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社会 アーカイブ

2007年09月29日

5年前ファーストフードで

5年ほど前の朝、ファーストフード店でこんな情景にでくわしました。
いかにも朝帰りとわかる、髪を金髪に染めた制服の女子高生二人が、私の隣の席に座って話をしていました。一人の女の子の携帯電話が鳴り、どうも友達からの電話だったようです。声が大きいので聞かずとも聞こえてくるのですが、電話している女の子の親が、その通話の相手である友達に電話をかけ、昨日の女の子のアリバイを確かめたようです。逆切れした女の子は母親に電話し、延々と罵倒し続けていました。

母親は泣きながら電話を一方的に切ったようです。そのとき、ふと女の子の悲しみが伝わってきたように感じました。女の子がもし本当に母親を憎んでいたら、自分から電話を切ってしまうでしょう。いつまでも母親に罵声を浴びせ続けているのが、なんとなく心では母親に助けを求めているように聞こえたのです。

おそらく電話の相手の母親は団塊の世代か、もしくは私と同じくらいの年齢でしょう。当時、もし私に25で子供ができていたら、このような不良少女になっていたのではないかと思ったのです。
私の年代は昭和一桁世代の親を持ちます。彼らは青少年時代を戦中、戦後の貧しい生活下で生きてきました。彼らは国家のために、という教育を受け、自分の子供には、自分たちのような貧しい思いはさせたくない、という自己犠牲のもと、子供中心の生活を続けてきたのだと思います。

私たちの世代は権威を嫌い、自己犠牲を知らずに育った年代です。子供はかわいい、という動機で接し、友達のように育て、忙しくなったり手に負えなくなると自分の都合で責任を放棄し、無視してきたのではないでしょうか。若ければ若いほど、遊びたい欲求は強く、その傾向は増していくでしょう。秋田で自分の子供を欄干から突き落としたとされる痛ましい事件も、まさにそれゆえでしょう。

子供の側からすれば、そうした親の姿勢に深く傷ついていると思います。おそらく自分の親が他人であるかのような感じを子供の頃から受けていたのではないでしょうか。これも親の同志的教育の悲劇的な結果なのかもしれません。援助交際をする女子高生は、自分を買う愚劣きわまりない大人を大変軽蔑していると聞きます。これはその愚劣な大人を親に見立てた、親に対する、自分を傷つけてまでする、大変憎しみのこもった復讐なのでしょう。

父親の威厳が必要な時代といわれます。三島由紀夫は父親をテーマに扱った小説を数多く残しています。これは私の独断ですが、彼は日本社会における父親像の原形を、明治の元勲に象徴される明治男に求めています。

「春の雪」では主人公の父親である松枝公爵は権力の象徴であり、主人公の松枝清秋はその対局にある優雅と美の象徴として描かれていました。「奔馬」では昭和初期の右翼の少年が主人公なのですが、その父と子を不純と純粋という対比で描いています。「絹と明察」では高度成長期の織物会社の経営者である主人公は父親の象徴的人物として描かれ、社員すなわちわが子に思考することを許しませんでした。「午後の曳航」では母子家庭で育った子供が、あこがれている船乗りの男がいざ自分の父親になると、そのあこがれの存在が堕落したとして殺害してしまう物語です。つまり父親は世間から子を守るための力(権力)としたたかさ(不純)をもつものと定義しています。

三島の近代能楽集のなかに「邯鄲」という小品があります。これは邯鄲という枕に寝る人は人生がむなしくなり失踪するという話をききつけた主人公が、その枕で寝てみると、夢の中で、世の中の富と名誉と美女を手に入れる体験をし、普通の人では人生に意味を感じなくなるところ、彼は常に大人になることを拒否していたために、なにも変わらず目が覚めた、という話です。ホリエモンが逮捕されたときの「邯鄲の夢」という新聞の見出しが印象に残ります。

三島の小説は、父親を既成権力、妥協、欲望、愚鈍、旧体質として描き、子供を美、未完成、創造、理性、新しい概念としてとらえ、むしろ子供を主役におき、父親の醜さをコントラストに描き、彼の美学を表現します(彼の小説は常に既存価値=父親を破壊する子供という形で芸術を表現するものが多いのです)。しかし彼の死の直前に完成した「天人五衰」で、最後に美が醜い形で消滅する姿を描き、彼の美学にピリオドを打っています。

彼は自身の求める時代とずれた時代に生きたことを大変くやしく思っていることは間違いありません。彼が求めていた時代は今だったのかもしれません。改めて今日読んでみると、彼の作品は今の時代のために創った時限爆弾だったと気付きます。彼の芸術は、「父親=既存権力」に立ち向かう「子=新しい概念」という形で成り立つ美学の構築物なのです。彼が生きた戦後、高度成長期は彼が対立しなければならない父親=既存権力が根こそぎ崩壊していき、もはや彼はそのなかで創作を生み出すことが不可能となり、彼自身が父親=既存権力となってがんこ親父が子供にげんこつを喰らわすように、死を持って社会に恫喝したのです。彼が最後に残した「豊饒の海」4巻が30年隔てた今日、破裂するように仕組んで死んでいったのです。

日本人は今日、ますますその幼稚化が進行しています。もっとも幼稚化しているのはまずテレビや大衆新聞です。不二家の賞味期限改ざんの問題は、もともと不二家が社内でプロジェクトチームを作り、業務改善しようとしたときに挙げられた問題が世間に流れたのです。賞味期限を改ざんしたこと自体は、確かに問題があります。しかし、そういった問題を明示化して改善しようとした矢先に、社会に表面化したのです。この問題で不二家が窮地に立つのならば、逆に業務改善する会社は今後より問題を隠蔽する方向に進むでしょう。テレビ報道は不二家をただ糾弾するばかりで、そこに世間をよくしよう、という意識は感じられません。まるで中学校のクラスのいじめをみているようでした。

日本の幼稚化は、団塊の世代の権利の主張に起因する、と言う人が結構います。それは敗戦でゼロから出直した日本が、「戦争という過去を断ち切り、個人の権利を主張する」という新しい国家のコンセプトでスタートしたからです。そして団塊の世代の、断ち切る「過去」とはすなわち自分たちの父親だったのかもしれません。少なくとも自分たちは「父親」というイメージにネガティブな感覚をもっていたのではないでしょうか。「父親」という権力、権威を破壊し、自分たちの自由と権利を謳歌する。高度成長を遂げ、世界第2位の経済大国になった今でも、まだこの国全体が同じコンセプトを持ち続けているように感じます。当然です。団塊の世代の子供たちが今の若者なのだからです。

しかし戦後60年たつと、日本はすでに成熟した国家に突入したのです。日本という国を人にたとえると、体はすでに中年に入ってきているのに、いまだに赤ちゃんプレイをしているようなものです。

成熟国家では「過去を大切にし、個人の義務を履行する」コンセプトでなくてはなりません。「個人の義務」とは社会の責任、とくに子供や若者を育てる義務です。情緒的にいうのならば、日本における新しい「父親」像を明示しなければならないのです。米国にもヨーロッパにもそういう「父親」像は強く感じます。
そのためには「どうして断ち切らなければならない過去を起こしたか」ということ、つまり「なぜ、あのような悲惨な太平洋戦争が起きたか」というところからスタートしなければならないのではないでしょうか。太平洋戦争があるから、過去を大切にできない。60年たった今日はその過去を徹底的に分析し、日本人の糧へと変えていかなければならないと思います。

ファーストフードの女子高生はもう成人していると思います。今、なにを考えて、どうしているのでしょうか。

2007年10月01日

バーチャルとリアル

ゲームソフトや携帯電話に代表されるITのツールが教育によくない、という識者の意見をよく耳にします。残酷な暴力シーンの多いゲームソフトは、子供の犯罪を助長する、とか、携帯電話や携帯メールは援助交際を助長する、とか、ゲームばかりすると脳が退化する、などなどです。確かにごもっともな意見だと思います。

資本主義の世の中では、当然ITをめぐっても、人の欲望や享楽を満たす市場が拡大することは仕方のないことです。まずその市場が拡大し、目立ち、問題が起きるのは、資本主義国家での新しいビジネスのたどらなければならない道だと思います。自動車が普及を始めた昭和30年代、カミナリ族は公道をマフラーを抜いて、暴走していました。ITの一時欲求的な利用方法からなかなか抜け出せないところに問題があるのです。

世界の人口がビックバンのごとく急増した今日、人間のコミュニケーションはITの活用なくしては不可能だと思います。ただITに関する精神面、文化面での議論がまったく進んでいないことが、今日のITの弊害をことさら、増大しているのだと思います。暴力シーンの多いゲームソフトは相手がゲームであるから、ゲームキャラクターの感情を考える必要がない。こういうゲームに慣れてくると、生身の人間に対してもその人の感情を考えなくなる人が増えてくる。しかし本来、ITはより人の気持ちを理解したり、コミュニケーションを密にしたり、人と人の関係を円滑にするためにあるべきなのです。そういった人と人の精神面、そして文化面でどうITを利用して、よりよい関係や世の中を築いていくかを考えていかなければなりません。

ITの問題、すなわちバーチャルとリアルの問題は実は大昔からあるのです。色即是空 空即是色という般若心経の有名な一節があります。形あるものはすなわち無であり、無はすなわち形あるものとなる、という意味なのですが、平家物語の諸行無常のように形あるものはいつか滅びて無になる、ということだけを言っているのではないと思います。これこそバーチャルとリアルの関係、デジタルとアナログの関係なのではないでしょうか。

孫子の兵法は、いかに気の流れを読み取り、それを生かして、戦いに勝つか、ということが本質なテーマです。戦上手は戦う前から勝敗を理解できます。つまり孫子の兵法は、まず心の中にコンピュータをもって、バーチャルなシミュレーションをしろ、ということなのです。バーチャルの中で勝てれば、リアルでも勝てる、というノウハウ集なのです。

ビジネスでも人間関係でも、心があり、人が動き、形ができる。IT社会になるまでは、この過程の時間が長かった。インターネットが人々の生活の主流になると、ネット上でのあらゆる活動がそのままビジネスに直結する、という点で本当にバーチャルが魔法のように現実(リアル)に影響するようになりました。ソフトバンクの孫正義氏は、リアルなビジネスは限界があるけれどバーチャルなビジネスのインパクトは無限大だ、と言っています。
リアルなビジネスで苦労して会社を上場させ、バーチャルなビジネスで飛躍した初代の成功者の至言だと思います。

しかし、バーチャルなビジネスには参入しやすく、ちょっとしたことですぐにひっ繰り返されもします。だから玉石混交であらゆるものが参入し、マネーロンダリングの温床となり、ある意味、胡散臭いイメージが生じてしまいます。しかしそれは新しい時代に対する警戒や嫉妬も含めた世間のイメージなのかもしれません。

大化の改新後、中大兄皇子は10年も天皇になれませんでした。平清盛はなりあがり者として最後まで公家に陰口を叩かれ、頼朝は権力の中心である京都から離れて鎌倉に新しい都をつくりました。建武の親政は失敗し、世間からさんざん落書きされました。信長はうつけとされ、秀吉は猿とののしられ、家康はまったく世間に人気がなかった。明治維新の元勲たちは田舎侍の西欧かぶれと言われ、戦後、第2位まで経済大国に押し上げた日本のビジネスマンたちは世界から働きねずみとののしられました。世間の嫉妬は、実はバーチャルな最も強大なパワーなのかもしれません。

石橋湛山によれば太平洋戦争は、日清戦争で自信をつけ日露戦争でつけあがった日本国民全体の責任、と指摘されていますが、まさにそのとおりでしょう。ITが普及するにつれ、世間のバーチャルな意志がリアルに実現できる可能性が高くなる、ということは、より多くの人に富をもたらすチャンスでもあるのでしょう。しかしその一方で深くものを知り、考え、慎重な条件で行動しなければ、失敗や敗北に遭遇しやすいということです。その意味では、脳機能ブームで思考力、判断力を鍛えるのもひとつの方法かもしれません。

太古より、戦争により国を奪い、富を得られる時代には、体が大きく、一騎打ちが強い男が尊ばれたでしょう。奈良平安時代は宮廷内の政争に強く血筋のよいものが尊ばれたでしょう。鉄砲の時代になると、秀吉のように頭脳と人間的魅力が重要になってきます。近代にはいると、秀吉のような人間がますます要求されてきました。

ところがIT時代になると、黎明期では、ネット上での成功がすべてを制してきました。そこには人間的魅力が介在しなくてもよいのです。頭だけでネット上でアピールすることが成功に結びつくのです。モーツアルトのように人間はめちゃくちゃでも、音楽は神の手にゆだねられたごとく、ネット社会でもそういう人間が出現したら、そこに富が集まるのでしょう。

しかしIT社会も成長期に入り、成熟期に近づいてくると、国民ひとりひとりが大人として責任をもち、二律背反的な判断でなく、常に学び、慎重に考えながら生きていける国家こそが繁栄するのだと思います。わかりやすく片方の意見を切り捨てれば、そのなかに隠れている真実も切り捨てられるのです。IT社会こそ二律共存的な生き方が可能なのではないでしょうか。


今日、日本と欧米でのITにおける技術格差はそれほどあるとは思いません。深刻に差がついているのはITにおける教育、文化、哲学面だと思います。欧米の人々はITを通して二律共存的な発想をしている人が多くなっているように感じます。先日ご紹介したSaas(9月19日「高田屋嘉兵衛とシリコンバレー」)は、みんながどんどんビジネスのアイデアを出し合って、自由に利用する、という発想です。昔のように自分だけがシステムを囲い込む方法は、時代遅れになってきているのです。

