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鑑賞 アーカイブ

2007年06月21日

「硫黄島からの手紙」と「父親たちの星条旗」

  ゴールデンウィークに「硫黄島からの手紙」と「父親たちの星条旗」という映画を観ました。これはクリント・イーストウッドの2部作で、米国側と日本側の双方から撮った映画です。この手法に近いのが黒澤明監督の「羅生門」でしょう。人は相対する両面それぞれの心情の表現を通して、より真実に近づくことができます。まさに「学ぶ」ということの本質はここにあるのではないでしょうか。

 今回とくに驚いたのは、「父親たちの星条旗」です。硫黄島を占領した米軍の「英雄」が、戦争継続のために国債を使って資金を調達する手段に利用された様子を赤裸々に描いています。そもそもハリウッドはmade in U.S.Aの文化やコンセプト、政治的正当性を全世界に宣伝する役割を担っていると思います。「英雄」の輩出もそこから派生するものではないでしょうか(もっともこれは米国に限らず、どの国でも多かれ少なかれ、映画、ドラマ、スポーツを含め「英雄」の演出の陰には、利益、政府や時の権力者の正当性などいろいろな思惑が隠れていることが多いものですが)。

 クリント・イーストウッド監督はその陰のしかけの部分をあぶりだしてしまいました。しかも米国の立場のみならず、日本の立場からの映画もつくってしまいました。もし「父親だけの星条旗」だけであったら、日本人という東洋の命知らずの不気味な人種をいかに苦労して撃破したか、だけになってしまう。ところが「硫黄島からの手紙」を観れば、いかにその不気味な日本人が、本当は普通に家庭があり、どんなに悲しい思いをしながら戦地へ赴き、生きようとしたり、断腸の思いで生きることをあきらめたりしたかを知ることができる。

 今日、スポーツ選手、歌手・アイドル・タレント、若手経営者など様々な若者が英雄として祭り上げられ、その時々の力のある大人たちに利用されてきています。テレビをつけると英雄である「若者」がテレビコマーシャルに、バラエティ番組に、あらゆるチャネルでひっぱりだこです。一方的な心地よいストーリーをつくり、印象的に「英雄」である若者を祭り上げることで、その裏にある誰かが利益を得たり、大衆を動かせたりするのです。

 若き「英雄」をあがめる最大の弊害は、人生の実際を、多くの若者に見誤らせることです。経験は能力と同じくらい生きる上で重要な要素です。若者を簡単に金持ちにしたり、英雄にしたりする背後には、そうすることでお金儲けや目的達成をもくろむ人がいる場合が多いです。

 最近成功したある若手経営者は、そのブログや出版物で、老人を否定し、経験を否定し、釈迦やキリストまで否定しました。悟りを自己欺瞞と切り捨てました。しかし一時的にお金持ちになることで、老人を否定したり、釈迦やキリスト教や儒教など歴史英知を否定すること自体が、矛盾を生んでいると思います。なぜならまだ本人は老人を経験していないからです。ニーチェは言います。自分と同じ高みに登らなければ、その高さを理解することはできないと。若者の早合点は、若者全体を安直な方へ向かわせ、ニートやフリーターの増加など、将来深刻になるであろう問題を大量生産します。

 太平洋戦争がなぜ起きたか、というと、もちろん様々な要因はありますが、私は、人の「心の問題」として二つあげろといわれれば、「日清、日露の戦勝」と「若者の暴走」にあると思います。人は成功すると慎重さを失います。日清、日露の勝利は国民全体に「日本は戦争に強い」という自信を植えつけました。

満州事変の成功は長期の不況の脱出のきっかけとなり、米英の外圧も強まることにより、国民の支持が軍隊へと向かうようになりました。その結果石原莞爾という一中佐を日本の英雄に仕立て、陸軍の若手は第2の石原莞爾となるべく、中国戦線を拡大していきました。

 そして、日本のリーダーたちは若者をコントロールすることができなくなってしまいました。それが日米の若者が硫黄島で地獄の経験をすることにつながったのです。

 「世の中万事塞翁が馬」です。そのようなことを言い始めた自分は人生の後半にいるからなのかもしれません。ただ最近、若いころの自分の思い上がりを思い出しては後悔し、恥じ入るばかりになりました。

 そんなことを考えるきっかけとなった、2本の映画でした。

2007年09月17日

「クイーン」という映画を見て

 「クイーン」という映画を久しぶりに地元の映画館で見ました。これは1997年8月31日パリでダイアナ妃が交通事故死したことから始まる映画です。偶然にもこの事故から2週間後、私はパリとロンドンに行っていました。まだ事故現場は生々しく、バッキンガム宮殿の門前には花束が数多く置かれていました。

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(97年9月バッキンガム宮殿の前 ダイアナ妃への花束が門に積まれている。)

 映画は、ダイアナ妃に同情するイギリス国民からの非難に悩みながら、王室を守ろうとするエリザベス女王の心の葛藤と、それを助けようとする就任したばかりの若きブレア首相とのやりとりを描いたものです。エリザベス女王はイギリス国民の良心を信じながらも、大衆を心情的に煽る大衆紙に傷つきます。

 法哲学者長尾龍一氏はケルゼン選集のあとがきにこのように書いています。
「民主主義とは絞首台に登らされる自由でもある」と。
つまり大衆は時として判断を間違える。間違えた判断により絞首台に上ることもあるのです。ナチスを選んだのも民主主義憲法下のことだし、文化大革命もソ連時代のスターリン支持も大衆の選択ミスで数千万人の命が失われました。

