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メディアファイブ誕生秘話

それはある、研究会から始まりました。当時、住友ビジコン総合研究部(現日本総研)に属していた私は大手ハードメーカーや大学と組んで教育ソフトの研究会を主宰していました。そこに堺の教材会社の社長さんが参加しておりました。そしてそれがご縁で、その教材会社の新規事業のコンサルテーションをさせていただくことになりました。教育ソフトの開発です。初めてその会社にお邪魔してその帰り道、偶然に私と同じ苗字の地名を見つけました。そして北畠公園というのを見つけました。その奥にお墓があり、公園の3分の一をその墓の囲いで占められていました。柵の扉がしまっていたのでその前でなんとなく手を合わせながら、ひょっとしてこのコンサルティングが自分の人生を大きく変えるかもしれない、と予感しました。その墓は北畠顕家の墓でした。

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(北畠公園 顕家の墓)

顕家のことは、福島県岩瀬郡にある父の実家の村の会報誌や、父の話で知っていました。ただなぜかそのことは実家の方たちは、皆あまり話したがりませんでした。無関心なだけだったからかもしれませんが。

顕家は1318年に後醍醐天皇の側近である北畠親房の長子として生まれました。北畠家は村上源氏庶流であり、和漢をつかさどる家とされていました。以前玄象という能について書きましたが、そのなかで村上天皇が登場しています。その村上天皇を祖とし、臣下にくだされた家系が村上源氏の流れです。まあ今で言うと文部省と文化庁をあわせた役所の役人ということでしょう。顕家は1338年5月22日(旧暦)に足利尊氏方の高師直に堺の石津で討たれました。そして阿倍野の、今は公園になっているこの場所に葬られたそうです。

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(堺 石津川)
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(顕家慰霊塔 石津川ほとり)

教育ソフトの研究会は任天堂のスーパーファミコンがCD-ROMプレーヤーを出す予定にしていたので、そのフォーマットで出すことを念頭においた研究会でした。ところ任天堂は、CD-ROMプレーヤーのOEMを受け持つソニーとけんか別れし(その結果ソニーはプレーステーションを出したのです)、教育ソフトの研究会も存続の意味がなくなりました。そこで堺の教材会社の社長さんが、せっかくここまで研究してきたのだから、教育ソフトの専門の会社を作ろうよ、とおっしゃっていただき、私の勤めていた会社の了解もとり、メディアファイブは誕生しました。

ちょうど父が建設会社を役員定年で退職したのをきっかけに、社長に就任してもらいました。当初、父とは本当にぶつかりました。建設会社とソフト会社では、その経営手法が正反対だったからです。ソフト会社は大きな投資はあまり必要なく、当初、私は銀行との付き合いをあまり重要なものとは思ってませんでした。しかし父は、もちろん建設会社時代から、銀行との関係づくりを重視していました。私は当時そんな父を見て、ソフトビジネスがまったくわかっていないな、と思っていましたが、それが大変な思い違いであることを8年後に思い知らされました。2001年の9.11のときです。株価は半分になり、上場していた家電メーカーが一斉に翌年の3月に大量の商品の返品をしてきたのです。社内の社員の造反にもあい、3分の1の社員に退職され、しかも同じような会社をつくって妨害もされ、有効な手もなかなか打てず、その次の年から2年間連続して赤字を出してしまいました。こんなとき、日ごろから銀行との付き合いから、当社は運転資金に余裕があったので、のりこえることができました。世の中は本当になにがおこるかはわかりません。会社とは自分とのタイプの違い、年齢も異なるさまざまなタイプの人間がチームワークで働くことが大切であることをそのとき、しみじみ感じました。

会社登記は1993年11月25日です。実はこの日も偶然があります。先日お話した建武の親政は神武暦1993年5月22日に鎌倉幕府滅亡とともに誕生しました。神武暦1993年11月25日は顕家が陸奥将軍として仙台の近くにある多賀城についたころなのです。つまり顕家が歴史に登場する日なのです。

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(多賀城)

