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歴史 南北朝 アーカイブ

2007年10月23日

玄象

先週、国立能楽堂で玄象を見た。玄象とは弦上とも書き、弦の神様という意味です。

ここへきたのは10年ぶりで、懐かしい思いがこみ上げてきました。

若和布というなまめかしい狂言のあとに、その能は始まった。

太政大臣藤原師長は琵琶の名手で、日本国内には自分以上の名手がいない、と思い、ひそかに唐土(中国)に渡ろうとした。須磨の浦まで来ると、日も暮れて、塩屋の主に一夜の宿を頼んだ。主は恐縮しながら師長を家へ入れると、主と姥は、師長に琵琶を一曲頼んだ。

琵琶を弾いていると、浜風の音や小屋の屋根板に打ちつける雨の音が琵琶の音に合わず、師長は弾くのを止めてしまった。姥は苫をとりだすと、板屋に葺き、雨の音を琵琶の音に合わせてしまった。

師長が、そなたたちはただものではないとお見受けした、是非とも琵琶をお聞かせ願いたい、と言うと、主は琵琶を、姥は琴を奏で、あまりのすばらしさに、師長は驚いた。

「自分がこの国で一番の琵琶の名手と思っていたが大変な思い上がりだった」。師長がそうつぶやいてその場を立ち去ろうとすると、姥は師長の袖を引き、とどめようとした。

師長が、そなたたちは何者なのですか、と尋ねると、主は「玄象の主、村上天皇とは私のことだ。この姥は梨壷の女御である。そなたが唐土へ渡るのを止めに参った」と告げてしばらく消え、村上天皇在りし日の姿となって再び現れた。

そして師長に三面の琵琶を渡すと、それを師長に奏でさせた。天皇も合わせて奏でると、竜神が現れて激しく舞った。その竜神につられ天皇も舞った。

その天皇の舞いは、観世宗家である清和氏が舞いました。宗家の舞はいつも神々しく美しい。白い貴人の衣装を身にまとい、上品な面をつけ、その舞は本当に神のようだった。

能であるから、能管と大鼓、小鼓、太鼓だけで演奏をしているのだけれども、頭の中で藁葺きの板間に打ち付ける雨音をBGMに激しく琵琶の音が鳴っていた。村上天皇はその琵琶のなかで、徐々に舞の激しさを増していった。

現代劇だったならば、そこに琵琶と雨の音の効果音がことさら大きく入ると思います。しかし能ではその音を観客に想像させることで、単純なものから最大限、その存在感を引き出させます。つまり「秘めたるは花なり」、これこそ能の醍醐味でしょう。

しかし私は、いつも観世流宗家の舞を見る日は、偶然にも嫌なことが起こります。不思議とこの大きな感動を、毎回のように、暗澹たる気持ちの中で味わっている。きわめて美しい女性と付き合うと運が悪くなる、といわれますが、それに近いのかもしれない。いまでは自分は美と心中する気概はないので、大人になってからは、そういうものを避けてきました。こういうことが、こう何度も続くと、宗家の舞を見ることが、少し恐ろしくなりました。これからは心して見なければなりません。

そのようなことを考えていると、私は高校時代を思い出しました。女性にはおくてでしたが、当時、わけもわからず美や芸術のことで頭をいっぱいにしていたからです。特に小林秀雄の文庫本はいつも鞄に入っていました。

そのなかでも「当麻」という能を書いた文章は、当時繰り返し読んでも意味はわからなかったのですが、一番好きでした。今、改めて読み返すと、初めて理解できたような気がします。

簡単に言えば、世の中はどんどん複雑になりはしたけれど、中世のシンプルな生き方が、それは史家からは乱世とは呼ばれているが、もっとも健全なのだ、ということです。

本文にある有名な一句「美しい花はあっても、花の美しさはない」とは、花の美しさを分析しても意味はない、現代社会は分析ばかりするが、それは現実を複雑にするばかりだ、といいたいのでしょう。

私は複雑になりすぎたこの現代社会を、ITという未来の申し子を利用して、中世のシンプルな生き方に戻せる道具を作ろうとしているのです。

時代そのものは元には戻りません。未来をシンプルに生きることが、これから私たちが目指すべき人間の理想的な生き方なのだと思います。

それは宗家の舞う能のように、美しい夢幻の世界のように思えますが、必ず実現させよう、と決意を新たに秋の深まりを感じさせる、肌寒い夜道を帰りました。

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2008年01月24日

5月22日

私は京都、鎌倉が好きです。ついでにいうと軽井沢も好きです。最近なかなか行けないのですが、その手の雑誌はすぐに買ってしまいます。昨年の秋のことですが「歴史を歩く 京都、鎌倉と北大路魯仙人」という雑誌を店頭でみつけ、面白い記事が載っていました。芥川賞作家の柳美里氏が書いていたのですが、最近、鎌倉に家を買ったそうです。占い師に見てもらったら鎌倉は戦争がよく起きるから、土地を買うのはよくない、といわれたのですが、扇が谷に大変気に入った物件があり、その占い師のいうことを無視して購入したそうです。事件は晩春に起きました。夜中に、柳氏が仕事をしていると、お子さんがとつぜん顔面蒼白で起きて来たそうです。そしてなにもない壁に向かって、「誰かいる、たくさんの人がここにいる」と硬直しながら言ったのです。柳氏はその日、つまり5月22日に、昔な何かあったんだと次の日、本屋で調べたら、鎌倉幕府滅亡の日だったのです。
P1010012.JPG(瑞泉寺境内)

1333年5月22日、後醍醐天皇は鎌倉幕府を滅ぼし、建武の親政をひきました。しかしこの幕府も足利尊氏の反乱で2年とは持たず、その後日本は南北朝という2つの政権に60年間割れたのでした。鎌倉幕府滅亡の原因は、直接の原因はマクロ的に見れば、貨幣の市場における流通量の急激な増加から地頭、荘園という従来の経済システムが急激に崩れていったこと、そして政治的には2度の元寇が国内におおきな精神的傷跡を残し、鎌倉幕府のような分権統治型政府より中央集権的政府の必要性が強まったことが言えるでしょう。
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(顕家像 霊山神社)

しかしなぜ建武の親政は2年で崩壊したのでしょう。ひとつには元の衰退により、外圧がなくなったことがあげられます。つまり国家的危機がなくなったので、中央集権的な国家を作る必要がなくなったのです。二つ目はこれが直接の原因だと思いますが、まさに後醍醐天皇のリーダーシップの問題です。

そのあたりのいきさつが良くわかる資料が残されています。側近が後醍醐天皇にあてた奏文(抗議文)です。それを残したのが、天皇の側近三房といわれた吉田定房、万理小路藤房、北畠親房の長男顕家です。側近中の側近の全員とその息子が徹底的に抗議しているのだから大変なものです。

吉田定房は後醍醐天皇が2回目に乱を起こそうとしたとき、北条氏を討つ正当な理由がない。いたずらに乱を起こせば、民衆が苦しみ、いたずらに血が流れるだけだ、と言い、北条氏に内通までしました。まさにそのとおりになったのです。

万里小路藤房は建武の親政の恩賞の配分が非常に不公平であることを後醍醐天皇に具申し、そのまま失踪しました。もっとも功績のあるものは護良親王、赤松円心、楠正成、足利尊氏、新田義貞であることを指摘し、天皇の息子である護良親王は政敵足利尊氏に引渡し、結果殺されてしまいました。また赤松円心は、はやくから北条氏に謀反し、親政誕生に大変な功績があったのに、前政権で、守護職だったものを、地頭職にまで降格してしまったのです。赤松円心は後に足利尊氏につき、足利政権確立におおきな立役者になりました。また宮中の内裏の造営も、政権が安定する前にそういうことはやめるべき、とも具申した。

北畠親房の長男顕家は16歳から鎮守府大将軍として東北の経営を任されていました。しかしもともと統治のいきとどいていない東北の地を収めるのは、並大抵のことでなく、当時の漢家(文部官僚)であった顕家は、まったくお門違いの弓矢をとって氾濫の鎮圧ばかりしなければならなかったのです。ところが、漢家であるから孫子の兵法が得意からなのか(武田信玄で有名な風林火山ののぼりは、親房顕家親子が初めて使ったのです)、いくさではほとんど負けずに軍神にまであがめられ、足利尊氏が京都を占領したとき、それを取り返したほどでした。しかし根本的な親政の過ちがなおらない中、奈良坂の戦いではじめて戦に破れ、だんだん追い詰められていきました。そのような中で下記のような抗議文を後醍醐帝に送ったのです。

1、権限を分権化すること。当時全国のトラブルや政治の裁定を全部中央でおこなっていたため、つねに裁定の滞りとずさんさが目立ち、後醍醐政権へのふまんが爆発していました。顕家は陸奥のほか、関東、九州、北陸に裁定する場所を分権化し、京都を含めた5箇所で政治をおこなうことを提案しました。

2、まず奢侈をやめ、税を低くして、民の安寧をはかるべきである。特に万理公路藤房もいったように内裏の造営はそのころの民衆の生活を非常に圧迫したようです。

3、いたずらに能力の低い人に高い位を与えることをやめさせる。そういう人は報奨金で対処すべきである。地位と報酬は別物、ということです。これは現代でもいえることですが、報酬をけちって地位を渡すととんでもないことになります。無能なリーダーほどその悪影響は大きいものですから。

4、つまらない取り巻きを作らないこと。そういう人物に大禄を支払わないこと。そして昔からの土地をもっている人にはその土地を返すこと。

5、民衆が塗炭の苦しみのなかにいるのに、酒宴やパーティーばかりやってはいけない。

6、朝令暮改をしないこと。行政をおこなうベースとなる法律、つまり「システム」はきちんと作らなければ、混乱をまねくことになります。

7、くだらない公家や官女や僧侶を重用しないこと。そして位の低いものでも有能ならば登用すること。

つまり現代的に言ってしまえば、
① 権限の分権化、②コスト意識、③公平平等な人材登用、④システムの構築、⑤公私混同の排除 の5つです。簡単にいえば、建武の親政はこれがまったくできていなかったのです。

現代の企業でもこの5つが成長と繁栄への永続の条件なのだと思います。

実は、私は「則天」の開発を進める上で、強く念頭にあったのはこの顕家の奏文です。
奏文の最後にこのような文章がかかれています。

以前条々、言(もう)すところ私にあらず。およそそれ政をなすの道、治を致すの要、我が君久しくこれを精練したまい、賢臣各々これを潤飾(じゅんしょく)す。臣のごときは後進末学、なんぞ敢て計い議せんや。しかりといえども、あらあら管見の及ぶところを録し、いささか丹心の蓄懐(ちくかい)をのぶ。書は言を尽くさず。伏して冀(ねがわ)くば、上聖の玄鑑(げんかん)に照して、下愚の懇情を察したまえ。謹んで奏す。     延元三年五月十五日従二位権中納言兼陸奥大介鎮守府大将軍臣源朝臣顕家上る
(いろいろご注進させていただいたことは、私心から出たものではありません。政治をおこなう方法、民を治めるにあたり大切なこと、お上が切磋琢磨し、優秀な部下たちがそれを実行するものです。私のような学問もまだ浅いものがこんなことを申しても恐縮ですが、今の世の中の現状を鑑みて、どうしても申し上げたいことがございました。書いたものは言を尽くさずですが、是非お聞き入れください)

北畠顕家はこの奏文を書いた一週間後、1338年5月22日、堺の石津で、20歳の若さで戦死しました。
死んでいくときの顕家の心中はいかばかりのものだったでしょうか。
あれから670年たった今でも、多くのまじめで有能なビジネスマンが、社長やリーダーに対し、こういう思いで働いていることと思います。

