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体験談 アーカイブ

2007年09月17日

シアトル雑感

 今年5月、マイクロソフト様のご招待でシアトルに行かせていただきました。行きの機内ではなるべく寝ていくつもりだったのですが、自社の「3週間で英語スラスラ」を夢中でやっていたら、時間を忘れ、ほとんど寝られませんでした。3時間では、英語スラスラにはなかなかなりません。でもなかなかいいソフトですよ。

 到着後は、私のような時差ボケ症状を慮ってか、市内視察という粋なスケジュールでした。最初の視察はボーイングの元本社に隣接する航空博物館で、いきなりその過激さ、迫力に面食らいました。ポールケネディの「大国の興亡」を思い出しました。

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(航空博物館)

 1783年独立戦争で勝利したアメリカは、その肥沃な農地と工業で都市が急成長し、賃金は19世紀に入ると西ヨーロッパの3割も高くなり、移民が殺到し、1816年に850万人の人口が1860年には3140万人まで膨れ上がりました。そして20世紀に入るとダントツで世界最大の工業国に躍り出ました。さらに1861年〜1865年の南北戦争で急激に軍事大国へと変身していきました。材木会社を経営していたW.ボーイングが海軍技師ウェスターバレットと作った飛行機会社がボーイングです。どおりで初期の工場は製材所を思わせます。

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 太平洋戦争においては、空軍があるかないかが、日本軍と米軍の戦場の現場で大きな違いとなったようです。そういう意味ではアメリカの繁栄の武器となる、20世紀初頭のボーイングと20世紀後半に設立されたマイクロソフトがともにシアトルにあることは、偶然の一致としては趣き深く感じました。

 さらに面白いのは、博物館の前に妙な合金の塊が大事そうにモニュメントとして飾ってあり、これは日本の三菱とボーイング社で共同開発した合金だそうです。これがつい何日か前に、日本で完成し、シアトルに運ばれ、地元の新聞ではこの合金と日本の技術の賞賛とに6面をさいて特集したそうです。シアトルという街はなぜか職人的なものに敬意を払っているようです。

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 シアトルは大正時代まで、日本人街がありました。というより、シアトルは日本人が作った街でもあるそうです。それが大正から昭和にかけて、移民法が制定され、日本人はシアトルから追い出されてしまいました。日本人の米国への反感はこのとき、大きく顕在化されたそうです。

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(日本人がつくったマーケット)

 明治天皇はサンフランシスコ大地震のとき、かなり多額の私財を、地震の救済のために米国に寄付しました。逆に、関東大震災のとき、米国はさらに多額の寄付を日本にしました。このようなやりとりがあるにもかかわらず、移民法の制定は日米の関係を一途に悪化させました。

 われわれは、相手の国を見るとき、人と同じように、単純化された関係でその国を見ます。しかし、当然のことながら国は多くの人の意思や利益で成り立っているのです。自分たちの国との関係も単純な見方は、正しいものではないでしょう。国を擬人化すること自体危険なことなのかもしれません。

 話を戻します。航空博物館に圧倒されつつシアトル市内に入りました。シアトルは趣のある古い町で、緯度も高いせいかヨーロッパを思わせます。中心街以外は木の高さ以上のビルをつくることを禁じており、また循環社会を標榜していて、この落ち着いた美しい街は本当にアメリカの余裕を感じさせるところでした。白人居住率も70%を超え、アメリカでもっとも白人の割合が多い街だそうです。この街がアメリカのめざす理想の未来都市なのかもしれません。しかしこの静かな、美しいなかに秘められている圧倒的なスケールとパワーは、この博物館に代表される、世界最大の軍事力を背景に、全世界の主導権を握り、全世界を下請け工場と市場にしているアメリカならではの余裕でしょう。

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(シアトル中心部)

 シアトルの中心街でステーキを食べ(時差ボケにはステーキがよいそうです。)ワシントン湖のクルーズに行きました。ここの湖畔にはマイクロソフトのビル・ゲイツをはじめ、アマゾンのジェフ・ベソスなど世界的な富豪の邸宅が並んでいます。「風と共に去りぬ」に出てくるような邸宅が小さく見えるくらい、豪邸が並び、当たり前のようにクルーザーとか水上飛行機とかが置かれていました。

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(クルーザーがあたりまえな豪邸群)

 その後、シアトル郊外のマイクロソフト本社に行きました。ここは「キャンパス」と呼ばれ、木の高さ以上の建物を建ててはならず、なんとマイクロソフトは3階建てのオフィスが200棟近く建っているそうです。一見大学の構内に見えるので通称キャンパスと呼ばれるのです。ここに世界中から優秀な技術者が集まってくるのだから、あらゆるソフトはここで開発が可能なのではと思いました。

 今回の出張のテーマは、いかにマイクロソフトのサードパーティーとしてビジネスができるか、というものでした。マイクロソフトの方向性は「インフラ」です。OSをはじめ、ワープロや表計算、データベースなど汎用的なアプリケーションやソフトはマイクロソフトが作る。日本のソフトベンダーはそれと共存したニッチ、たとえば業種特化したものを作ってください、ということなのです。それが、いかにアメリカという巨大国家と共存して日本が生きるか、ということとリンクしていて大変考えさせられるものでした。

 アメリカは航空博物館に象徴されるように、強大な軍事力を背景に基幹ビジネスを展開していきます。ソフト業界も世界情勢も当分この状況を変えられるものではありません。日本のIT業界は「浮利は追わず」で、地域に根ざし、自分たちが普通に暮らしていけるだけの利益をめざしてビジネスをしていけば、アメリカやアメリカの企業と競争する必要はないのです。そしてそれこそニッチなビジネスを、極めれば、それを世界中に紹介していけばよいのです。

 「浮利は追わず」はもともと住友家の家訓なのですが、お金というものは、汗を流した仕事にしか集まらないのではないでしょうか。ちょうど私が会社を興したころ、一代で会社を上場させた社長さんからお聞きしました。「自分の成功は人のやらないところをやったからだと思う。3K。つまり、きつい、きたない、きけんな仕事に取り組んだからだ」。

 そんなことを思い出した出張でした。

2007年09月29日

リスクと霊感

私は特定の宗教を信仰した経験がありません。ましてや若いころは無神論者でした。フロイスの「日本記」にも、日本の一般の人々は無神論者が多いと書かれております。年とともにすこしずつ、神社でもお寺でも教会でも、手を合わせるようになりました。漠然とではありますが、若いころから、どうも経営者といわれる人は宗教に入ったり、神がかり的な人が多いなあ、と思っていました。
また日本にはいたるところに神社仏閣があります。ほんとうに昔の人は神様が好きだな、とも思います。ただ、昔は科学が発達していなかったから仕方がないかな、とも感じました。

ところが最近、もしかして、危険に近いところにいる人間ほど、神や霊の存在を感じるのかな、とはたと気づいたのです。
そう、それは25年前のことです。
私は大学でワンダーフォーゲル部に所属していました。毎年ワンゲルでは夏合宿を行いますが、私は北海道の日高山脈ばかり登っていました。当時の日高はまだまったく開拓されておらず、「ここが日本か」と思うぐらい未開の地でした。登山道はすぐに藪でおおわれ、多くは道らしき道もなく、沢づたいに山を登り、尾根からは見渡す限り人家はなく、ここで怪我でもして歩けなくなれば、1 週間は救援隊がくるのを待たなければならないだろう、というようなところです。

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(日高山脈の尾根)

熊と出くわしたこともあります。雨の中で後輩が倒れ、動けなくなったり、岩場から転げ落ちたことも何度かあります。谷にかかる雪渓はいつ落ちるかわからず、その上を歩くか、その下をくぐるか選択して渡らなければなりません。まさに地雷原を、命をかけて歩くようなものです。こんな厳しい自然の中で山脈を踏破しようとなると、それはもう体力も精神力もぎりぎりのところでした。

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(雪渓を登る)

そんな環境の中に2週間もいると、厳しい自然の機嫌が伝わってきます。自然が絶対的な神に見えてくるのです。五感以外の第六感というものが本当についてきたように感じるのです。たとえば夜中、どんなに熟睡していても、動物がテントに近づく気配を察して飛び起きたり、滑落しても気を失いながら、崖の木の枝をつかんでいたり、それは都会の中にはない感覚や能力が備わります。そうなると、さまざまな厳しい自然の危険から身を守り、生き抜くことができます。

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(日高山脈)
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(七ノ沢カールにて)

5年前、出張のついでに土日を利用して、20年ぶりに日高に行きました。当時と変わらず、道は狭くなり、砂利になり、藪が覆い、人の気配もありませんでした。しばらくすると、当時の野性的な感性を思い出してきました。ところが、驚いたことにこの感性は、ここ最近、自分のなかにある経営者の感性に大変似ているのです。今の自分が、日高の自然以上に厳しい環境におかれているからかもしれません。
会社を興して以来、自分にとって大きなリスクをしょって会社を経営してきたことは、縄文人に戻るのかもしれない。昔はまったくの無神論者だった私が、今は特定の宗教はないけれど、神社や教会やお寺に行くと、敬虔な気持ちで手を合わせます。自分が日々社会に活かされていることを感謝します。

会社営むことと、会社に属して働くことのもっとも大きな違いは、藪の中に道を作るか、人の作った道を役目をもって通るか、の違いです。これはどちらがよいか、えらいか、という問題ではありません。役割の問題です。藪の中に道を作る人は、自分自身は、仕事ができなくてもよいのです。正確に危険を回避して道をつくる能力が必要なだけです。これこそ縄文人的能力、すなわちより強力な第六感をもっていなければならないのではないでしょうか。

理論どおりにビジネスが成功すれば、経営学者が一番成功するはずです。第六感は大きなリスクのなかでしか芽生えません。危機に敏感であると同時にプレッシャーに強いなど、生まれつきのものもあると思います。会社を興すためには、ビジネスモデルでの理論上の成立は当たり前であり、それでも成功率は3割でしょう。その3割に入るのは、経営者としての第六感と強力な「運」が必要になるでしょう。ビジネスをはじめたら何とかなる、と考えるのは、船の上から冬の海に飛び込むようなものです。暖かい船の上にいると、なんとか泳げそう、と思うのですが、実際冬の海にとびこむと、あまりの寒さにみるみる体が動かなくなり、薄れゆく意識のなかで暗い海の底に沈んでいくのです。私はなんどもそういう人たちを見てきました。

経営者でなくても責任感の強いリーダーや学者、文化人にはそういう第六感を持っている人は数多くいます。評論家の神様といわれる小林秀雄は、まさにその代表格でしょう。
その文章のなかでは、直接的に霊や神に言及することはほとんどありませんでしたが、講演のなかでは、常に霊の存在に触れていました。「神様がいるかって?いるに決まっているじゃないか」とその流暢なべらんめいで語ります。経営者はリスクを負う環境になるので、凡人でも神を感じるのでしょうけれど、そういう環境になくても感じられる人々はまさに天才なのでしょう。

そういう観点からすると、昔のその土地土地の為政者たちは大変なプレッシャーのなかにあったと思います。いつ殺されるか、いつ戦争で一族が滅亡するか、つねに命の危険にさらされているのですから。為政者たちが競って神社仏閣を建てるのは、科学が発達していなかったからではなく、常に危機と隣りあわせだったために神を感じられたから、なのでしょう。そういう観点からあらためて神社仏閣を見ると、時代時代の為政者たちの一族を率いる責任感とその重圧、恐怖がじかに伝わってきそうです。

2008年01月24日

旭山動物園の奇跡

 先日、旭山動物園にいきました。旭川という辺境の地にあるこの動物園が、上野動物園の入場者数を越えたというニュースは、よほど特別なものがあるのだろうと想像していました。しかしいざいってみると、普通の動物園なのです。規模でいえば、けっして大きい動物園ではありません。埼玉の坂戸にある県立動物園のほうがはるかに規模は大きい。むしろシンプルな動物園です。しかし3時間という短い時間ではありましたが、実に、どの檻でも動物のドラマティックな動きを目にすることができました。

 まずチンパンジーは折の中を実に活発に飛び回っていました。高いところから飛び降りたり、実に俊敏に動いているのです。

白熊はとても美しく、上野動物園でみた白熊は毛などもぬけてとても汚かったので、旭川の白熊が活発にぐるぐる回っているのはとても感動的でした。以前雑誌で、この動物園の白熊が柱の陰から観客席を覗いている写真があり、白熊から見ると人間は水に浮かんだアザラシのように見えて、食べるために狙っている、と記事にあり、それがとってもユニークに感じたのを思い出しました。
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ゴマアザラシはとても毛並みも美しく、気持ちよさそうにのびのびと泳いでいて、しみじみゴマちゃんは泳ぐのが本当にすきなのだなあ、と時間のたつのも忘れて見入っていました。

トラにいたっては本当に活発で、人間が見ているところをいったりきたりして、足を上げたり、ほえていて、ガラスを隔てていても、小さい子供はおびえるぐらい迫力がありました。
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ペンギンもいきいき泳いだり、陸地であるいたりしていて、なんとはじめて交尾も見ることができました。それも3カップルぐらいしているのです。

アムールひょうはおりの上にいっぴきねむっていましたが、そこへ別のしろひょうがくると仲間争いの威嚇をはじめました。檻の下から観察ができるので、下からそのバトルをみると、その臨場感にとても迫力がありました。
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最初、これらの動態は客の前で、見せるしぐさをしているように調教されているのかと思いました。そのくらい、どの檻も動物はその野生の活発な姿を観客に魅せます。ところがこれは行動展示といって動物の自主性や自由度を増す工夫で檻を設計したり、飼育をした結果なのだそうです。

たとえば先ほど述べた白熊の展示にしても、本来人間に見られるだけでストレスになるものを、人間をエサにみえるようなしかけにすれば、白熊にとってドーパミン?が出て、常に生き生きと野生的でいられるでしょう。

このノウハウが動物を生き生きと活動をはじめさせ、結果、日本一の動物園になってしまった、ということのようです。私もこうも生き生きとしている、美しい動物を見ていると、とても元気になる気がしました。いままで私は動物園は苦手で、臭いし、汚いし、いつも隅っこで寝ているし、なにが面白いのだろう、と思っていました。どうも都会という檻のなかで、仕事や生活や人間関係に追われている自分のいやな部分と重なっていたのかもしれません。

旭山動物園のホームページで園長は行動展示を、「野生動物の特徴的な行動を展示することによって観察者に特徴的形態の意味が分かって貰えるし,何よりも野生動物そのものに感動して貰うことである」ということであり、「すべての行動は動物たちの意志でなければなりません。強制するようなことがあっては絶対に駄目」と言っていました。

