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海外 アーカイブ

2007年09月17日

シアトル雑感

 今年5月、マイクロソフト様のご招待でシアトルに行かせていただきました。行きの機内ではなるべく寝ていくつもりだったのですが、自社の「3週間で英語スラスラ」を夢中でやっていたら、時間を忘れ、ほとんど寝られませんでした。3時間では、英語スラスラにはなかなかなりません。でもなかなかいいソフトですよ。

 到着後は、私のような時差ボケ症状を慮ってか、市内視察という粋なスケジュールでした。最初の視察はボーイングの元本社に隣接する航空博物館で、いきなりその過激さ、迫力に面食らいました。ポールケネディの「大国の興亡」を思い出しました。

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(航空博物館)

 1783年独立戦争で勝利したアメリカは、その肥沃な農地と工業で都市が急成長し、賃金は19世紀に入ると西ヨーロッパの3割も高くなり、移民が殺到し、1816年に850万人の人口が1860年には3140万人まで膨れ上がりました。そして20世紀に入るとダントツで世界最大の工業国に躍り出ました。さらに1861年〜1865年の南北戦争で急激に軍事大国へと変身していきました。材木会社を経営していたW.ボーイングが海軍技師ウェスターバレットと作った飛行機会社がボーイングです。どおりで初期の工場は製材所を思わせます。

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 太平洋戦争においては、空軍があるかないかが、日本軍と米軍の戦場の現場で大きな違いとなったようです。そういう意味ではアメリカの繁栄の武器となる、20世紀初頭のボーイングと20世紀後半に設立されたマイクロソフトがともにシアトルにあることは、偶然の一致としては趣き深く感じました。

 さらに面白いのは、博物館の前に妙な合金の塊が大事そうにモニュメントとして飾ってあり、これは日本の三菱とボーイング社で共同開発した合金だそうです。これがつい何日か前に、日本で完成し、シアトルに運ばれ、地元の新聞ではこの合金と日本の技術の賞賛とに6面をさいて特集したそうです。シアトルという街はなぜか職人的なものに敬意を払っているようです。

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 シアトルは大正時代まで、日本人街がありました。というより、シアトルは日本人が作った街でもあるそうです。それが大正から昭和にかけて、移民法が制定され、日本人はシアトルから追い出されてしまいました。日本人の米国への反感はこのとき、大きく顕在化されたそうです。

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(日本人がつくったマーケット)

 明治天皇はサンフランシスコ大地震のとき、かなり多額の私財を、地震の救済のために米国に寄付しました。逆に、関東大震災のとき、米国はさらに多額の寄付を日本にしました。このようなやりとりがあるにもかかわらず、移民法の制定は日米の関係を一途に悪化させました。

 われわれは、相手の国を見るとき、人と同じように、単純化された関係でその国を見ます。しかし、当然のことながら国は多くの人の意思や利益で成り立っているのです。自分たちの国との関係も単純な見方は、正しいものではないでしょう。国を擬人化すること自体危険なことなのかもしれません。

 話を戻します。航空博物館に圧倒されつつシアトル市内に入りました。シアトルは趣のある古い町で、緯度も高いせいかヨーロッパを思わせます。中心街以外は木の高さ以上のビルをつくることを禁じており、また循環社会を標榜していて、この落ち着いた美しい街は本当にアメリカの余裕を感じさせるところでした。白人居住率も70%を超え、アメリカでもっとも白人の割合が多い街だそうです。この街がアメリカのめざす理想の未来都市なのかもしれません。しかしこの静かな、美しいなかに秘められている圧倒的なスケールとパワーは、この博物館に代表される、世界最大の軍事力を背景に、全世界の主導権を握り、全世界を下請け工場と市場にしているアメリカならではの余裕でしょう。

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(シアトル中心部)

 シアトルの中心街でステーキを食べ(時差ボケにはステーキがよいそうです。)ワシントン湖のクルーズに行きました。ここの湖畔にはマイクロソフトのビル・ゲイツをはじめ、アマゾンのジェフ・ベソスなど世界的な富豪の邸宅が並んでいます。「風と共に去りぬ」に出てくるような邸宅が小さく見えるくらい、豪邸が並び、当たり前のようにクルーザーとか水上飛行機とかが置かれていました。

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(クルーザーがあたりまえな豪邸群)