当時、私は歴史にはまったく興味がありませんでした。記憶力の悪い私は、大学受験の共通一次試験も最初理系志望だったこともあって、社会は倫社・政経を選択しました。ところが歴史にのめりこむようになったのは次のようなことがきっかけでした。

堺の教材会社でコンサルティングは始まり、まずどのような教科から作ろうか、ということのミーティングで、パソコンで学習するメリットをチェックしました。すると歴史は、授業などでもまず四大文明があり、縄文時代があり、奈良時代があり・・・と教科書で勉強すると、時間軸、空間軸がめちゃくちゃで、よくわかりませんでした。私は、そもそも、なんでもう終わったことを覚えなければならないのか、特に年代を覚えるなんてナンセンスだとずっと考えてきました。しかし時間軸、空間軸を整理し、時代と世界の流れを立体的に把握できれば、歴史からなにか発見できるものがあるのではないか、とそのとき感じました。

時間軸、空間軸で歴史を立体的に把握することは、本で読むのではできないことですし、しかも小・中学校だけでなく、一般の人にも教養ソフトとして販売できるので、そのような歴史のソフトを作ることになりました。それがメディアファイブで最初に開発した「ワールドヒストリー」です。ただ私は当時歴史をまったく知らなかったので困りました。本当に一から勉強しながらこのソフトを作成していったのです。

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(ワールドヒストリー)

そこで、一冊の本に出会いました。ポールケネディの「大陸の興亡」です。1500年から2000年までの大国、ヨーロッパ諸国、中国、日本、米国の経済と軍事行動の相関関係を的確につづったものです。とくに驚いたのは、中世では、中国文明がものすごく発達しており、活字による印刷が発達し、大量の書物が出回り、古くから大きな図書館がいくつもあったことです。11世紀末には7世紀あとの産業革命時のイギリスをはるかにしのぐ製鉄を生産していました。活版印刷の発明は学問を広め、広く全国から秀才を集め、官吏を登用し、その権限が強化され、それが国を富ます原動力になっている例として明王朝が栄えたことは特筆すべきことでしょう。

しかし明王朝も時間がたつにつれ、マイナスの部分も出てくるようになりました。1400年代に入ると中国も世界に目を向け、鄭和をはじめ遠征が盛んに行われました。彼らはヨーロッパの遠征者とちがって、各地の住民を略奪したり、殺傷したりはしませんでした。しかし再びモンゴルの脅威が増大してくると、そこにまわす資金を節約するために、遠洋航海は禁止されました。儒者による保守的な官僚体制は軍需を嫌い、市場経済が栄えるのを嫌い、その結果、派手な商人に干渉して財産を没収したり、軍需を切り詰めて、万里の長城などハコモノの需要創造をおこなって失業対策したり、まるで今日のどこかの国とそっくりなことをしていたのです。

もちろん功罪はありますが、400年にわたる白人優位の時代が続くのは、彼らが常にグローバル戦略をとり続けてきたことにあります。先日の、知事との懇談会でも申しましたが、日本の中小企業の最大の課題はグローバル戦略です。あの世界最強の企業、トヨタでさえも日本国内は売り上げに苦戦しているのです。

メディアファイブも、今後の中心課題はグローバル戦略です。当社のパテントは米国特許や国際特許を中心にとっております。教育こそ日本が海外に誇れるノウハウであり、グローバル化できる切り札と考えています。人材育成型グループウエア「則天」や、多機能学習ソフト「メディアファイブ プレミア」は、これだけのソフトはまだ存在しておりません。

今の日本を見ていると、この先は明の衰亡と同じ道をたどれるのではないか、と強く感じてしまいます。
経営者と政治家の懇親会でも、経営者たちはハコモノを要求します。おそらくすぐに自分たちのビジネスに直結するからでしょう。しかしなによりも今、中小企業の経営者が手がけなければならないことはグローバル化だと思います。そういう私もけっして英語が得意ではありません。自社の「英語すらすら」を、思い出しては三日坊主で英語日記をつけている体たらくです。でも英語で日記をつけ、ワードチェックをしてもらい、それを音声読み上げファイルに落とし、携帯電話やiPODに入れて持ち歩き、時間のあるときに聞いたりするのは、結構英語の即戦力になると思います。みなさんも一度お試しください。

