« 高村光太郎と私 | メイン | 生成AI時代の歩き方 終戦記念日 »

報告書「ルーツを探る」

このゴールデンウイークで、温泉旅行も兼ねて、父母らと福島に行ってきました。

今回、このブログを出版する、という話になり、それなら、この際ルーツをしっかり調べないといけない、と周囲の人が言うので、このゴールデンウイークを使って、父の実家に行ってきたのです。

最近ルーツの詐称問題や、戦後すぐ後南朝天皇問題などいかがわしいルーツにかかわる事件があったので、私のルーツは果たして親房や顕家とつながっているか、ここまで調べ、これ以上はわからない、ということを明記するほうが良い、ということなのでしょう。

皇室関係のルーツは社会的に大きな影響を与えるかもしれませんが、民間の氏は、しかも中世に活躍した氏のルーツなど、まったく社会的意味はないと思います。

私はルーツにこだわっていません。ただ北畠親房を歴史上もっとも敬愛する思想家、文学者で、顕家はもっとも敬愛するリーダーであり、武将であると思っています。それは私にとって本居宣長や山鹿素行、西行、実朝、世阿弥、徳川家康を敬愛するのと同じことです。

ただ、私は、今日、上に挙げた人物に比べ、親房や顕家はあまりにも無視され、誤解され続けているように思えてなりません。世間が無視しているのか。或いは自分のDNAが親房、顕家とつながっているから、好みや思考パターンが似ていて、身内びいきになっている、という可能性もあります。

北畠家のルーツを探ることは、後南朝問題そのものです。戦後、父の実家の人たちはそのことにあまり触れたがりませんでした。戦前は神皇正統記には、不徳な天皇は降ろしてしまうほうがよい、とか後鳥羽上皇を迎え撃った北条泰時を支持したり、右翼から攻撃を受ける可能性が高く、戦後は逆に、やはり神皇正統記が右傾学者の東大教授の平泉澄博士などに支持されたので、GHQから田畑を取り上げられるのでは、という恐れを抱いたようです。

親房やその子顕家、顕能の末裔である伊勢北畠は1576年織田信長に滅ぼされ、浪岡北畠も1578年に津軽為信に滅ぼされました。そして信長も為信も一族を根絶やしにせんと掃討作戦をおこない、北畠家の末裔は名字を変えて、安東や秋田家などに臣下として入り込むか、山岳地帯で農林業や狩猟などを営むか、信長に内通した北畠の庶流、木造氏はそのまま信長の家臣となりました。

一説によると、大日本史を水戸光圀公が編纂したとき、北畠関係の資料を焚書にした、ということも伝えられています。

いずれにしろ、歴史の表舞台からは、15世紀を待たずして消え、しかし南朝の問題は明治や戦後も含めて微妙な問題を数多く含んでいるので、その子孫を名乗るのは、百害とまで言わなくても五害あって一利なしであると思われます。

したがって、私の小さいころから、父の田舎では、先祖のことは誰一人無関心かつ、なんとなくタブー視をしておりました。誰かが「先祖のことは外の者は調べてもよいけれど、内(その地域)の者は調べられない」と言っておりました。

とにかく、今回、自分のルーツを調べられるだけ調べました。親房、顕家の末裔である確証はありません。資料からわかった状況証拠を公表します。

1、天栄村広報誌に顕家の末裔として親戚の家が紹介されました。

2、父の実家の丸に三柏の家紋が福島では村上源氏を祖とする、と家紋辞典に載っています。(都道府県別 姓氏大辞典 柏書房 2004年)

3、長沼の寺の過去帳では実家の北畠の名前は室町時代の大永2年(1523年)から見られます。

4、江戸時代も、墓には北畠という苗字が示されており、認められる古いもので、元禄16年の記載がああります。(そのほか、両脇の墓は、享保、文政など1700年から1800年代が中心)

5、父の実家や親戚の先祖は庄屋、本陣、脇本陣、組頭で、ともに牧之内村の役場を中心に隣接しており、村の運営を担う一員だったようです。

6、牧之内村は立石山と大里城の間1里(4km)の間にあります。
 ・立石山は1360年ごろ、護良親王の子である興良親王が立てこもっていたところです。
 ・大里城は北畠親房が建てた城で、おそらく結城親朝が保護していた顕家の娘がかくまわれていたところです。
 ・親朝は1347年に死んでいますが、その息子顕朝の「顕」は顕家の名前からとったものと推定できます。したがって顕朝も親房には離反しても、顕家に対しては親近感をもっていた可能性もあります。
 ・顕家の娘は安東家に嫁ぎ、何らかの理由でこの地に戻ってきたか、もしくはその子孫が戻ってきたか、が推定できる。安藤(この辺りではこちらの字を使っている)という苗字もこの地域に多い。
 ・天保期の小文書では北畑となっており、この「畑」は津軽の北畠が一時名乗っていた姓であり(姓氏家系大辞典 1963年角川書店)、 顕家の娘が嫁いだ安藤家は津軽に本拠を置いていました。

