頓狂なことを、と仰らずに、もうちょっと耳をお貸し下さい。
「ウェブ(インターネット)空間」と「仮想現実空間」に的を絞り、要点を整理してみます。

仏教には、この世に存在するすべては、網の目のように結ばれている、という考え方があります。それを「天網」と呼びます。密教に伝えられた曼荼羅(マンダラ)には、天網の考え方が、判りやすく図示されていると見ることもできるでしょう。ウェブ空間は、そのような天網思想の一部分を現実化したものと、僕は理解しています。

また、仏教には、「瞑想」(メディテーション)という技術(メソッド)が伝えられています。そのメソッドは、この世とあの世を含めた追体験法と言えるもので(あの世があるかないか、という議論は、ここでは措いておきます)、明確な映像・イメージを伴った方法です。「セカンドライフ」などの仮想現実空間は、そのような瞑想技術が、パソコン上で実用化されたひとつの事例と考えています。「マインドマップ」などの思考技術も、その延長線上にあるものと見ていいかも知れません。

つまるところ、IT時代における「富の再配分」という課題を解決するシステムのひとつとして、【Next Revolution】(仮称)が編み出された、と位置づけることができるでしょう。

最後に、重要なポイントに触れておきたいと思います。どのように優れたシステムでも、その運用次第で善にも悪にもなる、ということです。要するに、運用する「人」次第、というのが、システムが背負う宿命と言っていいでしょう。それは、人間の歴史が証明しています。

2007年11月05日

失われた「自分の居場所」

10月14日、NHKのドキュメンタリー「21世紀のドストエフスキー テロの時代を読み解く」を見ました。最近、世界中でドストエフスキーの本がベストセラーになっているそうです。19世紀後半、ロシアはテロと犯罪が蔓延する社会で、ドストエフスキー自身テロリストとして処刑の一歩手前までいきました。万人の心の底にある悪を描き出し、2001年におきたアメリカの前代未聞のテロ、9.11以降、現代社会を考える、というテーマの番組でした。

一番印象に残っているのは、映像作家が、「攻撃はセキュリティのためにすることが多い」という一言でした。自分や家族や仲間を守るために、先制攻撃をしかけるのが攻撃だ、と言うのです。

確かにマズローは欲求の段階を説き、もっとも強いのは生理的欲求、次に安全の欲求、そして集団帰属の欲求、自我の欲求、最後にもっとも高尚なのが、自己実現の欲求といっています。普通に暮らしているうちは飢餓はありませんから、いかに安全の欲求が社会生活で強いか、ということです。


9.11で、米国民がアフガニスタンやイラクへの出兵を支持したのはまさに第2、第3の9.11が起こることへの不安からでしょう。つまり安全の欲求からブッシュ大統領の戦争を支持したのです。9.11の3ヶ月後に私が書いた文章があります。ちょっとご紹介します。

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有事における処世術  2001.12.12
ワールドトレードビル爆破テロの中継は多くの人に衝撃を与え、誰もがみな第3次世界大戦を予感した。その日以来世界の株価は暴落し、世界同時不況の様相は深刻さを日増しに増していった。それに関係があるのかないのか定かではないが、いままで不況知らずだった当社のソフトの注文も大幅に減った。取引先の流通の商品部長は「昨年同月期の4割減で、今月は過去最低の売上実績だった。」とぼやいていた。

大衆紙ではある芸能人が「あの事件以来、10日以上たつというのに、無力感と虚無感が心を占めるばかりで、なにをやっても身が入らない」といっているが、多くの人の実感ではないか。この虚無感は年配の人には、敗戦直後を思い出させるらしい。焼け野原の故郷に立ち尽くし、ほとんどの国民は無力感に打ちのめされている。

しかしいち早く前向きに生きようとした人たちが大きなチャンスをものにしていった。不良債権処理は遅々として進まず、ITバブルは崩壊し、そして倒産ラッシュにリストララッシュ。そこへきて今度のテロ事件。泣きっ面に蜂どころの騒ぎでない。しかしあれだけ壊滅的な敗戦を食らっても、10年で復興し、20年で成長期に入り、30年で世界有数の経済大国になった日本である。この景気は日本人が本気になればあっという間に回復できるであろう。正義を貫き、隣人と協力し合い、真剣に生きること、仕事、家庭や人間関係を考えれば、次の世代こそ日本のための時代になると思う。

今回のテロは第3次世界大戦にはならない。なぜなら国家間戦争は20世紀の遺物であり、21世紀情報化社会では、ナンセンスだからである。20世紀までのリソースは石油であり、土地であり、金であった。土地や資源が中心の経済は領土が必要である。情報化社会のリソースはITであり、人である。本当は軍隊や戦争などいらないのだ。日本は戦争放棄を憲法でうたっている。まさに21世紀的憲法だ。

半年前、こんなことがあった。駐車場に車を入れようとしたら、小さな蛇の尻尾を車で轢いてしまった。ちょうどその日は私の娘が生まれた日で、しかもその年は蛇年なので、できればその蛇を逃がしたかった。しかしそのもがいている蛇の頭は逆三角形で模様が横に入っている。マムシである。もしこの蛇を今逃がしたならば、家の前の神社に逃げ込み、そこに来る近所の子供たちにでも噛み付いたら大変である。結局、断腸の思いで殺してしまった。それ以来、毎年娘の誕生日には、そしてその蛇の命日には、その死骸を捨てた神社の側溝に塩と酒をまいて、手を合わせている。

あからさまに武器を持ち、周囲に威嚇することは、自分も危険にさらされるのである。トップクラスの軍事力を持たない国が、20世紀的軍隊を持ち、外交的手段として威嚇や攻撃に利用することはかなり危険なことです。

日本人は勤勉で教育熱心で、共同体を得意とする国家です。今こそ、日本人一人一人は自信を取り戻し、正義を取り戻し、世界にお手本になる情報化社会国家をつくっていこうではありませんか。
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それ以来、6年の歳月が過ぎました。もちろん第3次世界大戦は起きませんでしたが、アフガニスタンでは今もテロは続き、イラク戦争は泥沼化の様相を呈し、戦火は周辺地域へ拡大しています。しかし中国、インドに代表されるようにアジア圏は好景気に沸き、日本も海外需要の増加で不景気から脱却し、戦後最長の好景気が続いている、といわれました。しかし景気がいいのは海外市場を得意とする大企業ばかりです。

日本は世界のお手本になる情報社会どころか、ITに背を向け、ホワイトカラーの生産性は先進国でも最下位となり、子供の学力は低下し、中小企業やIT企業にとっては依然として厳しい状態は続きます。格差社会は広がり、けっして好景気の明るい様相は巷にはありません。むしろ人々は会社や学校や家庭にそのよりどころや、自分の居場所を次々と失ってきているようにも見受けられます。

この日のドキュメンタリーを見て、私は、自分の思考の盲点を見つけたように思います。いままで私は、ITを活用して、人がいかに能力を高めることができるか、そういうシステムを開発することばかり考えてきたのです。人はいかに記憶をよくできるようになるか、人はいかにして学習を楽しくできるか、学習をいかにすぐ社会に役立てられるか、組織がいかに有効に活動できるか、そのようなことばかり考え、商品やシステムをアピールしてきました。

しかしその前に、人間には「自分や家族や、仲間、属している組織を守るために」行動する、という絶対的な感覚があります。「自分と仲間の居場所を守る」感覚なのです。自分の居場所が失われようとしている今日、まずそのニーズを満たすことが大切なのかもしれません。

2008年01月24日

5月22日

私は京都、鎌倉が好きです。ついでにいうと軽井沢も好きです。最近なかなか行けないのですが、その手の雑誌はすぐに買ってしまいます。昨年の秋のことですが「歴史を歩く 京都、鎌倉と北大路魯仙人」という雑誌を店頭でみつけ、面白い記事が載っていました。芥川賞作家の柳美里氏が書いていたのですが、最近、鎌倉に家を買ったそうです。占い師に見てもらったら鎌倉は戦争がよく起きるから、土地を買うのはよくない、といわれたのですが、扇が谷に大変気に入った物件があり、その占い師のいうことを無視して購入したそうです。事件は晩春に起きました。夜中に、柳氏が仕事をしていると、お子さんがとつぜん顔面蒼白で起きて来たそうです。そしてなにもない壁に向かって、「誰かいる、たくさんの人がここにいる」と硬直しながら言ったのです。柳氏はその日、つまり5月22日に、昔な何かあったんだと次の日、本屋で調べたら、鎌倉幕府滅亡の日だったのです。
P1010012.JPG(瑞泉寺境内)

1333年5月22日、後醍醐天皇は鎌倉幕府を滅ぼし、建武の親政をひきました。しかしこの幕府も足利尊氏の反乱で2年とは持たず、その後日本は南北朝という2つの政権に60年間割れたのでした。鎌倉幕府滅亡の原因は、直接の原因はマクロ的に見れば、貨幣の市場における流通量の急激な増加から地頭、荘園という従来の経済システムが急激に崩れていったこと、そして政治的には2度の元寇が国内におおきな精神的傷跡を残し、鎌倉幕府のような分権統治型政府より中央集権的政府の必要性が強まったことが言えるでしょう。
P1110029.JPG
(顕家像 霊山神社)

しかしなぜ建武の親政は2年で崩壊したのでしょう。ひとつには元の衰退により、外圧がなくなったことがあげられます。つまり国家的危機がなくなったので、中央集権的な国家を作る必要がなくなったのです。二つ目はこれが直接の原因だと思いますが、まさに後醍醐天皇のリーダーシップの問題です。

そのあたりのいきさつが良くわかる資料が残されています。側近が後醍醐天皇にあてた奏文(抗議文)です。それを残したのが、天皇の側近三房といわれた吉田定房、万理小路藤房、北畠親房の長男顕家です。側近中の側近の全員とその息子が徹底的に抗議しているのだから大変なものです。

吉田定房は後醍醐天皇が2回目に乱を起こそうとしたとき、北条氏を討つ正当な理由がない。いたずらに乱を起こせば、民衆が苦しみ、いたずらに血が流れるだけだ、と言い、北条氏に内通までしました。まさにそのとおりになったのです。

万里小路藤房は建武の親政の恩賞の配分が非常に不公平であることを後醍醐天皇に具申し、そのまま失踪しました。もっとも功績のあるものは護良親王、赤松円心、楠正成、足利尊氏、新田義貞であることを指摘し、天皇の息子である護良親王は政敵足利尊氏に引渡し、結果殺されてしまいました。また赤松円心は、はやくから北条氏に謀反し、親政誕生に大変な功績があったのに、前政権で、守護職だったものを、地頭職にまで降格してしまったのです。赤松円心は後に足利尊氏につき、足利政権確立におおきな立役者になりました。また宮中の内裏の造営も、政権が安定する前にそういうことはやめるべき、とも具申した。

北畠親房の長男顕家は16歳から鎮守府大将軍として東北の経営を任されていました。しかしもともと統治のいきとどいていない東北の地を収めるのは、並大抵のことでなく、当時の漢家(文部官僚)であった顕家は、まったくお門違いの弓矢をとって氾濫の鎮圧ばかりしなければならなかったのです。ところが、漢家であるから孫子の兵法が得意からなのか(武田信玄で有名な風林火山ののぼりは、親房顕家親子が初めて使ったのです)、いくさではほとんど負けずに軍神にまであがめられ、足利尊氏が京都を占領したとき、それを取り返したほどでした。しかし根本的な親政の過ちがなおらない中、奈良坂の戦いではじめて戦に破れ、だんだん追い詰められていきました。そのような中で下記のような抗議文を後醍醐帝に送ったのです。

1、権限を分権化すること。当時全国のトラブルや政治の裁定を全部中央でおこなっていたため、つねに裁定の滞りとずさんさが目立ち、後醍醐政権へのふまんが爆発していました。顕家は陸奥のほか、関東、九州、北陸に裁定する場所を分権化し、京都を含めた5箇所で政治をおこなうことを提案しました。

2、まず奢侈をやめ、税を低くして、民の安寧をはかるべきである。特に万理公路藤房もいったように内裏の造営はそのころの民衆の生活を非常に圧迫したようです。

3、いたずらに能力の低い人に高い位を与えることをやめさせる。そういう人は報奨金で対処すべきである。地位と報酬は別物、ということです。これは現代でもいえることですが、報酬をけちって地位を渡すととんでもないことになります。無能なリーダーほどその悪影響は大きいものですから。

4、つまらない取り巻きを作らないこと。そういう人物に大禄を支払わないこと。そして昔からの土地をもっている人にはその土地を返すこと。

5、民衆が塗炭の苦しみのなかにいるのに、酒宴やパーティーばかりやってはいけない。

6、朝令暮改をしないこと。行政をおこなうベースとなる法律、つまり「システム」はきちんと作らなければ、混乱をまねくことになります。

7、くだらない公家や官女や僧侶を重用しないこと。そして位の低いものでも有能ならば登用すること。

つまり現代的に言ってしまえば、
① 権限の分権化、②コスト意識、③公平平等な人材登用、④システムの構築、⑤公私混同の排除 の5つです。簡単にいえば、建武の親政はこれがまったくできていなかったのです。

現代の企業でもこの5つが成長と繁栄への永続の条件なのだと思います。

実は、私は「則天」の開発を進める上で、強く念頭にあったのはこの顕家の奏文です。
奏文の最後にこのような文章がかかれています。

以前条々、言(もう)すところ私にあらず。およそそれ政をなすの道、治を致すの要、我が君久しくこれを精練したまい、賢臣各々これを潤飾(じゅんしょく)す。臣のごときは後進末学、なんぞ敢て計い議せんや。しかりといえども、あらあら管見の及ぶところを録し、いささか丹心の蓄懐(ちくかい)をのぶ。書は言を尽くさず。伏して冀(ねがわ)くば、上聖の玄鑑(げんかん)に照して、下愚の懇情を察したまえ。謹んで奏す。     延元三年五月十五日従二位権中納言兼陸奥大介鎮守府大将軍臣源朝臣顕家上る
(いろいろご注進させていただいたことは、私心から出たものではありません。政治をおこなう方法、民を治めるにあたり大切なこと、お上が切磋琢磨し、優秀な部下たちがそれを実行するものです。私のような学問もまだ浅いものがこんなことを申しても恐縮ですが、今の世の中の現状を鑑みて、どうしても申し上げたいことがございました。書いたものは言を尽くさずですが、是非お聞き入れください)

北畠顕家はこの奏文を書いた一週間後、1338年5月22日、堺の石津で、20歳の若さで戦死しました。
死んでいくときの顕家の心中はいかばかりのものだったでしょうか。
あれから670年たった今でも、多くのまじめで有能なビジネスマンが、社長やリーダーに対し、こういう思いで働いていることと思います。

1333年5月22日に鎌倉幕府は滅亡し、ちょうどその5年後の5月の22日に顕家は戦死したのです。私はこの日が建武の親政の終わり、と考えます。なぜなら天皇親政は護良親王が軍隊を率い、それに全国の武家が呼応して旧政権を倒したのが始まりならば、大軍を率いて戦える最後の公家である北畠顕家の戦死をもって、南朝の求心力は失われたからです。5月22日の因果とでもいえるのでしょうか。

この日を新暦に直すと、6月10日になります。あまり関係はありませんが、私の誕生日は6月9日です。
だから5月22日という日にちょっぴり親しみを感じています。

2008年02月03日

陵王の舞

北畠顕家を、もう少し紹介させていただきます。顕家が歴史上はじめて登場するのは増鏡です。1331年3月、後醍醐天皇が北山(今の金閣寺、中宮の実家)へ行幸の折、宴会で顕家が陵王の舞を舞い、それが実にけなげであった、と記されています。顕家13歳の時でした。
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「暮れかかるころ、桜の花の木の間に、夕日が華やかにうつろい、山の鳥もしきりに鳴いて、陵王の舞人が輝くような美しさで舞い出でてきたのは、ほんとうにすばらしい光景でありました。そのとき、天皇も御引直衣(ひきのうし)で椅子に座り、笛を吹かれました。いつもよりさらに雲井までに響いておりました。その舞人、宰相中將顯家は陵王の入綾を実に見事に妙技を尽くして退場するのを、お上は呼び返し、前関白に自らの紅梅の表着・二色の衣を渡させました。顯家はその衣を左の肩にかけ、少し舞って退場しました。右大臣が太鼓を打ち、その後源中納言具行(北畠具行、顕家の叔父)が採桑老を舞いました。具行も紅の衣をお上からいただきました。」(増鏡 下 北山行幸)

陵王の舞とは昔、中国の北斉に蘭陵王で知られる将軍がいました。眉目秀麗な名将であった蘭陵王が、美貌を獰猛な仮面に隠し、戦に挑み見事大勝したため、兵たちが喜んでその勇士を歌に歌ったのが曲の由来とされています。しかし陵王は謀反の嫌疑をかけられ、粛清されてしまいます。

粛清まではされなかったものの、その後の顕家の運命を暗示させる舞いでした。

話は飛びますが、1991年NHKの大河ドラマ「太平記」で後藤久美子が顕家を演じていました。このときの舞も桜の季節で、ちょうど顕家の舞から660年前になります。神武暦と西暦は660年だから1331年当時は神武暦1991年になるのです。ちょっとした偶然です。16歳までは学問と芸術にのみ従事し、建武の親政になるや否や、いままで訓練もしたことのない弓矢を持たされて、いきなり氾濫で荒れ狂う東北の地へ放り込まれたのです。ところが不思議なことに武家の棟梁である北条氏も持て余した東恵比寿たちを,舞のほうが似合っている公家のいたいけな少年が治めてしまったのです。それはそれは苦労したでしょう。その苦労は前回ご紹介した遺書ともとれる奏文にあります。

「小臣、もと書巻を執りて軍旅の事を知らず。忝(かたじけな)くも ふっ詔(しょう)を承り、艱難の中に跋渉(ばっしょう)す。再び大軍を挙げて命を鴻毛に斉(ひとし)うす。幾度か挑み戦いて身を虎口に脱(のが)れし、私を忘れて君を思い、悪を却け正に帰せんと欲するの故なり。」(顕家奏文 7条)

(私はもともと文官であり、軍事の知識はまったくありませんでした。しかしもったいなくも
お上よりの命令をいただき、困難の中を、山を乗り越え、水の中をわたりまくりました。大軍を挙げて鴻毛のごとく何度も危ない目に会いました。私心を捨てて、君を思い、悪を退け正義をとりもどそうとしたいからこそ、なんども身を虎口に逃れる羽目になっても、幾度も大きな敵に戦い挑んできたのです。)

NHKの大河ドラマで太平記を見ていたのは私が31歳のころでした。ちょうど今のメディアファイブをつくるきっかけとなる、教育ソフトビジネス研究会のコンソーシアムを、当時勤めていたシンクタンクで立ち上げて、1週間に3日徹夜していました。今のメディアファイブの教育ソフトのラインナップは当時の構想がベースとなっています。あまりの無理がたたり、私は網膜はく離になってしまいました。そして5月22日に入院し、すぐに手術をし、6月9日の日曜日、つまり私の誕生日に目は包帯をしていてほとんど見えなかったので、顕家の戦死のシーンを病院の大部屋のベットで、イヤホンをテレビにつなげて聞いていました。