話を元に戻しますが、私はこの「ワールドヒストリー」の製作を通じて、歴史を学ぶ意義がはじめてわかりました。いつの時代も人間は当然一生懸命に生き、様々な判断や選択で歴史的な結果になるのです。歴史を勉強することは実は人間そのものを勉強することであり、未来へのビジョンを把握するためにも大切なものなのだなあ、と強く感じました。

実は北畠親房や顕家がなにをした人かもそのとき初めて知ったのです。親房の書いた「神皇正統記」も歴史を通して未来や国家のビジョンを語るものでした。よくこの「神皇正統記」を古事記や日本書紀の焼き増しに過ぎない、悪口を言う人がいますが、そういう人は実際はよく読んでいないのです。この書物は歴史を通してどう生きるべきか、ということが中心に書かれているのです。現在でも十分読み応えのある書物だと思います。「神皇正統記」という題名が現代ではきわめて不適切なのでしょう。

この「ワールドヒストリー」も、未来のビジョンを語れるほどの商品にしたいなあ、と思いましたが、まだまだ歴史の勉強を始めたばかりの当時の私にとってとても無理な話でした。

前回も触れましたが、特に顕家が戦死する1週間前に後醍醐天皇に書いた奏文は、①分権統治 ②コスト意識の徹底 ③公正平等な登用 ④システムの構築 ⑤公私混同の排除 の5つの抗議からなり、これは670年たった今日においても、経営や組織運営にもっとも重要なものなのだと思います。これをよく20歳の若者が書いたなあ、と驚嘆しました。

次にラジオ短波と組んで「死地則戦」というソフトをつくりました。当時テレビで「カノッサの屈辱」というビジネスと歴史を結びつけるパロディ番組をやっていて、とても面白く見ていました。歴史とビジネスを孫子の兵法で結びつけてソフトにすればおもしろいだろうな、というところからスタートしたのです。もちろん孫子の兵法を勉強するのも始めてです。

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(死地則戦 メイン画面)

あとで知ったのですが、北畠家は漢家(中国の学問を学ぶ家)であり、親房や顕家は孫子の兵法の専門家だったようです。これも偶然といえば偶然です。

またラジオ短波と平行して漢字検定協会の仕事もしました。漢字のゲームソフトをつくることと、もうひとつは当時平安遷都1200年で、それにちなんだソフトをだすことです。京都には難しい地名が多く、その地名の漢字をあてるゲームソフトをつくりました。ある手違いで私が京都中の寺や風景を撮る羽目になり、2週間かけて100箇所以上まわりました。おかげで京都の地の利は大変くわしくなりました。そこで発見したのが、北畠という地名が洛北、伏見、長岡京に3つ存在していました。そこは親房や顕家の屋敷があったところだそうです。もっとも嵯峨野にも屋敷があり、1326年に火事になったという記録があります。

こういう仕事の偶然は、意図的にできるものではありません。当時会社で開催した、「パソコンソフトビジネスセミナー」や「マルチメディアビジネスセミナー」で私のつたない講演を聴いてくださった社長さんやリーダーの方たちが、私の考えに関心をお持ちになり、仕事を発注していただきました。それが全部今日のメディアファイブのベースとなり、気がつくと北畠親房や顕家を学ぶきっかけとなっているのです。

1998年に私は日本総研をやめ、メディアファイブの社長に就任しました。1998年の6月に父が入院したのでした。その結果、私は日本総研かメディアファイブかを選択しなければなりませんでした。本当は日本総研を辞めたくはなかったのですが、メディアファイブを閉じるわけにもいかず、決めました。辞表を本部長に提出する時1週間ためらいました。神武紀1998年の5月22日に顕家は戦死しました。私も西暦1998年、自分にとって人生最大の転機といってよいでしょう。