 大衆とはとても不思議な「意思」です。10人集まると意見はばらばら。それが1万人、100万人、1000万人・・・・と増えてくると、結構また大衆という人格が見えてくる。これは人であって人でない。意思であって意思ではない。大衆が受け入れればすぐに何億、何百億という金が動く。どんなにチープなテレビ番組でも、視聴率10%で1000万人が見、億という広告料が動く。

 太平記と同時代に北朝の花園院は「太子を誡める書」のなかでこう言っています。
「民衆は暗愚であるからこれを教導するには仁義をもってし、凡俗は無知であるからこれを統治するに政術をもってする」。そして仁義や政術を身につけるには「学びに学んで経書を身につけ、正しい知識、正しい判断ができるように日々自分を評価し、反省しなければならない」と。

 「クイーン」では女王がタブロイド紙の過激な記事に傷つきます。ある意味ダイアナ妃を死に追いやった張本人であるタブロイド紙が、まったく反省する様子もなく、今度はダイアナ妃の味方をして王室の存続の否定を国民に煽る。すべては新聞が売れるため、部数を伸ばすためという理由で、命や生活を脅かされるほうはたまったものではない。

 リーダーが判断を誤ったならば、毅然とその過ちを正すのはよいと思います。しかし目上だろうが、同僚だろうが、部下だろうが、節度、というものがあります。マスコミには人としてのその節度を忘れた報道が目に付くと、私は思います。人の痛みを考えない報道に、なんの真理があるのでしょうか。相対立する立場の双方に立って真理を追究するのがマスコミであり、あまりに節度を欠いた報道姿勢は非難されるべきだと思います。

 民主主義体制は国民の教養レベルが一定水準であることを前提として存在可能な国家のシステムです。また「自然法」にのっとった国家システムです。「自然法」とは正義にのっとる、ということです。正義という価値判断が機能せず、「利」という価値判断で国家が動き始めたならば、これも民主主義の危機といえるでしょう。

 私は、日本人は、消費という観点からは世界でトップレベルの国民だと思います。日本人は、お金を払う段になると、商品やサービスに対する目の厳しさは大変なものです。それは、日本の市場に供給する企業の商品やサービスの品質向上能力を磨きます。それゆえに、世界の市場で、日本の商品の品質レベルが通用するのでしょう。しかし政治、文化、生活といった点では、日本人はけっこう鈍感になってきているのではないでしょうか。

 ただ、「クイーン」を見て、あれだけ国民の文化水準の高いといわれている英国民の弱点を垣間見た気がします。そこにちょっとイギリスへの親近感と安堵と、もしかして追いつけるかも?という野心が芽生えました。
 
 でも、イギリスを始め、ヨーロッパの教育のイノベーション(特に IT化)は進化のさなかにあるそうです。日本にとっては、今が一番その背中に近づいているのかもしれません。このままでは、これからの10年、日本は西欧に大きく引き離されてしまう可能性があります。これは行政の問題ではありません。行政はむしろ焦っています。国民のITへの敬遠、パソコン離れに起因することが大きいと思います。

やっぱりまた不安になりました・・・・。どうしたらITはみなさ んに受け入れられるのでしょうか。映画を見ても、けっきょく最後は日 ごろの私のテーマに行き着いてしまいました。

「ミヨリの森」を見て

 先日、フジテレビで「ミヨリの森」というアニメを見ました。偶然、テレビをつけたら、宮崎駿の新しい映画でもできたのか?と思い、しばらく見ていると、とてもいい感じなので最後まで見てしまいました。途中から見たので、あらすじは正確にはわかりませんが、東京っ子ミヨリは母親が自分を捨てて家出した後、祖父母の住む田舎で暮らし始めます。そこで、村の子供と最初はなじまないのですが、だんだん打ち解けていく。またミヨリの祖母に霊能力があり、その能力がミヨリにも備わっていて、森の精霊や座敷童などとも友達になる。ある日、ダムの計画でその村が水没する危機に見舞われる。それを森の精霊たちと救う物語です。印象的なのは一本桜の精がミヨリに水の循環を教えたところです。

 われわれの血はもとをただせば、海のプランクトンから始まるのです。それが魚になり、陸に上がり、哺乳類が生まれ、猿が現れ、人間へと進化する。その間中にも雨は降り、川に流れ、地下へと浸透し、海に流れ、水蒸気となって上がり雲となる。その循環は地球が誕生して海ができてから延々と続く。その映像を見ながら、8月に登った福島の宇津峰山のことを思い出しました。

 ここは須賀川市と郡山市の境にあり、南北朝時代、南朝の後醍醐天皇の孫である守永親王や北畠親房の次男である顕信が立てこもり、東北での南朝最後の軍事拠点となりました。標高677メートルのこの山の600メール付近で湧き出る清水を飲んだとき、とてもおいしくて感動しました。

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この清水がいつから湧き出たかは知りませんが、少なくとも600年もの昔、自分と血縁である人たちもここに立てこもって、この水を飲んでいたのです。当時は血なまぐさい戦乱のさなかで、水も食事も思うように手に入りにくく、この湧き水にどれほど立てこもっていた人は感動していたことでしょう。「水のおいしさ」という感覚が600年前の人々との共感として伝わってきます。今は野草の花が咲き乱れ、黄アゲハやオニヤンマが涼しげに飛んでいました。