その次の日6月10日は、前回も申しましたが、旧暦に直すと5月22日、顕家の命日なのです。
NHKがわざと顕家の命日を意識して、戦死のシーンをこの日にしたかどうかは定かではありませんが。

創作 石津

 顕家の戦死のときの心境を想像してみました。

 何時間たったろう。もうなにも感じない。水平線から40度の位置にある太陽は立ち上る煙で霞んでどんよりよどんでいる。いやもう日に赤みがさしている。夕方に近いのかもしれない。砂浜に寄せる波の音が静かに響く。いや雲も出てきたようだ。 いやな午後だ。こんな退廃的な気分でいるのは久しぶりだ。初めて大負けした般若坂の戦いのときもこのような気分だった。こんなどんよりした天気だったのかもしれない。左手に神社が見える。小さなほこらが立っている。

 後ろから矢がひゅうっ、ひゅうっと2,3本飛んできた。振り返ると、一斉に矢が飛んでくる。立ちこめる煙の中からものすごい量の矢がこちらめがけてとんでくる。敵だ。しかし敵の姿は見えない。いやこんな大量の矢がとんでくるとしたら、敵陣かもしれない。向きをくるりと変え、馬に備え付けている盾をとった。

 通り雨が振り出した。さっきまで太陽が顔を出していたのに、時雨かな。父上が時雨を歌によく詠んでいたなあ。お胴にあごを乗せる。紐や金具があたりざらざらする。雨にまじった血と唾の匂いがなにか生臭い。

 左足に鈍い痛みを感じた。膝に矢が刺さった。供のものは何人いるだろう。この敵陣を突破しなければ吉野へはいけない。とても突破できる気はしない。顕家にとって、かれを阻んでいるものはもはや敵という「人」のあつまりではなかった。義を阻むなにか人間の救いようのない欲望の壁のように感じた。この壁を突破するにはこれから何百年とかかることを確信した。何回も転生を繰り返さなければこの壁は突破できない。 ここが死に場所だ。父上、おさらばでございます。 煙の立ちこめた彼方から、とぎれることなく無数の矢は飛んでくる。琵琶の音のように鋭く乾いていた音で横をかすめる。しかし静かだ。心臓の音だけが低く、ゆっくりと、しかし確実なリズムで地の底から響くように聞こえる。どど どど どど どど どど どど 。顕家は娘を思い浮かべようとして、やめた。あまりにも悲しすぎる。宗広、親朝、頼んだぞ。そして気持ちを振り切るかのように腹の底から叫んだ。「出撃!」。すると「おう!」と思いもかけない大きな歓声がわき起こった。こんなにも味方はいるのか。そんなはずはない。しかし、もうまわりを見合わす余裕もない。血で視界もままならない。しかしこのつわものたちはこの先何百年も自分についてきてくれる頼もしさとありがたさを感じた。

 矢はあいかわらず横殴りの雨のようにふってくる。「どう」と馬の腹を蹴ると 矢の方向に向けて突撃した。左目の上に矢が刺ささった。兜のつばを突き抜けてのことだから、脳までは鏃は達してはいまい。まだ意識はある。でもどんどん視野が狭くなる。かすかに左手に松の木の林が見える。

ふと木の陰からなにものかが襲いかかる。「我こそは越生左右衛門丞四郎である。そちらにおわすは北畠顕家公とお見受けいたす。尋常に勝負」前方で叫んでいる言葉もとぎれとぎれに聞こえる。もう体は動かない。地べたにたたきつけられる衝撃を感じた。そしてたぶん背中から何度も刺されているのだろう。痛みはもう感じない。ただなぜかなま暖かい液体が鎧のなかに流れてくるのがわかる。もうだめだろうな。そう思っている時間が限りなく長い。だれかもう一人近寄ってくる気配があった。背後が騒がしい。遠くから「殿」と叫ぶ声が聞こえる。あああれは南部の声だ。生きていたのか。よかった。 そう思った瞬間、首になにかひやりとあたった。そしてその冷たさがゆっくりと右から左に流れた。なぜか松の枝と煙の間から青空が少し見えた。そして記憶はそこで途絶えた。

 何時間たっただろう。何日たったのか。何年か。今伊勢の山の中にいます。静かだ。限りなく静かだ。ああ自分は死んでよかったのだろうか。取り返しのつかないことをしてしまった。 父上の思想をひろめることこそ自分の役割ではなかったのか。戦いに勝ち、権力を御上の手に取り戻すことばかり考えていた。自分は戦が得意であったばかりに、戦に勝つことばかりを考え、戦にかつ最大の目的は民の安寧にあり、後醍醐帝のもとではそれがかなわないのではないか、という絶望感から死を選んでしまったようだ。もちろん長きにわたる戦いに疲れてもいた。思想など安定した社会を実現してはじめて可能なことだ。戦いの最中にはそんなものは無力に思えた。

 たとえ権力は尊氏に奪われても、思想を確立しておくことがもっとも大切だったのではないか。父上のお考えになる天下を維持することは難しいかもしれない。しかし伊勢や吉野だけでも確保し、維持させるのはそう難いことではない。そうして父上の思想をしかるべき世のために確固たるものにしておくべきだった。私の戦略は時間を背に展開してきた。時間に追いつかれた時が負けだと思っていた。般若坂の時もそうだった。石津のときもそうだった。私は生まれてからいつも時間より先に生きた。

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(般若坂から東大寺の裏手に出る)

 しかし時間をまつことも大切だ。こんど生まれる機会を与えられたら、待つことの得意な人間になろう。待つことの得意な人生。老齢になるまで、世に知られず、普通の人生をおくり、当たり前の暮らしをし、時間をかけて父の教えを広めるのだ。そして時を待つのだ。人が人として生きる世を待つのだ。

 ああそういう暮らしをしてみたかった。そういう人生をおくり、学問を整え、確立することが、本当に世の中のためになるのかもしれない。自分は歌らしい歌すらも残さなかった。もう今となってはどうにもならない。そうおもうと悔しさで胸がいっぱいになった。父に申し訳ない、あれだけ偉大な知識人を父に持ちながら、自分は父の思想を広める立場にいながら、なにもできずにしんでしまった。滅びの美学は、死んでみると底が浅いように思える。いいようのない後ろめたさが残った。

ここに顕能はまだおるのか。もう館はないぞ。草もぼうぼうではないか。

そしてそこでまた記憶はとぎれた。

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(霧山城跡)

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(霧山城跡から望む)

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(現在の堺市石津川)

メディアファイブ誕生秘話

それはある、研究会から始まりました。当時、住友ビジコン総合研究部(現日本総研)に属していた私は大手ハードメーカーや大学と組んで教育ソフトの研究会を主宰していました。そこに堺の教材会社の社長さんが参加しておりました。そしてそれがご縁で、その教材会社の新規事業のコンサルテーションをさせていただくことになりました。教育ソフトの開発です。初めてその会社にお邪魔してその帰り道、偶然に私と同じ苗字の地名を見つけました。そして北畠公園というのを見つけました。その奥にお墓があり、公園の3分の一をその墓の囲いで占められていました。柵の扉がしまっていたのでその前でなんとなく手を合わせながら、ひょっとしてこのコンサルティングが自分の人生を大きく変えるかもしれない、と予感しました。その墓は北畠顕家の墓でした。

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(北畠公園 顕家の墓)

顕家のことは、福島県岩瀬郡にある父の実家の村の会報誌や、父の話で知っていました。ただなぜかそのことは実家の方たちは、皆あまり話したがりませんでした。無関心なだけだったからかもしれませんが。

顕家は1318年に後醍醐天皇の側近である北畠親房の長子として生まれました。北畠家は村上源氏庶流であり、和漢をつかさどる家とされていました。以前玄象という能について書きましたが、そのなかで村上天皇が登場しています。その村上天皇を祖とし、臣下にくだされた家系が村上源氏の流れです。まあ今で言うと文部省と文化庁をあわせた役所の役人ということでしょう。顕家は1338年5月22日(旧暦)に足利尊氏方の高師直に堺の石津で討たれました。そして阿倍野の、今は公園になっているこの場所に葬られたそうです。

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(堺 石津川)
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(顕家慰霊塔 石津川ほとり)

教育ソフトの研究会は任天堂のスーパーファミコンがCD-ROMプレーヤーを出す予定にしていたので、そのフォーマットで出すことを念頭においた研究会でした。ところ任天堂は、CD-ROMプレーヤーのOEMを受け持つソニーとけんか別れし(その結果ソニーはプレーステーションを出したのです)、教育ソフトの研究会も存続の意味がなくなりました。そこで堺の教材会社の社長さんが、せっかくここまで研究してきたのだから、教育ソフトの専門の会社を作ろうよ、とおっしゃっていただき、私の勤めていた会社の了解もとり、メディアファイブは誕生しました。

ちょうど父が建設会社を役員定年で退職したのをきっかけに、社長に就任してもらいました。当初、父とは本当にぶつかりました。建設会社とソフト会社では、その経営手法が正反対だったからです。ソフト会社は大きな投資はあまり必要なく、当初、私は銀行との付き合いをあまり重要なものとは思ってませんでした。しかし父は、もちろん建設会社時代から、銀行との関係づくりを重視していました。私は当時そんな父を見て、ソフトビジネスがまったくわかっていないな、と思っていましたが、それが大変な思い違いであることを8年後に思い知らされました。2001年の9.11のときです。株価は半分になり、上場していた家電メーカーが一斉に翌年の3月に大量の商品の返品をしてきたのです。社内の社員の造反にもあい、3分の1の社員に退職され、しかも同じような会社をつくって妨害もされ、有効な手もなかなか打てず、その次の年から2年間連続して赤字を出してしまいました。こんなとき、日ごろから銀行との付き合いから、当社は運転資金に余裕があったので、のりこえることができました。世の中は本当になにがおこるかはわかりません。会社とは自分とのタイプの違い、年齢も異なるさまざまなタイプの人間がチームワークで働くことが大切であることをそのとき、しみじみ感じました。

会社登記は1993年11月25日です。実はこの日も偶然があります。先日お話した建武の親政は神武暦1993年5月22日に鎌倉幕府滅亡とともに誕生しました。神武暦1993年11月25日は顕家が陸奥将軍として仙台の近くにある多賀城についたころなのです。つまり顕家が歴史に登場する日なのです。

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(多賀城)

当時、私は歴史にはまったく興味がありませんでした。記憶力の悪い私は、大学受験の共通一次試験も最初理系志望だったこともあって、社会は倫社・政経を選択しました。ところが歴史にのめりこむようになったのは次のようなことがきっかけでした。

堺の教材会社でコンサルティングは始まり、まずどのような教科から作ろうか、ということのミーティングで、パソコンで学習するメリットをチェックしました。すると歴史は、授業などでもまず四大文明があり、縄文時代があり、奈良時代があり・・・と教科書で勉強すると、時間軸、空間軸がめちゃくちゃで、よくわかりませんでした。私は、そもそも、なんでもう終わったことを覚えなければならないのか、特に年代を覚えるなんてナンセンスだとずっと考えてきました。しかし時間軸、空間軸を整理し、時代と世界の流れを立体的に把握できれば、歴史からなにか発見できるものがあるのではないか、とそのとき感じました。

時間軸、空間軸で歴史を立体的に把握することは、本で読むのではできないことですし、しかも小・中学校だけでなく、一般の人にも教養ソフトとして販売できるので、そのような歴史のソフトを作ることになりました。それがメディアファイブで最初に開発した「ワールドヒストリー」です。ただ私は当時歴史をまったく知らなかったので困りました。本当に一から勉強しながらこのソフトを作成していったのです。

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(ワールドヒストリー)

そこで、一冊の本に出会いました。ポールケネディの「大陸の興亡」です。1500年から2000年までの大国、ヨーロッパ諸国、中国、日本、米国の経済と軍事行動の相関関係を的確につづったものです。とくに驚いたのは、中世では、中国文明がものすごく発達しており、活字による印刷が発達し、大量の書物が出回り、古くから大きな図書館がいくつもあったことです。11世紀末には7世紀あとの産業革命時のイギリスをはるかにしのぐ製鉄を生産していました。活版印刷の発明は学問を広め、広く全国から秀才を集め、官吏を登用し、その権限が強化され、それが国を富ます原動力になっている例として明王朝が栄えたことは特筆すべきことでしょう。

しかし明王朝も時間がたつにつれ、マイナスの部分も出てくるようになりました。1400年代に入ると中国も世界に目を向け、鄭和をはじめ遠征が盛んに行われました。彼らはヨーロッパの遠征者とちがって、各地の住民を略奪したり、殺傷したりはしませんでした。しかし再びモンゴルの脅威が増大してくると、そこにまわす資金を節約するために、遠洋航海は禁止されました。儒者による保守的な官僚体制は軍需を嫌い、市場経済が栄えるのを嫌い、その結果、派手な商人に干渉して財産を没収したり、軍需を切り詰めて、万里の長城などハコモノの需要創造をおこなって失業対策したり、まるで今日のどこかの国とそっくりなことをしていたのです。

もちろん功罪はありますが、400年にわたる白人優位の時代が続くのは、彼らが常にグローバル戦略をとり続けてきたことにあります。先日の、知事との懇談会でも申しましたが、日本の中小企業の最大の課題はグローバル戦略です。あの世界最強の企業、トヨタでさえも日本国内は売り上げに苦戦しているのです。

メディアファイブも、今後の中心課題はグローバル戦略です。当社のパテントは米国特許や国際特許を中心にとっております。教育こそ日本が海外に誇れるノウハウであり、グローバル化できる切り札と考えています。人材育成型グループウエア「則天」や、多機能学習ソフト「メディアファイブ プレミア」は、これだけのソフトはまだ存在しておりません。

今の日本を見ていると、この先は明の衰亡と同じ道をたどれるのではないか、と強く感じてしまいます。
経営者と政治家の懇親会でも、経営者たちはハコモノを要求します。おそらくすぐに自分たちのビジネスに直結するからでしょう。しかしなによりも今、中小企業の経営者が手がけなければならないことはグローバル化だと思います。そういう私もけっして英語が得意ではありません。自社の「英語すらすら」を、思い出しては三日坊主で英語日記をつけている体たらくです。でも英語で日記をつけ、ワードチェックをしてもらい、それを音声読み上げファイルに落とし、携帯電話やiPODに入れて持ち歩き、時間のあるときに聞いたりするのは、結構英語の即戦力になると思います。みなさんも一度お試しください。

話を元に戻しますが、私はこの「ワールドヒストリー」の製作を通じて、歴史を学ぶ意義がはじめてわかりました。いつの時代も人間は当然一生懸命に生き、様々な判断や選択で歴史的な結果になるのです。歴史を勉強することは実は人間そのものを勉強することであり、未来へのビジョンを把握するためにも大切なものなのだなあ、と強く感じました。

実は北畠親房や顕家がなにをした人かもそのとき初めて知ったのです。親房の書いた「神皇正統記」も歴史を通して未来や国家のビジョンを語るものでした。よくこの「神皇正統記」を古事記や日本書紀の焼き増しに過ぎない、悪口を言う人がいますが、そういう人は実際はよく読んでいないのです。この書物は歴史を通してどう生きるべきか、ということが中心に書かれているのです。現在でも十分読み応えのある書物だと思います。「神皇正統記」という題名が現代ではきわめて不適切なのでしょう。

この「ワールドヒストリー」も、未来のビジョンを語れるほどの商品にしたいなあ、と思いましたが、まだまだ歴史の勉強を始めたばかりの当時の私にとってとても無理な話でした。

前回も触れましたが、特に顕家が戦死する1週間前に後醍醐天皇に書いた奏文は、①分権統治 ②コスト意識の徹底 ③公正平等な登用 ④システムの構築 ⑤公私混同の排除 の5つの抗議からなり、これは670年たった今日においても、経営や組織運営にもっとも重要なものなのだと思います。これをよく20歳の若者が書いたなあ、と驚嘆しました。

次にラジオ短波と組んで「死地則戦」というソフトをつくりました。当時テレビで「カノッサの屈辱」というビジネスと歴史を結びつけるパロディ番組をやっていて、とても面白く見ていました。歴史とビジネスを孫子の兵法で結びつけてソフトにすればおもしろいだろうな、というところからスタートしたのです。もちろん孫子の兵法を勉強するのも始めてです。

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(死地則戦 メイン画面)

あとで知ったのですが、北畠家は漢家(中国の学問を学ぶ家)であり、親房や顕家は孫子の兵法の専門家だったようです。これも偶然といえば偶然です。

またラジオ短波と平行して漢字検定協会の仕事もしました。漢字のゲームソフトをつくることと、もうひとつは当時平安遷都1200年で、それにちなんだソフトをだすことです。京都には難しい地名が多く、その地名の漢字をあてるゲームソフトをつくりました。ある手違いで私が京都中の寺や風景を撮る羽目になり、2週間かけて100箇所以上まわりました。おかげで京都の地の利は大変くわしくなりました。そこで発見したのが、北畠という地名が洛北、伏見、長岡京に3つ存在していました。そこは親房や顕家の屋敷があったところだそうです。もっとも嵯峨野にも屋敷があり、1326年に火事になったという記録があります。

こういう仕事の偶然は、意図的にできるものではありません。当時会社で開催した、「パソコンソフトビジネスセミナー」や「マルチメディアビジネスセミナー」で私のつたない講演を聴いてくださった社長さんやリーダーの方たちが、私の考えに関心をお持ちになり、仕事を発注していただきました。それが全部今日のメディアファイブのベースとなり、気がつくと北畠親房や顕家を学ぶきっかけとなっているのです。

1998年に私は日本総研をやめ、メディアファイブの社長に就任しました。1998年の6月に父が入院したのでした。その結果、私は日本総研かメディアファイブかを選択しなければなりませんでした。本当は日本総研を辞めたくはなかったのですが、メディアファイブを閉じるわけにもいかず、決めました。辞表を本部長に提出する時1週間ためらいました。神武紀1998年の5月22日に顕家は戦死しました。私も西暦1998年、自分にとって人生最大の転機といってよいでしょう。

いざメディアファイブ1本になって見ると、この後、会社を続けていくことができるのか不安でした。しかしそれ以上に当時の社員の不安が相当なものだったろう、と入ってみてつくづく感じ、申し訳なく思いました。2足のわらじでの仕事は無意識のうちにどちらも逃げていたのです。それがよくわかりました。最初の半年は無給でしたが、とにかく夢中で仕事をしました。あまりに不安で、夜になると、むかし宗教団体の活動に熱心な友達にもらった法華経を探し出し(私は宗教団体に属したことはありませんが)、一生懸命唱えていました。

最初はわけもわからず唱えていたのですが、だんだん意味を知りたくなって、いろいろ新書など読み漁っているうちに、こんなたとえ話がありました。ある日、こどもたちが毒を飲んで苦しんでいました。名医である父親がよい薬を与えようとしたのですが、子供たちはその薬が苦そうで、飲みませんでした。そこで父親は一計を案じ、そのまま旅にでて、旅先で死んだとうそをついたのでした。風の便りに子供たちはそれを聞き、びっくりして父親からもらった苦い薬をのんで、毒害から救われました。父親も旅から戻ってみんなめでたしめでたし、というまあチープなわけのわからないたとえ話なのです。法華経、如来寿量品第十六のなかにあります。

