北畠顕家は1318年3月2日に生まれました。新暦に直すと、4月3日です。ちょうど桜の満開の季節です。以前ご紹介した北山で顕家が陵王の舞を舞ったのも桜の季節でした。1338年2月28日(新暦3月20日)の奈良坂の戦いで、初めて負け戦をしたのも桜の咲き始めの頃でしょう。
(般若坂近景)
親房は桜を読んだ短歌をたくさん残しています。おそらく顕家の死後、息子の思い出が桜とともにあるからでしょう。幼くして華やかに歴史の表舞台に登場し、あっさりこの世を去って行った顕家が、まさに桜の花のような人生に思い、桜の散りざまを見て、息子の不憫さを感ぜずにはいられなかったのでしょう。
男山昔の御幸思うにも かざしし花の春を忘るな
(男山の花見に天皇の行幸に随行したとき、(子供たちが)桜の枝を日にかざしてはしゃいでいた春をわすれることはないだろう)
(男山八幡宮の桜)
(男山八幡宮麓付近)
1324年後醍醐天皇は京都の南にある男山に行幸されました。増鏡にそのときのことが詳しく出ていて、公家の子供たちも着飾って大そうにぎやかだったようです。おそらく顕家や顕信もそのなかにいたのでしょう。6歳の顕家が桜の花をかざしていた時のことを回想した歌だと思います。
(ただし、この歌は1335年の行幸を回想したとされる説もあります。)
春をへて涙ももろくなりにけり ちるをさくらとながめせしまに
(毎年、桜の花の散るのを見るたびに、涙もろさが年々強まってきます。)
顕家の死のことを思い出すのでしょう。桜の花の散るのを見るたびに涙もろさが増していったようです。
(吉野山の桜)
いかにして老いのこころをなぐさむる 絶えて桜のさかぬ世ならば
(もし桜の花が咲かない世になったならば、どのようにして老いの心をなぐさめようか)
そうは言っても桜の季節には顕家があの世から戻ってきて、老いた自分を慰めてくれる気がするのでしょう。
しかし一方で、京都の頃の栄光は忘れられず、
いかにせむ 春の深山の昔より 雲井までみし世の恋しさを
(どういうことでしょう。吉野の山奥に随分と長いこと暮らしていますが、((桜を見ると))天上人でいた京都の頃がいつまでも恋しく思います。)
という歌も歌っています。
(吉野南朝皇居吉水神社)
この歌は平清盛の娘、建礼門院徳子が平家滅亡の後大原の寂光院で歌った
思いきや、深山の奥に住まいして 雲井の月をよそに見むとは
(思いもよりませんでした。天上人の私がこのような深い山奥であのときと同じ月を見るとは)
を思い出し、親房がその不遇を建礼門と重ねて歌ったのではないでしょうか。
九重の御階のさくらさぞなげに昔にかえる春をまつらむ
(今は吉野で幾重にも重なる大きな桜を見ているが、いつか京都に帰り、桜をめでたいものだなあ)
(京都御所 右近の桜)
くれずとも花の宿かせたまほこの 道行きぶりににほう春風
(日が暮れる前に、桜の花の下を宿としようか。この道を歩いていると花の香りが春風に運ばれ、ここちよい)
この歌は1323年の続現葉和歌集に載っているので、まだ親房が32歳の京都にいる頃の歌です。
(般若寺境内)
ひとりみてなぐさみぬべき花になど しずこころなく人をまつらむ
(一人で慰められる桜の花だけれども しずかに無心で人を待っているのだろう)
(吉野 金峰山寺)
これに対し、宗良親王は
わればかりみるにかひなき花なれば 憂身ぞいとど人もまたるる
(ひとりで見ても見るかいのない花をながめると、とても憂鬱になり、会いたい人を知らず知らず待っています。)
と歌を返しました。
二人が待っているのは、顕家だと思います。春になると親房は顕家の化身が桜となって帰ってくると思い、宗良親王も桜を見ると、かつて戦友であった顕家を思い出し、親房と同じ気持ちであることを伝え、彼を慰めているのでしょう。
さそはるる はなの心はしらぬとも よそにぞという 春の山風
(風にのってにおいで誘ってくる桜の花の本音はわからないけれど 山風にのってにおう桜は昔の京を思い出すなあ)
(醍醐寺の桜)
これも若き日の親房の歌なのですが、後年この歌を、思い出しているのではないかと思います。
醍醐寺は顕家の奏文が保管されています。もともと醍醐寺は南朝の拠点でもあり、村上源氏のゆかりの寺でもあるそうです。有名なのは豊臣秀吉の醍醐の花見ですが、私が訪れたときは、本当に桜の季節は見事な桜が数多く華麗に咲き誇っていました。
親房は、顕家の供養のため、正平七年四月一日(1352年5月22日)、安芸国海田庄の地頭職を高野山蓮華乗院に寄進しています。桜が散った頃に供養する親房の気持ちが伝わります。
(高野山境内にある西行桜)
この数年、桜に季節には、親房の短歌を思いながら、大原や北山、男山、醍醐寺や奈良や吉野を歩いていました。