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社会 アーカイブ

2007年09月29日

5年前ファーストフードで

5年ほど前の朝、ファーストフード店でこんな情景にでくわしました。
いかにも朝帰りとわかる、髪を金髪に染めた制服の女子高生二人が、私の隣の席に座って話をしていました。一人の女の子の携帯電話が鳴り、どうも友達からの電話だったようです。声が大きいので聞かずとも聞こえてくるのですが、電話している女の子の親が、その通話の相手である友達に電話をかけ、昨日の女の子のアリバイを確かめたようです。逆切れした女の子は母親に電話し、延々と罵倒し続けていました。

母親は泣きながら電話を一方的に切ったようです。そのとき、ふと女の子の悲しみが伝わってきたように感じました。女の子がもし本当に母親を憎んでいたら、自分から電話を切ってしまうでしょう。いつまでも母親に罵声を浴びせ続けているのが、なんとなく心では母親に助けを求めているように聞こえたのです。

おそらく電話の相手の母親は団塊の世代か、もしくは私と同じくらいの年齢でしょう。当時、もし私に25で子供ができていたら、このような不良少女になっていたのではないかと思ったのです。
私の年代は昭和一桁世代の親を持ちます。彼らは青少年時代を戦中、戦後の貧しい生活下で生きてきました。彼らは国家のために、という教育を受け、自分の子供には、自分たちのような貧しい思いはさせたくない、という自己犠牲のもと、子供中心の生活を続けてきたのだと思います。

私たちの世代は権威を嫌い、自己犠牲を知らずに育った年代です。子供はかわいい、という動機で接し、友達のように育て、忙しくなったり手に負えなくなると自分の都合で責任を放棄し、無視してきたのではないでしょうか。若ければ若いほど、遊びたい欲求は強く、その傾向は増していくでしょう。秋田で自分の子供を欄干から突き落としたとされる痛ましい事件も、まさにそれゆえでしょう。

子供の側からすれば、そうした親の姿勢に深く傷ついていると思います。おそらく自分の親が他人であるかのような感じを子供の頃から受けていたのではないでしょうか。これも親の同志的教育の悲劇的な結果なのかもしれません。援助交際をする女子高生は、自分を買う愚劣きわまりない大人を大変軽蔑していると聞きます。これはその愚劣な大人を親に見立てた、親に対する、自分を傷つけてまでする、大変憎しみのこもった復讐なのでしょう。

父親の威厳が必要な時代といわれます。三島由紀夫は父親をテーマに扱った小説を数多く残しています。これは私の独断ですが、彼は日本社会における父親像の原形を、明治の元勲に象徴される明治男に求めています。

「春の雪」では主人公の父親である松枝公爵は権力の象徴であり、主人公の松枝清秋はその対局にある優雅と美の象徴として描かれていました。「奔馬」では昭和初期の右翼の少年が主人公なのですが、その父と子を不純と純粋という対比で描いています。「絹と明察」では高度成長期の織物会社の経営者である主人公は父親の象徴的人物として描かれ、社員すなわちわが子に思考することを許しませんでした。「午後の曳航」では母子家庭で育った子供が、あこがれている船乗りの男がいざ自分の父親になると、そのあこがれの存在が堕落したとして殺害してしまう物語です。つまり父親は世間から子を守るための力(権力)としたたかさ(不純)をもつものと定義しています。

三島の近代能楽集のなかに「邯鄲」という小品があります。これは邯鄲という枕に寝る人は人生がむなしくなり失踪するという話をききつけた主人公が、その枕で寝てみると、夢の中で、世の中の富と名誉と美女を手に入れる体験をし、普通の人では人生に意味を感じなくなるところ、彼は常に大人になることを拒否していたために、なにも変わらず目が覚めた、という話です。ホリエモンが逮捕されたときの「邯鄲の夢」という新聞の見出しが印象に残ります。

三島の小説は、父親を既成権力、妥協、欲望、愚鈍、旧体質として描き、子供を美、未完成、創造、理性、新しい概念としてとらえ、むしろ子供を主役におき、父親の醜さをコントラストに描き、彼の美学を表現します(彼の小説は常に既存価値=父親を破壊する子供という形で芸術を表現するものが多いのです)。しかし彼の死の直前に完成した「天人五衰」で、最後に美が醜い形で消滅する姿を描き、彼の美学にピリオドを打っています。

