« 創作 石津 | メイン | 生成AI時代の歩き方 終戦記念日 »

世の中万事塞翁が馬

先日、母校である埼玉大学の授業で話す機会がありました。自分の出た研究室の三輪先生に挨拶にお伺いしたら、ちょうど今教養部で(1年生)「社会を覗く」、とかいう授業をやっていて、地元の中小企業に就職するのも面白いぞ、という講義をしており、ちょうど君はそれに当てはまるから、少し授業で話してくれないか、とおっしゃいました。私は社員募集のお願いに来たものだから、是非話をさせてください、と二つ返事で引き受けました。

話は、自分がなぜこの大学に入り、学び、就職し、今日に至ったか、そして今日の自分がいかに偶然の重なりの上にたっているか、ということです。そもそも学生でおもいつく職業は限られていて、学生時代の将来の志望なぞあてになるもではありません。
その辺のところをお話させていただきました。下記の内容は話した内容をもう少し詳しく言及しています。

私は高校時代、いわゆる「文学少年」でした。1年生のとき剣道部をやめてから、毎日の生活は、学校の登下校時は文庫本を読み、家に帰ると古典全集を読み、フルートとピアノを弾き、剣道の素振りを3千回おこなう、というのが日課の変な高校生でした。ただ数学だけは好きで、大学への数学だけは毎日解いていました。白いノートに鉛筆で解答を書くことがとても面白かったのです。

とにかくうだつのあがらない、変な文学少年であった私は、一生本を読んで、フルートを吹いて人間関係のしがらみから離れた,哲学者ショウペンハウエルのような人生を送ることを夢見ていました。そこで最初は三島由紀夫の「午後の曳航」という小説にあこがれて船乗りになろうと思い、商船大学を目指そうと、理系に入ったのですが、入試の応募条件が視力1.0以上でないとダメ、ということで、あきらめました。次に北杜夫のドクトルマンボウ航海記を読んで、船医になろうと医学部を目指しましたが、当時医学部は受験ブームで、最難関で、学力が追いつきませんでした。音楽大学を目指そうとも思いましたが、それほど才能があるとも思えず、結局将来やりたいこともわからず、聞こえのよさそうな大学をミーハーに受けては落ちて、そうこうしているうちに2浪目に突入しました。そして受験科目が私の得意な数学と国語、という理由だけで埼玉大学の教育学部を受けました。当時校内暴力に中学、高校は荒廃していて、そのような中にいくのはいやだ、と思い、小学校国語を第1志望にしました。なにか劇団ひとりのエッセイのようになってきましたが、高校時代から大学にかけて、私は世の中すべてから否定されている感覚がありました。ただただ自分の文学や勉強の世界だけが自由だと思っていたのです。

大学1年のとき、一般教養科目で、数人でおこなう授業がありました。なぜかそこで法学特別講義に参加しました。ここではハンスケルゼンというドイツの法哲学者の「民主主義と国家」という英文テキストを数人で勉強しました。もともと数学が好きだった私は法学の、論理を組み立てる学問にたちまち魅了されました。ただちに長尾龍一先生が訳されたケルゼン全集を買いあさり、読み始めました。そして単純にも、法律がこんなに面白いのならば、弁護士になろうと考え、高い通信教育講座の教材を親に買わせました。しかし3日坊主とまではいかなかったものの、3ヶ月ぐらいで放り出してしまいました。

大学2年になり、教育学部の法学特講を受け、社会科に転科しようと思い、試験を受け、3年から三輪先生の法学研究室に入りました。当時、社会科学分野は経済学、倫理学、法学、社会学の4分野あり、合同合宿もあり、みんな議論ばかりしていました。法学研究室のテーマは終戦後の新憲法制定から始まり、高度成長期の法的問題、改憲問題、そして著作権法の改正問題などでした。

肝心の教育学部の授業は当時あまり興味がわかず、睡眠学習でした。ただ教育学部の必須の授業は出欠をとるものが多く、授業には出席しました。当時家庭教師をいくつもかけもちをしており、妙に具体的にあの子にこう教えようか、ああ教えようかと、知行合一的に身についたようです。

また小学校課程だったので、全教科を授業で学ばなければなりませんでした。しかし当時の授業を受けたことは、教育ソフトのプロデュースをしている今日、大変重要な私の財産になったのでした。卒論は憲法変遷論でした。このことについては別途また書きます。

クラブはジャズ研とワンダーフォーゲル部に入りました。最初剣道部に入ったのですが、2浪がたたり、閉ざされたくさい空間で4年すごすのが嫌になり、ワンゲルに変えました。だいたい昼ごろ学校に来て、昼食をワンゲルの部員がたむろしている第2生協に行き、研究室の授業がなければ、マージャンをするか、図書館でレポートを書いているか、デートをしているか。夕方からは家庭教師のバイトか、ワンゲルのトレーニングか、ジャズ研の練習にもときどき顔を出していました。ワンゲルのトレーニングはマラソンとサッカーでした。ワンゲルの当時の部長は中村次郎先生で、教育工学の大家であり、今や中村次郎賞なるものがあります。

