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「ミヨリの森」を見て

 先日、フジテレビで「ミヨリの森」というアニメを見ました。偶然、テレビをつけたら、宮崎駿の新しい映画でもできたのか?と思い、しばらく見ていると、とてもいい感じなので最後まで見てしまいました。途中から見たので、あらすじは正確にはわかりませんが、東京っ子ミヨリは母親が自分を捨てて家出した後、祖父母の住む田舎で暮らし始めます。そこで、村の子供と最初はなじまないのですが、だんだん打ち解けていく。またミヨリの祖母に霊能力があり、その能力がミヨリにも備わっていて、森の精霊や座敷童などとも友達になる。ある日、ダムの計画でその村が水没する危機に見舞われる。それを森の精霊たちと救う物語です。印象的なのは一本桜の精がミヨリに水の循環を教えたところです。

 われわれの血はもとをただせば、海のプランクトンから始まるのです。それが魚になり、陸に上がり、哺乳類が生まれ、猿が現れ、人間へと進化する。その間中にも雨は降り、川に流れ、地下へと浸透し、海に流れ、水蒸気となって上がり雲となる。その循環は地球が誕生して海ができてから延々と続く。その映像を見ながら、8月に登った福島の宇津峰山のことを思い出しました。

 ここは須賀川市と郡山市の境にあり、南北朝時代、南朝の後醍醐天皇の孫である守永親王や北畠親房の次男である顕信が立てこもり、東北での南朝最後の軍事拠点となりました。標高677メートルのこの山の600メール付近で湧き出る清水を飲んだとき、とてもおいしくて感動しました。

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この清水がいつから湧き出たかは知りませんが、少なくとも600年もの昔、自分と血縁である人たちもここに立てこもって、この水を飲んでいたのです。当時は血なまぐさい戦乱のさなかで、水も食事も思うように手に入りにくく、この湧き水にどれほど立てこもっていた人は感動していたことでしょう。「水のおいしさ」という感覚が600年前の人々との共感として伝わってきます。今は野草の花が咲き乱れ、黄アゲハやオニヤンマが涼しげに飛んでいました。

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 人の死はDNAを新鮮に保つために存在する、という論がありますが、DNAに意思があれば(そのようなことは当然想像の世界だけですが)、人は親から子、孫と肉体を移り変わらせながら、いろいろなことを感じるはずです。また親の代でできなかったことを子供の代や孫の代で実現させたいと思うでしょう。歴史はそんな気持ちで学んだり、感じたりして楽しむものだと私は思います。

 「ミヨリの森」は循環する自然の大切さを主題としたものでしたが、5月に訪れたシアトルでの経験「シアトル雑感」(このひとつ前のブログ)にも通じるものでした。ヨーロッパはすでに多くの国が循環型社会そのものです。もちろんビジネスにも循環思想が取り入れられるべきでしょう。ビジネスが永遠に右肩上がりであることは幻想です。かならず波があるはずです。あらゆるものに歴史があり、よいときもあり、悪いときもあり、寒暖があり、悲喜こもごもです。人はそういった感覚を取り戻すことで、生を謳歌できるのかもしれません。

よいときを謳歌するのは当たり前です。悪いとき、寒いとき、悲しいときを謳歌する術を身につけるにはどうしたらよいのでしょう。

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2007年09月17日 18:58に投稿されたエントリーのページです。

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