彼は自身の求める時代とずれた時代に生きたことを大変くやしく思っていることは間違いありません。彼が求めていた時代は今だったのかもしれません。改めて今日読んでみると、彼の作品は今の時代のために創った時限爆弾だったと気付きます。彼の芸術は、「父親=既存権力」に立ち向かう「子=新しい概念」という形で成り立つ美学の構築物なのです。彼が生きた戦後、高度成長期は彼が対立しなければならない父親=既存権力が根こそぎ崩壊していき、もはや彼はそのなかで創作を生み出すことが不可能となり、彼自身が父親=既存権力となってがんこ親父が子供にげんこつを喰らわすように、死を持って社会に恫喝したのです。彼が最後に残した「豊饒の海」4巻が30年隔てた今日、破裂するように仕組んで死んでいったのです。

日本人は今日、ますますその幼稚化が進行しています。もっとも幼稚化しているのはまずテレビや大衆新聞です。不二家の賞味期限改ざんの問題は、もともと不二家が社内でプロジェクトチームを作り、業務改善しようとしたときに挙げられた問題が世間に流れたのです。賞味期限を改ざんしたこと自体は、確かに問題があります。しかし、そういった問題を明示化して改善しようとした矢先に、社会に表面化したのです。この問題で不二家が窮地に立つのならば、逆に業務改善する会社は今後より問題を隠蔽する方向に進むでしょう。テレビ報道は不二家をただ糾弾するばかりで、そこに世間をよくしよう、という意識は感じられません。まるで中学校のクラスのいじめをみているようでした。

日本の幼稚化は、団塊の世代の権利の主張に起因する、と言う人が結構います。それは敗戦でゼロから出直した日本が、「戦争という過去を断ち切り、個人の権利を主張する」という新しい国家のコンセプトでスタートしたからです。そして団塊の世代の、断ち切る「過去」とはすなわち自分たちの父親だったのかもしれません。少なくとも自分たちは「父親」というイメージにネガティブな感覚をもっていたのではないでしょうか。「父親」という権力、権威を破壊し、自分たちの自由と権利を謳歌する。高度成長を遂げ、世界第2位の経済大国になった今でも、まだこの国全体が同じコンセプトを持ち続けているように感じます。当然です。団塊の世代の子供たちが今の若者なのだからです。

しかし戦後60年たつと、日本はすでに成熟した国家に突入したのです。日本という国を人にたとえると、体はすでに中年に入ってきているのに、いまだに赤ちゃんプレイをしているようなものです。

成熟国家では「過去を大切にし、個人の義務を履行する」コンセプトでなくてはなりません。「個人の義務」とは社会の責任、とくに子供や若者を育てる義務です。情緒的にいうのならば、日本における新しい「父親」像を明示しなければならないのです。米国にもヨーロッパにもそういう「父親」像は強く感じます。
そのためには「どうして断ち切らなければならない過去を起こしたか」ということ、つまり「なぜ、あのような悲惨な太平洋戦争が起きたか」というところからスタートしなければならないのではないでしょうか。太平洋戦争があるから、過去を大切にできない。60年たった今日はその過去を徹底的に分析し、日本人の糧へと変えていかなければならないと思います。

ファーストフードの女子高生はもう成人していると思います。今、なにを考えて、どうしているのでしょうか。

2007年10月01日

バーチャルとリアル

ゲームソフトや携帯電話に代表されるITのツールが教育によくない、という識者の意見をよく耳にします。残酷な暴力シーンの多いゲームソフトは、子供の犯罪を助長する、とか、携帯電話や携帯メールは援助交際を助長する、とか、ゲームばかりすると脳が退化する、などなどです。確かにごもっともな意見だと思います。

資本主義の世の中では、当然ITをめぐっても、人の欲望や享楽を満たす市場が拡大することは仕方のないことです。まずその市場が拡大し、目立ち、問題が起きるのは、資本主義国家での新しいビジネスのたどらなければならない道だと思います。自動車が普及を始めた昭和30年代、カミナリ族は公道をマフラーを抜いて、暴走していました。ITの一時欲求的な利用方法からなかなか抜け出せないところに問題があるのです。