研究室でのテーマは憲法制定過程の検証、戦後高度成長期の政策、憲法改正、著作権法の改正などでした。著作権法の改正は、当時、通産省と文化庁で、コンピュータプログラムの著作権の権利の範囲をめぐり、論争が活発化されていました。通産省はプログラムの進歩には著作権をある程度弱くしなければならない、と主張し、文化庁はプログラムの著作権を厳格に保護すべきだ、という主張でした。結論からすると、当時日本メーカーによる、IBMのメインフレームのプログラムコピー問題が大問題となり、米国の圧力で文化庁の案が採択されました。このとき高度情報化社会について徹底的にしらべ、僕は
ネット社会では直接民主制をはじめ、今日の社会の弊害を取り除けるのではないか、という希望をもちました。ネット革命論なる論文を書いたのを覚えています。ネット社会になれば、いろいろな社会の矛盾も解消し、人間性豊かな社会を実現できるのではないか、という内容でした。今自分がやっていることはこのときの構想がベースになっています。それで、いまやっているプロジェクトを「NextRevolution」となずけているのです。その当時の内容についても別の機会でお話します。

当時研究室では、三輪先生の方針で、本や資料にこだわることなく自由にみんなで議論しました。社会科学分野なので、経済学研究室、社会学研究室、倫理学研究室と合同でゼミや合宿をすることもありました。いろいろな視点から同じテーマを議論しあうのはとても楽しく勉強になりました。とにかく議論ばかりの大変活気のあるゼミでした。この4年間は大変私の財産になりました。

まあクラブを掛け持ちし、好き勝手に勉強したり、マージャンもよくよくやっていたので、1年のときは9単位、2年のときは22単位しか取れませんでした。3年、4年であとの全単位を奇跡的にとり、一応外資系の保険会社にも内定はしたのですが、ちょうど秋も深まる11月ごろ、学務から一本の電話がありました。「あのう、一般教養で単位が1単位足りないのです。」私は学校にすぐに飛んで行きました。なんと一般教養科目で「心理学」が必修なのに、間違えて「倫理学」をとってしまっていたのです。目の前が真っ暗になりました。しかし結局、国立大学では、単位のお目こぼしは「法律違反」となるので、留年になりました。

まあ仕方なく留年になったのですが、2浪1留ではどこの企業にも入れない、と落ち込みました。ならば学科試験のあるところを狙おう、ともちろん教育学部だったので、小学校の採用試験、国家上級試験、新聞社などいろいろ受けたのですが、全部落ちました。ただ一箇所ひっかかったのが、コナミというゲーム会社でした。いまやコナミはゲームソフトのトップ企業として大企業になってしまいましたが、当時はまだ60人の社員に60人のわれわれ新入社員がはいったくらいの会社だったのです。会社説明でカスタムLSIとかなんとか説明があるのですが、なにをやる会社なのか、僕にはさっぱりわかりませんでした。
最初に配属されたのは本社の総務部でした。もちろん不動産の管理、文書の管理、いろいろな雑務もやるのですが、文書管理規定をつくったり、食堂の赤字を減らしたりとか、当時、コナミは大阪新2部という今でいうマザーズのようなところに上場していて、公募増資の準備や株主総会の手伝い、マーケティングなどもやらさせていただきました。総務部の男は課長と自分しかいなかったので、しかも私がいたこの3年で1部上場までいったのですから、本当にダイナミックで勉強になりました。

しかし2年目になると、早く東京に戻りたいために、営業を志望し、東京の営業本部に行きました。そこでパソコンゲームソフトの販売を担当したのです。今メディアファイブの主力であるパッケージソフトビジネスはここで覚えたことがベースとなっています。ソフトバンクさんとのお付き合いもこのときからです。当時のソフトバンクはまだ100人たらずで、まさか今のような日本を代表する企業になるとは夢にも思いませんでした。あれから23年、毎年ソフトバンクさんにお伺いするたびに、巨大化し、一流化、グローバル化していくさまは本当に驚嘆でした。最もコナミの急成長振りも同様ですが。コナミもソフトバンクも日本を代表する天才IT経営者で、身近でその手法を実感できたことは私にとって本当に幸運でした。

営業ではよく土日に家電量販店の店頭でゲーム大会を開きました。当時、コナミの主力商品である「グラディウス2」「サラマンダ」は大変な人気で、店頭でイベントをすると大変多くの子供たちが集まってきました。ゲームをチャンレンジして失敗するとまた後列に並びなおし、グラディウスの絵が書かれているテレホンカードをとれるまで何回でもチャレンジする子が本当に多かったです。私はこの有様を見て、このゲームに学習する機能がついたら、どれだけ子供たちは勉強がすきになるだろう、と強く思いました。それが教育ソフトに携わりたい最初の動機でもありました。しかしコナミは当時教育ソフトプロジェクトを撤退する方向であり、私は、これは一社で開発するのは難しい、と考え、今の日本総研の前身である「住友ビジネスコンサルティング」というところを応募しました。