 その後、シアトル郊外のマイクロソフト本社に行きました。ここは「キャンパス」と呼ばれ、木の高さ以上の建物を建ててはならず、なんとマイクロソフトは3階建てのオフィスが200棟近く建っているそうです。一見大学の構内に見えるので通称キャンパスと呼ばれるのです。ここに世界中から優秀な技術者が集まってくるのだから、あらゆるソフトはここで開発が可能なのではと思いました。

 今回の出張のテーマは、いかにマイクロソフトのサードパーティーとしてビジネスができるか、というものでした。マイクロソフトの方向性は「インフラ」です。OSをはじめ、ワープロや表計算、データベースなど汎用的なアプリケーションやソフトはマイクロソフトが作る。日本のソフトベンダーはそれと共存したニッチ、たとえば業種特化したものを作ってください、ということなのです。それが、いかにアメリカという巨大国家と共存して日本が生きるか、ということとリンクしていて大変考えさせられるものでした。

 アメリカは航空博物館に象徴されるように、強大な軍事力を背景に基幹ビジネスを展開していきます。ソフト業界も世界情勢も当分この状況を変えられるものではありません。日本のIT業界は「浮利は追わず」で、地域に根ざし、自分たちが普通に暮らしていけるだけの利益をめざしてビジネスをしていけば、アメリカやアメリカの企業と競争する必要はないのです。そしてそれこそニッチなビジネスを、極めれば、それを世界中に紹介していけばよいのです。

 「浮利は追わず」はもともと住友家の家訓なのですが、お金というものは、汗を流した仕事にしか集まらないのではないでしょうか。ちょうど私が会社を興したころ、一代で会社を上場させた社長さんからお聞きしました。「自分の成功は人のやらないところをやったからだと思う。3K。つまり、きつい、きたない、きけんな仕事に取り組んだからだ」。

 そんなことを思い出した出張でした。

2007年09月19日

高田屋嘉兵衛とシリコンバレー

もう、何年も前の話です。北海道出張で函館に行ったときのこと。帰りの列車までまだ時間があったので、元町のバカラ美術館に行きました。場所がわからずうろうろしていると、高田屋嘉兵衛資料館というのがありました。この名前は聞いたことがある程度で、「おろしや黒務箪」という緒方拳さんの映画があったかなあ、という程度。あまり関心はなかったがバカラ美術館の場所を聞けると思い、入ってみました。ところが高田屋嘉兵衛なる人は江戸時代最大の商人で、幕府のお取りつぶしに遭った時には1200万両蓄財していたということでした。これは現代で換算すると国家予算の4分の1だそうで、江戸三大豪商のひとり銭屋五兵衛でも300万両だからいかにすごいか、ということです。

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(小樽にしん御殿より湾を望む。昔ここににしんを追い込んで漁をしました。高田屋嘉兵衛も海産物の貿易で巨万の富を作りました。)

この人が歴史で有名になったのは、1800年初頭、ロシアの軍艦が日本に漂着し、その乗組員が函館にある松島藩に2年にわたり幽閉された、「ゴローニン事件」です。ロシアは日本に対して武力で乗組員の奪還をはかろうとしたが、たまたま函館沖で高田嘉兵衛がロシア海軍に拉致され、その事情を知り、幕府に掛け合い、ロシアの乗組員の解放に成功しました。

これは日本とロシアの戦争を回避することにもつながり、もしこのとき戦争をしていたら、当時のロシア帝国はもっとも隆盛を誇っていた時期でもあり、日本は占領されていた公算が大きいようです。にもかかわらず、高田嘉兵衛は、その家を幕府に取りつぶされました。その死後であったのがせめてもの救いです。あまりに強大になったからです。江戸時代、大商人はみな取りつぶされました。淀屋橋で有名な淀屋、銭屋、高田嘉兵衛、紀伊国屋文左衛門などなど。三井、住友は徹底的に質素な暮らしと、幕府への献納で現代まで生き延びましたが、これは奇跡に近いそうです。

思えば士農工商どの家にも四書五経が置いてあり、国民の7割が字を読めました。こんな国家は世界中なく、大変優れた国家であったのは疑いありません。しかし隆盛を誇った企業をつぶすという愚挙は江戸幕府の寿命を大きく縮めたと思います。経済は信用で成り立っています。それなのに、商人が儲かると、幕府が難癖つけて店をつぶす、ということは、経済自体を破壊しているわけです。その場では膨大なお金が直接入るでしょうが、ひとつの経済のポンプをつぶすことにより、お金の流れは何倍もの勢いをなくします。