世界の人口がビックバンのごとく急増した今日、人間のコミュニケーションはITの活用なくしては不可能だと思います。ただITに関する精神面、文化面での議論がまったく進んでいないことが、今日のITの弊害をことさら、増大しているのだと思います。暴力シーンの多いゲームソフトは相手がゲームであるから、ゲームキャラクターの感情を考える必要がない。こういうゲームに慣れてくると、生身の人間に対してもその人の感情を考えなくなる人が増えてくる。しかし本来、ITはより人の気持ちを理解したり、コミュニケーションを密にしたり、人と人の関係を円滑にするためにあるべきなのです。そういった人と人の精神面、そして文化面でどうITを利用して、よりよい関係や世の中を築いていくかを考えていかなければなりません。

ITの問題、すなわちバーチャルとリアルの問題は実は大昔からあるのです。色即是空 空即是色という般若心経の有名な一節があります。形あるものはすなわち無であり、無はすなわち形あるものとなる、という意味なのですが、平家物語の諸行無常のように形あるものはいつか滅びて無になる、ということだけを言っているのではないと思います。これこそバーチャルとリアルの関係、デジタルとアナログの関係なのではないでしょうか。

孫子の兵法は、いかに気の流れを読み取り、それを生かして、戦いに勝つか、ということが本質なテーマです。戦上手は戦う前から勝敗を理解できます。つまり孫子の兵法は、まず心の中にコンピュータをもって、バーチャルなシミュレーションをしろ、ということなのです。バーチャルの中で勝てれば、リアルでも勝てる、というノウハウ集なのです。

ビジネスでも人間関係でも、心があり、人が動き、形ができる。IT社会になるまでは、この過程の時間が長かった。インターネットが人々の生活の主流になると、ネット上でのあらゆる活動がそのままビジネスに直結する、という点で本当にバーチャルが魔法のように現実(リアル)に影響するようになりました。ソフトバンクの孫正義氏は、リアルなビジネスは限界があるけれどバーチャルなビジネスのインパクトは無限大だ、と言っています。
リアルなビジネスで苦労して会社を上場させ、バーチャルなビジネスで飛躍した初代の成功者の至言だと思います。

しかし、バーチャルなビジネスには参入しやすく、ちょっとしたことですぐにひっ繰り返されもします。だから玉石混交であらゆるものが参入し、マネーロンダリングの温床となり、ある意味、胡散臭いイメージが生じてしまいます。しかしそれは新しい時代に対する警戒や嫉妬も含めた世間のイメージなのかもしれません。

大化の改新後、中大兄皇子は10年も天皇になれませんでした。平清盛はなりあがり者として最後まで公家に陰口を叩かれ、頼朝は権力の中心である京都から離れて鎌倉に新しい都をつくりました。建武の親政は失敗し、世間からさんざん落書きされました。信長はうつけとされ、秀吉は猿とののしられ、家康はまったく世間に人気がなかった。明治維新の元勲たちは田舎侍の西欧かぶれと言われ、戦後、第2位まで経済大国に押し上げた日本のビジネスマンたちは世界から働きねずみとののしられました。世間の嫉妬は、実はバーチャルな最も強大なパワーなのかもしれません。

石橋湛山によれば太平洋戦争は、日清戦争で自信をつけ日露戦争でつけあがった日本国民全体の責任、と指摘されていますが、まさにそのとおりでしょう。ITが普及するにつれ、世間のバーチャルな意志がリアルに実現できる可能性が高くなる、ということは、より多くの人に富をもたらすチャンスでもあるのでしょう。しかしその一方で深くものを知り、考え、慎重な条件で行動しなければ、失敗や敗北に遭遇しやすいということです。その意味では、脳機能ブームで思考力、判断力を鍛えるのもひとつの方法かもしれません。

太古より、戦争により国を奪い、富を得られる時代には、体が大きく、一騎打ちが強い男が尊ばれたでしょう。奈良平安時代は宮廷内の政争に強く血筋のよいものが尊ばれたでしょう。鉄砲の時代になると、秀吉のように頭脳と人間的魅力が重要になってきます。近代にはいると、秀吉のような人間がますます要求されてきました。

