« 旭山動物園の奇跡 | メイン | 生成AI時代の歩き方 終戦記念日 »

5月22日

私は京都、鎌倉が好きです。ついでにいうと軽井沢も好きです。最近なかなか行けないのですが、その手の雑誌はすぐに買ってしまいます。昨年の秋のことですが「歴史を歩く 京都、鎌倉と北大路魯仙人」という雑誌を店頭でみつけ、面白い記事が載っていました。芥川賞作家の柳美里氏が書いていたのですが、最近、鎌倉に家を買ったそうです。占い師に見てもらったら鎌倉は戦争がよく起きるから、土地を買うのはよくない、といわれたのですが、扇が谷に大変気に入った物件があり、その占い師のいうことを無視して購入したそうです。事件は晩春に起きました。夜中に、柳氏が仕事をしていると、お子さんがとつぜん顔面蒼白で起きて来たそうです。そしてなにもない壁に向かって、「誰かいる、たくさんの人がここにいる」と硬直しながら言ったのです。柳氏はその日、つまり5月22日に、昔な何かあったんだと次の日、本屋で調べたら、鎌倉幕府滅亡の日だったのです。
P1010012.JPG(瑞泉寺境内)

1333年5月22日、後醍醐天皇は鎌倉幕府を滅ぼし、建武の親政をひきました。しかしこの幕府も足利尊氏の反乱で2年とは持たず、その後日本は南北朝という2つの政権に60年間割れたのでした。鎌倉幕府滅亡の原因は、直接の原因はマクロ的に見れば、貨幣の市場における流通量の急激な増加から地頭、荘園という従来の経済システムが急激に崩れていったこと、そして政治的には2度の元寇が国内におおきな精神的傷跡を残し、鎌倉幕府のような分権統治型政府より中央集権的政府の必要性が強まったことが言えるでしょう。
P1110029.JPG
(顕家像 霊山神社)

しかしなぜ建武の親政は2年で崩壊したのでしょう。ひとつには元の衰退により、外圧がなくなったことがあげられます。つまり国家的危機がなくなったので、中央集権的な国家を作る必要がなくなったのです。二つ目はこれが直接の原因だと思いますが、まさに後醍醐天皇のリーダーシップの問題です。

そのあたりのいきさつが良くわかる資料が残されています。側近が後醍醐天皇にあてた奏文(抗議文)です。それを残したのが、天皇の側近三房といわれた吉田定房、万理小路藤房、北畠親房の長男顕家です。側近中の側近の全員とその息子が徹底的に抗議しているのだから大変なものです。

吉田定房は後醍醐天皇が2回目に乱を起こそうとしたとき、北条氏を討つ正当な理由がない。いたずらに乱を起こせば、民衆が苦しみ、いたずらに血が流れるだけだ、と言い、北条氏に内通までしました。まさにそのとおりになったのです。

万里小路藤房は建武の親政の恩賞の配分が非常に不公平であることを後醍醐天皇に具申し、そのまま失踪しました。もっとも功績のあるものは護良親王、赤松円心、楠正成、足利尊氏、新田義貞であることを指摘し、天皇の息子である護良親王は政敵足利尊氏に引渡し、結果殺されてしまいました。また赤松円心は、はやくから北条氏に謀反し、親政誕生に大変な功績があったのに、前政権で、守護職だったものを、地頭職にまで降格してしまったのです。赤松円心は後に足利尊氏につき、足利政権確立におおきな立役者になりました。また宮中の内裏の造営も、政権が安定する前にそういうことはやめるべき、とも具申した。

北畠親房の長男顕家は16歳から鎮守府大将軍として東北の経営を任されていました。しかしもともと統治のいきとどいていない東北の地を収めるのは、並大抵のことでなく、当時の漢家(文部官僚)であった顕家は、まったくお門違いの弓矢をとって氾濫の鎮圧ばかりしなければならなかったのです。ところが、漢家であるから孫子の兵法が得意からなのか(武田信玄で有名な風林火山ののぼりは、親房顕家親子が初めて使ったのです)、いくさではほとんど負けずに軍神にまであがめられ、足利尊氏が京都を占領したとき、それを取り返したほどでした。しかし根本的な親政の過ちがなおらない中、奈良坂の戦いではじめて戦に破れ、だんだん追い詰められていきました。そのような中で下記のような抗議文を後醍醐帝に送ったのです。