でも実はその二律共存の発想の原点は日本にあるのです。江戸時代の循環社会、職人の技術、アイデア、和の精神、などなど。

これからわれわれが目指すITの教育、文化、哲学の家元は日本なのです。それをすでに欧米の人たちのほうが気づいている。日本でもせっかく一昨年くらいから和への回帰ブームになっているのですが、単純な懐古主義的なブームで、それをITと結びつけるどころか、かえってITを敬遠している人たちが増えているように感じます。

ITを教育や仕事、家庭でいかに利用するか、より日本の多くの方々に深く、深く考えていただきたいと思います。そして世界にそれを問うことを目的として英語を勉強すれば、英語も身につくのではないでしょうか。みなさんの経験や人生観を世界中の人が待っているような気がします。

2007年10月24日

15の夜

久しぶりに、三重の美杉村という山奥で弟の自動車に乗る機会がありました。アウディのオープンカーで、BGMに尾崎豊の曲が流れていました。山間の秋風がとても心地よいものでした。このような自然のなかで聞いたからかもしれませんが、久しぶりに聞くその歌唱力が、とても魅力的なのに驚きました。特に、「15の夜」という彼の代表作を1曲全部聞いたのは初めてですが、その歌詞に改めて驚きました。「盗んだバイクに乗りながら、自由を求める・・・」という歌詞です。

戦前は権威に支配され、地域の共同体があり、お国のために、という義務をまず押し付けられ、すべてがなくなった戦後、若者は、「15の夜」に代表される「自由」と「自分」を模索する青少年時代を送るわけです。

NHKスペシャルで、「学徒兵 許されざる帰還」というものを見ましたが、パイロットを希望した学徒兵が、拒否してもむりやり特攻隊に組み入れられ、使い古した訓練機で特攻に行かされ、死ねないで戻ってきたら寮に隔離して、罵倒されながら次の特攻に行かされる、という実態でした。戦後、人々は自由社会の中、利己主義に走り、モラルの荒廃が嘆かれますが、戦前のように軍人や憲兵が不当に威張り、役人が威張り、町内会の長が威張り、リーダーたちが本当に威張っていた時代よりはましだと思います。

権威は道徳も強制しますが、そういうものがなくなれば、当然社会から道徳も希薄になるでしょう。規範や道徳は、個人が組織の中で有形無形に強制行動するためのシステムといっていいでしょう。現代人にとっては、道徳が個人の利益につながる場合ならば、それを受け入れられるでしょう。

以前、テレビをつけたら偶然幻冬者の社長、見城徹氏がインタビューで尾崎豊のことを話していました。尾崎は見城氏に対し、絶対的な愛を要求し、常に愛情を確かめるために踏み絵をさせ、意にそぐわないと暴れまわったそうです。

だれでも若いころは、感覚が鋭敏なため、自分の感情を持て余した経験はあると思います。それが尾崎ほどの天才になると、自分の感情に収集がつかなくなるのでしょう。天才が若死にするのは、暴れまわる感情が肉体を蝕むからだと思います。

そういう意味では、戦前は、不当な強制が外部から強烈にあるので、自分の感情を暴れさせている暇はなかった。特に軍隊では環境が肉体的にあまりにも苛酷だと、根本的欲求、つまり食欲と睡眠欲しか沸かないものです。大学時代、ワンゲルの夏合宿で日高など険しい山を2週間はさまよいましたが、食べたい、休みたい、怖さから逃げたいという欲求以外はまったく起きませんでした。下界でちまちま悩んでいたことが、とてもちっぽけに思えます。

だからといって、都会の便利さや安全に囲まれた、食べ物に不自由しない、下界での悩みがチープだというつもりはありません。苦しみは同じなのです。なんのよりどころもない社会であることが、人々を不安にさせるのです。ヒトラーは「大衆は支配されたがっている」といいました。これはこう解釈するとわかりやすい。「大衆は依存することができるから、支配されたがる」。よりどころがほしいのです。よりどころは人々のつながりによって成り立ちます。

心のよりどころは、自由な社会でも、独裁的な支配社会でも必要なのです。極端な言い方をすれば、個人の心のよりどころが満たされていれば、どのような環境下でも人は前向きに生きられるのかもしれません。尾崎豊の場合は、人との愛だったのでしょう。

自分のよりどころを見つけることも、学習しなければならないのかもしれません。自分のよりどころとは、「自分を活かせる場所」ではないでしょうか。「自分を活かす」とは自分の能力、自分の性格、自分の過去、自分のネットワーク、自分の外見などなど。より自分を「活かす」には、今列挙した自分を磨くことも大切ですが、どう今の自分を「活かす」かが、もっとも重要なのではないでしょうか。

それは恋愛のパートナーとでもあるし、学校のクラスでもあるし、スポーツやクラブのチームでもあるし、会社の中でもあるでしょう。また不特定多数でも、お客様が喜ぶ商品を提供することもその中に入るでしょう。家族や組織の中でどう活かすか、ということでしょう。

前にも「ジョージ・ルーカスと教育」で述べましたが、今日生きている人間の数は、過去生きてきた人間すべての数の20倍といいます。そのような異常事態の中では、当然人々が自分の居場所を見出すことは難しくなっているのだと思います。

それを解決する可能性があるのがITというコミュニケーション革命だと思います。ITをいかに活用したら、人々は自分の居場所を見つけるか。自分を活かすことができるか。これが現代人に与えられたもっとも大切なテーマのひとつだと思います。

私はその鍵を「分配の法則」にあると思います。そのことはまた次の機会にお話したいと思います。

2008年07月07日

環境問題の本質

最近、テレビでも地球温暖化にともなう環境問題が、数多く報道されるようになりました。
しかし、どの番組もいかにCO2の排出を抑えるか、という問題ばかり報道され、物事の本質には触れられておりません。その本質とは、「循環社会に戻る」ということだと思います。具体的にいえば、企業間においては「共存共栄」、仕事をする人においては「適材適所」だと思います。

産業革命以降、人は飽くなき利潤追求を目指し、未開地を侵略し、森林を伐採し、供給過剰と倒産を繰り返し、その小波が大きく集まって景気変動となり、さまざまな破壊と生産が繰り返されていきました。

これはすべて「神の見えざる手」による「競争原理」という万国共通の法則に従い、地球上の経済は動いてきました。その結果、経済の過熱とともにエネルギーが生産され、消費され、地球は温まってきたのです。

なぜかくも「競争原理」が広がっていたのでしょうか。それは「競争原理」がいかなる人間の間にも共通の“プロトコル”つまり、意志を共感できるきまりだからです。個人個人が「利益」を得るために最も有効な手段が「競争原理」だと、みんなが思い込んでいるから、「競争原理」が世の中のスタンダードになるのです。

人が誕生し、群れをなし、村ができ、「長」と呼ばれる人が選ばれ、民を豊かにするために隣の村を襲うとき、「競争原理」はスタートしました。中世までは土地の奪い合い、近代は国の奪い合い、そして現代は「金」の奪い合いで「競争原理」は拡大してきました。人は、自分の利益のために戦争に駆り出され、自分の利益のために働くのです。あらゆる人と人の行動のプロトコルが「利益」だったのです。中世の大航海時代、地球の裏側にある未開人との交易も「利益」により成り立っていたのです。

しかしこの「競争原理」による人間の営みに、地球環境が耐えられなくなってきたのでしょう。否、地球環境の悪化に伴う人間の滅亡によるリセットも「神の見えざる手」の予定調和の一つなのでしょう。

個人個人で電気をこまめに消す、など省エネの姿勢は大切だと思います。しかし家庭の水道の蛇口の水滴を止めるような作業をみんなでしている間、「競争原理」の元、想像を絶する巨大な無駄遣いが世界で行われているのです。

中国の上海や深圳 、香港など東沿岸地域は値段が高くて人が住めない空家の超高層の巨大マンションが山のごとく乱立しているそうです。元の切り上げを狙った投資家が買い漁った結果だそうです。この実需要に見合わない巨大マンションを作るために山から石灰岩を切り出し、大量の鉄を生産するために膨大なにCO2を排出するのです。これも地球規模で考えれば、「競争原理」のなせる無駄です。

またバイオエネルギーを作るために同等の石油を消費し、さらに投機による穀物価格の高騰から、世界中で餓死者まで出て、暴動が続発しているという。これなどは「競争原理」の無駄を超えた愚行でしょう。

それではわれわれは、神に定められた運命に従い、繁殖しすぎた生物の末路に従い、滅亡へ向けて、繁殖しすぎたネズミのごとく、池の中へ黙々と飛び込んでいかなければならないのでしょうか。

ちょっと考えてみてください。本当に「競争原理」が人々の「利益」を生むための最適な手段なのでしょうか。バブル時代に「競争原理」に乗っかって、巨万の富を稼ぎ出し、豪遊していたバブル紳士たちはほとんど破産しました。これまでの歴史のなかでも、平家や信長や秀吉やナポレオンやヒトラーなど風雲児といわれたヒーローはなぜか短命です。そして、つい最近も邯鄲の夢といわれたIT長者がいました。皆さんの記憶にも新しいことと思います。

本当は、「競争原理」は「利益」を得るための最上の策ではないのでは?世の中は必ず波があります。上昇気流の波に乗って大成功しても、大成功すればするほど、舵を切りにくくなり、結局は大失敗するのでしょう。何度か上昇、下降を繰り返し、だんだん拡大するほうが安全なのかもしれません。「競争原理」に代わる「利益」を生むための方策はないものでしょうか。

「利益」を生むことにけっして長けていない私が発言しても説得力はないかもしれませんが、ひとつご提案があります。ITを活用することです。今は携帯電話で相手との交渉ができるのです。つまりいつでもどこでも意思の疎通が可能なのです。つまり「競争原理」に代わる新しい「プロトコル」を作ればよいのです。

それは「共存共栄」「適材適所」のシステムをプロトコルにすることです。「競争原理」は一方が一方を打ち負かすことで、無駄が多く発生します。「共存共栄」「適材適所」に切り替えることで、打ち負かされた「負け組」も有効に生かすことができるのです。

私たちメディアファイブは、まず5年の歳月をかけ「適材適所」のシステムを開発しました。人材育成型グループウエア「則天」です。利益は天の配剤に任せて、いかに人が自分の能力に合った仕事を生かし、才能をのばしていくためのシステムです。

そして今、歴史ネットゲーム「NextRevolution」を開発しています。これによって、多くの人や会社が自由に集まり、歴史のなかで1年を100分の1程度に短縮し、時間の流れ、人の生き死に、時代の生滅を体感しながら、ビジネスや人材マッチングの場を提供していこうと考えております。

特に江戸時代は、庶民の生活の状況も含めて、これからを「共存共栄」の社会にしていくために参考になる時代だと思います。教育ブログ「江戸の教育力」で触れましたが、徳川吉宗は享保の改革で、庶民の隅々まで寺子屋をたてるなど教育の普及に努めた結果、多くの農業指南書が出され、農民は農業の改良に努め、飛躍的に農業生産性が上がったのです。

なぜ「NextRevolution」か?それは有史以来の「競争原理」による人の営みを、次の時代は「共存共栄」に変えていかなければならないからです。「革命」の本来の意味は、古いものを倒して新しい時代を創るということですが、古い時代を尊重しつつ「共存共栄」の時代に変えていかなければならないと思います。これこそが有史以来の人間にとっての大革命となるでしょう。ITを活用すれば可能なことだと思います。

このような有史始まって以来の「革命」的な試みが世界中で起こることが、環境問題解決の本質なのではないでしょうか。

人の利益追求を辞めさせることはできません。だれも人の欲望を止めることはできないからです。マルクスの失敗はここにあります。しかし無意味な戦いは辞めさせることが可能です。なぜならもし闘わなくても利益追求ができるなら、誰も無意味に傷つけ合いたくはないからです。

それでも人間の闘争本能は消せるわけはない、という人もいるでしょう。それが真実なのかもしれません。そうであれば、もうだれも水に飛び込むネズミの集団(=人間)を止めることはできないでしょう。

今日は、ちょっと大風呂敷を広げすぎたかもしれません。すみません。

2008年11月30日

組織の論理 個人の都合

先日『転進 瀬島龍三の遺言』を読みました。太平洋戦争最後の生き残り参謀であった瀬島龍三氏が昨年9月に亡くなり、彼と仕事で親交のあった人が、生前彼が語っていた内容などを本にしたものです。そこでとても驚くことが書いてありました。東条英機は1944年のインパールの失敗やガダルカナルの陥落まで、ミッドウエー海戦で、日本の主力海軍が大部分壊滅したことを知らなかったことです。それを星野直樹に告げられて、東条は驚いて「そうとわかっていたなら、フィリピンにこだわったり、インパール作戦などやらなかったのに」と言ったそうです。実にミッドウエー海戦から3年経ち、戦争も終盤に差し掛かってきている時期です。

作者は瀬島にそのことを知っていたのですか、と聞くと、知っていました、と答えたそうです。そして「でも海軍にも面子があるでしょうから上には上げませんでした。」と言ったといいます。
とても信じられない話です。戦争の最高責任者の東条がミッドウエー海戦の実被害を3年も知らされていないなんてことがあるのでしょうか。このようなことで、戦争など勝てるわけありません。それ以上になんでこんな無謀な戦争を始めたのかもわかる気がします。大きな組織に属している場合、時として個人の出世が組織の存続を上回ることが起こります。