ところが私の父は奇跡的に手術もしないで治ってしまいました。これも不思議なことなのですが、ある日私は、テレビで平幹二郎氏が、喉頭がんをやって、それを治すために玉川温泉で療養している番組を見ました。そこで私は父に玉川温泉を勧めました。ちなみにこれも後で知ったのですが、平幹二郎氏はNHKの大河ドラマの太平記のとき、北畠親房の役でした。ところが病気のため、降板し、近藤正臣氏になったのです。玉川温泉での療養が父の病を治したかどうかは、わかりませんが。

この一連のできごとで、恥ずかしながらいままで私は、大企業に勤めていたこともあり、競争原理のもと、自分のことばかり考えていたのが、人のためになにかをすることの重要性を初めて知りました。そしてこの如来寿量品第十六のたとえ話が大変尊いものに感じました。まさに私は、父の病を通してで、社会とのつながりを教えられたのです。今でも法華経や般若心経を、自己流ですが、とぎとぎ唱えております。

しかし法華経と般若心経を多少なりとも理解すると、日本の古典が本当におもしろくなります。平家物語でも本当にいろいろな武将が法華経を唱えるところが出てきます。平惟盛が那智の沖で入水するとき、法華経を唱えて入水しました。以前は、古典を読んでいると、「昔は科学が発達していないからすぐ神がかりだよ。」としらけていたのですが、いまではその心境をしみじみ感じて読むことができるようになったのです。

ただ660年前に、私と同じ姓の人が、日本を文化国家にしようとして理想を掲げ、無念にも果たせなかったことに、自分のことのように残念に思い、自分なりに調べ、考え、いろいろなことを自分なりに発見しました。よく調べてみると、本当に誤解されていることが多いのに驚かされました。もし自分の先祖でなければ、親房、顕家親子のことを、私だって世間のイメージ以上の関心は示さなかったでしょう。

さまざまな失敗や経験、また、たまたま就職するためにした勉強だったり、趣味だったり、仕事で学んだりしてきたことのすべてが、いまのメディアファイブのプロデュースという本流に流れ込む支流だったのです。ひとつひとつはいきあたりばったりの偶然だったのが、後から振り返ると見事に整然とその経験の積み重ねが今に繋がっているのです。

「世の中万事塞翁が馬」でも申しましたが、学生時代、自分が将来、なにをしたいかは、よくわかりませんでした。社会人になってもまだよくわかりませんでした。私は自ら経営者になりたい、と考えたことはありませんでした。いろいろな、当時一見無関係なあちらこちらの支流を流れながら、気がついてみたら、メディアファイブという他には存在しない、オンリーワンの会社を経営していたのです。

今回開発した人材開発型グループウエアは先ほど触れた顕家の奏文を目指して作ったのですが、そのきっかけは社員の造反にありました。会社が急成長する時期は何度かありますが、どうしても人手がほしいときは、あまりレベルの高くない、旧知の人間を仕方なく入れるものです。そういう時、そういう人間に悪意があると、とんでもないことになります。IT・ソフトビジネスは投資もいらないので、参入は比較的簡単です。しかしそれだけ競合も増えるのです。しかも市場はつねに激変します。昨年100売れたものが、今年半分になったりするのです。こういうなかで継続させることは本当に難しいのです。そのなかでけソフトビジネスの成功を見て、そのビジネスを奪いたくなり、ほかの社員や部下に「自分たちの会社をつくろうよ」とけしかける輩がでるものです。とくに中間管理職にそういう人間が出ます。

当時私は社長室をもっていました。若い社員とは直接の接触はありませんでした。すべては中間管理職が私の意向を部下に伝えて、ビジネスが動くのです。こういうとき、その人間に悪意があると、社長にも、部下にも指示や報告を自分の都合のよいように変えてしまうのです。私には、卑屈にぺこぺこしている人間が、ちがう部屋ではボスのようにえばり腐っていたりするのです。そういう人間が、影で人をいじめたりおだてたり、弱い立場の部下や女子を感情でつって味方につけるのです。そして取引先にもうそを塗り固めて、その商権を奪おうとするのです。

若い社員も情報を知らされてなく、直属の上司に殺生与奪の権利を握られていると、その上司に依存します。

当時、私は一生懸命集合研修をおこなっていました。そこでいくら啓蒙しても、感想文で社長にここちよい文章を書くのが関の山です。俺についてこい、型の感情をあおりながら組織を引っ張る経営は、感情で裏切られるのです。だれでも夫婦や子供とだってすぐ喧嘩をします。

だから経営はシステムで管理しなければならないのです。飲みにケーションは根本的な解決にはなりません。社員一人ひとりに会社のビジョンを明確化し、情報共有を徹底し、公正平等に評価するシステムをつくらなければならないのです。

私は社員の造反という苦い経験から、こういうことをおこさないシステムを作ろうと決心しました。完成まで5年がかりでした。膨大な投資もしました。いざ作ってみると、こういうシステムが本当に大切なのが後からわかりました。人がもっとも学習する場所は仕事をする場所です。こういう場所で卑怯なことをして成功する人間がリーダーとなる組織では、その下で働く人も腐ります。そしてそういう人の子供も腐ります。どんなに教育を変えても、まず経営が変わらなければ、世の中からいじめも犯罪も減りません。

私は自分の血筋を自慢するためにこういうことを書いているのではありません。600年で一組の夫婦から400万人の子孫ができるそうです。つまり、だれもが必ず歴史に残る先祖をもっているはずです。逆に、私自身、600年以上前のDNAなど本当につながっているかさえ怪しいものです。それは単なる偶然かもしれません。また私の深層心理がそういう方向へ結びつけているのかもしれません。神が本当にいるかどうかすら、私には定かではありません。

もちろんスタッフに恵まれたこともあります。阪神大震災も景気におおきく影響しました。マザーズができました。9.11で株価が半減すると、家電量販店は在庫圧縮をおこない大量の返品が発生しました。さきほど触れた造反にもあいました。現実は小説より奇なり、といいます。だれが世界最強の米国のニューヨークやペンタゴンが攻撃される、と考えるでしょう。

いろいろなことが起こりながら、それでもいろいろな人に助けられながら、県や市にも大切にしていただきながら、大変幸運にも15年間、当社は存続してきました。おかげで教育ソフトの専門会社ではトップになりました。

ビジネスは個人の小手先の発想だけではとても成功はしないとおもいます。たぶん個人の想定する範囲でビジネスの成功はむりでしょう。ましてやいい加減な人間や評論家的人間が生き延びられる可能性は少ないと思います。われわれは自分の考えうる限りの範囲内で、できる最大限のことを地道に精一杯仕事をするだけです。でもそれだけでは成功にはいきつけません。

精一杯の努力に、なにか目に見えない、自然界に導かれて、はじめてその努力は活かされるのでしょう。それを「神の意思」と擬人化されて感じるのでしょう。いや本当に神の意思なのかもしれません。私は記憶力が悪く不器用です。ひとつひとつのスキルでは多くの人たちにかないません。しかし私が失敗してきたり、拒絶されてきた数多くの学問や仕事や人との経験をとおして、あらゆることが、今のメディアファイブの経営に生かされています。私はそれを天命と呼ぶのだと思います。

おそらく先祖であるであろう親房や顕家は、自分のやりとげられなかった無念の一部を、DNAを通して私にさせているのかもしれません。(ちがうかもしれません。) ただ私は親房や顕家の思想や行動に、とても共感し、尊敬し、歴史上受けてきた彼らの誤解を解き、彼らの実現させたかった世界の構築に、少しでも役に立てたらよいと思っているのです。

そういう意味では私は、親房や顕家の小間使いの一人である、という考えでメディアファイブを経営しております。

私は宗教的なことは、門外漢なので、コメントする資格はありません。ただ私にとって、神様は依存する対象ではないと思います。お願いする対象でもありません。天命を感じたならば、それに向かい、一生懸命に世の中のために尽くすことなのだと思います。何かをしてもらうことを期待するのではなく、自分が世の中に役だたさせていただくことを感謝することなのだと思います。そのなかで、生活や仕事の中で、ささやかな幸せを感じたならば、それが神様からの報酬なのでしょう。

ただ、こういう考えにいたったのは先にも書きましたが、98年の38歳以降からです。若い人がこういうものを読んでも違和感を感じるかもしれません。私も若いときは、こういう話に関心も理解もできませんでした。ただ若い人たちには、自分の世界がすべて、と考えないでいただきたいと思います。まだまだこれから一山もふた山も三山も乗り越えなければならない困難が待っているのです。そしてだんだん大きな社会責任を負っていくのです。残酷な現実と直面することもあるでしょう。そのなかで、必死に、はいつくばってでも前向きに生きなければ「神様」は現れてくれないと思います。

親房や顕家のことは私のきわめて個人的な問題です。社員にもほとんどこの話はしません。しかし、親房や顕家が目指したことは、つまり、「人々が不毛な争いをやめ、日本の和を尊ぶ歴史文化を尊重し、公平平等の社会のなかで自己実現を行い、みんなで協力しあいながら付加価値を生み出し、自然を敬い、子供たちを育て、教育していく」ということは、いつの時代でも永遠普遍の理想です。

その理想国家の実現が、今の日本に特に一番必要なことだと思います。

メディアファイブはそういった国家の実現に少しでも寄与するために、存在させていただいているのだと思うのです。

メディアファイブのファイブはどういう意味があるのですか?とよく人に聞かれます。建前では、五感、陰陽五行、孫子の兵法の、道天地将法などすべて重要な世界は5から成立する、ということを説明しております。

しかし本当は5は私のラッキーナンバーなのでした。幼稚園も高校も大学も受験番号が、5番、25番で合格しました。生まれた場所も育った場所も今の私の住所も電話番号も末尾は5番です。

今は、私の心の中でのみに限ってのことですが、顕家が後醍醐天皇に残した奏文を書いた日 延元3年5月15日 の5だと信じています。

ただ、660年前のできごとと比較するのは、科学的根拠も多少はあると思います。マクロ的な経済循環(コンドラチェフ)は60年ごとで、660年もさらに大きな経済循環として考えられることかもしれません。
平安末期から室町初期にかけて、貨幣が急速に普及しました。武士の台頭は、経済が物々交換から貨幣に移ったことも大きな要因だったようです。今日、インターネットの発達による、情報の開放は、この時代と似た社会状況をつくりだしているのではないでしょうか。

似たような時代に、家柄や能力は月とすっぽんでも、同じDNAの人間が、スケールはちがっていても、似たような行動をとるとしても不思議ではないのかもしれません。だから歴史から未来を考えるヒントはあるのかもしれません。

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(21世紀への提言 「頑張り応援宣言」2001.12.10刊)

670年前の悲劇

デュマの巌窟王を読んだことがありますか。14年間無実の罪に陥れられ、モンテクリスト伯としてよみがえり、自分を陥れた人たちを復讐するフランスの小説です。しかし日本に670年間も誤解され、無視されつづけた最強の巌窟王がいます。北畠親房です。

北畠親房というと、どうも右寄りの思想と見られています。その原因は「神皇正統記」を書いたからでしょう。この書は1339年、戦場のなかの常陸の大宝城や関城で書かれました。しかしこの内容は、実は、とても右寄りの人には受け入れられない本なのです。戦前は右翼の攻撃対象にもなっていました。なぜなら武烈天皇や陽成天皇の例を出し、行いや心持ちの悪い天皇は廃嫡してしまえ、と述べているのです。さらに陽成天皇を廃嫡した藤原基経や、承久の乱で朝廷に反旗を翻して後鳥羽上皇を隠岐に流した北条泰時の徳を褒め称えているのです。さらに親房は、日本人はみな元を正せばアマテラスにいきつくから皆兄弟なのだと言っています。(「人はすなわち天下の神物である。ゆえに人たるもの精神の正しさを失ってはならぬ」日本の名著9神皇正統記上P371)、(「天下の万民はすべて神の子である。神は万民の生活が安らかにするこおを本願とする。」同下P431)

かといって神を限定するわけでもなく、人間みなその心はそれぞれなのだから、いろいろな宗教があるのを認めなければならない、と言っており(「ひとつの宗派に志ある人が、他の宗派を非難したり低く見たりすることはたいへんな間違いである。」同中P395)いかにリベラルだったかがわかります。

そもそも読者の中には「神」ということばも抵抗がある方が多いのではないでしょうか。親房の「神」はすなわち八百万の神、イコール自然や天という言葉で置き換えて差し支えないと思います。宮崎駿のトトロやもののけ姫、千と千尋の「神」と同じイメージです。

親房は山間の村人たちに政治意識、国家観念を啓蒙していきました。もちろん武家を敵に回したための、戦闘要員として村人たちを引き入れた、という理由もあるでしょう。しかし、親房が従来思われている、天皇崇拝、公家の権益を守るだけの人間であったならば、そのような行動にはでないでしょう。なぜなら北朝と和解し、良い暮らしをしようと思えば、いくつもチャンスはあったのだから。親房が実現したい国家、それは国民すみずみまで学問と日本の伝統文化を大切にする文化国家の建設だったのです。

賀野生には親房の理想国家の建設に共鳴し、武器をとって命をおとした村人の慰霊碑が親房の墓のとなりに建っています。

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(村人たちの慰霊碑)

先日、経済団体での上田知事との懇談会で、知事が日本国内の需要の低さを嘆いていましたが、私は国民の独立心と向上心に火をつけなければならない、と思い、メディアファイブを作ったとき、資格試験のソフトの開発に力を入れました。消費市場を投資市場に変えていかなければならないのです。その辺のことは2001年に刊行した頑張り応援宣言の中に収録されている、「21世紀への提言」をご高覧ください。911の年、日本経済はどん底になり、失業者が増加したときに、皆さんに資格をとって頑張っていただこう、と無料で配布したものです。

もうひとつ親房の誤解を解かねばなりません。彼が血統を重視したことです。なぜ血統を重視したか。ひとつは上記にあるように日本人はみなアマテラスに行き着く、という文化国家の建設にありました。
もうひとつは、これがもっとも大問題なのですが、いままでブログに書いてきた、報酬の分配の問題です。彼は上古を例にとり、(「まず勲功があるからといって官位をあげることはしませんでした。そのかわり勲位という制度をつくり、それ相応の待遇をうけることができたのです。」同下P443)今でも勲一等というのはこの名残なのです。(「そして官職を選ぶ基準はまず行いの正しい人。そしてその次に才能のある人を選びました。また徳義、清廉、公平、勤勉の4つを重点として人を選択したそうです。」同下P445)

当時報酬は土地でした。しかも建武の親政になり、北条政権が滅びると恩賞の問題で日本中大混乱に陥りました。親房がいいたかったことは、(「土地は政治の基であり、恩賞ではな」ということ。同下P447)もともと武士は朝廷の一官職であったのが、平氏の台頭から北条政権にかけて朝廷から離脱を始め、殺し合いで土地を奪うようになってしまったことを親房は思わず「武士は長年にわたる朝敵」と言ってしまったのです。まあこういうことを宣言すれば武士は味方から逃げていくでしょう。親房の失敗と誤解はここにあるのだと思います。親房はあまりに人間を信じすぎ、理想高く、人々の理性に期待していたのです。だから日本人はみな神の子だ、という神皇正統記を書いたのでしょう。

しかしこれはもてるものの、高い地位にあるものの思い込みだと思います。大部分のもてない人々は奪い合い、殺し合い、ぎりぎりのところで生き延びているのです。人々の欲望を理性で制限させようとする政治はいつの時代でも失敗します。田中氏が以前のブログで指摘したように宗教しかその解決の手段は当時なかったのでしょう。

それでは親房はどうすればよかったのか。息子の顕家が尊氏を破って都を奪還したとき、恩賞をとらずに、みなの手本にさせるぐらいが関の山だったでしょう。欲望を抑えろといっても、当時ではどうすることもできなかったのです。

やはり力で欲望への配分を制限するしかなかったのです。つまり「公家の武家化」を実現するしかなかった。しかし南朝の公家で武士を指揮できるのは、護良親王と顕家しかいなかった。なぜ後醍醐天皇は自分の息子であり、建武の親政第一の功労者である、護良親王を足利尊氏に渡してしまったのか。護良親王なきあと、顕家の戦死で建武の親政は実質終わったことになってしまうのです。

それから300年近く、欲望を力で奪い取る、戦乱の世が続きました。徳川家康や天海の出現で、ようやく乱れたる世にピリオドを打つことができたのです。もちろん宗教という手段も使いますが、徳川幕府は欲望を合い反する2つの勢力を共存させることで、みなの欲望をそいできました。つねに二律背反なものを同居させました。士農工商という階級をつくり、商人など金持ちほど低い位にする。またこの時代にもまだ南北朝の対立の流れは存在していたのですが、それも温存する。譜代、外様と藩を分け、徹底した分権統治と、外様同士を争わせ、あらゆる社会で2律背反を同居させることにより、徳川幕府を脅かす巨大な勢力が誕生しないようにしたのです。その結果270年近い安定した社会を生み出しました。

そして黒船の出現とともに、また強力な中央集権国家の存在が必要となり、その対応が柔軟にできなかった徳川幕府は倒れ、明治政府が誕生しました。そして中央集権のもと、個人と組織の競争はまた始まりました。

日本は軍部の派閥争いから、危うく国を滅亡させる寸前まで陥りました。

戦後、自由主義の下、個人の競争、会社の競争の元で、日本は大きく高度成長を遂げました。
しかしその成長もだんだん行き詰まりつつあり、環境問題も表面化し、競争原理だけで本当にいいのか、新しい突破口を皆が模索しはじめました。

そして今、ITの出現とともに、組織と個人のシナジーが可能になったのです。ようやく親房の理想が実現できる世の中が到来したのです。

2008年02月12日

日本とイギリス

仕事の上で、あるいは生きていく上で、様々な考察が必要ですが、その考察を深める、もしくはより正しい方向に導くためには、ベンチマーク(比較検討)という手法が良く用いられます。僕の場合、時代では、現代と南北朝。地理的には日本とイギリスです。

日本とイギリスはとてもよく似ています。太平洋の東端にある日本。大西洋の東端にあるイギリス。人口の増加率もほぼ同じだといいます。

そもそも国家の成立からして似ています。日本は、弥生時代もしくは大和政権自体が大陸から、九州から東北地方までを征服していったことです。イギリスは1066年ノルマンディー公ウイリアムにより、征服されました。

しかも1000年以上も続いた皇室が現代も存在している点も似ています。この皇室が中世に、二家に分かれて、半世紀以上も争ったのも同じです。日本では南北朝(大覚寺統と持明院統)、イギリスでは赤バラ白バラ(ランカスター王家とヨーク王家)。
そしてその詳細は、日本では「太平記」「増鏡」「神皇正統記」と言う名著が残り、イギリスではシェイクスピアの歴史劇として残っています。