7、牧之内村は名馬の産地で、古くは八幡太郎義家の愛馬「薄墨号」、熊谷次郎直実の名馬「権太栗毛」は牧之内村の産地であった。つまり馬のブランド産地であったのです。馬の産地は、実は戦国時代までは大変重要で、有名な武田信玄の騎馬軍団がなぜ強かったか、というと甲斐が有数の馬の産地で、良質の馬と、馬の扱いに慣れた兵が多かったからといわれています。南朝再起の拠点としてはうってつけの場所だと思います。

8、父の実家の菩提寺であった正法寺というのは真言宗であった。そのお寺に詳しい家系図や過去帳があったようですが、明治期に焼失し、資料が喪失したそうです。親房は著作「真言内証義」で、真言宗を第1とした。また正法寺は大変古く、747年から757年の開山ではないかといわれています。
%E9%96%80.gif

9、興良親王に付き添っていた武将立石、木村、森の姓がこの付近に多い。また父の実家は長い間、左記の姓の人たちや、同姓の人たちと姻戚関係を父の代まで繰り返してきました。

10、この岩瀬郡の周辺は、最後まで須賀川の宇津峰城を中心に南朝の奥州拠点であり、南北朝以降、氏内分裂や多くの氏が北朝に転向したとはいえども、結城、伊達、二階堂、田村、南部など顕家の側近の子孫が多く、江戸以降は新田の末裔を自称する徳川家に近い松平家が統治しているので、北畠を名乗っても問題はなかったのではないでしょうか。

11、近隣の村にある寺の過去帳では、北畠家は、戦国時代の大永(1521年~1527年)から存在します。おそらく父の実家の裏の真言宗の寺が消失したときに、多くの過去帳は消失したのでしょうが、近隣の村へ嫁いだ娘や、養子に出した子供が死んだときの記録が残っているものと思われます。
%E4%BA%AB%E4%BF%9D%E9%81%8E%E5%8E%BB%E5%B8%B3.PNG(享保年間に卒した過去帳)

なによりも、北畠家が、江戸時代以降、農業や脇本陣などを営み、武士でなかったこと,牧ノ内自体、馬の名産地としての重要拠点でありながら、会津街道からかなり山奥であり、いざというときは山に逃げ込めることも幸いしたのでしょう。

牧之内村と立石山、大里城は東西に1里(4K)離れています。これらの事実をもとに、これ以降は推測なのですが、顕家の娘は、1340年代つまり生まれてから、安東氏に嫁ぐまでは、結城親朝の保護下、ここにいた可能があります。

しかし1360年代にまた安東氏の一族の一部の人たちとここに戻ってきたのではないでしょうか。というのは1360年代に興良親王が、吉野を逃れて立石山にこもったのは、いとこである顕家の娘を頼ってのこととも考えられます。それゆえに、この一帯に北畠、安藤、立石、木村、森という苗字が多いのではないでしょうか。1360年以降消息を絶った興良親王も、この地で亡くなったのかもしれません。(九州へ落ちた話もあります。)

今回のゴールデンウイークでの調査でわかったことはだいたいこんなところです。写真や資料は膨大な量を集めましたので、今後、この報告書に追加記入してまいります。

そもそも自分のやろうとしていることが親房、顕家のしようとしたことと重なることがわかったのは、会社を興した後のことです。たとえ自分と親房、顕家と血がつながっていなかったとしても、何ら今の自分の立場や考えが変わるわけではありません。

それよりも、今回のルーツ探しでもっとも興味をもったのは農村における村落共同体のメカニズムの素晴らしさです。「天栄村史」は全4巻、4500ページを越す膨大な資料です。この資料を徹底的に読んでみて、特に江戸時代から明治にかけて、村落共同体として、村人たちが実に生き生きと、自主的に暮らしているのです。

次回のブログでそれをご紹介します。

About

2008年05月20日 20:27に投稿されたエントリーのページです。

ひとつ前の投稿は「高村光太郎と私」です。

次の投稿は「生成AI時代の歩き方 終戦記念日」です。

他にも多くのエントリーがあります。メインページアーカイブページも見てください。

ブログパーツ

Powered by
Movable Type 3.34