江戸時代の役人は現代の役人と通じるものがあります。企業と国家の問題は大変重要な政治問題でもあります。アメリカは強い政府という印象を与えながらも、企業の売り込みまで政府がおこないます。むしろ企業が主で国家が従であるという印象すらあります。日本は官主導で、国家予算を補助金や受注としてうまく取り込める企業が成長してきました。建設、医療、教育、通信、米をはじめとする食品、農業などなど・・・。

そういう意味では、戦後から高度成長までは、ほんとうに巧く経済が成長していったのだと思います。そして世界第2位の経済大国になったことはもちろん有史以来はじめてでしょう。江戸時代の経済政策とは雲泥の差です。江戸時代は、せっかく戦国時代を経て安定した政治や開墾の奨励で大幅に生産高を上げたのに、中期以降は農民の締め付けで、貧農といわれる人を多く生み、彼らは農業を捨てるようになり、大幅に生産高は減少していきました。それに比べ、戦後の復興計画は、満州での15年にわたる国土建設の体験をもとに国土計画を立て、着実に経済復興を遂げました。

オイルショックを乗り越え、円高不況を乗り越え、80年代後半に入ると、経済成長は成熟期のいきづまりを打破できなくなりました。そこでバブルというマジックで好景気をつくり、バブルがはじけ、未曾有の不良債権が発生しました。そのいきづまりを打破するために、構造改革がおこなわれ、戦後日本のビジネスの構造は一変されてしまいました。
どう変わったか、というと、より自由競争が活発化されたのです。

これからは本当に企業経営を真剣に考えなければなりません。実は今、サンフランシスコに来ています。ドリームフォース07というイベントの視察です。これはgoogleに次ぐ成長を遂げているセールスフォースというIT会社が主催しているイベントです。日本ではまだなじみは薄いのですが、ネット上でシステムを利用するSaas(Software as a Service)というビジネスモデルの大成功例です。ネット上でシステムを改良していくので、システム上の工夫をどんどんできることが特徴です。このイベントに参加するには一人500ドル、ブースに出展するには日本の実に10倍の金額にかかわらず、5000人以上の人が世界中から集まり、300社のサードパーティが出展しました。

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(ツインピークスよりサンフランシスコを望む)
今、世界中で経営革新に経営者やリーダーは注目しているのです。より自由化された市場では、個人や企業のイノベーションは必須です。特にいかにもアメリカらしくマーケティングのツールが多く出展されていました。

当社も「NextRevolution」というSaas型経営支援ツールを開発したので、先行しているアメリカの状況を把握するのが視察の主目的でした。当社のシステムは、個人の生産性が企業内でいかにあがっているかをリアルタイムに把握でき、そのために個人はいかに組織を有効に活用し仕事を工夫して生産性をあげるか、という人材開発のツールなのですが、このようなものはまだ世界中にはないようです。まさにジャパニーズマネジメントシステムなのです。

もともとサンフランシスコは、小さな漁村だったところに、1848年に金鉱脈が発見され、
世界中の人が押し寄せ、金鉱脈だけでなく、ジーパンのリーバイスなど発掘する道具や衣類の産業も大きく栄えたそうです。また稼いだ金の保管などで、銀行も栄えたそうです。現在は近郊にシリコンバレーがあり、まさにゴールドラッシュならぬITラッシュとなっているわけです。

日本企業もビジネスマンも、早くビジネスツールの工夫に関心を持たないと、世界中に遅れをとることになるのではないでしょうか。10年前、米国コムデックスのイベントの時には、日本とアメリカのITの進歩の距離はそれほど離れていない気がしました(市場規模という点では離れていましたが)。しかし、今、アメリカともヨーロッパとも大きく距離が開けられたように感じます。とくに企業でも個人でも学校でも、お客様の意識という視点で。そういう意味では、明治維新のとき同様、海外視察は大変重要な行為になってしまったのかもしれません。こんなにも情報が発達したにもかかわらず。