日本における南北朝時代は1333年後醍醐天皇が北条氏を倒したときからはじまり、足利義満の時代両朝の統一の1392年までの約60年間、1467年から1477年の応仁の乱など戦乱の日々がつづきました。

イギリスでは1337年から1453年までの1世紀以上、フランスとの間で百年戦争がおこり1455年から1485年にイギリスの内乱であるばら戦争がおきました。

日本における南北朝は大覚寺統と持明院統という皇室の争いから始まりました。結局は足利尊氏と後醍醐天皇という武士と公家の争いになりましたが。また応仁の乱は足利将軍家の跡継ぎ争いです。

シェイクスピアは日本でいうと戦国時代に生きた人でした。太平記の成立は室町時代なので150年から200年の時代差があります。

しかし内容でいうと、王室をめぐり、何代にもわたる戦いにつぐ戦い。裏切り、寝返り。あらゆる意味で太平記とシェイクスピアの歴史劇は似ています。大きく異なるのは、シェイクスピアの歴史劇は時の統治者エリザベス女王に劇を献上していたことであり、太平記は全面的に南北朝への公平な批評精神でかかれており、特に足利政権にことさらかたよった記述はしていないところが特徴です。

イギリスと日本は非常に類似点の多い国です。島国であり、侵略も少なく、清潔で、人口もイギリスでは18世紀前半まで、日本は18世紀後半まで出世率が死亡率を少し上回るところで、安定していました。他地域では人類の急増による、戦争、飢饉、疫病が多発していました。環境のよいなかで、イギリスは意図と偶然の中から、産業革命がおきました。日本は江戸時代から勤、倹、譲の精神で安定した社会を鎖国という閉鎖的な経済のなかでやりくりしてきました。

「クイーンを見て」でも触れましたが、私は97年9月にイギリスとフランスに行きました。ちょうどダイアナ妃がパリで不慮の死を遂げた一ヶ月後です。ちょうど10年経ち、当時の旅行を振り返ってみると、とてもイギリスとフランスの関係を知る上で、貴重なときに、重要な場所に行きました。まず、イギリスではロンドン塔とグリニッジ、バッキンガム宮殿、大英博物館、ウエリントン博物館、ウエストミンスター寺院、ビクトリア駅、中部のレスター市とその郊外にある、リチャード3世終焉の地、ボズワースです。フランスはモンマルトルにベルサイユ宮殿、ルーブル美術館にノルマンディー地方にあるモンサンミッシェルです。

旅行中とても面白かったのが、イギリス人はフランスのノルマンディー公に征服されたことにあまり触れたがらず、フランス人は年中、ノルマンディー公がイングランドを征服したことを、一にもなく二にもなく説明しているところです。

ちなみにフランスに征服された当時、イングランドの支配層はフランス語が日常会話となり、英語に戻ったには1300年代になってからだそうです。

これはけっこうイギリスのトラウマになっていて、その後の英仏百年戦争もこういうことが、根にあったのかもしれません。

ノルマンディーにある、モンサンミッシェル寺院に行ったときですが、「バイユーのタピストリー」の模造品が非常に安価で、寺院への道のおみやげ物やで売っていました。
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(97年9月 バッキンガム宮殿 ダイアナ妃への花束)
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(モンサンミッシェル)
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(バイユーのタピストリーのおみやげもの)

これはノルマンディー公がイングランドを征服したことをタペストリーにしたものです。縦50センチ、横70メートルに及ぶ、壮大な絵巻物で、今でこそフランスの国宝で、バイユー大聖堂に飾ってあるのですが、ナポレオン革命のとき、武器箱の上にかぶせる布として使われていたものを、地元の弁護士が気づいて国宝にしたものだそうです。

これから何回かに分けて、日本とイギリスそしてイギリスとフランスについて考えていきたいと思います。

2008年02月20日

倫敦塔

1997年の旅行記を今書くのは、あれから10年たち、私自身の知識や経験も以前よりは異なっていることです。「クイーン」という映画を見て、当時のことを振り返り、10年たっていろいろ思うところを述べさせていただきます。

まず最初に、ロンドン塔に行きました。当時、死地則戦Ⅲを開発するために取材をかねて行きました。死地則戦にはシェイクスピアの歴史劇が出てきます。夏目漱石も留学してすぐにロンドン塔に行きました。シェイクスピア研究の第1人者である漱石はロンドン塔に行くのは、当然といえば当然でしょう。その経緯が「倫敦塔」に書いてあります。漱石もシェイクスピアが好きで、まずその舞台に行きたかったのでしょう。この文章を書くときに、漱石の「倫敦塔」を読むと、当然ですが、この作家の筆力のすごさに改めて驚きました。しかも私の関心ごとと漱石の関心ごとがぴったり一致していたことには驚きました。

ロンドン塔で印象に残ったのは、なんて冷たい建物なのだろうか、ということです。こんな冷たいところで、生活するイギリス人は本当にストイックだなあ、と感じました。もっとも途中から宮殿というよりは、政治犯の牢獄であった歴史のほうが長いからそういう感じをうけるのも、当然といえば当然でしょう。

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(倫敦塔遠景)

ロンドン塔は、1078年、初代のノルマンディー公ウイリアムがまず、ロンドンを外敵から守るために要塞を建て、歴代の王がその周りに城を築き、ヘンリー3世で今の姿になったそうです。

メルギブソン主演のブレイブハートという映画があるが、スコットランドの英雄ウイリアム・ウォレスが車さきの刑に処されたのもこのロンドン塔だそうです。当時は処刑は見世物でもあり、どうもアングロサクソンの人たちは血が好きなのかもしれません。ロンドン塔からテムズ川を渡る対岸に「ロンドン・ダンジョン」という蝋人形館があり、ロンドンの歴史で処刑のシーン、たとえばスコットランド女王メアリーの処刑シーンや切り裂きジャックの犠牲者の遺体などの蝋人形がこれでもか、というくらい展示されていました。

またリチャード3世で、リチャードが兄王エドワード4世の二人の子供をロンドン塔に幽閉し、殺害して王位を奪った話がありますが、1674年に子供二人の遺体がロンドン塔から出て、その話を裏付けたことで近年話題になりました。こんな冷たい石の部屋に幽閉され、大人に殺された13歳と9歳の子供は本当にふびんだなあと感じました。

ヘンリー8世の鎧は実に巨大でした。いかにヘンリー8世が太っていたかが、わかる様な鎧でした。もっとも漱石はこれをヘンリー6世といっていますが、確かヘンリー8世だと思います。

イギリスの歴史はイングランドとスコットランドとの対立の歴史、スコットランドを併合すると、アイルランドとの闘争が現代までも続く。

エリザベス女王の母、アンブーリンの処刑場は中庭だったそうです。アンブーリンはヘンリー8世の2番目の妻で、キャサリン王妃の侍従でした。ヘンリー8世は6人の妻を持ち、そのうち2人をロンドン塔で処刑しています。もう一人はキャサリンハワードで、処刑の前に刑吏から逃れ、叫びながら逃げ回り、刑吏は3度目で首を落としたそうです。

ロンドン塔は幽霊がでることでも有名です。アンブーリンの首ナシの幽霊やキャサリンハワードの叫び声とかリチャード3世に殺された兄弟の子供の霊がさまよう、といいます。

まあ、これだけ血塗られた歴史なら、そういう逸話がでてくるのもやむをえないでしょう。

この旅行で、私は、フランスでは霊写真をとってしまいました。ノルマンディー地方にあるモンサンミッシェルでです。モンサンミッシェルはこのロンドン塔を建てたウイリアムの曽祖父が、もともとケルト人の聖地であったモン・トンブという島に修道院を建てたのが始まりだそうです。それ以降とくに英仏百年戦争時代はフランスの要塞だったそうです。さぞかしエドワード皇太子やヘンリー5世の時代は、英仏での城の争奪戦で凄惨な現場だったのでしょう。

どんな因果かしりませんが、この写真の壁を写し、そして帰国後、写真屋さんでプリントしたとき、この壁いっぱいに、逆三角形のドラキュラみたいな顔をした修道僧が怖い顔をして写っていました。
けれどもデジタルデータにはこのように写っていませんでした。

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(この壁に怖い修道僧が写っていました)

2008年02月29日

3月2日

北畠顕家は1318年3月2日に生まれました。新暦に直すと、4月3日です。ちょうど桜の満開の季節です。以前ご紹介した北山で顕家が陵王の舞を舞ったのも桜の季節でした。1338年2月28日(新暦3月20日)の奈良坂の戦いで、初めて負け戦をしたのも桜の咲き始めの頃でしょう。

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(般若坂近景)

親房は桜を読んだ短歌をたくさん残しています。おそらく顕家の死後、息子の思い出が桜とともにあるからでしょう。幼くして華やかに歴史の表舞台に登場し、あっさりこの世を去って行った顕家が、まさに桜の花のような人生に思い、桜の散りざまを見て、息子の不憫さを感ぜずにはいられなかったのでしょう。

男山昔の御幸思うにも かざしし花の春を忘るな
(男山の花見に天皇の行幸に随行したとき、(子供たちが)桜の枝を日にかざしてはしゃいでいた春をわすれることはないだろう)

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(男山八幡宮の桜)

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(男山八幡宮麓付近)

1324年後醍醐天皇は京都の南にある男山に行幸されました。増鏡にそのときのことが詳しく出ていて、公家の子供たちも着飾って大そうにぎやかだったようです。おそらく顕家や顕信もそのなかにいたのでしょう。6歳の顕家が桜の花をかざしていた時のことを回想した歌だと思います。
(ただし、この歌は1335年の行幸を回想したとされる説もあります。)

春をへて涙ももろくなりにけり ちるをさくらとながめせしまに
(毎年、桜の花の散るのを見るたびに、涙もろさが年々強まってきます。)
顕家の死のことを思い出すのでしょう。桜の花の散るのを見るたびに涙もろさが増していったようです。

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(吉野山の桜)

いかにして老いのこころをなぐさむる 絶えて桜のさかぬ世ならば
(もし桜の花が咲かない世になったならば、どのようにして老いの心をなぐさめようか)
そうは言っても桜の季節には顕家があの世から戻ってきて、老いた自分を慰めてくれる気がするのでしょう。

しかし一方で、京都の頃の栄光は忘れられず、

いかにせむ 春の深山の昔より 雲井までみし世の恋しさを
(どういうことでしょう。吉野の山奥に随分と長いこと暮らしていますが、((桜を見ると))天上人でいた京都の頃がいつまでも恋しく思います。)
という歌も歌っています。

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(吉野南朝皇居吉水神社)

この歌は平清盛の娘、建礼門院徳子が平家滅亡の後大原の寂光院で歌った

思いきや、深山の奥に住まいして 雲井の月をよそに見むとは
(思いもよりませんでした。天上人の私がこのような深い山奥であのときと同じ月を見るとは)
を思い出し、親房がその不遇を建礼門と重ねて歌ったのではないでしょうか。

九重の御階のさくらさぞなげに昔にかえる春をまつらむ
(今は吉野で幾重にも重なる大きな桜を見ているが、いつか京都に帰り、桜をめでたいものだなあ)

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(京都御所 右近の桜)

くれずとも花の宿かせたまほこの 道行きぶりににほう春風
(日が暮れる前に、桜の花の下を宿としようか。この道を歩いていると花の香りが春風に運ばれ、ここちよい)

この歌は1323年の続現葉和歌集に載っているので、まだ親房が32歳の京都にいる頃の歌です。

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(般若寺境内)

ひとりみてなぐさみぬべき花になど しずこころなく人をまつらむ
(一人で慰められる桜の花だけれども しずかに無心で人を待っているのだろう)

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(吉野 金峰山寺)

これに対し、宗良親王は

わればかりみるにかひなき花なれば 憂身ぞいとど人もまたるる
(ひとりで見ても見るかいのない花をながめると、とても憂鬱になり、会いたい人を知らず知らず待っています。)
と歌を返しました。

二人が待っているのは、顕家だと思います。春になると親房は顕家の化身が桜となって帰ってくると思い、宗良親王も桜を見ると、かつて戦友であった顕家を思い出し、親房と同じ気持ちであることを伝え、彼を慰めているのでしょう。

さそはるる はなの心はしらぬとも よそにぞという 春の山風
(風にのってにおいで誘ってくる桜の花の本音はわからないけれど 山風にのってにおう桜は昔の京を思い出すなあ)

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(醍醐寺の桜)

これも若き日の親房の歌なのですが、後年この歌を、思い出しているのではないかと思います。
醍醐寺は顕家の奏文が保管されています。もともと醍醐寺は南朝の拠点でもあり、村上源氏のゆかりの寺でもあるそうです。有名なのは豊臣秀吉の醍醐の花見ですが、私が訪れたときは、本当に桜の季節は見事な桜が数多く華麗に咲き誇っていました。

親房は、顕家の供養のため、正平七年四月一日(1352年5月22日)、安芸国海田庄の地頭職を高野山蓮華乗院に寄進しています。桜が散った頃に供養する親房の気持ちが伝わります。

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(高野山境内にある西行桜)


この数年、桜に季節には、親房の短歌を思いながら、大原や北山、男山、醍醐寺や奈良や吉野を歩いていました。

2008年03月31日

桜の思い出 「殺生石」と篤姫ゆかりの薩摩屋敷別邸

もう3年も前のことだと思います。3月29日に、旧薩摩屋敷別邸であった白金台の般若苑で観世流宗家が「殺生石」を薪能で舞いました。かつてその場所で、今話題の篤姫も住んだことがあるのでしょうか。生憎、その年は寒い春で、まさに「花おそげなる 年にもあるかな」でした。 残念ながら桜は開花せず、つぼみの下で宗家は舞いました。

「殺生石」は、小学校3年生のころ、埼玉県立図書館の児童映画の上映会のアニメで見ました。とても美しい女性に化けた金狐の末路が、悲しく、せつなく感じたのを強く記憶しています。そして小学校5年生のとき、林間学校で那須に行き、殺生石を見て、その映画を思い出し、林間学校そのものがせつない思い出になってしまいました。なぜか私には、その女狐が気になっていたのでしょう。

この物語は昔、御深草院のころ、玄翁という禅僧がおり、那須の怪しげな石の前を通り過ぎようとすると、にわかに女性が現れて、この石に近づくと命をとられる、という。わけを聞くと、「この石は玉藻前という、鳥羽上皇に寵愛された女性で、実は金狐の化身であり、それを陰陽師の安部泰成に見破られ、朝廷を転覆するものとして追われ、東国の武士に那須で討たれました。そしてその石の霊になったのです」。そういうと、その女性はその石にすうっと入っていきました。玄翁はその石に「成仏せよ」と一喝すると、石はふたつに割れて精霊が現れ、身の上話をし、最後に引導を渡してくれたことを玄翁に感謝して消えうせました、という物語です。

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その35年後に、旧薩摩屋敷別邸で、「殺生石」を宗家の舞で見たのです。薪の火に照らされて、精霊の若女の面をつけた宗家の舞は本当に美しいものでした。底冷えする、つぼみの桜の下で、満開の桜を想像しながら見ることが、かえって能の美しさを引き立てたかもしれません。

私にとって、幼いころの殺生石の体験を思い出させてくれる、本当にすばらしい一夜でした。般若苑はその夜が最後で、取り壊しになりました。この般若苑の由来は、奈良の般若寺の建物の一部を移築したことからついたそうです。

般若寺は南朝ゆかりの寺で、護良親王が本堂の櫃に隠れて、あやうく北条からの追ってから逃れたエピソードや、この寺の周辺の般若坂で、北畠顕家が初めて戦闘で敗れたエピソードがあります。ちょうど桜が咲くか咲かないかのころでしょう。

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(春の雪の般若寺)

鳥羽院といえば、保元の乱のとき、藤原頼長と崇徳院を排斥した帝です。また深草院は南北朝の対立の元を、弟の亀山院とつくった帝です。

歴史の時間と空間はいろいろなところでつながっていますね。

2008年04月03日

桜と能

「殺生石」つながりで、もう1節。能には桜をテーマにした題材が数多くあります。テレビでもよくあるように、酒宴に能が数多く催され、やはり酒宴といえばお花見だからでしょう。それは昔の武士も公家も庶民も現代とおなじでしょう。桜の花の下で

たとえばもっとも有名なのが西行桜。これは世阿弥の作品で、京都のはずれに西行の庵があり、その境内の桜がとても赴きのよいものだから、桜が咲くと、多くの人が見物に訪れるようになりました。

ある年、せっかくの桜を静かに見たいので、西行は桜見物を禁止してしまいました。そしてその夜、静かな庭で、「花見んと群れつつ人の来るのみぞ あたら桜のとがにはありける」
(花を見る人が多くくるのは、やたらに桜が美しいことの罪なのだ)
といいながら、桜の木の下で横になりながらお花見をしていました。すると一人の老人が現れ、
「埋もれ木の人知れず身と沈めども 心の花はのこりけるぞや」と口ずさむ。そして西行にむかって自分はこの桜の精で、「あたら桜の科にはありける」とはどういうことだ、という。

そして翁は、「春の花は上求本来の梢にあらはれ 秋の月 下化冥闇の水に宿る」と歌いながら舞う。(春の桜はやさしい菩薩の姿を仰ぐものとして眺め 秋の月は愚鈍な下界を菩薩が照らす理知の光である)

気がつくと西行は桜の木の下で眠ってしまい、夜もすっかりあけてしまいました。というお話です。
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(西行の庵 勝持寺)

お花見は菩薩様のやさしい御姿を拝むためにあったのですね。知らなかった。

能に限らず、文語調のものはたいてい5・7調になっていてリズム感があります。特に顕著なのは、絵本です。最近絵本の復刻版を買ったのですが、文語調でもリズム感があるのでとても読みやすいのです。文のリズムはその文章の深みをつける上でも大切なものです。

話は飛びますが、早くも桜が散り始めました。私のすきな桜をうたった句をもう少しご紹介します。

桜花散らばちらなむ散らずとてふるさと人の来ても見なくに 惟喬親王
(桜の花よ 散りたければどんどん散ればよい。どうせ里人は来ても見てくれないでしょう。)

惟喬親王(これたかのみこ)は844年に文徳天皇の皇子として生まれました。幼いころから聡明で文徳天皇からも立太子に望まれたのですが、時の権力者、藤原良房により阻止されました。28歳のころ、出家し、今の京都の愛宕に隠せいし、54歳でなくなりました。法華経の経典から轆轤(ろくろ)を考案し、椀やこけしなど地場産業を起こしたそうです。

自分の境遇をはかなむと同時に、世間の醜さを少し恨めしく感じている皇子の気持ちがよく現れている歌です。

花は散り その色となくながめれば むなしき空に春雨ぞ降る。 式子内親皇
式子内親王は後白河法皇の第3皇女です。この人の代表的な歌、
山深み 春とも知らぬ松の戸に たえだえかかる雪の玉水 も素敵です。
式子内親王は藤原定家とひそかに恋のちぎりをしていたといわれています。その物語が能「定家」に描かれています。