ところがIT時代になると、黎明期では、ネット上での成功がすべてを制してきました。そこには人間的魅力が介在しなくてもよいのです。頭だけでネット上でアピールすることが成功に結びつくのです。モーツアルトのように人間はめちゃくちゃでも、音楽は神の手にゆだねられたごとく、ネット社会でもそういう人間が出現したら、そこに富が集まるのでしょう。

しかしIT社会も成長期に入り、成熟期に近づいてくると、国民ひとりひとりが大人として責任をもち、二律背反的な判断でなく、常に学び、慎重に考えながら生きていける国家こそが繁栄するのだと思います。わかりやすく片方の意見を切り捨てれば、そのなかに隠れている真実も切り捨てられるのです。IT社会こそ二律共存的な生き方が可能なのではないでしょうか。


今日、日本と欧米でのITにおける技術格差はそれほどあるとは思いません。深刻に差がついているのはITにおける教育、文化、哲学面だと思います。欧米の人々はITを通して二律共存的な発想をしている人が多くなっているように感じます。先日ご紹介したSaas(9月19日「高田屋嘉兵衛とシリコンバレー」)は、みんながどんどんビジネスのアイデアを出し合って、自由に利用する、という発想です。昔のように自分だけがシステムを囲い込む方法は、時代遅れになってきているのです。

でも実はその二律共存の発想の原点は日本にあるのです。江戸時代の循環社会、職人の技術、アイデア、和の精神、などなど。

これからわれわれが目指すITの教育、文化、哲学の家元は日本なのです。それをすでに欧米の人たちのほうが気づいている。日本でもせっかく一昨年くらいから和への回帰ブームになっているのですが、単純な懐古主義的なブームで、それをITと結びつけるどころか、かえってITを敬遠している人たちが増えているように感じます。

ITを教育や仕事、家庭でいかに利用するか、より日本の多くの方々に深く、深く考えていただきたいと思います。そして世界にそれを問うことを目的として英語を勉強すれば、英語も身につくのではないでしょうか。みなさんの経験や人生観を世界中の人が待っているような気がします。

2007年10月24日

15の夜

久しぶりに、三重の美杉村という山奥で弟の自動車に乗る機会がありました。アウディのオープンカーで、BGMに尾崎豊の曲が流れていました。山間の秋風がとても心地よいものでした。このような自然のなかで聞いたからかもしれませんが、久しぶりに聞くその歌唱力が、とても魅力的なのに驚きました。特に、「15の夜」という彼の代表作を1曲全部聞いたのは初めてですが、その歌詞に改めて驚きました。「盗んだバイクに乗りながら、自由を求める・・・」という歌詞です。

戦前は権威に支配され、地域の共同体があり、お国のために、という義務をまず押し付けられ、すべてがなくなった戦後、若者は、「15の夜」に代表される「自由」と「自分」を模索する青少年時代を送るわけです。

NHKスペシャルで、「学徒兵 許されざる帰還」というものを見ましたが、パイロットを希望した学徒兵が、拒否してもむりやり特攻隊に組み入れられ、使い古した訓練機で特攻に行かされ、死ねないで戻ってきたら寮に隔離して、罵倒されながら次の特攻に行かされる、という実態でした。戦後、人々は自由社会の中、利己主義に走り、モラルの荒廃が嘆かれますが、戦前のように軍人や憲兵が不当に威張り、役人が威張り、町内会の長が威張り、リーダーたちが本当に威張っていた時代よりはましだと思います。

権威は道徳も強制しますが、そういうものがなくなれば、当然社会から道徳も希薄になるでしょう。規範や道徳は、個人が組織の中で有形無形に強制行動するためのシステムといっていいでしょう。現代人にとっては、道徳が個人の利益につながる場合ならば、それを受け入れられるでしょう。

以前、テレビをつけたら偶然幻冬者の社長、見城徹氏がインタビューで尾崎豊のことを話していました。尾崎は見城氏に対し、絶対的な愛を要求し、常に愛情を確かめるために踏み絵をさせ、意にそぐわないと暴れまわったそうです。

だれでも若いころは、感覚が鋭敏なため、自分の感情を持て余した経験はあると思います。それが尾崎ほどの天才になると、自分の感情に収集がつかなくなるのでしょう。天才が若死にするのは、暴れまわる感情が肉体を蝕むからだと思います。