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 人の死はDNAを新鮮に保つために存在する、という論がありますが、DNAに意思があれば(そのようなことは当然想像の世界だけですが)、人は親から子、孫と肉体を移り変わらせながら、いろいろなことを感じるはずです。また親の代でできなかったことを子供の代や孫の代で実現させたいと思うでしょう。歴史はそんな気持ちで学んだり、感じたりして楽しむものだと私は思います。

 「ミヨリの森」は循環する自然の大切さを主題としたものでしたが、5月に訪れたシアトルでの経験「シアトル雑感」(このひとつ前のブログ)にも通じるものでした。ヨーロッパはすでに多くの国が循環型社会そのものです。もちろんビジネスにも循環思想が取り入れられるべきでしょう。ビジネスが永遠に右肩上がりであることは幻想です。かならず波があるはずです。あらゆるものに歴史があり、よいときもあり、悪いときもあり、寒暖があり、悲喜こもごもです。人はそういった感覚を取り戻すことで、生を謳歌できるのかもしれません。

よいときを謳歌するのは当たり前です。悪いとき、寒いとき、悲しいときを謳歌する術を身につけるにはどうしたらよいのでしょう。

2007年10月23日

玄象

先週、国立能楽堂で玄象を見た。玄象とは弦上とも書き、弦の神様という意味です。

ここへきたのは10年ぶりで、懐かしい思いがこみ上げてきました。

若和布というなまめかしい狂言のあとに、その能は始まった。

太政大臣藤原師長は琵琶の名手で、日本国内には自分以上の名手がいない、と思い、ひそかに唐土(中国)に渡ろうとした。須磨の浦まで来ると、日も暮れて、塩屋の主に一夜の宿を頼んだ。主は恐縮しながら師長を家へ入れると、主と姥は、師長に琵琶を一曲頼んだ。

琵琶を弾いていると、浜風の音や小屋の屋根板に打ちつける雨の音が琵琶の音に合わず、師長は弾くのを止めてしまった。姥は苫をとりだすと、板屋に葺き、雨の音を琵琶の音に合わせてしまった。

師長が、そなたたちはただものではないとお見受けした、是非とも琵琶をお聞かせ願いたい、と言うと、主は琵琶を、姥は琴を奏で、あまりのすばらしさに、師長は驚いた。

「自分がこの国で一番の琵琶の名手と思っていたが大変な思い上がりだった」。師長がそうつぶやいてその場を立ち去ろうとすると、姥は師長の袖を引き、とどめようとした。

師長が、そなたたちは何者なのですか、と尋ねると、主は「玄象の主、村上天皇とは私のことだ。この姥は梨壷の女御である。そなたが唐土へ渡るのを止めに参った」と告げてしばらく消え、村上天皇在りし日の姿となって再び現れた。

そして師長に三面の琵琶を渡すと、それを師長に奏でさせた。天皇も合わせて奏でると、竜神が現れて激しく舞った。その竜神につられ天皇も舞った。

その天皇の舞いは、観世宗家である清和氏が舞いました。宗家の舞はいつも神々しく美しい。白い貴人の衣装を身にまとい、上品な面をつけ、その舞は本当に神のようだった。

能であるから、能管と大鼓、小鼓、太鼓だけで演奏をしているのだけれども、頭の中で藁葺きの板間に打ち付ける雨音をBGMに激しく琵琶の音が鳴っていた。村上天皇はその琵琶のなかで、徐々に舞の激しさを増していった。

現代劇だったならば、そこに琵琶と雨の音の効果音がことさら大きく入ると思います。しかし能ではその音を観客に想像させることで、単純なものから最大限、その存在感を引き出させます。つまり「秘めたるは花なり」、これこそ能の醍醐味でしょう。

しかし私は、いつも観世流宗家の舞を見る日は、偶然にも嫌なことが起こります。不思議とこの大きな感動を、毎回のように、暗澹たる気持ちの中で味わっている。きわめて美しい女性と付き合うと運が悪くなる、といわれますが、それに近いのかもしれない。いまでは自分は美と心中する気概はないので、大人になってからは、そういうものを避けてきました。こういうことが、こう何度も続くと、宗家の舞を見ることが、少し恐ろしくなりました。これからは心して見なければなりません。

そのようなことを考えていると、私は高校時代を思い出しました。女性にはおくてでしたが、当時、わけもわからず美や芸術のことで頭をいっぱいにしていたからです。特に小林秀雄の文庫本はいつも鞄に入っていました。

そのなかでも「当麻」という能を書いた文章は、当時繰り返し読んでも意味はわからなかったのですが、一番好きでした。今、改めて読み返すと、初めて理解できたような気がします。

簡単に言えば、世の中はどんどん複雑になりはしたけれど、中世のシンプルな生き方が、それは史家からは乱世とは呼ばれているが、もっとも健全なのだ、ということです。

本文にある有名な一句「美しい花はあっても、花の美しさはない」とは、花の美しさを分析しても意味はない、現代社会は分析ばかりするが、それは現実を複雑にするばかりだ、といいたいのでしょう。