1333年5月22日に鎌倉幕府は滅亡し、ちょうどその5年後の5月の22日に顕家は戦死したのです。私はこの日が建武の親政の終わり、と考えます。なぜなら天皇親政は護良親王が軍隊を率い、それに全国の武家が呼応して旧政権を倒したのが始まりならば、大軍を率いて戦える最後の公家である北畠顕家の戦死をもって、南朝の求心力は失われたからです。5月22日の因果とでもいえるのでしょうか。

この日を新暦に直すと、6月10日になります。あまり関係はありませんが、私の誕生日は6月9日です。
だから5月22日という日にちょっぴり親しみを感じています。

2008年02月03日

陵王の舞

北畠顕家を、もう少し紹介させていただきます。顕家が歴史上はじめて登場するのは増鏡です。1331年3月、後醍醐天皇が北山(今の金閣寺、中宮の実家)へ行幸の折、宴会で顕家が陵王の舞を舞い、それが実にけなげであった、と記されています。顕家13歳の時でした。
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「暮れかかるころ、桜の花の木の間に、夕日が華やかにうつろい、山の鳥もしきりに鳴いて、陵王の舞人が輝くような美しさで舞い出でてきたのは、ほんとうにすばらしい光景でありました。そのとき、天皇も御引直衣(ひきのうし)で椅子に座り、笛を吹かれました。いつもよりさらに雲井までに響いておりました。その舞人、宰相中將顯家は陵王の入綾を実に見事に妙技を尽くして退場するのを、お上は呼び返し、前関白に自らの紅梅の表着・二色の衣を渡させました。顯家はその衣を左の肩にかけ、少し舞って退場しました。右大臣が太鼓を打ち、その後源中納言具行(北畠具行、顕家の叔父)が採桑老を舞いました。具行も紅の衣をお上からいただきました。」(増鏡 下 北山行幸)

陵王の舞とは昔、中国の北斉に蘭陵王で知られる将軍がいました。眉目秀麗な名将であった蘭陵王が、美貌を獰猛な仮面に隠し、戦に挑み見事大勝したため、兵たちが喜んでその勇士を歌に歌ったのが曲の由来とされています。しかし陵王は謀反の嫌疑をかけられ、粛清されてしまいます。

粛清まではされなかったものの、その後の顕家の運命を暗示させる舞いでした。

話は飛びますが、1991年NHKの大河ドラマ「太平記」で後藤久美子が顕家を演じていました。このときの舞も桜の季節で、ちょうど顕家の舞から660年前になります。神武暦と西暦は660年だから1331年当時は神武暦1991年になるのです。ちょっとした偶然です。16歳までは学問と芸術にのみ従事し、建武の親政になるや否や、いままで訓練もしたことのない弓矢を持たされて、いきなり氾濫で荒れ狂う東北の地へ放り込まれたのです。ところが不思議なことに武家の棟梁である北条氏も持て余した東恵比寿たちを,舞のほうが似合っている公家のいたいけな少年が治めてしまったのです。それはそれは苦労したでしょう。その苦労は前回ご紹介した遺書ともとれる奏文にあります。

「小臣、もと書巻を執りて軍旅の事を知らず。忝(かたじけな)くも ふっ詔(しょう)を承り、艱難の中に跋渉(ばっしょう)す。再び大軍を挙げて命を鴻毛に斉(ひとし)うす。幾度か挑み戦いて身を虎口に脱(のが)れし、私を忘れて君を思い、悪を却け正に帰せんと欲するの故なり。」(顕家奏文 7条)

(私はもともと文官であり、軍事の知識はまったくありませんでした。しかしもったいなくも
お上よりの命令をいただき、困難の中を、山を乗り越え、水の中をわたりまくりました。大軍を挙げて鴻毛のごとく何度も危ない目に会いました。私心を捨てて、君を思い、悪を退け正義をとりもどそうとしたいからこそ、なんども身を虎口に逃れる羽目になっても、幾度も大きな敵に戦い挑んできたのです。)

NHKの大河ドラマで太平記を見ていたのは私が31歳のころでした。ちょうど今のメディアファイブをつくるきっかけとなる、教育ソフトビジネス研究会のコンソーシアムを、当時勤めていたシンクタンクで立ち上げて、1週間に3日徹夜していました。今のメディアファイブの教育ソフトのラインナップは当時の構想がベースとなっています。あまりの無理がたたり、私は網膜はく離になってしまいました。そして5月22日に入院し、すぐに手術をし、6月9日の日曜日、つまり私の誕生日に目は包帯をしていてほとんど見えなかったので、顕家の戦死のシーンを病院の大部屋のベットで、イヤホンをテレビにつなげて聞いていました。

その次の日6月10日は、前回も申しましたが、旧暦に直すと5月22日、顕家の命日なのです。
NHKがわざと顕家の命日を意識して、戦死のシーンをこの日にしたかどうかは定かではありませんが。

創作 石津

 顕家の戦死のときの心境を想像してみました。

 何時間たったろう。もうなにも感じない。水平線から40度の位置にある太陽は立ち上る煙で霞んでどんよりよどんでいる。いやもう日に赤みがさしている。夕方に近いのかもしれない。砂浜に寄せる波の音が静かに響く。いや雲も出てきたようだ。 いやな午後だ。こんな退廃的な気分でいるのは久しぶりだ。初めて大負けした般若坂の戦いのときもこのような気分だった。こんなどんよりした天気だったのかもしれない。左手に神社が見える。小さなほこらが立っている。

 後ろから矢がひゅうっ、ひゅうっと2,3本飛んできた。振り返ると、一斉に矢が飛んでくる。立ちこめる煙の中からものすごい量の矢がこちらめがけてとんでくる。敵だ。しかし敵の姿は見えない。いやこんな大量の矢がとんでくるとしたら、敵陣かもしれない。向きをくるりと変え、馬に備え付けている盾をとった。

 通り雨が振り出した。さっきまで太陽が顔を出していたのに、時雨かな。父上が時雨を歌によく詠んでいたなあ。お胴にあごを乗せる。紐や金具があたりざらざらする。雨にまじった血と唾の匂いがなにか生臭い。

 左足に鈍い痛みを感じた。膝に矢が刺さった。供のものは何人いるだろう。この敵陣を突破しなければ吉野へはいけない。とても突破できる気はしない。顕家にとって、かれを阻んでいるものはもはや敵という「人」のあつまりではなかった。義を阻むなにか人間の救いようのない欲望の壁のように感じた。この壁を突破するにはこれから何百年とかかることを確信した。何回も転生を繰り返さなければこの壁は突破できない。 ここが死に場所だ。父上、おさらばでございます。 煙の立ちこめた彼方から、とぎれることなく無数の矢は飛んでくる。琵琶の音のように鋭く乾いていた音で横をかすめる。しかし静かだ。心臓の音だけが低く、ゆっくりと、しかし確実なリズムで地の底から響くように聞こえる。どど どど どど どど どど どど 。顕家は娘を思い浮かべようとして、やめた。あまりにも悲しすぎる。宗広、親朝、頼んだぞ。そして気持ちを振り切るかのように腹の底から叫んだ。「出撃!」。すると「おう!」と思いもかけない大きな歓声がわき起こった。こんなにも味方はいるのか。そんなはずはない。しかし、もうまわりを見合わす余裕もない。血で視界もままならない。しかしこのつわものたちはこの先何百年も自分についてきてくれる頼もしさとありがたさを感じた。

 矢はあいかわらず横殴りの雨のようにふってくる。「どう」と馬の腹を蹴ると 矢の方向に向けて突撃した。左目の上に矢が刺ささった。兜のつばを突き抜けてのことだから、脳までは鏃は達してはいまい。まだ意識はある。でもどんどん視野が狭くなる。かすかに左手に松の木の林が見える。

ふと木の陰からなにものかが襲いかかる。「我こそは越生左右衛門丞四郎である。そちらにおわすは北畠顕家公とお見受けいたす。尋常に勝負」前方で叫んでいる言葉もとぎれとぎれに聞こえる。もう体は動かない。地べたにたたきつけられる衝撃を感じた。そしてたぶん背中から何度も刺されているのだろう。痛みはもう感じない。ただなぜかなま暖かい液体が鎧のなかに流れてくるのがわかる。もうだめだろうな。そう思っている時間が限りなく長い。だれかもう一人近寄ってくる気配があった。背後が騒がしい。遠くから「殿」と叫ぶ声が聞こえる。あああれは南部の声だ。生きていたのか。よかった。 そう思った瞬間、首になにかひやりとあたった。そしてその冷たさがゆっくりと右から左に流れた。なぜか松の枝と煙の間から青空が少し見えた。そして記憶はそこで途絶えた。

 何時間たっただろう。何日たったのか。何年か。今伊勢の山の中にいます。静かだ。限りなく静かだ。ああ自分は死んでよかったのだろうか。取り返しのつかないことをしてしまった。 父上の思想をひろめることこそ自分の役割ではなかったのか。戦いに勝ち、権力を御上の手に取り戻すことばかり考えていた。自分は戦が得意であったばかりに、戦に勝つことばかりを考え、戦にかつ最大の目的は民の安寧にあり、後醍醐帝のもとではそれがかなわないのではないか、という絶望感から死を選んでしまったようだ。もちろん長きにわたる戦いに疲れてもいた。思想など安定した社会を実現してはじめて可能なことだ。戦いの最中にはそんなものは無力に思えた。

 たとえ権力は尊氏に奪われても、思想を確立しておくことがもっとも大切だったのではないか。父上のお考えになる天下を維持することは難しいかもしれない。しかし伊勢や吉野だけでも確保し、維持させるのはそう難いことではない。そうして父上の思想をしかるべき世のために確固たるものにしておくべきだった。私の戦略は時間を背に展開してきた。時間に追いつかれた時が負けだと思っていた。般若坂の時もそうだった。石津のときもそうだった。私は生まれてからいつも時間より先に生きた。

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(般若坂から東大寺の裏手に出る)

 しかし時間をまつことも大切だ。こんど生まれる機会を与えられたら、待つことの得意な人間になろう。待つことの得意な人生。老齢になるまで、世に知られず、普通の人生をおくり、当たり前の暮らしをし、時間をかけて父の教えを広めるのだ。そして時を待つのだ。人が人として生きる世を待つのだ。

 ああそういう暮らしをしてみたかった。そういう人生をおくり、学問を整え、確立することが、本当に世の中のためになるのかもしれない。自分は歌らしい歌すらも残さなかった。もう今となってはどうにもならない。そうおもうと悔しさで胸がいっぱいになった。父に申し訳ない、あれだけ偉大な知識人を父に持ちながら、自分は父の思想を広める立場にいながら、なにもできずにしんでしまった。滅びの美学は、死んでみると底が浅いように思える。いいようのない後ろめたさが残った。

ここに顕能はまだおるのか。もう館はないぞ。草もぼうぼうではないか。

そしてそこでまた記憶はとぎれた。

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(霧山城跡)

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(霧山城跡から望む)

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(現在の堺市石津川)

メディアファイブ誕生秘話

それはある、研究会から始まりました。当時、住友ビジコン総合研究部(現日本総研)に属していた私は大手ハードメーカーや大学と組んで教育ソフトの研究会を主宰していました。そこに堺の教材会社の社長さんが参加しておりました。そしてそれがご縁で、その教材会社の新規事業のコンサルテーションをさせていただくことになりました。教育ソフトの開発です。初めてその会社にお邪魔してその帰り道、偶然に私と同じ苗字の地名を見つけました。そして北畠公園というのを見つけました。その奥にお墓があり、公園の3分の一をその墓の囲いで占められていました。柵の扉がしまっていたのでその前でなんとなく手を合わせながら、ひょっとしてこのコンサルティングが自分の人生を大きく変えるかもしれない、と予感しました。その墓は北畠顕家の墓でした。