 ある意味では戦前の軍隊は終身雇用・年功序列のもっとも悪い面が出たのかもしれません。明治維新から70年から80年に差し掛かろうとしている時期です。日清、日露戦争で勝ち、国内での戦争はなく、もはや日本は盤石、まさか国が滅ぶようなことはあるまい、と危機意識も少なく、軍隊の近代化も遅れてしまった。こうなってくると組織のエリートは、大局的にものを見るより、個人の出世を優先するようになってくるのかもしれません。

 ところで日本も戦後60年を過ぎ、20年前は労働生産性も学力もトップクラスであったものが、現在先進国最下位まで落ち込んできました。この主たる原因は経営と教育のイノベーションが大幅に遅れたことにほかなりません。具体的にいえば、ITの活用が、国民レベルで低迷しているのです。ITを活用して個人がもっと高い能力を持とうと努力し、学校現場ではITを活用して教育レベルを引き上げ、ビジネスでもホワイトカラーの生産性をITを活用して高めようと考えなければならないのです。

 欧米では教育現場ではもうかなりITは導入されています。日本はこの20年間教育のイノベーションは止まったままです。経営でも米国ではSaaSを標ぼうし、どんどんITをビジネス現場に取り込んでいます。

 今、日本はまた戦前の軍隊のようにイノベーションは止まり、組織はモラルハザードを起こし、ビジネスはBRICSの成長頼みで、国内は低迷しています。何はともあれ経営と教育のイノベーションが大切なはずです。まずは企業の評価法を年に2回の中間管理職のいい加減な評価にまかせないで、システマティックにするべきです。そしてチームや組織での活動手法を研究すべきです。
 
 実は総務省も文科省も通産省もITによる経営や教育のイノベーションの重要性を言い続けてはいるのです。当社の「則天」も当初、総務省所管の情報通信研究機構の補助金をいただいて開発しました。

 たぶん、企業や国民レベルで普及しないのです。なぜ普及しないか、というと関心がないのです。

 なぜ道具を工夫し、イノベーションの得意な日本人が、時としてイノベーションを忘れてしまうことがあるのだろうか。

 それは日本人が徹底的なリアリストだからかもしれません。バブルでは、膨大なお金を稼ぎ、次にITバブル、マンションラッシュ、BRICSの台頭、不動産バブルと目先で儲かる事に飛びついていたから、実ビジネスのイノベーションが遅れてしまったのでしょう。

また国民レベルでは、あまり勉強や仕事でイノベーションを図っても、未来に希望が持てるようには感じていないのです。むしろ癒しや目先の利益にしか関心がないのかもしれません。

だから、今こそイノベーションを進めるチャンスなのです。他に儲けられることが見つからないうちに。

 さもないとまた後世に「なんでそんなことをやったのだろう」というとんでもないことを日本や企業は選択するかもしれません。

2008年12月06日

大不況を大好況と感じられる方法

今日、昼ごろ、仕事を中断して、CDを漁っていたら、あがた森魚の「乙女のろまん」というCDをCDケースの奥で見つけました。気まぐれにプレーヤーで鳴らしてみると、部屋いっぱいに昭和初期の世界が広がりました。

乙女のろまん
あわれ乙女よ何故泣くか
お巡りさんが訳聞けば
お願いだから許してね
弟妹おなかすかせて
待ってるからね
なくなといえばなを泣いた
かた うちふるわせて
・・・・春をひさぐ
ああメリケンフトン

1929年世界大恐慌が起こり、
巷には失業者があふれ
銀座や日本橋界隈でこういう
情景があちらこちらで見れたのでしょう。

なんか今、違和感がないのです。
とてもしっくりいくのです。
あがた森魚の不安げな嬌声(失礼!)が
とてもすさんだ今の日本の世情にマッチしているのです。

極め付きは、CDも佳境にはいり、
あがた森魚代表作「赤色エレジー」がかかりました。

愛は愛とて何になる
男一郎 まこととて

幸子の幸は何処にある
男一郎 ままよとて

昭和余年は春も宵
桜吹雪けば情も舞う

そして終番になり
清怨夜曲
・・・・
だから踊ろう 僕と一緒に
君は幸せに眠くなれ
でも怖いの ほらあんなに
明日も寂しそきらきらお星様
・・・・

眠っている時間だけが幸せな人生とは・・
生き続けることの辛さを実にうまく表現しています。

確かに今は、仕事を思うように拡大するのは難しい。
でも生き続けることは、難しくない。
今日もデパートや駅前を歩きましたが、
昭和余年に比べれば、大好況です。
明日の食べ物がなかったり、住む家のない人の姿は見かけません。

そう考えると、今はビジネスチャンスに溢れています!

そういえば、夜、川島芳子のドラマが、テレビが放映されていました。
この時代はとても大胆で、だれもがグローバルで、魅力的です。
中国や上海で仕事をしている日本人が多い今日
とても共感を持てる時代なのかもしれない。

しかし、このあと日本は破滅へと突き進んでいく。

私は8年前、満州事変の小説を書こうと思い、たくさんの資料を読みました。
そもそも、あがた氏のCDも昭和初期の雰囲気をつかみたくて買いそろえたのですが、
この1枚以外、どこかになくしてしまいました。
川島芳子の本もずいぶん読みました。
昭和初期に雰囲気に今近いように思います。

みんなもう一度、老若男女がパソコンに興味を持って
ビジネスに、能力向上にがんばりましょう。
この20年間、OECDの調査で、学力も、労働生産性も1位から先進国最下位に落ちたのです。

「だから踊ろう 僕と一緒に
君は幸せに眠くなれ」
とみんなが現実逃避していると
昭和余年の二の前になります。!
教育と経営のイノベーションしかないんです!!!
孫子も、曹操も、G・ウェルチも成功した経営者はみんな言っています。

でも、このテレビを見ながら私の頭の中では、「赤色エレジー」がなっていました。
「そうだ、あがた森魚のコンサートにでも行ってみようかな」と思ったら
とっても、マイナーなコンサートにもかかわらず
来週の東京公演のチケットは完売でした。

世間は鋭い・・・・。

2012年02月16日

あれから1年半になりました。

ご無沙汰しています。

あの震災以来のブログです。

あの震災以降、何度かブログを書きかけたのですが、公表するには至りませんでした。

日本はどうなるのだろうか。そして当社はどうすべきなのだろうか。

あの日以来、数多くの書物を読み、いろいろな人の話を聞き、考え続けてきました。

1年半が過ぎ、最近ようやくその問いの回答に確信をもてるようになりました。

その答えを導いてくれる、ヒントが今年正月にNHKの報道番組にありました。

その内容とは

1707年、東海、南海連動の宝永大地震が起こりました。さらに49日後富士山の大爆発で、気候不順から飢饉も発生し、未曽有の経済恐慌になりました。

それまで元禄バブルに乗じて沿岸部で拡大していった開発した新田は津波でやられ、農民は、その結果沿岸部の新田開発をあきらめ、いまある田畑でより生産性をあげる工夫に切り替えたそうです。二毛作もこのころ発明されたそうです。
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そのために庶民の間では、寺子屋が急増し、文盲率が急低下し、まさに庶民の知恵がこの経済恐慌を乗り越える原動力になったのです。

この時代の有名な為政者は新井白石であり、徳川吉宗でした。ふたりは政策における思想は正反対でしたが、学問好きであり、学問をもって政を治める点は共通でした。新井白石は幕政顧問で、吉宗は紀州藩主のときに、被災しました。吉宗のこの時の紀州半藩における復興が、その後の将軍として、日本を30年治める基本となりました。

特に吉宗は国民への教育の普及に注力しました。彼の政策を背景に、おそらく庶民のなかで学問が急速に広がっていったのは、急速に縮小しつつある経済のなかで、みんなが一時的な悦楽より、「学んで、働き、生きる」喜びに価値を感じるようになったのだと思います。

そういえば今年の3月2日の日経新聞に興味深い記事がありました。震災後日本人の価値観が変化した、というのです。精神的豊かさを求め、利他性が増した、というのです。

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利他制、調和、勤勉、勤労といった日本人特有の精神は地震、津波、台風など日本に生まれてきたからこそ定められた宿命のなかで磨かれてきたものなのでしょう。

日本における「神」という言葉も、人智を越えた自然の猛威に直面するとき、初めてその存在を実感するのでしょう。つまり自然という絶対者の意志(自然現象)の前に謙虚に真摯に対峙して生きるための存在を意味するのではないでしょうか。

私自身の細やかな経験は、以前書いたブログをご高覧ください。
http://http://blog.media-5.jp/kitabatake/2007/09/post_3.html「リスクと霊感」

終戦後、焼け野原から奇跡的な、復興をし、高度成長をへて世界2位の経済大国にまでのぼりつめました。当然、日本人はエコノミックアニマルといわれるように日本中が利益追求に覆われました。

しかしバブル崩壊後、今に至るまで長期に日本経済は低迷し、その間に中国、インドをはじめとして、新興国の目覚ましい経済発展が起こりました。日本も経済のグローバル化のなかで、日本企業が海外の10分の1以下の人件費で作った安い商品が流入し、デフレは加速し、国内企業は苦戦し、バブルまでは日本人は1億総中流と言われていたのが、今や中間層は消滅しそうな勢いです。

高度成長期でさえ、経済の主役は内需なのです。今の日本の復活は中間層の復活でしか実現できません。今こそ吉宗の改革を見習う時なのです。

2012年12月21日

なぜ、今葬儀ビジネスか?

みなさんは自分の臨終を想像したことがありますか?僕は中学生のころから寝る前の布団の中で、自分の臨終を夢想したりしていました。その時はモーツアルトのレクイエムがいつも心の中で鳴り響いていました。

私にとってモーツアルトのレクイエムは唯一あの世を体感できる音楽です。16歳の時カラヤンが来日し、このレクイエムをコンサートホールに聞きに行ったときは、あたかも臨死体験をしているような感動でした。観客席以上にいるのでは、というくらい大勢の合唱団とオーケストラは、この世のものとは思えないくらい荘厳な、地下からよみがえるような音楽を、本当に地響きをたてながら創り出していました。おそらく私の人生のなかで経験できる最高のコンサートだったと思います。

死は、残された遺族には痛恨の心の傷になるでしょうが、死の瞬間は本人にとってはけっして暗い、厭わしいものではないと思います。どこかにこれで永遠に休める、というほっとした感情があるはずです。ただ多くの人が、愛する家族や世間に対し、やり残したことや、言い忘れてきたことを多少なりとも悔いながら死んでいくのだと思います。

僕の葬式はシンプルに、あっさりとしてもらいたいものです。ただ春なら桜、夏や秋なら桔梗、冬なら水仙をすこし飾ってほしいです。モーツアルトのレクイエムは流してほしいです。けっして白木の祭壇や豪華な菊飾りは不要です。見ず知らずの葬儀屋さんに事務的にことを図られて、粛々と進み、半分以上の利益をふんだくられるような葬式だけはしてほしくありません。

昔、黒澤明監督の「夢」という映画に、電気も水道も通らない美しい田舎の村での100歳を超えた老婆の葬儀のシーンがありました。笠智衆演じるこれまた100歳を超えた老人が登場し、自分の初恋の人の葬式のパレードに参加しにいくのです。明るい音楽が鳴り響き、花弁が舞、子供たちは駆け巡り、まるでお祭りのようなシーンでした。

自分の死が、重苦しく、思い出したくないものになるか、あるいは美しいおもいでになるかは、これは当人の人生にとってとても大きな問題ではないでしょうか。今の時代は、死をただただ忌み嫌ういやなものになっていると思います。それはそのまま人生そのものを少なからず台無しにしているのではないでしょうか。

江戸時代、武士は自分の死をより名誉あるものにするために、生を大切にしていました。農民も、そのリーダーはひとたび代官の悪政に立ち向かうとき、自分の死と引き換えに村の利益を守りました。

人は自分の死を見つめて、はじめて生きる意味を感じるのではないでしょうか。能という芸術はかならず死霊が出てきて、かつて生きていた生の時を語ります。歌舞伎や浄瑠璃も心中ものが数多く残されています。忠臣蔵も常に死がテーマです。

生きる意味が希薄になった現代の日本人は、まさに葬儀を見ず知らずの商売人に委ね始めたころから、生きてく上での意義を見失っていったというのは言い過ぎでしょうか。

自分の身内を、また自分を送るためにも、最低限の葬儀の知識は必要なのではないでしょうか。自分の死を見つめ、死を意識してはじめて、生きる意味、ありがたみを感じるのだと思います。

当社は教育ソフトメーカーです。生きるための資格やスキルをより効率よく、楽しく学べる商品を開発するのが使命です。そのためにも死を見つめて、よりよく生きることをお客様に実感していただくことも当社のすべき使命と感じました。

ここにエンディングノートを皆様に無償にてご提供いたします。これは皆様のライフノートでもあります。死を見つめ、生を見つめ、どう生きるべきかを考えて、皆様の人生を充実させてください。私どもメディアファイブは少しでも皆様の人生を充実して生きるためのお役にたてることが、なによりの幸せと存じます。