私は複雑になりすぎたこの現代社会を、ITという未来の申し子を利用して、中世のシンプルな生き方に戻せる道具を作ろうとしているのです。

時代そのものは元には戻りません。未来をシンプルに生きることが、これから私たちが目指すべき人間の理想的な生き方なのだと思います。

それは宗家の舞う能のように、美しい夢幻の世界のように思えますが、必ず実現させよう、と決意を新たに秋の深まりを感じさせる、肌寒い夜道を帰りました。

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2008年02月04日

雪にちなんだ短歌

今日、雪が降りました。私の好きな雪をテーマにした短歌をご紹介します。

ふりにける身にぞおどろく淡雪の つもればきゆる色をみるにも
(自分の身にふりかかかる淡雪が、すっと消える様を見ると、自分のまわりから死んでいった人たちを思い出し、いまさらながらはっとむねがさわぎます)

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(吉野神宮)

ふみわけてとふ人あらばふりつもる 雪より深きあとはみてまし
(こんな深い雪をおして 私を訪ねる人もなくなりました。もう私を必要とする人はいないのかもしれません。)

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(美杉村 北畠神社)

あつめこし雪も蛍も年を経て 消えぬばかりの身ぞのこりける
(蛍雪の労というが、どんなに苦労してもただ老いて消えかかるこの身だけが残ってしまった。)

降る雪にまやの板間も埋もれて 月だにもらぬ夜半のさびしさ
(降る雪に真屋の板間も埋もれて 月の光さえ漏れてはこない、しんとした本当にさびしい夜だ)

いおりさす宿は深山のかげならば 寒き日毎にふるみぞれかな
(この庵は深山の影であるから 毎日ふるみぞれが、いおりに吹き込み、つらいなあ)

以上の句はみな北畠親房の作です。短歌の解釈は私が感じた勝手な解釈です。間違っているかもしれません。

以前、5年ほど前のことですが、西吉野の賀野生(あのう)というところへ行きました。奈良駅でレンタカーを借りて、当麻寺を通り、ずっと南下するとその地はありました。北畠親房の墓がある、と聞いて行ったのですが、その山村に近づくにつれて、通る車も少なくなり、人影もなく、しまいにはちらほら雪が降ってきました。奈良からは、途中当麻寺に寄ったこともあり、到着したときにはもう夕暮れになってしまいました。夕暮れといっても4時ごろだったのですが、山間の夕方は早いのかもしれません。そこにこの歌のような淡雪がだんだん数を増して降ってきたのです。

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(賀野生 伝親房墓)

吉野朝廷を高師直に焼かれ、賀野生に逃げ、そこに粗末な皇居や親房の住まいをつくり、そんななかで読んだ歌でしょう。

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(賀野生 南朝皇居)

親房は後醍醐天皇亡き後、後村上天皇の父親と言う意味の(准后)という位を授かりました。この位を授かったのは歴史上親房と足利義満だけです。同じ位とはいえ、南朝と北朝ではなんという違いでしょう。

親房はこの山奥で、ほとんど普通の人と同じ生活をしながら、自分の地位と生活のギャップにさぞかし嘆いていたでしょう。

ただ雪を見ると、顕家の後見として陸奥に赴任していったときのことを思い出し、息子を失った悲しみと、残ってしまった年老いた自分への嘆きがこれらの句から伝わってきます。

ほんとうにさびしいお参りでした。

2008年02月29日

3月2日

北畠顕家は1318年3月2日に生まれました。新暦に直すと、4月3日です。ちょうど桜の満開の季節です。以前ご紹介した北山で顕家が陵王の舞を舞ったのも桜の季節でした。1338年2月28日(新暦3月20日)の奈良坂の戦いで、初めて負け戦をしたのも桜の咲き始めの頃でしょう。

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(般若坂近景)

親房は桜を読んだ短歌をたくさん残しています。おそらく顕家の死後、息子の思い出が桜とともにあるからでしょう。幼くして華やかに歴史の表舞台に登場し、あっさりこの世を去って行った顕家が、まさに桜の花のような人生に思い、桜の散りざまを見て、息子の不憫さを感ぜずにはいられなかったのでしょう。

男山昔の御幸思うにも かざしし花の春を忘るな
(男山の花見に天皇の行幸に随行したとき、(子供たちが)桜の枝を日にかざしてはしゃいでいた春をわすれることはないだろう)

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(男山八幡宮の桜)

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(男山八幡宮麓付近)

1324年後醍醐天皇は京都の南にある男山に行幸されました。増鏡にそのときのことが詳しく出ていて、公家の子供たちも着飾って大そうにぎやかだったようです。おそらく顕家や顕信もそのなかにいたのでしょう。6歳の顕家が桜の花をかざしていた時のことを回想した歌だと思います。
(ただし、この歌は1335年の行幸を回想したとされる説もあります。)

春をへて涙ももろくなりにけり ちるをさくらとながめせしまに
(毎年、桜の花の散るのを見るたびに、涙もろさが年々強まってきます。)
顕家の死のことを思い出すのでしょう。桜の花の散るのを見るたびに涙もろさが増していったようです。

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(吉野山の桜)

いかにして老いのこころをなぐさむる 絶えて桜のさかぬ世ならば
(もし桜の花が咲かない世になったならば、どのようにして老いの心をなぐさめようか)
そうは言っても桜の季節には顕家があの世から戻ってきて、老いた自分を慰めてくれる気がするのでしょう。

しかし一方で、京都の頃の栄光は忘れられず、

いかにせむ 春の深山の昔より 雲井までみし世の恋しさを
(どういうことでしょう。吉野の山奥に随分と長いこと暮らしていますが、((桜を見ると))天上人でいた京都の頃がいつまでも恋しく思います。)
という歌も歌っています。

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(吉野南朝皇居吉水神社)