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(北畠公園 顕家の墓)

顕家のことは、福島県岩瀬郡にある父の実家の村の会報誌や、父の話で知っていました。ただなぜかそのことは実家の方たちは、皆あまり話したがりませんでした。無関心なだけだったからかもしれませんが。

顕家は1318年に後醍醐天皇の側近である北畠親房の長子として生まれました。北畠家は村上源氏庶流であり、和漢をつかさどる家とされていました。以前玄象という能について書きましたが、そのなかで村上天皇が登場しています。その村上天皇を祖とし、臣下にくだされた家系が村上源氏の流れです。まあ今で言うと文部省と文化庁をあわせた役所の役人ということでしょう。顕家は1338年5月22日(旧暦)に足利尊氏方の高師直に堺の石津で討たれました。そして阿倍野の、今は公園になっているこの場所に葬られたそうです。

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(堺 石津川)
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(顕家慰霊塔 石津川ほとり)

教育ソフトの研究会は任天堂のスーパーファミコンがCD-ROMプレーヤーを出す予定にしていたので、そのフォーマットで出すことを念頭においた研究会でした。ところ任天堂は、CD-ROMプレーヤーのOEMを受け持つソニーとけんか別れし(その結果ソニーはプレーステーションを出したのです)、教育ソフトの研究会も存続の意味がなくなりました。そこで堺の教材会社の社長さんが、せっかくここまで研究してきたのだから、教育ソフトの専門の会社を作ろうよ、とおっしゃっていただき、私の勤めていた会社の了解もとり、メディアファイブは誕生しました。

ちょうど父が建設会社を役員定年で退職したのをきっかけに、社長に就任してもらいました。当初、父とは本当にぶつかりました。建設会社とソフト会社では、その経営手法が正反対だったからです。ソフト会社は大きな投資はあまり必要なく、当初、私は銀行との付き合いをあまり重要なものとは思ってませんでした。しかし父は、もちろん建設会社時代から、銀行との関係づくりを重視していました。私は当時そんな父を見て、ソフトビジネスがまったくわかっていないな、と思っていましたが、それが大変な思い違いであることを8年後に思い知らされました。2001年の9.11のときです。株価は半分になり、上場していた家電メーカーが一斉に翌年の3月に大量の商品の返品をしてきたのです。社内の社員の造反にもあい、3分の1の社員に退職され、しかも同じような会社をつくって妨害もされ、有効な手もなかなか打てず、その次の年から2年間連続して赤字を出してしまいました。こんなとき、日ごろから銀行との付き合いから、当社は運転資金に余裕があったので、のりこえることができました。世の中は本当になにがおこるかはわかりません。会社とは自分とのタイプの違い、年齢も異なるさまざまなタイプの人間がチームワークで働くことが大切であることをそのとき、しみじみ感じました。

会社登記は1993年11月25日です。実はこの日も偶然があります。先日お話した建武の親政は神武暦1993年5月22日に鎌倉幕府滅亡とともに誕生しました。神武暦1993年11月25日は顕家が陸奥将軍として仙台の近くにある多賀城についたころなのです。つまり顕家が歴史に登場する日なのです。

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(多賀城)

当時、私は歴史にはまったく興味がありませんでした。記憶力の悪い私は、大学受験の共通一次試験も最初理系志望だったこともあって、社会は倫社・政経を選択しました。ところが歴史にのめりこむようになったのは次のようなことがきっかけでした。

堺の教材会社でコンサルティングは始まり、まずどのような教科から作ろうか、ということのミーティングで、パソコンで学習するメリットをチェックしました。すると歴史は、授業などでもまず四大文明があり、縄文時代があり、奈良時代があり・・・と教科書で勉強すると、時間軸、空間軸がめちゃくちゃで、よくわかりませんでした。私は、そもそも、なんでもう終わったことを覚えなければならないのか、特に年代を覚えるなんてナンセンスだとずっと考えてきました。しかし時間軸、空間軸を整理し、時代と世界の流れを立体的に把握できれば、歴史からなにか発見できるものがあるのではないか、とそのとき感じました。

時間軸、空間軸で歴史を立体的に把握することは、本で読むのではできないことですし、しかも小・中学校だけでなく、一般の人にも教養ソフトとして販売できるので、そのような歴史のソフトを作ることになりました。それがメディアファイブで最初に開発した「ワールドヒストリー」です。ただ私は当時歴史をまったく知らなかったので困りました。本当に一から勉強しながらこのソフトを作成していったのです。

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(ワールドヒストリー)

そこで、一冊の本に出会いました。ポールケネディの「大陸の興亡」です。1500年から2000年までの大国、ヨーロッパ諸国、中国、日本、米国の経済と軍事行動の相関関係を的確につづったものです。とくに驚いたのは、中世では、中国文明がものすごく発達しており、活字による印刷が発達し、大量の書物が出回り、古くから大きな図書館がいくつもあったことです。11世紀末には7世紀あとの産業革命時のイギリスをはるかにしのぐ製鉄を生産していました。活版印刷の発明は学問を広め、広く全国から秀才を集め、官吏を登用し、その権限が強化され、それが国を富ます原動力になっている例として明王朝が栄えたことは特筆すべきことでしょう。

しかし明王朝も時間がたつにつれ、マイナスの部分も出てくるようになりました。1400年代に入ると中国も世界に目を向け、鄭和をはじめ遠征が盛んに行われました。彼らはヨーロッパの遠征者とちがって、各地の住民を略奪したり、殺傷したりはしませんでした。しかし再びモンゴルの脅威が増大してくると、そこにまわす資金を節約するために、遠洋航海は禁止されました。儒者による保守的な官僚体制は軍需を嫌い、市場経済が栄えるのを嫌い、その結果、派手な商人に干渉して財産を没収したり、軍需を切り詰めて、万里の長城などハコモノの需要創造をおこなって失業対策したり、まるで今日のどこかの国とそっくりなことをしていたのです。

もちろん功罪はありますが、400年にわたる白人優位の時代が続くのは、彼らが常にグローバル戦略をとり続けてきたことにあります。先日の、知事との懇談会でも申しましたが、日本の中小企業の最大の課題はグローバル戦略です。あの世界最強の企業、トヨタでさえも日本国内は売り上げに苦戦しているのです。

メディアファイブも、今後の中心課題はグローバル戦略です。当社のパテントは米国特許や国際特許を中心にとっております。教育こそ日本が海外に誇れるノウハウであり、グローバル化できる切り札と考えています。人材育成型グループウエア「則天」や、多機能学習ソフト「メディアファイブ プレミア」は、これだけのソフトはまだ存在しておりません。

今の日本を見ていると、この先は明の衰亡と同じ道をたどれるのではないか、と強く感じてしまいます。
経営者と政治家の懇親会でも、経営者たちはハコモノを要求します。おそらくすぐに自分たちのビジネスに直結するからでしょう。しかしなによりも今、中小企業の経営者が手がけなければならないことはグローバル化だと思います。そういう私もけっして英語が得意ではありません。自社の「英語すらすら」を、思い出しては三日坊主で英語日記をつけている体たらくです。でも英語で日記をつけ、ワードチェックをしてもらい、それを音声読み上げファイルに落とし、携帯電話やiPODに入れて持ち歩き、時間のあるときに聞いたりするのは、結構英語の即戦力になると思います。みなさんも一度お試しください。

話を元に戻しますが、私はこの「ワールドヒストリー」の製作を通じて、歴史を学ぶ意義がはじめてわかりました。いつの時代も人間は当然一生懸命に生き、様々な判断や選択で歴史的な結果になるのです。歴史を勉強することは実は人間そのものを勉強することであり、未来へのビジョンを把握するためにも大切なものなのだなあ、と強く感じました。

実は北畠親房や顕家がなにをした人かもそのとき初めて知ったのです。親房の書いた「神皇正統記」も歴史を通して未来や国家のビジョンを語るものでした。よくこの「神皇正統記」を古事記や日本書紀の焼き増しに過ぎない、悪口を言う人がいますが、そういう人は実際はよく読んでいないのです。この書物は歴史を通してどう生きるべきか、ということが中心に書かれているのです。現在でも十分読み応えのある書物だと思います。「神皇正統記」という題名が現代ではきわめて不適切なのでしょう。

この「ワールドヒストリー」も、未来のビジョンを語れるほどの商品にしたいなあ、と思いましたが、まだまだ歴史の勉強を始めたばかりの当時の私にとってとても無理な話でした。

前回も触れましたが、特に顕家が戦死する1週間前に後醍醐天皇に書いた奏文は、①分権統治 ②コスト意識の徹底 ③公正平等な登用 ④システムの構築 ⑤公私混同の排除 の5つの抗議からなり、これは670年たった今日においても、経営や組織運営にもっとも重要なものなのだと思います。これをよく20歳の若者が書いたなあ、と驚嘆しました。

次にラジオ短波と組んで「死地則戦」というソフトをつくりました。当時テレビで「カノッサの屈辱」というビジネスと歴史を結びつけるパロディ番組をやっていて、とても面白く見ていました。歴史とビジネスを孫子の兵法で結びつけてソフトにすればおもしろいだろうな、というところからスタートしたのです。もちろん孫子の兵法を勉強するのも始めてです。

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(死地則戦 メイン画面)

あとで知ったのですが、北畠家は漢家(中国の学問を学ぶ家)であり、親房や顕家は孫子の兵法の専門家だったようです。これも偶然といえば偶然です。

またラジオ短波と平行して漢字検定協会の仕事もしました。漢字のゲームソフトをつくることと、もうひとつは当時平安遷都1200年で、それにちなんだソフトをだすことです。京都には難しい地名が多く、その地名の漢字をあてるゲームソフトをつくりました。ある手違いで私が京都中の寺や風景を撮る羽目になり、2週間かけて100箇所以上まわりました。おかげで京都の地の利は大変くわしくなりました。そこで発見したのが、北畠という地名が洛北、伏見、長岡京に3つ存在していました。そこは親房や顕家の屋敷があったところだそうです。もっとも嵯峨野にも屋敷があり、1326年に火事になったという記録があります。

こういう仕事の偶然は、意図的にできるものではありません。当時会社で開催した、「パソコンソフトビジネスセミナー」や「マルチメディアビジネスセミナー」で私のつたない講演を聴いてくださった社長さんやリーダーの方たちが、私の考えに関心をお持ちになり、仕事を発注していただきました。それが全部今日のメディアファイブのベースとなり、気がつくと北畠親房や顕家を学ぶきっかけとなっているのです。

1998年に私は日本総研をやめ、メディアファイブの社長に就任しました。1998年の6月に父が入院したのでした。その結果、私は日本総研かメディアファイブかを選択しなければなりませんでした。本当は日本総研を辞めたくはなかったのですが、メディアファイブを閉じるわけにもいかず、決めました。辞表を本部長に提出する時1週間ためらいました。神武紀1998年の5月22日に顕家は戦死しました。私も西暦1998年、自分にとって人生最大の転機といってよいでしょう。

いざメディアファイブ1本になって見ると、この後、会社を続けていくことができるのか不安でした。しかしそれ以上に当時の社員の不安が相当なものだったろう、と入ってみてつくづく感じ、申し訳なく思いました。2足のわらじでの仕事は無意識のうちにどちらも逃げていたのです。それがよくわかりました。最初の半年は無給でしたが、とにかく夢中で仕事をしました。あまりに不安で、夜になると、むかし宗教団体の活動に熱心な友達にもらった法華経を探し出し(私は宗教団体に属したことはありませんが)、一生懸命唱えていました。