2013年03月23日

ネクストレボリューション 次の革命が迫っています。だからネクレボ

今、中小企業の多くのスクラップアンドビルドを国は考えているそうです。少なくとも民主党政権ではそういう方針だったようです。

その理由として、日本にイノベーションが進まない大きな原因が、労働者数九割所属する中小企業のなかで、イノベーションする体力も気力もなく、モラトリアムで借金を塩づけになったままにいる企業が数多く存在することだからだそうです。

こういう話は特に、会計士や税理士の先生、銀行の人が話しています。

国家を動かしている人々はもちろん優秀です。でも政治で抑えられてきたのです。選挙で政治が支持をえるためには、勿論地元密着の中小企業の支持が必要だからです。

それゆえ、政治家や国家は無能よばわりされながらも中小企業を守ってきたのです。

それでは国家はいつ本音を断行するつもりでしょう。
ケース1
このモラトリアムの解除の3月をもって銀行に処分させる。
コメント
しかしこれをすれば、間違いなく自民党は6月の参議院選で敗北します。だからおこなうとしても参議院選後でしょう。

ケース2
アベノミクスが失敗し、国債が暴落する。
コメント
これは、いかに、銀行がリスクをとって、どれだけ市中にお金を流すかにかかっています。しかし企業を選別しなければ、また塩づけの二の舞になります。アベノミクスが失敗すれば、大混乱になるでしょう!もちろんハイパーインフレにはなりませんが、(ハイパーインフレは千倍、一万倍だそうです。)インフレ率は100倍にはなるでしょう。

ケース3
首都圏、東海地方に大地震が発生する
コメント
勿論そうなれば、自然発生的にケース2となり、世界中の大混乱になるでしょう。でもこのケースの確率はけっこう高いです。国家はここでスクラップアンドビルドを狙っている可能性は高いです。
東北の大震災の時でさえ、国のお金がないので、放置状態が長く続いているのです。首都圏び大震災が起これば、一時、経済は停止するでしょう。

いずれにしても、大混乱は近いうちに来るでしょう。そして300年に一度の経済革命が日本におこります。革命という言葉は若い時は、憧れとチャンスと英雄を生む、美味なことばに響いていました。

しかし今は、世の中の体制がひっくり返ることによる、いままで生活してきた人々が、生活基盤を失う慟哭と、絶望と、数多くの悲劇が圧倒的な数で起きることがわかりました。

それは明治維新も、建武の親政も、鎌倉幕府誕生も、イギリスの革命も、フランスの革命も、アメリカの南北戦争も、そして東西冷戦の終結による東ヨーロッパの解放も、ありとあらゆる、圧倒的な悲劇のなかで新しい体制が生まれてきたのです。

最近、私はふつうの生活が、どれほど幸せなのか、身に染みて感じます。


今、日本は、多くの人にとって、圧倒的な悲劇が目前に迫っています。それは本当の産業革命がおこるからだからです。というかおこらざるを得ないのです。


国家に必要なのは、世界で通用するグローバル企業です。そしてその企業群は、世界に人材を求め、日本での雇用は生まれません。

大量失業の時代を迎える前に、日本の次の革命が起きなければなりません。

それは、組織に頼らない、個人が独立する時代なのです。

多くの人々が、資格やノウハウを複数持ち、営業ノウハウを身に着け、ネットワークで連携しながら、個を生き抜くことです。

大衆が知恵をもつことが、可能なのは、江戸の吉宗の時代、大震災や富士山の大噴火のあと、庶民の間に学問がおこり、致命的な経済を70年かけて復興し、それを証明しました。

私は、その革命を誘導する道具を、無知無力ながら、人生をかけて作ってきました。

そのしくみが、ネクストレボリューション、ネクレボであり、それを身に着けるのがネクスタをはじめとして当社が開発した数々の教材であり、みなさんたちがネクレボで知り合い、事業を提供する場が則天であり、稼いでいただくのが、当社主催のネットワークビジネスです。

それが無駄になるのか、有効に活用されるのか、まだわかりません。でもネクレボは日ましに活気づいてはいます。


話は飛びますが、私は、今、カッチーニのアベマリアを様々な演奏形態をあつめて、そのBGMを聞きながらこのブログを書いています。


この音楽には、思い入れがあります。

数年前、義父の葬式のとき、出棺のとき流れていました。

義父は優秀な農林省の技官でした。インターネットの凄さを23年前私に教えてくれました。もともとはこういう仕組みは、学術論文の世界で利用されていたようです。しかし私は、当時その重要性に気づくことはできませんでした。狂牛病の研究も問題になる10年以上前からおこなっていました。

畜産農家の経営がいかに難しいかも話していました。こんどのTPPの問題が、畜産農家にとっていかに深刻な問題かがよくわかります。

退官後、ザンビア大の教授やモンゴル大の教授を歴任しましたが、今問題になっている外交問題もしきりと心配していました。どんなにODAの援助をしても、日本の宣伝をほとんどしない外務省にいつもクレームをつけていたようです。そのおかげで、途中で、健康問題を理由に教授派遣を打ち切られてしまいました。

晩年は仏教の勉強をしていました。清廉潔白すぎて頑固でしたが、日本への愛国心はものすごく強くもっていました。

私は自社が出版社の機能をもちながら、これほど優秀な人の著作を一冊でも世の中に問うことができなかったのが悔やまれてなりません。

人生を世に問うて、脚光をあびる成功をものにする人は一握りです。ほとんどの人が、どれほど優秀でも、なにも残さず、時間とともに消えていきます。


ただ、生きている限り、可能な限り、夢を捨てず、失敗にくじけず、チャレンジし続けることが大切なのだと思います。一人ひとり、何度失敗しても、そのあきらめない強い心が、少しずつ数を増し、次第に大きな流れとなって、次の時代の大河を作るのだと思います。

その大河の流れは、時代が変わるときにすべてを失った、多くの人の慟哭の、悲しみの涙で作られるのです。

私は、最近、毎日毎日そう自分に言い聞かせて生きています。

2013年04月14日

いつの時代もこの世は修羅

私自身、当社のSNSサイトネクレボでお客様とコミュニケーションをとらせていただき、とても楽しいひとときをいただき、勉強にもなっています。今、私の中で、数少ない癒しや楽しみの一つにさせていただいております。みなさんありがとうございます。

その中で、メッセージを交換させていただいているある方から、「神」にまつわる私のお勧めの映画は、というお尋ねがあり、私は、あまり映画には詳しくはないのですが、「親鸞 白い道」をあげました。

あまり面白い映画とは言えないのですが、この主人公の俳優は本当にお坊さんになってしまいました。この映画の見所はこの時代、簡単に人は病気で死ぬし、殺されるし、食べ物はないし、生きるだけでも大変なシーンばかりです。

いつの時代も庶民は食うや食わず、というのが日常だったのではないでしょうか。本当に餓死者が出なくなったのは、戦後の最近だけでしょう。

しかし、今の豊かさは間違いなく、戦後の成長期の貯金です。今からお金を稼ぐには、やはり至難の業です。戦後は大企業がイノベーションにより、世界に通用する商品をつくり、それを日本の中小企業のしたうけが支え、先進国をめざし、上下水道や高速道路、鉄道などのインフラを整備し、日本中が総中流として内需が潤っていたのです。

これほど住みやすく、便利な国はなかなかありません。世界一といっていいと思います。

しかし、今や成熟国家となった日本に残された道は知価社会の到来のみです。
もう多くの中小企業が存立できる基盤はないのです。みな外国へ行ってしまいました。
残された国民は、みなが専門家となり、個人のネットワークを中心にビジネスを展開していくしかありません。

そしてお金を稼ぐには、それはそれは並大抵ではありません。でも悲嘆にくれることはありません。昔の人はもっと劣悪な環境のなかで生き抜いてきたのです。

私は今、ITを活用して、みんなが希望をもって、楽しく仕事をして生きていける仕組みを作ろうとしています。無謀かもしれません。

でも、みなさんにネクレボに参加していただき、ネクレボを通してその願いがかなうのでは、という希望が少しずつ見え始めました。

是非、みなさんのご意見をお聞きしたいと存じます。

いま、英国で、サッチャーの国民葬における、批判のデモが起きています。
サッチャーが英国の貧富の差を作った、という批判です。

日本はいつの時代もあまり貧富の差はありませんでした。
それは貧富の差がいつの時代も政権を安定させないのでしょう。
どうも日本は庶民のパワーが強いのです。

だから、日本では、必ずスキルの時代、資格の時代は到来します。
庶民のスキルこそが、内需を創造し、庶民の生活を支えるはずです。
私はそう信じます。

2013年05月22日

2013 5.22-6.10 とAKB48総選挙

1338年5月22日、堺の石津川の河口付近の浜で、北畠顕家は戦死しました。新暦でいうと6月10日なのですが。

以前のブログでも書きましたが、23年前、堺の教材会社さんとの仕事がきっかけで、当社を創業したのです。最初、その会社に伺った帰り、北畠という地名が目に飛び込み、タクシーを止めてもらったところが北畠公園という顕家の墓だったのです。

これも以前のブログでも書きましたが、僕は運命的な偶然を感じ、墓の前で手を合わせたのです。

当時、僕には歴史の知識もなく、当然、歴史的にもマイナーな北畠親房や顕家の知識もありませんでした。ところが、この堺の教材会社さんと歴史のソフトをつくり、放送会社さんと孫子の兵法のソフトを制作することになったことにより、親房や顕家の考えを少しづつ知ることになり、いつしか親房や顕家の思想を知ることになりました。

そして、以前は、この会社を通して、少しでもかれらの思想を世の中に広げられれば、と考えていました。2007-8年にかけたブログのときは、そう思っていました。

その間、顕家の奏上を「則天」に託し、神皇正統記をまだ全然未完成でも「ネクレボ」に託してきました。

しかし、それが最近、誤りであると感じてきました。

話は飛びますが、今、僕は、毎年恒例のAKB48の総選挙を見ながらこのブログを書いています。

話を元に戻すと、その誤りとは、僕は、世の中に、必要なものを作ろうとしたのです。

それが間違いなのです。

正確にいうと、世の中に必要だと思ったことが間違いなのです。


事業として必要なのは、言い換えると、世のなかに受け入れられるものは、

世のなかの大勢の人が、本当に欲しい、と感じているものを世の中に提供することなのでした。

以前、この2008年のこのことに関するブログを書いているころ、AKB48はブレイクしました。モバゲーがアイテム課金で成功しはじめたのもこのころでした。


当時僕は、これらのブレイクは、20年にわたる不況の結果、大衆が自信をなくし、逃避行動としてアイドルを育てることや、ゲームの世界でヒーローになることに夢中になるのだ、と思っていました。


しかし、そう考えていること自体が、今思えば、僕自身大変な思い上がりであり、経営者失格でした。


事業として大切なのは、みんなが欲しいと思うことや、ものを行い、結果としてお金が回って、組織を維持発展させることなのです。

大衆がすでに、必要と感じていることをビジネスにしなければならないのです。

この20年の内需縮小の社会のなかで、9割の会社が10年で潰れる、ということは、ビジネスの成功は1割に満たない、ということです。

より多くの人が日々食べていくことの難しさを痛感し、暗い現実のなかで、多くの人にとって確実にAKB48やモバイルゲームは人々を勇気づけ、自分がいきるための存在価値となっているのです。

今、この教育というジャンルで、どうしたら、世の中の人にとって必要と感じる教材を提供することができるのだろうか。


それは、いつでも、どこでも気軽に学べて、いつもとても楽しく、単純でわかりやすく、そしていつのまにか自分や家族や生徒のためになっている、教材を開発することなのだと思います。


私は今、この会社で、そのようなものを作ろうと、大幅に方向転換を始めています。


そうこうしているうちに目の前のテレビで、AKBの総選挙は、まさかの「指原」が1位になりました。昨年、週刊誌にスキャンダルをすっぱ抜かれ、博多に左遷されたアイドルが、1年でトップに返り咲いたのです。しかも、お笑いキャラを演じている子が。

これこそが、今大衆が求めているものなのかもしれません。    「復活」

今年は、かつてみなさんが、在りし日の夢を抱けた日本の社会の「復活」を夢見ようとしているのかもしれません。  アベノミクスしかり。


それはこの1位になった「指原」のように、軽い、ウイットに富んだ、でも挫折からひょい、っと這い上がってきた女の子のように。


そこには、努力も、根性もありません。あまたを使い、楽しみながらの復活です。


当社も、そんな世界を当社の教育SNSサイト「ネクレボ」やゲーム教材やスマフォコンテンツの中で作っていく所存です。

みなさんにとって必要なスキルの教材を、気軽に楽しく身近に使いながら、知らず知らずみなさんの人生や生活が「復活」するような、そんな教材やツールやサイトやシステムを作ってまいります。


南朝が北朝に敗れたのは、親房がコンセプトで南朝の正当性を訴えたのに対し、足利尊氏はただ武士の現実をつかんでいたのです。恩賞としての「土地」の提供という。

その結果、徳川幕府になる270年後までは、全国で、土地を、血を血で争い奪い合う騒乱状態が続いてしまいました。


当時の武士に匹敵するものが、今日における大衆です。大衆に受け入れられれば、すぐに何百億、何千億という大金に膨れ上がり、大衆にそっぽを向かれれば、いかなる大企業といえども生きていくことはできません。

なにが、正しく、なにが間違っているか、それは歴史の流れには関係がありません。
理屈ではなく、現実的な歴史の流れの中で、人はいかに生きるべきかを問い続けることが必要なのでしょう。