そういう意味では、戦前は、不当な強制が外部から強烈にあるので、自分の感情を暴れさせている暇はなかった。特に軍隊では環境が肉体的にあまりにも苛酷だと、根本的欲求、つまり食欲と睡眠欲しか沸かないものです。大学時代、ワンゲルの夏合宿で日高など険しい山を2週間はさまよいましたが、食べたい、休みたい、怖さから逃げたいという欲求以外はまったく起きませんでした。下界でちまちま悩んでいたことが、とてもちっぽけに思えます。

だからといって、都会の便利さや安全に囲まれた、食べ物に不自由しない、下界での悩みがチープだというつもりはありません。苦しみは同じなのです。なんのよりどころもない社会であることが、人々を不安にさせるのです。ヒトラーは「大衆は支配されたがっている」といいました。これはこう解釈するとわかりやすい。「大衆は依存することができるから、支配されたがる」。よりどころがほしいのです。よりどころは人々のつながりによって成り立ちます。

心のよりどころは、自由な社会でも、独裁的な支配社会でも必要なのです。極端な言い方をすれば、個人の心のよりどころが満たされていれば、どのような環境下でも人は前向きに生きられるのかもしれません。尾崎豊の場合は、人との愛だったのでしょう。

自分のよりどころを見つけることも、学習しなければならないのかもしれません。自分のよりどころとは、「自分を活かせる場所」ではないでしょうか。「自分を活かす」とは自分の能力、自分の性格、自分の過去、自分のネットワーク、自分の外見などなど。より自分を「活かす」には、今列挙した自分を磨くことも大切ですが、どう今の自分を「活かす」かが、もっとも重要なのではないでしょうか。

それは恋愛のパートナーとでもあるし、学校のクラスでもあるし、スポーツやクラブのチームでもあるし、会社の中でもあるでしょう。また不特定多数でも、お客様が喜ぶ商品を提供することもその中に入るでしょう。家族や組織の中でどう活かすか、ということでしょう。

前にも「ジョージ・ルーカスと教育」で述べましたが、今日生きている人間の数は、過去生きてきた人間すべての数の20倍といいます。そのような異常事態の中では、当然人々が自分の居場所を見出すことは難しくなっているのだと思います。

それを解決する可能性があるのがITというコミュニケーション革命だと思います。ITをいかに活用したら、人々は自分の居場所を見つけるか。自分を活かすことができるか。これが現代人に与えられたもっとも大切なテーマのひとつだと思います。

私はその鍵を「分配の法則」にあると思います。そのことはまた次の機会にお話したいと思います。

2008年07月07日

環境問題の本質

最近、テレビでも地球温暖化にともなう環境問題が、数多く報道されるようになりました。
しかし、どの番組もいかにCO2の排出を抑えるか、という問題ばかり報道され、物事の本質には触れられておりません。その本質とは、「循環社会に戻る」ということだと思います。具体的にいえば、企業間においては「共存共栄」、仕事をする人においては「適材適所」だと思います。

産業革命以降、人は飽くなき利潤追求を目指し、未開地を侵略し、森林を伐採し、供給過剰と倒産を繰り返し、その小波が大きく集まって景気変動となり、さまざまな破壊と生産が繰り返されていきました。

これはすべて「神の見えざる手」による「競争原理」という万国共通の法則に従い、地球上の経済は動いてきました。その結果、経済の過熱とともにエネルギーが生産され、消費され、地球は温まってきたのです。

なぜかくも「競争原理」が広がっていたのでしょうか。それは「競争原理」がいかなる人間の間にも共通の“プロトコル”つまり、意志を共感できるきまりだからです。個人個人が「利益」を得るために最も有効な手段が「競争原理」だと、みんなが思い込んでいるから、「競争原理」が世の中のスタンダードになるのです。

人が誕生し、群れをなし、村ができ、「長」と呼ばれる人が選ばれ、民を豊かにするために隣の村を襲うとき、「競争原理」はスタートしました。中世までは土地の奪い合い、近代は国の奪い合い、そして現代は「金」の奪い合いで「競争原理」は拡大してきました。人は、自分の利益のために戦争に駆り出され、自分の利益のために働くのです。あらゆる人と人の行動のプロトコルが「利益」だったのです。中世の大航海時代、地球の裏側にある未開人との交易も「利益」により成り立っていたのです。

