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ドナルドキーンの「明治天皇」

タイ国王の死去で、ふと日本の天皇制について考えました。

この休みに、ドナルドキーンの「明治天皇」を久しぶりに読み返しました。
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今、関心のある天皇論はこの分厚い明治天皇と、ハーバードヒックスの昭和天皇です。

勿論日本人の書いた天皇論もだいたい読みましたし、陰謀論的な本も随分読みました。

明治天皇すり替え説です。

その真偽はともかく、日本人の書いた天皇論はだいたい偏っています。


今はなるべく客観視された天皇論を考えてみたいのです。


と思ってドナルドキーンの書いた、この分厚い明治天皇の上巻を紐解くと、すぐにとても面白い記述がありました。この文献は明治天皇実記という13冊からなる宮中の記録をベースにしているそうです。


それは父の孝明天皇が崩御し、明治天皇が即位したての時、孝明天皇の亡霊が頻繁に夜だけでなく、昼も出没し、明治天皇を悩ましたそうです。

孝明天皇が暗殺された噂は現代でも有名です。

第一の容疑者は岩倉具視で、第二の容疑者は伊藤博文です。

僕はこの記述にとても興味を覚えました。

まさにシェイクスピアのハムレットと同じストーリーだからです。

しかし、明治天皇はハムレットと違って、父を暗殺した疑いのある岩倉具視も、伊藤博文もことの外信頼していました。

明治天皇すり替え説が出てくる原因はこういったこともあるのでしょう。

一番大きいのは、本来北朝系であるはずの明治天皇が、南朝を正当化し、南朝で活躍した人々を祀る神社を国家プロジェクトとして進めたのです。

その第一が、先々週薪能を開催した大塔宮です。

護良親王→鎌倉 大塔宮 明治2年設立 
kamakuratakigi.jpg(大塔宮 薪能)
明治天皇は能が好きだったので、多くの明治天皇の建てた大社は薪能をします。

後醍醐天皇→奈良 吉野神宮 明治22年設立 
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(吉野神宮)
宗良親王→静岡 井伊野谷宮 明治2年設立
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(井伊野谷宮)
新田義貞→福井 藤島神社 明治3年設立
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菊池武時 菊池神社→熊本 菊池神社 明治3年設立
楠木正成→神戸 湊川神社 明治5年設立 
北畠顕家、親房→福島 霊山神社 明治14年設立 
北畠顕家、親房 大阪 安倍野神社 明治15年設立 
北畠神社 明治15年改称

明治天皇が巡業の折に、その土地土地で、活躍した南朝の人を祀りました。

しかし護良親王、宗良親王、新田義貞、菊池武時、楠正成がまず先で、後醍醐天皇を祀るのが明治22年まで祀らなかったのが不思議といえば、不思議です。

ただ、「明治天皇」という学術的な本を読む限り、すり替え説はやはり事実ではないかもしれません。

というのは、鎌倉時代以降、積極的に政治にかかわろうとした天皇は、後鳥羽上皇、後醍醐天皇そして、500年以上たってはじめて孝明天皇が開国を反対して主張したのです。

しかも息子の明治天皇は小さいころから、一貫して、そういう父の意見に異を唱えていました。

まさに明治天皇の性格は小さいころから変わっていないのではないか、と思わせる史実の記録があります。

たとえ、北朝系の天皇といえども、明治天皇は建武の中興の再現を起こそうと、それは孝明天皇の強い意志でもあったのではないか。

そして孝明天皇を後醍醐天皇の対比として、自分は護良親王になぞらえたのではないか。

そして、実の父といえども、もし孝明天皇が生きていたら、自分も護良親王と同じ目にあったかもしれない、と考えたのかもしれません。

明治天皇は、小さいころから太平記や北畠親房の神皇正統記を好んで勉強していたという。

そういうことも南朝支持を打ち出したことなのではないか。

一生で10万の和歌をつくるなど、もし少年期を庶民の中で暮らしてできるものだろうか?

さらに明治天皇が崩御したとき、世界中のマスコミは明治天皇を賞賛したという。

ドナルドキーンも当時の世界の皇帝のなかで、明らかに最高の皇帝だったと言い切る。

他国との戦争や侵略を嫌がり、しかし、政治にはなるべく口出しをせず、しかし、日本を正しい方向へ導く。

明治天皇は有史以来もっともすぐれた天皇だったようです。

孝明天皇は毎日幼少時の睦宮(明治天皇)に和歌の指導をしたといいます。

生まれながらの帝王学を学ばなければ、ここまで完成した王は無理なのではないでしょうか?

明治天皇は11人の子供を生みましたが、生き残ったのは、わずか三人、しかも皇子は大正天皇だけでした。

大正天皇はあまり肯定的な評価を歴史家はしておりません。

しかしあれだけの漢詩をつくれるのは、相当明晰でないと無理だと思います

大正天皇は山形有朋を最も嫌い、山形も大正天皇をなるべくお飾りにしようとしたようです。

昭和天皇は明治天皇を手本としました。

しかし明治天皇を手本とすればするほど、昭和の時代は、どんどん難しい方向へ流れていきました。

それは明治の時代に、清、ロシアという大国に勝利し、それは国民に、戦争がなんでも解決してくれる、という軍隊万能観をうえつけてっしまったようです。

欧米列強は日本を見直した、というより、警戒し始め、

そして1923年関東大震災が起こり、東京が灰塵に帰し、追い打ちをかけるように1929年に世界恐慌が起こりました。

東北では大飢饉により、餓死者や娘を身売りする家が増え、さらなる2.26事件へとつながります。

ある意味、明治が偉大な時代であればあるほど、その反動のつけが昭和にまわってくるのです。

次回、ヒックスの昭和天皇論を紹介します。


しかし、孝明天皇はどんな思いで、引き継いだばかりの明治天皇の前に亡霊となって現れたのでしょうか?

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2016年10月16日 08:35に投稿されたエントリーのページです。

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