最初はわけもわからず唱えていたのですが、だんだん意味を知りたくなって、いろいろ新書など読み漁っているうちに、こんなたとえ話がありました。ある日、こどもたちが毒を飲んで苦しんでいました。名医である父親がよい薬を与えようとしたのですが、子供たちはその薬が苦そうで、飲みませんでした。そこで父親は一計を案じ、そのまま旅にでて、旅先で死んだとうそをついたのでした。風の便りに子供たちはそれを聞き、びっくりして父親からもらった苦い薬をのんで、毒害から救われました。父親も旅から戻ってみんなめでたしめでたし、というまあチープなわけのわからないたとえ話なのです。法華経、如来寿量品第十六のなかにあります。

ところが私の父は奇跡的に手術もしないで治ってしまいました。これも不思議なことなのですが、ある日私は、テレビで平幹二郎氏が、喉頭がんをやって、それを治すために玉川温泉で療養している番組を見ました。そこで私は父に玉川温泉を勧めました。ちなみにこれも後で知ったのですが、平幹二郎氏はNHKの大河ドラマの太平記のとき、北畠親房の役でした。ところが病気のため、降板し、近藤正臣氏になったのです。玉川温泉での療養が父の病を治したかどうかは、わかりませんが。

この一連のできごとで、恥ずかしながらいままで私は、大企業に勤めていたこともあり、競争原理のもと、自分のことばかり考えていたのが、人のためになにかをすることの重要性を初めて知りました。そしてこの如来寿量品第十六のたとえ話が大変尊いものに感じました。まさに私は、父の病を通してで、社会とのつながりを教えられたのです。今でも法華経や般若心経を、自己流ですが、とぎとぎ唱えております。

しかし法華経と般若心経を多少なりとも理解すると、日本の古典が本当におもしろくなります。平家物語でも本当にいろいろな武将が法華経を唱えるところが出てきます。平惟盛が那智の沖で入水するとき、法華経を唱えて入水しました。以前は、古典を読んでいると、「昔は科学が発達していないからすぐ神がかりだよ。」としらけていたのですが、いまではその心境をしみじみ感じて読むことができるようになったのです。

ただ660年前に、私と同じ姓の人が、日本を文化国家にしようとして理想を掲げ、無念にも果たせなかったことに、自分のことのように残念に思い、自分なりに調べ、考え、いろいろなことを自分なりに発見しました。よく調べてみると、本当に誤解されていることが多いのに驚かされました。もし自分の先祖でなければ、親房、顕家親子のことを、私だって世間のイメージ以上の関心は示さなかったでしょう。

さまざまな失敗や経験、また、たまたま就職するためにした勉強だったり、趣味だったり、仕事で学んだりしてきたことのすべてが、いまのメディアファイブのプロデュースという本流に流れ込む支流だったのです。ひとつひとつはいきあたりばったりの偶然だったのが、後から振り返ると見事に整然とその経験の積み重ねが今に繋がっているのです。

「世の中万事塞翁が馬」でも申しましたが、学生時代、自分が将来、なにをしたいかは、よくわかりませんでした。社会人になってもまだよくわかりませんでした。私は自ら経営者になりたい、と考えたことはありませんでした。いろいろな、当時一見無関係なあちらこちらの支流を流れながら、気がついてみたら、メディアファイブという他には存在しない、オンリーワンの会社を経営していたのです。

今回開発した人材開発型グループウエアは先ほど触れた顕家の奏文を目指して作ったのですが、そのきっかけは社員の造反にありました。会社が急成長する時期は何度かありますが、どうしても人手がほしいときは、あまりレベルの高くない、旧知の人間を仕方なく入れるものです。そういう時、そういう人間に悪意があると、とんでもないことになります。IT・ソフトビジネスは投資もいらないので、参入は比較的簡単です。しかしそれだけ競合も増えるのです。しかも市場はつねに激変します。昨年100売れたものが、今年半分になったりするのです。こういうなかで継続させることは本当に難しいのです。そのなかでけソフトビジネスの成功を見て、そのビジネスを奪いたくなり、ほかの社員や部下に「自分たちの会社をつくろうよ」とけしかける輩がでるものです。とくに中間管理職にそういう人間が出ます。

当時私は社長室をもっていました。若い社員とは直接の接触はありませんでした。すべては中間管理職が私の意向を部下に伝えて、ビジネスが動くのです。こういうとき、その人間に悪意があると、社長にも、部下にも指示や報告を自分の都合のよいように変えてしまうのです。私には、卑屈にぺこぺこしている人間が、ちがう部屋ではボスのようにえばり腐っていたりするのです。そういう人間が、影で人をいじめたりおだてたり、弱い立場の部下や女子を感情でつって味方につけるのです。そして取引先にもうそを塗り固めて、その商権を奪おうとするのです。

若い社員も情報を知らされてなく、直属の上司に殺生与奪の権利を握られていると、その上司に依存します。

当時、私は一生懸命集合研修をおこなっていました。そこでいくら啓蒙しても、感想文で社長にここちよい文章を書くのが関の山です。俺についてこい、型の感情をあおりながら組織を引っ張る経営は、感情で裏切られるのです。だれでも夫婦や子供とだってすぐ喧嘩をします。

だから経営はシステムで管理しなければならないのです。飲みにケーションは根本的な解決にはなりません。社員一人ひとりに会社のビジョンを明確化し、情報共有を徹底し、公正平等に評価するシステムをつくらなければならないのです。

私は社員の造反という苦い経験から、こういうことをおこさないシステムを作ろうと決心しました。完成まで5年がかりでした。膨大な投資もしました。いざ作ってみると、こういうシステムが本当に大切なのが後からわかりました。人がもっとも学習する場所は仕事をする場所です。こういう場所で卑怯なことをして成功する人間がリーダーとなる組織では、その下で働く人も腐ります。そしてそういう人の子供も腐ります。どんなに教育を変えても、まず経営が変わらなければ、世の中からいじめも犯罪も減りません。

私は自分の血筋を自慢するためにこういうことを書いているのではありません。600年で一組の夫婦から400万人の子孫ができるそうです。つまり、だれもが必ず歴史に残る先祖をもっているはずです。逆に、私自身、600年以上前のDNAなど本当につながっているかさえ怪しいものです。それは単なる偶然かもしれません。また私の深層心理がそういう方向へ結びつけているのかもしれません。神が本当にいるかどうかすら、私には定かではありません。

もちろんスタッフに恵まれたこともあります。阪神大震災も景気におおきく影響しました。マザーズができました。9.11で株価が半減すると、家電量販店は在庫圧縮をおこない大量の返品が発生しました。さきほど触れた造反にもあいました。現実は小説より奇なり、といいます。だれが世界最強の米国のニューヨークやペンタゴンが攻撃される、と考えるでしょう。

いろいろなことが起こりながら、それでもいろいろな人に助けられながら、県や市にも大切にしていただきながら、大変幸運にも15年間、当社は存続してきました。おかげで教育ソフトの専門会社ではトップになりました。

ビジネスは個人の小手先の発想だけではとても成功はしないとおもいます。たぶん個人の想定する範囲でビジネスの成功はむりでしょう。ましてやいい加減な人間や評論家的人間が生き延びられる可能性は少ないと思います。われわれは自分の考えうる限りの範囲内で、できる最大限のことを地道に精一杯仕事をするだけです。でもそれだけでは成功にはいきつけません。

精一杯の努力に、なにか目に見えない、自然界に導かれて、はじめてその努力は活かされるのでしょう。それを「神の意思」と擬人化されて感じるのでしょう。いや本当に神の意思なのかもしれません。私は記憶力が悪く不器用です。ひとつひとつのスキルでは多くの人たちにかないません。しかし私が失敗してきたり、拒絶されてきた数多くの学問や仕事や人との経験をとおして、あらゆることが、今のメディアファイブの経営に生かされています。私はそれを天命と呼ぶのだと思います。

おそらく先祖であるであろう親房や顕家は、自分のやりとげられなかった無念の一部を、DNAを通して私にさせているのかもしれません。(ちがうかもしれません。) ただ私は親房や顕家の思想や行動に、とても共感し、尊敬し、歴史上受けてきた彼らの誤解を解き、彼らの実現させたかった世界の構築に、少しでも役に立てたらよいと思っているのです。

そういう意味では私は、親房や顕家の小間使いの一人である、という考えでメディアファイブを経営しております。

私は宗教的なことは、門外漢なので、コメントする資格はありません。ただ私にとって、神様は依存する対象ではないと思います。お願いする対象でもありません。天命を感じたならば、それに向かい、一生懸命に世の中のために尽くすことなのだと思います。何かをしてもらうことを期待するのではなく、自分が世の中に役だたさせていただくことを感謝することなのだと思います。そのなかで、生活や仕事の中で、ささやかな幸せを感じたならば、それが神様からの報酬なのでしょう。

ただ、こういう考えにいたったのは先にも書きましたが、98年の38歳以降からです。若い人がこういうものを読んでも違和感を感じるかもしれません。私も若いときは、こういう話に関心も理解もできませんでした。ただ若い人たちには、自分の世界がすべて、と考えないでいただきたいと思います。まだまだこれから一山もふた山も三山も乗り越えなければならない困難が待っているのです。そしてだんだん大きな社会責任を負っていくのです。残酷な現実と直面することもあるでしょう。そのなかで、必死に、はいつくばってでも前向きに生きなければ「神様」は現れてくれないと思います。

親房や顕家のことは私のきわめて個人的な問題です。社員にもほとんどこの話はしません。しかし、親房や顕家が目指したことは、つまり、「人々が不毛な争いをやめ、日本の和を尊ぶ歴史文化を尊重し、公平平等の社会のなかで自己実現を行い、みんなで協力しあいながら付加価値を生み出し、自然を敬い、子供たちを育て、教育していく」ということは、いつの時代でも永遠普遍の理想です。

その理想国家の実現が、今の日本に特に一番必要なことだと思います。

メディアファイブはそういった国家の実現に少しでも寄与するために、存在させていただいているのだと思うのです。

メディアファイブのファイブはどういう意味があるのですか?とよく人に聞かれます。建前では、五感、陰陽五行、孫子の兵法の、道天地将法などすべて重要な世界は5から成立する、ということを説明しております。

しかし本当は5は私のラッキーナンバーなのでした。幼稚園も高校も大学も受験番号が、5番、25番で合格しました。生まれた場所も育った場所も今の私の住所も電話番号も末尾は5番です。

今は、私の心の中でのみに限ってのことですが、顕家が後醍醐天皇に残した奏文を書いた日 延元3年5月15日 の5だと信じています。

ただ、660年前のできごとと比較するのは、科学的根拠も多少はあると思います。マクロ的な経済循環(コンドラチェフ)は60年ごとで、660年もさらに大きな経済循環として考えられることかもしれません。
平安末期から室町初期にかけて、貨幣が急速に普及しました。武士の台頭は、経済が物々交換から貨幣に移ったことも大きな要因だったようです。今日、インターネットの発達による、情報の開放は、この時代と似た社会状況をつくりだしているのではないでしょうか。

似たような時代に、家柄や能力は月とすっぽんでも、同じDNAの人間が、スケールはちがっていても、似たような行動をとるとしても不思議ではないのかもしれません。だから歴史から未来を考えるヒントはあるのかもしれません。

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(21世紀への提言 「頑張り応援宣言」2001.12.10刊)

670年前の悲劇

デュマの巌窟王を読んだことがありますか。14年間無実の罪に陥れられ、モンテクリスト伯としてよみがえり、自分を陥れた人たちを復讐するフランスの小説です。しかし日本に670年間も誤解され、無視されつづけた最強の巌窟王がいます。北畠親房です。

