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リスクと霊感

私は特定の宗教を信仰した経験がありません。ましてや若いころは無神論者でした。フロイスの「日本記」にも、日本の一般の人々は無神論者が多いと書かれております。年とともにすこしずつ、神社でもお寺でも教会でも、手を合わせるようになりました。漠然とではありますが、若いころから、どうも経営者といわれる人は宗教に入ったり、神がかり的な人が多いなあ、と思っていました。
また日本にはいたるところに神社仏閣があります。ほんとうに昔の人は神様が好きだな、とも思います。ただ、昔は科学が発達していなかったから仕方がないかな、とも感じました。

ところが最近、もしかして、危険に近いところにいる人間ほど、神や霊の存在を感じるのかな、とはたと気づいたのです。
そう、それは25年前のことです。
私は大学でワンダーフォーゲル部に所属していました。毎年ワンゲルでは夏合宿を行いますが、私は北海道の日高山脈ばかり登っていました。当時の日高はまだまったく開拓されておらず、「ここが日本か」と思うぐらい未開の地でした。登山道はすぐに藪でおおわれ、多くは道らしき道もなく、沢づたいに山を登り、尾根からは見渡す限り人家はなく、ここで怪我でもして歩けなくなれば、1 週間は救援隊がくるのを待たなければならないだろう、というようなところです。

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(日高山脈の尾根)

熊と出くわしたこともあります。雨の中で後輩が倒れ、動けなくなったり、岩場から転げ落ちたことも何度かあります。谷にかかる雪渓はいつ落ちるかわからず、その上を歩くか、その下をくぐるか選択して渡らなければなりません。まさに地雷原を、命をかけて歩くようなものです。こんな厳しい自然の中で山脈を踏破しようとなると、それはもう体力も精神力もぎりぎりのところでした。

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(雪渓を登る)

そんな環境の中に2週間もいると、厳しい自然の機嫌が伝わってきます。自然が絶対的な神に見えてくるのです。五感以外の第六感というものが本当についてきたように感じるのです。たとえば夜中、どんなに熟睡していても、動物がテントに近づく気配を察して飛び起きたり、滑落しても気を失いながら、崖の木の枝をつかんでいたり、それは都会の中にはない感覚や能力が備わります。そうなると、さまざまな厳しい自然の危険から身を守り、生き抜くことができます。

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(日高山脈)
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(七ノ沢カールにて)

5年前、出張のついでに土日を利用して、20年ぶりに日高に行きました。当時と変わらず、道は狭くなり、砂利になり、藪が覆い、人の気配もありませんでした。しばらくすると、当時の野性的な感性を思い出してきました。ところが、驚いたことにこの感性は、ここ最近、自分のなかにある経営者の感性に大変似ているのです。今の自分が、日高の自然以上に厳しい環境におかれているからかもしれません。
会社を興して以来、自分にとって大きなリスクをしょって会社を経営してきたことは、縄文人に戻るのかもしれない。昔はまったくの無神論者だった私が、今は特定の宗教はないけれど、神社や教会やお寺に行くと、敬虔な気持ちで手を合わせます。自分が日々社会に活かされていることを感謝します。

会社営むことと、会社に属して働くことのもっとも大きな違いは、藪の中に道を作るか、人の作った道を役目をもって通るか、の違いです。これはどちらがよいか、えらいか、という問題ではありません。役割の問題です。藪の中に道を作る人は、自分自身は、仕事ができなくてもよいのです。正確に危険を回避して道をつくる能力が必要なだけです。これこそ縄文人的能力、すなわちより強力な第六感をもっていなければならないのではないでしょうか。

理論どおりにビジネスが成功すれば、経営学者が一番成功するはずです。第六感は大きなリスクのなかでしか芽生えません。危機に敏感であると同時にプレッシャーに強いなど、生まれつきのものもあると思います。会社を興すためには、ビジネスモデルでの理論上の成立は当たり前であり、それでも成功率は3割でしょう。その3割に入るのは、経営者としての第六感と強力な「運」が必要になるでしょう。ビジネスをはじめたら何とかなる、と考えるのは、船の上から冬の海に飛び込むようなものです。暖かい船の上にいると、なんとか泳げそう、と思うのですが、実際冬の海にとびこむと、あまりの寒さにみるみる体が動かなくなり、薄れゆく意識のなかで暗い海の底に沈んでいくのです。私はなんどもそういう人たちを見てきました。

経営者でなくても責任感の強いリーダーや学者、文化人にはそういう第六感を持っている人は数多くいます。評論家の神様といわれる小林秀雄は、まさにその代表格でしょう。
その文章のなかでは、直接的に霊や神に言及することはほとんどありませんでしたが、講演のなかでは、常に霊の存在に触れていました。「神様がいるかって?いるに決まっているじゃないか」とその流暢なべらんめいで語ります。経営者はリスクを負う環境になるので、凡人でも神を感じるのでしょうけれど、そういう環境になくても感じられる人々はまさに天才なのでしょう。

そういう観点からすると、昔のその土地土地の為政者たちは大変なプレッシャーのなかにあったと思います。いつ殺されるか、いつ戦争で一族が滅亡するか、つねに命の危険にさらされているのですから。為政者たちが競って神社仏閣を建てるのは、科学が発達していなかったからではなく、常に危機と隣りあわせだったために神を感じられたから、なのでしょう。そういう観点からあらためて神社仏閣を見ると、時代時代の為政者たちの一族を率いる責任感とその重圧、恐怖がじかに伝わってきそうです。

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2007年09月29日 23:23に投稿されたエントリーのページです。

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