ある僧が定家ゆかりの時雨亭に雨宿りで立ち寄ったとき、謎めいた女性が現れて、僧を蔦葛のびっしり生えている墓に誘います。その古い墓は式子内親王のものであり、自分はその化身だという。そして式子内親王が死んだあと、定家は嘆き、その心が蔦葛となって式子内親王の墓を埋め尽くしたのだという。そして今でも二人が成仏できずに苦しんでいるので供養をしてくれ、といって消えました。僧が夜、墓を訪ねると、式子内親王が生前の姿で現れ、僧が法華経の薬草喩品を唱えると、蔦葛がほどけ、内親王は苦悩から解き放たれました。そして僧にその礼として舞いを舞って消えました。

式子内親王は、源平の動乱期を生き、後白河法皇という史上まれにみる怪物的法皇を父親に持ち、本当に純粋な心の持ち主だったのではないでしょうか。

その父親の怪物後白河法皇は、平家滅亡の後、大原に、息子の嫁であった建礼門院を訪ねて
池水の汀の桜散り敷きて 波の花こそ盛りなりけれ と口説きました。
(池の水面に散った桜の花びらこそもっとも美しいのとおなじように、若さを通り越した女性であるあなたこそもっとも美しいのです。)

女性はともかく、私も水の面を流れる桜の花びらに、もっとも感動したのを覚えています。5年前だったか、桜が散る時期だったので、桜吹雪の中、銀閣寺から南禅寺の裏手に抜ける哲学の道を歩いていました。脇を流れる琵琶湖疏水の水の面を桜の花びらが水面を埋め尽くすように流れていました。その間、30分くらいだったでしょうか。気の遠くなるような幻想的な時間でした。
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(桜の季節の哲学の道)

2008年04月19日

渋沢栄一とお花見

私は埼玉ニュービジネス協議会という、主にベンチャー企業の経営者の集まりに属しております。その中で、交流委員会、渋沢委員会、IT・教育委員会というものがあり、私はIT ・教育委員会をコーディネートさせていただいております。

先日渋沢委員会で渋沢栄一資料館の見学とお花見を王子飛鳥山でおこない、私も参加させていただきました。

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渋沢栄一資料館は10年ぶりに訪れました。10年前、どうしてビジネスはなかなか巧くいかないのだろう、と思い悩みながら電車に乗っていると、飛鳥山が目に入り、そういえば、ここに渋沢栄一の邸宅があったと思い、思わず見たくなって途中下車しました。

10年前は冬の夕暮れだったので、暗いイメージが記憶に残っていましたが、今回はお天気で、桜も満開で、飛鳥山はお花見で賑わっていました。館長さんに案内していただき、いろいろと説明を受けました。

10年前には、なぜ渋沢栄一が成功したか、よくわからなかったのですが、今思うと、次のようなことではないでしょうか。

1、徳川慶喜の家来となり、その側近である平岡円四郎に認められたこと。
2、幕府使節団としてパリへ行き、資本主義のあるべき姿を知り、必要なものを日本に作った。
3、「共存共栄」の思想が、周囲の人と金を集めた。
4、家が商家であり、しかも小さい頃から論語を学んでいました。そのことがマックスウエーバーのいう、ヨーロッパとピューリタンと似たような、日本武士道と論語という資本主義を成長させるための教育を、渋沢は偶然うけてきた。

前にも触れましたが、私は渋沢栄一の「処世の王道」という昭和3年発刊の古本を偶然古本屋で見つけました。この本は大正12年に発刊しようとしたのですが、関東大震災で紙型が焼失し、それ以後絶版になっていたものが、渋沢の米寿の祝いに改めて昭和3年、発刊したものです。

その内容を要約すると、
1、なぜ論語を学ぶのか
・論語は父、年長の従兄から学んだ。
・論語は実践しやすい
・維新前の商工業者には素養がない。維新後、外国との交流も始まったので、品位を高めなければならない。

2、徳川慶喜の家来になる
・幕府は早晩つぶれるので、慶喜公の将軍就任には反対
・豪族政治になると思っていた
・パリ万国博に大使として派遣される
・静岡で商工会を開く
・勝海舟は慶喜公を静岡におしこめる
・函館戦争に榎本武明にさそわれる
・大久保利通に嫌われる。識見卓抜で、その才能たるや、底の見えぬ気味悪さ
・西郷隆盛は賢愚を超越
・木戸孝允は文学の趣味が深く、考えも組織的
・勝海舟はこの三公の器まで行かない
・祖先崇拝は温故知新
・江藤新平と黒田清隆は自分の意見を押し通す
・伊藤博文は議論好き。論理的かつ博覧強記で相手を説得。

3、富貴は正道をもってする
4、算盤の基礎を論語の上におけ
5、西郷は情に流され、江藤新平は残忍にはまる。大久保利通はその間。
6、商売は商戦にあらず
戦いは相手を倒すことにあり(+―)商売は相手も幸せにする(++)。

7、西洋と東洋と道徳のちがい
西洋:よいことはなるべく人に勧める
東洋:己の欲せざることは人にすることなかれ
というものです。

とくに幕末の偉人が等身大に描かれていて、とても面白かった。

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話は渋沢記念館の見学に戻りますが、今回の見学で、もっとも印象に残ったのは、館長さんがとくに強調していたのが、栄一が政治の道を選ばず、経済の道を選んだ、ということです。

私も世の中を良くするのは経済だと思っています。特に、15年前、ポール・ケネディの「大国の興亡」を読んだとき、いかに経済が歴史を作ってきたかを痛感しました。

渋沢が作った企業群は現在も日本経済の中心を担っている企業が多く、もし今日、グループ化すれば、もちろん日本一のグループになるでしょう。しかし渋沢は会社を作っても、私物化をしませんでした。戦後、財閥解体のとき、GHQは渋沢一族が、財閥と見られている割りに、財産があまりに少ないことにびっくりしたそうです。

渋沢に私欲がなかったから、渋沢に金と権力が集まったのでしょう。ひょっとしたら維新の英雄より、渋沢のほうが、よほど今日の日本の礎を築いた人なのかもしれません。

お花見の帰りの居酒屋では皆大変盛り上がりました。

2008年05月20日

報告書「ルーツを探る」

このゴールデンウイークで、温泉旅行も兼ねて、父母らと福島に行ってきました。

今回、このブログを出版する、という話になり、それなら、この際ルーツをしっかり調べないといけない、と周囲の人が言うので、このゴールデンウイークを使って、父の実家に行ってきたのです。

最近ルーツの詐称問題や、戦後すぐ後南朝天皇問題などいかがわしいルーツにかかわる事件があったので、私のルーツは果たして親房や顕家とつながっているか、ここまで調べ、これ以上はわからない、ということを明記するほうが良い、ということなのでしょう。

皇室関係のルーツは社会的に大きな影響を与えるかもしれませんが、民間の氏は、しかも中世に活躍した氏のルーツなど、まったく社会的意味はないと思います。

私はルーツにこだわっていません。ただ北畠親房を歴史上もっとも敬愛する思想家、文学者で、顕家はもっとも敬愛するリーダーであり、武将であると思っています。それは私にとって本居宣長や山鹿素行、西行、実朝、世阿弥、徳川家康を敬愛するのと同じことです。

ただ、私は、今日、上に挙げた人物に比べ、親房や顕家はあまりにも無視され、誤解され続けているように思えてなりません。世間が無視しているのか。或いは自分のDNAが親房、顕家とつながっているから、好みや思考パターンが似ていて、身内びいきになっている、という可能性もあります。

北畠家のルーツを探ることは、後南朝問題そのものです。戦後、父の実家の人たちはそのことにあまり触れたがりませんでした。戦前は神皇正統記には、不徳な天皇は降ろしてしまうほうがよい、とか後鳥羽上皇を迎え撃った北条泰時を支持したり、右翼から攻撃を受ける可能性が高く、戦後は逆に、やはり神皇正統記が右傾学者の東大教授の平泉澄博士などに支持されたので、GHQから田畑を取り上げられるのでは、という恐れを抱いたようです。

親房やその子顕家、顕能の末裔である伊勢北畠は1576年織田信長に滅ぼされ、浪岡北畠も1578年に津軽為信に滅ぼされました。そして信長も為信も一族を根絶やしにせんと掃討作戦をおこない、北畠家の末裔は名字を変えて、安東や秋田家などに臣下として入り込むか、山岳地帯で農林業や狩猟などを営むか、信長に内通した北畠の庶流、木造氏はそのまま信長の家臣となりました。

一説によると、大日本史を水戸光圀公が編纂したとき、北畠関係の資料を焚書にした、ということも伝えられています。

いずれにしろ、歴史の表舞台からは、15世紀を待たずして消え、しかし南朝の問題は明治や戦後も含めて微妙な問題を数多く含んでいるので、その子孫を名乗るのは、百害とまで言わなくても五害あって一利なしであると思われます。

したがって、私の小さいころから、父の田舎では、先祖のことは誰一人無関心かつ、なんとなくタブー視をしておりました。誰かが「先祖のことは外の者は調べてもよいけれど、内(その地域)の者は調べられない」と言っておりました。

とにかく、今回、自分のルーツを調べられるだけ調べました。親房、顕家の末裔である確証はありません。資料からわかった状況証拠を公表します。

1、天栄村広報誌に顕家の末裔として親戚の家が紹介されました。

2、父の実家の丸に三柏の家紋が福島では村上源氏を祖とする、と家紋辞典に載っています。(都道府県別 姓氏大辞典 柏書房 2004年)

3、長沼の寺の過去帳では実家の北畠の名前は室町時代の大永2年(1523年)から見られます。

4、江戸時代も、墓には北畠という苗字が示されており、認められる古いもので、元禄16年の記載がああります。(そのほか、両脇の墓は、享保、文政など1700年から1800年代が中心)

5、父の実家や親戚の先祖は庄屋、本陣、脇本陣、組頭で、ともに牧之内村の役場を中心に隣接しており、村の運営を担う一員だったようです。

6、牧之内村は立石山と大里城の間1里(4km)の間にあります。
 ・立石山は1360年ごろ、護良親王の子である興良親王が立てこもっていたところです。
 ・大里城は北畠親房が建てた城で、おそらく結城親朝が保護していた顕家の娘がかくまわれていたところです。
 ・親朝は1347年に死んでいますが、その息子顕朝の「顕」は顕家の名前からとったものと推定できます。したがって顕朝も親房には離反しても、顕家に対しては親近感をもっていた可能性もあります。
 ・顕家の娘は安東家に嫁ぎ、何らかの理由でこの地に戻ってきたか、もしくはその子孫が戻ってきたか、が推定できる。安藤(この辺りではこちらの字を使っている)という苗字もこの地域に多い。
 ・天保期の小文書では北畑となっており、この「畑」は津軽の北畠が一時名乗っていた姓であり(姓氏家系大辞典 1963年角川書店)、 顕家の娘が嫁いだ安藤家は津軽に本拠を置いていました。

7、牧之内村は名馬の産地で、古くは八幡太郎義家の愛馬「薄墨号」、熊谷次郎直実の名馬「権太栗毛」は牧之内村の産地であった。つまり馬のブランド産地であったのです。馬の産地は、実は戦国時代までは大変重要で、有名な武田信玄の騎馬軍団がなぜ強かったか、というと甲斐が有数の馬の産地で、良質の馬と、馬の扱いに慣れた兵が多かったからといわれています。南朝再起の拠点としてはうってつけの場所だと思います。

8、父の実家の菩提寺であった正法寺というのは真言宗であった。そのお寺に詳しい家系図や過去帳があったようですが、明治期に焼失し、資料が喪失したそうです。親房は著作「真言内証義」で、真言宗を第1とした。また正法寺は大変古く、747年から757年の開山ではないかといわれています。
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9、興良親王に付き添っていた武将立石、木村、森の姓がこの付近に多い。また父の実家は長い間、左記の姓の人たちや、同姓の人たちと姻戚関係を父の代まで繰り返してきました。

10、この岩瀬郡の周辺は、最後まで須賀川の宇津峰城を中心に南朝の奥州拠点であり、南北朝以降、氏内分裂や多くの氏が北朝に転向したとはいえども、結城、伊達、二階堂、田村、南部など顕家の側近の子孫が多く、江戸以降は新田の末裔を自称する徳川家に近い松平家が統治しているので、北畠を名乗っても問題はなかったのではないでしょうか。

11、近隣の村にある寺の過去帳では、北畠家は、戦国時代の大永(1521年~1527年)から存在します。おそらく父の実家の裏の真言宗の寺が消失したときに、多くの過去帳は消失したのでしょうが、近隣の村へ嫁いだ娘や、養子に出した子供が死んだときの記録が残っているものと思われます。
%E4%BA%AB%E4%BF%9D%E9%81%8E%E5%8E%BB%E5%B8%B3.PNG(享保年間に卒した過去帳)

なによりも、北畠家が、江戸時代以降、農業や脇本陣などを営み、武士でなかったこと,牧ノ内自体、馬の名産地としての重要拠点でありながら、会津街道からかなり山奥であり、いざというときは山に逃げ込めることも幸いしたのでしょう。

牧之内村と立石山、大里城は東西に1里(4K)離れています。これらの事実をもとに、これ以降は推測なのですが、顕家の娘は、1340年代つまり生まれてから、安東氏に嫁ぐまでは、結城親朝の保護下、ここにいた可能があります。

しかし1360年代にまた安東氏の一族の一部の人たちとここに戻ってきたのではないでしょうか。というのは1360年代に興良親王が、吉野を逃れて立石山にこもったのは、いとこである顕家の娘を頼ってのこととも考えられます。それゆえに、この一帯に北畠、安藤、立石、木村、森という苗字が多いのではないでしょうか。1360年以降消息を絶った興良親王も、この地で亡くなったのかもしれません。(九州へ落ちた話もあります。)

今回のゴールデンウイークでの調査でわかったことはだいたいこんなところです。写真や資料は膨大な量を集めましたので、今後、この報告書に追加記入してまいります。

そもそも自分のやろうとしていることが親房、顕家のしようとしたことと重なることがわかったのは、会社を興した後のことです。たとえ自分と親房、顕家と血がつながっていなかったとしても、何ら今の自分の立場や考えが変わるわけではありません。

それよりも、今回のルーツ探しでもっとも興味をもったのは農村における村落共同体のメカニズムの素晴らしさです。「天栄村史」は全4巻、4500ページを越す膨大な資料です。この資料を徹底的に読んでみて、特に江戸時代から明治にかけて、村落共同体として、村人たちが実に生き生きと、自主的に暮らしているのです。

次回のブログでそれをご紹介します。

日本を創ったのは武士道でなく、農村共同体かも

天栄村の村史を調べていくうちに、村の自治、農民の工夫、田畑以外の新規事業の工夫、古文書が豊富に残っているなど、農村の自治レベルの高さに驚きました。

考えてみれば、農家、つまり当時の百姓は土地を持ち、自力でビジネスをし、税を収め、再投資する。まさに理想的な中小企業共同体です。

彼らは季節を利用し、村という組織を利用し、村長の知恵を利用し、けっこう豊かな暮らしをしていたようです。中級武士が年収100万円のところ、下級農民でも年収300万円あった、という説もあります。

武士は、藩主のために忠誠することを第一とし、農民は生産を第一とする。目的が稼ぎになれば、当然農民のほうが年収は上がるものです。

また年貢も五公五民と言われていますが、実際は、農家はターゲットとなる米は五公五民でも税の対象にならないものを新規事業で開拓していたから、幕末ごろには、実際は1割の税金で済んだ、という説もあります。

農家はなにより自然を大事にしました。昼と夜、春夏秋冬、川と山、陰陽に木、火、土、金、水という五行を駆使し、陰陽五行が生活や仕事の中にあふれていました。

また農民は、税を払っていれば、ほとんど武士に口出しされませんが、税を払わないと、大変な罰を受けます。また五人組という制度があり、一人でも罰を受けるとあとの四人も同罪ということがあり、これはまさに五人が命がけで助け合って、知恵を出し合う社会でした。

この5人組の手法は現代でも活用されているところがあります。バングラディッシュです。ここのグラミン銀行は、貧しい農民を対象に融資をする銀行として設立しました。その手法はお金を借りる5人に連帯保証をさせて貸し出すのです。一人でもお金を返せなくなると、あとの4人に債務が発生するので、みな必至に知恵を出し合って、協力してお金を返済しようとします。返済率は98.9%で通常の銀行と遜色ありません。この銀行は2006年、ノーベル平和賞をとりました。

話をもとに戻しますが、江戸時代は8割から9割が農民で、その多く(8割くらいか)は大小はあるにしても自作農なのです。自分の責任が明確で、他人と助け合わざるをえず、実に見事なビジネスのしくみなのです。

しかも農村における教育も熱心で、まさに実学を地でいっていたのが村落共同体だったのです。

そういえば、明治維新で活躍した伊藤博文や西郷隆盛も郷士(半農半士)出身、山形有朋は中間の子、勝海舟も三代前の米山検校は貧農の生まれで、高利貸しまで出世しました。
坂本竜馬も三菱の祖となる岩崎弥太郎も郷士です。なにより近代経済に最も影響のあった渋沢栄一は大農家の生まれです。

明治維新の後、武士道が日本の資本主義を導いた、と言われていますが、本当でしょうか?
儒学は十分農村でも普及しておりました。文盲率も農村ですでに5割を切っていました。
ベンチャースピリットは農村に存在していたのではないでしょうか。

藩も解体され、一割しかいない、しかも商売をどちらかというと侮蔑していた武士たちが、近代日本を作っていった、というのは表面的かもしれません。近代日本を創った西郷も伊藤も山形も渋沢も岩崎も純粋な武士階級出身ではありません。

西郷隆盛が純粋な武士たちを率いて西南戦争を起こし、農民を中心に組織した政府軍に敗れたの象徴的な話です。


農民のベンチャースピリットのレベルの高さは二宮尊徳のことばで明言されます。
二宮尊徳いわく、
私の教えは書籍を尊ばず、天地を経文としている。
 私の歌に
   音もなく香もなく常に天地は 書かざる経をくりかえしつつ
これは、学問の真髄なのではないでしょうか。

世の中、花の咲き散る、人の栄枯盛衰、生き死になど万物循環する。
このような自然の理を逆らわなければ、自然と豊になる
。」と言っています。

しかし現代社会では、自然の理に反することで平然と富を得ていることも多く、なかなか尊徳のようにはいきません。それは明治に入り、資本主義が発達し、多くの人や企業が、大企業や大組織の部品として存在することにより、そして目先の利益を追求することにより、自然の理からかい離するようになったのです。

そういう意味では、江戸時代における藩と農民の関係は、大企業と地方の中小企業の関係に近いのかもしれません。違いは藩は政治をおこない、農民を保護する義務がありますが、大企業は利益追求を目的とし、中小企業を保護する義務はありません。

武士の役割は、闘って土地を奪うことにあり、農民は人と助け合って土地から穀物や果実を生むことが役割です。今の大企業は市場、金融市場のシェア争いを目的とし、中小企業は下請け的な仕事を中国に奪われながらも、なかなか地域におけるビジネスの助け合いができていません。