いざメディアファイブ1本になって見ると、この後、会社を続けていくことができるのか不安でした。しかしそれ以上に当時の社員の不安が相当なものだったろう、と入ってみてつくづく感じ、申し訳なく思いました。2足のわらじでの仕事は無意識のうちにどちらも逃げていたのです。それがよくわかりました。最初の半年は無給でしたが、とにかく夢中で仕事をしました。あまりに不安で、夜になると、むかし宗教団体の活動に熱心な友達にもらった法華経を探し出し(私は宗教団体に属したことはありませんが)、一生懸命唱えていました。

最初はわけもわからず唱えていたのですが、だんだん意味を知りたくなって、いろいろ新書など読み漁っているうちに、こんなたとえ話がありました。ある日、こどもたちが毒を飲んで苦しんでいました。名医である父親がよい薬を与えようとしたのですが、子供たちはその薬が苦そうで、飲みませんでした。そこで父親は一計を案じ、そのまま旅にでて、旅先で死んだとうそをついたのでした。風の便りに子供たちはそれを聞き、びっくりして父親からもらった苦い薬をのんで、毒害から救われました。父親も旅から戻ってみんなめでたしめでたし、というまあチープなわけのわからないたとえ話なのです。法華経、如来寿量品第十六のなかにあります。

ところが私の父は奇跡的に手術もしないで治ってしまいました。これも不思議なことなのですが、ある日私は、テレビで平幹二郎氏が、喉頭がんをやって、それを治すために玉川温泉で療養している番組を見ました。そこで私は父に玉川温泉を勧めました。ちなみにこれも後で知ったのですが、平幹二郎氏はNHKの大河ドラマの太平記のとき、北畠親房の役でした。ところが病気のため、降板し、近藤正臣氏になったのです。玉川温泉での療養が父の病を治したかどうかは、わかりませんが。

この一連のできごとで、恥ずかしながらいままで私は、大企業に勤めていたこともあり、競争原理のもと、自分のことばかり考えていたのが、人のためになにかをすることの重要性を初めて知りました。そしてこの如来寿量品第十六のたとえ話が大変尊いものに感じました。まさに私は、父の病を通してで、社会とのつながりを教えられたのです。今でも法華経や般若心経を、自己流ですが、とぎとぎ唱えております。

しかし法華経と般若心経を多少なりとも理解すると、日本の古典が本当におもしろくなります。平家物語でも本当にいろいろな武将が法華経を唱えるところが出てきます。平惟盛が那智の沖で入水するとき、法華経を唱えて入水しました。以前は、古典を読んでいると、「昔は科学が発達していないからすぐ神がかりだよ。」としらけていたのですが、いまではその心境をしみじみ感じて読むことができるようになったのです。

ただ660年前に、私と同じ姓の人が、日本を文化国家にしようとして理想を掲げ、無念にも果たせなかったことに、自分のことのように残念に思い、自分なりに調べ、考え、いろいろなことを自分なりに発見しました。よく調べてみると、本当に誤解されていることが多いのに驚かされました。もし自分の先祖でなければ、親房、顕家親子のことを、私だって世間のイメージ以上の関心は示さなかったでしょう。

さまざまな失敗や経験、また、たまたま就職するためにした勉強だったり、趣味だったり、仕事で学んだりしてきたことのすべてが、いまのメディアファイブのプロデュースという本流に流れ込む支流だったのです。ひとつひとつはいきあたりばったりの偶然だったのが、後から振り返ると見事に整然とその経験の積み重ねが今に繋がっているのです。

「世の中万事塞翁が馬」でも申しましたが、学生時代、自分が将来、なにをしたいかは、よくわかりませんでした。社会人になってもまだよくわかりませんでした。私は自ら経営者になりたい、と考えたことはありませんでした。いろいろな、当時一見無関係なあちらこちらの支流を流れながら、気がついてみたら、メディアファイブという他には存在しない、オンリーワンの会社を経営していたのです。