日本ではITはもしかして必要ない、と思っている人も多いのではないでしょうか。
私たちメディアファイブは、企業はもとより、ビジネスマン個人の方々にも、学校関係者の方々にも、今年リタイアする個人の方々にもビジネスイノベーションを一緒に考え、お手伝いさせていただきたいと思います。近々そういうサイトを作成する予定です。是非皆様もご参加ください。

ジョージ・ルーカスと教育

サンフランシスコに来て今日で4日目です。昨日、ジョージ・ルーカスが講演しました。講演内容は意外にも「教育」でした。彼はジョージ・ルーカス教育ファンドというものを作っていて、いろいろな活動をしています。その観点は次の5つです。

1.子供たちに、プロジェクトを立て、それにそって実行する能力をつけさせる。
2.組織やチームでコラボレーションする能力を身につけさせる。
3.学校で学ぶ理由、社会のなかでどのようにその学問が役立つかを認識させる。
4.学校現場の先生にどうしたら教育のイノベーションをしていただけるか。
5.家族や友達との関係を学ぶ。

この5つの観点から、ITを使って教育のイノベーションを行う、ということです。今までの歴史上の人たちを全員よみがえらせても、現代の人数の5%にしかならない。(20世紀に入り、天文学的に人口が急増した、ということ)そんな環境の激変するなかで200年前と同じような教育をおこなっていたらだめだ、といいます。

1については、社会において物ごとを実行するには計画を立て、それにそって実行することです。それを子供のうちから学ぶことは、社会でもっとも基本的なことだそうです。
2は、社会に出れば、組織やチームで協力しあうことによって、仕事を成功させることができます。ところがペーパーテストで他人に勝つことしかしない現在の学校教育は問題が大きいことを指摘します。
3の「学校で学ぶ理由」では、宇宙ロケットの仕事をしたいなのなら微分が必要になるし、ファンドマネージャーなら、映画をつくるなら何が必要か、というように、
社会の仕事や現象からその学問を教えることにより、その学問を学ぶ意義を伝えることができる、といいます。
4の、どうしたら教師にITを使ったイノベーションの理解を得るか。ルーカスは自分の学生時代の経験や視点を思い出し、教師に語って聞かせるそうです。
5は、1と同様、家庭での教育も大変重要であり、親、兄弟との関係、それから友達との関係も学ぶ必要があるということです。

最後に、ルーカスは、人が生活し、子供を育て、普通に生きる以上のお金は、人を幸せにしない、といいます。pleasure(快楽)とjoy(喜び)の違いを認識してほしい。pleasureは利己的で、一時的な喜びであるのに対し、joyは永久に残るものだ、と。

とてもすばらしい講演でした。私もまったく同感です。ルーカスの掲げた5つのコンセプトは、おこがましい言い方で恐縮ですが、メディアファイブの開発方針とぴったり一致しています。

まず私は本当に記憶力が悪く、いかに記憶を苦痛なく、確実にできるか、という観点でエデュカートリッジシステムを開発しました。そして自分なりに学習内容を整理するために編集機能をつけ、携帯電話やI-podとの連携に努めました。そしてプロジェクト管理やチームをコラボレーションするグループウエアも作りました。当社のe-Learningは任天堂のwiiでも利用できます。そして今年、家族で使えるグループウエアも開発します。さらに社会の必要性、という観点からコンテンツ開発をおこなっております。家族の絆を深めるファミリーナレッジも開発中です。

なによりもお金に関する考え方には同感です。お金を余分に持つ人は、そのお金を社会に再配分する責任を負っているのです。企業経営者は投資を的確に行い、社員に的確に配分し、さらに成功をおさめ余剰のお金ができたら、社会に対し再配分する義務を負っていると思います。

米国社会は9割の富を1割の人が独占している、といいます。
その1割の人が、ベンチャーに資金を提供して、新しいビジネスが始まります。
そして圧倒的な軍事的優位と、ほぼ世界共通語となる英語をもって世界中に市場を広げることができ、成功するベンチャー企業はあっという間に大企業に変身するのです。
成功して余剰資金ができれば、教育を中心に社会奉仕をおこないます。米国では特に教育に対する奉仕は徹底しています。