しかし、より多くの人が部品化する、大企業中心の社会は限界にきてしまいました。やはり自然の理が働き、反作用にぶれていくでしょう。それで最近資本論ブームなのですが、私が思うに、資本主義の反対は社会主義ではありません。東西冷戦は資本家と労働者のイデオロギーの対立、つまり利益の対立であり、構造の対立ではありません。資本主義の反対は、農本主義だと思います。人が、社会や組織の部品の一部か、自然の一部かの対立です。資本主義下で農本主義を取り戻すもの、この手段のひとつに当社のつくった人材育成グループウエア「則天」があります。

農本主義といっても農業に回帰するのではありません。自分を畑とし、それを耕し、自分の体調、運気、季節、年齢、景気など様々な自然要因を考え、右肩上がりのビジネスを考えるのではなく、人や社会の循環や波にいかにうまく合わせるか。つまり調子の良い時は頑張り、調子の悪い時はスキルを磨く。農本主義というより、人本主義というのかもしれません。そういうビジネスへ、世の中は回帰しはじめたのではないでしょうか。
Capitalism (資本主義)から Agriculturism(農本主義) →からagriをとり culturism。
私はこれを、あえて人本主義といいたいです。

「則天」は人の生産性を算出します。組織にいながら個人が自営的なビジネスな可能となり、自分の能力を磨きながら、生産性を上げて、暮らしをよくすることができます。まさに人本主義を実現させるツールなのです。

2008年05月25日

五月の短歌

春風にけづりもみやらぬ神なびの みむろの岸の青柳のいと

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五月まつ山ほととぎすうちはぶき 今もなかなん去年の古声

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五月雨物思いすればほととぎす 夜深きなきていづちゆくらむ 紀貫之

わが宿の池の藤なみ咲きにけり 山ほとどきすいつかきかなむ

五月待つ花橘の香をかげば 昔の人の袖の香ぞする

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うたたねの夢にはきつるほととぎす 思い合わせる一声もがな

昔みし平野にたてるあや杉の すぎにけりとてわれなわすれそ
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8年へし波の枕のよるの夢 さめれば花のうてななりけり

我が上に月日は照らせ神路山 あおぐこころにわたくしはなし

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ことわれよ神々ならばゆうだすき かけてちがひし末の言の端

八百日ゆく浜のい真砂の数知らず 悟れる人もありけるものを

いづかたの道ある御代もちかければ またも越えなむ白河の関

2008年10月31日

時代を読む

最近大河ドラマの篤姫がブームになっています。篤姫が育った家の庭からとった酵母でつくった篤姫焼酎も飲みました。なかなかいける味でした。ところで勝海舟が篤姫をほめている、とウィキペディアに書いてあったので、さっそく家にあった海舟の著作、開国起源や氷川清話を読んでいたら、氷川清話のなかにびっくりするようなことが書いてありました。

要約すると、
話は日清戦争での戦勝における賠償問題について言及したことなのですが、戦争というものはやたらしてはならない。江戸幕府だって必要のない長州との戦で滅びたのだ。日本は朝鮮半島の独立保護のために清との戦争をしたのだから、領土はびた一文取ってはいけない。賠償金をたっぷりとってそれを中国の鉄道敷設資金にあてなさい。あとで鉄道を敷けば欧米列強が黙っていない。しかもこの賠償金で海外のものを買いまくれば、軽薄な日本国民はつけ上がり、輸入超過になり、日本の経済はめちゃくちゃになる。

つまり勝海舟は明治28年ごろにすでに太平洋戦争を予言していたのです。時代の流れはまさにこの通りになりました。日清戦争に勝利した日本人は、日露戦争へと突入し、そして大恐慌に突入し、それが長引くと戦争すれば打開できる、という日本人の思い上がりが満州事変を引き起こし、日華事変そして太平洋戦争の悲劇へと突入したのです。

勝海舟は預言者なのでしょうか?違うと思います。もちろん賢い人だったと思いますが、ただ野心のない常識人なだけでしょう。世の中は、いつも大部分の人は、野心をもって目先の利益に流れてしまうのです。だから世の中が正しい方向にはいかないのです。太平洋戦争だって軍部の横暴だけでは世の中動きません。ある程度は国民の支持があったからその動きをだれも止められなかったのでしょう。リーダーは大衆がどのように判断すればよいか、事前に把握していなければならないのだと思います。海舟が言うように陸奥宗光や伊藤博文が行動すれば、太平洋戦争は免れたはずです。そう思うと返す返すも残念です。

しかし間違った方向へ時代が流れれば、ジョージソロスが「回帰性」というところの揺り戻しもあるのです。この揺り戻しのありかたで国が滅んだり、栄えたりするのは歴史上の事実です。
2001年の9.11以降、金融市場の肥大化かおこり、今日の金融危機は、その揺り戻しが起きているとソロスは言います。つまり「揺り戻し」とは金融経済の反対のところの「実体経済」です。つまり企業は実ビジネスのイノベーションへと向かうはずです。またそこに向かうべきです。

いまこそ自分のイノベーション、組織のイノベーション、経営のイノベーションそして教育のイノベーションが必要な時期なのだと思います。

そして先の見えない今こそ、「常識」が足元を照らす道しるべなのだと思います。

2008年12月14日

篤姫

今日、NHKの大河ドラマ「篤姫」の最終回です。今までにない高視聴率で、大変な人気だったようです。私も毎週楽しみに見ていました。なぜこんなに人気なのか、が話題になっています。戦争シーンが少なく、女性にスポットをあてているのがいいのではないでしょうか。そして篤姫役の宮崎あおいさんがとてもいい味を出しています。NHKの朝の連続ドラマ「純情きらり」のときも大変光っていました。

私はもちろんそういう条件も含めて、今日の世情、もしくは視聴者の心理、もっと言うと今の日本が落日の徳川家と重なるからではないでしょうか。どんなに一生懸命頑張っても滅びゆく大きな流れのなかで、篤姫が健気に明るく生き抜こうとする姿がとてもすがすがしく感動的に感じるのでしょう。そういえば「純情きらり」も、昭和初期から太平洋戦争へ突入する、日本が滅亡へと向かう時代を宮崎あおいさんは好演していました。もしかして、彼女の初々しい演技は、滅亡に向かう時代のなかで、その次に生まれる時代の希望の小さな光みたいな存在に感じられるのかもしれません。

今、どういう日本が滅びようとしているのか。それは篤姫の時代、黒船来航から始まった、欧米を目標とする社会なのかもしれません。明治の時代、欧米に追いつくために富国強兵、殖産興業をスローガン、日清、日露戦争を経て、ようやく追いついてきたな、と感じたら、太平洋戦争の敗戦で、ゼロに戻り、戦後、強兵を捨て、殖産興業で、再度欧米にチャレンジして世界第2位の経済大国まで来たのです。

そして、バブルで米国まで追い越しそうになったとき、バブル崩壊が起き、10年立ち直れずにいました。その後米、国主導のグローバリゼーションの中で、BRICSの台頭に活路を見出し、それもつかの間、今世界同時不況のもと、その活路も失い、本当の行き詰まりに直面し始めました。

もともと日本は、西欧列強の勢いに押され、江戸幕府を倒し、西欧のシステムを猿まねのように取り入れたにすぎません。それから140年間、欧米への憧れから、その猿まねのシステムを表面的に取り入れながらも日本的経営で成功してきたのです。ところがこの10年、企業はこの日本的経営もとっぱらってしまい、非雇用正規社員が先進国でも例を見ない4割という社会になってしまったのです。

山本七平は「指導者の条件」の中で、日本人が作り出した組織は、「一揆」だと言います。一揆というと百姓一揆をイメージしますが、もともと利益に基づいた集団規約を指すのだそうです。そして、その建前は全員平等なのです。足利時代から戦国にかけて地方小領主が、安全保障のために同盟しはじめたもので、この時代、武士も百姓も町人もみんななにかしらの一揆に入っていたそうです。そしてこの一揆の組織が周囲を取りこみ大きくなったのが戦国大名だそうです。織田信長も毛利元就も皆この成立過程を経てきているわけです。

徳川家康の大変優れたところは、その日本的組織を十分把握した上で、江戸幕府のシステムを作っているところです。士農工商それぞれの階級が独立していて、それぞれ皆哲学と誇りを持っているのです。そして組織体系はその階級のなかでは、皆が平等な一揆を形成していったのです。

明治に入り、西欧のシステムに合わせようとしたのですが、もともと日本人は外部のシステムを日本的に改良して入れるものは入れるし、受け入れられないものは定着しません。ボトムアップ型の組織がまさに西欧型ツリーシステムのなかで、日本型一揆組織を実現した組織なのでしょう。

しかし、この10年のグローバル化で、日本企業は派遣社員を4割にまで増加させてしまいました。正社員も、年配者からどんどんリストラしました。これは500年以上続いた日本型一揆組織の排除に他なりません。その結果、日本の企業の生産性は先進国最下位まで転落したのです。

それでは、これからどのようになるのか。くしくも、先週篤姫が江戸城を去る前に言った言葉があります。「私たちが残すのは、徳川の城ではない。徳川の心を残すのです。」
徳川時代は9割近くが農民で、農民も一部の小作人以外は自営であり、そのリーダーは民意で選ばれ、農村は自治が中心に営まれていました。今の企業も、中小企業が9割であるのと同じようなものでしょう。篤姫が言うように「徳川の心」を思い出せば良いのです。
「徳川の心」とは、徳川幕府が作り上げた日本の一揆型組織の心なのだと思います。徳川幕府の崩壊とともに幕を開けた欧米追従の国家はもう限界です。

具体的にどうすればよいのか。ITを使うことです。企業も、社員も、SOHO、フリーターも、ニートも、失業者も、破産者も今、自分はどのような付加価値があるのか。どのような人たちや組織を結びつければお金が入ってくるのか。自分や会社や他の人たちとグループウエアで結び、一揆型組織を形成するのです。これこそ日本が古来より受け継がれていた農村共同体のシステムであり、それを引きつぐ一揆型組織なのです。

エコノミーパソコンは5万円を切り、ただで購入し、つきづき通信費を払えばよいものまで出てきました。またメディアファイブでは個人の利益を分配するグループウエア「則天」を開発しました。いつでもASP型もあるので、インターネットから簡単に導入することができます。もう環境も準備もできているのです。あとは皆さんの「やる気」です。

お断りしておきますが、私は鎖国主義者ではありません。日本は米国の属国という人もいますが、国際社会の中で生き抜くには、序列の中で生きるのは仕方のないことです。徳川家康だって織田信長に追従して妻子を殺させられた。それはどんなに戦国武将といえども誰も味わえない苦しみを味わったのだと思います。それでも、じっとこらえた。そして信長亡きあと、今度は格下と思っていた豊臣秀吉に横から天下を取られました。国替えまでさせられた。それでも慎重にこらえ、誇りを持ち続け、280年にわたる、日本人の特徴をよく活かした、ある意味では理想的な国家を建設することができたのだと思います。日本は形式上は独立国の形態を保っているのです。戦前のように、欧米のグローバリゼーションと距離を置くことは、そのまま国際社会の孤立化に進みます。

われわれ日本人にアメリカンドリーム的な野望のある人は少ないと思います。ほとんどの人たちがプールつきの家やジェット機を持つことをうらやましいとは思わないでしょう。それより、小さな家庭菜園で野菜を作ったり、温泉に行ったり、家族の団欒や精神的満足を求める人のほうが多いと思います。だから身の回りの生活に満足できれば、国際社会のなかでの搾取にそれほど目くじらを立てる必要はないと思います。ただ、本当に貧しい人々はなくさなければなりません。失業した人やニート、フリーターの人々の能力を生かし、公平平等に分配するシステムが必要なのです。だから今こそ皆がITを使いこなす時です。そしてグループウエアで知恵を出し合い、利益を生むしくみを真面目に必死に作り出すことです。失業者も、フリーターも、ニートも、派遣社員も、経営者も、社員も、SOHOもみんなで力を合わせて日本人の最も得意とする、一揆的組織をもう一度復活させましょう。われわれ庶民はわれわれにできる一つ一つの仕事を利益の上がるものに、生計を立てていくために、追いかけていきましょう。

歴史は繰り返すと言います。もちろん形を変えて。今、西欧合理主義に無理やり追従して140年、その自分たちにあわない窮屈な鎧を脱ぎ棄てる時なのかもしれません。篤姫の言う「徳川の心」をもう一度思い出すときなのです。

今日、宮崎あおいさんが、滅びゆく徳川の時代のなかで、どう次の時代を示唆する「きらり」を演技するのか、楽しみです。

2013年02月11日

リチャード3世

先日、イギリスのレスターというところで、発掘された遺骨が、リチャード3世のものであることが判明されたニュースが駆け巡りました。

実は僕は若いころからシェイクスピアが好きで、特にリチャード3世が好きで、このレスターという町に行ったことがあるのです。

それは97年の9月英仏両国に行ったですが、ちょうどダイアナ妃が事故死して2週間後ぐらいで、パリの事故現場ではまだ生々しく事故の痕跡はのこり、イギリスではバッキンガム宮殿の門にはお悔やみの花束がうずたかく積まれていました。

イギリスとフランスとは、隣接していることもありますが、ダイアナ妃の事件は、両国の因縁の強さを感じます。リチャード3世のころは、ちょうど英仏の100年戦争をヘンリー5世が終わらせ、こんどは赤薔薇のランカスター朝と白薔薇のヨーク朝の内戦が勃発し、リチャード3世を倒した、赤白合体したテューダー朝を興したヘンリー7世により終結しました。

レスター市はロンドンからレンタカーを借りて高速道路を3時間くらい?いったところでした。
リチャード3世が戦死したレスター市郊外のボズワース古戦場は500年たった今日も記念館以外はなにもない草原です。当時のままの現場はボズワースの戦いを静かに夢想することができました。

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ボズワース古戦場 まだ喫煙してたころです・・・

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リチャード3世戦死の地 学校の課外授業?


シェイクスピアは、これ以上悪いやつはいない、というくらい、リチャード3世を悪く描いています。
両兄殺し、そしていたいけな少年2人の甥を殺し、殺した敵の婚約者を妻にするなど権謀術数を駆使して王へととんとん拍子に登りつめるその小気味よさが読者を魅了するのでしょう。

しかしこれは作者のシェイクスピアがテューダー朝のエリザベス女王統治下のイングランドで活躍しており、リチャード3世はヨーク朝で敵役であるため、エリザベス女王によいしょしてリチャード3世を悪く書いた、という説が強くありました。しかしなぜかリチャード3世の人気も高く、2002年にBBCが最も偉大な英国人100人のなかで82番目に選ばれたのです。

ロンドン塔の石の壁から子供の遺骨が出てきたり、今度の発掘された遺骨の背骨が極度に湾曲していたことから、どんどんシェイクスピアのリチャード3世の像に近くなってきます。また骸骨から当時の顔立ちまで披露されました。

歴史上の人物が、その時代の政権によって評価を歪曲されることはよくあります。シェイクスピアのリチャード3世がいかなる悪でも、この戯曲がシェイクスピアの最高傑作のひとつであるから、偉大な英国人に選ばれたのかもしれません。

いずれにしても、他人が作るにしろ、自分が作るにしろ、エンディングノートの出来は大切なのですね。

小林秀雄「本居宣長」

これは実に難解な本です。もう一人の大評論家の福田恒存でも2週間かけて読破した、といいます。僕は高校時代から小林秀雄全集を読み始め、いまでは様々な種類の全集を4種類持っています。何の自慢にもなりませんが・・。その中で一番難解だと思いました。

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本居宣長

だからこの本をすぐ読むことをお勧めするわけではありません。どうしても読みたい方は、源氏物語と万葉集と古事記と本居宣長の現代翻訳版、小林秀雄が本居宣長について語っている対談、講演CDをを読破、ないしお聞きしてから読まれることをお勧めします。

お伝えしたかったのは、この「本居宣長」の冒頭に宣長の遺書について紹介されていることです。宣長が葬儀の仕方、墓の建て方を事細かに記述しているのです。いまはやりのエンディングノートです。

この評論はまさにエンディングノートで始まり、エンディングノートで終わります。これは小林秀雄のいわゆるエンディングノートでもあるのです。小林秀雄の思想の帰結が本居宣長であり、かれこそが日本の未来の希望の光と考えたのだと思います。

どういうことか、端的にいうと
「日本人の葬式がどんどんチープなものになることへの危機感。」すなわち日本人が死を直視しなくなることこそ、日本人が、日本の文化が滅びにつながるということです。

人に転生が本当にあるかどうかはわかりません。しかし、生物はすべて生物誕生から脈々と進化して遺伝子情報は受け継がれていきます。

先祖の「想い」の記憶も受け継がれていく、という考えは不自然ではありません。その「想い」こそが宣長のいう「もののあわれ」ではないでしょうか?

だから宣長は、古事記から始まる日本の歴史を学び、かたや古人の残している数多くの短歌を学ぶことで、先祖の想いすなわち「もののあわれ」を学ぶことにつながり、現代をよりよく生かすための最上の学問と説いているのです。

そして20世紀最高の思想家(私はそう思っています)小林秀雄は本居宣長の言葉を借りて、自分のエンディングノートにしたのです。

小林秀雄はプラトンがギリシャ神話を実際おきた事実と受け止めていることを例に出し、宣長が古事記を事実として受け止めることこそ重要だ、と主張します。

また文章には残していませんが、講演では、「霊魂は存在するかって?存在するに決まってるじゃないか!」と強い口調で話しています。

戦前は、あまりに科学的な視点を無視したことが戦争につながりました。しかし現代の日本ではあまりに死とか、死後とか、神や宗教という世界を蔑ろにしているのではないでしょうか?

葬儀ビジネスでトラブルが多いのは、いざ身内の死に直面するまで、ほとんどの人がその準備を避けることに帰結するのだと思います。本来は、宣長のように自分の死をきちんと考え、その準備をするべきでしょう。

真逆な方法で、強烈なエンディングノートを残した、対照的な作家がいます。それはやはり20世紀最高の作家、三島由紀夫です。1970年11月25日、市ヶ谷駐屯地で自衛隊にクーデターを呼びかけ、そのまま切腹しました。

三島由紀夫の切腹は戦前の2.26事件につながり、明治維新へとつながります。遺作となった豊饒の海四部作は明治維新の香りを残しながら大正から昭和、そして1970年代へとつながります。

三島事件は、僕はちょうど小学4年生でしたが、たぶんスポーツ新聞だったと思いますが、首と胴体が分断された三島の暗い写真をいまでも覚えています。三島にとっても2.26事件は小学校4.5年くらいの時だと思います。

三島由紀夫はより大衆にわかりやすい方法でエンディングノートを残し、小林秀雄は大衆にはわかりにくい方法でエンディングノートを残したのです。

小林秀雄と三島由紀夫のスタンスの違いは、小林秀雄の本居宣長補記Ⅱに出てきます。
小林は宣長の「うひ山ぶみ」を引用し、「学者はただ、道を尋ねて明らめしるをこそ、つとめとすべけれ、私に道をおこなうべきものにはあらず」と言わしめました。

小林秀雄は言います。苦労して、時間かけて学ばなければ身にならないんだ、と。
三島由紀夫はより直接的に行動し、わかりやすく大衆に訴えたために、誤解と謎を社会に残しました。

いずれにしろ、だれでも「転生」(霊的な意味に限らず)を信じてエンディングノートを残すべきではないでしょうか。

そうそういまから10数年前、あまり詳しい話はできませんが、池袋のキャバクラで、おばあちゃんが、小林秀雄とつきあってた、というキャバ嬢がいました。おばあちゃんは時々その女の子に小林秀雄のことを話したそうですが、それは、それは、色男だったそうです。

あなたもエンディングノートを残さないと、50年後にただの色男、としてしかひ孫さんに伝わらないかもしれませんよ・・・。

本居宣長2

私がなぜ本居宣長に関心をもったか。それは勿論、自分が少年のころから最も影響を受けた小林秀雄の最後の大作、ある意味エンディングノート、ということもあります。でも、もっと強い動機があるのです。

それはおととしの3.11の大地震です。あのとき、当社のビジネスは、単に、平和な豊かな社会でしか、成り立たないのでは、という感情に駆られました。この大災害の時に、資格や学習ビジネスはどのように役に立つのか。それがとても頼りなく感じたのです。もっと人生の根源的にかかわるビジネスが必要なのではないか?