北畠親房というと、どうも右寄りの思想と見られています。その原因は「神皇正統記」を書いたからでしょう。この書は1339年、戦場のなかの常陸の大宝城や関城で書かれました。しかしこの内容は、実は、とても右寄りの人には受け入れられない本なのです。戦前は右翼の攻撃対象にもなっていました。なぜなら武烈天皇や陽成天皇の例を出し、行いや心持ちの悪い天皇は廃嫡してしまえ、と述べているのです。さらに陽成天皇を廃嫡した藤原基経や、承久の乱で朝廷に反旗を翻して後鳥羽上皇を隠岐に流した北条泰時の徳を褒め称えているのです。さらに親房は、日本人はみな元を正せばアマテラスにいきつくから皆兄弟なのだと言っています。(「人はすなわち天下の神物である。ゆえに人たるもの精神の正しさを失ってはならぬ」日本の名著9神皇正統記上P371)、(「天下の万民はすべて神の子である。神は万民の生活が安らかにするこおを本願とする。」同下P431)

かといって神を限定するわけでもなく、人間みなその心はそれぞれなのだから、いろいろな宗教があるのを認めなければならない、と言っており(「ひとつの宗派に志ある人が、他の宗派を非難したり低く見たりすることはたいへんな間違いである。」同中P395)いかにリベラルだったかがわかります。

そもそも読者の中には「神」ということばも抵抗がある方が多いのではないでしょうか。親房の「神」はすなわち八百万の神、イコール自然や天という言葉で置き換えて差し支えないと思います。宮崎駿のトトロやもののけ姫、千と千尋の「神」と同じイメージです。

親房は山間の村人たちに政治意識、国家観念を啓蒙していきました。もちろん武家を敵に回したための、戦闘要員として村人たちを引き入れた、という理由もあるでしょう。しかし、親房が従来思われている、天皇崇拝、公家の権益を守るだけの人間であったならば、そのような行動にはでないでしょう。なぜなら北朝と和解し、良い暮らしをしようと思えば、いくつもチャンスはあったのだから。親房が実現したい国家、それは国民すみずみまで学問と日本の伝統文化を大切にする文化国家の建設だったのです。

賀野生には親房の理想国家の建設に共鳴し、武器をとって命をおとした村人の慰霊碑が親房の墓のとなりに建っています。

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(村人たちの慰霊碑)

先日、経済団体での上田知事との懇談会で、知事が日本国内の需要の低さを嘆いていましたが、私は国民の独立心と向上心に火をつけなければならない、と思い、メディアファイブを作ったとき、資格試験のソフトの開発に力を入れました。消費市場を投資市場に変えていかなければならないのです。その辺のことは2001年に刊行した頑張り応援宣言の中に収録されている、「21世紀への提言」をご高覧ください。911の年、日本経済はどん底になり、失業者が増加したときに、皆さんに資格をとって頑張っていただこう、と無料で配布したものです。

もうひとつ親房の誤解を解かねばなりません。彼が血統を重視したことです。なぜ血統を重視したか。ひとつは上記にあるように日本人はみなアマテラスに行き着く、という文化国家の建設にありました。
もうひとつは、これがもっとも大問題なのですが、いままでブログに書いてきた、報酬の分配の問題です。彼は上古を例にとり、(「まず勲功があるからといって官位をあげることはしませんでした。そのかわり勲位という制度をつくり、それ相応の待遇をうけることができたのです。」同下P443)今でも勲一等というのはこの名残なのです。(「そして官職を選ぶ基準はまず行いの正しい人。そしてその次に才能のある人を選びました。また徳義、清廉、公平、勤勉の4つを重点として人を選択したそうです。」同下P445)

当時報酬は土地でした。しかも建武の親政になり、北条政権が滅びると恩賞の問題で日本中大混乱に陥りました。親房がいいたかったことは、(「土地は政治の基であり、恩賞ではな」ということ。同下P447)もともと武士は朝廷の一官職であったのが、平氏の台頭から北条政権にかけて朝廷から離脱を始め、殺し合いで土地を奪うようになってしまったことを親房は思わず「武士は長年にわたる朝敵」と言ってしまったのです。まあこういうことを宣言すれば武士は味方から逃げていくでしょう。親房の失敗と誤解はここにあるのだと思います。親房はあまりに人間を信じすぎ、理想高く、人々の理性に期待していたのです。だから日本人はみな神の子だ、という神皇正統記を書いたのでしょう。

しかしこれはもてるものの、高い地位にあるものの思い込みだと思います。大部分のもてない人々は奪い合い、殺し合い、ぎりぎりのところで生き延びているのです。人々の欲望を理性で制限させようとする政治はいつの時代でも失敗します。田中氏が以前のブログで指摘したように宗教しかその解決の手段は当時なかったのでしょう。

それでは親房はどうすればよかったのか。息子の顕家が尊氏を破って都を奪還したとき、恩賞をとらずに、みなの手本にさせるぐらいが関の山だったでしょう。欲望を抑えろといっても、当時ではどうすることもできなかったのです。

やはり力で欲望への配分を制限するしかなかったのです。つまり「公家の武家化」を実現するしかなかった。しかし南朝の公家で武士を指揮できるのは、護良親王と顕家しかいなかった。なぜ後醍醐天皇は自分の息子であり、建武の親政第一の功労者である、護良親王を足利尊氏に渡してしまったのか。護良親王なきあと、顕家の戦死で建武の親政は実質終わったことになってしまうのです。

それから300年近く、欲望を力で奪い取る、戦乱の世が続きました。徳川家康や天海の出現で、ようやく乱れたる世にピリオドを打つことができたのです。もちろん宗教という手段も使いますが、徳川幕府は欲望を合い反する2つの勢力を共存させることで、みなの欲望をそいできました。つねに二律背反なものを同居させました。士農工商という階級をつくり、商人など金持ちほど低い位にする。またこの時代にもまだ南北朝の対立の流れは存在していたのですが、それも温存する。譜代、外様と藩を分け、徹底した分権統治と、外様同士を争わせ、あらゆる社会で2律背反を同居させることにより、徳川幕府を脅かす巨大な勢力が誕生しないようにしたのです。その結果270年近い安定した社会を生み出しました。

そして黒船の出現とともに、また強力な中央集権国家の存在が必要となり、その対応が柔軟にできなかった徳川幕府は倒れ、明治政府が誕生しました。そして中央集権のもと、個人と組織の競争はまた始まりました。

日本は軍部の派閥争いから、危うく国を滅亡させる寸前まで陥りました。

戦後、自由主義の下、個人の競争、会社の競争の元で、日本は大きく高度成長を遂げました。
しかしその成長もだんだん行き詰まりつつあり、環境問題も表面化し、競争原理だけで本当にいいのか、新しい突破口を皆が模索しはじめました。

そして今、ITの出現とともに、組織と個人のシナジーが可能になったのです。ようやく親房の理想が実現できる世の中が到来したのです。

2008年02月04日

雪にちなんだ短歌

今日、雪が降りました。私の好きな雪をテーマにした短歌をご紹介します。

ふりにける身にぞおどろく淡雪の つもればきゆる色をみるにも
(自分の身にふりかかかる淡雪が、すっと消える様を見ると、自分のまわりから死んでいった人たちを思い出し、いまさらながらはっとむねがさわぎます)

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(吉野神宮)

ふみわけてとふ人あらばふりつもる 雪より深きあとはみてまし
(こんな深い雪をおして 私を訪ねる人もなくなりました。もう私を必要とする人はいないのかもしれません。)

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(美杉村 北畠神社)

あつめこし雪も蛍も年を経て 消えぬばかりの身ぞのこりける
(蛍雪の労というが、どんなに苦労してもただ老いて消えかかるこの身だけが残ってしまった。)

降る雪にまやの板間も埋もれて 月だにもらぬ夜半のさびしさ
(降る雪に真屋の板間も埋もれて 月の光さえ漏れてはこない、しんとした本当にさびしい夜だ)

いおりさす宿は深山のかげならば 寒き日毎にふるみぞれかな
(この庵は深山の影であるから 毎日ふるみぞれが、いおりに吹き込み、つらいなあ)

以上の句はみな北畠親房の作です。短歌の解釈は私が感じた勝手な解釈です。間違っているかもしれません。

以前、5年ほど前のことですが、西吉野の賀野生(あのう)というところへ行きました。奈良駅でレンタカーを借りて、当麻寺を通り、ずっと南下するとその地はありました。北畠親房の墓がある、と聞いて行ったのですが、その山村に近づくにつれて、通る車も少なくなり、人影もなく、しまいにはちらほら雪が降ってきました。奈良からは、途中当麻寺に寄ったこともあり、到着したときにはもう夕暮れになってしまいました。夕暮れといっても4時ごろだったのですが、山間の夕方は早いのかもしれません。そこにこの歌のような淡雪がだんだん数を増して降ってきたのです。

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(賀野生 伝親房墓)

吉野朝廷を高師直に焼かれ、賀野生に逃げ、そこに粗末な皇居や親房の住まいをつくり、そんななかで読んだ歌でしょう。

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(賀野生 南朝皇居)

親房は後醍醐天皇亡き後、後村上天皇の父親と言う意味の(准后)という位を授かりました。この位を授かったのは歴史上親房と足利義満だけです。同じ位とはいえ、南朝と北朝ではなんという違いでしょう。

親房はこの山奥で、ほとんど普通の人と同じ生活をしながら、自分の地位と生活のギャップにさぞかし嘆いていたでしょう。

ただ雪を見ると、顕家の後見として陸奥に赴任していったときのことを思い出し、息子を失った悲しみと、残ってしまった年老いた自分への嘆きがこれらの句から伝わってきます。

ほんとうにさびしいお参りでした。

2008年02月29日

3月2日

北畠顕家は1318年3月2日に生まれました。新暦に直すと、4月3日です。ちょうど桜の満開の季節です。以前ご紹介した北山で顕家が陵王の舞を舞ったのも桜の季節でした。1338年2月28日(新暦3月20日)の奈良坂の戦いで、初めて負け戦をしたのも桜の咲き始めの頃でしょう。

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(般若坂近景)

親房は桜を読んだ短歌をたくさん残しています。おそらく顕家の死後、息子の思い出が桜とともにあるからでしょう。幼くして華やかに歴史の表舞台に登場し、あっさりこの世を去って行った顕家が、まさに桜の花のような人生に思い、桜の散りざまを見て、息子の不憫さを感ぜずにはいられなかったのでしょう。

男山昔の御幸思うにも かざしし花の春を忘るな
(男山の花見に天皇の行幸に随行したとき、(子供たちが)桜の枝を日にかざしてはしゃいでいた春をわすれることはないだろう)

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(男山八幡宮の桜)

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(男山八幡宮麓付近)

1324年後醍醐天皇は京都の南にある男山に行幸されました。増鏡にそのときのことが詳しく出ていて、公家の子供たちも着飾って大そうにぎやかだったようです。おそらく顕家や顕信もそのなかにいたのでしょう。6歳の顕家が桜の花をかざしていた時のことを回想した歌だと思います。
(ただし、この歌は1335年の行幸を回想したとされる説もあります。)

春をへて涙ももろくなりにけり ちるをさくらとながめせしまに
(毎年、桜の花の散るのを見るたびに、涙もろさが年々強まってきます。)
顕家の死のことを思い出すのでしょう。桜の花の散るのを見るたびに涙もろさが増していったようです。

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(吉野山の桜)

いかにして老いのこころをなぐさむる 絶えて桜のさかぬ世ならば
(もし桜の花が咲かない世になったならば、どのようにして老いの心をなぐさめようか)
そうは言っても桜の季節には顕家があの世から戻ってきて、老いた自分を慰めてくれる気がするのでしょう。