 今回、私はこの動物園のプロモーションという観点に興味がありました。なぜこの偏狭な地にある、つぶれかけた動物園が、見る見る日本全国で旋風を巻き起こしたか、どういうプロモーションのからくりがあるのか、ということです。

しかし初めて訪れて、これはプロモーションという小手先のものでないことがよくわかりました。この動物園がこれほどブームになるのは、抑圧された現代人の一服の清涼剤になっているのではないでしょうか。それは心の阻害と人間不信と管理されつづける今日の社会への警笛なのかもしれません。檻のなかにいないのにもかかわらず、檻にはいった動物のように日々のしがらみに元気のないわれわれは、やはり自主性や自由を回復し、生き生き生きられる工夫をしなければならないのではないでしょうか。
旭山動物園の行動展示は動物をいきいきとさせる「システム」を作ったのです。

われわれも自主的で個性を活かせるシステムを仕事上で工夫しなければならないと思います。

「則天」はそういったことを目指して開発しているシステムです。
2年間利用した社員の声をご紹介します。

開発部:一つ一つの業務は別々のようですが、過去の何かしらの業務とつながっていることも少なくありません。以前の状況を振り返ることで、現在直面している業務がこなし易くなることもあるのではないでしょうか。

開発部:当時の状況を詳しく思い出したい時に結構活用しています。また、今後も必要な作業手順を、専門スキルに記録できるので便利です。

総務部:掲示板があるので、意見を言いやすくなり、会社に参加している意識が高まったと思います。

営業部:私が主に使用している機能は、日報や業務の詳細、掲示板機能です。これだけでも、自己管理と組織とのつながりが明確になり、便利です。

2008年02月03日

陵王の舞

北畠顕家を、もう少し紹介させていただきます。顕家が歴史上はじめて登場するのは増鏡です。1331年3月、後醍醐天皇が北山(今の金閣寺、中宮の実家)へ行幸の折、宴会で顕家が陵王の舞を舞い、それが実にけなげであった、と記されています。顕家13歳の時でした。
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「暮れかかるころ、桜の花の木の間に、夕日が華やかにうつろい、山の鳥もしきりに鳴いて、陵王の舞人が輝くような美しさで舞い出でてきたのは、ほんとうにすばらしい光景でありました。そのとき、天皇も御引直衣(ひきのうし)で椅子に座り、笛を吹かれました。いつもよりさらに雲井までに響いておりました。その舞人、宰相中將顯家は陵王の入綾を実に見事に妙技を尽くして退場するのを、お上は呼び返し、前関白に自らの紅梅の表着・二色の衣を渡させました。顯家はその衣を左の肩にかけ、少し舞って退場しました。右大臣が太鼓を打ち、その後源中納言具行(北畠具行、顕家の叔父)が採桑老を舞いました。具行も紅の衣をお上からいただきました。」(増鏡 下 北山行幸)

陵王の舞とは昔、中国の北斉に蘭陵王で知られる将軍がいました。眉目秀麗な名将であった蘭陵王が、美貌を獰猛な仮面に隠し、戦に挑み見事大勝したため、兵たちが喜んでその勇士を歌に歌ったのが曲の由来とされています。しかし陵王は謀反の嫌疑をかけられ、粛清されてしまいます。

粛清まではされなかったものの、その後の顕家の運命を暗示させる舞いでした。

話は飛びますが、1991年NHKの大河ドラマ「太平記」で後藤久美子が顕家を演じていました。このときの舞も桜の季節で、ちょうど顕家の舞から660年前になります。神武暦と西暦は660年だから1331年当時は神武暦1991年になるのです。ちょっとした偶然です。16歳までは学問と芸術にのみ従事し、建武の親政になるや否や、いままで訓練もしたことのない弓矢を持たされて、いきなり氾濫で荒れ狂う東北の地へ放り込まれたのです。ところが不思議なことに武家の棟梁である北条氏も持て余した東恵比寿たちを,舞のほうが似合っている公家のいたいけな少年が治めてしまったのです。それはそれは苦労したでしょう。その苦労は前回ご紹介した遺書ともとれる奏文にあります。

「小臣、もと書巻を執りて軍旅の事を知らず。忝(かたじけな)くも ふっ詔(しょう)を承り、艱難の中に跋渉(ばっしょう)す。再び大軍を挙げて命を鴻毛に斉(ひとし)うす。幾度か挑み戦いて身を虎口に脱(のが)れし、私を忘れて君を思い、悪を却け正に帰せんと欲するの故なり。」(顕家奏文 7条)

(私はもともと文官であり、軍事の知識はまったくありませんでした。しかしもったいなくも
お上よりの命令をいただき、困難の中を、山を乗り越え、水の中をわたりまくりました。大軍を挙げて鴻毛のごとく何度も危ない目に会いました。私心を捨てて、君を思い、悪を退け正義をとりもどそうとしたいからこそ、なんども身を虎口に逃れる羽目になっても、幾度も大きな敵に戦い挑んできたのです。)

NHKの大河ドラマで太平記を見ていたのは私が31歳のころでした。ちょうど今のメディアファイブをつくるきっかけとなる、教育ソフトビジネス研究会のコンソーシアムを、当時勤めていたシンクタンクで立ち上げて、1週間に3日徹夜していました。今のメディアファイブの教育ソフトのラインナップは当時の構想がベースとなっています。あまりの無理がたたり、私は網膜はく離になってしまいました。そして5月22日に入院し、すぐに手術をし、6月9日の日曜日、つまり私の誕生日に目は包帯をしていてほとんど見えなかったので、顕家の戦死のシーンを病院の大部屋のベットで、イヤホンをテレビにつなげて聞いていました。

その次の日6月10日は、前回も申しましたが、旧暦に直すと5月22日、顕家の命日なのです。
NHKがわざと顕家の命日を意識して、戦死のシーンをこの日にしたかどうかは定かではありませんが。

世の中万事塞翁が馬

先日、母校である埼玉大学の授業で話す機会がありました。自分の出た研究室の三輪先生に挨拶にお伺いしたら、ちょうど今教養部で(1年生)「社会を覗く」、とかいう授業をやっていて、地元の中小企業に就職するのも面白いぞ、という講義をしており、ちょうど君はそれに当てはまるから、少し授業で話してくれないか、とおっしゃいました。私は社員募集のお願いに来たものだから、是非話をさせてください、と二つ返事で引き受けました。

話は、自分がなぜこの大学に入り、学び、就職し、今日に至ったか、そして今日の自分がいかに偶然の重なりの上にたっているか、ということです。そもそも学生でおもいつく職業は限られていて、学生時代の将来の志望なぞあてになるもではありません。
その辺のところをお話させていただきました。下記の内容は話した内容をもう少し詳しく言及しています。

私は高校時代、いわゆる「文学少年」でした。1年生のとき剣道部をやめてから、毎日の生活は、学校の登下校時は文庫本を読み、家に帰ると古典全集を読み、フルートとピアノを弾き、剣道の素振りを3千回おこなう、というのが日課の変な高校生でした。ただ数学だけは好きで、大学への数学だけは毎日解いていました。白いノートに鉛筆で解答を書くことがとても面白かったのです。

とにかくうだつのあがらない、変な文学少年であった私は、一生本を読んで、フルートを吹いて人間関係のしがらみから離れた,哲学者ショウペンハウエルのような人生を送ることを夢見ていました。そこで最初は三島由紀夫の「午後の曳航」という小説にあこがれて船乗りになろうと思い、商船大学を目指そうと、理系に入ったのですが、入試の応募条件が視力1.0以上でないとダメ、ということで、あきらめました。次に北杜夫のドクトルマンボウ航海記を読んで、船医になろうと医学部を目指しましたが、当時医学部は受験ブームで、最難関で、学力が追いつきませんでした。音楽大学を目指そうとも思いましたが、それほど才能があるとも思えず、結局将来やりたいこともわからず、聞こえのよさそうな大学をミーハーに受けては落ちて、そうこうしているうちに2浪目に突入しました。そして受験科目が私の得意な数学と国語、という理由だけで埼玉大学の教育学部を受けました。当時校内暴力に中学、高校は荒廃していて、そのような中にいくのはいやだ、と思い、小学校国語を第1志望にしました。なにか劇団ひとりのエッセイのようになってきましたが、高校時代から大学にかけて、私は世の中すべてから否定されている感覚がありました。ただただ自分の文学や勉強の世界だけが自由だと思っていたのです。

大学1年のとき、一般教養科目で、数人でおこなう授業がありました。なぜかそこで法学特別講義に参加しました。ここではハンスケルゼンというドイツの法哲学者の「民主主義と国家」という英文テキストを数人で勉強しました。もともと数学が好きだった私は法学の、論理を組み立てる学問にたちまち魅了されました。ただちに長尾龍一先生が訳されたケルゼン全集を買いあさり、読み始めました。そして単純にも、法律がこんなに面白いのならば、弁護士になろうと考え、高い通信教育講座の教材を親に買わせました。しかし3日坊主とまではいかなかったものの、3ヶ月ぐらいで放り出してしまいました。

大学2年になり、教育学部の法学特講を受け、社会科に転科しようと思い、試験を受け、3年から三輪先生の法学研究室に入りました。当時、社会科学分野は経済学、倫理学、法学、社会学の4分野あり、合同合宿もあり、みんな議論ばかりしていました。法学研究室のテーマは終戦後の新憲法制定から始まり、高度成長期の法的問題、改憲問題、そして著作権法の改正問題などでした。

肝心の教育学部の授業は当時あまり興味がわかず、睡眠学習でした。ただ教育学部の必須の授業は出欠をとるものが多く、授業には出席しました。当時家庭教師をいくつもかけもちをしており、妙に具体的にあの子にこう教えようか、ああ教えようかと、知行合一的に身についたようです。

また小学校課程だったので、全教科を授業で学ばなければなりませんでした。しかし当時の授業を受けたことは、教育ソフトのプロデュースをしている今日、大変重要な私の財産になったのでした。卒論は憲法変遷論でした。このことについては別途また書きます。

クラブはジャズ研とワンダーフォーゲル部に入りました。最初剣道部に入ったのですが、2浪がたたり、閉ざされたくさい空間で4年すごすのが嫌になり、ワンゲルに変えました。だいたい昼ごろ学校に来て、昼食をワンゲルの部員がたむろしている第2生協に行き、研究室の授業がなければ、マージャンをするか、図書館でレポートを書いているか、デートをしているか。夕方からは家庭教師のバイトか、ワンゲルのトレーニングか、ジャズ研の練習にもときどき顔を出していました。ワンゲルのトレーニングはマラソンとサッカーでした。ワンゲルの当時の部長は中村次郎先生で、教育工学の大家であり、今や中村次郎賞なるものがあります。

研究室でのテーマは憲法制定過程の検証、戦後高度成長期の政策、憲法改正、著作権法の改正などでした。著作権法の改正は、当時、通産省と文化庁で、コンピュータプログラムの著作権の権利の範囲をめぐり、論争が活発化されていました。通産省はプログラムの進歩には著作権をある程度弱くしなければならない、と主張し、文化庁はプログラムの著作権を厳格に保護すべきだ、という主張でした。結論からすると、当時日本メーカーによる、IBMのメインフレームのプログラムコピー問題が大問題となり、米国の圧力で文化庁の案が採択されました。このとき高度情報化社会について徹底的にしらべ、僕は
ネット社会では直接民主制をはじめ、今日の社会の弊害を取り除けるのではないか、という希望をもちました。ネット革命論なる論文を書いたのを覚えています。ネット社会になれば、いろいろな社会の矛盾も解消し、人間性豊かな社会を実現できるのではないか、という内容でした。今自分がやっていることはこのときの構想がベースになっています。それで、いまやっているプロジェクトを「NextRevolution」となずけているのです。その当時の内容についても別の機会でお話します。

当時研究室では、三輪先生の方針で、本や資料にこだわることなく自由にみんなで議論しました。社会科学分野なので、経済学研究室、社会学研究室、倫理学研究室と合同でゼミや合宿をすることもありました。いろいろな視点から同じテーマを議論しあうのはとても楽しく勉強になりました。とにかく議論ばかりの大変活気のあるゼミでした。この4年間は大変私の財産になりました。

まあクラブを掛け持ちし、好き勝手に勉強したり、マージャンもよくよくやっていたので、1年のときは9単位、2年のときは22単位しか取れませんでした。3年、4年であとの全単位を奇跡的にとり、一応外資系の保険会社にも内定はしたのですが、ちょうど秋も深まる11月ごろ、学務から一本の電話がありました。「あのう、一般教養で単位が1単位足りないのです。」私は学校にすぐに飛んで行きました。なんと一般教養科目で「心理学」が必修なのに、間違えて「倫理学」をとってしまっていたのです。目の前が真っ暗になりました。しかし結局、国立大学では、単位のお目こぼしは「法律違反」となるので、留年になりました。

まあ仕方なく留年になったのですが、2浪1留ではどこの企業にも入れない、と落ち込みました。ならば学科試験のあるところを狙おう、ともちろん教育学部だったので、小学校の採用試験、国家上級試験、新聞社などいろいろ受けたのですが、全部落ちました。ただ一箇所ひっかかったのが、コナミというゲーム会社でした。いまやコナミはゲームソフトのトップ企業として大企業になってしまいましたが、当時はまだ60人の社員に60人のわれわれ新入社員がはいったくらいの会社だったのです。会社説明でカスタムLSIとかなんとか説明があるのですが、なにをやる会社なのか、僕にはさっぱりわかりませんでした。
最初に配属されたのは本社の総務部でした。もちろん不動産の管理、文書の管理、いろいろな雑務もやるのですが、文書管理規定をつくったり、食堂の赤字を減らしたりとか、当時、コナミは大阪新2部という今でいうマザーズのようなところに上場していて、公募増資の準備や株主総会の手伝い、マーケティングなどもやらさせていただきました。総務部の男は課長と自分しかいなかったので、しかも私がいたこの3年で1部上場までいったのですから、本当にダイナミックで勉強になりました。

しかし2年目になると、早く東京に戻りたいために、営業を志望し、東京の営業本部に行きました。そこでパソコンゲームソフトの販売を担当したのです。今メディアファイブの主力であるパッケージソフトビジネスはここで覚えたことがベースとなっています。ソフトバンクさんとのお付き合いもこのときからです。当時のソフトバンクはまだ100人たらずで、まさか今のような日本を代表する企業になるとは夢にも思いませんでした。あれから23年、毎年ソフトバンクさんにお伺いするたびに、巨大化し、一流化、グローバル化していくさまは本当に驚嘆でした。最もコナミの急成長振りも同様ですが。コナミもソフトバンクも日本を代表する天才IT経営者で、身近でその手法を実感できたことは私にとって本当に幸運でした。