今回開発した人材開発型グループウエアは先ほど触れた顕家の奏文を目指して作ったのですが、そのきっかけは社員の造反にありました。会社が急成長する時期は何度かありますが、どうしても人手がほしいときは、あまりレベルの高くない、旧知の人間を仕方なく入れるものです。そういう時、そういう人間に悪意があると、とんでもないことになります。IT・ソフトビジネスは投資もいらないので、参入は比較的簡単です。しかしそれだけ競合も増えるのです。しかも市場はつねに激変します。昨年100売れたものが、今年半分になったりするのです。こういうなかで継続させることは本当に難しいのです。そのなかでけソフトビジネスの成功を見て、そのビジネスを奪いたくなり、ほかの社員や部下に「自分たちの会社をつくろうよ」とけしかける輩がでるものです。とくに中間管理職にそういう人間が出ます。

当時私は社長室をもっていました。若い社員とは直接の接触はありませんでした。すべては中間管理職が私の意向を部下に伝えて、ビジネスが動くのです。こういうとき、その人間に悪意があると、社長にも、部下にも指示や報告を自分の都合のよいように変えてしまうのです。私には、卑屈にぺこぺこしている人間が、ちがう部屋ではボスのようにえばり腐っていたりするのです。そういう人間が、影で人をいじめたりおだてたり、弱い立場の部下や女子を感情でつって味方につけるのです。そして取引先にもうそを塗り固めて、その商権を奪おうとするのです。

若い社員も情報を知らされてなく、直属の上司に殺生与奪の権利を握られていると、その上司に依存します。

当時、私は一生懸命集合研修をおこなっていました。そこでいくら啓蒙しても、感想文で社長にここちよい文章を書くのが関の山です。俺についてこい、型の感情をあおりながら組織を引っ張る経営は、感情で裏切られるのです。だれでも夫婦や子供とだってすぐ喧嘩をします。

だから経営はシステムで管理しなければならないのです。飲みにケーションは根本的な解決にはなりません。社員一人ひとりに会社のビジョンを明確化し、情報共有を徹底し、公正平等に評価するシステムをつくらなければならないのです。

私は社員の造反という苦い経験から、こういうことをおこさないシステムを作ろうと決心しました。完成まで5年がかりでした。膨大な投資もしました。いざ作ってみると、こういうシステムが本当に大切なのが後からわかりました。人がもっとも学習する場所は仕事をする場所です。こういう場所で卑怯なことをして成功する人間がリーダーとなる組織では、その下で働く人も腐ります。そしてそういう人の子供も腐ります。どんなに教育を変えても、まず経営が変わらなければ、世の中からいじめも犯罪も減りません。

私は自分の血筋を自慢するためにこういうことを書いているのではありません。600年で一組の夫婦から400万人の子孫ができるそうです。つまり、だれもが必ず歴史に残る先祖をもっているはずです。逆に、私自身、600年以上前のDNAなど本当につながっているかさえ怪しいものです。それは単なる偶然かもしれません。また私の深層心理がそういう方向へ結びつけているのかもしれません。神が本当にいるかどうかすら、私には定かではありません。

もちろんスタッフに恵まれたこともあります。阪神大震災も景気におおきく影響しました。マザーズができました。9.11で株価が半減すると、家電量販店は在庫圧縮をおこない大量の返品が発生しました。さきほど触れた造反にもあいました。現実は小説より奇なり、といいます。だれが世界最強の米国のニューヨークやペンタゴンが攻撃される、と考えるでしょう。

いろいろなことが起こりながら、それでもいろいろな人に助けられながら、県や市にも大切にしていただきながら、大変幸運にも15年間、当社は存続してきました。おかげで教育ソフトの専門会社ではトップになりました。

ビジネスは個人の小手先の発想だけではとても成功はしないとおもいます。たぶん個人の想定する範囲でビジネスの成功はむりでしょう。ましてやいい加減な人間や評論家的人間が生き延びられる可能性は少ないと思います。われわれは自分の考えうる限りの範囲内で、できる最大限のことを地道に精一杯仕事をするだけです。でもそれだけでは成功にはいきつけません。

