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670年前の悲劇

デュマの巌窟王を読んだことがありますか。14年間無実の罪に陥れられ、モンテクリスト伯としてよみがえり、自分を陥れた人たちを復讐するフランスの小説です。しかし日本に670年間も誤解され、無視されつづけた最強の巌窟王がいます。北畠親房です。

北畠親房というと、どうも右寄りの思想と見られています。その原因は「神皇正統記」を書いたからでしょう。この書は1339年、戦場のなかの常陸の大宝城や関城で書かれました。しかしこの内容は、実は、とても右寄りの人には受け入れられない本なのです。戦前は右翼の攻撃対象にもなっていました。なぜなら武烈天皇や陽成天皇の例を出し、行いや心持ちの悪い天皇は廃嫡してしまえ、と述べているのです。さらに陽成天皇を廃嫡した藤原基経や、承久の乱で朝廷に反旗を翻して後鳥羽上皇を隠岐に流した北条泰時の徳を褒め称えているのです。さらに親房は、日本人はみな元を正せばアマテラスにいきつくから皆兄弟なのだと言っています。(「人はすなわち天下の神物である。ゆえに人たるもの精神の正しさを失ってはならぬ」日本の名著9神皇正統記上P371)、(「天下の万民はすべて神の子である。神は万民の生活が安らかにするこおを本願とする。」同下P431)

かといって神を限定するわけでもなく、人間みなその心はそれぞれなのだから、いろいろな宗教があるのを認めなければならない、と言っており(「ひとつの宗派に志ある人が、他の宗派を非難したり低く見たりすることはたいへんな間違いである。」同中P395)いかにリベラルだったかがわかります。

そもそも読者の中には「神」ということばも抵抗がある方が多いのではないでしょうか。親房の「神」はすなわち八百万の神、イコール自然や天という言葉で置き換えて差し支えないと思います。宮崎駿のトトロやもののけ姫、千と千尋の「神」と同じイメージです。

親房は山間の村人たちに政治意識、国家観念を啓蒙していきました。もちろん武家を敵に回したための、戦闘要員として村人たちを引き入れた、という理由もあるでしょう。しかし、親房が従来思われている、天皇崇拝、公家の権益を守るだけの人間であったならば、そのような行動にはでないでしょう。なぜなら北朝と和解し、良い暮らしをしようと思えば、いくつもチャンスはあったのだから。親房が実現したい国家、それは国民すみずみまで学問と日本の伝統文化を大切にする文化国家の建設だったのです。

賀野生には親房の理想国家の建設に共鳴し、武器をとって命をおとした村人の慰霊碑が親房の墓のとなりに建っています。

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(村人たちの慰霊碑)

先日、経済団体での上田知事との懇談会で、知事が日本国内の需要の低さを嘆いていましたが、私は国民の独立心と向上心に火をつけなければならない、と思い、メディアファイブを作ったとき、資格試験のソフトの開発に力を入れました。消費市場を投資市場に変えていかなければならないのです。その辺のことは2001年に刊行した頑張り応援宣言の中に収録されている、「21世紀への提言」をご高覧ください。911の年、日本経済はどん底になり、失業者が増加したときに、皆さんに資格をとって頑張っていただこう、と無料で配布したものです。

もうひとつ親房の誤解を解かねばなりません。彼が血統を重視したことです。なぜ血統を重視したか。ひとつは上記にあるように日本人はみなアマテラスに行き着く、という文化国家の建設にありました。
もうひとつは、これがもっとも大問題なのですが、いままでブログに書いてきた、報酬の分配の問題です。彼は上古を例にとり、(「まず勲功があるからといって官位をあげることはしませんでした。そのかわり勲位という制度をつくり、それ相応の待遇をうけることができたのです。」同下P443)今でも勲一等というのはこの名残なのです。(「そして官職を選ぶ基準はまず行いの正しい人。そしてその次に才能のある人を選びました。また徳義、清廉、公平、勤勉の4つを重点として人を選択したそうです。」同下P445)

当時報酬は土地でした。しかも建武の親政になり、北条政権が滅びると恩賞の問題で日本中大混乱に陥りました。親房がいいたかったことは、(「土地は政治の基であり、恩賞ではな」ということ。同下P447)もともと武士は朝廷の一官職であったのが、平氏の台頭から北条政権にかけて朝廷から離脱を始め、殺し合いで土地を奪うようになってしまったことを親房は思わず「武士は長年にわたる朝敵」と言ってしまったのです。まあこういうことを宣言すれば武士は味方から逃げていくでしょう。親房の失敗と誤解はここにあるのだと思います。親房はあまりに人間を信じすぎ、理想高く、人々の理性に期待していたのです。だから日本人はみな神の子だ、という神皇正統記を書いたのでしょう。

しかしこれはもてるものの、高い地位にあるものの思い込みだと思います。大部分のもてない人々は奪い合い、殺し合い、ぎりぎりのところで生き延びているのです。人々の欲望を理性で制限させようとする政治はいつの時代でも失敗します。田中氏が以前のブログで指摘したように宗教しかその解決の手段は当時なかったのでしょう。

それでは親房はどうすればよかったのか。息子の顕家が尊氏を破って都を奪還したとき、恩賞をとらずに、みなの手本にさせるぐらいが関の山だったでしょう。欲望を抑えろといっても、当時ではどうすることもできなかったのです。

やはり力で欲望への配分を制限するしかなかったのです。つまり「公家の武家化」を実現するしかなかった。しかし南朝の公家で武士を指揮できるのは、護良親王と顕家しかいなかった。なぜ後醍醐天皇は自分の息子であり、建武の親政第一の功労者である、護良親王を足利尊氏に渡してしまったのか。護良親王なきあと、顕家の戦死で建武の親政は実質終わったことになってしまうのです。

それから300年近く、欲望を力で奪い取る、戦乱の世が続きました。徳川家康や天海の出現で、ようやく乱れたる世にピリオドを打つことができたのです。もちろん宗教という手段も使いますが、徳川幕府は欲望を合い反する2つの勢力を共存させることで、みなの欲望をそいできました。つねに二律背反なものを同居させました。士農工商という階級をつくり、商人など金持ちほど低い位にする。またこの時代にもまだ南北朝の対立の流れは存在していたのですが、それも温存する。譜代、外様と藩を分け、徹底した分権統治と、外様同士を争わせ、あらゆる社会で2律背反を同居させることにより、徳川幕府を脅かす巨大な勢力が誕生しないようにしたのです。その結果270年近い安定した社会を生み出しました。

そして黒船の出現とともに、また強力な中央集権国家の存在が必要となり、その対応が柔軟にできなかった徳川幕府は倒れ、明治政府が誕生しました。そして中央集権のもと、個人と組織の競争はまた始まりました。

日本は軍部の派閥争いから、危うく国を滅亡させる寸前まで陥りました。

戦後、自由主義の下、個人の競争、会社の競争の元で、日本は大きく高度成長を遂げました。
しかしその成長もだんだん行き詰まりつつあり、環境問題も表面化し、競争原理だけで本当にいいのか、新しい突破口を皆が模索しはじめました。

そして今、ITの出現とともに、組織と個人のシナジーが可能になったのです。ようやく親房の理想が実現できる世の中が到来したのです。

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2008年02月03日 23:12に投稿されたエントリーのページです。

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