営業ではよく土日に家電量販店の店頭でゲーム大会を開きました。当時、コナミの主力商品である「グラディウス2」「サラマンダ」は大変な人気で、店頭でイベントをすると大変多くの子供たちが集まってきました。ゲームをチャンレンジして失敗するとまた後列に並びなおし、グラディウスの絵が書かれているテレホンカードをとれるまで何回でもチャレンジする子が本当に多かったです。私はこの有様を見て、このゲームに学習する機能がついたら、どれだけ子供たちは勉強がすきになるだろう、と強く思いました。それが教育ソフトに携わりたい最初の動機でもありました。しかしコナミは当時教育ソフトプロジェクトを撤退する方向であり、私は、これは一社で開発するのは難しい、と考え、今の日本総研の前身である「住友ビジネスコンサルティング」というところを応募しました。

「住友ビジコン」は当時、住友グループのシンクタンク的存在で、私のキャリアではとても入れなかったでしょうが、ちょうどバブルの絶頂期であり、ソフト化ということが注目されていて、当時の総合研究部長が非常に柔軟な方でもあって、奇跡的に合格しました。まあいわゆるバブル転職組です。

入ると、すぐに4週間の宿泊研修がありました。ここで、経営コンサルティングするためのあらゆるノウハウを学びました。人事管理、簿記、会計、思考法、ディベート、プレゼンテーション、生産管理、システム、マーケティング、貿易、経営、組織論などなど。MBAんの2年間でやるようなことを4週間で凝縮してやるので、本当にハードでした。しかし寝る前になると皆で議論し、本当に楽しい研修でした。立場や専門の異なる優秀な人たちとの議論は本当に勉強になります。しかし、振り返ると、埼玉大学での研究室での4年間も、議論ベースで皆が勉強し、田舎の大学ながら、すごいものがあったなあ、といまさらながら思いました。

最初についたリーダーは三石玲子氏でした。昨年残念ながら50歳の若さでお亡くなりになりましたが、これまた三石玲子賞なるものができるほどインターネットの世界では有名なかたです。当時はカードの専門家でした。なぜ僕は、パソコンソフトビジネスを行うために入ってきたのに、カードビジネスを手伝わなければいけないのか、と内心不満をもっていたのですが、今考えると、三石さんに指導していただき、非常に贅沢で、ありがたいことでした。もっとも彼女がご存命でおられたら、あまりそんなことを考えなかったのですが。

私は当時いろいろな人にお世話になったのに、本当に若気のいたりで不義理をしました。今の若い人でやはり自分の都合ばかり考えている人もたまに見かけますが、自分のことを振り返ると、まったく人のことは言えず、赤面の至りです。ただもしもっと自分に徳や義理があれば、今の状況はもっとよいものになっていたでしょう。

彼女が常日頃おっしゃっていたことは「背伸びしてはだめ。なにごとも基本が大事。」「ライフスタイルで考えること」「もっとよく考えなさい。世の中はそんなに甘くはないのよ」でした。

最近では彼女の書かれたものを手元に置き、いろいろ仕事に迷うと本を手にとってぺらぺらめくっているのですが、いつもそんな声が聞こえてきそうです。

メディアファイブは住友ビジコン時代に生まれました。その詳細は次の「メディアファイブ創業秘話」に書きますが、98年までの5年間は、会社の了解を得て、二束のわらじをはいていました。

95年、住友ビジコンは住友銀行と日本情報サービスと合併し、日本総研にかわりました。いまでは日本最大級のシンクタンクだそうです。

私はまだ発展途上にあり、成功を語る資格はありません。しかし周囲の成功された方を見ていると、世の中に成功術なる術はないと思います。ドラゴン桜は人の作った入試だから、それを突破する術はあるでしょう。でも人為の及ばぬ社会や人の一生に、こうすれば確実に成功する、という術はあろうはずもありません。誰が阪神大震災を予想しました?だれがバブルの崩壊を予想しました?だれが911を予想しました?現実は小説より奇なり、といいます。

今昔物語に「谷底に落ちても平茸をとる話」というのがあります。信濃の国司が任官から京へ帰る途中、山中でがけから落ちました。崖下から縄をおろせ、と声がするので、家来が言われたとおりにすると、こんどは引き上げろ、という。家来が引き上げてみると、中にきのこをいっぱい抱えながら、国司が乗っていました。そして「受領(国司)は倒れても土をつかめというではないか」と涼しい顔でいいはなったという話です。中学校の教科書などにのっていた話でご存知の方も多いと思います。成功のエッセンスはこういうところにあるのではないでしょうか。

私は最近数多くの成功している経営者に会う機会が増えましたが、成功している人の共通点は、素直で、与えられたチャンスや義務に誠実に、精一杯取り組み、失敗や不幸にも誠実に、精一杯乗り越えて、それをプラスに活かそうとしています。そして一生懸命、目の前のことを一つ一つ取り組んでいながら、すこしずつ自分の天命が理解できるようになっていくようです。

反対に失敗する人の共通点はどこか斜に構え、策略や陰謀を好み、自分だけが得することばかり考え、目先の判断で自分の人生を変えていこうとすることです。

世の中万事塞翁が馬とはよく言ったものです。それが成功の秘訣なのかもしれません。

メディアファイブ誕生秘話

それはある、研究会から始まりました。当時、住友ビジコン総合研究部(現日本総研)に属していた私は大手ハードメーカーや大学と組んで教育ソフトの研究会を主宰していました。そこに堺の教材会社の社長さんが参加しておりました。そしてそれがご縁で、その教材会社の新規事業のコンサルテーションをさせていただくことになりました。教育ソフトの開発です。初めてその会社にお邪魔してその帰り道、偶然に私と同じ苗字の地名を見つけました。そして北畠公園というのを見つけました。その奥にお墓があり、公園の3分の一をその墓の囲いで占められていました。柵の扉がしまっていたのでその前でなんとなく手を合わせながら、ひょっとしてこのコンサルティングが自分の人生を大きく変えるかもしれない、と予感しました。その墓は北畠顕家の墓でした。

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(北畠公園 顕家の墓)

顕家のことは、福島県岩瀬郡にある父の実家の村の会報誌や、父の話で知っていました。ただなぜかそのことは実家の方たちは、皆あまり話したがりませんでした。無関心なだけだったからかもしれませんが。

顕家は1318年に後醍醐天皇の側近である北畠親房の長子として生まれました。北畠家は村上源氏庶流であり、和漢をつかさどる家とされていました。以前玄象という能について書きましたが、そのなかで村上天皇が登場しています。その村上天皇を祖とし、臣下にくだされた家系が村上源氏の流れです。まあ今で言うと文部省と文化庁をあわせた役所の役人ということでしょう。顕家は1338年5月22日(旧暦)に足利尊氏方の高師直に堺の石津で討たれました。そして阿倍野の、今は公園になっているこの場所に葬られたそうです。

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(堺 石津川)
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(顕家慰霊塔 石津川ほとり)

教育ソフトの研究会は任天堂のスーパーファミコンがCD-ROMプレーヤーを出す予定にしていたので、そのフォーマットで出すことを念頭においた研究会でした。ところ任天堂は、CD-ROMプレーヤーのOEMを受け持つソニーとけんか別れし(その結果ソニーはプレーステーションを出したのです)、教育ソフトの研究会も存続の意味がなくなりました。そこで堺の教材会社の社長さんが、せっかくここまで研究してきたのだから、教育ソフトの専門の会社を作ろうよ、とおっしゃっていただき、私の勤めていた会社の了解もとり、メディアファイブは誕生しました。

ちょうど父が建設会社を役員定年で退職したのをきっかけに、社長に就任してもらいました。当初、父とは本当にぶつかりました。建設会社とソフト会社では、その経営手法が正反対だったからです。ソフト会社は大きな投資はあまり必要なく、当初、私は銀行との付き合いをあまり重要なものとは思ってませんでした。しかし父は、もちろん建設会社時代から、銀行との関係づくりを重視していました。私は当時そんな父を見て、ソフトビジネスがまったくわかっていないな、と思っていましたが、それが大変な思い違いであることを8年後に思い知らされました。2001年の9.11のときです。株価は半分になり、上場していた家電メーカーが一斉に翌年の3月に大量の商品の返品をしてきたのです。社内の社員の造反にもあい、3分の1の社員に退職され、しかも同じような会社をつくって妨害もされ、有効な手もなかなか打てず、その次の年から2年間連続して赤字を出してしまいました。こんなとき、日ごろから銀行との付き合いから、当社は運転資金に余裕があったので、のりこえることができました。世の中は本当になにがおこるかはわかりません。会社とは自分とのタイプの違い、年齢も異なるさまざまなタイプの人間がチームワークで働くことが大切であることをそのとき、しみじみ感じました。

会社登記は1993年11月25日です。実はこの日も偶然があります。先日お話した建武の親政は神武暦1993年5月22日に鎌倉幕府滅亡とともに誕生しました。神武暦1993年11月25日は顕家が陸奥将軍として仙台の近くにある多賀城についたころなのです。つまり顕家が歴史に登場する日なのです。

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(多賀城)

当時、私は歴史にはまったく興味がありませんでした。記憶力の悪い私は、大学受験の共通一次試験も最初理系志望だったこともあって、社会は倫社・政経を選択しました。ところが歴史にのめりこむようになったのは次のようなことがきっかけでした。

堺の教材会社でコンサルティングは始まり、まずどのような教科から作ろうか、ということのミーティングで、パソコンで学習するメリットをチェックしました。すると歴史は、授業などでもまず四大文明があり、縄文時代があり、奈良時代があり・・・と教科書で勉強すると、時間軸、空間軸がめちゃくちゃで、よくわかりませんでした。私は、そもそも、なんでもう終わったことを覚えなければならないのか、特に年代を覚えるなんてナンセンスだとずっと考えてきました。しかし時間軸、空間軸を整理し、時代と世界の流れを立体的に把握できれば、歴史からなにか発見できるものがあるのではないか、とそのとき感じました。

時間軸、空間軸で歴史を立体的に把握することは、本で読むのではできないことですし、しかも小・中学校だけでなく、一般の人にも教養ソフトとして販売できるので、そのような歴史のソフトを作ることになりました。それがメディアファイブで最初に開発した「ワールドヒストリー」です。ただ私は当時歴史をまったく知らなかったので困りました。本当に一から勉強しながらこのソフトを作成していったのです。

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(ワールドヒストリー)

そこで、一冊の本に出会いました。ポールケネディの「大陸の興亡」です。1500年から2000年までの大国、ヨーロッパ諸国、中国、日本、米国の経済と軍事行動の相関関係を的確につづったものです。とくに驚いたのは、中世では、中国文明がものすごく発達しており、活字による印刷が発達し、大量の書物が出回り、古くから大きな図書館がいくつもあったことです。11世紀末には7世紀あとの産業革命時のイギリスをはるかにしのぐ製鉄を生産していました。活版印刷の発明は学問を広め、広く全国から秀才を集め、官吏を登用し、その権限が強化され、それが国を富ます原動力になっている例として明王朝が栄えたことは特筆すべきことでしょう。

しかし明王朝も時間がたつにつれ、マイナスの部分も出てくるようになりました。1400年代に入ると中国も世界に目を向け、鄭和をはじめ遠征が盛んに行われました。彼らはヨーロッパの遠征者とちがって、各地の住民を略奪したり、殺傷したりはしませんでした。しかし再びモンゴルの脅威が増大してくると、そこにまわす資金を節約するために、遠洋航海は禁止されました。儒者による保守的な官僚体制は軍需を嫌い、市場経済が栄えるのを嫌い、その結果、派手な商人に干渉して財産を没収したり、軍需を切り詰めて、万里の長城などハコモノの需要創造をおこなって失業対策したり、まるで今日のどこかの国とそっくりなことをしていたのです。

もちろん功罪はありますが、400年にわたる白人優位の時代が続くのは、彼らが常にグローバル戦略をとり続けてきたことにあります。先日の、知事との懇談会でも申しましたが、日本の中小企業の最大の課題はグローバル戦略です。あの世界最強の企業、トヨタでさえも日本国内は売り上げに苦戦しているのです。

メディアファイブも、今後の中心課題はグローバル戦略です。当社のパテントは米国特許や国際特許を中心にとっております。教育こそ日本が海外に誇れるノウハウであり、グローバル化できる切り札と考えています。人材育成型グループウエア「則天」や、多機能学習ソフト「メディアファイブ プレミア」は、これだけのソフトはまだ存在しておりません。

今の日本を見ていると、この先は明の衰亡と同じ道をたどれるのではないか、と強く感じてしまいます。
経営者と政治家の懇親会でも、経営者たちはハコモノを要求します。おそらくすぐに自分たちのビジネスに直結するからでしょう。しかしなによりも今、中小企業の経営者が手がけなければならないことはグローバル化だと思います。そういう私もけっして英語が得意ではありません。自社の「英語すらすら」を、思い出しては三日坊主で英語日記をつけている体たらくです。でも英語で日記をつけ、ワードチェックをしてもらい、それを音声読み上げファイルに落とし、携帯電話やiPODに入れて持ち歩き、時間のあるときに聞いたりするのは、結構英語の即戦力になると思います。みなさんも一度お試しください。

話を元に戻しますが、私はこの「ワールドヒストリー」の製作を通じて、歴史を学ぶ意義がはじめてわかりました。いつの時代も人間は当然一生懸命に生き、様々な判断や選択で歴史的な結果になるのです。歴史を勉強することは実は人間そのものを勉強することであり、未来へのビジョンを把握するためにも大切なものなのだなあ、と強く感じました。

実は北畠親房や顕家がなにをした人かもそのとき初めて知ったのです。親房の書いた「神皇正統記」も歴史を通して未来や国家のビジョンを語るものでした。よくこの「神皇正統記」を古事記や日本書紀の焼き増しに過ぎない、悪口を言う人がいますが、そういう人は実際はよく読んでいないのです。この書物は歴史を通してどう生きるべきか、ということが中心に書かれているのです。現在でも十分読み応えのある書物だと思います。「神皇正統記」という題名が現代ではきわめて不適切なのでしょう。

この「ワールドヒストリー」も、未来のビジョンを語れるほどの商品にしたいなあ、と思いましたが、まだまだ歴史の勉強を始めたばかりの当時の私にとってとても無理な話でした。

前回も触れましたが、特に顕家が戦死する1週間前に後醍醐天皇に書いた奏文は、①分権統治 ②コスト意識の徹底 ③公正平等な登用 ④システムの構築 ⑤公私混同の排除 の5つの抗議からなり、これは670年たった今日においても、経営や組織運営にもっとも重要なものなのだと思います。これをよく20歳の若者が書いたなあ、と驚嘆しました。

