もう3年も前のことだと思います。3月29日に、旧薩摩屋敷別邸であった白金台の般若苑で観世流宗家が「殺生石」を薪能で舞いました。かつてその場所で、今話題の篤姫も住んだことがあるのでしょうか。生憎、その年は寒い春で、まさに「花おそげなる 年にもあるかな」でした。 残念ながら桜は開花せず、つぼみの下で宗家は舞いました。
「殺生石」は、小学校3年生のころ、埼玉県立図書館の児童映画の上映会のアニメで見ました。とても美しい女性に化けた金狐の末路が、悲しく、せつなく感じたのを強く記憶しています。そして小学校5年生のとき、林間学校で那須に行き、殺生石を見て、その映画を思い出し、林間学校そのものがせつない思い出になってしまいました。なぜか私には、その女狐が気になっていたのでしょう。
この物語は昔、御深草院のころ、玄翁という禅僧がおり、那須の怪しげな石の前を通り過ぎようとすると、にわかに女性が現れて、この石に近づくと命をとられる、という。わけを聞くと、「この石は玉藻前という、鳥羽上皇に寵愛された女性で、実は金狐の化身であり、それを陰陽師の安部泰成に見破られ、朝廷を転覆するものとして追われ、東国の武士に那須で討たれました。そしてその石の霊になったのです」。そういうと、その女性はその石にすうっと入っていきました。玄翁はその石に「成仏せよ」と一喝すると、石はふたつに割れて精霊が現れ、身の上話をし、最後に引導を渡してくれたことを玄翁に感謝して消えうせました、という物語です。
その35年後に、旧薩摩屋敷別邸で、「殺生石」を宗家の舞で見たのです。薪の火に照らされて、精霊の若女の面をつけた宗家の舞は本当に美しいものでした。底冷えする、つぼみの桜の下で、満開の桜を想像しながら見ることが、かえって能の美しさを引き立てたかもしれません。
私にとって、幼いころの殺生石の体験を思い出させてくれる、本当にすばらしい一夜でした。般若苑はその夜が最後で、取り壊しになりました。この般若苑の由来は、奈良の般若寺の建物の一部を移築したことからついたそうです。
般若寺は南朝ゆかりの寺で、護良親王が本堂の櫃に隠れて、あやうく北条からの追ってから逃れたエピソードや、この寺の周辺の般若坂で、北畠顕家が初めて戦闘で敗れたエピソードがあります。ちょうど桜が咲くか咲かないかのころでしょう。
(春の雪の般若寺)
鳥羽院といえば、保元の乱のとき、藤原頼長と崇徳院を排斥した帝です。また深草院は南北朝の対立の元を、弟の亀山院とつくった帝です。
歴史の時間と空間はいろいろなところでつながっていますね。