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本居宣長2

私がなぜ本居宣長に関心をもったか。それは勿論、自分が少年のころから最も影響を受けた小林秀雄の最後の大作、ある意味エンディングノート、ということもあります。でも、もっと強い動機があるのです。

それはおととしの3.11の大地震です。あのとき、当社のビジネスは、単に、平和な豊かな社会でしか、成り立たないのでは、という感情に駆られました。この大災害の時に、資格や学習ビジネスはどのように役に立つのか。それがとても頼りなく感じたのです。もっと人生の根源的にかかわるビジネスが必要なのではないか?

エンディングビジネスを立ち上げる決心はこの時に芽生えました。

あらゆるビジネスが、エンディングに携わるノウハウを持つことによって、より深く、崇高な仕事へと進化するのでは、と感じたのです。東北で津波の跡を見たとき、人の仕事は、単に自分の日々の仕事だけではなく、大地震が来たとき、大災害に見舞われたとき、大恐慌が勃発したとき、ハイパーインフレが起きたとき、そして戦争に日本が巻き込まれたとき、人の一生でこういった災害や事件は必ず一度は経験をするもです。

それを乗り越えるためのスキルを、みなさんが身に着けるのも、当社の役目なのではないのか。みなさん一人ひとりに守るべき家族があり、あらゆる環境に対処できる仕組みを当社は構築しなければいけないのではないか、と。

私はいろいろ調べました。以前のブログでも触れましたが、大災害の時、最もリーダーシップを発揮した指導者は、そう、暴れん坊将軍で知られている、徳川吉宗です。元禄の大地震、宝永の東南海地震、富士山の大噴火と、3.11級の大災害が5年以内にたてつづけに起こり、しかも享保の大飢饉も起こりました。

どこかの政府と違い、この大災害で徳川家は蓄財をすべて放出しました。その財政危機のなか、あらゆる復興をおこなったのが、吉宗の享保の改革です。学校の学習もそういうふうに教えてくれれば、歴史も面白かったのに・・・・。

吉宗の取った改革は、幕府内部の派閥を潰し、まず組織をシステマティックにし、国民全体に学問を奨励し、従来の産業である、米の税を重くして、新しい産業には無税としました。その結果、2耗作が活発になり、国民の9割である農民は、春夏は米、秋冬は麦や大豆などを作るようになりました。

まさに教育立国が、この大災害からの復興を果たしたのでした。ただし、復興まで70年かかったそうです。

ただなによりこの吉宗の時代以降、大学者が次々と誕生したのです。吉宗のご意見番である荻生徂徠を始め、徂徠に強く影響された本居宣長、賀茂真淵、石田梅岩、宣長のライバルである上田秋成、などです。

実は日本は大地震の後に時代が変わったり、イノベーションが起こったりする傾向があるようです。といってもこれだけ多くの大地震を頻繁に経験していると、そう言い切れるものではないかもしれません。しかし生物の進化は困難に直面したときに起こる、と言われています。前向きに考えれば、地震が日本人を鍛えている、と考えられます。

だからこそ、荻生徂徠や本居宣長の思想も今の日本人に必要なのかもしれません。

ちなみに本居宣長の生誕の地、松坂から1時間山奥へ行くと、美杉村という閑村があり、そこには伊勢北畠を祭る北畠神社というのがあります。もともとはそこに霧山御所という山城があり、伊勢北畠氏は1570年織田信長に滅ぼされ、それ以降荒れ果てていたのを200年たって本居宣長が見つけ出し、祠をたてた、という説があります。

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本居宣長が発見したという北畠神社の庭園

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2013年02月11日 19:06に投稿されたエントリーのページです。

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