次にラジオ短波と組んで「死地則戦」というソフトをつくりました。当時テレビで「カノッサの屈辱」というビジネスと歴史を結びつけるパロディ番組をやっていて、とても面白く見ていました。歴史とビジネスを孫子の兵法で結びつけてソフトにすればおもしろいだろうな、というところからスタートしたのです。もちろん孫子の兵法を勉強するのも始めてです。

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(死地則戦 メイン画面)

あとで知ったのですが、北畠家は漢家(中国の学問を学ぶ家)であり、親房や顕家は孫子の兵法の専門家だったようです。これも偶然といえば偶然です。

またラジオ短波と平行して漢字検定協会の仕事もしました。漢字のゲームソフトをつくることと、もうひとつは当時平安遷都1200年で、それにちなんだソフトをだすことです。京都には難しい地名が多く、その地名の漢字をあてるゲームソフトをつくりました。ある手違いで私が京都中の寺や風景を撮る羽目になり、2週間かけて100箇所以上まわりました。おかげで京都の地の利は大変くわしくなりました。そこで発見したのが、北畠という地名が洛北、伏見、長岡京に3つ存在していました。そこは親房や顕家の屋敷があったところだそうです。もっとも嵯峨野にも屋敷があり、1326年に火事になったという記録があります。

こういう仕事の偶然は、意図的にできるものではありません。当時会社で開催した、「パソコンソフトビジネスセミナー」や「マルチメディアビジネスセミナー」で私のつたない講演を聴いてくださった社長さんやリーダーの方たちが、私の考えに関心をお持ちになり、仕事を発注していただきました。それが全部今日のメディアファイブのベースとなり、気がつくと北畠親房や顕家を学ぶきっかけとなっているのです。

1998年に私は日本総研をやめ、メディアファイブの社長に就任しました。1998年の6月に父が入院したのでした。その結果、私は日本総研かメディアファイブかを選択しなければなりませんでした。本当は日本総研を辞めたくはなかったのですが、メディアファイブを閉じるわけにもいかず、決めました。辞表を本部長に提出する時1週間ためらいました。神武紀1998年の5月22日に顕家は戦死しました。私も西暦1998年、自分にとって人生最大の転機といってよいでしょう。

いざメディアファイブ1本になって見ると、この後、会社を続けていくことができるのか不安でした。しかしそれ以上に当時の社員の不安が相当なものだったろう、と入ってみてつくづく感じ、申し訳なく思いました。2足のわらじでの仕事は無意識のうちにどちらも逃げていたのです。それがよくわかりました。最初の半年は無給でしたが、とにかく夢中で仕事をしました。あまりに不安で、夜になると、むかし宗教団体の活動に熱心な友達にもらった法華経を探し出し(私は宗教団体に属したことはありませんが)、一生懸命唱えていました。

最初はわけもわからず唱えていたのですが、だんだん意味を知りたくなって、いろいろ新書など読み漁っているうちに、こんなたとえ話がありました。ある日、こどもたちが毒を飲んで苦しんでいました。名医である父親がよい薬を与えようとしたのですが、子供たちはその薬が苦そうで、飲みませんでした。そこで父親は一計を案じ、そのまま旅にでて、旅先で死んだとうそをついたのでした。風の便りに子供たちはそれを聞き、びっくりして父親からもらった苦い薬をのんで、毒害から救われました。父親も旅から戻ってみんなめでたしめでたし、というまあチープなわけのわからないたとえ話なのです。法華経、如来寿量品第十六のなかにあります。

ところが私の父は奇跡的に手術もしないで治ってしまいました。これも不思議なことなのですが、ある日私は、テレビで平幹二郎氏が、喉頭がんをやって、それを治すために玉川温泉で療養している番組を見ました。そこで私は父に玉川温泉を勧めました。ちなみにこれも後で知ったのですが、平幹二郎氏はNHKの大河ドラマの太平記のとき、北畠親房の役でした。ところが病気のため、降板し、近藤正臣氏になったのです。玉川温泉での療養が父の病を治したかどうかは、わかりませんが。

この一連のできごとで、恥ずかしながらいままで私は、大企業に勤めていたこともあり、競争原理のもと、自分のことばかり考えていたのが、人のためになにかをすることの重要性を初めて知りました。そしてこの如来寿量品第十六のたとえ話が大変尊いものに感じました。まさに私は、父の病を通してで、社会とのつながりを教えられたのです。今でも法華経や般若心経を、自己流ですが、とぎとぎ唱えております。

しかし法華経と般若心経を多少なりとも理解すると、日本の古典が本当におもしろくなります。平家物語でも本当にいろいろな武将が法華経を唱えるところが出てきます。平惟盛が那智の沖で入水するとき、法華経を唱えて入水しました。以前は、古典を読んでいると、「昔は科学が発達していないからすぐ神がかりだよ。」としらけていたのですが、いまではその心境をしみじみ感じて読むことができるようになったのです。

ただ660年前に、私と同じ姓の人が、日本を文化国家にしようとして理想を掲げ、無念にも果たせなかったことに、自分のことのように残念に思い、自分なりに調べ、考え、いろいろなことを自分なりに発見しました。よく調べてみると、本当に誤解されていることが多いのに驚かされました。もし自分の先祖でなければ、親房、顕家親子のことを、私だって世間のイメージ以上の関心は示さなかったでしょう。

さまざまな失敗や経験、また、たまたま就職するためにした勉強だったり、趣味だったり、仕事で学んだりしてきたことのすべてが、いまのメディアファイブのプロデュースという本流に流れ込む支流だったのです。ひとつひとつはいきあたりばったりの偶然だったのが、後から振り返ると見事に整然とその経験の積み重ねが今に繋がっているのです。

「世の中万事塞翁が馬」でも申しましたが、学生時代、自分が将来、なにをしたいかは、よくわかりませんでした。社会人になってもまだよくわかりませんでした。私は自ら経営者になりたい、と考えたことはありませんでした。いろいろな、当時一見無関係なあちらこちらの支流を流れながら、気がついてみたら、メディアファイブという他には存在しない、オンリーワンの会社を経営していたのです。

今回開発した人材開発型グループウエアは先ほど触れた顕家の奏文を目指して作ったのですが、そのきっかけは社員の造反にありました。会社が急成長する時期は何度かありますが、どうしても人手がほしいときは、あまりレベルの高くない、旧知の人間を仕方なく入れるものです。そういう時、そういう人間に悪意があると、とんでもないことになります。IT・ソフトビジネスは投資もいらないので、参入は比較的簡単です。しかしそれだけ競合も増えるのです。しかも市場はつねに激変します。昨年100売れたものが、今年半分になったりするのです。こういうなかで継続させることは本当に難しいのです。そのなかでけソフトビジネスの成功を見て、そのビジネスを奪いたくなり、ほかの社員や部下に「自分たちの会社をつくろうよ」とけしかける輩がでるものです。とくに中間管理職にそういう人間が出ます。

当時私は社長室をもっていました。若い社員とは直接の接触はありませんでした。すべては中間管理職が私の意向を部下に伝えて、ビジネスが動くのです。こういうとき、その人間に悪意があると、社長にも、部下にも指示や報告を自分の都合のよいように変えてしまうのです。私には、卑屈にぺこぺこしている人間が、ちがう部屋ではボスのようにえばり腐っていたりするのです。そういう人間が、影で人をいじめたりおだてたり、弱い立場の部下や女子を感情でつって味方につけるのです。そして取引先にもうそを塗り固めて、その商権を奪おうとするのです。

若い社員も情報を知らされてなく、直属の上司に殺生与奪の権利を握られていると、その上司に依存します。

当時、私は一生懸命集合研修をおこなっていました。そこでいくら啓蒙しても、感想文で社長にここちよい文章を書くのが関の山です。俺についてこい、型の感情をあおりながら組織を引っ張る経営は、感情で裏切られるのです。だれでも夫婦や子供とだってすぐ喧嘩をします。

だから経営はシステムで管理しなければならないのです。飲みにケーションは根本的な解決にはなりません。社員一人ひとりに会社のビジョンを明確化し、情報共有を徹底し、公正平等に評価するシステムをつくらなければならないのです。

私は社員の造反という苦い経験から、こういうことをおこさないシステムを作ろうと決心しました。完成まで5年がかりでした。膨大な投資もしました。いざ作ってみると、こういうシステムが本当に大切なのが後からわかりました。人がもっとも学習する場所は仕事をする場所です。こういう場所で卑怯なことをして成功する人間がリーダーとなる組織では、その下で働く人も腐ります。そしてそういう人の子供も腐ります。どんなに教育を変えても、まず経営が変わらなければ、世の中からいじめも犯罪も減りません。

私は自分の血筋を自慢するためにこういうことを書いているのではありません。600年で一組の夫婦から400万人の子孫ができるそうです。つまり、だれもが必ず歴史に残る先祖をもっているはずです。逆に、私自身、600年以上前のDNAなど本当につながっているかさえ怪しいものです。それは単なる偶然かもしれません。また私の深層心理がそういう方向へ結びつけているのかもしれません。神が本当にいるかどうかすら、私には定かではありません。

もちろんスタッフに恵まれたこともあります。阪神大震災も景気におおきく影響しました。マザーズができました。9.11で株価が半減すると、家電量販店は在庫圧縮をおこない大量の返品が発生しました。さきほど触れた造反にもあいました。現実は小説より奇なり、といいます。だれが世界最強の米国のニューヨークやペンタゴンが攻撃される、と考えるでしょう。

いろいろなことが起こりながら、それでもいろいろな人に助けられながら、県や市にも大切にしていただきながら、大変幸運にも15年間、当社は存続してきました。おかげで教育ソフトの専門会社ではトップになりました。

ビジネスは個人の小手先の発想だけではとても成功はしないとおもいます。たぶん個人の想定する範囲でビジネスの成功はむりでしょう。ましてやいい加減な人間や評論家的人間が生き延びられる可能性は少ないと思います。われわれは自分の考えうる限りの範囲内で、できる最大限のことを地道に精一杯仕事をするだけです。でもそれだけでは成功にはいきつけません。

精一杯の努力に、なにか目に見えない、自然界に導かれて、はじめてその努力は活かされるのでしょう。それを「神の意思」と擬人化されて感じるのでしょう。いや本当に神の意思なのかもしれません。私は記憶力が悪く不器用です。ひとつひとつのスキルでは多くの人たちにかないません。しかし私が失敗してきたり、拒絶されてきた数多くの学問や仕事や人との経験をとおして、あらゆることが、今のメディアファイブの経営に生かされています。私はそれを天命と呼ぶのだと思います。

おそらく先祖であるであろう親房や顕家は、自分のやりとげられなかった無念の一部を、DNAを通して私にさせているのかもしれません。(ちがうかもしれません。) ただ私は親房や顕家の思想や行動に、とても共感し、尊敬し、歴史上受けてきた彼らの誤解を解き、彼らの実現させたかった世界の構築に、少しでも役に立てたらよいと思っているのです。

そういう意味では私は、親房や顕家の小間使いの一人である、という考えでメディアファイブを経営しております。

私は宗教的なことは、門外漢なので、コメントする資格はありません。ただ私にとって、神様は依存する対象ではないと思います。お願いする対象でもありません。天命を感じたならば、それに向かい、一生懸命に世の中のために尽くすことなのだと思います。何かをしてもらうことを期待するのではなく、自分が世の中に役だたさせていただくことを感謝することなのだと思います。そのなかで、生活や仕事の中で、ささやかな幸せを感じたならば、それが神様からの報酬なのでしょう。

ただ、こういう考えにいたったのは先にも書きましたが、98年の38歳以降からです。若い人がこういうものを読んでも違和感を感じるかもしれません。私も若いときは、こういう話に関心も理解もできませんでした。ただ若い人たちには、自分の世界がすべて、と考えないでいただきたいと思います。まだまだこれから一山もふた山も三山も乗り越えなければならない困難が待っているのです。そしてだんだん大きな社会責任を負っていくのです。残酷な現実と直面することもあるでしょう。そのなかで、必死に、はいつくばってでも前向きに生きなければ「神様」は現れてくれないと思います。

親房や顕家のことは私のきわめて個人的な問題です。社員にもほとんどこの話はしません。しかし、親房や顕家が目指したことは、つまり、「人々が不毛な争いをやめ、日本の和を尊ぶ歴史文化を尊重し、公平平等の社会のなかで自己実現を行い、みんなで協力しあいながら付加価値を生み出し、自然を敬い、子供たちを育て、教育していく」ということは、いつの時代でも永遠普遍の理想です。

その理想国家の実現が、今の日本に特に一番必要なことだと思います。

メディアファイブはそういった国家の実現に少しでも寄与するために、存在させていただいているのだと思うのです。

メディアファイブのファイブはどういう意味があるのですか?とよく人に聞かれます。建前では、五感、陰陽五行、孫子の兵法の、道天地将法などすべて重要な世界は5から成立する、ということを説明しております。

しかし本当は5は私のラッキーナンバーなのでした。幼稚園も高校も大学も受験番号が、5番、25番で合格しました。生まれた場所も育った場所も今の私の住所も電話番号も末尾は5番です。

今は、私の心の中でのみに限ってのことですが、顕家が後醍醐天皇に残した奏文を書いた日 延元3年5月15日 の5だと信じています。

ただ、660年前のできごとと比較するのは、科学的根拠も多少はあると思います。マクロ的な経済循環(コンドラチェフ)は60年ごとで、660年もさらに大きな経済循環として考えられることかもしれません。
平安末期から室町初期にかけて、貨幣が急速に普及しました。武士の台頭は、経済が物々交換から貨幣に移ったことも大きな要因だったようです。今日、インターネットの発達による、情報の開放は、この時代と似た社会状況をつくりだしているのではないでしょうか。

似たような時代に、家柄や能力は月とすっぽんでも、同じDNAの人間が、スケールはちがっていても、似たような行動をとるとしても不思議ではないのかもしれません。だから歴史から未来を考えるヒントはあるのかもしれません。

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(21世紀への提言 「頑張り応援宣言」2001.12.10刊)

2008年02月04日

雪にちなんだ短歌

今日、雪が降りました。私の好きな雪をテーマにした短歌をご紹介します。

ふりにける身にぞおどろく淡雪の つもればきゆる色をみるにも
(自分の身にふりかかかる淡雪が、すっと消える様を見ると、自分のまわりから死んでいった人たちを思い出し、いまさらながらはっとむねがさわぎます)

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(吉野神宮)

ふみわけてとふ人あらばふりつもる 雪より深きあとはみてまし
(こんな深い雪をおして 私を訪ねる人もなくなりました。もう私を必要とする人はいないのかもしれません。)

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(美杉村 北畠神社)

あつめこし雪も蛍も年を経て 消えぬばかりの身ぞのこりける
(蛍雪の労というが、どんなに苦労してもただ老いて消えかかるこの身だけが残ってしまった。)