しかし一方で、京都の頃の栄光は忘れられず、

いかにせむ 春の深山の昔より 雲井までみし世の恋しさを
(どういうことでしょう。吉野の山奥に随分と長いこと暮らしていますが、((桜を見ると))天上人でいた京都の頃がいつまでも恋しく思います。)
という歌も歌っています。

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(吉野南朝皇居吉水神社)

この歌は平清盛の娘、建礼門院徳子が平家滅亡の後大原の寂光院で歌った

思いきや、深山の奥に住まいして 雲井の月をよそに見むとは
(思いもよりませんでした。天上人の私がこのような深い山奥であのときと同じ月を見るとは)
を思い出し、親房がその不遇を建礼門と重ねて歌ったのではないでしょうか。

九重の御階のさくらさぞなげに昔にかえる春をまつらむ
(今は吉野で幾重にも重なる大きな桜を見ているが、いつか京都に帰り、桜をめでたいものだなあ)

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(京都御所 右近の桜)

くれずとも花の宿かせたまほこの 道行きぶりににほう春風
(日が暮れる前に、桜の花の下を宿としようか。この道を歩いていると花の香りが春風に運ばれ、ここちよい)

この歌は1323年の続現葉和歌集に載っているので、まだ親房が32歳の京都にいる頃の歌です。

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(般若寺境内)

ひとりみてなぐさみぬべき花になど しずこころなく人をまつらむ
(一人で慰められる桜の花だけれども しずかに無心で人を待っているのだろう)

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(吉野 金峰山寺)

これに対し、宗良親王は

わればかりみるにかひなき花なれば 憂身ぞいとど人もまたるる
(ひとりで見ても見るかいのない花をながめると、とても憂鬱になり、会いたい人を知らず知らず待っています。)
と歌を返しました。

二人が待っているのは、顕家だと思います。春になると親房は顕家の化身が桜となって帰ってくると思い、宗良親王も桜を見ると、かつて戦友であった顕家を思い出し、親房と同じ気持ちであることを伝え、彼を慰めているのでしょう。

さそはるる はなの心はしらぬとも よそにぞという 春の山風
(風にのってにおいで誘ってくる桜の花の本音はわからないけれど 山風にのってにおう桜は昔の京を思い出すなあ)

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(醍醐寺の桜)

これも若き日の親房の歌なのですが、後年この歌を、思い出しているのではないかと思います。
醍醐寺は顕家の奏文が保管されています。もともと醍醐寺は南朝の拠点でもあり、村上源氏のゆかりの寺でもあるそうです。有名なのは豊臣秀吉の醍醐の花見ですが、私が訪れたときは、本当に桜の季節は見事な桜が数多く華麗に咲き誇っていました。

親房は、顕家の供養のため、正平七年四月一日(1352年5月22日)、安芸国海田庄の地頭職を高野山蓮華乗院に寄進しています。桜が散った頃に供養する親房の気持ちが伝わります。

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(高野山境内にある西行桜)


この数年、桜に季節には、親房の短歌を思いながら、大原や北山、男山、醍醐寺や奈良や吉野を歩いていました。

2008年05月20日

報告書「ルーツを探る」

このゴールデンウイークで、温泉旅行も兼ねて、父母らと福島に行ってきました。

今回、このブログを出版する、という話になり、それなら、この際ルーツをしっかり調べないといけない、と周囲の人が言うので、このゴールデンウイークを使って、父の実家に行ってきたのです。

最近ルーツの詐称問題や、戦後すぐ後南朝天皇問題などいかがわしいルーツにかかわる事件があったので、私のルーツは果たして親房や顕家とつながっているか、ここまで調べ、これ以上はわからない、ということを明記するほうが良い、ということなのでしょう。

皇室関係のルーツは社会的に大きな影響を与えるかもしれませんが、民間の氏は、しかも中世に活躍した氏のルーツなど、まったく社会的意味はないと思います。

私はルーツにこだわっていません。ただ北畠親房を歴史上もっとも敬愛する思想家、文学者で、顕家はもっとも敬愛するリーダーであり、武将であると思っています。それは私にとって本居宣長や山鹿素行、西行、実朝、世阿弥、徳川家康を敬愛するのと同じことです。

ただ、私は、今日、上に挙げた人物に比べ、親房や顕家はあまりにも無視され、誤解され続けているように思えてなりません。世間が無視しているのか。或いは自分のDNAが親房、顕家とつながっているから、好みや思考パターンが似ていて、身内びいきになっている、という可能性もあります。

北畠家のルーツを探ることは、後南朝問題そのものです。戦後、父の実家の人たちはそのことにあまり触れたがりませんでした。戦前は神皇正統記には、不徳な天皇は降ろしてしまうほうがよい、とか後鳥羽上皇を迎え撃った北条泰時を支持したり、右翼から攻撃を受ける可能性が高く、戦後は逆に、やはり神皇正統記が右傾学者の東大教授の平泉澄博士などに支持されたので、GHQから田畑を取り上げられるのでは、という恐れを抱いたようです。

親房やその子顕家、顕能の末裔である伊勢北畠は1576年織田信長に滅ぼされ、浪岡北畠も1578年に津軽為信に滅ぼされました。そして信長も為信も一族を根絶やしにせんと掃討作戦をおこない、北畠家の末裔は名字を変えて、安東や秋田家などに臣下として入り込むか、山岳地帯で農林業や狩猟などを営むか、信長に内通した北畠の庶流、木造氏はそのまま信長の家臣となりました。

一説によると、大日本史を水戸光圀公が編纂したとき、北畠関係の資料を焚書にした、ということも伝えられています。

いずれにしろ、歴史の表舞台からは、15世紀を待たずして消え、しかし南朝の問題は明治や戦後も含めて微妙な問題を数多く含んでいるので、その子孫を名乗るのは、百害とまで言わなくても五害あって一利なしであると思われます。

したがって、私の小さいころから、父の田舎では、先祖のことは誰一人無関心かつ、なんとなくタブー視をしておりました。誰かが「先祖のことは外の者は調べてもよいけれど、内(その地域)の者は調べられない」と言っておりました。

とにかく、今回、自分のルーツを調べられるだけ調べました。親房、顕家の末裔である確証はありません。資料からわかった状況証拠を公表します。

1、天栄村広報誌に顕家の末裔として親戚の家が紹介されました。

2、父の実家の丸に三柏の家紋が福島では村上源氏を祖とする、と家紋辞典に載っています。(都道府県別 姓氏大辞典 柏書房 2004年)

3、長沼の寺の過去帳では実家の北畠の名前は室町時代の大永2年(1523年)から見られます。

4、江戸時代も、墓には北畠という苗字が示されており、認められる古いもので、元禄16年の記載がああります。(そのほか、両脇の墓は、享保、文政など1700年から1800年代が中心)

5、父の実家や親戚の先祖は庄屋、本陣、脇本陣、組頭で、ともに牧之内村の役場を中心に隣接しており、村の運営を担う一員だったようです。

6、牧之内村は立石山と大里城の間1里(4km)の間にあります。
 ・立石山は1360年ごろ、護良親王の子である興良親王が立てこもっていたところです。
 ・大里城は北畠親房が建てた城で、おそらく結城親朝が保護していた顕家の娘がかくまわれていたところです。
 ・親朝は1347年に死んでいますが、その息子顕朝の「顕」は顕家の名前からとったものと推定できます。したがって顕朝も親房には離反しても、顕家に対しては親近感をもっていた可能性もあります。
 ・顕家の娘は安東家に嫁ぎ、何らかの理由でこの地に戻ってきたか、もしくはその子孫が戻ってきたか、が推定できる。安藤(この辺りではこちらの字を使っている)という苗字もこの地域に多い。
 ・天保期の小文書では北畑となっており、この「畑」は津軽の北畠が一時名乗っていた姓であり(姓氏家系大辞典 1963年角川書店)、 顕家の娘が嫁いだ安藤家は津軽に本拠を置いていました。

7、牧之内村は名馬の産地で、古くは八幡太郎義家の愛馬「薄墨号」、熊谷次郎直実の名馬「権太栗毛」は牧之内村の産地であった。つまり馬のブランド産地であったのです。馬の産地は、実は戦国時代までは大変重要で、有名な武田信玄の騎馬軍団がなぜ強かったか、というと甲斐が有数の馬の産地で、良質の馬と、馬の扱いに慣れた兵が多かったからといわれています。南朝再起の拠点としてはうってつけの場所だと思います。

8、父の実家の菩提寺であった正法寺というのは真言宗であった。そのお寺に詳しい家系図や過去帳があったようですが、明治期に焼失し、資料が喪失したそうです。親房は著作「真言内証義」で、真言宗を第1とした。また正法寺は大変古く、747年から757年の開山ではないかといわれています。
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9、興良親王に付き添っていた武将立石、木村、森の姓がこの付近に多い。また父の実家は長い間、左記の姓の人たちや、同姓の人たちと姻戚関係を父の代まで繰り返してきました。

10、この岩瀬郡の周辺は、最後まで須賀川の宇津峰城を中心に南朝の奥州拠点であり、南北朝以降、氏内分裂や多くの氏が北朝に転向したとはいえども、結城、伊達、二階堂、田村、南部など顕家の側近の子孫が多く、江戸以降は新田の末裔を自称する徳川家に近い松平家が統治しているので、北畠を名乗っても問題はなかったのではないでしょうか。

11、近隣の村にある寺の過去帳では、北畠家は、戦国時代の大永(1521年~1527年)から存在します。おそらく父の実家の裏の真言宗の寺が消失したときに、多くの過去帳は消失したのでしょうが、近隣の村へ嫁いだ娘や、養子に出した子供が死んだときの記録が残っているものと思われます。
%E4%BA%AB%E4%BF%9D%E9%81%8E%E5%8E%BB%E5%B8%B3.PNG(享保年間に卒した過去帳)

なによりも、北畠家が、江戸時代以降、農業や脇本陣などを営み、武士でなかったこと,牧ノ内自体、馬の名産地としての重要拠点でありながら、会津街道からかなり山奥であり、いざというときは山に逃げ込めることも幸いしたのでしょう。

牧之内村と立石山、大里城は東西に1里(4K)離れています。これらの事実をもとに、これ以降は推測なのですが、顕家の娘は、1340年代つまり生まれてから、安東氏に嫁ぐまでは、結城親朝の保護下、ここにいた可能があります。

しかし1360年代にまた安東氏の一族の一部の人たちとここに戻ってきたのではないでしょうか。というのは1360年代に興良親王が、吉野を逃れて立石山にこもったのは、いとこである顕家の娘を頼ってのこととも考えられます。それゆえに、この一帯に北畠、安藤、立石、木村、森という苗字が多いのではないでしょうか。1360年以降消息を絶った興良親王も、この地で亡くなったのかもしれません。(九州へ落ちた話もあります。)

今回のゴールデンウイークでの調査でわかったことはだいたいこんなところです。写真や資料は膨大な量を集めましたので、今後、この報告書に追加記入してまいります。

そもそも自分のやろうとしていることが親房、顕家のしようとしたことと重なることがわかったのは、会社を興した後のことです。たとえ自分と親房、顕家と血がつながっていなかったとしても、何ら今の自分の立場や考えが変わるわけではありません。

それよりも、今回のルーツ探しでもっとも興味をもったのは農村における村落共同体のメカニズムの素晴らしさです。「天栄村史」は全4巻、4500ページを越す膨大な資料です。この資料を徹底的に読んでみて、特に江戸時代から明治にかけて、村落共同体として、村人たちが実に生き生きと、自主的に暮らしているのです。