「住友ビジコン」は当時、住友グループのシンクタンク的存在で、私のキャリアではとても入れなかったでしょうが、ちょうどバブルの絶頂期であり、ソフト化ということが注目されていて、当時の総合研究部長が非常に柔軟な方でもあって、奇跡的に合格しました。まあいわゆるバブル転職組です。

入ると、すぐに4週間の宿泊研修がありました。ここで、経営コンサルティングするためのあらゆるノウハウを学びました。人事管理、簿記、会計、思考法、ディベート、プレゼンテーション、生産管理、システム、マーケティング、貿易、経営、組織論などなど。MBAんの2年間でやるようなことを4週間で凝縮してやるので、本当にハードでした。しかし寝る前になると皆で議論し、本当に楽しい研修でした。立場や専門の異なる優秀な人たちとの議論は本当に勉強になります。しかし、振り返ると、埼玉大学での研究室での4年間も、議論ベースで皆が勉強し、田舎の大学ながら、すごいものがあったなあ、といまさらながら思いました。

最初についたリーダーは三石玲子氏でした。昨年残念ながら50歳の若さでお亡くなりになりましたが、これまた三石玲子賞なるものができるほどインターネットの世界では有名なかたです。当時はカードの専門家でした。なぜ僕は、パソコンソフトビジネスを行うために入ってきたのに、カードビジネスを手伝わなければいけないのか、と内心不満をもっていたのですが、今考えると、三石さんに指導していただき、非常に贅沢で、ありがたいことでした。もっとも彼女がご存命でおられたら、あまりそんなことを考えなかったのですが。

私は当時いろいろな人にお世話になったのに、本当に若気のいたりで不義理をしました。今の若い人でやはり自分の都合ばかり考えている人もたまに見かけますが、自分のことを振り返ると、まったく人のことは言えず、赤面の至りです。ただもしもっと自分に徳や義理があれば、今の状況はもっとよいものになっていたでしょう。

彼女が常日頃おっしゃっていたことは「背伸びしてはだめ。なにごとも基本が大事。」「ライフスタイルで考えること」「もっとよく考えなさい。世の中はそんなに甘くはないのよ」でした。

最近では彼女の書かれたものを手元に置き、いろいろ仕事に迷うと本を手にとってぺらぺらめくっているのですが、いつもそんな声が聞こえてきそうです。

メディアファイブは住友ビジコン時代に生まれました。その詳細は次の「メディアファイブ創業秘話」に書きますが、98年までの5年間は、会社の了解を得て、二束のわらじをはいていました。

95年、住友ビジコンは住友銀行と日本情報サービスと合併し、日本総研にかわりました。いまでは日本最大級のシンクタンクだそうです。

私はまだ発展途上にあり、成功を語る資格はありません。しかし周囲の成功された方を見ていると、世の中に成功術なる術はないと思います。ドラゴン桜は人の作った入試だから、それを突破する術はあるでしょう。でも人為の及ばぬ社会や人の一生に、こうすれば確実に成功する、という術はあろうはずもありません。誰が阪神大震災を予想しました?だれがバブルの崩壊を予想しました?だれが911を予想しました?現実は小説より奇なり、といいます。

今昔物語に「谷底に落ちても平茸をとる話」というのがあります。信濃の国司が任官から京へ帰る途中、山中でがけから落ちました。崖下から縄をおろせ、と声がするので、家来が言われたとおりにすると、こんどは引き上げろ、という。家来が引き上げてみると、中にきのこをいっぱい抱えながら、国司が乗っていました。そして「受領(国司)は倒れても土をつかめというではないか」と涼しい顔でいいはなったという話です。中学校の教科書などにのっていた話でご存知の方も多いと思います。成功のエッセンスはこういうところにあるのではないでしょうか。

私は最近数多くの成功している経営者に会う機会が増えましたが、成功している人の共通点は、素直で、与えられたチャンスや義務に誠実に、精一杯取り組み、失敗や不幸にも誠実に、精一杯乗り越えて、それをプラスに活かそうとしています。そして一生懸命、目の前のことを一つ一つ取り組んでいながら、すこしずつ自分の天命が理解できるようになっていくようです。

反対に失敗する人の共通点はどこか斜に構え、策略や陰謀を好み、自分だけが得することばかり考え、目先の判断で自分の人生を変えていこうとすることです。

世の中万事塞翁が馬とはよく言ったものです。それが成功の秘訣なのかもしれません。

About

2008年02月03日 21:28に投稿されたエントリーのページです。

ひとつ前の投稿は「創作 石津」です。

次の投稿は「生成AI時代の歩き方 終戦記念日」です。

他にも多くのエントリーがあります。メインページアーカイブページも見てください。

ブログパーツ

Powered by
Movable Type 3.34