降る雪にまやの板間も埋もれて 月だにもらぬ夜半のさびしさ
(降る雪に真屋の板間も埋もれて 月の光さえ漏れてはこない、しんとした本当にさびしい夜だ)

いおりさす宿は深山のかげならば 寒き日毎にふるみぞれかな
(この庵は深山の影であるから 毎日ふるみぞれが、いおりに吹き込み、つらいなあ)

以上の句はみな北畠親房の作です。短歌の解釈は私が感じた勝手な解釈です。間違っているかもしれません。

以前、5年ほど前のことですが、西吉野の賀野生(あのう)というところへ行きました。奈良駅でレンタカーを借りて、当麻寺を通り、ずっと南下するとその地はありました。北畠親房の墓がある、と聞いて行ったのですが、その山村に近づくにつれて、通る車も少なくなり、人影もなく、しまいにはちらほら雪が降ってきました。奈良からは、途中当麻寺に寄ったこともあり、到着したときにはもう夕暮れになってしまいました。夕暮れといっても4時ごろだったのですが、山間の夕方は早いのかもしれません。そこにこの歌のような淡雪がだんだん数を増して降ってきたのです。

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(賀野生 伝親房墓)

吉野朝廷を高師直に焼かれ、賀野生に逃げ、そこに粗末な皇居や親房の住まいをつくり、そんななかで読んだ歌でしょう。

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(賀野生 南朝皇居)

親房は後醍醐天皇亡き後、後村上天皇の父親と言う意味の(准后)という位を授かりました。この位を授かったのは歴史上親房と足利義満だけです。同じ位とはいえ、南朝と北朝ではなんという違いでしょう。

親房はこの山奥で、ほとんど普通の人と同じ生活をしながら、自分の地位と生活のギャップにさぞかし嘆いていたでしょう。

ただ雪を見ると、顕家の後見として陸奥に赴任していったときのことを思い出し、息子を失った悲しみと、残ってしまった年老いた自分への嘆きがこれらの句から伝わってきます。

ほんとうにさびしいお参りでした。

2008年02月12日

日本とイギリス

仕事の上で、あるいは生きていく上で、様々な考察が必要ですが、その考察を深める、もしくはより正しい方向に導くためには、ベンチマーク(比較検討)という手法が良く用いられます。僕の場合、時代では、現代と南北朝。地理的には日本とイギリスです。

日本とイギリスはとてもよく似ています。太平洋の東端にある日本。大西洋の東端にあるイギリス。人口の増加率もほぼ同じだといいます。

そもそも国家の成立からして似ています。日本は、弥生時代もしくは大和政権自体が大陸から、九州から東北地方までを征服していったことです。イギリスは1066年ノルマンディー公ウイリアムにより、征服されました。

しかも1000年以上も続いた皇室が現代も存在している点も似ています。この皇室が中世に、二家に分かれて、半世紀以上も争ったのも同じです。日本では南北朝(大覚寺統と持明院統)、イギリスでは赤バラ白バラ(ランカスター王家とヨーク王家)。
そしてその詳細は、日本では「太平記」「増鏡」「神皇正統記」と言う名著が残り、イギリスではシェイクスピアの歴史劇として残っています。

日本における南北朝時代は1333年後醍醐天皇が北条氏を倒したときからはじまり、足利義満の時代両朝の統一の1392年までの約60年間、1467年から1477年の応仁の乱など戦乱の日々がつづきました。

イギリスでは1337年から1453年までの1世紀以上、フランスとの間で百年戦争がおこり1455年から1485年にイギリスの内乱であるばら戦争がおきました。

日本における南北朝は大覚寺統と持明院統という皇室の争いから始まりました。結局は足利尊氏と後醍醐天皇という武士と公家の争いになりましたが。また応仁の乱は足利将軍家の跡継ぎ争いです。

シェイクスピアは日本でいうと戦国時代に生きた人でした。太平記の成立は室町時代なので150年から200年の時代差があります。

しかし内容でいうと、王室をめぐり、何代にもわたる戦いにつぐ戦い。裏切り、寝返り。あらゆる意味で太平記とシェイクスピアの歴史劇は似ています。大きく異なるのは、シェイクスピアの歴史劇は時の統治者エリザベス女王に劇を献上していたことであり、太平記は全面的に南北朝への公平な批評精神でかかれており、特に足利政権にことさらかたよった記述はしていないところが特徴です。

イギリスと日本は非常に類似点の多い国です。島国であり、侵略も少なく、清潔で、人口もイギリスでは18世紀前半まで、日本は18世紀後半まで出世率が死亡率を少し上回るところで、安定していました。他地域では人類の急増による、戦争、飢饉、疫病が多発していました。環境のよいなかで、イギリスは意図と偶然の中から、産業革命がおきました。日本は江戸時代から勤、倹、譲の精神で安定した社会を鎖国という閉鎖的な経済のなかでやりくりしてきました。

「クイーンを見て」でも触れましたが、私は97年9月にイギリスとフランスに行きました。ちょうどダイアナ妃がパリで不慮の死を遂げた一ヶ月後です。ちょうど10年経ち、当時の旅行を振り返ってみると、とてもイギリスとフランスの関係を知る上で、貴重なときに、重要な場所に行きました。まず、イギリスではロンドン塔とグリニッジ、バッキンガム宮殿、大英博物館、ウエリントン博物館、ウエストミンスター寺院、ビクトリア駅、中部のレスター市とその郊外にある、リチャード3世終焉の地、ボズワースです。フランスはモンマルトルにベルサイユ宮殿、ルーブル美術館にノルマンディー地方にあるモンサンミッシェルです。

旅行中とても面白かったのが、イギリス人はフランスのノルマンディー公に征服されたことにあまり触れたがらず、フランス人は年中、ノルマンディー公がイングランドを征服したことを、一にもなく二にもなく説明しているところです。

ちなみにフランスに征服された当時、イングランドの支配層はフランス語が日常会話となり、英語に戻ったには1300年代になってからだそうです。

これはけっこうイギリスのトラウマになっていて、その後の英仏百年戦争もこういうことが、根にあったのかもしれません。

ノルマンディーにある、モンサンミッシェル寺院に行ったときですが、「バイユーのタピストリー」の模造品が非常に安価で、寺院への道のおみやげ物やで売っていました。
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(97年9月 バッキンガム宮殿 ダイアナ妃への花束)
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(モンサンミッシェル)
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(バイユーのタピストリーのおみやげもの)

これはノルマンディー公がイングランドを征服したことをタペストリーにしたものです。縦50センチ、横70メートルに及ぶ、壮大な絵巻物で、今でこそフランスの国宝で、バイユー大聖堂に飾ってあるのですが、ナポレオン革命のとき、武器箱の上にかぶせる布として使われていたものを、地元の弁護士が気づいて国宝にしたものだそうです。

これから何回かに分けて、日本とイギリスそしてイギリスとフランスについて考えていきたいと思います。

2008年02月20日

倫敦塔

1997年の旅行記を今書くのは、あれから10年たち、私自身の知識や経験も以前よりは異なっていることです。「クイーン」という映画を見て、当時のことを振り返り、10年たっていろいろ思うところを述べさせていただきます。

まず最初に、ロンドン塔に行きました。当時、死地則戦Ⅲを開発するために取材をかねて行きました。死地則戦にはシェイクスピアの歴史劇が出てきます。夏目漱石も留学してすぐにロンドン塔に行きました。シェイクスピア研究の第1人者である漱石はロンドン塔に行くのは、当然といえば当然でしょう。その経緯が「倫敦塔」に書いてあります。漱石もシェイクスピアが好きで、まずその舞台に行きたかったのでしょう。この文章を書くときに、漱石の「倫敦塔」を読むと、当然ですが、この作家の筆力のすごさに改めて驚きました。しかも私の関心ごとと漱石の関心ごとがぴったり一致していたことには驚きました。

ロンドン塔で印象に残ったのは、なんて冷たい建物なのだろうか、ということです。こんな冷たいところで、生活するイギリス人は本当にストイックだなあ、と感じました。もっとも途中から宮殿というよりは、政治犯の牢獄であった歴史のほうが長いからそういう感じをうけるのも、当然といえば当然でしょう。

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(倫敦塔遠景)

ロンドン塔は、1078年、初代のノルマンディー公ウイリアムがまず、ロンドンを外敵から守るために要塞を建て、歴代の王がその周りに城を築き、ヘンリー3世で今の姿になったそうです。

メルギブソン主演のブレイブハートという映画があるが、スコットランドの英雄ウイリアム・ウォレスが車さきの刑に処されたのもこのロンドン塔だそうです。当時は処刑は見世物でもあり、どうもアングロサクソンの人たちは血が好きなのかもしれません。ロンドン塔からテムズ川を渡る対岸に「ロンドン・ダンジョン」という蝋人形館があり、ロンドンの歴史で処刑のシーン、たとえばスコットランド女王メアリーの処刑シーンや切り裂きジャックの犠牲者の遺体などの蝋人形がこれでもか、というくらい展示されていました。

またリチャード3世で、リチャードが兄王エドワード4世の二人の子供をロンドン塔に幽閉し、殺害して王位を奪った話がありますが、1674年に子供二人の遺体がロンドン塔から出て、その話を裏付けたことで近年話題になりました。こんな冷たい石の部屋に幽閉され、大人に殺された13歳と9歳の子供は本当にふびんだなあと感じました。

ヘンリー8世の鎧は実に巨大でした。いかにヘンリー8世が太っていたかが、わかる様な鎧でした。もっとも漱石はこれをヘンリー6世といっていますが、確かヘンリー8世だと思います。

イギリスの歴史はイングランドとスコットランドとの対立の歴史、スコットランドを併合すると、アイルランドとの闘争が現代までも続く。

エリザベス女王の母、アンブーリンの処刑場は中庭だったそうです。アンブーリンはヘンリー8世の2番目の妻で、キャサリン王妃の侍従でした。ヘンリー8世は6人の妻を持ち、そのうち2人をロンドン塔で処刑しています。もう一人はキャサリンハワードで、処刑の前に刑吏から逃れ、叫びながら逃げ回り、刑吏は3度目で首を落としたそうです。

ロンドン塔は幽霊がでることでも有名です。アンブーリンの首ナシの幽霊やキャサリンハワードの叫び声とかリチャード3世に殺された兄弟の子供の霊がさまよう、といいます。

まあ、これだけ血塗られた歴史なら、そういう逸話がでてくるのもやむをえないでしょう。

この旅行で、私は、フランスでは霊写真をとってしまいました。ノルマンディー地方にあるモンサンミッシェルでです。モンサンミッシェルはこのロンドン塔を建てたウイリアムの曽祖父が、もともとケルト人の聖地であったモン・トンブという島に修道院を建てたのが始まりだそうです。それ以降とくに英仏百年戦争時代はフランスの要塞だったそうです。さぞかしエドワード皇太子やヘンリー5世の時代は、英仏での城の争奪戦で凄惨な現場だったのでしょう。

どんな因果かしりませんが、この写真の壁を写し、そして帰国後、写真屋さんでプリントしたとき、この壁いっぱいに、逆三角形のドラキュラみたいな顔をした修道僧が怖い顔をして写っていました。
けれどもデジタルデータにはこのように写っていませんでした。

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(この壁に怖い修道僧が写っていました)

2008年03月24日

土筆

最近、夜早く寝て、早朝仕事をする機会が増えてきました。今日(3月22日)は休日で栃木にゴルフへ行く日だったので、ウォーミングアップも兼ねて、近くの河川敷にマラソンに行きました。家は、朝4時半に出たので、行きは薄暗かったのですが、帰りは明るくなっており、私のマラソンのメインコースである、河川敷の土手には土筆がちらほら生えていました。いくつかつまんでポケットに入れて持ち帰りました。帰りに、家の前の神社ではすでに枝垂桜が咲き始めていました。椿とのコントラストがとてもすばらしいのです。今日、はじめて春の訪れを実感しました。

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おいしい土筆は茎がしっかりしていて、はかまの一箇所をはがし、あとはくるりとはがすことができます。少し湯がいて、鰹節とみりん、しょうゆで味付けし、(私は隠し味としてそうめんのつゆをそこにいれます。)おひたしにしたり、卵とじにしたりします。

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私は小さいころから土筆が大好きで、遠足や自転車で河川敷に行っては土筆を取って、自分で料理していました。

そういえば、土筆といえば、今から19年前の、印象に残るニュースを思い出しました。昭和天皇の崩御の一週間前、天皇は土筆を食べたい、とおっしゃり、まだ真冬だったので、周囲の人が一生懸命に探し、少し口にしていただいた、というニュースでした。

日清、日露の戦勝の栄華な時期の日本と、そして敗戦による焦土となった日本と、そして高度成長期による復活した日本と、「邯鄲の夢」の逆バージョンの栄枯盛衰を二度にわたり体験した天皇は、今わの際に、邯鄲の青年のように、本当は、今までの人生が全部夢であればよいのに、とお思いになったのではないかと、この「土筆を食したい」というニュースを聞いて思いました。

寒さが和らいだ頃、田んぼのあぜ道や河川敷で春の知らせをもたらす土筆は、昔から庶民の暮らしとともにあったのでしょう。

花をのみ待つらん人に山里の雪間の草の春をみせばや(藤原家隆).