今日、米国は、個人も企業も社会のイノベーションが加速度的に進んでいるようです。Saas(Software as a Service)のビジネスは、それを進めさせる重要なツールなのです。日本において、システムを改良するのは大変お金のかかるものです。しかしインターネット上でおこなうサービスならば、常に低価格で改良が行われ,しかもそのアイデアをほかの企業でも活用できる、ということです。それにより、企業におけるシステムの改良スピードが加速します。もちろん米国といえどもシリコンバレーのあるサンフランシスコが特別、というのはあるでしょう。10年前、コムデックスUSAという当時米国最大のPCの展示会に行きましたが、そのときは日本と米国との格差をそれほど感じませんでした。しかし、今回、そのイノベーションに対する意識において、日本企業と米国企業は圧倒的な差を感じました。そのことについては、また書きます。

とにかく昨日は、また崇敬できる賢人を一人みつけたことに大きな喜びを感じた1日でした。

2008年02月12日

日本とイギリス

仕事の上で、あるいは生きていく上で、様々な考察が必要ですが、その考察を深める、もしくはより正しい方向に導くためには、ベンチマーク(比較検討)という手法が良く用いられます。僕の場合、時代では、現代と南北朝。地理的には日本とイギリスです。

日本とイギリスはとてもよく似ています。太平洋の東端にある日本。大西洋の東端にあるイギリス。人口の増加率もほぼ同じだといいます。

そもそも国家の成立からして似ています。日本は、弥生時代もしくは大和政権自体が大陸から、九州から東北地方までを征服していったことです。イギリスは1066年ノルマンディー公ウイリアムにより、征服されました。

しかも1000年以上も続いた皇室が現代も存在している点も似ています。この皇室が中世に、二家に分かれて、半世紀以上も争ったのも同じです。日本では南北朝(大覚寺統と持明院統)、イギリスでは赤バラ白バラ(ランカスター王家とヨーク王家)。
そしてその詳細は、日本では「太平記」「増鏡」「神皇正統記」と言う名著が残り、イギリスではシェイクスピアの歴史劇として残っています。

日本における南北朝時代は1333年後醍醐天皇が北条氏を倒したときからはじまり、足利義満の時代両朝の統一の1392年までの約60年間、1467年から1477年の応仁の乱など戦乱の日々がつづきました。

イギリスでは1337年から1453年までの1世紀以上、フランスとの間で百年戦争がおこり1455年から1485年にイギリスの内乱であるばら戦争がおきました。

日本における南北朝は大覚寺統と持明院統という皇室の争いから始まりました。結局は足利尊氏と後醍醐天皇という武士と公家の争いになりましたが。また応仁の乱は足利将軍家の跡継ぎ争いです。

シェイクスピアは日本でいうと戦国時代に生きた人でした。太平記の成立は室町時代なので150年から200年の時代差があります。

しかし内容でいうと、王室をめぐり、何代にもわたる戦いにつぐ戦い。裏切り、寝返り。あらゆる意味で太平記とシェイクスピアの歴史劇は似ています。大きく異なるのは、シェイクスピアの歴史劇は時の統治者エリザベス女王に劇を献上していたことであり、太平記は全面的に南北朝への公平な批評精神でかかれており、特に足利政権にことさらかたよった記述はしていないところが特徴です。

イギリスと日本は非常に類似点の多い国です。島国であり、侵略も少なく、清潔で、人口もイギリスでは18世紀前半まで、日本は18世紀後半まで出世率が死亡率を少し上回るところで、安定していました。他地域では人類の急増による、戦争、飢饉、疫病が多発していました。環境のよいなかで、イギリスは意図と偶然の中から、産業革命がおきました。日本は江戸時代から勤、倹、譲の精神で安定した社会を鎖国という閉鎖的な経済のなかでやりくりしてきました。

「クイーンを見て」でも触れましたが、私は97年9月にイギリスとフランスに行きました。ちょうどダイアナ妃がパリで不慮の死を遂げた一ヶ月後です。ちょうど10年経ち、当時の旅行を振り返ってみると、とてもイギリスとフランスの関係を知る上で、貴重なときに、重要な場所に行きました。まず、イギリスではロンドン塔とグリニッジ、バッキンガム宮殿、大英博物館、ウエリントン博物館、ウエストミンスター寺院、ビクトリア駅、中部のレスター市とその郊外にある、リチャード3世終焉の地、ボズワースです。フランスはモンマルトルにベルサイユ宮殿、ルーブル美術館にノルマンディー地方にあるモンサンミッシェルです。

旅行中とても面白かったのが、イギリス人はフランスのノルマンディー公に征服されたことにあまり触れたがらず、フランス人は年中、ノルマンディー公がイングランドを征服したことを、一にもなく二にもなく説明しているところです。