この歌は平清盛の娘、建礼門院徳子が平家滅亡の後大原の寂光院で歌った

思いきや、深山の奥に住まいして 雲井の月をよそに見むとは
(思いもよりませんでした。天上人の私がこのような深い山奥であのときと同じ月を見るとは)
を思い出し、親房がその不遇を建礼門と重ねて歌ったのではないでしょうか。

九重の御階のさくらさぞなげに昔にかえる春をまつらむ
(今は吉野で幾重にも重なる大きな桜を見ているが、いつか京都に帰り、桜をめでたいものだなあ)

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(京都御所 右近の桜)

くれずとも花の宿かせたまほこの 道行きぶりににほう春風
(日が暮れる前に、桜の花の下を宿としようか。この道を歩いていると花の香りが春風に運ばれ、ここちよい)

この歌は1323年の続現葉和歌集に載っているので、まだ親房が32歳の京都にいる頃の歌です。

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(般若寺境内)

ひとりみてなぐさみぬべき花になど しずこころなく人をまつらむ
(一人で慰められる桜の花だけれども しずかに無心で人を待っているのだろう)

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(吉野 金峰山寺)

これに対し、宗良親王は

わればかりみるにかひなき花なれば 憂身ぞいとど人もまたるる
(ひとりで見ても見るかいのない花をながめると、とても憂鬱になり、会いたい人を知らず知らず待っています。)
と歌を返しました。

二人が待っているのは、顕家だと思います。春になると親房は顕家の化身が桜となって帰ってくると思い、宗良親王も桜を見ると、かつて戦友であった顕家を思い出し、親房と同じ気持ちであることを伝え、彼を慰めているのでしょう。

さそはるる はなの心はしらぬとも よそにぞという 春の山風
(風にのってにおいで誘ってくる桜の花の本音はわからないけれど 山風にのってにおう桜は昔の京を思い出すなあ)

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(醍醐寺の桜)

これも若き日の親房の歌なのですが、後年この歌を、思い出しているのではないかと思います。
醍醐寺は顕家の奏文が保管されています。もともと醍醐寺は南朝の拠点でもあり、村上源氏のゆかりの寺でもあるそうです。有名なのは豊臣秀吉の醍醐の花見ですが、私が訪れたときは、本当に桜の季節は見事な桜が数多く華麗に咲き誇っていました。

親房は、顕家の供養のため、正平七年四月一日(1352年5月22日)、安芸国海田庄の地頭職を高野山蓮華乗院に寄進しています。桜が散った頃に供養する親房の気持ちが伝わります。

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(高野山境内にある西行桜)


この数年、桜に季節には、親房の短歌を思いながら、大原や北山、男山、醍醐寺や奈良や吉野を歩いていました。

2008年03月25日

蔵の中

3月3日の夜中、「蔵の中」という映画を中古DVDで買ってきて見ました。これは1981年の映画で、横溝正史の原作なのですが、最初テレビで少し見て、自分の好みの映画だなあ、とおもっていたところ、家電店の中古DVDコーナーにありました。ある小間物問屋の子供に笛二という弟と小雪という姉がいました。小雪はとても美しい娘なのですが、5歳で耳が聞こえなくなり、娘盛りの年に胸を病み、人に病気を伝染さないようにと、家の蔵に暮らしていました。ところが弟の笛二は姉を異常に愛しており、姉と一緒に蔵の中で暮らし始めました。ある日笛二は蔵の中で望遠鏡を見つけ、蔵の天窓から覗いていると、隣の未亡人宅に、作家風情の男が出入りしていました。笛二は声の出ない姉の言葉を読み取る術をすでに身につけていたので、未亡人と男の会話を口の動きから読み取っていました。ふたりは首絞め遊びをしていて、ある日、男はその未亡人の首を絞めて殺してしまったのを目撃してしまいました。笛二は蔵の中の姉との生活や、窓から覗いた未亡人宅の話を、小説にして、その作家に届けました。その作家は驚いて笛二の家を訪ねて、使用人の娘に問いただすと、その家は笛二だけで、娘はいない、ということでした。つまり笛二の幻想の世界の小説だったのです。笛二が自分と幻想の姉を作り出し、最後は女装して自害したのです。

この笛二の幻想の、小雪という姉役がとても色っぽい女優で、松原留美子という人でした。ところが、なんとこの人男だったのです。1981年当時、ニューハーフの走りはこの人が作ったそうです。今から27年前のことですから、いまではいいおじさんでしょう。

この映画を居間のテレビで見ていたのですが、ちょうど5段飾りの雛人形が飾ってありました。この蔵の中という映画は実に公家文化に近いものを感じます。橋本治の「双調平家物語」を初めて読んで、公家の世界は、両刀遣いの多い世界でびっくりしました。
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保元の乱の首謀者である藤原頼長は、その日記に男色の活動を赤裸々に書いていることでも有名です。ちなみにこの息子が琵琶の名手、藤原師長で、前にも述べた「玄象」の主人公です。

ところが貴族の世界で「男色」が流行るのは、プラトンも言及しているようです。ハンス・ケルゼンというドイツの法哲学者の著作で「プラトンのエロス」(ケルゼン選集7 「神と国家」に収録)というのがあります。

その論文によると、プラトンは人を愛し教育し、教育しつつ愛してその共同体を愛の共同体とすることにあこがれ、人間形成と社会改造をその目標としました。

プラトンの思考の対象は教育と国家であり、その至上の問題は善と正義でした。ところがその情熱のベースが同性愛なのだそうです。そのころプラトンの住んでいるアテネの貴族社会には同性愛者がけっこういたそうです。この同性愛は異性との性生活を否定するものではなく、それを拡大し、豊かにするものだそうです。