しかしこの「競争原理」による人間の営みに、地球環境が耐えられなくなってきたのでしょう。否、地球環境の悪化に伴う人間の滅亡によるリセットも「神の見えざる手」の予定調和の一つなのでしょう。

個人個人で電気をこまめに消す、など省エネの姿勢は大切だと思います。しかし家庭の水道の蛇口の水滴を止めるような作業をみんなでしている間、「競争原理」の元、想像を絶する巨大な無駄遣いが世界で行われているのです。

中国の上海や深圳 、香港など東沿岸地域は値段が高くて人が住めない空家の超高層の巨大マンションが山のごとく乱立しているそうです。元の切り上げを狙った投資家が買い漁った結果だそうです。この実需要に見合わない巨大マンションを作るために山から石灰岩を切り出し、大量の鉄を生産するために膨大なにCO2を排出するのです。これも地球規模で考えれば、「競争原理」のなせる無駄です。

またバイオエネルギーを作るために同等の石油を消費し、さらに投機による穀物価格の高騰から、世界中で餓死者まで出て、暴動が続発しているという。これなどは「競争原理」の無駄を超えた愚行でしょう。

それではわれわれは、神に定められた運命に従い、繁殖しすぎた生物の末路に従い、滅亡へ向けて、繁殖しすぎたネズミのごとく、池の中へ黙々と飛び込んでいかなければならないのでしょうか。

ちょっと考えてみてください。本当に「競争原理」が人々の「利益」を生むための最適な手段なのでしょうか。バブル時代に「競争原理」に乗っかって、巨万の富を稼ぎ出し、豪遊していたバブル紳士たちはほとんど破産しました。これまでの歴史のなかでも、平家や信長や秀吉やナポレオンやヒトラーなど風雲児といわれたヒーローはなぜか短命です。そして、つい最近も邯鄲の夢といわれたIT長者がいました。皆さんの記憶にも新しいことと思います。

本当は、「競争原理」は「利益」を得るための最上の策ではないのでは?世の中は必ず波があります。上昇気流の波に乗って大成功しても、大成功すればするほど、舵を切りにくくなり、結局は大失敗するのでしょう。何度か上昇、下降を繰り返し、だんだん拡大するほうが安全なのかもしれません。「競争原理」に代わる「利益」を生むための方策はないものでしょうか。

「利益」を生むことにけっして長けていない私が発言しても説得力はないかもしれませんが、ひとつご提案があります。ITを活用することです。今は携帯電話で相手との交渉ができるのです。つまりいつでもどこでも意思の疎通が可能なのです。つまり「競争原理」に代わる新しい「プロトコル」を作ればよいのです。

それは「共存共栄」「適材適所」のシステムをプロトコルにすることです。「競争原理」は一方が一方を打ち負かすことで、無駄が多く発生します。「共存共栄」「適材適所」に切り替えることで、打ち負かされた「負け組」も有効に生かすことができるのです。

私たちメディアファイブは、まず5年の歳月をかけ「適材適所」のシステムを開発しました。人材育成型グループウエア「則天」です。利益は天の配剤に任せて、いかに人が自分の能力に合った仕事を生かし、才能をのばしていくためのシステムです。

そして今、歴史ネットゲーム「NextRevolution」を開発しています。これによって、多くの人や会社が自由に集まり、歴史のなかで1年を100分の1程度に短縮し、時間の流れ、人の生き死に、時代の生滅を体感しながら、ビジネスや人材マッチングの場を提供していこうと考えております。

特に江戸時代は、庶民の生活の状況も含めて、これからを「共存共栄」の社会にしていくために参考になる時代だと思います。教育ブログ「江戸の教育力」で触れましたが、徳川吉宗は享保の改革で、庶民の隅々まで寺子屋をたてるなど教育の普及に努めた結果、多くの農業指南書が出され、農民は農業の改良に努め、飛躍的に農業生産性が上がったのです。