ちなみにフランスに征服された当時、イングランドの支配層はフランス語が日常会話となり、英語に戻ったには1300年代になってからだそうです。

これはけっこうイギリスのトラウマになっていて、その後の英仏百年戦争もこういうことが、根にあったのかもしれません。

ノルマンディーにある、モンサンミッシェル寺院に行ったときですが、「バイユーのタピストリー」の模造品が非常に安価で、寺院への道のおみやげ物やで売っていました。
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(97年9月 バッキンガム宮殿 ダイアナ妃への花束)
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(モンサンミッシェル)
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(バイユーのタピストリーのおみやげもの)

これはノルマンディー公がイングランドを征服したことをタペストリーにしたものです。縦50センチ、横70メートルに及ぶ、壮大な絵巻物で、今でこそフランスの国宝で、バイユー大聖堂に飾ってあるのですが、ナポレオン革命のとき、武器箱の上にかぶせる布として使われていたものを、地元の弁護士が気づいて国宝にしたものだそうです。

これから何回かに分けて、日本とイギリスそしてイギリスとフランスについて考えていきたいと思います。

2008年02月20日

倫敦塔

1997年の旅行記を今書くのは、あれから10年たち、私自身の知識や経験も以前よりは異なっていることです。「クイーン」という映画を見て、当時のことを振り返り、10年たっていろいろ思うところを述べさせていただきます。

まず最初に、ロンドン塔に行きました。当時、死地則戦Ⅲを開発するために取材をかねて行きました。死地則戦にはシェイクスピアの歴史劇が出てきます。夏目漱石も留学してすぐにロンドン塔に行きました。シェイクスピア研究の第1人者である漱石はロンドン塔に行くのは、当然といえば当然でしょう。その経緯が「倫敦塔」に書いてあります。漱石もシェイクスピアが好きで、まずその舞台に行きたかったのでしょう。この文章を書くときに、漱石の「倫敦塔」を読むと、当然ですが、この作家の筆力のすごさに改めて驚きました。しかも私の関心ごとと漱石の関心ごとがぴったり一致していたことには驚きました。

ロンドン塔で印象に残ったのは、なんて冷たい建物なのだろうか、ということです。こんな冷たいところで、生活するイギリス人は本当にストイックだなあ、と感じました。もっとも途中から宮殿というよりは、政治犯の牢獄であった歴史のほうが長いからそういう感じをうけるのも、当然といえば当然でしょう。

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(倫敦塔遠景)

ロンドン塔は、1078年、初代のノルマンディー公ウイリアムがまず、ロンドンを外敵から守るために要塞を建て、歴代の王がその周りに城を築き、ヘンリー3世で今の姿になったそうです。

メルギブソン主演のブレイブハートという映画があるが、スコットランドの英雄ウイリアム・ウォレスが車さきの刑に処されたのもこのロンドン塔だそうです。当時は処刑は見世物でもあり、どうもアングロサクソンの人たちは血が好きなのかもしれません。ロンドン塔からテムズ川を渡る対岸に「ロンドン・ダンジョン」という蝋人形館があり、ロンドンの歴史で処刑のシーン、たとえばスコットランド女王メアリーの処刑シーンや切り裂きジャックの犠牲者の遺体などの蝋人形がこれでもか、というくらい展示されていました。

またリチャード3世で、リチャードが兄王エドワード4世の二人の子供をロンドン塔に幽閉し、殺害して王位を奪った話がありますが、1674年に子供二人の遺体がロンドン塔から出て、その話を裏付けたことで近年話題になりました。こんな冷たい石の部屋に幽閉され、大人に殺された13歳と9歳の子供は本当にふびんだなあと感じました。

ヘンリー8世の鎧は実に巨大でした。いかにヘンリー8世が太っていたかが、わかる様な鎧でした。もっとも漱石はこれをヘンリー6世といっていますが、確かヘンリー8世だと思います。

イギリスの歴史はイングランドとスコットランドとの対立の歴史、スコットランドを併合すると、アイルランドとの闘争が現代までも続く。

エリザベス女王の母、アンブーリンの処刑場は中庭だったそうです。アンブーリンはヘンリー8世の2番目の妻で、キャサリン王妃の侍従でした。ヘンリー8世は6人の妻を持ち、そのうち2人をロンドン塔で処刑しています。もう一人はキャサリンハワードで、処刑の前に刑吏から逃れ、叫びながら逃げ回り、刑吏は3度目で首を落としたそうです。