昔、倫社の教科書で、ソクラテス、プラトンを言及する項目で、アテネの貴族たちが、ベッドの上で食事をしながら哲学的議論をするシーンがあるのを覚えていますか?あれはたぶん同性愛の行為もセットになっていたのではないでしょうか。

ただこれは公に認められているものではなく、アテネの刑法も同性愛を抑圧する態度で臨んでいるそうです。プラトンはその同性愛の肉欲部分を排除し、精神的なものへと昇華させました。そしてそこに芸術や哲学を生む土壌をつくったのでしょう。

おそらく日本の公家の同性愛も退廃的なものだけでなく、プラトン的な文化的意味も含まれていたことが想像できます。公家文化は短歌や漢学、歌舞音曲を中心とする学問芸術によって成り立っていました。その中で、男女の恋愛と政争があり、その延長上に同性愛があったのでしょう。

同性愛を昇華した例は近現代でもトーマス・マンの「ベニスに死す」や、アンドレ・ジイドの「狭き門」「田園交響楽」、日本では三島由紀夫が代表例でしょう。

もともと人は輪廻を男女交互に転生していくもので、前世のなごりの強い人が男同士や女同士で好きになったりする説もあります。そう考えるとちょっとロマンティックですね。残念ながら私にはそのところはさっぱりわからないのですが、そういう説明はなにか夢があっていいかな、とも思います。

日本とイギリスのもっとも大きな違いは、イギリスの貴族は率先して武器を取り、土地や王権を争い、血で血を洗う戦いをしていたのが、日本では、元来大化の改新以降、源平合戦まで大きな戦いはなく(平治の乱でも1000人規模の戦いだったそうです。)いかに日本の支配者層(公家)が戦争嫌いだったか、ということだと思います。ただ先ほど述べた藤原頼長も、暗殺は積極的におこなっていたので、陰での死闘は当然繰り広げられていたのでしょう。

もっともイギリスだって、1308年に即位したエドワード2世は男色家で有名で、側近を全部自分の恋人で占めて、フランス王の娘であるイザベラ王妃と対立し、最後は肛門に火箸を突っ込まれて、王妃に殺されました。亭主の男狂いを相当恨んでいたのでしょう。恐ろしい話です。

シェイクスピアのベニスの商人も、正義と友情のテーマに隠れて、実は男色家の話なのです。バッサニオに金を貸したアントニオは、自分の船の遭難により、その金を用立てたシャイロックに返済を迫られる。アントニオはバッサニオのために、シャイロックに殺されることを是とし、その覚悟をする。しかしこれは、実は友情ではなく、アントニオはバッサニオを愛しており、バッサニオの言う「妻より全世界より君の命が尊いと思うよ」と言う。この言葉は愛する男から聞いて死ねることが衆道のきわみだそうです。

そして驚くことに、シェイクスピアも男色家だったそうです。この話は長尾龍一氏の法哲学入門(講談社新書)に書かれていました。

大切なことは日本の公家たちが、いかに自分の縁故を天皇の后や傍女にすることが最優先課題で、恋愛ばかりして、地方への赴任にあまり行かなかったことが、武士の台頭を許し、公家政権は滅亡し、世の中を、南北朝時代以降戦乱続きにしてしまったことでしょう。当然といえば当然の結果かもしれません。アテネでもこのあとアレキサンダー大王のマケドニア王国にアテネはその独立性を失いました。

とにかく公家に限らず日本の歴史上の支配階級には男色家が多いようです。武田信玄と高坂昌信の手紙は有名だし、織田信長と前田利家、そして葉隠れにもそういうことが書かれています。

繰り返しになりますが、この手の話は私にはさっぱりわかりません。ですから、衆道を理解できない人間の推測なので間違えているに決まっていますが、たぶん主従のつながりは、昔は、お互い命がけだったのだと思います。お互い裏切られることは、すぐに死につながります。だから武士の時代以前は、肉体関係だけが信頼の証しであるのは男も女も変わらないのかもしれません。

そういえば、私の友人で奥さんに逃げられた人がいますが、当時は何度か、おかまバーにつき合わされました。彼は女は薄情だけどおかまは裏切らない、とわけのわからないことを言っていました。
ただそのとき、そのおかまたちは、とても美しく、男とは思えませんでした。またとても気配りがあり、精神的な温かみを感じました。彼の言っている意味も一理あるなあ、と納得していたことも記憶しています。

このおかまバーのように、公家は男も化粧をしていたので、相手を女性と見立てて擬似恋愛をしたのかもしれません。武家社会では、男の鎧姿はとても美しく、ナルシズムも混ざっているのかもしれません。

そういえば、旧ソ連やロシアでも政界幹部の親睦はサウナでおこない、お互いの一物を握り合う、という話も聞いたことがあります。

いずれにしろ、人を自由に殺せる時代には、肉体関係が心の絆の一手段として使われていたのでしょう。

女性が一見夢見がちなロマンティストに見えて、実は徹底的なリアリストであることが多いのと同様、公家社会も、短歌や歌舞音曲に彩られた王朝の雅を栄華した文化のようで、実は徹底的な現実主義的な世界だったのかもしれません。