なぜ「NextRevolution」か?それは有史以来の「競争原理」による人の営みを、次の時代は「共存共栄」に変えていかなければならないからです。「革命」の本来の意味は、古いものを倒して新しい時代を創るということですが、古い時代を尊重しつつ「共存共栄」の時代に変えていかなければならないと思います。これこそが有史以来の人間にとっての大革命となるでしょう。ITを活用すれば可能なことだと思います。

このような有史始まって以来の「革命」的な試みが世界中で起こることが、環境問題解決の本質なのではないでしょうか。

人の利益追求を辞めさせることはできません。だれも人の欲望を止めることはできないからです。マルクスの失敗はここにあります。しかし無意味な戦いは辞めさせることが可能です。なぜならもし闘わなくても利益追求ができるなら、誰も無意味に傷つけ合いたくはないからです。

それでも人間の闘争本能は消せるわけはない、という人もいるでしょう。それが真実なのかもしれません。そうであれば、もうだれも水に飛び込むネズミの集団(=人間)を止めることはできないでしょう。

今日は、ちょっと大風呂敷を広げすぎたかもしれません。すみません。

2008年11月30日

組織の論理 個人の都合

先日『転進 瀬島龍三の遺言』を読みました。太平洋戦争最後の生き残り参謀であった瀬島龍三氏が昨年9月に亡くなり、彼と仕事で親交のあった人が、生前彼が語っていた内容などを本にしたものです。そこでとても驚くことが書いてありました。東条英機は1944年のインパールの失敗やガダルカナルの陥落まで、ミッドウエー海戦で、日本の主力海軍が大部分壊滅したことを知らなかったことです。それを星野直樹に告げられて、東条は驚いて「そうとわかっていたなら、フィリピンにこだわったり、インパール作戦などやらなかったのに」と言ったそうです。実にミッドウエー海戦から3年経ち、戦争も終盤に差し掛かってきている時期です。

作者は瀬島にそのことを知っていたのですか、と聞くと、知っていました、と答えたそうです。そして「でも海軍にも面子があるでしょうから上には上げませんでした。」と言ったといいます。
とても信じられない話です。戦争の最高責任者の東条がミッドウエー海戦の実被害を3年も知らされていないなんてことがあるのでしょうか。このようなことで、戦争など勝てるわけありません。それ以上になんでこんな無謀な戦争を始めたのかもわかる気がします。大きな組織に属している場合、時として個人の出世が組織の存続を上回ることが起こります。

 ある意味では戦前の軍隊は終身雇用・年功序列のもっとも悪い面が出たのかもしれません。明治維新から70年から80年に差し掛かろうとしている時期です。日清、日露戦争で勝ち、国内での戦争はなく、もはや日本は盤石、まさか国が滅ぶようなことはあるまい、と危機意識も少なく、軍隊の近代化も遅れてしまった。こうなってくると組織のエリートは、大局的にものを見るより、個人の出世を優先するようになってくるのかもしれません。

 ところで日本も戦後60年を過ぎ、20年前は労働生産性も学力もトップクラスであったものが、現在先進国最下位まで落ち込んできました。この主たる原因は経営と教育のイノベーションが大幅に遅れたことにほかなりません。具体的にいえば、ITの活用が、国民レベルで低迷しているのです。ITを活用して個人がもっと高い能力を持とうと努力し、学校現場ではITを活用して教育レベルを引き上げ、ビジネスでもホワイトカラーの生産性をITを活用して高めようと考えなければならないのです。

 欧米では教育現場ではもうかなりITは導入されています。日本はこの20年間教育のイノベーションは止まったままです。経営でも米国ではSaaSを標ぼうし、どんどんITをビジネス現場に取り込んでいます。

 今、日本はまた戦前の軍隊のようにイノベーションは止まり、組織はモラルハザードを起こし、ビジネスはBRICSの成長頼みで、国内は低迷しています。何はともあれ経営と教育のイノベーションが大切なはずです。まずは企業の評価法を年に2回の中間管理職のいい加減な評価にまかせないで、システマティックにするべきです。そしてチームや組織での活動手法を研究すべきです。
 
 実は総務省も文科省も通産省もITによる経営や教育のイノベーションの重要性を言い続けてはいるのです。当社の「則天」も当初、総務省所管の情報通信研究機構の補助金をいただいて開発しました。