次回のブログでそれをご紹介します。

日本を創ったのは武士道でなく、農村共同体かも

天栄村の村史を調べていくうちに、村の自治、農民の工夫、田畑以外の新規事業の工夫、古文書が豊富に残っているなど、農村の自治レベルの高さに驚きました。

考えてみれば、農家、つまり当時の百姓は土地を持ち、自力でビジネスをし、税を収め、再投資する。まさに理想的な中小企業共同体です。

彼らは季節を利用し、村という組織を利用し、村長の知恵を利用し、けっこう豊かな暮らしをしていたようです。中級武士が年収100万円のところ、下級農民でも年収300万円あった、という説もあります。

武士は、藩主のために忠誠することを第一とし、農民は生産を第一とする。目的が稼ぎになれば、当然農民のほうが年収は上がるものです。

また年貢も五公五民と言われていますが、実際は、農家はターゲットとなる米は五公五民でも税の対象にならないものを新規事業で開拓していたから、幕末ごろには、実際は1割の税金で済んだ、という説もあります。

農家はなにより自然を大事にしました。昼と夜、春夏秋冬、川と山、陰陽に木、火、土、金、水という五行を駆使し、陰陽五行が生活や仕事の中にあふれていました。

また農民は、税を払っていれば、ほとんど武士に口出しされませんが、税を払わないと、大変な罰を受けます。また五人組という制度があり、一人でも罰を受けるとあとの四人も同罪ということがあり、これはまさに五人が命がけで助け合って、知恵を出し合う社会でした。

この5人組の手法は現代でも活用されているところがあります。バングラディッシュです。ここのグラミン銀行は、貧しい農民を対象に融資をする銀行として設立しました。その手法はお金を借りる5人に連帯保証をさせて貸し出すのです。一人でもお金を返せなくなると、あとの4人に債務が発生するので、みな必至に知恵を出し合って、協力してお金を返済しようとします。返済率は98.9%で通常の銀行と遜色ありません。この銀行は2006年、ノーベル平和賞をとりました。

話をもとに戻しますが、江戸時代は8割から9割が農民で、その多く(8割くらいか)は大小はあるにしても自作農なのです。自分の責任が明確で、他人と助け合わざるをえず、実に見事なビジネスのしくみなのです。

しかも農村における教育も熱心で、まさに実学を地でいっていたのが村落共同体だったのです。

そういえば、明治維新で活躍した伊藤博文や西郷隆盛も郷士(半農半士)出身、山形有朋は中間の子、勝海舟も三代前の米山検校は貧農の生まれで、高利貸しまで出世しました。
坂本竜馬も三菱の祖となる岩崎弥太郎も郷士です。なにより近代経済に最も影響のあった渋沢栄一は大農家の生まれです。

明治維新の後、武士道が日本の資本主義を導いた、と言われていますが、本当でしょうか?
儒学は十分農村でも普及しておりました。文盲率も農村ですでに5割を切っていました。
ベンチャースピリットは農村に存在していたのではないでしょうか。

藩も解体され、一割しかいない、しかも商売をどちらかというと侮蔑していた武士たちが、近代日本を作っていった、というのは表面的かもしれません。近代日本を創った西郷も伊藤も山形も渋沢も岩崎も純粋な武士階級出身ではありません。

西郷隆盛が純粋な武士たちを率いて西南戦争を起こし、農民を中心に組織した政府軍に敗れたの象徴的な話です。


農民のベンチャースピリットのレベルの高さは二宮尊徳のことばで明言されます。
二宮尊徳いわく、
私の教えは書籍を尊ばず、天地を経文としている。
 私の歌に
   音もなく香もなく常に天地は 書かざる経をくりかえしつつ
これは、学問の真髄なのではないでしょうか。

世の中、花の咲き散る、人の栄枯盛衰、生き死になど万物循環する。
このような自然の理を逆らわなければ、自然と豊になる
。」と言っています。

しかし現代社会では、自然の理に反することで平然と富を得ていることも多く、なかなか尊徳のようにはいきません。それは明治に入り、資本主義が発達し、多くの人や企業が、大企業や大組織の部品として存在することにより、そして目先の利益を追求することにより、自然の理からかい離するようになったのです。

そういう意味では、江戸時代における藩と農民の関係は、大企業と地方の中小企業の関係に近いのかもしれません。違いは藩は政治をおこない、農民を保護する義務がありますが、大企業は利益追求を目的とし、中小企業を保護する義務はありません。

武士の役割は、闘って土地を奪うことにあり、農民は人と助け合って土地から穀物や果実を生むことが役割です。今の大企業は市場、金融市場のシェア争いを目的とし、中小企業は下請け的な仕事を中国に奪われながらも、なかなか地域におけるビジネスの助け合いができていません。

しかし、より多くの人が部品化する、大企業中心の社会は限界にきてしまいました。やはり自然の理が働き、反作用にぶれていくでしょう。それで最近資本論ブームなのですが、私が思うに、資本主義の反対は社会主義ではありません。東西冷戦は資本家と労働者のイデオロギーの対立、つまり利益の対立であり、構造の対立ではありません。資本主義の反対は、農本主義だと思います。人が、社会や組織の部品の一部か、自然の一部かの対立です。資本主義下で農本主義を取り戻すもの、この手段のひとつに当社のつくった人材育成グループウエア「則天」があります。

農本主義といっても農業に回帰するのではありません。自分を畑とし、それを耕し、自分の体調、運気、季節、年齢、景気など様々な自然要因を考え、右肩上がりのビジネスを考えるのではなく、人や社会の循環や波にいかにうまく合わせるか。つまり調子の良い時は頑張り、調子の悪い時はスキルを磨く。農本主義というより、人本主義というのかもしれません。そういうビジネスへ、世の中は回帰しはじめたのではないでしょうか。
Capitalism (資本主義)から Agriculturism(農本主義) →からagriをとり culturism。
私はこれを、あえて人本主義といいたいです。

「則天」は人の生産性を算出します。組織にいながら個人が自営的なビジネスな可能となり、自分の能力を磨きながら、生産性を上げて、暮らしをよくすることができます。まさに人本主義を実現させるツールなのです。

2008年05月25日

五月の短歌

春風にけづりもみやらぬ神なびの みむろの岸の青柳のいと

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五月まつ山ほととぎすうちはぶき 今もなかなん去年の古声

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五月雨物思いすればほととぎす 夜深きなきていづちゆくらむ 紀貫之

わが宿の池の藤なみ咲きにけり 山ほとどきすいつかきかなむ

五月待つ花橘の香をかげば 昔の人の袖の香ぞする

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うたたねの夢にはきつるほととぎす 思い合わせる一声もがな

昔みし平野にたてるあや杉の すぎにけりとてわれなわすれそ
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8年へし波の枕のよるの夢 さめれば花のうてななりけり

我が上に月日は照らせ神路山 あおぐこころにわたくしはなし

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ことわれよ神々ならばゆうだすき かけてちがひし末の言の端

八百日ゆく浜のい真砂の数知らず 悟れる人もありけるものを

いづかたの道ある御代もちかければ またも越えなむ白河の関

2008年05月31日

日本人の宗教観

5月31日、読売新聞で、日本人の宗教観についての世論調査の記事が出ていました。特定の宗教を信じている人は全体の26.1%。で、30年前の33.6%と比べると大幅ダウンしているようです。

しかし「自然の中に人間の力を超えた何かを感じるか」という問いには「ある」と答えた人は56%、ないは「39%」でした。

祖先を敬う気持ちがあるか、という問いには94%が「ある」で、4.5%が「ない」です。

この世論調査に宗教学者の山折哲雄氏が「日本人の信仰は、多神教で、しかも自然の中に人間の力を超える祖先を感じるもので、高い宗教心、信仰心がうかがえる」と評しています。

この世論の結果はまったく私も同感です。特定の宗教はなんとなく窮屈に見えるし、でも確かに自然に逆らうと運が良くなくなる気もします。政治でもそうですが、本当に私は世論と同じ「並み」の思考パターンだと思います。

私は20代前半までは、大学のクラブでの登山では、そういう「自然の中に人間の力を超えた何か」を感じることはあっても、それ以外ではまったくの無神論者でした。30代になり、当社を創業するにあたり、「何か」を感じたことがありました。30代後半からそういう思いは少しずつ強くなっていきました。

人は年をとるごとに、さまざまな苦労を重ねるたびに、人智を超えたなにかを感じる経験が多くなっていくのでしょう。

だからこの結果は私の人生に当てはめてみると、とても納得がいくのです。そしてこの宗教観は日本人にとって昔から 皆こんな感じだったのだと思います。

戦国時代に日本に来た宣教師ルイス・フロイスは日本人の宗教観についてこのようなことを言っています。
「われわれは教えに背いたものは背教者になるが、日本人はころころと宗教を変えても少しも不名誉と思わない。」
「日本人は神に現世の幸福を求め、仏には救霊だけを願う。」と言っています。

北畠親房の神皇正統記でも、「日本には八十万の神があり、人間の機根もいろいろであるから、教法もいろいろである。」と言っています。

昨今、日本人の心に、宗教観が薄れたのではないと思います。各家庭で知らず知らず、お正月の松飾、節分、桃の節句、端午の節句、田植え月、七夕、盆、菊月、十五夜、大晦日など生活の節目や話題、家の行事としてお供えをしていると思います。

これらの行事の古来からの意味は、八百万の神がそれぞれの季節に舞い降りてきて、そのためにお供えをして敬う日だそうです。

子供のいる家庭では、けっこうこういったお供えなどをやっているのではないでしょうか。季節のイベントとして、たとえ一人暮らしでも、こういうことを趣味にしたら、心もほぐれるし、運も良くなるかもしれません。

少し難しい本ですが「陰陽五行と日本の民俗」(人文書院 吉野裕子著)などお勧めです。

また「節季の室礼~和のおもてなし~」(二木屋主人 小林玖仁男著 求龍堂出版)もあわせて読まれると具体的に日本の季節の行事なども楽しく学べます。二木屋さんは、さいたま市の北浦和にある懐石料理のお店ですが、季節ごとの日本の室礼を、実にすばらしい演出で楽しませてくれます。

浦和に、京都の名旅館にも負けない和のおもてなしができる店があることは、とてもうれしいことです。

2013年05月06日

霊山神社

5月6日、ゴールデンウイークの最終日、日帰りで福島の霊山神社へお参りに行ってきました。東北大震災の前年、家族で、福島の第1原発にほど近い、楢葉町にある天神岬に家族でキャンプをした帰りに、霊山神社の春の大祭に行って以来です。3年ぶりのお参りです。

P1010086.JPG(霊山神社春の大祭 数年前の画像)
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霊山神社は南北朝時代の1333年11月に、北畠顕家卿が鎮守府将軍として多賀城に赴任し、1336年足利尊氏の謀反のあと、討伐のための遠征隊を終え、その後北朝が盛り返し、関東、京都での攻撃態勢の拠点として霊山という絶壁の山頂を拠点としたのです。

霊山神社は霊山から5キロ離れ、明治維新に明治天皇の指示で作られた神社で、別格官幣社という国家直轄の神社として創立しました。ただ、もともとは顕家卿の支城で、江戸時代、白河藩主松平定信によってこの地を祭っていたそうです。

今、八重の桜で、西田敏行演じる西郷頼母が宮司様になったことでも有名です。

ご祈祷をいただく前に足立宮司様に様々貴重なお話をいただきました。足立宮司様は福島神社庁の責任者をお勤めになっていて、震災ではそれはそれは大変ご苦労されました。宮司様は国際政治にも明るく、大変有意義なお話をお聞きできました。宮司様の背後に顕家卿の御影が飾られており、経営に悩み、迷っている自分に、宮司様のお声を通して、顕家卿が、自分に語り掛けて頂いているようでもありました。

その中で、最も心に残ったのは、経営において、鳥の目、魚の目、そして虫の目が大切というお言葉でした。遠く空から俯瞰するような鳥の目をもって、物事を眺め、魚の目をもって世の中の潮の流れを感じ取り、虫の目をもって目先の経営も大切にする。