ロンドン塔は幽霊がでることでも有名です。アンブーリンの首ナシの幽霊やキャサリンハワードの叫び声とかリチャード3世に殺された兄弟の子供の霊がさまよう、といいます。

まあ、これだけ血塗られた歴史なら、そういう逸話がでてくるのもやむをえないでしょう。

この旅行で、私は、フランスでは霊写真をとってしまいました。ノルマンディー地方にあるモンサンミッシェルでです。モンサンミッシェルはこのロンドン塔を建てたウイリアムの曽祖父が、もともとケルト人の聖地であったモン・トンブという島に修道院を建てたのが始まりだそうです。それ以降とくに英仏百年戦争時代はフランスの要塞だったそうです。さぞかしエドワード皇太子やヘンリー5世の時代は、英仏での城の争奪戦で凄惨な現場だったのでしょう。

どんな因果かしりませんが、この写真の壁を写し、そして帰国後、写真屋さんでプリントしたとき、この壁いっぱいに、逆三角形のドラキュラみたいな顔をした修道僧が怖い顔をして写っていました。
けれどもデジタルデータにはこのように写っていませんでした。

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(この壁に怖い修道僧が写っていました)

2010年02月15日

なぜ、今、「ナナミ」なのか。 序章 「韓国に行ったこと」

昨年秋、15年ぶりに韓国に行きました。まず驚いたことは、ソウル市内が見違えるように美しくなったことです。15年前は、高度成長期の日本(路地はごみで汚く、道路は常に渋滞状態で、鉄道などの交通網は当時の日本よりはるかに発達していない)といった印象だったのが、いまやシアトルのような落ち着いた美しい巨大都市、といった様相に変貌していたのです。

さらに驚いたことには、夜、東大門市場にいくと、夜中でもその人の多さ、お店の数、品物のバラエティに富んだこと、今の日本では考えられないほど「消費」する場が活発でした。また値段も安く、ネクタイ200円、洋服が300円、500円とユニクロ顔負けの値段でした。

確かに15年前、まだ韓国では、週休1日で、熱心なサラリーマンは朝6時に来て、自己研鑽し、8時から始業し、夜中12時に帰宅する、というそのモーレツぶりに、本当に驚かされました。まさに1970年ごろの日本を見ているようでした。しかし今や、精神的にも経済的にも日本は韓国に抜かれた感があります。

韓国は、一度は経済破綻をし、IMFの占領下にあったはずなのに、なぜこのように発展しているのでしょうか。このエネルギーは韓国民ひとりひとりの向上心のエネルギーに他なりません。世界一のITインフラを誇り、教育にもITをフルに活用し、失業率は二桁に近く高くても、けっして浮浪者を数多く目にすることもなく、さっそうとたくましく生きている韓国人をみていると、なぜ、みんなこんなに前向きなのだろうか、と不思議に思いました。

その疑問に対する答えは次の日に、見つかりました。観光ツアーでバスで38度線に行ったのです。MDSという非武装地帯は観光地化されており、バスでソウルから1時間のところにありました。検問があり、パスポートをチェックされ、第1師団の場所から、北朝鮮や板門店が見えました。そこは朝鮮戦争の名残が色濃くのこるところで、銃弾でハチの巣だらけのさびた機関車や封鎖された線路などが、松本零二の漫画さながらに雨ざらしで展示されていました。

そのあと、都羅山駅という北朝鮮との往来のある駅(現在は電車は行き来していない)へ行きました。ここはブッシュ大統領も見学に訪れたそうです。この線路は中国北東部を通り、シベリア鉄道につながり、戦前はヨーロッパまでつながっていたそうです。

思えば有史以来、朝鮮半島は、中国、ロシアという大国に囲まれ、日本からもたびたび侵略され、ヨーロッパにおけるポーランドのように、侵略の悲劇が繰り返し行われていた場所なのです。現在、韓国では20歳ぐらいになると(19歳~29歳)、徴兵制度があり、大学を休学してみな兵役につきます。しかも38度線はいつ、何時、戦争が起きて、命を鴻毛のごとく軽く扱われるかわかりません。一緒に同行していただいた韓国ソフト企業の幹部の方も徴兵にいったそうで、南方にいくか38度線にいくかで、その兵役期間のストレスはまったく異なるそうです。幸い彼は南方へ配属されましたが。