今日、AKBの総選挙で「指原」が優勝したことが、まさにそれを物語っているような気がします。


顕家は奏上文で常に民という言葉を強調しています。以下は難しいので読まなくていいです。ちょっと眺めていただけたら幸いです。

第2条
右、連年の兵革、諸国の牢籠、苟しくも大聖の至仁にあらざれば、黎民の蘇息を致しがたし。今より以後三年は、偏えに租税を免じて、民肩を憩わしめよ。・・・・三ヵ年の間は万事興作を止め、一切に奢侈を断ち、しかる後、宮室を卑くし以て民を豊かにして、仁徳天皇の余風を追い、礼儀を節し俗を淳うして、延喜聖主の旧格に帰せば、たたむきを垂れて海内子のごとくに来り、征せずして遠方賓服せん。

第5条
臨時の行幸および宴飲をさしおかるべき事

右、帝王のいたるところ、慶幸せずということなし。風俗を移し、艱難を救うの故なり。世澆季にのぞみ、民塗炭に墜つ。遊幸・宴飲まことにこれ乱国の基なり。

第7条
政道の益なき寓直の輩を除かれるべき事

右、政のためその得あらば、芻蕘の民といえどもこれを用いるべし。政のためその失あらば、閥閲の士といえどもこれを捨つべし。・・・道路目を以てし、衆人口を杜ぐ。これ臣鎮に在るの日、耳に聞きて心に痛むところなり。それ直を挙げて枉に措くは、聖人の格言なり。・・・陛下諫に従わざれば、泰平期するなからん。もし諫に従わば、清粛の日あるものか。小臣、もと書巻を執りて軍旅の事を知らず。かたじけなくも ふっ詔を承り、艱難の中に跋渉す。再び大軍を挙げて命を鴻毛にひとしうす。幾度か挑み戦いて身を虎口に脱れし、私を忘れて君を思い、悪を却け正に帰せんと欲するの故なり。もしそれ先非改めず太平致しがたくば、符節を辞して范蠡の跡を逐い、山林に入りて以て伯夷の行を学ばん。

以前条々、言すところ私にあらず。およそそれ政をなすの道、治を致すの要、我が君久しくこれを精練したまい、賢臣各々これを潤飾す。臣のごときは後進末学、なんぞ敢て計い議せんや。しかりといえども、あらあら管見の及ぶところを録し、いささか丹心の蓄懐をのぶ。書は言を尽くさず。伏して冀(ねがわ)くば、上聖の玄鑑に照して、下愚の懇情を察したまえ。謹んで奏す。

延元三年五月十五日
従二位権中納言兼陸奥大介鎮守府大将軍臣源朝臣顕家上る

2013年09月12日

東京オリンピックは日本人全員の最後のビッグチャンスかも

東京オリンピックが決まりました。

申し訳ありません。私は、東京オリンピックが決まるまでまったく関心はありませんでした。

ところが、いざ決定し、テレビや新聞をとおして、日本中が湧き上がると、49年前の東京オリンピックを思い出しました。

当時4歳の私は、中山道を通る聖火ランナーか、もしくはマラソン選手を、調神社の前で日の丸の旗をふっていた記憶だけが残っています。

そして、このオリンピックのために、新幹線は開通し、首都高速、地下鉄、羽田モノレールが整備され、一気に日本の首都インフラがランクアップし、そのまま高度成長期に突入し、世界第2位の経済大国になりました。

当時の日本は現代のBRICSのように、人件費は安く、極めて円安で、戦後の復興から朝鮮戦争による特需という連鎖のなかでオリンピックが決まり、経済成長に繋がったことは、現代の成熟期に入った日本の状況とはまったく異なります。

しかし、50代以上の日本人には、この当時の活力ある日本がよみがえるのでは、という期待を強く持つ人は多いのではないでしょうか。

日本人は、明確な目標に向けて、団結して突き進む能力は恐らく世界のトップクラスでしょう。ここに7年後に東京オリンピックが来る、という大きな目標ができたのです。

7年後に、国の威信をかけて、世界の注目する中で、オリンピックが開催される、ということは、今回も当然、日本政府はインフラのさらなるバージョンアップに取り組むはずです。

もしかしたら、リニアモーターカーも前倒しに2020年に開通するかもしれません。「江戸東京」を江戸時代のようなベニスのような水の都市にするために、首都高速を地下に埋めるかもしれません。ここで一気に観光立国として日本は生まれ変わるでしょう。

さらに、49年前ともっとも大きく異なるのは、ITです。ITは49年前には、まったくと言っていいほど存在しませんでしたが、いまは、だれもがスマートフォンをもち、パソコンやタブレットPCを持っていますITビジネスも飛躍的拡大が期待できます。

いずれにしろ、膨大な建設需要が発生し、それに付随して、経済は活発化されるのです。経済が活発化すればこそ、資格取得者の出番を急増します。建設需要は建築士をより求めます。土地の売買が活性化されれば、宅建取得者も増えます。インフレは金融市場を活性化し、ファイナンシャルプランナーや証券外務員の需要も増加されます。勿論高齢社会なので、介護系の資格需要も増加されます。新規企業も増加し、中小企業診断士や簿記取得者のニーズも増えます。当然ITビジネス市場が拡大するのであれば、基本情報や応用情報、情報セキュリティなどの資格ニーズも増えるはずです。

もちろん国際化も進むので、さらに英語のスキルは重要視されます。2020年の東京オリンピックの一番の海外のお客さんは中国の方でしょう。いまから中国語を学ぶこともビジネスチャンスです。

とにかく、今こそ、資格や語学を取得し、社会で活躍する絶好のチャンスだと思います。

当社もこの夏、次々と使いやすい、受かりやすい、勉強に身に入りやすい、新しいソフトを投入してまいります!

2013年09月13日

滅び行く国にやりがいはあるか?

先週、用事があって相模原のビジネスホテルに泊まった日のことでした。

食事終わって、ホテルの部屋に帰って暇しているので、久しぶりにテレビをつけました。

そうしたら、なぜ働くか、というアンケートを若者を中心にやっていて、

6割がやりがい、2割がお金、そのほかが安定とかでした。

しかし、じゃあやりがいって今仕事で感じてますか?、やりがいってなんですか?
とう質問には、驚いたことに、ほとんどの人が答えられませんでした。

その番組は、たけしとか、相撲の横綱の日馬富士とかでていたのですが、

芸能界も、相撲界もたけしや日馬富士のような、頂点を君臨するような人でも絶対かなわない、というような逸材もあっさりその業界をやめていく人がいるそうです。

そういうなかで仕事を続ける動機はなにか、と聞かれたとき、
日馬富士は「魂」と答えました。


それは、天職ということだと思います。

若い日馬富士でも、天職についた感があれば、その能力が発揮できるのだと思います。


あとはその努力が花開くかどうかです。


こればっかりは、運や世の中の流れに依存します。


先日、オリンピックが決まりました。

また新しい目標が7年後にあることで、世の中が前向きになることが期待できます。


しかし、日本は基本的に、滅び行く国家なのかもしれません。

超大国や金融資本の属国であることへのあきらめ感。

いつまでたっても内需があがらず、少しも楽でないビジネス。

勿論情報化社会となり、大きな産業革命が起きているさ中であることは確かです。

デパートや書店などリアル店舗より、Amazonや楽天に代表されるネット通販に売り上げは移りつつあります。


しかし、飛躍的に起きる新しい需要は創造されず、アナログの市場を縮小させながら、そして貧富の差を増大させながら、産業革命は日々進行しているようです。


そういう中で、若者はやりがいを探し、でもやりがいが見つからず右往左往しているのが、このテレビの本質だったのでしょう。

日本人は、老いも若いも、なにか、前向きな生きがいを探しているにちがいありません。

それが、70年前のように、戦争にならなければいいのですが・・・

2014年01月07日

明けましておめでとうございます。

明けましておめでとうございます。

昨年9月末以降ブログが止まっていました。

どうも目の前の雑務に追われてしまって…


今年は頻繁にブログを書くことを、年頭の誓いにします!

といっても守れるかどうか・・・


お正月、みなさんはどのようにおすごしでしたか?

家では、進撃の巨人ブームでした。

世間でもブームでしたね。


なぜだろう?

「世の中は残酷なんだよ」

登場人物の一人のセリフが気になります。

昨年のブログで、今の若者は日本は「属国」と思って人生諦めているのでは、

と書きました。


基本的に日本は勿論独立国で、三権分立の確立し、選挙で政治家も選ばれます。

しかし、なにか、とても強い諦観が世間に流れていて、思わずそう感じてしまいました。

でも基本属国ではないのです。ただ、お金を稼ぐことが、どんどん難しくなってきているのです。


ところが、お金を稼がなくても、100円ショップもあり、ユニクロやしまむらもあり、

ipadやスマホを買えば、ipadやスマフォを買えば、フリーソフトでいくらでもただで遊ぶことができます。

だから、あまり世間的には不満も少なく、「どよん」としたあきらめ感が若者を中心に漂っているのかもしれません。


逆に、少しでもお金を持つことは、すごく難しい代わりに、すごく沢山の自由が買えるようになったのかもしれません。だから嘆いてばかりいないで、お金をどうやったら稼げるか、みんなで考えればいいのだと思います。

独身だったら、手取り15万円もあれば、結構余裕で暮らせると思います。 ワンルームマンションはいまや当然バストイレ付で、埼玉の浦和区でも3.5万円からあります。

たぶん生活感覚では生活も給料も10年前の2分の1くらいになってしまったのだと思います。
これもひとえに、アジアの台頭にゆグローバル化と、それによる内需縮小が原因でしょう。


つまりそういう時代になってしまったのです。

大切なのは、そういう時代に少ない投資で、どれだけ工夫して稼ぐか、ということです。

しかも、難しいことはお金にはなりません。


単純、簡単、わかりやすい。

そして衣食住など、より直接的な欲求。そしてより国がらみのビジネス。


すべてはこの流れのなかで進んでいきます。

これこそ、活力を失った、日本の中で、縮小再生産のなかでおこなうビジネスだと思います。

でもスマフォは普及し、タブレットがパソコンにとって代わり、気軽に持ち歩けることにより、世のなかは大幅に変化していくことでしょう。


そういう時代が来ているのです。

ここでなにが我々にできるのか、だと思います。


したたかに、諦めずに、しぶとくお互い生きていきましょう!


2015年02月04日

ピケティと格差問題 原本を読まないでコメント。

最近、ピケティという経済学者がクローズアップされています。
原文は読んでいないのですが、読む気もあまり起きません。
彼の言っている、資本主義の終焉と格差は当り前のように、多くの経済学者の主張でもあるからです。

僕自身、彼の目新しい発見がなんであのるのか、わからないでいます。
やっぱり原本を読むしかないかな。

しかし、資本主義が終焉に向かえば、経済全体が悪くなるのだから、経済弱者はさらに落ちていくのは当り前の話です。

大企業が内部留保を厚くするのも、終焉期、新規事業の成功率があまりにも低いので、回収するよりは、ファイナンスで増やすほうが分がいいからです。

ピケティの結論は格差社会をさらに拡大させるのは、教育の格差であり、教育の均等が格差を解消させる、という。

だったら、私たちメディアファイブは低価格で学力を向上させる教材を持っています。経済的弱者を強者に変える、ビジネススキルや資格スキルを取得できる安価な教材を提供しています。高単価な塾や専門学校へ行かなくても、ビジネススキルが身に付きます。塾に行かなくても基礎学力は向上し、いい学校に進学できます。少なくとも国公立にいけば、私学の半分の月謝でいけます。

為政者や権力者は格差を好んでいるのではないと思います。やむをえず、経済的弱者を生んでしまっているのです。彼らだって中間層が増えたほうが、権力は安定するし、彼らの収入もより容易に膨れるはずです。

とにかく格差はだれも望んでいません。でも仕方なく起きます。そしてそれを容易に解決するのが、アニメやゲームや100円ショップ、ユニクロ、しまむらなどです。アニメやゲームはバーチャルの世界で、ほぼ無料でユーザーに快楽を与えます。100円ショップやユニクロは低収入の人でも生活必需品が手に入ります。

でもそこから抜け出せれば、本当にバラ色の人生になります。年収300万円あれば、低収入時代の生活をしていれば、大きな余裕のある生活ができます。

そのためにも当社のソフトを活用しましょう!

2015年02月05日

ピケティと格差問題 テレビインタビューを見て

 
  昨日、報道ステーションで、ピケティが、古舘一郎氏のインタビューに答えていました。

まあ、実に勇気ある大胆な意見でしょう!格差を縮めるために金持ちから税金を増やせ、ということです。


彼の説の裏付けは、歴史データだという。思い起こすと、28年前ポールケネディの「大国の興亡」という本が思い起こされました。

当時、大国の軍事力は、経済と連動しているんだな、と驚かされました。


最近、格差を問題視した本は、ロバートライシュの「格差と民主主義」というのもあります.。


ただ、簡単なことです。金融市場は、ITの発達で、頂点の一部の人だけが、儲かる仕組みができあがり、その他の人が儲かりにくくなってきてしまった、ということだけです。

その証拠に日本では富裕層が増えていないのが、新聞記事に出ていました。

nikkei.JPG
(日本経済新聞より転載)


庶民であるわれわれはどうすべきか?