まさに、今の自分に本当にしみいるお言葉でした。また、目まぐるしく激変する経営環境に、必至に方向転換にもがく自分に、まさに必要なお言葉でした。

そのあと、本殿にてご祈祷をいただき、それはそれは、ものすごく強い霊力いただいた感じを受けました。

自分のような才なく器なく、薄学非才の輩でも、ご先祖様に多少なりとも許容していただけたような気になりました。

以前のブログで書きましたが、当社の誕生は様々な偶然が重なっています。
http://blog.media-5.jp/kitabatake/cat27/ (歴史 南北朝 参照 →)
会社起こして20年。ただ、自分はご先祖様の小間使いとして、その指示のもと、少しでも日本の教育に貢献できれば、と思いつつ、いまだその指示を達成できていません。

もうすぐ5月22日(新暦で6月10日)は顕家卿の命日です。父親房卿の思いを一心に背負い、20歳の尊命を、1338年のその日、堺の石津川で散らしてしまいました。

厳しい経営環境のなかとはいえ、たかがちっちゃい会社を切り盛りするのに四苦八苦し、すでに52の齢をいたずらに重ねている自分は、とても非力で情けなく感じます。

ご祈祷が終わり、こんな立派な宮司様の後を、お継ぎになる方がいらっしゃるのだろうか、とふと思い、失礼を顧みず、そのことを尋ねると、じつは、後を託すはずのご子息は4年前、交通事故で他界されたそうです。

大正期、八甲田山の陸軍の雪中行軍の遭難碑慰霊祭にご祈祷のために出かけて、高速道路での事故だったそうです。27歳のお若さでのことだったそうです。

ちょっと、その時、僕が困った表情をしたのでしょう。でも宮司様はにっこり笑って、あの震災はとても大変でつらかったけど、諸事に忙殺されることで、息子への悲しみを忘れることができたのです、と涙を浮かべておっしゃいました。

そのとき、僕は親房卿の短歌が思い浮かびました。

「さきだてし、こころもよしな中々に 浮世のことも思い忘れて」
(息子に先立だれたのも、悪いものではない。あまりに酷い世の中を一瞬でも忘れることができるから)

僕は、顕家卿を失った親房卿の思いを真近でみてしまった気がしました。

どんなにつらくても、今の自分のつらさなんて本当にちっぽけなものだ。自分は自分に課せられた使命を、可能な限り、全うしなければいけないんだ、という決意を秘めて、帰路につきました。

2013年05月16日

5・15

5月15日というと、みなさん515事件を思い浮かべる人が多いでしょう。

僕は5・15というと、延元3年5月15日を思い浮かべます。それは1338年5月15日北畠顕家が、後醍醐天皇に抗議の手紙を送った日なのです。

その内容は5年前(2008年1月 「5月22日」)のブログでも触れましたので、簡略すると

① 権限の分権化しなければならない。②コスト意識をもって、浪費を抑えるべし。③公平平等な人材登用で、友達や取り巻き、女性をみだりに登用しない。④法令の徹底、組織システムの構築。⑤公私混同の排除 の5つです。

この日、顕家は後醍醐天皇に上記に文面を抗議文としてしたため、その1週間後の5月22日に堺の石津川で戦死しました。

後醍醐天皇といえば、このときは足利尊氏の謀反で、吉野で隠遁されていたものの、現代から見ても、時代を率先して変えた稀代の盟主です。

それはそれは、思いつめて、死を覚悟してでなければ、大王に20歳そこそこの若僧が抗議文を出すはずはありません。最後に平謝りに失礼な手書きを書いたことを詫びます。

以前条々、言(もう)すところ私にあらず。およそそれ政をなすの道、治を致すの要、我が君久しくこれを精練したまい、賢臣各々これを潤飾(じゅんしょく)す。臣のごときは後進末学、なんぞ敢て計い議せんや。しかりといえども、あらあら管見の及ぶところを録し、いささか丹心の蓄懐(ちくかい)をのぶ。書は言を尽くさず。伏して冀(ねがわ)くば、上聖の玄鑑(げんかん)に照して、下愚の懇情を察したまえ。謹んで奏す。     延元三年五月十五日従二位権中納言兼陸奥大介鎮守府大将軍臣源朝臣顕家上る
(いろいろご注進させていただいたことは、私心から出たものではありません。政治をおこなう方法、民を治めるにあたり大切なこと、お上が切磋琢磨し、優秀な部下たちがそれを実行するものです。私のような学問もまだ浅いものがこんなことを申しても恐縮ですが、今の世の中の現状を鑑みて、どうしても申し上げたいことがございました。書いたものは言を尽くさずですが、是非お聞き入れください)

南朝に忠節をつくし、最後は絶望のなかで、後醍醐天皇に抗議文を送り、憤死した顕家。南朝のリーダーである後醍醐天皇、その亡き後の指導的役割を果たした、顕家の父である北畠親房。勝利者となった北朝のリーダー足利尊氏とどこが異なってるのだろうか。

決定的な違いは南朝のリーダーは国家のあるべき姿、そして国家を構成する民族のあるべき姿をトップダウン的にこだわったこと。そして、北朝は、国家的コンセプトはなく、反南朝として、武士による、武士のために土地を分配する、武士の利益を優先する国家であったことです。

結果はご存知の通り、北朝が実質勝利し、人情家で、私欲のない尊氏は土地を仲間に与えすぎたために、室町幕府は、最後まで安定した政治を行うことができずに、最後はばらばらとなり、戦国時代に突入してしあったのです。

そもそも創業者である足利尊氏と弟の直義でさえ対立し、観応の擾乱で最初は直義が南朝に走り、次に足利尊氏自身も南朝に下る、という前代未聞の事件がおきたのです。つまり北朝系の内部対立で、形勢が悪くなると、南朝に走ることが始まったのです。

それ以降も、足利幕府の意向からはずれると、南朝に助けを求め、特に全国の武士の一族の跡目争いには必ず、それに敗れると、南朝に助けを求めるようになりました。

5年前は、僕は、理想を掲げて天皇親政を打ち立てた後醍醐天皇が主導する南朝が、目先の利益を追求する北朝に敗れたのは、その後270年間日本が戦争状態になってしまったことをかんがえると、日本の歴史の悲劇と考えました。

南朝の敗因は、後醍醐天皇がこともあろうに子息で、鎌倉幕府打倒の公家最大の功労者である護良親王を、とらえて足利尊氏に渡してしまったことだとも思いました。

しかし、今は、北朝の勝利は必然でなのかもしれない、と思っています。どんなに理想的なコンセプトを掲げていても、人は利益に靡くのが現実です。

僕の中で、この5年間でなにが変わったか、といえば、それは「大衆」に対するとらえ方です。当時の武士にあたるのが、現代における「大衆」でしょう。民主主義の現代において「大衆」はじつに強大なパワーを持ち、現実主義で気まぐれでわがままな飽きっぽい独裁君主です。

「大衆」に目をかけれらたものだけが、多くの富を手にします。多くの場合無視されます。そしてそれに逆らうものは残酷に八つ裂きにされます。

これがITの成熟社会の特徴でしょう。

というより、ITという道具は、「大衆」に巨大な権力をもたらしたのです。

顕家の抗議文も、5年前は後醍醐天皇の行動に対する抗議と思っていました。しかし今はそうは見えません。大衆、すなわち大勢の人々の心を慎重に対処してほしい。そのために、権限の分権化、コスト意識の徹底、公平平等な人材登用、システムの構築、公私混同の排除を訴えたのだと思うようになりました。

もしかしたら、昔から、いつの時代でも「大衆」は大きな力を持っていたのかもしれません。しかしITがインフラになることで、それがより目に見える形で、物凄いスピードで世界を変えるようになったのかもしれません。

きっとそうでしょう。

ビジネスとは人の心を捉え、いかに日常で必要とされるか、だと思います。

当社が開発しているネクレボをはじめ、当社の商品が、そのようなものになるまで、昼夜問わず考え、試行錯誤を続け、改良していく所存です。

2015年09月27日

五つの落城の物語、そして神皇正統記

9月2日の日曜日、弟と茨城の霞ヶ浦近辺にドライブしてきました。

いいおじさん二人でドライブを楽しんだ訳ではありません。北畠親房の常陸での足跡を確かめたいと弟が言うので、車で連れて行きました。

外環、常磐道を通り、まずは294号線、常磐バイパスを北上してまずは大宝城へ向かいました。
そしてその後、関城へと向かいました。

実はこの北上するルートが、それから10日後、9月10日に台風で鬼怒川の決壊で水没してしまうのです。
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北畠親房は1338年8月、東北地方を抑えるため、後の後村上天皇となる義良親王を旗印に大船団を、伊勢湊から出発したのですが、遠州灘で暴風に合い、親房は霞ヶ浦より常陸へ、宗良親王は伊井野谷へ、そして北畠顕信と義良親王は吉野へと戻ったのでした。

伊勢湊より出航したのが8月17日、台風に巻き込まれて遠州灘で遭難したのが9月11日です。ただこれは旧暦なので新暦に直すと20日あまり後になります。

親房はまずは小田治久に迎えられ、その支城である神宮寺城に入り、そこへ北朝方の佐竹軍が攻め寄せ、陥落し、その後そこから数キロ先の阿波城に入り、そこも数ヶ月で陥落しました。さらに小田治久の本拠である小田城へ迎えられましたが、小田治久は北朝への降伏を決断し、親房は関城へ移りました。
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神宮寺城址
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阿波崎城址
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小田城址

神宮寺城、阿波城へ親房が立てこもった時、兵糧米や城の備えに村人が協力し、神宮寺じょう、阿波城が落ちた時、その協力した地域の名主十三人が北朝方に斬首され、十三塚がその供養の塚だそうです。

またほーい地蔵というのがあり、それは12人の名主が首をはねられ、1人留守をしていた名主が戻ってきて、自分だけ生き残るわけにいかぬ、と首をはねた北朝方が帰路についた船に向かい、ホーイホーイとその名主は呼び止め、自分も首をはねられたそうです。その名主を祀ってホーイ地蔵と言うそうです。

とても悲しいお話です。
1343年11月、最後まで親房を支持して圧倒的不利の中を、関城は陥落して、関一族は滅びました。親房は辛うじて脱出し、吉野へ戻りました。同時に同じ南朝方として戦っていた大宝城も陥落し、その城の主、下妻一族も滅びました。
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関城の坑道址(関城を攻めた高師冬が籠城をする南朝方に、トンネルを掘って攻め込もうとした址。この作戦は地盤が弱く、トンネルが崩落して成功しなかったそうです。)

僕と弟は親房の辿った城を、なぜか時間軸で逆に進みました。

しかし五つの城が自分のために陥落し、地元の人々や一族が滅びていく犠牲のなかで、神皇正統記は描かれました。建武の親政の崩壊とともに、先祖代々伝わる京都の家を失い、1338年5月に長男顕家に戦死され、9月には東北の挽回のために大船団で出向し、台風に会い、常陸にたどりつけばこのような運命が待っていました。この間も、藤氏一揆などで、味方にも裏切られ、50の齢の時に、命からがら吉野に戻らざるを得ず、その思いはいかばかりのものだったでしょう。

いつの世も、人の世は、苦しみと悲しみであふれています。
親房がこの常陸の五つの城を落城させながら味わった苦しみと悲しみは、
あらゆる時代の世の中で、これに勝る思いはないのでは、と感じます。

神皇正統記はそういう中で書かれました。

最後にこの度の災害で被害を受けた方々にお悔やみを申し上げます。
一日も早い復興をお祈り申し上げます。

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