 たぶん、企業や国民レベルで普及しないのです。なぜ普及しないか、というと関心がないのです。

 なぜ道具を工夫し、イノベーションの得意な日本人が、時としてイノベーションを忘れてしまうことがあるのだろうか。

 それは日本人が徹底的なリアリストだからかもしれません。バブルでは、膨大なお金を稼ぎ、次にITバブル、マンションラッシュ、BRICSの台頭、不動産バブルと目先で儲かる事に飛びついていたから、実ビジネスのイノベーションが遅れてしまったのでしょう。

また国民レベルでは、あまり勉強や仕事でイノベーションを図っても、未来に希望が持てるようには感じていないのです。むしろ癒しや目先の利益にしか関心がないのかもしれません。

だから、今こそイノベーションを進めるチャンスなのです。他に儲けられることが見つからないうちに。

 さもないとまた後世に「なんでそんなことをやったのだろう」というとんでもないことを日本や企業は選択するかもしれません。

2008年12月06日

大不況を大好況と感じられる方法

今日、昼ごろ、仕事を中断して、CDを漁っていたら、あがた森魚の「乙女のろまん」というCDをCDケースの奥で見つけました。気まぐれにプレーヤーで鳴らしてみると、部屋いっぱいに昭和初期の世界が広がりました。

乙女のろまん
あわれ乙女よ何故泣くか
お巡りさんが訳聞けば
お願いだから許してね
弟妹おなかすかせて
待ってるからね
なくなといえばなを泣いた
かた うちふるわせて
・・・・春をひさぐ
ああメリケンフトン

1929年世界大恐慌が起こり、
巷には失業者があふれ
銀座や日本橋界隈でこういう
情景があちらこちらで見れたのでしょう。

なんか今、違和感がないのです。
とてもしっくりいくのです。
あがた森魚の不安げな嬌声(失礼!)が
とてもすさんだ今の日本の世情にマッチしているのです。

極め付きは、CDも佳境にはいり、
あがた森魚代表作「赤色エレジー」がかかりました。

愛は愛とて何になる
男一郎 まこととて

幸子の幸は何処にある
男一郎 ままよとて

昭和余年は春も宵
桜吹雪けば情も舞う

そして終番になり
清怨夜曲
・・・・
だから踊ろう 僕と一緒に
君は幸せに眠くなれ
でも怖いの ほらあんなに
明日も寂しそきらきらお星様
・・・・

眠っている時間だけが幸せな人生とは・・
生き続けることの辛さを実にうまく表現しています。

確かに今は、仕事を思うように拡大するのは難しい。
でも生き続けることは、難しくない。
今日もデパートや駅前を歩きましたが、
昭和余年に比べれば、大好況です。
明日の食べ物がなかったり、住む家のない人の姿は見かけません。

そう考えると、今はビジネスチャンスに溢れています!

そういえば、夜、川島芳子のドラマが、テレビが放映されていました。
この時代はとても大胆で、だれもがグローバルで、魅力的です。
中国や上海で仕事をしている日本人が多い今日
とても共感を持てる時代なのかもしれない。

しかし、このあと日本は破滅へと突き進んでいく。

私は8年前、満州事変の小説を書こうと思い、たくさんの資料を読みました。
そもそも、あがた氏のCDも昭和初期の雰囲気をつかみたくて買いそろえたのですが、
この1枚以外、どこかになくしてしまいました。
川島芳子の本もずいぶん読みました。
昭和初期に雰囲気に今近いように思います。

みんなもう一度、老若男女がパソコンに興味を持って
ビジネスに、能力向上にがんばりましょう。
この20年間、OECDの調査で、学力も、労働生産性も1位から先進国最下位に落ちたのです。

「だから踊ろう 僕と一緒に
君は幸せに眠くなれ」
とみんなが現実逃避していると
昭和余年の二の前になります。!
教育と経営のイノベーションしかないんです!!!
孫子も、曹操も、G・ウェルチも成功した経営者はみんな言っています。

でも、このテレビを見ながら私の頭の中では、「赤色エレジー」がなっていました。
「そうだ、あがた森魚のコンサートにでも行ってみようかな」と思ったら
とっても、マイナーなコンサートにもかかわらず
来週の東京公演のチケットは完売でした。

世間は鋭い・・・・。

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