1、権限を分権化すること。当時全国のトラブルや政治の裁定を全部中央でおこなっていたため、つねに裁定の滞りとずさんさが目立ち、後醍醐政権へのふまんが爆発していました。顕家は陸奥のほか、関東、九州、北陸に裁定する場所を分権化し、京都を含めた5箇所で政治をおこなうことを提案しました。

2、まず奢侈をやめ、税を低くして、民の安寧をはかるべきである。特に万理公路藤房もいったように内裏の造営はそのころの民衆の生活を非常に圧迫したようです。

3、いたずらに能力の低い人に高い位を与えることをやめさせる。そういう人は報奨金で対処すべきである。地位と報酬は別物、ということです。これは現代でもいえることですが、報酬をけちって地位を渡すととんでもないことになります。無能なリーダーほどその悪影響は大きいものですから。

4、つまらない取り巻きを作らないこと。そういう人物に大禄を支払わないこと。そして昔からの土地をもっている人にはその土地を返すこと。

5、民衆が塗炭の苦しみのなかにいるのに、酒宴やパーティーばかりやってはいけない。

6、朝令暮改をしないこと。行政をおこなうベースとなる法律、つまり「システム」はきちんと作らなければ、混乱をまねくことになります。

7、くだらない公家や官女や僧侶を重用しないこと。そして位の低いものでも有能ならば登用すること。

つまり現代的に言ってしまえば、
① 権限の分権化、②コスト意識、③公平平等な人材登用、④システムの構築、⑤公私混同の排除 の5つです。簡単にいえば、建武の親政はこれがまったくできていなかったのです。

現代の企業でもこの5つが成長と繁栄への永続の条件なのだと思います。

実は、私は「則天」の開発を進める上で、強く念頭にあったのはこの顕家の奏文です。
奏文の最後にこのような文章がかかれています。

以前条々、言(もう)すところ私にあらず。およそそれ政をなすの道、治を致すの要、我が君久しくこれを精練したまい、賢臣各々これを潤飾(じゅんしょく)す。臣のごときは後進末学、なんぞ敢て計い議せんや。しかりといえども、あらあら管見の及ぶところを録し、いささか丹心の蓄懐(ちくかい)をのぶ。書は言を尽くさず。伏して冀(ねがわ)くば、上聖の玄鑑(げんかん)に照して、下愚の懇情を察したまえ。謹んで奏す。     延元三年五月十五日従二位権中納言兼陸奥大介鎮守府大将軍臣源朝臣顕家上る
(いろいろご注進させていただいたことは、私心から出たものではありません。政治をおこなう方法、民を治めるにあたり大切なこと、お上が切磋琢磨し、優秀な部下たちがそれを実行するものです。私のような学問もまだ浅いものがこんなことを申しても恐縮ですが、今の世の中の現状を鑑みて、どうしても申し上げたいことがございました。書いたものは言を尽くさずですが、是非お聞き入れください)

北畠顕家はこの奏文を書いた一週間後、1338年5月22日、堺の石津で、20歳の若さで戦死しました。
死んでいくときの顕家の心中はいかばかりのものだったでしょうか。
あれから670年たった今でも、多くのまじめで有能なビジネスマンが、社長やリーダーに対し、こういう思いで働いていることと思います。

1333年5月22日に鎌倉幕府は滅亡し、ちょうどその5年後の5月の22日に顕家は戦死したのです。私はこの日が建武の親政の終わり、と考えます。なぜなら天皇親政は護良親王が軍隊を率い、それに全国の武家が呼応して旧政権を倒したのが始まりならば、大軍を率いて戦える最後の公家である北畠顕家の戦死をもって、南朝の求心力は失われたからです。5月22日の因果とでもいえるのでしょうか。

この日を新暦に直すと、6月10日になります。あまり関係はありませんが、私の誕生日は6月9日です。
だから5月22日という日にちょっぴり親しみを感じています。

About

2008年01月24日 12:10に投稿されたエントリーのページです。

ひとつ前の投稿は「旭山動物園の奇跡」です。

次の投稿は「生成AI時代の歩き方 終戦記念日」です。

他にも多くのエントリーがあります。メインページアーカイブページも見てください。

ブログパーツ

Powered by
Movable Type 3.34