次のブログでご披露します。

2015年11月07日

今は、働く人が大変です。

今、働いている人は大変です。

なぜなら、グローバル化が進んでいるからです。

アジアへ行けば日本人の十分の一の月収でバリバリ働いている人がたくさんいるのです。

大企業の商品は大抵メードインジャパン以外です。

TPPでさらにその流れは加速するでしょう。

インフレを起こすには、内需を拡大するしかありません。

アベノミクスは、株価を押し上げ、大企業の活動を活発化させ、円安にし、海外から人を流入させて内需を活発化させようとしました。

政府の行う政策では、そうやって景気を浮揚させようとするしかないかもしれません。政策的にはそうせざるを得ないのです。

でも本当に必要なのは国民の意識改革です。

米国は産業革命がスムーズに移行しました。世界中インターネットを巡らせ、それを活用して世界中の天才をハーバードやUCLAなどに集め、金融もIT化され、世界中の天才プログラマーをgoogleに集め、9割の富を1割の大富豪だけで握り、まさに一局大集中の情報化革命、知価革命でした。

従って、政府の政策も断行しやすいのです。またそこから富を持たない人への還元の仕組みもよくできています。

日本の富は一割の富豪の持つ富は3割程度です。しかもこれは、1940年からあまり変わっていません。これは3つくらい前のブログでご紹介しました。ピケティという題です。

つまり日本は7割の富は庶民が握っているのです。どうしても庶民の中で情報化、意識改革を行わない限り、日本の未来はありません。

少子高齢化と後進国の産業の台頭は容赦なく日本の庶民の首を締めます。

ところが庶民はやる気を出すどころか、スマフォの無料サービスにはまり現実逃避し、プログラマーはゲームばかり作り、旧来の産業である自動車ばかり儲かるようにできています。

しかし自動車もだんだん海外で作られるようになり、国内に落とす金は減り、電気自動車にいたっては、ほとんど下請けへの部品が極端に減るようです。

日本ではどうしても内需の活性化が必要です。サービス業です。しかもグローバル化にさらされないもの。それこそが、国家資格に守られるサービスなのです。

もちろん資格を取っただけでは食べられません。そこにビジネスの工夫がどうしても必要になります。


当社はそういうノウハウを提供し続けていきたいのです。

2016年02月25日

進撃の巨人の時代

進撃の巨人の時代に投入しました。

しかも弱点はありません。

私たちはそれに戦うことは不可能ではあり、

しかし
おとなしくしていればすぐには、食べられることはありません。

いたずらに野心をもたなければ


なんのこっちゃ・・・・とお思いでしょう。


昨年、ピケティのことに言及しました。


富は世界の一部に集中し、

それ以外は貧困が拡大する。

その一部は世界をまたにかけるグローバルスタンダードと呼ばれている集団であり、残念ながら日本人ではありません。

一説には最後は中世から続く王族と呼ばれている人々に行き着く、という説もあります。

ナポレオン革命も、共産革命もあらゆる革命は単なる表層にすぎないと。


すでにインターネットという情報とそれを武器に金融も握り

それにかろうじて対抗しているのは中国とロシアとイスラム圏の一部だけです。


本当のところは私にはわかりません。

ただ、ピケティの資本論に、明確に数字に表れたのです。

富は限りなく少数に集中する。

進撃の巨人や20世紀少年などがヒットしたのは、大衆の深層心理でそういう不安が潜在的に共感を呼んだのではないでしょうか。

TPPは、情報と金融だけでなく、さらにあらゆる経済で、進撃の巨人に支配される、ということです。

そのなかで、われわれはどのように生きていけばいいのか?

資格です。進撃の巨人から身を守るのは、漫画では、高い城壁でした。

現実の世界では、市場の限られた、国内だけでのみ通用する、介護や、宅建、税理士、中小企業に補助金を導く中小企業診断士、電気工事や建設関係の資格者です。医療や法律はその中で、もっとも大きな、日本を代表するエリートが握れる市場ではありましたが、今回のTPPでそのマーケットは破られそうです。

それ以外の資格は、国によって事情が様々にちがうので、グローバルスタンダードは入り込みにくいし、儲かりにくいし、巨人たちには、あまり興味がわかない市場なのです。

現に介護業界はどんどん拡大し、恒常的に人手不足の状態です。


そのなかで、まずは年収300万を目指し、それが達成すれば、500万、そしてそれが達成すれば700万を実現させ、1000万円に届けば人生の成功です!

100円ショップも、ユニクロもしまむらもあります。日本における物価は、政府の思惑に反して、下がるばかりです。

デジタルの世界では、無料サイトが横行し、アプリもただ、ゲームもただ、教育までもがただの世界が増えてきました。

年収がちょっと増えるだけで、様々な居心地のいいものが手に入ります。

なにがなんでも独立だけがいいわけではありません。組織で、貢献し、会社の利益が増加するときに収入もあがればいいのです。


それはだれでもが可能な「夢」なのではないでしょうか?

そのためには、とにかく新しいことをチャレンジ、チャレンジで、

辛抱強く、少なくとも、5年はほとんど収入が増えなくても、工夫し、改良し、チャレンジし続けることです。

デカルトは方法序説の冒頭で、こう言っています。「森に迷ったら、一直線に歩き続ければ、その森を抜けられる」

いかに自分が定めた道を工夫し続ければ、必ず成功成功することを信じましょう!


下手に大きな野心を抱いて株に手をだしたり、
すべてをあきらめて、2次元の漫画や、ゲームに居場所をもとめたりすると、
いつのまにかに、巨人に食べられちゃいます。


怖い世の中ですね、これからさらに怖い怖い世の中になりそうです。

実は、そういう巨人は、実は全く存在しなく、陰謀説のデマであるのが真実なら、どれほどいいことか!


でもピケティの資本論は、巨人の存在を裏付ける、恐ろしいデータです。


あなたはどう生きますか?

2016年04月10日

ターミネーターの時代は本当にくるのか?

先日、安川電機のユーチューブでロボットが刀をもって居合抜きの名人のとなりで居合抜きをしている動画を見ました。

https://www.youtube.com/watch?v=6pny5Bj_WM8

それは、テクノロジーのすごさへの驚きより、刀を持たしたロボットが将来的に殺人鬼になることを暗示しているようで、恐怖を感じました。

殺人ロボットは、すでに無人飛行機という形の空爆をイスラム圏で実行しています。ただ、まだ人間が米国本土のペンタゴンでコントロールはしていますが。

人間の手を離れて、ロボットの自己判断で人を殺すマシンの出現は、時間の問題でしょう。というよりもう存在しているでしょう。

ホーキンズはあと数十年で人工知能は人間を支配する、と予言したことで、最近話題になりました。

人工知能が独立して働き始め、人間の存在は可か否か、という命題を投げかけられれば、当然、人間は自然にとって害悪である、という結論になることは、明らかです。

しかし、人工知能とは人の作り出したものです。 

簡単に言ってしまえば、yesとnoの2進法の判断しかできないCPUに、多くの優秀な人間の経験値を加え、判断させ、正しいことと間違いを定義し、決して忘れることないその経験の記憶をハードディスクにインプットし、さらに人間の何兆倍のスピードで学習し、判断するという装置です。

この科学の進歩がもたらす結果を、止めることのできない未来を、止めることは可能なのでしょうか?

ひとつあります。

当たり前のような答えですが、

非科学です。

人類史上日進月歩のように科学は進歩してきました。

しかし、人工知能もしょせん人間が作り出したものです。


人智の及ばない世界の存在を考えるのです。

たとえば、先日、証券の売買取引で、人口知能での売買で、30億年に一度しか起こり得ないことがおこったそうです。

まだ、人工知能での売買が10年とすると、3億分の1の事象が起きたのです。

3.11において、福島第1原発4号タービンで、もし最悪な事態になれば、東日本が住めなくなる事態に、燃料棒のプールが守られたのもあまりにも多くの奇跡が重なった結果だそうです。

つまり決定的な事項の多くに、奇跡的なことは数多く起こります。

だから、非科学的なことを排除することは現実的ではなく、それこそ、科学的ではないのです。

非科学とは、もちろん、科学的に反することもありますが、現代の科学では到達できないことでもあります。


西欧では、紀元前ギリシャローマ文化で芽生え、ルネサンスで花開い、アジアでは紀元前13世紀にバラモン教が派生し、初期密教が生まれ、釈迦が現れ、日本では、平安時代に空海が唐より密教を持ち帰り、各派に分かれていきました。

現代において、哲学とか、宗教とか、文学とか、芸術の非科学の世界は、進歩というよりは退化しているように感じます。

科学と非科学はどうちがうのでしょうか?私は、科学は現在の生きる欲望を満たすための道具であり、非科学である、宗教、哲学、芸術は永遠に精神的に生きる意味を問う道具なのかもしれません。

つまり哲学とか、宗教とか、文学とか、芸術の非科学の世界こそ、つまりそれらを包括する歴史こそ、科学の進歩の果てにある現実である、人類滅亡を救う救世主なのかもしれません。

私は教育のIT化を目指し、非力ながら商品開発を進めてきました。

デジタル教育は非科学をより否定する方向にいくのでは、と思いがちですが。

実は、私は、デジタル教育によって、哲学とか、宗教とか、文学とか、芸術とか、いままで非科学的に遅れていたジャンルの学問こそ、飛躍的に伸ばす道具だと思っています。


先生が快感になるような授業のツールを、そして、生徒が「カイカン!」とさけぶような学習ツールをなんとか開発したい、とこの25年間もがいてきました。


そしてなんとか近いうちにその答えをご披露したいと存じます。

2016年08月21日

日本はあまりに住みやすい。新しいビジネスのすすめ

先日、タイに行って驚いたのは、伊勢丹があり、

その中にダイソーがあり、それは、なんと100円ショップならぬ、100バーツショップだったのです。
100バーツとは300円です。安くても190円くらいだそうです。
%E3%82%BF%E3%82%A4%E3%82%A4%E3%82%BB%E3%82%BF%E3%83%B3.jpg(タイの伊勢丹)
isetantoori.jpg

伊勢丹も、浦和伊勢丹より高い気がします。

センブンイレブンのコンビニもあり、髭剃りやコーラもあんまり日本と値段は変わりませんでした。

しかし、平均年収は日本の10分の1程度です。

もっとも経済成長過程にあるので、庶民はどんどん消費をし、日本に比べ貯蓄をしないのでしょう。

勿論屋台の食料品は日本の半分以下ですが。


まあそれにしても、年収比にしては日本は物価は安すぎます。

日本の平均年収は440万と言われていますが、それは、正社員を中心に、大企業や公務員の年収サンプルを中心とした30万人の平均で、実際は300万、6割いる派遣社員の平均年収は240万程度です。

それでは暮らしていけない、っていいますがほんとうでしょうか?

ユニクロのバーゲンと百円ショップに行って、家賃5万でキレイなトイレ風呂付のワンルームに暮らせ、しかもちゃんと税金や厚生年金、保険料を払っていれば、死ぬまで安全で高度な医療を受けられます。

変な犯罪は増えても、どんどん犯罪率も低下し、教育も充実し、やはりこれほど住みやすい国家は、あまりないのではないでしょうか。

だからこそ、中国の人も東南アジアの人もどんどん日本に観光でやってくるのです。

おそらく、政府が移住手続きの障壁を下げれば、こぞって海外からの移住者はふえるでしょう。

とにかく、物価の比較の上で、賃金が高い。

安倍政権の反対方向に行っていますが、これは感覚ですが、実質暮らしやすくなっているのです。デジタルの世界では、原則ゲームと地図、ナビやブログ、ニュースや相談、ポルノ他あらゆる生活上の必要情報は無料。

その状態が、生活は良くしていますが、日本の景気を悪くしているのです。

企業はグローバルに見れば高い賃金を払わなければならないので、コスト面で不利です。

労働者の7割は中小企業で、中小企業の7割は、支払い猶予の経験があるそうです。

それでも、税金と社会保険は中小企業ばかりのしかかります。消費税は庶民に負担を強いるか、といったらデフレ下ですから、消費税分の値段は下がります。下げないと売れないからです。

つまり消費税とは別名中小企業売り上げ税なのです。中小企業は売り上げに応じて、儲かろうが、儲かるまいと有無を言わさず取られます。

社会保険もあまりに中小企業には負担が重すぎます。

私は国の批判をしているわけではありません。本当に政府も官庁もほかの国に比べてかなり頑張っています。

ここまで中小企業を支援する国はありません。

アベノミクスを批判する人に言いたい。ほかになにがあるのか?日銀の大胆な金融政策もむしろ賞賛すべきです。本当に勇気があります。

ただただ、新しい日本独自のビジネスが広がらないのが問題なのです。

食料や住まいも、選ばなければ、東南アジアまではいかなくても先進国の半分くらいで購入できます。

昨年父が亡くなりましたが、3,4年は病院を入ったり出たりしていました。
つらい言い方ですが、お年寄りがなくなるまでに少なくとも2~300万くらい,多い人で一千万円の医療保険が支払われるのではないでしょうか?

これから団塊の世代が鬼籍に入る時代です。

死ぬのに国の税金は大きく使われるのです。

そしてその老人が若者の3倍いるのです。

日本人は働き者だし、清潔だし、しかしこのような状況下で、国をよみがえらすのは、もはや一人一人の意志でしか復活はできません。

かならず来る大地震にもめげずに、日本のサムライ魂を毎日の生活を通して世界にアピールしましょう!