エンディングビジネスを立ち上げる決心はこの時に芽生えました。

あらゆるビジネスが、エンディングに携わるノウハウを持つことによって、より深く、崇高な仕事へと進化するのでは、と感じたのです。東北で津波の跡を見たとき、人の仕事は、単に自分の日々の仕事だけではなく、大地震が来たとき、大災害に見舞われたとき、大恐慌が勃発したとき、ハイパーインフレが起きたとき、そして戦争に日本が巻き込まれたとき、人の一生でこういった災害や事件は必ず一度は経験をするもです。

それを乗り越えるためのスキルを、みなさんが身に着けるのも、当社の役目なのではないのか。みなさん一人ひとりに守るべき家族があり、あらゆる環境に対処できる仕組みを当社は構築しなければいけないのではないか、と。

私はいろいろ調べました。以前のブログでも触れましたが、大災害の時、最もリーダーシップを発揮した指導者は、そう、暴れん坊将軍で知られている、徳川吉宗です。元禄の大地震、宝永の東南海地震、富士山の大噴火と、3.11級の大災害が5年以内にたてつづけに起こり、しかも享保の大飢饉も起こりました。

どこかの政府と違い、この大災害で徳川家は蓄財をすべて放出しました。その財政危機のなか、あらゆる復興をおこなったのが、吉宗の享保の改革です。学校の学習もそういうふうに教えてくれれば、歴史も面白かったのに・・・・。

吉宗の取った改革は、幕府内部の派閥を潰し、まず組織をシステマティックにし、国民全体に学問を奨励し、従来の産業である、米の税を重くして、新しい産業には無税としました。その結果、2耗作が活発になり、国民の9割である農民は、春夏は米、秋冬は麦や大豆などを作るようになりました。

まさに教育立国が、この大災害からの復興を果たしたのでした。ただし、復興まで70年かかったそうです。

ただなによりこの吉宗の時代以降、大学者が次々と誕生したのです。吉宗のご意見番である荻生徂徠を始め、徂徠に強く影響された本居宣長、賀茂真淵、石田梅岩、宣長のライバルである上田秋成、などです。

実は日本は大地震の後に時代が変わったり、イノベーションが起こったりする傾向があるようです。といってもこれだけ多くの大地震を頻繁に経験していると、そう言い切れるものではないかもしれません。しかし生物の進化は困難に直面したときに起こる、と言われています。前向きに考えれば、地震が日本人を鍛えている、と考えられます。

だからこそ、荻生徂徠や本居宣長の思想も今の日本人に必要なのかもしれません。

ちなみに本居宣長の生誕の地、松坂から1時間山奥へ行くと、美杉村という閑村があり、そこには伊勢北畠を祭る北畠神社というのがあります。もともとはそこに霧山御所という山城があり、伊勢北畠氏は1570年織田信長に滅ぼされ、それ以降荒れ果てていたのを200年たって本居宣長が見つけ出し、祠をたてた、という説があります。

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本居宣長が発見したという北畠神社の庭園

2013年02月18日

だからお客様は買わなきゃ損なのですよ!

なぜ情報化社会をナレッジ社会というのか。それはIT活用で頭だけでお金を稼げるからです。

必要なのはお金を稼ぐ知恵。そしてスキルは知識。勿論営業も開発も編集も企画も経理も総務も、弁護士や会計士も、技術職もお金を稼ぐ知恵がなければ貧乏です。

しかしお金を稼ぐノウハウ本は巷に溢れていますが、それをよんで大成功した、というリアルな人は見当たりません。

お金を稼ぐ知恵とは、いかに周囲の人とシナジー効果を興して、購入ターゲットとなる人に購入してもらうか。

もちろん購入者に多大なメリットがなければ、購入に移りません。買わなければ損、と思わなければ誰も買いません。買わなければ損、ということは、それを買うことによって、一番は人生が大きく変わるかもしれない、と思わせること。もう一つは今のやりきれない気持ちを逃避できるなにかを欲しい、ということ。

SNSゲームのブレイクはまさに「逃避」ビジネスです。「萌え」ビジネスも、競争社会からの「逃避」とみていいでしょう。こういった「逃避」現象は、歴史的にひも解くと、幕末の「ええじゃないか」がそれに該当するのではないでしょうか。

安政の大地震は来て、ペルーの黒船が来て、安政の大獄がおこり、庶民の不安が最高潮に高まって、慶応に移り、民衆が大団で「ええじゃないか」と騒ぎながら踊り狂ったそうです。

江戸時代はGDPも低く、人も少なく、職業選択も転職市場も少なかった時代です。お上の決めることを、半分あきらめて、我を忘れて踊るよりほかはなかったでしょう。

しかし現代はだれもがビジネスに成功するチャンスはあります。最も大きな、だれでもが入れる市場は「大衆」への市場です。

昔は王侯貴族や殿様があらゆる権限を持っていましたが、今一番お金も力もあるのは「大衆」なのです。ただ大衆に意思表示させるのが至難の業なのです。

まさにSNSゲームは最近大衆が見せた「意思表示」です。

私は20年、もっと前向きな大衆の「意思表示」をいただきたく四苦八苦してきました。しかし、なかなか意思表示してくれません。でも最近ようやくそういう時代が訪れてきたような気がします。

たとえば、仕事に目に見えた成果が出ない場合、大衆が逃避行動をとることを止めることはできません。しかしそれをうまく利用してモチベーションをひきだすことはできるのです。SNSとSNSゲームとグループウエアやプロジェクト管理の仕組みを合体させるのです。当社はすでに15年前に設計し、特許も申請しましたが、今年になって、やっと完成し、公開を始めました。

それが則天+ネクレボ+天下取りゲームです。最近はやりの経営にゲーミフィケーションを取り込むことです。今は、営業、製造、総務と、部署ごとに分担する経営の時代ではありません。それぞれのスキルをもった立場から、いかにお客様に自社の商品やサービスを購入してもらうか。それをゲーム感覚で行うことで、あひるの子である社員が白鳥に変身します!

最も早く導入した企業が成功をつかみます。あなたの企業でも導入しませんか?またはお取引先の企業の導入をお勧めしてはいかがでしょう?アフリエイトの対象になります。ビジネスチャンスです。

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人材育成型グループウエア則天   学習SNSネクレボ    SNSゲーム国盗り天下人

2014年06月09日

2014年6月10日の意味するもの

これを書いている6月9日はなにを隠そう私の誕生日です。誕生日というのは宿用占星術でも、命宿といい、決してめでたい日ではなく、生まれたままの姿であるという意味でも、パワーの弱い日です。

そしてもちろん先祖との関係も深く考えなければならない日でもあると思います。宿曜占星術でいうと私は斗宿です。それを命をうけた宿、すなわち命宿といいます。そして前世の宿、すなわち業という宿は昴宿です。

明日、6月10日は中世の旧暦に直すと、5月22日、北畠顕家の命日です。顕家の命宿は昴宿です。そしてこの2014年というのは、顕家の父親 親房の没後660年です。北畠親房は1354年5月10日(新暦で6月1日)に没しました。

前にもふれましたが、皇紀と西暦の差は660年です。

思えば、皇紀に直せば1993年11月25日、顕家が鎮守府将軍にたち、親房が没したのが2014年の6月1日です。

それを西暦に直すと、偶然ですが、そのままメディアファイブの設立日から今日までの時間に重なります。

親房の心境を想像すると、建武の親政はすぐに瓦解し、顕家という最も期待していた息子を失い、東国の遠征に失敗し、後醍醐天皇というリーダーを失い、神皇正統記を書き、東国の関城を陥落させていしまい、吉野では藤氏一揆で仲間に裏切られ、一度は京都奪還に成功したものの、すぐに追い出され、吉野宮は焼かれ、後村上天皇に娘顕子を中宮として嫁がせるも、しかし誤解やトラブルで後村上天皇と離別し、恐らく失意のうちに賀名生61歳の生涯を終わらせました。


建武の親政から賀名生で終わるまで、まさに21年でした。


親房は正義(儒学)で治める国づくりを理想としていましたが、これは、250年あとの徳川幕府になるまで訪れることはありませんでした。それまでは、歴史上最悪の血で血をあらう世のなかが続いたのです。

神皇正統記はまさに、そういう世のなかを終わらせるために、書いた書物なのですが、生前は、まったくといっていいほど、親房の思惑のとおりには働きませんでした。


しかし日本の歴史を振り返れば、この南北朝から戦国時代までの250年の争いの日々は、日本の軍事力を格段と強くし、もし織田信長が殺されなければ、おそらく世界最強の軍隊として、イギリスのように世界中を征服していたかもしれません。

もっとも、そうなると、日本統一にじゃまな、南朝のシンボルでもある北畠氏族は確実に根絶やしにされていたでしょう。


親房の理想国家は、くりかえしブログでも触れていますが、江戸時代に実現します。しかし、江戸時代も元禄という繁栄期をピークに、宝永の大地震と富士山の大噴火で、大飢饉も発生し、幕府の財政はひっ迫しました。


しかし徳川吉宗という政治の天才が30年間も施政したおかげで、寺子屋が農村で急速に普及し、農業のイノベーションが進み、教育というツールでこの危機を30年かけて乗り越えたのです。

寺子屋をつくり、9割の農民に新しい産物を推奨し、それを無税にし、二毛作が発明され発展し、しかも為政者たる武士は極めて質素な暮らしをし、おそらく歴史上でもこれほど、万民にとっても理想的な時代はなかなかおきなかったでしょう。

もちろん、その間には飢饉や百姓一揆も起きましたが、言われているほど多いものではなかったのです。


北畠親房は、その時代の閉塞感に絶望し、タイムマシンとして書籍を残したのだと思います。そしてその玉手箱は江戸時代に開花し、本居宣長や山崎闇斎、藤田東湖など水戸学派をはじめ、熱心に支持され研究されたのでした。

その思想は幕末に至り、吉田松陰などが受け継ぎ、明治維新の思想的バックボーンになりました。しかしなぜか、その儒学的政府はっ西郷隆盛の失脚と西南戦争により消滅し、富国強兵へと実利的政府へと看板がかけ変わり、西洋列強と争い、中国、ロシアとの2度にわたる奇跡的戦勝が、国民を含め、軍国への志向を強め、世界中と戦争を繰り広げて、最後は米国にとどめを刺されました。

親房の残した書物は、勿論参考文献でしかありません。しかし水戸学派や吉田松陰を通して、多くの政治家に影響を与えたのは事実でしょう。


歴史は壮大です。人の人生はちっぽけです。我々凡人はその時代での豊かな暮らしを求めますが、みなそれがかなうわけではありません。

ほとんどの人が挫折の苦しみの中で死んでいくのです。


私にとって、もっとも崇敬している北畠親房顕家親子の思いに少し近づける日でもありました。

2016年08月19日

もし、大地震が来たら

9月1日は防災の日です。

最近、地震が多いですよね。

私は、まぐまぐで「週刊MEGA地震予測」というメルマガに入っています。
土木の測量学の専門家の東大村井名誉教授は、全国の国土地理院の電子基準点という観測器より地形の起伏を計測して、今、南関東が最高レベルで非常に危ないそうです。

週刊ポストではしばしばあげられましたが、ほとんどのマスコミの報道されていません。

メルマガでは、言っていませんが、M8ぐらいの断層があるそうです。


近々大きな地震は数十年の誤差で起こるでしょう。

まあ数十年では,我々は備え続けようはないのですが・・・・

数十年後ろに起こってくれることを祈るばかりです。

実際南関東で起こったとき、対策はまったくお手上げ、というのが現状のようです。


しかし、歴史的には日本は、何度も大地震を乗り越えてきました。

今年は熊本大震災
2011年には、東日本大震災。
福島原発事故が重なり、長期不況に加え、
2004年は中越地震。
1995年は阪神大震災。
バブル崩壊後でもあり、西日本を中心に大きく経済に影響する。
特に神戸港の貿易は八割上海に移行したと言われています。

東日本大震災の爪痕も、阪神大震災の爪痕も一か月のちに行きましたが、それは言語を絶する世界でした。異臭のすごさと、大勢の人が一瞬になくなって、何が起こったかわからないさまよえる魂の悲しみが夏でもひんやり伝わってきました。

1993年 釧路沖地震。
1948年 福井地震。
1946年 南海地震。
1945年 三河地震。
1933年 昭和三陸地震。
1923年には関東大震災。
首都東京の壊滅的被害は、震災手形が世界恐慌に重くのしかかり、中国や満州に活路を見つけることで、太平洋戦争へとつながりました。

1896年 明治三陸地震。
1891年 濃尾地震。(名古屋)
1847年善光寺地震。(長野)
1825年には安政の大地震。
安政の地震は幕府の財政難をさらに逼迫させ、倒幕の遠因になります。

1792年 普賢岳大噴火 島原大変肥後迷惑 (九州)
1771年 八重山地震 (沖縄、宮古島地域)
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(八重山地震で打ち上げられた岩)

この地震で全島津波で水をかぶった島にはハブがいない、という言い伝えがあります。
たとえば沖縄本島、石垣島にはハブはいるけど、宮古島にはいない、というように
(山のない宮古・八重山両列島で死者・行方不明者約12,000人・家屋流失2,000戸以上という惨事)

1751年 高田地震(新潟)
1708年宝永地震(東南海地震)
この地震のあと、没落の一途をたどった幕府の財政は、行き詰まり、1716年に、紀州藩から吉宗が将軍に就任し、幕府の財政を立て直します。それは、まず全国に寺子屋を普及させ、農民に文字を覚えさせ、二毛作を奨励し、米にのみ年貢をかけ、新しい開墾や野菜などの作物には年貢をかけず、その結果開墾を飛躍的に広げたのです。その結果、主産業の農業は格段と生産性が上がりました。

1703年元禄地震
今まで潤沢にあった徳川幕府の財政はこの地震のあと、没落の一途をたどります。

1677年 延宝房総沖地震
1666年越後高田地震
1662年 寛文近江若狭地震
1611年 慶長三陸大地震
1611年 会津地震
1605年 慶長大地震
徳川は、地震の復興を各藩に命じ、関ヶ原以降、豊臣家と外様には大きな負担を強いたようです。その結果、大阪の陣で豊臣が滅びた後は、力の落ちた外様大名を次々と改易していきました。まさに徳川は地震も利用して天下統一を図ったと言えるかもしれません。

1596年慶長伊予分後伏見地震
1586年 天正地震
天正地震は豊臣秀吉が、家康への戦意を喪失し、和解に導いたとも言われています。

1498年明応地震
明応地震は南海大地震で、足利義政時代の応仁の乱で疲弊し、財政もいよいよ厳しい中で、この大地震が起き、これ以降、室町幕府は 中央政府としては完全機能しなくなり、戦国時代へと突入するのです。

1361年正平地震
1360年 紀伊摂津地震
この大地震は南朝方の紀伊半島を中心に起きた地震ではあるが、いよいよ混迷を深め、しかし足利義満が1392年、南北朝統一につなげる遠因になったのではないでしょうか。

1293年 鎌倉大地震
死者2万人にものぼる当時の被害は壊滅的だったようです。この地震のどさくさに紛れて、北条貞時は、時の権力者平頼綱一族を滅ぼしました。ただ1274年、81年と2度に渡る元寇での戦費の支出や、地震での損失は、鎌倉幕府倒壊の遠因になったようです。

明治維新もそうですが、外敵による脅威が増すと、中央集権が望まれ、平和や繁栄が続くと、分権化が望まれます。後醍醐天皇の悲劇は、元が衰退し、建武新政のときにはドコンテルムが皇帝になり、(1333年)あとは有名な韓国ドラマ「奇皇后」でもあるように、愚皇帝の下で、元は衰退の一途をたどります。
ちょっと余談ですが。

1099年2月16日(2月22日)(承徳3年1月24日) 康和地震(承徳地震、南海地震) - M 8〜8.5、興福寺、天王寺に被害。死者は不明。地殻変動により土佐で田畑海没。津波被害は不明。(ウイキペディア引用)

1096年12月11日(12月17日)(嘉保3年11月24日) 永長地震(嘉保地震、東海・東南海地震) - M 8〜8.5、死者1万人以上と推定。東大寺の鐘が落下、伊勢・駿河で津波による大きな被害など。(ウイキペディア引用)

1026年6月10日(6月16日)(万寿3年5月23日) 万寿地震 - 石見国(島根県益田市)の日本海沖で巨大な地震津波が発生し、沿岸の各村落に襲来して未曾有の被害をもたらしたとの口碑がある。M 7.5〜7.8、死者1,000人以上と推定。(ウイキペディア引用)

887年8月22日(8月26日)(仁和3年7月30日) 仁和地震(南海トラフ連動型地震説あり) - M 8〜8.5、五畿七道諸国大震、京都・摂津を中心に死者多数。津波あり(『日本三代実録』)。南海地震の記録だが地質調査によればほぼ同時期に東南海・東海地震も発生。津波堆積物からM 9クラス。(ウイキペディア引用)

869年
7月9日(7月13日)(貞観11年5月26日夜) 貞観地震 - M 8.3〜8.6(Mw >8.7)、陸奥国地大震動、地震に伴う津波(貞観津波)の被害が甚大で死者約1,000人(『日本三代実録』)。多賀城損壊。津波堆積物調査から震源域が岩手県沖〜福島県沖、または茨城県沖の連動型超巨大地震の可能性も指摘される[注 6]。東北地方太平洋側で繰り返し発生していると推定されるM 9クラスの地震の候補とされる。(ウイキペディア引用)

869年の東北地震である貞観地震、それから16年後の南海トラフ地震は朝廷の財政に深刻な影響を及ぼしたことは明らかです。当時、徐々に氾濫も多くなり、935年醍醐天皇の時下、平将門の乱、936年藤原純友の乱が起きましたが、歴史上最も賢帝のひとりといわれている醍醐天皇、賢臣といわれている藤原基経、菅原道真のもとで、うまく政治をリードしました。しかしその後、安倍貞任の乱などが起き、寺どうしの争いや、強訴などが頻発し、白河天皇兄弟である後白河天皇と崇徳上皇が争いだし、保元平治の乱を経て、平清盛が実権をにぎりなど、武士の時代になりました。