土筆は室町時代から、蔬菜として食されていることが記録され、一説によると花粉症にも効くらしいそうです。

今日はお天気もよく、ゴルフの成績も超へたくそな自分としてはまあまあで、そういえば、花粉症も出ずに、なかなか気持ちの良い1日でした。

2008年03月30日

また桜の季節がやってきました。
先週の金曜日、新人歓迎会も兼ねて近くの公園でお花見をしました。毎年、この催しをおこなっているのですが、いつも寒い思いをしています。なぜお花見をする日に限って寒いのでしょうか。2001年の春などは大雪が降りました。満開の桜に降る雪はとても美しかったのを覚えています。

よしの山 さくらが枝に雪ちりて 花おそげなる 年にもあるかな 西行
(吉野山の桜の枝に雪が舞い 今年は寒いので開花が遅れる年なのかな)
桜を背景にする春の雪は、いつの時代も人に感動をあたえます。

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(吉野山の桜)

土曜日には両親と河川敷のゴルフ場へハーフをやりに午後から行ったのですが、桜のほかにも桃や菜の花、ゆきやなぎが咲き乱れ、さながら桃源郷のようでした。

桜はとても美しいのだけれど一筋縄にはいかないようです。あまりにきれいなので、お花屋さんで枝を買ってはつぼに生けたり、鉢を買ったり、庭に植えようともしましたが、あまり縁起がよくないようなのでやめました。

桜は手に入れたりしてはいけない、なにか崇高な花なのかもしれません。
やはり神社の桜を時々眺めるのが一番安全で、気楽な楽しみ方のようです。

桜をテーマにした私の好きな短歌をご紹介します。

やはり始めは、百人一首で有名な

久方の ひかりのどけき春の日の しずこころなく花のちるらん  紀友則
(永遠にふりそそぐ のどかな春の日の光のなかで 静かに、無心に花がちっていきます)

西行はもちろん桜で有名な歌人です。

ほとけにはさくらの花をたてまつれ我がのちの世を人とぶらはば(私が死んだなら 桜を供養にたむけてください)

たかおでら あわれなりけるつとめかな うつろい花とつづみうつなり
(高雄寺でなんとういう趣き深いおつとめをされているのでしょう。桜の散る中で鼓を打つとは)

風にちる花のゆくへはしらねども をしむ心は身にとまりけり
(風に散る花びらがどこへいくのかはわからないけれど その散る花びらが 散るのを惜しむ心のように私の身にとまります)

いかでわれこの世のほかの思ひいでに風をいとはで花をながめん(どうしたことか 私はこの世の思い出に 強風をいとわず桜が散るのを見ていたい)

西行は前のブログでご紹介した藤原頼長と同時代の人です。もともと鳥羽院につかえていましたが、50歳のおり、鳥羽院の息子で保元の乱で敗れた崇徳上皇の霊を鎮魂するために讃岐をまわっています。そして藤原頼長の息子で琵琶の名手の師長は保元の乱で一度土佐に流された後、1164年に許され都に帰り、1177年に太政大臣になりましたが、1179年の平清盛のクーデターで尾張に流されました。平家物語の「大臣の配流」の項目です。

平家物語といえば、

平忠度の
さざ浪や 志賀の都は あれにしを 昔ながらの 山ざくらかな

というのが有名です。
埼玉県岡部町の岡部六弥太が忠度を討ち取った際、よろいについていた一首が上の句でした。

私は、
ゆきくれて木のしたかげをやどとせば 花やこよいのあるじならまし
が好きです。

平家物語つながりでいえば、
後白河院が建礼門院を寂光院にたずねたとき、
池水に 水際の桜散りしきて 浪の花こそ さかりなりけれと読みました。

今日はここまでにしておきます。

2008年03月31日

桜の思い出 「殺生石」と篤姫ゆかりの薩摩屋敷別邸

もう3年も前のことだと思います。3月29日に、旧薩摩屋敷別邸であった白金台の般若苑で観世流宗家が「殺生石」を薪能で舞いました。かつてその場所で、今話題の篤姫も住んだことがあるのでしょうか。生憎、その年は寒い春で、まさに「花おそげなる 年にもあるかな」でした。 残念ながら桜は開花せず、つぼみの下で宗家は舞いました。

「殺生石」は、小学校3年生のころ、埼玉県立図書館の児童映画の上映会のアニメで見ました。とても美しい女性に化けた金狐の末路が、悲しく、せつなく感じたのを強く記憶しています。そして小学校5年生のとき、林間学校で那須に行き、殺生石を見て、その映画を思い出し、林間学校そのものがせつない思い出になってしまいました。なぜか私には、その女狐が気になっていたのでしょう。

この物語は昔、御深草院のころ、玄翁という禅僧がおり、那須の怪しげな石の前を通り過ぎようとすると、にわかに女性が現れて、この石に近づくと命をとられる、という。わけを聞くと、「この石は玉藻前という、鳥羽上皇に寵愛された女性で、実は金狐の化身であり、それを陰陽師の安部泰成に見破られ、朝廷を転覆するものとして追われ、東国の武士に那須で討たれました。そしてその石の霊になったのです」。そういうと、その女性はその石にすうっと入っていきました。玄翁はその石に「成仏せよ」と一喝すると、石はふたつに割れて精霊が現れ、身の上話をし、最後に引導を渡してくれたことを玄翁に感謝して消えうせました、という物語です。

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その35年後に、旧薩摩屋敷別邸で、「殺生石」を宗家の舞で見たのです。薪の火に照らされて、精霊の若女の面をつけた宗家の舞は本当に美しいものでした。底冷えする、つぼみの桜の下で、満開の桜を想像しながら見ることが、かえって能の美しさを引き立てたかもしれません。

私にとって、幼いころの殺生石の体験を思い出させてくれる、本当にすばらしい一夜でした。般若苑はその夜が最後で、取り壊しになりました。この般若苑の由来は、奈良の般若寺の建物の一部を移築したことからついたそうです。

般若寺は南朝ゆかりの寺で、護良親王が本堂の櫃に隠れて、あやうく北条からの追ってから逃れたエピソードや、この寺の周辺の般若坂で、北畠顕家が初めて戦闘で敗れたエピソードがあります。ちょうど桜が咲くか咲かないかのころでしょう。

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(春の雪の般若寺)

鳥羽院といえば、保元の乱のとき、藤原頼長と崇徳院を排斥した帝です。また深草院は南北朝の対立の元を、弟の亀山院とつくった帝です。

歴史の時間と空間はいろいろなところでつながっていますね。

2008年04月02日

「殺生石」と夢

私はあまり夢は見ないのですが、人生のなかではっきり覚えている夢がいくつかあります。
先日お話した、小学3年生の時、アニメの「殺生石」を見た日の夜、そのアニメの女狐がとても強烈な印象だったのか、へんな夢を見ました。

夢の中身はこういうものです。

その薄幸そうな女の人は白い着物を着ていました。とても悲しそうな顔をして私を見つめていました。あたり一面雪景色でした。その女の人はふっと後ろに振り返ると、静かに山のほうへ歩いていったのです。私も黙って後をついていきました。その女の人の後を追って山を登っていくと、広い頂にでたのです。

彼女はすうっとしゃがみ込み、いつのまにか持っていた小枝で雪面に自分の躰のまわりにまあるく円を描くと、そのまま横たわりました。そして目をつむり深い眠りに落ちたのです。女の人が死んじゃう、そう心の中で叫びながらも、私は彼女がつけた円のなかにはけっして入ってはいけないと感じていました。

しばらく雪は激しくなり、その人の躰にどんどん雪がつもっていくのです。雪で躰が見えなくなりそうになってきたとき、その躰に異変が起きました。その躰がだんだん、昆虫のさなぎのような黒っぽくて堅い殻で覆われ出したのだ。みるみるうちに堅い殻は膨れ上がり、大きなさなぎになってしまいました。私はしばらく呆然とその大きなさなぎを見つめていました。

沈黙の時の流れを表現するように、雪はどんどん降り積もり、半時ほどもたったろうか、すでに、雪でその物体が覆われそうになった時、突然さなぎの殻が破れ、どす黒い醜い昆虫のような躰をした大きな化け物がでてきたのです。

私はびっくりして、あわてて麓へ向かって逃げ出そうとしましたが、金縛りにあって動けません。その化け物が間近まで近づいてきたとき、かろうじて足が動いたのです。あとは一目散に足を雪に取られながらも、もときた道を走り出しました。麓へ下り、街に入っても化け物は追いかけてくるのです。ものすごい恐怖感をつのらせて逃げていたつもりが、いつのまにか、自分と自分を追いかけている化け物を空から見ている。

私はそこで目がさめました。背中が、びっしょりかいた汗でひんやりしました。

皆さんも子供のころ、こういう夢を見た経験はおありでしょう。桜→殺生石つながりでこんなことも思い出しました。あまり意味はありませんが。

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2008年04月19日

渋沢栄一とお花見

私は埼玉ニュービジネス協議会という、主にベンチャー企業の経営者の集まりに属しております。その中で、交流委員会、渋沢委員会、IT・教育委員会というものがあり、私はIT ・教育委員会をコーディネートさせていただいております。

先日渋沢委員会で渋沢栄一資料館の見学とお花見を王子飛鳥山でおこない、私も参加させていただきました。

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渋沢栄一資料館は10年ぶりに訪れました。10年前、どうしてビジネスはなかなか巧くいかないのだろう、と思い悩みながら電車に乗っていると、飛鳥山が目に入り、そういえば、ここに渋沢栄一の邸宅があったと思い、思わず見たくなって途中下車しました。

10年前は冬の夕暮れだったので、暗いイメージが記憶に残っていましたが、今回はお天気で、桜も満開で、飛鳥山はお花見で賑わっていました。館長さんに案内していただき、いろいろと説明を受けました。

10年前には、なぜ渋沢栄一が成功したか、よくわからなかったのですが、今思うと、次のようなことではないでしょうか。

1、徳川慶喜の家来となり、その側近である平岡円四郎に認められたこと。
2、幕府使節団としてパリへ行き、資本主義のあるべき姿を知り、必要なものを日本に作った。
3、「共存共栄」の思想が、周囲の人と金を集めた。
4、家が商家であり、しかも小さい頃から論語を学んでいました。そのことがマックスウエーバーのいう、ヨーロッパとピューリタンと似たような、日本武士道と論語という資本主義を成長させるための教育を、渋沢は偶然うけてきた。

前にも触れましたが、私は渋沢栄一の「処世の王道」という昭和3年発刊の古本を偶然古本屋で見つけました。この本は大正12年に発刊しようとしたのですが、関東大震災で紙型が焼失し、それ以後絶版になっていたものが、渋沢の米寿の祝いに改めて昭和3年、発刊したものです。

その内容を要約すると、
1、なぜ論語を学ぶのか
・論語は父、年長の従兄から学んだ。
・論語は実践しやすい
・維新前の商工業者には素養がない。維新後、外国との交流も始まったので、品位を高めなければならない。

2、徳川慶喜の家来になる
・幕府は早晩つぶれるので、慶喜公の将軍就任には反対
・豪族政治になると思っていた
・パリ万国博に大使として派遣される
・静岡で商工会を開く
・勝海舟は慶喜公を静岡におしこめる
・函館戦争に榎本武明にさそわれる
・大久保利通に嫌われる。識見卓抜で、その才能たるや、底の見えぬ気味悪さ
・西郷隆盛は賢愚を超越
・木戸孝允は文学の趣味が深く、考えも組織的
・勝海舟はこの三公の器まで行かない
・祖先崇拝は温故知新
・江藤新平と黒田清隆は自分の意見を押し通す
・伊藤博文は議論好き。論理的かつ博覧強記で相手を説得。

3、富貴は正道をもってする
4、算盤の基礎を論語の上におけ
5、西郷は情に流され、江藤新平は残忍にはまる。大久保利通はその間。
6、商売は商戦にあらず
戦いは相手を倒すことにあり(+―)商売は相手も幸せにする(++)。

7、西洋と東洋と道徳のちがい
西洋:よいことはなるべく人に勧める
東洋:己の欲せざることは人にすることなかれ
というものです。

とくに幕末の偉人が等身大に描かれていて、とても面白かった。

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話は渋沢記念館の見学に戻りますが、今回の見学で、もっとも印象に残ったのは、館長さんがとくに強調していたのが、栄一が政治の道を選ばず、経済の道を選んだ、ということです。

私も世の中を良くするのは経済だと思っています。特に、15年前、ポール・ケネディの「大国の興亡」を読んだとき、いかに経済が歴史を作ってきたかを痛感しました。

渋沢が作った企業群は現在も日本経済の中心を担っている企業が多く、もし今日、グループ化すれば、もちろん日本一のグループになるでしょう。しかし渋沢は会社を作っても、私物化をしませんでした。戦後、財閥解体のとき、GHQは渋沢一族が、財閥と見られている割りに、財産があまりに少ないことにびっくりしたそうです。

渋沢に私欲がなかったから、渋沢に金と権力が集まったのでしょう。ひょっとしたら維新の英雄より、渋沢のほうが、よほど今日の日本の礎を築いた人なのかもしれません。

お花見の帰りの居酒屋では皆大変盛り上がりました。

2008年04月27日

ショーケンⅠ

昨日、「ショーケン」という本を買って、一気に読みました。ショーケンとは当然萩原健一さんのことです。先日文藝春秋の阿川佐和子さんの対談で、大河ドラマ「元禄繚乱」の徳川綱吉役はシェイクスピアのリチャード3世をイメージした、と言っており、ちょっと気になっていたところ、偶然本屋で目にしたのです。

私はつくづくテレビッ子だったと思います。この本は、その時代時代をリアルに思い起こさせてくれます。まず私が初めてレコードを買ったのは、小学校4年生のとき、ショーケンがボーカルをやっているテンプターズの「エメラルドの伝説」だったのです。当時シングルレコードというのがあり、1枚500円だったと思います。「君の瞳のエメラルド・・・」というこの歌のイメージが、その当時コカコーラのスプライトのコマーシャルで、緑色の森と湖のほとりを白馬にまたがった、白い服を着た髪の長い少女のイメージと結びついたのです。そしてその少女のCMのシーンはそのまま東山魁夷の、緑の森と湖のほとりをさまよう白馬の版画のイメージに結びついたのです。僕は小学校5年生で初めて東山魁夷の画集を買いました。それだけをとりだすと早熟に見えますが、なんてことはない、テレビCMと流行歌が好きだからその画集を買ったのです。

私はいまでも酒場で酔っ払うと「エメラルドの伝説」を歌います。

「太陽にほえろ」でショーケンが出ていたのは小学校6年のころです。ちょうど、春休みに入ったころ、夜行バスでスキー合宿へ行く直前までこの「太陽にほえろ」を見ていて、母に「遅れるよ」とせかされたのを覚えています。夜行バスではなかなか寝つけませんでしたが、うとうとしていると明け方になり、気づくとあたり一面紫色の雪景色でした。バスのラジオから、まだ結成したばかりのグレープの「雪の朝」が流れていて、さだまさしの声がとても美しく明け方の雪景色のBGMとして溶け込んでいて感動しました。

NHK大河ドラマ「勝海舟」は私が中学2年のときです。勉強も思うように行かず、悶々としているときでしたが、このテーマソングがとても壮大で気に入っていました。海舟が静岡に送られる慶喜の後姿に向かって「おさらばでございます」と言ったラストシーンは忘れられません。しかしこのときの岡田以蔵役の萩原健一は本当に狂気さを秘めていて怖かったです。

「傷だらけの天使」は再放送を大学浪人中に見ました。落ちこぼれのこの二人の生活が自分にダブって、なんかやるせなかったです。さらに2浪のときは、お正月に「寅さん」を見たりすると、コメディ映画なのに、社会に属さない寅さんの孤独やさびしさがひしひしと伝わってきました。

「影武者」は大学生のとき、新聞でオーディションを大々的におこなっているのを見て知りました。そのとき新米俳優ばかり集めて映画を撮ってもたいした映画になんないだろうな、と感じたことを覚えています。しかし後にテレビで放映されたとき、その映像の迫真さ、異様さにはとても凄みがありました。特にショーケンのいっぱいいっぱいの演技は武田勝頼そのもののような気がしました。あまりに偉大な大企業のカリスマ社長のあとを継いだジュニアはまさにこんな感じなのでしょう。