公家から武士への権力移行は、源氏物語に象徴される、公家という女性的文化から、平家物語という両性具有的な文化を経て太平記や信長記、太閤記などの男性的文化へと変質していったことは確かです。

戦前までは、武士文化の延長だったようです。戦後、戦争放棄を憲法に掲げながら、高度成長を経て経済大国になった日本は一見公家文化へと回帰してきたようにも見受けますが、それにしては今日の日本は夢や文化が無さすぎます。位置づけが難しいですね。

今、テレビでは「おかま」という人たちが数多く活躍されています。藤原頼長は公家政権の終焉に出てきました。プラトンはギリシャ共和国の終焉に出てきました。今の日本はなにが終わろうとしているのでしょうか。その領域をまったく理解できない凡人の私にはわかりません。

2008年03月30日

また桜の季節がやってきました。
先週の金曜日、新人歓迎会も兼ねて近くの公園でお花見をしました。毎年、この催しをおこなっているのですが、いつも寒い思いをしています。なぜお花見をする日に限って寒いのでしょうか。2001年の春などは大雪が降りました。満開の桜に降る雪はとても美しかったのを覚えています。

よしの山 さくらが枝に雪ちりて 花おそげなる 年にもあるかな 西行
(吉野山の桜の枝に雪が舞い 今年は寒いので開花が遅れる年なのかな)
桜を背景にする春の雪は、いつの時代も人に感動をあたえます。

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(吉野山の桜)

土曜日には両親と河川敷のゴルフ場へハーフをやりに午後から行ったのですが、桜のほかにも桃や菜の花、ゆきやなぎが咲き乱れ、さながら桃源郷のようでした。

桜はとても美しいのだけれど一筋縄にはいかないようです。あまりにきれいなので、お花屋さんで枝を買ってはつぼに生けたり、鉢を買ったり、庭に植えようともしましたが、あまり縁起がよくないようなのでやめました。

桜は手に入れたりしてはいけない、なにか崇高な花なのかもしれません。
やはり神社の桜を時々眺めるのが一番安全で、気楽な楽しみ方のようです。

桜をテーマにした私の好きな短歌をご紹介します。

やはり始めは、百人一首で有名な

久方の ひかりのどけき春の日の しずこころなく花のちるらん  紀友則
(永遠にふりそそぐ のどかな春の日の光のなかで 静かに、無心に花がちっていきます)

西行はもちろん桜で有名な歌人です。

ほとけにはさくらの花をたてまつれ我がのちの世を人とぶらはば(私が死んだなら 桜を供養にたむけてください)

たかおでら あわれなりけるつとめかな うつろい花とつづみうつなり
(高雄寺でなんとういう趣き深いおつとめをされているのでしょう。桜の散る中で鼓を打つとは)

風にちる花のゆくへはしらねども をしむ心は身にとまりけり
(風に散る花びらがどこへいくのかはわからないけれど その散る花びらが 散るのを惜しむ心のように私の身にとまります)

いかでわれこの世のほかの思ひいでに風をいとはで花をながめん(どうしたことか 私はこの世の思い出に 強風をいとわず桜が散るのを見ていたい)

西行は前のブログでご紹介した藤原頼長と同時代の人です。もともと鳥羽院につかえていましたが、50歳のおり、鳥羽院の息子で保元の乱で敗れた崇徳上皇の霊を鎮魂するために讃岐をまわっています。そして藤原頼長の息子で琵琶の名手の師長は保元の乱で一度土佐に流された後、1164年に許され都に帰り、1177年に太政大臣になりましたが、1179年の平清盛のクーデターで尾張に流されました。平家物語の「大臣の配流」の項目です。

平家物語といえば、

平忠度の
さざ浪や 志賀の都は あれにしを 昔ながらの 山ざくらかな

というのが有名です。
埼玉県岡部町の岡部六弥太が忠度を討ち取った際、よろいについていた一首が上の句でした。

私は、
ゆきくれて木のしたかげをやどとせば 花やこよいのあるじならまし
が好きです。

平家物語つながりでいえば、
後白河院が建礼門院を寂光院にたずねたとき、
池水に 水際の桜散りしきて 浪の花こそ さかりなりけれと読みました。

今日はここまでにしておきます。

2008年04月27日

高村光太郎と私

私は中学時代から好きな詩がありました。

高村光太郎の「さびしきみち」です。

かぎりなくさびしけれども
われは
すぎこしみちをすてて
まことにこよなきちからのみちをすてて
いまだしらざるつちをふみ
かなしくもすすむなり

・・・・・・・そはわがこころのおきてにして
またわがこころのよろこびのいずみなれば

わがめにみゆるものみなくしくして
わがてにふるるものみなたえがたくいたし
されどきのうはあぢきなくもすがたをかくし
かつてありしわれはいつしかにきえさりたり
くしくしてあやしけれども
またいたくしてなやましけれども
わがこころにうつるもの
いまはこのほかになければ
これこそはわがあたらしきちからならめ
かぎりなくさびしけれども
われはただひたすらにこれをおもう

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私は中学生のとき、この詩を知ってから今に至るまで、毎日のように心の中で念仏のようにとなえています。

2008年05月25日

五月の短歌

春風にけづりもみやらぬ神なびの みむろの岸の青柳のいと

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五月まつ山ほととぎすうちはぶき 今もなかなん去年の古声

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五月雨物思いすればほととぎす 夜深きなきていづちゆくらむ 紀貫之