以上
見てきたように、大地震は大きくその時代の態勢に影響します。言えることは、優秀なトップの時は、その地震を利用します。例えば貞観時代の藤原基経、室町時代の足利義満、江戸時代の徳川家康、秀忠、家光、吉宗。

逆にリーダー不在、もしくは能力が低い場合の時は、治安、経済が悪化し、体制が変わる要因となります。

足利義政と日野富子の時代、豊臣秀吉が死亡する前年、秀吉なき豊臣の時勢、安政の時代、そして関東大震災後の日本。

最近では社会党政権の時の阪神淡路大震災。東日本大震災の時の民主党政権。

しっかりとしたビジョンと準備があれば、たとえ天変地異の大地震でも、ピンチを良い方向に変えられるのです。

地震は必ず忘れた頃にやってきます。

とにかく備えあれば、憂いなしです。

2016年10月02日

三島由紀夫「ライ王のテラス」と天空の城ラピュタとアンコールワット

三島由紀夫「ライ王のテラス」という戯曲をご存知ですか?最近宮本亜門の演出、鈴木亮平主演で今年三月に上演されました。

三島由紀夫「ライ王のテラス」という戯曲をご存知ですか?最近宮本亜門の演出、鈴木亮平主演で今年三月に上演されました。

三島由紀夫最後の戯曲であり、先のブログでご紹介した最後の小説「豊饒の海 第三巻 暁の寺」の取材に三島が1970年にタイに行ったあとに、カンビジアに足を延ばし、アンコールワットに行って、そこで着想して書いたそうです。

題名がセンシティブなのか、本は発禁となり、今は、三島由紀夫全集25巻でしか見られないそうです。
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ストーリーは日本では鎌倉時代を同時代とするクメール王朝の国王 ジャヤーヴァルマン7世が遠征し、勝利し、アンコールワットの隣接しているところに、バイヨン神殿を作るところから始まります。
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(アンコールワット)
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(バイヨン神殿)
しかし、王宮の場所や向きが悪い、と占い師に反対されながらも、王は王宮建設を着工します。terasu1.jpg
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(ライ王のテラス)

それが原因かどうかは定かではありませんが、王はライ病に侵され、人前に姿を現さなくなります。
そうしているうちに、側近の宰相は、王を暗殺しようと試み、王の生みの母は宰相とねんごろになり、王を殺して、もう一度生みなおそう、と試み、第2王妃に、王の暗殺を命じます。

しかし第2王妃はそれを拒み、しかし宰相に犯されそうになります。 そこを王の母が宰相を背後から刺し、宰相は死の間際に王に、自分と第2王妃は密通していた、と嘘をついて死んでいきます。

王は誰も信じなくなり、ナーガという蛇神を妃として、誰も近づけようとはしません。
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(蛇神ナーガ)

いよいよ王に死が近づき、王は死ぬ間際に、自分の健康な時の若い肉体の王の幻を見ます。

そして王の精神と肉体の対話がはじまり、肉体は肉体の不死の勝利を主張し、精神は精神の永遠の勝利を主張しました。

しかしついに、王は死にます。塔上の若く美しい肉体は自らの勝利を讃え、「肉体こそ永遠なのだ。青春こそ不死なのだ」と言いました。

三島は、市ヶ谷駐屯地での自死を決意し、自分の精神と滅びゆく肉体に問いかけていたのでしょう。

確かに、三島の精神は死後50年経とうとしている今日でも、いや今日こそ、予言者の復活のごとく燦然と注目されています。

これだけ、死後50年たっても、いまだに映画や劇で上演される作家は、空前絶後でしょう。


話は飛びますが、天空の城ラピュタを見たことがありますか?

かつて栄えていた都市が滅び去り、壊れたロボットがなまなましく、ときどき忘れたように動く。

アンコールワットへ行った時、ラピュタを思い出しました。

まさにラピュタの世界が繰り広げられていました。

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アンコールワットがいつ滅びたか、はっきりわかっていません。タイに滅ぼされたとも、南に王国の首都を移したとも言われています。

アンコールワットが発見されたのは19世紀、フランス人によってジャングルで見つけられました。

アンコールワットの壁画の天地創造は、日本の古事記や日本書紀の天地創造ととても似ています。

歴史学者トインビーによると、文明のサイクルは、自然環境と優れた指導者が現れて誕生し、自然環境や人口増加、隣国との戦争などの問題解決する過程で成長し、問題解決に失敗して衰退を始め、内乱やクーデター、隣国にとの戦争で滅ぼされるそうです。

企業も似たようなものですが。

しかし文明が栄えている時間は本当に一瞬です。

ちなみに最強の恐竜Tレックスは、3000万年地球を支配していました。人間はせいぜい20万年。文明が生まれたときを考えると、せいぜい一万年です。

そんなあっと言う間の時間で、人の一生はさらに一瞬です。

アンコールワットには、江戸時代に森本一房という日本人が祇園精舎と間違えて出かけたそうです。

祇園精舎といえば、平家物語
「祇園精舎の鐘の声 諸行無常の響きあり 沙羅双樹の鐘の色 盛者必衰の理を現す おごれるものは久しからず ただ、春の夜の夢の如し 」
アンコールワットの回廊には、さまざまな歴史を刻んだ叙事詩が描かれています。

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人の少ないこの回廊の石の彫刻を眺めながらあるいていると、本当に人間の肉体は一瞬に滅びるのだなあ、と感じます。

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「ライ王のテラス」の主題が身に染みて感じます。

回廊の石の彫刻を眺めていると、突然激しいゲリラ豪雨がふり注ぎました。こちらの通り雨は降る時間は短いのですが、降るときは、バケツの水を流すがごとく、降り注ぎます。
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現世で右往左往する私たちも、アベノミクスも、大恐慌も、中国や北朝鮮問題も、国債暴落の恐れも、そして地震すらも ただ春の夜の夢の如しです。

2016年10月16日

ドナルドキーンの「明治天皇」

タイ国王の死去で、ふと日本の天皇制について考えました。

この休みに、ドナルドキーンの「明治天皇」を久しぶりに読み返しました。
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今、関心のある天皇論はこの分厚い明治天皇と、ハーバードヒックスの昭和天皇です。

勿論日本人の書いた天皇論もだいたい読みましたし、陰謀論的な本も随分読みました。

明治天皇すり替え説です。

その真偽はともかく、日本人の書いた天皇論はだいたい偏っています。


今はなるべく客観視された天皇論を考えてみたいのです。


と思ってドナルドキーンの書いた、この分厚い明治天皇の上巻を紐解くと、すぐにとても面白い記述がありました。この文献は明治天皇実記という13冊からなる宮中の記録をベースにしているそうです。


それは父の孝明天皇が崩御し、明治天皇が即位したての時、孝明天皇の亡霊が頻繁に夜だけでなく、昼も出没し、明治天皇を悩ましたそうです。

孝明天皇が暗殺された噂は現代でも有名です。

第一の容疑者は岩倉具視で、第二の容疑者は伊藤博文です。

僕はこの記述にとても興味を覚えました。

まさにシェイクスピアのハムレットと同じストーリーだからです。

しかし、明治天皇はハムレットと違って、父を暗殺した疑いのある岩倉具視も、伊藤博文もことの外信頼していました。

明治天皇すり替え説が出てくる原因はこういったこともあるのでしょう。

一番大きいのは、本来北朝系であるはずの明治天皇が、南朝を正当化し、南朝で活躍した人々を祀る神社を国家プロジェクトとして進めたのです。

その第一が、先々週薪能を開催した大塔宮です。

護良親王→鎌倉 大塔宮 明治2年設立 
kamakuratakigi.jpg(大塔宮 薪能)
明治天皇は能が好きだったので、多くの明治天皇の建てた大社は薪能をします。

後醍醐天皇→奈良 吉野神宮 明治22年設立 
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(吉野神宮)
宗良親王→静岡 井伊野谷宮 明治2年設立
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(井伊野谷宮)
新田義貞→福井 藤島神社 明治3年設立
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菊池武時 菊池神社→熊本 菊池神社 明治3年設立
楠木正成→神戸 湊川神社 明治5年設立 
北畠顕家、親房→福島 霊山神社 明治14年設立 
北畠顕家、親房 大阪 安倍野神社 明治15年設立 
北畠神社 明治15年改称

明治天皇が巡業の折に、その土地土地で、活躍した南朝の人を祀りました。

しかし護良親王、宗良親王、新田義貞、菊池武時、楠正成がまず先で、後醍醐天皇を祀るのが明治22年まで祀らなかったのが不思議といえば、不思議です。

ただ、「明治天皇」という学術的な本を読む限り、すり替え説はやはり事実ではないかもしれません。

というのは、鎌倉時代以降、積極的に政治にかかわろうとした天皇は、後鳥羽上皇、後醍醐天皇そして、500年以上たってはじめて孝明天皇が開国を反対して主張したのです。

しかも息子の明治天皇は小さいころから、一貫して、そういう父の意見に異を唱えていました。

まさに明治天皇の性格は小さいころから変わっていないのではないか、と思わせる史実の記録があります。

たとえ、北朝系の天皇といえども、明治天皇は建武の中興の再現を起こそうと、それは孝明天皇の強い意志でもあったのではないか。

そして孝明天皇を後醍醐天皇の対比として、自分は護良親王になぞらえたのではないか。

そして、実の父といえども、もし孝明天皇が生きていたら、自分も護良親王と同じ目にあったかもしれない、と考えたのかもしれません。

明治天皇は、小さいころから太平記や北畠親房の神皇正統記を好んで勉強していたという。

そういうことも南朝支持を打ち出したことなのではないか。

一生で10万の和歌をつくるなど、もし少年期を庶民の中で暮らしてできるものだろうか?

さらに明治天皇が崩御したとき、世界中のマスコミは明治天皇を賞賛したという。

ドナルドキーンも当時の世界の皇帝のなかで、明らかに最高の皇帝だったと言い切る。

他国との戦争や侵略を嫌がり、しかし、政治にはなるべく口出しをせず、しかし、日本を正しい方向へ導く。

明治天皇は有史以来もっともすぐれた天皇だったようです。

孝明天皇は毎日幼少時の睦宮(明治天皇)に和歌の指導をしたといいます。

生まれながらの帝王学を学ばなければ、ここまで完成した王は無理なのではないでしょうか?

明治天皇は11人の子供を生みましたが、生き残ったのは、わずか三人、しかも皇子は大正天皇だけでした。

大正天皇はあまり肯定的な評価を歴史家はしておりません。

しかしあれだけの漢詩をつくれるのは、相当明晰でないと無理だと思います

大正天皇は山形有朋を最も嫌い、山形も大正天皇をなるべくお飾りにしようとしたようです。

昭和天皇は明治天皇を手本としました。

しかし明治天皇を手本とすればするほど、昭和の時代は、どんどん難しい方向へ流れていきました。

それは明治の時代に、清、ロシアという大国に勝利し、それは国民に、戦争がなんでも解決してくれる、という軍隊万能観をうえつけてっしまったようです。

欧米列強は日本を見直した、というより、警戒し始め、

そして1923年関東大震災が起こり、東京が灰塵に帰し、追い打ちをかけるように1929年に世界恐慌が起こりました。

東北では大飢饉により、餓死者や娘を身売りする家が増え、さらなる2.26事件へとつながります。

ある意味、明治が偉大な時代であればあるほど、その反動のつけが昭和にまわってくるのです。

次回、ヒックスの昭和天皇論を紹介します。


しかし、孝明天皇はどんな思いで、引き継いだばかりの明治天皇の前に亡霊となって現れたのでしょうか?

2017年04月07日

いまなぜ応仁の乱ブーム

中公新書の「応仁の乱」が30万部のベストセラーになっているそうです。

早々に読みました。確かに、僕は応仁の乱をテーマにした、足利義政と日野富子を主人公とした大河ドラマ「花の乱」の大ファンで、最近でも繰り返し、休みの日や帰宅後にビデオで見ています。

「花の乱」は平清盛まで、大河史上最低の視聴率を誇っていました。

それは応仁の乱というスターがほとんどいない、地味な物語がテーマだからだと思われてきました。

しかし、僕は、その前年に放映された「太平記」と並んで大河史上最高傑作のひとつだと思います。

日野富子役の三田佳子、足利義政訳の市川團十郎、山名宗全役の萬屋錦之助、細川勝元役の野村萬斎いずれも役者として、本当に名人だなあっと関心しました。

なぜこれほどまでにこんな優れたドラマが評価されなかったのか、あまりに芸術性が高かったから、大衆受けしなかったのでしょう。最近の大河は馬鹿の一つ覚えのように幕末と戦国を繰り返し放映しています。信長や秀吉、西郷隆盛や坂本竜馬など大衆受けするヒーローしかドラマ化しない。

大河ドラマの質は本当に大衆化、軽薄化しています。これは日本の文化そのものを象徴しているのだと思います。

文化は国の豊かさに比例するのでしょう。日本は経済成長が止まり、中間層がいなくなり、小売店は、ユニクロと百円ショップなど、画一的な安かろう、でもよかろうという商品だけがバカ売れする時代です。

それが、学術論文のような「応仁の乱」がかくも売れる、という現象が面白い。

はっきり言って信長や秀吉、西郷や坂本竜馬に大衆が食傷気味になっている、というのは実態でしょう。

「応仁の乱」の時代を語るには、鎌倉時代に遡らなければなりません。
1192年、源頼朝により、鎌倉幕府が設立され、天皇を中心とする平安貴族と、鎌倉を中心に武士との二重権力構造ができました。

承久の乱以降、武士の力は強まったのですが、1274年、1281年の元の襲来以降、外敵の脅威が大きくなると、中央集権への必要性から、1333年、後醍醐帝による建武の新政となりました。

しかし、武力で鎌倉時代に力を持った武士たちは、貴族に土地を取り上げられることに不満をもち、足利尊氏を中心とする、武家勢力と後醍醐帝を中心とする宮方の対立となり、南北朝時代となったのです。

足利尊氏は、人情が厚く、土地とか恩賞をすぐに部下たちに分け与える性格でした。宮方は北畠親房の神皇正統記に象徴されるように、道徳と教育によって国を治めるという正義と理論で南朝の宮方を正当化しました。

勿論、人は徳や正義より、利になびくのは、昔も今も同じです。

次第に北朝が有利となり、足利尊氏は征夷大将軍となり、北朝天皇を樹立し、室町時代がはじまりました。

しかし、こういう過程でできた政権なので、富と権力は、全国の武士に分散され、尊氏ですら、弟の直義や息子の直冬の対立など、常に、戦乱は続きました。三代将軍の義満の時代に南北朝の統一を果たしたものの、義満の死後は、また政情不安定となり、六代将軍、義教は、赤松に暗殺され、七代将軍義勝は早世し、八代将軍義政は政情不安のなかで、将軍になり、室町幕府は中央集権化する力を持ちえませんでした。

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(足利義満の建てた鹿苑寺金閣)
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(足利義政が建てた慈照寺銀閣)

そして、義政は世継ぎを巡って、富子と対立し、応仁の乱が始まるのです。
形の上では将軍世継ぎ問題ですが、それにかこつけて、各領主が、各々の家の相続を巡って争いだし、全国の領主が戦争を始めていきました。
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(日野富子が男子出産の祈願をした男山八幡宮)

この10年続く応仁の乱を転機に、室町幕府は形骸化し、中央集権の機能を失い、戦国時代へと突入していくのです。

今の日本はそこまで、政府の力は弱くはないのですが、信長や秀吉の戦国時代や西郷や坂本竜馬の幕末明治に比べて、希望が持てなくなっているのでしょう。

ヒーロー不在の先の見えない、下り坂の国家が、今と共感できるのかもしれません。

でもこの時代から北条早雲は生まれ、毛利元就、斉藤道三、織田信長、豊臣秀吉とヒーローが少しづつ誕生していきます。

おなじように、現代の日本でも、ソフトバンクの孫さんやユニクロの柳井さん、楽天の三木谷さんなど、一代で巨万の富を稼いだヒーローは登場しています。

でも大きな視点からは、少子高齢化で、国の縮小が止まらない時代とみれば、応仁の乱と似た状況かもしれません。

自分の時代をどうとらえ、どう行動するかは、人それぞれの力量にかかっているのでしょう。


2017年04月12日

井伊直虎と龍譚寺と井伊谷宮

今、大河ドラマで、「女城主井伊直虎」というのを放映しています。

相変わらずマンネリの戦国時代で、見る気もしなかったのですが、戦国時代に女城主なんていたんだ、って思ってちょっと見たら、結構面白かったので見ています。

なぜ面白いかっていうと、小林薫演じる南渓和尚の住職龍譚寺は行ったことがあるからです。そしてこの龍譚寺のとなりに、井伊谷宮という神社があります。この神社は明治に建てられたのですが、明治天皇の号令のもと、建武の新政で活躍した忠臣のちなむ場所に神社を立てて、官幣大社として国がらみで祀りました。
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(龍譚寺)
井伊谷宮は、宗良親王という後醍醐天皇の第4皇子を祀っているのです。
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(宗良親王陵)
宗良親王は短歌の達人にして、自ら武具をとって南朝のために、東日本を転戦しました。
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(井伊谷宮)
1338年、陸奥大将軍北畠顕家が戦死すると、南朝は東北奪還のため、大軍船で、常陸を目指します。しかし、途中、台風に遭遇し、北畠親房は霞ヶ浦へと、宗良親王は静岡に流され井伊道政にかくまわれ、北畠顕信は後村上天皇とともに伊勢へ戻されました。

宗良親王は井伊道政の娘をめとり、井伊を中心に信濃に勢力を伸ばし、北朝と対峙していました。

宗良親王は井伊家の菩提、龍譚寺野となりに、その墓だけを分離して井伊谷宮を、代々祀ってきたそうです。その神社が明治になって別格官幣社になったそうです。

井伊家は、南朝に最後まで忠義をつくし、井伊谷城は落城し、南北統一後は、北朝の今川家に組み込まれ、今川家に冷遇され、当主を殺されたり、戦死させたれたり、さんざんな挙句に、女当主として直虎がなり、それはあらゆるどん底の中から、徳川家康の配下に移り、井伊直政の代で徳川四天王といわれ、大出世し、徳川の譜代大名として、幕末に井伊直弼が大老として開国をしました。

井伊直政は、父を今川殺され、幼いころから、自分も今川に殺されそうになり、つぶれかかった領地を命からがら、徳川家康の傘下にはいることで、生き延び、家康が天下をとると、30万石の、譜代家臣最大の大名になりました。

1330年代に、南朝方についたばっかりに、1600年の関ケ原まで苦労の連続だったのです。
実に270年の苦労は、江戸時代に花開き、さらにその240年後、井伊直弼は開国を押し切り、暗殺され、藩も縮小の憂き目をみ、さらに江戸幕府もその7年後滅びました。

井伊直虎の物語は実に、そのどん底に近い物語なのかもしれません。一族のどん底の物語を大河にするのも珍しいかもしれません。

そうやって「女城主直虎」を見るのは面白いですね!

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