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陵王の舞

北畠顕家を、もう少し紹介させていただきます。顕家が歴史上はじめて登場するのは増鏡です。1331年3月、後醍醐天皇が北山(今の金閣寺、中宮の実家)へ行幸の折、宴会で顕家が陵王の舞を舞い、それが実にけなげであった、と記されています。顕家13歳の時でした。
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「暮れかかるころ、桜の花の木の間に、夕日が華やかにうつろい、山の鳥もしきりに鳴いて、陵王の舞人が輝くような美しさで舞い出でてきたのは、ほんとうにすばらしい光景でありました。そのとき、天皇も御引直衣(ひきのうし)で椅子に座り、笛を吹かれました。いつもよりさらに雲井までに響いておりました。その舞人、宰相中將顯家は陵王の入綾を実に見事に妙技を尽くして退場するのを、お上は呼び返し、前関白に自らの紅梅の表着・二色の衣を渡させました。顯家はその衣を左の肩にかけ、少し舞って退場しました。右大臣が太鼓を打ち、その後源中納言具行(北畠具行、顕家の叔父)が採桑老を舞いました。具行も紅の衣をお上からいただきました。」(増鏡 下 北山行幸)

陵王の舞とは昔、中国の北斉に蘭陵王で知られる将軍がいました。眉目秀麗な名将であった蘭陵王が、美貌を獰猛な仮面に隠し、戦に挑み見事大勝したため、兵たちが喜んでその勇士を歌に歌ったのが曲の由来とされています。しかし陵王は謀反の嫌疑をかけられ、粛清されてしまいます。

粛清まではされなかったものの、その後の顕家の運命を暗示させる舞いでした。

話は飛びますが、1991年NHKの大河ドラマ「太平記」で後藤久美子が顕家を演じていました。このときの舞も桜の季節で、ちょうど顕家の舞から660年前になります。神武暦と西暦は660年だから1331年当時は神武暦1991年になるのです。ちょっとした偶然です。16歳までは学問と芸術にのみ従事し、建武の親政になるや否や、いままで訓練もしたことのない弓矢を持たされて、いきなり氾濫で荒れ狂う東北の地へ放り込まれたのです。ところが不思議なことに武家の棟梁である北条氏も持て余した東恵比寿たちを,舞のほうが似合っている公家のいたいけな少年が治めてしまったのです。それはそれは苦労したでしょう。その苦労は前回ご紹介した遺書ともとれる奏文にあります。

「小臣、もと書巻を執りて軍旅の事を知らず。忝(かたじけな)くも ふっ詔(しょう)を承り、艱難の中に跋渉(ばっしょう)す。再び大軍を挙げて命を鴻毛に斉(ひとし)うす。幾度か挑み戦いて身を虎口に脱(のが)れし、私を忘れて君を思い、悪を却け正に帰せんと欲するの故なり。」(顕家奏文 7条)

(私はもともと文官であり、軍事の知識はまったくありませんでした。しかしもったいなくも
お上よりの命令をいただき、困難の中を、山を乗り越え、水の中をわたりまくりました。大軍を挙げて鴻毛のごとく何度も危ない目に会いました。私心を捨てて、君を思い、悪を退け正義をとりもどそうとしたいからこそ、なんども身を虎口に逃れる羽目になっても、幾度も大きな敵に戦い挑んできたのです。)

NHKの大河ドラマで太平記を見ていたのは私が31歳のころでした。ちょうど今のメディアファイブをつくるきっかけとなる、教育ソフトビジネス研究会のコンソーシアムを、当時勤めていたシンクタンクで立ち上げて、1週間に3日徹夜していました。今のメディアファイブの教育ソフトのラインナップは当時の構想がベースとなっています。あまりの無理がたたり、私は網膜はく離になってしまいました。そして5月22日に入院し、すぐに手術をし、6月9日の日曜日、つまり私の誕生日に目は包帯をしていてほとんど見えなかったので、顕家の戦死のシーンを病院の大部屋のベットで、イヤホンをテレビにつなげて聞いていました。

その次の日6月10日は、前回も申しましたが、旧暦に直すと5月22日、顕家の命日なのです。
NHKがわざと顕家の命日を意識して、戦死のシーンをこの日にしたかどうかは定かではありませんが。

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2008年02月03日 15:15に投稿されたエントリーのページです。

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