直接銃をもって国を守る使命があり、しかもその直接の敵が、60年前までは同じ国の国民なのです。この国の若者たちは、いやでも国家とはなにか、民族とはなにか、ということと命がけで直接向き合わなければならない。

38度線には、北朝鮮が、韓国を攻めるために掘った坑道が20以上もあるという。そのうちいくつか発見され、3番目に発見された第3坑道は、現在観光地化されており、今回、その坑道に潜りました。

非武装地帯を眺めていると、その先に北朝鮮があり、そしてその先には中国とロシアが広大に広がっている。北朝鮮の孤立も、わけのわからない行動も、ある意味大国から独立を守るための必死な選択なのかもしれません。

その点、日本は四方海という深い壕に囲まれた、実にのんきな国家に見ます。日本は戦後、朝鮮戦争や、ベトナム戦争の特需を受けて、奇跡的な復興を遂げ、高度成長を経て世界第2位の経済大国になっていきました。

終戦後に押しつけられた、戦争放棄を謳った日本国憲法は、日本が直接戦争に巻き込まれることを防いできました。もちろん憲法上は違憲状態の境界線のなかで、自衛隊を整備してきたこともその要因には含まれるでしょう。

そういう平和ボケした今の日本は、もっとも国家として危険な状態にあるのではないか、と韓国に来て思います。あまりにも日本国民が鈍感すぎるからです。日本人が尊敬する現存する有名人は芸能人かスポーツ選手。ひとたびこういうテレビに出る人が選挙に立候補するとトップ当選をする。

古代ローマ帝国の衰亡期のきっかけは、コロッセオという競技場が市民に開放され、無料でパンを配り、為政者たちが、市民の人気とりだけに終始したからです。名君マルクスアレリウスの息子コンモデスは、皇帝になるや、暴君となり、落とした評判をコロッセオに出演して1万2千人の剣闘士を殺害して自分の威信を見せつけ、市民の人気とりを行いました。

これ以降、大ローマ帝国は衰退期には入り、市民は国家に対して危機意識を持たないまま、100年後ゲルマン民族の大移動のなかで分裂し、自然消滅的に衰退していったのです。

だからテレビタレントやスポーツ選手を人気取りのために候補者にたてる政治には本当に怒りを覚えます。実際本気で政治をやろうとすれば、今の日本では、軍事力を形式上放棄し、情報機関が弱いので、命がけでしょう。

国際社会である限り、そして最強の国家でない限り、かならず強国の影響を受けます。それは国際社会の最前線にいる政治家や官僚に直接大きな圧力となります。しかしそういう圧力はもちろん報道されることもなければ、国民が知る機会もあまりありません。

ただわれわれにできることは、そういう国で、どう生きるべきか、ということです。憲法を改正して、国防を増強させることも選択枝のひとつかもしれません。しかし1920年代の大恐慌の後、日本がそういう道を選んだことが日本の破滅を生んだことも忘れてはなりません。

私は10月の韓国旅行のあと、このブログの原稿を書いたのでしたが、アップしませんでした。あまりにも日本の将来が絶望的だったからです。韓国の38度線に立って、日本の鈍感さがとても危険に思えたのです。ここに立てば、中国やロシア、そして米国という大国からの威圧を否応なく感じ取れるのです。そして現実には存在するこの危機感が、どうしたら日本人に伝わるのか、どうしたら日本人がまた競争心や向上心を取り戻せるのか、わからなかったのです。

経済力の低下はそのまま国力の低下につながります。このまま日本の凋落が続けば、日本の独立すらも危ぶまれるのではないか。2020年ごろには形の上では独立国でも、実質的には米国、ロシア、中国に分割統治されることもあり得るのではないか・・・・。

しかし、私は、日本という国を大きく見損なっていました。
今の日本はけっして絶望的ではありません。
日本ではすでに十分次世代型ナレッジ社会の萌芽が芽生えていたのです。それは「萌」にヒントがあります。
だから「ナナミ」を作りました。
次のブログをお読みください。(なぜ、今、「ナナミ」なのか。内需拡大は世界の国益 PART2)

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