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2013 5.22-6.10 とAKB48総選挙

1338年5月22日、堺の石津川の河口付近の浜で、北畠顕家は戦死しました。新暦でいうと6月10日なのですが。

以前のブログでも書きましたが、23年前、堺の教材会社さんとの仕事がきっかけで、当社を創業したのです。最初、その会社に伺った帰り、北畠という地名が目に飛び込み、タクシーを止めてもらったところが北畠公園という顕家の墓だったのです。

これも以前のブログでも書きましたが、僕は運命的な偶然を感じ、墓の前で手を合わせたのです。

当時、僕には歴史の知識もなく、当然、歴史的にもマイナーな北畠親房や顕家の知識もありませんでした。ところが、この堺の教材会社さんと歴史のソフトをつくり、放送会社さんと孫子の兵法のソフトを制作することになったことにより、親房や顕家の考えを少しづつ知ることになり、いつしか親房や顕家の思想を知ることになりました。

そして、以前は、この会社を通して、少しでもかれらの思想を世の中に広げられれば、と考えていました。2007-8年にかけたブログのときは、そう思っていました。

その間、顕家の奏上を「則天」に託し、神皇正統記をまだ全然未完成でも「ネクレボ」に託してきました。

しかし、それが最近、誤りであると感じてきました。

話は飛びますが、今、僕は、毎年恒例のAKB48の総選挙を見ながらこのブログを書いています。

話を元に戻すと、その誤りとは、僕は、世の中に、必要なものを作ろうとしたのです。

それが間違いなのです。

正確にいうと、世の中に必要だと思ったことが間違いなのです。


事業として必要なのは、言い換えると、世のなかに受け入れられるものは、

世のなかの大勢の人が、本当に欲しい、と感じているものを世の中に提供することなのでした。

以前、この2008年のこのことに関するブログを書いているころ、AKB48はブレイクしました。モバゲーがアイテム課金で成功しはじめたのもこのころでした。


当時僕は、これらのブレイクは、20年にわたる不況の結果、大衆が自信をなくし、逃避行動としてアイドルを育てることや、ゲームの世界でヒーローになることに夢中になるのだ、と思っていました。


しかし、そう考えていること自体が、今思えば、僕自身大変な思い上がりであり、経営者失格でした。


事業として大切なのは、みんなが欲しいと思うことや、ものを行い、結果としてお金が回って、組織を維持発展させることなのです。

大衆がすでに、必要と感じていることをビジネスにしなければならないのです。

この20年の内需縮小の社会のなかで、9割の会社が10年で潰れる、ということは、ビジネスの成功は1割に満たない、ということです。

より多くの人が日々食べていくことの難しさを痛感し、暗い現実のなかで、多くの人にとって確実にAKB48やモバイルゲームは人々を勇気づけ、自分がいきるための存在価値となっているのです。

今、この教育というジャンルで、どうしたら、世の中の人にとって必要と感じる教材を提供することができるのだろうか。


それは、いつでも、どこでも気軽に学べて、いつもとても楽しく、単純でわかりやすく、そしていつのまにか自分や家族や生徒のためになっている、教材を開発することなのだと思います。


私は今、この会社で、そのようなものを作ろうと、大幅に方向転換を始めています。


そうこうしているうちに目の前のテレビで、AKBの総選挙は、まさかの「指原」が1位になりました。昨年、週刊誌にスキャンダルをすっぱ抜かれ、博多に左遷されたアイドルが、1年でトップに返り咲いたのです。しかも、お笑いキャラを演じている子が。