先週の土曜に池上某のニュースの解説で、なぜ日本が1000兆円の借金があるか?というテレビをやっていましたが、もんじゅに1兆円とか、再生燃料を運ぶのに、毎年10億円とか、ぜんぜん本質的な話をしていません。

この話は、1000万円の借金をしている人が、1万円の買い物をとがめられ、毎年1円無駄遣いをしていることを大きくとりあげているのと等しいものです。あまりに視聴者を馬鹿にしている放送でした。

しかも企業は儲かっているけど、みんな貯蓄に回すので、社員の給料には反映されない、という話です。それは大企業だけの話です。まあ公の電波の上で放送するのはこれが限界なのでしょう。

日本国内では、政府関連ビジネス、医療介護系、他シルバー産業以外ビジネスをすること自体厳しいです。

実際、内部留保がたまっているのは、大企業だけです。それは一重に円安効果です。


とにかく不景気を脱出することは、ビジネスを変える以外ありません。

日本の十分の一以下の賃金で生産する商品が、ユニクロと百円ショップの商品として、家の近くにいたるところにあるからです。

グローバル資本主義に入れない、その他大勢の日本人は、具体的にどのようなビジネスをすればよいのか?それは、人と人とつながることだと思います。

東南アジアではできない。グローバル資本主義が入り込めない、入る価値を認めない、ビジネス。ひとりでもできるビジネス。

それはその人の人生のステージを一つ上げるビジネス。資格をもって、一人でビジネスをして、そして、自分の経験とスキルでだれかの人生を変えてあげる。ITを活用して。マンツーマンで。

資格を取りたい人をとれるようにマンツーマンで導いてあげる。
化粧で見違えるようにキレイになるようにマンツーマンで導いてあげる。
10歳は若返るようにマンツーマンで導いてあげる。

SNSやメールを活用すればすぐにでもできます。

そういうビジネスこそ、これからの日本を元気にするビジネスだと思います。

そういうビジネスを働く人が、多く広がれば日本はよみがえります。

そういうビジネスを、メディアファイブも始めます。

2016年12月13日

日本の強みは「総中流」だった・・

どこかの外人の記事に出ていたのですが、

日本は一人当たりにすると、決して優秀な民族ではないそうです。


一億3千万人も人口がいるから、GNPもノーベル賞の数も多いそうです。


少なくとも米国には勿論かなわないでしょう。

なぜならインターネットを通して、世界の情報と金融を掌握しているのですから。


中国は人口が、日本の十倍以上いるのだから、やはりかないません。


それでは、日本の強みはなんなのでしょう。


すでにかつて、という言葉ですが

それは「総中流」でしょう。


昔の話ですが

かつてほぼ7割の人が中流意識をもっていたから

消費市場も巨大だったし、

教育もいきとどいていたし

優れた企業を数多く輩出したのです。


いまや、日本は人口しか優越できるものがありません。


貧富の差は増し、大企業と中小企業の格差も増し


市場は縮小し、人口も縮小をはじめ、もうすぐフォールという激減状況になっていきます。


日本を救うものは、ただただ総中流を復活させることでしょう。

それには、やっぱりフリーランスで活躍できる世の中にすることしかありません。


日本は・・・。

2016年12月18日

超天才三島由紀夫

先に、ご紹介したように、ドナルドキーンが人生で出会った最高の天才とは、三島とウエリーだといいました。

三島は、自衛隊の決起を促して、1970年11月25日に自衛隊市ヶ谷駐屯地に突入しました。

かれのような超天才が、このクーデターが成功するとは、勿論思っていなかったでしょう。


たとえ成功しても、ちょうどソ連がチェコに侵攻したように、すぐに米軍に鎮圧されるでしょう。

さらに、当時、学生を中心に、左翼運動家が多く、中国やソ連もそういう運動家を利用して介入してきたかもしれません。

いずれにしても、もし自衛隊の一部でも三島由紀夫になびいたら、それこそ、日本の大混乱だったでしょう。

しかも国民の意識は、一部を除いて、大多数は、先の太平洋戦争に辟易してほとんど否定にまわるでしょう。

そのようなことを百も承知して、なぜ、三島は決起したのか。

自衛隊が、米軍から独立することは、ほとんど不可能でしょう。


おそらく三島は自分の作品を、日本文化のエッセンスとして、国に、もっと言うと、日本の歴史にくさびを入れたかったのでしょう。


そしてそのくさびは45年たった今日、さらに大きな文化的な力となって光り輝いています。

その証拠に、今日において、籟王のテラスも、黒蜥蜴も、近代能楽集も劇で演じられています。


敗戦後、GHQによる軍事占領がおこなわれ、1985年のプラザ合意で、経済において米国の侵攻がはじまり、2001年以降、経済も実質占領のような状態になりました。

一人当たりのGDPは、1995年をピークに、今日に至っては、先進国で最低です。

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ところが、最近日本ブームが起こり、日本文化が世界中で見直されることになったのです。

神社仏閣いたるところで外国観光客であふれ、ホテルは満杯、日本食は世界中で愛されるようになりました。

今から10年前、ラストサムライなるハリウッド映画が興行され、これは、日本にイラク戦争を参加させるプロパガンダだ、という声もよく聞きます。


しかし、先行して世界に広まった黒沢映画や三船敏郎、最近はジブリ映画など、武士道や自然、神仏、そしてなにより日本食を世界中の人が魅了するようになったなのです。

榊原英資氏が、なにかの本に書いていましたが、その食文化が世界的にブームになる国が、世界の主役の国になると。


確かに、日本食が世界で人気になれば、日本のあらゆる製品が、世界中の人々に、関心を持たれることになります。

電化製品も、自動車も、アニメも、観光も、芸術も、そして教育も。 ・・・さらに慎重に熟慮をしなければなりませんが、平和憲法も、天皇制の在り方を含めた歴史も。


軍事的独立などしなくても、金融や情報を支配されても、文化で世界を席捲すれば、日本はその存在を輝かすことができます。

パフィではないけれど、それが日本の生きる道ではないでしょうか?

もし三島由紀夫が、現代まで生きていて、この状況を見たらなんというでしょうか?

ただただ、この国の軟弱と堕落を嘆くのみでしょうか?

彼の最後の小説の豊饒の海は4巻からなり

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明治時代末期に、軟弱で廃頽した性格の松枝清顕という、侯爵家の一人息子がタブーに命をかける第一巻「春の雪」と

清顕が転生して、右翼の息子で、剣道に生き、信念のために、資本家を殺害して自決する飯島勲が主人公の「奔馬」と

勲が終戦後転生し、タイの姫で、奔放できまぐれで、周囲を翻弄する月光姫を主人公とする「暁の寺」と

月光姫の転生かと思われて、時代は1970年でしょう。本田繁邦の養子となって本田を悩ませる安永透を主人公とする三島の絶筆「天人五衰」。
しかし安永透は転生の証拠となる,20歳での死が実現出来ず,失明して生きながらえます。

最後に,第一巻から通して転生を追いかけた本田繁邦は、月照寺の綾倉聡子を訪ねました。

第一巻で親友の松枝清顕が犯したタブー、皇族の婚約者綾倉聡子との逢瀬が発覚し、清顕は20歳で死に、聡子は月照寺で尼さんになっていたのでした。

本田は80歳になる聡子に昔話を始めると、聡子はきょとんとし、そんな話は知らない、と言う。

そして聡子は本田に、本当にそう言う事がこの世で存在したのか、それも心の問題でしょう、と狐につままれたような事を言います。

これは仏教の輪廻転生の問題であり、輪廻転生とは、生まれ変わることであり、人が死に、生まれ変わるのは、魂ではなく、阿頼耶識、簡単に言うと「意志」が生まれ変わるそうです。

そして形にみえるものは、心にうつるものであり、事実は何もなく、なにもないなかで、形になって、スマフォのゲームのように現れる、という色即是空、空即是色を聡子は本田に悟らせて、物語は終わります。

これを書き終えて、三島はその日の朝に市ヶ谷駐屯地に切腹しに行きます。

確かに、第四巻の「天人五衰」は1970年代からバブルまでのいわゆる「昭和」の時代が時代背景でした。

ところが、今は、また明治末期から大正への第1巻「春の雪」の時代に戻ったのではないでしょうか?


その時代と当然同じではありません。平成は、年を追うごとに、経済は停滞し、老人は増加し、地震や災害も増加して、幸いにして戦争はないものの、そしてスマフォに代表されるバーチャルな時代となり、「ネトウヨ」なる新たな愛国者なるものも出現しました。

日本の食文化は世界に人気を博し、日本の古都は外国人で埋め尽くされ、そのなかで、外国人から日本の良さを実感させられ、昭和バブル時代の、金や物欲が国民の中から消えて、ジブリを代表されるアニメは世界に冠たる日本文化の代表となり、若者は自動車を持つことに固執しなくなり、類型的には、明治末期から大正時代に近いのかもしれません。

しかも連続する災害に、若者は数多くボランティアとして参加し、利他の精神は健在なり、という風潮になっています。

一人ひとりが、オンリーワンをめざし、精神的豊かさのなかで、暮らせる仕事をしていくことが、今日的な働き方なのかもしれません。


当社も、殺風景なオフィスビルから住宅街のモダンな一軒家にオフィスを移しました。

絵を飾り、みんながマイペースに文化的創造ができるよう、そんな働き方を目指します。

2017年04月22日

次に必要なのは需要革命

昨日、NHKスペシャル「欲望の資本主義」というのを見ました。

とても素晴しいドキュメンタリーでした。

まず、冒頭で、米国のノーベル経済学者スティッグリッツが象徴的なことを話しました。

今の経済の問題は、総需要が不足し、その結果世界経済が減退している。
その根本的問題は、不平等。

つまり、富の集中によって、中間層がいなくなり、一局の金持ちに金が集中すること。

金持ちは貧乏人より金を使わない、ということ。

ここからは、私(北畠)の考え

だからこそ、中間層を増大させることが、経済発展に必要です。

そしてそこには限界があります。

人の欲望は、まずは衣食住という生活根本の欲望(需要)の消費に向かいます。

それが工業化社会の経済成長につながります。

まずは、産業革命後の欧米日本の産業の発展。それにいきづまり、世界大戦へと発展していきました。

次に、第二次世界大戦後の欧米日本の産業の発展。現代的な、自動車、洗濯機、冷蔵庫、テレビなどの現代的な家電の普及にともなう産業の発展。これは、日本がリードして、でも1990年代から行き詰り始めました。

つまり1800年初頭から始まった産業革命は1900年ころからアメリカを中心に自動車が庶民が乗るようになり、欧米日本に至っては、1950年までまたなければなりません。

つまり工業化社会が庶民生活に根付くには100年から150年かかったのです。
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1995年、クリントン政権における、ゴア構想、つまり情報スーパーハイウエイ構想が実現されると、インターネットを中心とする情報革命がおこりました。

この情報革命で、最も大きいことはBRICSといわれる、つまりブラジル、中国、ロシア、インド、中国、欧米日本以外の大国の経済成長をおもいっきり助長しました。

確かにかつて日本が、そうであったと同じように、人件費のやすさ。から世界の工場と言う役割で経済発展してきました。
しかし経済発展のもっとも大きなものは、国民が生活の現代化と呼ばれる自動車、冷蔵庫や洗濯機やテレビそして住宅などの購入です。

それが、ブリックスの経済発展に大きく貢献しているのです。

しかし、全て生活の現代化を満たした欧米諸国は、需要は満たされ、しかもインターネットの発達は拡大しない需要の中で、アマゾン、グーグル、フェイスブックに代表されるように、あらゆる生活の需要を奪って行きます。

その結果、個人商店や中小企業は消え、大企業と大富豪に集中するようになったのです。

どうしてこうなるか、というと、産業革命は当然のことですが、供給サイドの革命から始まります。

とくにインターネットのビジネスは、当初は金持ちも貧乏にも平等に訪れます。
しかし、需要がついていけず、大資本家は、インターネットビジネスでの優位性を保つために、無料でユーザーに普及させることを狙います。
今日におけるネットビジネスはそこで発展してきました。グーグルサイトもフェイスブックも利用者側は基本無料です。

最もテレビやラジオもそういう側面はありましたが。そういう意味ではテレビやラジオも情報化社会の先駆けという位置づけでもいいかもしれません。

工業化社会における産業革命も、1800年から1830年ごろから始まり、まず工場などの供給サイドで起こり、それにともない、イギリスでは、機械に取って代われた失業者たちが、ラッタイト運動をおこしました。

ラッタイト運動とは、暴徒が、工場を打ち壊したりする運動でした。
今日、情報化の進行に伴い、失業者の増大をネオラッタイトと呼んでいます。クリントン政権の時の労働長官で、「ワークオブ・ザ・ネーション」で有名なロバートライシュは、早くからこの問題を指摘しました。


産業革命は1800年くらいからスタートし、供給サイドの産業革命は素早く進行したのに、大衆は、なかなかこれを受け入れられず、供給過剰から、世界恐慌がおこり、二度までの世界大戦をおこし、やっと1950年代以降に、生活の工業化社会が浸透したのです。

今、世界は供給サイドの情報革命が進み、それに伴い、需要サイドがついていけず,格差が広がり、需要不足で、経済は行き詰まっています。

まさに、世界大戦前夜の世界そのものです。


これから、世界は、戦争に突入するのか、需要革命が起きるのか、大きな岐路に立たされています。


少なくとも日本は、先の大戦で、需要拡大で戦争を選び、国家を滅ぼしました。(太平洋戦争は日本は追い込まれた、という反論はあるでしょうが、満州朝鮮中国への侵攻は、景気対策の一環という見方は明確にできます。そのおかげで、旧財閥や新興財閥は大きく昭和初期には潤ったのですから)

その経験を生かすためには,勿論、後者を選ぶべきでしょう。


2017年04月25日

次にくる需要革命すなわち生活者の革命とは?