わが宿の池の藤なみ咲きにけり 山ほとどきすいつかきかなむ

五月待つ花橘の香をかげば 昔の人の袖の香ぞする

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うたたねの夢にはきつるほととぎす 思い合わせる一声もがな

昔みし平野にたてるあや杉の すぎにけりとてわれなわすれそ
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8年へし波の枕のよるの夢 さめれば花のうてななりけり

我が上に月日は照らせ神路山 あおぐこころにわたくしはなし

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ことわれよ神々ならばゆうだすき かけてちがひし末の言の端

八百日ゆく浜のい真砂の数知らず 悟れる人もありけるものを

いづかたの道ある御代もちかければ またも越えなむ白河の関

2015年10月12日

鎌倉薪能

先日、初めて鎌倉薪能に行きました。

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私は小さい頃から三島由紀夫、川端康成、小林秀雄、立原正秋という作家が好きで、その影響でしょうか、中学生の頃から能に惹かれていました。

立原正秋は大学生のころ、根津甚八主演の[恋人たち]というドラマが面白かったのをきっかけに読むようになりました。彼の小説はとても屈折した大衆小説ですが、何度も映画にもなり、しかもその根底には三島、川端、小林秀雄の文学が流れていました。

三島、小林はあまりに天才すぎて現実との接点が難しいのですが、川端は独自の世界観は具象的であり、立原の小説は、現実にはいないけれど、一種魅力的な男女の悲劇的な恋物語として気軽に読めます。

鎌倉薪能は私が生まれる前年から始まりました。立原正秋の出世作がこの薪能を題材にした[薪能]という小説です。立原はちょくちょくこの薪能を題材に評論や小説にあげています。

舞台は鎌倉宮です。鎌倉宮は明治2年に明治天皇の指示で、南北朝時代、後醍醐天皇の息子である護良親王が、殺害されたこの地に神社を建てたのでした。

護良親王は南北朝時代、鎌倉幕府を倒し、建武の新政第一の功労者でありましたが、武士の代表である足利尊氏と対立して、自分の息子を皇太子にしたい阿野廉子の讒言などから、後醍醐天皇自ら我が子である護良親王を足利尊氏に引き渡してしまったのです。

そして1335年中先代の乱が起こると、足利直義によって鎌倉宮の奥にある石牢で殺害されました。

護良親王の妹である用堂尼が、東慶寺に入り、護良親王を弔いました。鎌倉宮や、その隣にある護良親王陵は東慶寺が管理しているそうです。

その554年後、明治維新に、なぜか北朝系であるはずの明治天皇が南朝の建武の新政で活躍した人たちを次々に祭り官幣大社にし、全国で15の南朝関係の神社が明治に誕生しました。さらになぜかその一番目が鎌倉宮でした。

そのうち3つ(阿倍野神社、霊山神社、北畠神社)は北畠顕家を祀っています。

間接的にとはいえ、父である後醍醐天皇が、護良親王を足利尊氏に渡してしまったことが彼の死に繋がります。思えば、護良親王は、どれほど悔しい思いで死んだことでしょう。
もし彼が生きていたら、建武の親政はこんなにも早く崩壊することはなかったはずです。
そして、武士の世はこなかったかもしれません。イギリスのように貴族が武装する時代が続いたかもしれません。


鎌倉駅を降りるとポツポツ雨が降り始め、ちょうど30分歩いて宮に着く頃は本降りになってきました。

入り口でポンチョを借りると、益々降る雨の中、開演となり、市長の挨拶のあと、神主が祝詞を唱え、山伏の法螺貝の音とともに始まりました。

最初は謡から始まり、狂言に移り、いよいよメインイベント、能の演目は恋重荷です。時は平安中期、もっとも皇室が権勢を誇った白河法皇の時世、御所の庭の菊を手入れする庭師の翁がいました。この翁は白河法皇の寵のある女御に恋をしたのです。

それを知った女御は、池の周りを思い荷物を何周も回れば、その間、翁に姿を見せようと、お付きの家人から伝えさせたのでした。

張り切った翁はその用意された重荷を動かそうと張り切ったのですが、全く動きませんでした。翁は悲嘆してその場で死んでしまいました。

これは世阿弥の作品なのですが、こういう翁の恋をからかって騙すという演目で綾の鼓というのもあります。これも同じように女御に恋した掃除の翁に渡したつつみで見事な音を出したら恋を成就させてやろう、とならないつつみを渡して、鳴らなかったので悲嘆にくれた翁が池に飛び込むという話です。

世阿弥はなぜこんな屈折した演目を二つも作ったのだろうか。世阿弥の父親観阿弥は楠木正成の妹の子供だそうです。能が南朝の諜報活動の一端を担いながら、室町幕府の庇護の元で発展した複雑な動きをします。

観阿弥の突然死も、世阿弥の佐渡への島流しも、世阿弥の息子元雅の突然死もその関係に起因するのでしょう。

薪能の舞台はまさに佳境にはいります。
翁の騙された怒りは、亡霊となって女御の前に現れます。鎌倉宮のこの舞台で、美しい女御とコントラストな翁の亡霊。私はその亡霊に釘づけになりました。それは、まさに翁に鎌倉宮の祭神、護良親王が降臨したようでした。

翁は怒りを女御にぶつけます。しかし最後は女御を許し、守り神になるぞ、と言い残して消えていきます。

なんともストーリー的には、変なストーリーです。しかし、この物語に世阿弥はなにか隠すものがあったのでしょう。

とても感動的な一夜でした。

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