精一杯の努力に、なにか目に見えない、自然界に導かれて、はじめてその努力は活かされるのでしょう。それを「神の意思」と擬人化されて感じるのでしょう。いや本当に神の意思なのかもしれません。私は記憶力が悪く不器用です。ひとつひとつのスキルでは多くの人たちにかないません。しかし私が失敗してきたり、拒絶されてきた数多くの学問や仕事や人との経験をとおして、あらゆることが、今のメディアファイブの経営に生かされています。私はそれを天命と呼ぶのだと思います。

おそらく先祖であるであろう親房や顕家は、自分のやりとげられなかった無念の一部を、DNAを通して私にさせているのかもしれません。(ちがうかもしれません。) ただ私は親房や顕家の思想や行動に、とても共感し、尊敬し、歴史上受けてきた彼らの誤解を解き、彼らの実現させたかった世界の構築に、少しでも役に立てたらよいと思っているのです。

そういう意味では私は、親房や顕家の小間使いの一人である、という考えでメディアファイブを経営しております。

私は宗教的なことは、門外漢なので、コメントする資格はありません。ただ私にとって、神様は依存する対象ではないと思います。お願いする対象でもありません。天命を感じたならば、それに向かい、一生懸命に世の中のために尽くすことなのだと思います。何かをしてもらうことを期待するのではなく、自分が世の中に役だたさせていただくことを感謝することなのだと思います。そのなかで、生活や仕事の中で、ささやかな幸せを感じたならば、それが神様からの報酬なのでしょう。

ただ、こういう考えにいたったのは先にも書きましたが、98年の38歳以降からです。若い人がこういうものを読んでも違和感を感じるかもしれません。私も若いときは、こういう話に関心も理解もできませんでした。ただ若い人たちには、自分の世界がすべて、と考えないでいただきたいと思います。まだまだこれから一山もふた山も三山も乗り越えなければならない困難が待っているのです。そしてだんだん大きな社会責任を負っていくのです。残酷な現実と直面することもあるでしょう。そのなかで、必死に、はいつくばってでも前向きに生きなければ「神様」は現れてくれないと思います。

親房や顕家のことは私のきわめて個人的な問題です。社員にもほとんどこの話はしません。しかし、親房や顕家が目指したことは、つまり、「人々が不毛な争いをやめ、日本の和を尊ぶ歴史文化を尊重し、公平平等の社会のなかで自己実現を行い、みんなで協力しあいながら付加価値を生み出し、自然を敬い、子供たちを育て、教育していく」ということは、いつの時代でも永遠普遍の理想です。

その理想国家の実現が、今の日本に特に一番必要なことだと思います。

メディアファイブはそういった国家の実現に少しでも寄与するために、存在させていただいているのだと思うのです。

メディアファイブのファイブはどういう意味があるのですか?とよく人に聞かれます。建前では、五感、陰陽五行、孫子の兵法の、道天地将法などすべて重要な世界は5から成立する、ということを説明しております。

しかし本当は5は私のラッキーナンバーなのでした。幼稚園も高校も大学も受験番号が、5番、25番で合格しました。生まれた場所も育った場所も今の私の住所も電話番号も末尾は5番です。

今は、私の心の中でのみに限ってのことですが、顕家が後醍醐天皇に残した奏文を書いた日 延元3年5月15日 の5だと信じています。

ただ、660年前のできごとと比較するのは、科学的根拠も多少はあると思います。マクロ的な経済循環(コンドラチェフ)は60年ごとで、660年もさらに大きな経済循環として考えられることかもしれません。
平安末期から室町初期にかけて、貨幣が急速に普及しました。武士の台頭は、経済が物々交換から貨幣に移ったことも大きな要因だったようです。今日、インターネットの発達による、情報の開放は、この時代と似た社会状況をつくりだしているのではないでしょうか。

似たような時代に、家柄や能力は月とすっぽんでも、同じDNAの人間が、スケールはちがっていても、似たような行動をとるとしても不思議ではないのかもしれません。だから歴史から未来を考えるヒントはあるのかもしれません。

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(21世紀への提言 「頑張り応援宣言」2001.12.10刊)

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2008年02月03日 21:30に投稿されたエントリーのページです。

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