「元禄繚乱」は99年で、日本総研を辞めて2年目となり、当社1本で必死にやれば何とかなる、と思った時期でした。でもまだまだ不安でした。確かにショーケンの演技は激しからず、穏やかならず、けれど狂気さを含んでいたのが印象的でした。綱吉は身長が130センチ台で、当時としても小さく、だからこそ勉学に熱中し、この時代、元禄文化がさかえ、山鹿素行を輩出し、赤穂浪士の討ち入りがあり、こういう時代を綱吉が作ったことに納得しました。それをショーケンがリチャード三世をイメージして演じたことは、私のこの時代のイメージを刷新してくれました。

私が、山鹿素行を夢中で読んだのは、そういえばこのころでした。なぜ素行が好きか、というと、彼は兵法家でありながら、策略や陰謀を嫌ったからです。私も小さいころから策略や陰謀が大嫌いでした。組織の中で自分の存在感を引き出すために、人を恫喝し、威圧し、攻撃して自分のほうが、立場が上であることを示す人が、特に大企業のエリートに多く見られます。そして夜、飲みにケーションで陰謀や策謀をめぐらし、そういうことを高度な戦略や戦術と勘違いしているのです。

孫子の兵法で「詐をもって立つ」というのがあります。これをまじめに解釈してビジネスは騙しあい、と本気で思っている人もいます。私は幼いときからそういうことが大嫌いでした。いじめ問題もそういうところから発生すると思っています。「詐をもって立つ」とは現代的解釈をすれば、工夫をしろ、ということです。既成概念の正攻法だけでビジネスをするな、ということです。孫子の兵法は戦略ブログで述べさせていただきますので、この場では割愛させていただきます。

山鹿素行は徳川秀忠末期に生まれ、綱吉の元禄期まで生き、まさに徳川幕府の最盛期を生きた人です。ここでおそらく急成長の大企業よろしく、武士たちは、本来の士道を忘れ、策略や陰謀に走り、素行はその武士の文化に大変な危機感を持ったのだと思います。しかし幕府(当時の実権は保科正之が握っていました。)は政権の安定化から、本来の武士道から、幕府の権威付け、組織安定のための学問へとシフトさせていました。その中で素行の思想は危険に映ったのです。素行は赤穂藩に配流になりました。

さすが名君と言われた保科の直感は当たります。配流とはいえ、赤穂藩は素行を手厚くもてなし、師として多くの藩士が素行から学びました。素行が配流された36年後、あの有名な赤穂浪士討ち入りが起きたのです。まさに綱吉という権謀術数の好きな将軍の下で、経済的に華やかなりし政治体制の中で、吉良上野介という格式の高い家柄の武士が、浅野内匠守という素行の思想にどっぷりつかった若い武士をいじめる。浅野は吉良を切りつけ、即日切腹。そしてお家断絶。この一文の徳にもならない、ただ義を貫いたあだ討ち事件を世間は拍手喝采しました。世間では腐敗した世相にうんざりしていたのでしょう。もちろん素行も保科もこの世にはいません。しかし保科の恐れたのはこういうことだったのです。

ショーケンはこのような歴史背景を直感的に理解し、綱吉をリチャード3世のごとく演じたのでした。本当の名優というのはこういう人のことを言うのでしょう。

2008年11月07日

玉川温泉と焼山

11月初旬の三連休に、両親と玉川温泉にいってきました。最初に行ったのは7,8年前になりますが、今年で3,4回目です。とても酸度の強い温泉で、ガンや脳梗塞のリハビリで来る人が多いので有名です。末期がんの人が何度も詭篤になりながら、少し良くなってはこの温泉で療養するなど、奇跡的な話も聞きます。

ここには3件の温泉宿があります。そして原泉が噴き出ているところは河原になっていて、そこに北投石という硫黄を結晶化した石が数多く埋まっており、そこから微量の放射能が出て、がんに効くのだそうです。

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この温泉は1680年にまたぎが発見し、本格的に開かれたのは明治17年で、それまでは、けがをした鹿やいのししが白濁した暖かい川に身をつけて傷を治す姿を猟師やまたぎが見て、ひそかに彼らの自然の湯治場だったそうです。

私はここがとても好きです。なによりも行楽地特有の浮ついた雰囲気がありません。
地熱のあたたかい河原で横たわっていると、なんだか鹿になったような気分で、自然の治癒力を感じます。ただ療養ではない私は、いつも毎日3~5回、30分ほど原泉50%の露天風呂に入り、そのなかで北畠親房の「真言内証義」と北畠顕家の「奏文」を繰り返し読んでいるのです。顕家の「奏文」は前にもブログで紹介しましたが、親房の「真言内証義」はあまりに難しくて、何度読み返してもよくわかりません。ただ毎回意味もよくわからず読んでいると、なにかしらいつも悩んでいる答えを先祖に教えてもらえる気がするのです。

今回教わった答えは真言内証義の冒頭部分に書かれている「仏教には法、報、応の三つの構成要素からなる。法身の仏は法界に無限に存在する。報身の仏は浄土を常に清め、菩薩を導く。応身の仏は大衆の迷妄をその悲しみで濁った世を清める。」というくだりです。

つまり仏教は難しいから3段階に分けて教えを広めている、ということです。そこで日頃悩んでいる当社の開発したグループウエア「則天」をどうやって世間に普及させるか、ということです。今回悟った?のはこのシステムは3段階で普及させるべき、ということです。
第1段階は改善提案を定着させるグループウエアとして
第2段階は仕事のなかで目標、実績そして予算、コストを明確に定着させるプロジェクト管理として
第3段階は個人の生産性を社員全員に意識させるシステム
としてです。

おまえは温泉にいってまでも仕事のことが離れられないのか、と言われそうですが、私の使命は世の中の経営と教育のイノベーションにお役に立つことなのです。今こそそれが本当に差し迫って必要な時期に来たのだと思います。

話を元に戻しますが、この河原にござを引いて、仲好く寄り添って寝ている老夫婦も数多く見かけます。この地は生と死を真剣に見つめ、生を大切にしようとする大衆の修験道場のようです。人は死を意識すると、普段囚われているつまらない欲望、見栄や虚飾になにものの価値も見出せなくなり、ただシンプルに生きることのありがたさに目覚めるようです。病院のような暗さはなく、わずかな可能性でも自然の治癒にかける人々の真剣さが、美しい景色のなかで溶け込み、とても素晴らしい調和の空気を醸し出しています。

そしてところどころで水蒸気や湯が噴き出ているのですが、この噴き出し口に、網にじゃがいもやサツマイモ、玉ねぎなどを入れて投げ込んでおくと、20分でふかすことができ、足湯をして待っていると、とてもおいしい昼飯ができあがります。

この時期は、この地はもう紅葉も終わりかけです。ここまでのバスからの景色はとても美しい紅葉でした。

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でも私は冬が好きです。真白に覆われた雪景色は、この温泉峡にぴったりです。今年は五月の連休前にも来ましたが、まだ雪が残り、雪の下からところどころで蕗の薹が出ていました。

花をのみ待つらん人に山里の. 雪間の草の春をみせばや というのを思い出しました。

ただ、花より団子で、少しとって家に帰って味噌焼きにしました。

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(春の玉川温泉)
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(春の玉川温泉)
この温泉が気に入っている理由がもう一つあります。焼き山のふもとにあることです。焼き山とそれにつづく八幡平は、大学時代、ワンダーフォーゲル部で1年と3年の時、3月の雪山に1か月近くこもりました。玉川温泉から、焼き山を挟んで反対側に位置する御所掛温泉をベースキャンプにし、焼き山の非難小屋に1週間ほど宿泊し、周辺を山スキーで縦走しました。晴れた日は樹氷の間をスノーダストが舞い上がり、そそり立つ雪ぴのがけをウエーデルンで舞い降りるが如く滑るのは、銀世界の本当に夢のようでした。パウダースノーだからどんな急斜面でも、簡単に滑降できるのです。本当に楽しい思い出でした。
その思い出の焼き山に登ろうと、前回から挑戦しているのですが、前回はまだ雪ののこっている4月だったので、途中で断念しました。今回は、2日目の挑戦は、雨が強くなり、断念し、3日目は午後2時5十分に出発したので焼き山山頂1キロ手間で3時半になり、最後の急登を前に、またしても断念しました。あと20分もあれば山頂にいけるとは思いますが、往復40分増やすことは、下山中に真っ暗になることが予想できます。焼き山は玉川温泉から3キロの距離なのですが、もう何年も山に登っていないからか、私にはけっこうきついです。
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(焼山への道)
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(目前の焼山)

今度来るときは午前中に登ります。

2009年01月19日

あけましておめでとうございます。

私は昭和35年埼玉県さいたま市、旧浦和市に生まれました。昭和35年というと、戦後15年が経ち、ちょうど高度成長期が始まり、ようやく世相が明るくなり始めたころです。2歳ぐらいから記憶があるのですが、子供のころ、よく母に上野のデパートに連れて行ってもらいました。浦和から京浜東北線に乗って、車窓を眺めると、川口あたりで、鋳物工場が数多く立ち並び、キューポラという煙突からもうもうと煙が流れているのが印象的でした。今ではほとんど見当たりません。

上野へ着くと、白い服を着た傷痍軍人と呼ばれている人たちが、駅前でアコーディオンを弾いていました。なぜかいつも物悲しい曲だったように記憶しています。当時上野は今以上に賑わっていました。そしてデパートの屋上の遊園地で遊ぶのがとても楽しかったのを覚えております。帰りにコロンバンのマーブルケーキや不二屋の三色アイスを買って帰りました。今でも私は、その当時の面影を残す上野や御徒町界隈が大好きです。

小学四年生ごろになると、一人で東京の塾にいくようになるのですが、ヘルメットをかぶり、手ぬぐいでマスクした大学生ふうなのものすごい数の人々が都内の電車の中や道路に徒党を組んでいました。
 そうこうしているうちにオイルショックがやってきて、母がトイレットペーパーをたくさん押入れに買いだめしている姿を不思議そうに見ていました。

大学卒業時は円高不況と言われて、就職難だったのですが、たまたま入った名前も知られていないベンチー企業は私が在籍している三年間で一部上場へと急拡大していきました。私はちょうど昭和天皇の崩御のときに、転職も決意しました。

転職先の仕事は新規事業のコンサルタントなのですが、28歳の若造の私にも一部上場企業から1000万円のコンサルティングのプロジェクトを依頼されました。私が社会に働き出したころから世の中の勢いが増し、バブル時代のピークが到来しました。不動産成金の銀座豪遊の武勇伝が連日テレビや雑誌で報道され、ものすごいエネルギーが全国を駆け巡っていたように思います。
しかし2,3年もしないうちにバブルは崩壊で、社内のムードもすこしずつ、ぎすぎすしたものになりはじめました。

クライアント先の社長さんに誘われてソフト会社を興し、はや15年になります。敗戦、安保闘争、ニクソンショック、オイルショック、円高不況と海外を原因とする大きな危機に、日本人はものすごいエネルギーでその都度乗り越えてきました。私はバブルの崩壊を立ち直らせるものは内需拡大だと、そして日本人がITという道具をフルに活用して能力を高め、専門性を持ち、消費者市場が投資市場に変わることで、内需が飛躍的に増大するものだと思いました。少なくともバブル崩壊までは。ところがバブル崩壊後、日本人からエネルギーが消えてしまったように感じます。働く「誇り」、日本人としての「誇り」がうしなわれてしまったように感じます。

人は少子化が原因と言います。しかし戦後、イギリスは英国病に悩まされ、著しく経済が停滞していました。サッチャーは国民に、自立と誇りをもつことを訴え、ブレア政権になり、経済はよみがえりました。
今、日本人に必要なのは「働く誇り」と「自立」だと思います。自虐的になってはいませんか。人にたよってはいませんか。どうしてこんな簡単なことを日本人は取り戻すことができないのでしょうか。あと必要なのは、前向きになるための「勇気」です。

日本人は古来より、世界で最も道具を工夫する達人でした。そしてきわめて現実的な人種なのです。一人一人が自立し、道具を工夫して、試行錯誤して、世界でも類をみない文明を築いてきたのです。そういった国民性を明治になり、いきなり変えさせられ、少しずつ日本的なものと折衷する工夫をし、しかし我慢しきれず世界戦争をおこし、敗れ、戦後また西洋的なものに全面改装させられ、少しずつ日本的なものとの折衷する工夫し、GNP第2位になり、日本的経営が世界中で注目されたのもつかのま、バブル崩壊、失われた10年を経て、世界的な金融バブルを背景に新自由主義に舞進し、日本的経営をかなぐり捨て、ここへきてまたそのバブルもはじけたのです。

それでも私は小人の靴やのように、個人の能力を高める「道具」、組織で個人の能力を生かす「道具」を作り続けてきました。

いつか誇りを取り戻し、昔のようなエネルギーを爆発させて、新しい日本経済をつくりだしていく、私たちが待ち続けていたお客様のために。

この本が皆さんにエネルギーを取り戻していただくきっかけになっていただければ幸いです。もう準備はそろっております。

2010年04月01日

いかに内需拡大をするか2 宮古島旅行記

(ひとつ下のブログ「いかに内需を拡大するか」の続きです。そちらからお読みください)
先日、ひょんなことから、宮古島に行きました。私にとって外的なきっかけがなければ、宮古島へ行く、という発想さえありえませんでした。簡単に言えば、ショッピングセンターの景品に当たったのです。正確に言えば、辞退者が出たので、繰り上げ当選になったのです。恥ずかしいことに宮古島がどこにあるのさえ知らなかったのです。しかしいざいってみると、あまり観光地化されておらず、とても素朴で良い所でした。

宮古島自体はサンゴでできており、白いサンゴ礁の砂浜にエメラルドグリーンの砂浜はとても美しいところだったのです。

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産業はほとんどサトウキビとたばこの葉だそうで、サトウキビは収穫すると一反15万円、たばこは一反45万円だそうです。(1反=991.74m²すなわちおよそ三〇〇坪くらい。古代では1石を一反とした)二倍以上の開きがあるため、たばこは若い人もおこなうのですが、サトウキビは跡継ぎがいないそうです。漁師などの兼業が多いそうです。製糖工場も収穫時のみ稼働する、とのことでした。ですからあと産業といえるのは観光です。この島は川がないため、海は東洋一きれい、とのことで、ダイビングなども盛んです。