それでは、次にくる需要革命、すなわち生活者の革命とは、どのようなものでしょうか?

われわれは、まず10年後の2027年をイメージしてみましょう。そしてさらに10年後2037年後を想定してみましょう。

まず、今進歩しつつある人工知能について考えてみましょう。

人工知能の構造は、パターンをなるべく多く記憶させ、具体的には、正解といわれる事例をたくさん記憶させ、判断すべき事象を、そのパターン群から類似、もしくは一致するものを選び出し、それを正解としてアクションをおこさせる、という仕組みです。

人工知能が発達すればするほど、より擬人的なロボットが出てくるのは明白です。

たとえば介護ロボットを作れるとします。

ある一人暮らしの寝たきり老人がいるとします。その老人が介護ロボットを雇います。

おなかすいた、と老人がいうと、ごはんを作って口に運んでくれます。トイレ、というとしびんやおむつをとりかえ、洗浄もしてくれる。もしくはトイレに運んでくれる。

さびしくて話しかけると、ロボットは実にきめ細やかに理想的な会話をしてくれる。

具合が悪くなれば、すぐに救急車を呼んでくれる。

これを、人間がやるときのデメリットは、人には感情があるので、優秀な介護をする人をさがさないと、本当に老人はつらいことになります。近年、介護老人ホームで老人の虐待が事件になったりしますが、そういうことはロボットにはありません。

おそらく教育でもそうでしょう。家庭教師を頼むより、言葉を認識するロボットが教えてくれるほうがより、優秀な先生でしょう。

仕事を管理監督指導するのもロボットがおこなったほうがいいかもしれません。

それでは人間がロボットにとってかわられないことはなにか?

まずトップの決断。これは、ロボットを利用して新しい目的を実現するのだから、トップつまり社長の決断とか、教育だったら親の決断とか、そういうものは、まずはロボットにとってかわられません。


こういう社会になることで、人間はどう変わるのか?教育とか、労働とか、人間にとって努力と苦痛が伴うものが、苦痛なく楽しく生産活動ができるようになるでしょう。

それは、人々が、競争原理に従って勉強したり、働いたりするのではなく、協調によってより付加価値をたかめ、楽しく人生を起こる社会の実現につながるのだと思います。


情報化社会は、豊かな中間層が7割以上もいて、そして仕事の時間も短く、あえて、楽しく貢献的に消費をおこない、また個人個人が仕事での投資も含めた生産活動をすることによって、よりみんなが豊な社会が実現されるのです。

経済の流れはより豊かにより活発にながれることが、みんなも潤すのです。決して一部の独占と中間層の消滅、貧富の差の拡大は富を持つ層の富すらも奪いかねないのです。

とにかく中間層を厚くして、経済をより活発に回すことが、富裕層にとっては、もっとも大きく儲けることができるのです。当然のことに中間層も下層も豊かになれます。

歴史は繰り返す、というなら確実にこの後、大きな戦争がきます。


しかし、人類が賢くなり、戦争を起こさなくても、情報化社会への需要マーケットの移行がスムーズに起こせれば、戦争は回避されます。


需要革命は、教育によって行われます。よりここちよい、でもしっかり知識や技術や思考を身に着けて、いままでにない仕事へと変化させる、そんな状況が拡大していけば、需要革命は起こると確信しています。

詳しくは、2008年に書いた拝著「究極の経営」をお読みください。

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あれから9年経ちますが、まったく修正のいらない内容と自負しております。

でも売れませんでした。(≧◇≦)

売れない古い本の宣伝で ドーモスミマセン!

2017年07月25日

銀座の恋の物語と現代

先日、石原裕次郎特集で、「銀座の恋の物語」という映画をダビングしていたので、ちょっと見てみました。

主演は、石原裕次郎と浅丘ルリ子です。この二人については、石原慎太郎の「弟」や浅丘ルリ子の私の履歴書で読んでいるので、結構人物の背景は理解していました。さらに小樽にある裕次郎記念館にも行ったので、裕次郎という人となりも感じるものがありました。

裕次郎というと、西部警察や、太陽にほえるという単純娯楽路線のドラマが有名ですが、記念館に行って、実際、彼が書いた絵や、趣味のものとかを見ると、繊細な芸術家肌のように感じました。

話はずれましたが、この銀座の恋の物語ができたのは、1962年です。

映画としてみる関心は、あまりないのですが、当時の社会現象的な大ヒットしたこの映画を、当時の社会の記録とみると、とても面白いものがあります。

ぼくも5歳くらいから映画に登場した松屋デパートに母に連れられた記憶があるので、なんとなく舞台の雰囲気はわかります。当時は傷痍軍人が白い服を着て座って、四丁目交差点とかで座ってアコーディオンとか弾いてたのをなんとなく覚えています。

ただ、銀座は、あまりにも今とはかけ離れて、規模の小さい町であったことは確かです。

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米国はこの時から、ダントツの経済大国でしたが、日本は他国とほぼ同じで、1970年代に抜きんでるので、1962年はまさにこれから、っていうときです。一人当たりの所得もこの時、年間13%の伸びで、1974年の28%増をピークに、うなぎのぼりに国民所得が増加していく時代でした。

1965年に東京オリンピックがありましたから、ちょうどその三年前です。敗戦より20年が経ちました。

今年も、オリンピックの三年前ですので、比較すると面白いですね。1985年のプラザ合意を起点として、1990年経済の失速が加速し、米国に経済で敗北し、早20年、ちょうど、1962年とおなじ立ち位置にいます。

しかし、3年後にオリンピックがあろうとも、もう1970年代のような経済の急成長はありえません。

理由は急速に人口が減少するからです。
米国もヨーロッパも人口は増加するのに、日本の人口減少は日本経済にとって経済に重大な影響を及ぼします。

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銀座の恋の物語の時代は、急速に人口も経済も成長する時代です。

現代は急速に人口も経済も縮小する時代です。

当時は、浅丘ルリ子演じるヒロインの目の前で、両親が空襲で火だるまになって死んでいくトラウマを抱えている、というような傷は、現代の日本人には多くはありません。

確かに東日本大震災は、日本人全員に大きな心の傷を残しましたが、死者の数字では、先の敗戦で民間合わせて312万人なので、それはそれは大きなことだったでしょう。


私が生まれた1960年は、東京空襲や原爆からたった15年しか経っていません。
いま、敗戦から70年以上経ち、今の時点から見ると、私が生まれた1960年は、限りなく戦争時代に近くなりました。

子供のころ、原爆の物語や空襲の絵本を見ると、かぎりなく昔のできごとのように思えていたのですが。

私たちは、生活する時代の流れの中で感じる感覚と、経済力を現す数字の上で見る感覚と、立ち止まって昭和を振り返ってみる感覚とでは、実に大きくずれているのがわかります。

石原裕次郎特集は、そのずれを気づかせてくれるうえで、一見の価値はあるとおもいます。

2017年08月19日

フーテンの寅さん

今年の正月、たまに放映されるお能を録画するために、ビデオデッキを買いました。

今は、スマフォで録画予約から再生までできます。

そんなことから、時間を持て余す電車の中で、スマフォでテレビの録画予約をします。

また録画したものを、スマフォやタブレットでベッドの中や、wifiのつながるところでちょくちょく見ています。

いままで、あまりテレビや映画を見る習慣がなかったので、世の中の有名な映画を結構みるようになりました。

なぜか、最近は渥美清のドラマ、ドキュメンタリー,男はつらいよなどがよく放映されています。

男はつらいよは,渥美清が死ぬまで、48本も作られました。

まさに国民的映画です。

大学浪人のころ、恒例のお正月のテレビ番組で、この寅さんを見て、はじめて組織に属さない自分を同化し、面白い中に、寂しさを感じたのを覚えています。

高度成長期から平成の初めまで、石原裕次郎や加山雄三などの青春路線,高倉健や菅原文太のアウトロー路線、森繁久彌やクレージーキャッツ、そして渥美清に代表されるお笑い路線と、国民的映画はこの三つ巴でありました。


急拡大する日本経済の中で、裕次郎や加山はスマートに成功するおしゃれな勝ち組,やはり経済成長を裏稼業で稼ぐアウトローに比べ,寅さんは不器用で、そういう経済成長から取り残される下町の、本当に日常にあるような可笑しくも、ちょっと寂しい人情劇です。


今日ある勝ち組のオピニオンリーダーが、ユーチューブで講義をしているのを見ましたが、100万人の頂点に立て,という話です。

でも、クラスでもなかなか一番になれないのに,会社でもなかなか一番になれないのに,100万人の頂点に立つなんて、ほぼ100パーセントできないですよね。


でもリスナーは元気になるそうです。これは、僕はまやかしだとおもいます。

ひとはなかなか勝ち組にはなれない。でも寅さんのようにはなれるかもって思います。

おとこはつらいよは、1969年からはじまり、渥美清がなくなる1995年までじつに26年続きました。

どんなに社会を一世風靡したように感じても、石原裕次郎の青春ものも、1957年から67年くらいまでの10年、高倉健の任侠ものも1963年から70年、菅原文太のトラック野郎にいたってはたった5年程度です。

男はつらいよに続くのは、1981年から2001年までのドラマ「北の国から」の20年でしょう。

ヒーローものより、一般の等身大の人の映画がスーパーロングランになるのでしょう。

先日、あるユーチューブに100万人に一人になれ、というある先生の啓蒙ビデオを見ましたが、100万人に1人になるには、100万分の1、つまり、不可能ということじゃない、と思いました。

そういう啓蒙のしかたはあまり賛成できません。

そういえば、高校生のころ、トルストイが、小説でも音楽でも劇でも英雄や王侯貴族の芸術は新の芸術じゃない、等身大の民衆のなかから出てくる芸術こそ、もっとも価値がある、ということを言っている芸術論を読んだことを思い出しました。

ああ、トルストイがいってるのは、フーテンの寅さんのことなんだ、と今思い至りました。

私も少しでも、そんな教材が作れたらいいな、って思う今日この頃です。

2017年11月08日

ナナミの予言

最近気づいたことですが、2011年3月24日発売の「教えてナナミDS」のストーリーが、かなりリアルに現実味を帯びてきました!

http://www.media-5.co.jp/ds773/index.html

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3月11日をすぎているので、このくらいの想像はできるかもしれません。

しかし、このサイトを作ったのは、もっと前です。

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2011年1月11日にこのホームページを作りました。

早いもので、「教えてナナミDS」を発売して、六年が経ちました。
ナナミの「日本分裂」まであと四年です。

次の東京オリンピックが終わり、その反動となる2021年・・・

問題なのは、東日本です。

もしかして、立ち入り禁止地区になってるかも・・・

ナナミの予言が当たらないように、みんな勤勉勤労で、前向きに生きましょう!

2018年02月12日

貧困家庭における教育問題と資本主義の終焉

先日、知人の紹介で、「私たちは子どもに何ができるのか」(英治出版)という本を読みました。

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この本は、米国内のボランティアで、貧困家庭の親の支援を10年くらいしている著者が、貧困家庭の教育問題をデータにもとづいて、指摘することが主題の著作物です。

しかし私は、相変わらず自己流の解釈から、この本を二つのテーマからとらえました。

一つは貧困の問題ともう一つはディープラーニングの問題。

貧困の問題は情報と金融が一握りの人に握られることによる資本主義の終焉へと向かう中での格差社会で、貧困層の増大とともに、攻撃的な反社会性の人間を増産し、やがては彼らが向こう見ずな暴動から資本主義の終焉へと向かうことの現実をはじめて実感した気分です。

著者は、貧困層の拡大は、豊かな感受性やクリエイティブな脳を作る、非認知的教育が損なわれる、と警告しています。そして科学的に分析しています。

最近NHKで「欲望の経済学」という番組やってて、欧米のノーベル賞級の経済学者が、みんなこれから資本主義が終わり共産主義に変わるって言ってて驚きました。

ほんとかなあ、インターネットと金融を握る、グローバル資本家は、かなり長い歴史を支配できるのでは、って考えていましたが、この本読んでわかりました。

なんたって米国の半分が貧困家庭ですから。その貧困が暴力革命を起こす戦士を製造するって話です。日本でも足立区や新宿区では三分の一が生活保護家庭だといいます。

そして、著者は貧困家庭で育った子供に、非認知教育をおこなうことで、反社会性の大人をつくることが防げる、と説いています。家庭を超えた、自律性、そして明確な目標設定を作って学習をするディープランニングなるものを提唱しています。

ただ、僕は、ディープラーニングの場合、所詮作り事の目標に対する学習ということより、実際の働きの中で、どう学習して生産性を上げていくか、という実践的な学習が本当の学習(ディープランニング)なのではないかなって思います。

僕はそれをITを使ってどう教育をするか、というのを至高の学習と究極の経営という二冊の本で書きました。資本主義を終焉させないためには、繰り返しの主張ですが、中間層の復活が必需です。

中間層は体制に従順です。しかし、貧困層は、体制に暴力的です。

ターミネーター4は2018年を舞台にしています。マトリクスにしてもターミネーターにしてもグローバル資本家が生み出した人工知能に、人間が支配される、という映画です。

こうなりたい、という人はいないとおもうけどなあ。


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