これこそが、今大衆が求めているものなのかもしれません。    「復活」

今年は、かつてみなさんが、在りし日の夢を抱けた日本の社会の「復活」を夢見ようとしているのかもしれません。  アベノミクスしかり。


それはこの1位になった「指原」のように、軽い、ウイットに富んだ、でも挫折からひょい、っと這い上がってきた女の子のように。


そこには、努力も、根性もありません。あまたを使い、楽しみながらの復活です。


当社も、そんな世界を当社の教育SNSサイト「ネクレボ」やゲーム教材やスマフォコンテンツの中で作っていく所存です。

みなさんにとって必要なスキルの教材を、気軽に楽しく身近に使いながら、知らず知らずみなさんの人生や生活が「復活」するような、そんな教材やツールやサイトやシステムを作ってまいります。


南朝が北朝に敗れたのは、親房がコンセプトで南朝の正当性を訴えたのに対し、足利尊氏はただ武士の現実をつかんでいたのです。恩賞としての「土地」の提供という。

その結果、徳川幕府になる270年後までは、全国で、土地を、血を血で争い奪い合う騒乱状態が続いてしまいました。


当時の武士に匹敵するものが、今日における大衆です。大衆に受け入れられれば、すぐに何百億、何千億という大金に膨れ上がり、大衆にそっぽを向かれれば、いかなる大企業といえども生きていくことはできません。

なにが、正しく、なにが間違っているか、それは歴史の流れには関係がありません。
理屈ではなく、現実的な歴史の流れの中で、人はいかに生きるべきかを問い続けることが必要なのでしょう。

今日、AKBの総選挙で「指原」が優勝したことが、まさにそれを物語っているような気がします。


顕家は奏上文で常に民という言葉を強調しています。以下は難しいので読まなくていいです。ちょっと眺めていただけたら幸いです。

第2条
右、連年の兵革、諸国の牢籠、苟しくも大聖の至仁にあらざれば、黎民の蘇息を致しがたし。今より以後三年は、偏えに租税を免じて、民肩を憩わしめよ。・・・・三ヵ年の間は万事興作を止め、一切に奢侈を断ち、しかる後、宮室を卑くし以て民を豊かにして、仁徳天皇の余風を追い、礼儀を節し俗を淳うして、延喜聖主の旧格に帰せば、たたむきを垂れて海内子のごとくに来り、征せずして遠方賓服せん。

第5条
臨時の行幸および宴飲をさしおかるべき事

右、帝王のいたるところ、慶幸せずということなし。風俗を移し、艱難を救うの故なり。世澆季にのぞみ、民塗炭に墜つ。遊幸・宴飲まことにこれ乱国の基なり。

第7条
政道の益なき寓直の輩を除かれるべき事

右、政のためその得あらば、芻蕘の民といえどもこれを用いるべし。政のためその失あらば、閥閲の士といえどもこれを捨つべし。・・・道路目を以てし、衆人口を杜ぐ。これ臣鎮に在るの日、耳に聞きて心に痛むところなり。それ直を挙げて枉に措くは、聖人の格言なり。・・・陛下諫に従わざれば、泰平期するなからん。もし諫に従わば、清粛の日あるものか。小臣、もと書巻を執りて軍旅の事を知らず。かたじけなくも ふっ詔を承り、艱難の中に跋渉す。再び大軍を挙げて命を鴻毛にひとしうす。幾度か挑み戦いて身を虎口に脱れし、私を忘れて君を思い、悪を却け正に帰せんと欲するの故なり。もしそれ先非改めず太平致しがたくば、符節を辞して范蠡の跡を逐い、山林に入りて以て伯夷の行を学ばん。

以前条々、言すところ私にあらず。およそそれ政をなすの道、治を致すの要、我が君久しくこれを精練したまい、賢臣各々これを潤飾す。臣のごときは後進末学、なんぞ敢て計い議せんや。しかりといえども、あらあら管見の及ぶところを録し、いささか丹心の蓄懐をのぶ。書は言を尽くさず。伏して冀(ねがわ)くば、上聖の玄鑑に照して、下愚の懇情を察したまえ。謹んで奏す。

延元三年五月十五日
従二位権中納言兼陸奥大介鎮守府大将軍臣源朝臣顕家上る

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