また宮古島はトライアスロンの開催地として有名です。今年も4月に開催されるそうです。泊まったホテルの前の前浜ビーチがトライアスロンのスタート地点で、以前テレビで見たことがありました。夜、ホテルのテラスから眺めると、月の光が海を照らし、沖の海面が銀色に輝きとても幻想的でした。

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二日目はあまりに海がきれい、とのことで、体験ダイビングをしました。いままでダイビングをしたことがなかったのです。ダイビングショップはいろいろあるのですが、池間地区が特にきれいである、とバスガイドさんが話していたことと、初心者にはフルフェイスマスクがよい、とのことであることと、グーグル検索でスポンサーサイトにまで掲載されていることからそのショップを選びました。ショップの人が車でホテルに迎えに来てくれて、20分でその池間地区にいきました。

本当は干潮八重という小さなサンゴ礁のあつまりみたいなところに行くはずだったのですが、あいにくその日は天気が悪く、ちかくのダイブポイントにいきました。それでも波は高く、昨日とは打って変わり、雨もちらつき、波もたかく、小さなダイブボートはスピードを上げるたびに舟の揺れは激しくなり、水しぶきをかぶり、ダイブポイントに着くころには、着ていたウエットスーツはずぶぬれになっていました。他のダイブポイントは天候が荒れると、潜れないのですが、この店はそれでも潜れる、とっておきのポイントがあるのです。それはなんと船で行っても、住宅の見えるポイントでした。

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エアボンベをつけ海に入っていくと、2,3メートルくらいから、耳がだんだん痛くなりました。耳抜きをしろ、とインストラクターはいうのですが、いくら鼻をつまんでも耳の痛みはとれず、ものすごい頭痛に見舞われました。やっとのことで慣れると、そこにはファイティングニモの世界が繰り広げられていました。

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(ダイビング中は写真は撮れないので、次の日、観光船のガラス張りの船底の撮影でダイビングの雰囲気を紹介)

宮古島には70件のダイビング教室があり、みな個人で行っていて、助手を募集してもなかなか応募がない、とのことでした。そのインストラクターも個人営業をされているのですが、10年前、フリーターとして宮古島に訪れて、ダイビングのライセンスをとり、3年くらいダイブショップの手伝いをしながら、独立してまずダイビング船を買い、3年前に100坪の土地に一階はダイブショップ、二階を自宅に家を建て、今は奥さんと二人暮らしだそうです。順調に売上げも伸び、今年、今より大型の船を購入し、4月にはその船を使えるそうです。

帰りにまたホテルまで送ってくれたのですが、通りすがりの風景のなかで、介護施設が目につきました。老後をこんな暖かいところで過ごしたい夫婦は多いのではないでしょうか。ただ夫婦で入所する場合はいいけれど、ひとりになると親族が気軽に来ることができなくなるとさびしいので、夫婦で暮らせる間に限定されるかもしれません。

税法上、都会で払った税金を地方で使う、という点も問題になるかもしれません。東京都のように自治体同士の契約も必要でしょう。そういう問題点をクリアしていけば、宮古島の介護事業は発展すると思いました。

宮古島はもちろん定職という意味では就職は難しいでしょう。どこへ行っても、ひとつのビジネスだけで食べていくことが難しいのです。

そこでご提案なのですが、個人でもたとえばダイビングのサポートをしながら、ダイビングのライセンスをとり、またたとえば午前中は社会保険福祉士や介護福祉士、ケアマネージャーの資格を取得して介護の仕事に携わる。

この島には一泊二食980円で泊まれる宿もあり、ニート、フリーターの人にはとても良い環境なのではないでしょうか。手持ち10万円もあれば仕事が全くなくても3ヶ月は暮らせる。いよいよお金がなくなったら、洞窟でくらして(宮古には洞窟がたくさんあります)魚をとれば餓死しない。最悪そこまでいかないでアルバイトで食べれるでしょう。

またある時は商業施設の電気工事に必要な電気主任技術者をとったり、これだけ温かく住みやすいのに、土地は格安で、セカンドハウスや老後などにいいので宅建をとって不動産ビジネスもいいかもしれません。

旅行業務取扱主任をとって小さなツアー会社をホームページ上で作り、自分ならではのツアーを企画するのもおもしろいかもしれません。おもしろいツアーを企画するには、その土地の歴史をうまく演出して物語を取り込むことも重要です。人の生きるストーリーが最も説得力があるからです。

宮古島の歴史は1390年ごろから記録が残っています。14世紀中旬ごろ、佐多大人を首領とする与那覇原軍団は兵千名をひきいて、各村を攻略していったが、目黒盛豊見親との戦いで一敗地にまみれ、四散しました。そのなかで真佐久という人が、重傷を負い、北東部の与那原に隠棲していたところ、沖縄本島の首里王国から明国への朝貢船が流れ着き、その船乗りに琉球の様子を聞きました。そして真佐久は首里王国に助けを借りて、宮古島を統一しようと考え、琉球に渡りました。琉球王はそれを受け入れ、兵3千をもって宮古島を統一し、真佐久は宮古の首長を任命してもらったのです。親亀、子亀、孫亀のようなストーリーです。

1609年、薩摩は兵3000を率いて琉球に上陸し、兵4000の琉球軍に勝ち、琉球の首都、首里城に入城した。征服に伴い、宮古島は琉球の出島になりました。

1771年の明和の大津波では2500人以上の人が亡くなり、1871年には宮古島島民の船4隻が遭難し、台湾に漂着し、54人の島民が台湾の山地人に惨殺され、西郷従道の台湾征討につながりました。

反対に1783年宮古島南岸上野村でドイツ商船が座礁すると、宮古の島民はこれを手厚く保護し、後に時のドイツ皇帝ヴィルヘルム1世は軍艦を宮古島に立ち寄らせ、感謝の石碑を遭難現場にたてました。そこが今うえのドイツ村という観光スポットになっているのです。うえのドイツ村はまさに歴史から観光スポットになった、具体例といえるでしょう。ただドイツ風の建物を数多くつくり、箱物中心であるので、コストがかかり、バブル期に作った観光スポットであり、今はそのようなことはできないでしょう。


戦争や政治の物語ばかりだけでなく、悲恋の物語もあり、東平安名岬に絶世の美女マムヤの墓というのがあります。いつの時代かはわかりませんが、マムヤという娘が住んでいました。あまりの美貌から男たちに言い寄られ、それがうっとうしいので、洞窟に隠れて機を織っていました。そのころ城辺地区を統治していた豪族、崎山の坊という人がマムヤを見つけ出し、妻子がいるにもかかわらず、それを隠して、強引に妻にしてしまいました。ところが妻子がいるのが発覚し、マムヤは崎山の坊にどちらを選ぶかただしたところ、彼は妻子を選び、マムヤは絶望して東平安名岬の断崖絶壁から海に飛び込んだ、という話です。

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とにかくこのグローバル化の時代に、国内に目を向ける人が減少しているように思います。もちろん外国と交渉できる能力のある人はどんどん外国に行くべきでしょう。しかしよくよく聞いてみると、なかなか中小企業の人でも個人でも外国でお金儲けを成功させた話はあまり聞きません。繰り返しになりますが、就職活動にいたずらに時間をかけるより、様々な地方をまわって土地の人とふれあい、そこでのビジネスを模索するほうが現実的に収入につながるのではないでしょうか。

そうそう、インターネット付きのノートパソコンは購入しなければなりませんが。これは今ならネット加入込みで、タダで購入できます。そして当社のナナミシリーズを旅の道ずれに連れて行きましょう。

最後にまたアピールになりますが、もしみなさんが宮古島でこのように暮らしたら、まず当社の歴史ネットゲーム「NextRevolution」( http://history-quiz.next-rev.com/ )でみなさんなりのご当地の歴史や観光を紹介していただき、ビジネスマッチング( http://bmp.next-rev.com/ )でツアー紹介や産物の販売、自己PRをしてください。

2015年05月01日

当社会長 北畠昭夫 永眠しました。

当社会長であり、私の父である北畠昭夫は、昨日、5月2日 午前11時30分に永眠しました。

ここに謹んでご通知申し上げますとともに、生前故人に賜わりましたご厚誼に対し 遺族一同 心から御礼申し上げます。

父は、3月31日月曜日の朝、縁側の戸を開けようとして、落ち、そのまま心臓が停止し、救急車で運ばれました。

幸い蘇生し、一か月間呼吸器をつけ、回復を待ちましたが、一進一退を繰り返し、なかなか集中治療室から出られることはできませんでした。

当社会長として、創業以来、父と二人三脚で経営してまいりましたが、この数年は心臓の持病により、会社からは実質離れていました。

通夜、告別式は追ってご連絡いたします。

本当にお世話になった皆様には厚く御礼を申し上げます。

2015年05月05日

当社会長 北畠昭夫 告別式

当社会長 北畠昭夫 告別式 

蓮昌寺会館 
通夜  5月8日  18時~
告別式 5月9日  12時~13時

浦和駅東口より送迎バスをご用意します。

住所: 〒330-0051 埼玉県さいたま市浦和区駒場2丁目3−4
電話:048-887-7676

 

2015年08月05日

父の死 そしてエンディングを考える。

3月31日月曜日朝、私は会社の朝礼で、前期のこと、そして今期の方針を話ていました。そこへ母からスマフォに連絡があり、父が実家の雨戸をあけようとして縁側から落ち、それを裏に住んでいる叔母が見つけ、すぐに救急車を呼んだけれども、心臓が止まっている、というような話のあと、「今、仕事抜けれられる?」とのんきなことを言うので、私は「親の心臓止まってまでぬけられない仕事なんかないよ」と怒りながら実家に向かいました。

実家に着くと、今まさに救急車が出ようとしていました。私は救急車を追うように日赤に向かいました。

日赤病院に着くと、父の心臓はまた動き始め、しかし、人工呼吸を止めると心臓が止まる状況でした。お医者さんの話によると、どうしてこれだけ急激に悪くなるかはわからない、と言っていました。「今度の治療では、人工心肺を着けますか?」と言われ、私と母は、即座にお願いします、と言いました。

父のベットに行くと、両手を動かせないようつながれていました。すぐに酸素マスクを取ろうするようです。僕と母がベットの側に行き、早く退院して家に帰ろうというと、父は首を横に振っていました。

とにかく苦しいらしく、早く呼吸器を取ってくれって言ってるようでした。父は手を自由にするとすぐに呼吸器を取ろうとするので、手を縛られていました。

その日主治医の先生に、人工心肺をつけますか?ときかれ、私も母も即座にお願いします、と返事しました。

ただ頭の片隅に白州正子さんのエッセイで、旦那さんの次郎氏が危篤になった時、呼吸器や管をすぐに外してくれ、と医者に頼んだ文章が思い出されていました。白州正子は本当に強い人だなあって感じました。

ただ人工心肺をつけると、植物人間になったり、意識があっても本人が苦しかったりと、主治医の先生は治療として進められるものではないとおっしゃっていました。

色々医療関係の人に聞いてもお金はかかるし、本人も、ましてや年老いた母の、看病という負担が大きくのしかかる可能性があり、すんなり決められることではないのです。

エンディングは非常に難しい、と初めて実感しました。

会社のエンディング担当のスタッフにも父がいざ、という時の準備をさせていたので、まだ生きているうちに告別式の原稿案をチェックさせられ、それも辛いことでした。

肉親である限り、おそらく多くの人にとっては、肉親の死は、自分が変わりたいほどつらいことであり、あってはならないこと、そして心電図の波がなくなり、一直線になるその時まで、回復を願うでしょう。

ただ、それまでに、様々なリスクが横たわっています。植物人間になれば、毎月大きな経済的肉体的負担が家族にのしかかり、そうでなくても、車椅子になっても家族の負担は大きくなります。

ましては夫婦のどちらかが残されて、元気ならば、その老体に大きな負担がのしかかります。

まさにエンディングに向けたランディングは非常に難しく、繊細で、一つ間違えば家族の悲劇になります。

私はエンディングコーディネーターというコンソーシアムを三年前立ち上げましたが、まさに本人もパートナーも家族も、誰もが乗り越えなければならないこのエンディングに向けた時期を、
みんなで考え、助け合え、誰もが幸せにエンディングを迎えられるための船にできれば幸いです。

2015年08月08日

御報告

色々ご報告をしなければなりませんが、父の告別式の一週間後、今度は私が家の前の神社の階段から30段滑り落ちて、頚椎を脱臼し、九死に一生を得ました。

あまり思い出したくもありませんが、朦朧として、記憶は断片的にあります。生まれて初めて救急車に乗り、父と同じ病院の同じ集中治療室に運ばれ、おそらく同じベッドだったと思います。

三時ごろ運ばれ、CTとかMRIとかレントゲンとかとり、頭にキリストのいばらのような冠を被せ、ネジを頭蓋骨にはめ込んで固定し、重りで頭を引っ張って脱臼を元に戻そうとするのだけど、リミットの13キロ載せても変わらず、かなり時間が経ちました。

その間、色々な救急患者が運ばれてきました。二度目の心筋梗塞のおばあさんや、交通事故で運ばれた小さな男の子もいました。その男の子の泣き声が可哀そうで、僕もそこで初めて涙が止まりませんでした。

その病院では治療が難しいというので、夜中に大学病院に運ばれました。幸いそこで手術は大成功し、奇跡的に後遺症は手のしびれと肩凝り以外は五体に支障は出ませんでした。

脱臼したのは第五頚椎で、第四頚椎をやられてたら、呼吸できずに即死だったそうです。

自分の怪我は、あーあやっちゃった…とか、仕事どうしよう、としか思いません。意識も朦朧としている原因でもありますが。

ところが肉親が、死にかけるのを側から見るのは、やはり辛いです。自分の身以上に辛くかんじるのは、父が倒れて一ヶ月の父の看病を通して感じたことです。

人口呼吸器は特に辛そうでした。痰が絡んだ時の苦しそうな姿は本当に自分の身を切る辛さでした 。

夜寝る時も、いつ病院から危篤の連絡が来るか、本当に寝るのが恐ろしかったです。

いざ、夜中の三時ごろ、携帯が鳴り、でも電話取れずにいて、鳴り止んだ後にギョッとして携帯を取り出したら、弟からの電話で、病院から父の危篤を知らせるものでした。

病院に家族で駆けつけ、丸二晩看病している間、徐々に血圧が下がって行き、最後に心電図の波動が止まり、でもふた呼吸して、あとは心電図が直線を描き続けた時、どこかホッとした自分がいました。

生まれて初めて肉親を失い、そのシチュエーションが映画の1シーンのようで、悲しみが麻痺したようでした。

明日は百か日法要です。この日を境に故人への悲しみを断ち切らなければならないそうです。

正直自分は死にかけたことで、父への悲しみが和らいだように感じました。

明日の法要でまた何を感じるか、未知の体験です。

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