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ショーケンⅠ

昨日、「ショーケン」という本を買って、一気に読みました。ショーケンとは当然萩原健一さんのことです。先日文藝春秋の阿川佐和子さんの対談で、大河ドラマ「元禄繚乱」の徳川綱吉役はシェイクスピアのリチャード3世をイメージした、と言っており、ちょっと気になっていたところ、偶然本屋で目にしたのです。

私はつくづくテレビッ子だったと思います。この本は、その時代時代をリアルに思い起こさせてくれます。まず私が初めてレコードを買ったのは、小学校4年生のとき、ショーケンがボーカルをやっているテンプターズの「エメラルドの伝説」だったのです。当時シングルレコードというのがあり、1枚500円だったと思います。「君の瞳のエメラルド・・・」というこの歌のイメージが、その当時コカコーラのスプライトのコマーシャルで、緑色の森と湖のほとりを白馬にまたがった、白い服を着た髪の長い少女のイメージと結びついたのです。そしてその少女のCMのシーンはそのまま東山魁夷の、緑の森と湖のほとりをさまよう白馬の版画のイメージに結びついたのです。僕は小学校5年生で初めて東山魁夷の画集を買いました。それだけをとりだすと早熟に見えますが、なんてことはない、テレビCMと流行歌が好きだからその画集を買ったのです。

私はいまでも酒場で酔っ払うと「エメラルドの伝説」を歌います。

「太陽にほえろ」でショーケンが出ていたのは小学校6年のころです。ちょうど、春休みに入ったころ、夜行バスでスキー合宿へ行く直前までこの「太陽にほえろ」を見ていて、母に「遅れるよ」とせかされたのを覚えています。夜行バスではなかなか寝つけませんでしたが、うとうとしていると明け方になり、気づくとあたり一面紫色の雪景色でした。バスのラジオから、まだ結成したばかりのグレープの「雪の朝」が流れていて、さだまさしの声がとても美しく明け方の雪景色のBGMとして溶け込んでいて感動しました。

NHK大河ドラマ「勝海舟」は私が中学2年のときです。勉強も思うように行かず、悶々としているときでしたが、このテーマソングがとても壮大で気に入っていました。海舟が静岡に送られる慶喜の後姿に向かって「おさらばでございます」と言ったラストシーンは忘れられません。しかしこのときの岡田以蔵役の萩原健一は本当に狂気さを秘めていて怖かったです。

「傷だらけの天使」は再放送を大学浪人中に見ました。落ちこぼれのこの二人の生活が自分にダブって、なんかやるせなかったです。さらに2浪のときは、お正月に「寅さん」を見たりすると、コメディ映画なのに、社会に属さない寅さんの孤独やさびしさがひしひしと伝わってきました。

「影武者」は大学生のとき、新聞でオーディションを大々的におこなっているのを見て知りました。そのとき新米俳優ばかり集めて映画を撮ってもたいした映画になんないだろうな、と感じたことを覚えています。しかし後にテレビで放映されたとき、その映像の迫真さ、異様さにはとても凄みがありました。特にショーケンのいっぱいいっぱいの演技は武田勝頼そのもののような気がしました。あまりに偉大な大企業のカリスマ社長のあとを継いだジュニアはまさにこんな感じなのでしょう。

「元禄繚乱」は99年で、日本総研を辞めて2年目となり、当社1本で必死にやれば何とかなる、と思った時期でした。でもまだまだ不安でした。確かにショーケンの演技は激しからず、穏やかならず、けれど狂気さを含んでいたのが印象的でした。綱吉は身長が130センチ台で、当時としても小さく、だからこそ勉学に熱中し、この時代、元禄文化がさかえ、山鹿素行を輩出し、赤穂浪士の討ち入りがあり、こういう時代を綱吉が作ったことに納得しました。それをショーケンがリチャード三世をイメージして演じたことは、私のこの時代のイメージを刷新してくれました。

私が、山鹿素行を夢中で読んだのは、そういえばこのころでした。なぜ素行が好きか、というと、彼は兵法家でありながら、策略や陰謀を嫌ったからです。私も小さいころから策略や陰謀が大嫌いでした。組織の中で自分の存在感を引き出すために、人を恫喝し、威圧し、攻撃して自分のほうが、立場が上であることを示す人が、特に大企業のエリートに多く見られます。そして夜、飲みにケーションで陰謀や策謀をめぐらし、そういうことを高度な戦略や戦術と勘違いしているのです。

孫子の兵法で「詐をもって立つ」というのがあります。これをまじめに解釈してビジネスは騙しあい、と本気で思っている人もいます。私は幼いときからそういうことが大嫌いでした。いじめ問題もそういうところから発生すると思っています。「詐をもって立つ」とは現代的解釈をすれば、工夫をしろ、ということです。既成概念の正攻法だけでビジネスをするな、ということです。孫子の兵法は戦略ブログで述べさせていただきますので、この場では割愛させていただきます。

山鹿素行は徳川秀忠末期に生まれ、綱吉の元禄期まで生き、まさに徳川幕府の最盛期を生きた人です。ここでおそらく急成長の大企業よろしく、武士たちは、本来の士道を忘れ、策略や陰謀に走り、素行はその武士の文化に大変な危機感を持ったのだと思います。しかし幕府(当時の実権は保科正之が握っていました。)は政権の安定化から、本来の武士道から、幕府の権威付け、組織安定のための学問へとシフトさせていました。その中で素行の思想は危険に映ったのです。素行は赤穂藩に配流になりました。

さすが名君と言われた保科の直感は当たります。配流とはいえ、赤穂藩は素行を手厚くもてなし、師として多くの藩士が素行から学びました。素行が配流された36年後、あの有名な赤穂浪士討ち入りが起きたのです。まさに綱吉という権謀術数の好きな将軍の下で、経済的に華やかなりし政治体制の中で、吉良上野介という格式の高い家柄の武士が、浅野内匠守という素行の思想にどっぷりつかった若い武士をいじめる。浅野は吉良を切りつけ、即日切腹。そしてお家断絶。この一文の徳にもならない、ただ義を貫いたあだ討ち事件を世間は拍手喝采しました。世間では腐敗した世相にうんざりしていたのでしょう。もちろん素行も保科もこの世にはいません。しかし保科の恐れたのはこういうことだったのです。

ショーケンはこのような歴史背景を直感的に理解し、綱吉をリチャード3世のごとく演じたのでした。本当の名優というのはこういう人のことを言うのでしょう。

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2008年04月27日 11:18に投稿されたエントリーのページです。

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