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なぜ、今葬儀ビジネスか?

みなさんは自分の臨終を想像したことがありますか?僕は中学生のころから寝る前の布団の中で、自分の臨終を夢想したりしていました。その時はモーツアルトのレクイエムがいつも心の中で鳴り響いていました。

私にとってモーツアルトのレクイエムは唯一あの世を体感できる音楽です。16歳の時カラヤンが来日し、このレクイエムをコンサートホールに聞きに行ったときは、あたかも臨死体験をしているような感動でした。観客席以上にいるのでは、というくらい大勢の合唱団とオーケストラは、この世のものとは思えないくらい荘厳な、地下からよみがえるような音楽を、本当に地響きをたてながら創り出していました。おそらく私の人生のなかで経験できる最高のコンサートだったと思います。

死は、残された遺族には痛恨の心の傷になるでしょうが、死の瞬間は本人にとってはけっして暗い、厭わしいものではないと思います。どこかにこれで永遠に休める、というほっとした感情があるはずです。ただ多くの人が、愛する家族や世間に対し、やり残したことや、言い忘れてきたことを多少なりとも悔いながら死んでいくのだと思います。

僕の葬式はシンプルに、あっさりとしてもらいたいものです。ただ春なら桜、夏や秋なら桔梗、冬なら水仙をすこし飾ってほしいです。モーツアルトのレクイエムは流してほしいです。けっして白木の祭壇や豪華な菊飾りは不要です。見ず知らずの葬儀屋さんに事務的にことを図られて、粛々と進み、半分以上の利益をふんだくられるような葬式だけはしてほしくありません。

昔、黒澤明監督の「夢」という映画に、電気も水道も通らない美しい田舎の村での100歳を超えた老婆の葬儀のシーンがありました。笠智衆演じるこれまた100歳を超えた老人が登場し、自分の初恋の人の葬式のパレードに参加しにいくのです。明るい音楽が鳴り響き、花弁が舞、子供たちは駆け巡り、まるでお祭りのようなシーンでした。

自分の死が、重苦しく、思い出したくないものになるか、あるいは美しいおもいでになるかは、これは当人の人生にとってとても大きな問題ではないでしょうか。今の時代は、死をただただ忌み嫌ういやなものになっていると思います。それはそのまま人生そのものを少なからず台無しにしているのではないでしょうか。

江戸時代、武士は自分の死をより名誉あるものにするために、生を大切にしていました。農民も、そのリーダーはひとたび代官の悪政に立ち向かうとき、自分の死と引き換えに村の利益を守りました。

人は自分の死を見つめて、はじめて生きる意味を感じるのではないでしょうか。能という芸術はかならず死霊が出てきて、かつて生きていた生の時を語ります。歌舞伎や浄瑠璃も心中ものが数多く残されています。忠臣蔵も常に死がテーマです。

生きる意味が希薄になった現代の日本人は、まさに葬儀を見ず知らずの商売人に委ね始めたころから、生きてく上での意義を見失っていったというのは言い過ぎでしょうか。

自分の身内を、また自分を送るためにも、最低限の葬儀の知識は必要なのではないでしょうか。自分の死を見つめ、死を意識してはじめて、生きる意味、ありがたみを感じるのだと思います。

当社は教育ソフトメーカーです。生きるための資格やスキルをより効率よく、楽しく学べる商品を開発するのが使命です。そのためにも死を見つめて、よりよく生きることをお客様に実感していただくことも当社のすべき使命と感じました。

ここにエンディングノートを皆様に無償にてご提供いたします。これは皆様のライフノートでもあります。死を見つめ、生を見つめ、どう生きるべきかを考えて、皆様の人生を充実させてください。私どもメディアファイブは少しでも皆様の人生を充実して生きるためのお役にたてることが、なによりの幸せと存じます。

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2012年12月21日 06:02に投稿されたエントリーのページです。

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