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蔵の中

3月3日の夜中、「蔵の中」という映画を中古DVDで買ってきて見ました。これは1981年の映画で、横溝正史の原作なのですが、最初テレビで少し見て、自分の好みの映画だなあ、とおもっていたところ、家電店の中古DVDコーナーにありました。ある小間物問屋の子供に笛二という弟と小雪という姉がいました。小雪はとても美しい娘なのですが、5歳で耳が聞こえなくなり、娘盛りの年に胸を病み、人に病気を伝染さないようにと、家の蔵に暮らしていました。ところが弟の笛二は姉を異常に愛しており、姉と一緒に蔵の中で暮らし始めました。ある日笛二は蔵の中で望遠鏡を見つけ、蔵の天窓から覗いていると、隣の未亡人宅に、作家風情の男が出入りしていました。笛二は声の出ない姉の言葉を読み取る術をすでに身につけていたので、未亡人と男の会話を口の動きから読み取っていました。ふたりは首絞め遊びをしていて、ある日、男はその未亡人の首を絞めて殺してしまったのを目撃してしまいました。笛二は蔵の中の姉との生活や、窓から覗いた未亡人宅の話を、小説にして、その作家に届けました。その作家は驚いて笛二の家を訪ねて、使用人の娘に問いただすと、その家は笛二だけで、娘はいない、ということでした。つまり笛二の幻想の世界の小説だったのです。笛二が自分と幻想の姉を作り出し、最後は女装して自害したのです。

この笛二の幻想の、小雪という姉役がとても色っぽい女優で、松原留美子という人でした。ところが、なんとこの人男だったのです。1981年当時、ニューハーフの走りはこの人が作ったそうです。今から27年前のことですから、いまではいいおじさんでしょう。

この映画を居間のテレビで見ていたのですが、ちょうど5段飾りの雛人形が飾ってありました。この蔵の中という映画は実に公家文化に近いものを感じます。橋本治の「双調平家物語」を初めて読んで、公家の世界は、両刀遣いの多い世界でびっくりしました。
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保元の乱の首謀者である藤原頼長は、その日記に男色の活動を赤裸々に書いていることでも有名です。ちなみにこの息子が琵琶の名手、藤原師長で、前にも述べた「玄象」の主人公です。

ところが貴族の世界で「男色」が流行るのは、プラトンも言及しているようです。ハンス・ケルゼンというドイツの法哲学者の著作で「プラトンのエロス」(ケルゼン選集7 「神と国家」に収録)というのがあります。

その論文によると、プラトンは人を愛し教育し、教育しつつ愛してその共同体を愛の共同体とすることにあこがれ、人間形成と社会改造をその目標としました。

プラトンの思考の対象は教育と国家であり、その至上の問題は善と正義でした。ところがその情熱のベースが同性愛なのだそうです。そのころプラトンの住んでいるアテネの貴族社会には同性愛者がけっこういたそうです。この同性愛は異性との性生活を否定するものではなく、それを拡大し、豊かにするものだそうです。

昔、倫社の教科書で、ソクラテス、プラトンを言及する項目で、アテネの貴族たちが、ベッドの上で食事をしながら哲学的議論をするシーンがあるのを覚えていますか?あれはたぶん同性愛の行為もセットになっていたのではないでしょうか。

ただこれは公に認められているものではなく、アテネの刑法も同性愛を抑圧する態度で臨んでいるそうです。プラトンはその同性愛の肉欲部分を排除し、精神的なものへと昇華させました。そしてそこに芸術や哲学を生む土壌をつくったのでしょう。

おそらく日本の公家の同性愛も退廃的なものだけでなく、プラトン的な文化的意味も含まれていたことが想像できます。公家文化は短歌や漢学、歌舞音曲を中心とする学問芸術によって成り立っていました。その中で、男女の恋愛と政争があり、その延長上に同性愛があったのでしょう。

同性愛を昇華した例は近現代でもトーマス・マンの「ベニスに死す」や、アンドレ・ジイドの「狭き門」「田園交響楽」、日本では三島由紀夫が代表例でしょう。

もともと人は輪廻を男女交互に転生していくもので、前世のなごりの強い人が男同士や女同士で好きになったりする説もあります。そう考えるとちょっとロマンティックですね。残念ながら私にはそのところはさっぱりわからないのですが、そういう説明はなにか夢があっていいかな、とも思います。

日本とイギリスのもっとも大きな違いは、イギリスの貴族は率先して武器を取り、土地や王権を争い、血で血を洗う戦いをしていたのが、日本では、元来大化の改新以降、源平合戦まで大きな戦いはなく(平治の乱でも1000人規模の戦いだったそうです。)いかに日本の支配者層(公家)が戦争嫌いだったか、ということだと思います。ただ先ほど述べた藤原頼長も、暗殺は積極的におこなっていたので、陰での死闘は当然繰り広げられていたのでしょう。

もっともイギリスだって、1308年に即位したエドワード2世は男色家で有名で、側近を全部自分の恋人で占めて、フランス王の娘であるイザベラ王妃と対立し、最後は肛門に火箸を突っ込まれて、王妃に殺されました。亭主の男狂いを相当恨んでいたのでしょう。恐ろしい話です。

シェイクスピアのベニスの商人も、正義と友情のテーマに隠れて、実は男色家の話なのです。バッサニオに金を貸したアントニオは、自分の船の遭難により、その金を用立てたシャイロックに返済を迫られる。アントニオはバッサニオのために、シャイロックに殺されることを是とし、その覚悟をする。しかしこれは、実は友情ではなく、アントニオはバッサニオを愛しており、バッサニオの言う「妻より全世界より君の命が尊いと思うよ」と言う。この言葉は愛する男から聞いて死ねることが衆道のきわみだそうです。

そして驚くことに、シェイクスピアも男色家だったそうです。この話は長尾龍一氏の法哲学入門(講談社新書)に書かれていました。

大切なことは日本の公家たちが、いかに自分の縁故を天皇の后や傍女にすることが最優先課題で、恋愛ばかりして、地方への赴任にあまり行かなかったことが、武士の台頭を許し、公家政権は滅亡し、世の中を、南北朝時代以降戦乱続きにしてしまったことでしょう。当然といえば当然の結果かもしれません。アテネでもこのあとアレキサンダー大王のマケドニア王国にアテネはその独立性を失いました。

とにかく公家に限らず日本の歴史上の支配階級には男色家が多いようです。武田信玄と高坂昌信の手紙は有名だし、織田信長と前田利家、そして葉隠れにもそういうことが書かれています。

繰り返しになりますが、この手の話は私にはさっぱりわかりません。ですから、衆道を理解できない人間の推測なので間違えているに決まっていますが、たぶん主従のつながりは、昔は、お互い命がけだったのだと思います。お互い裏切られることは、すぐに死につながります。だから武士の時代以前は、肉体関係だけが信頼の証しであるのは男も女も変わらないのかもしれません。

そういえば、私の友人で奥さんに逃げられた人がいますが、当時は何度か、おかまバーにつき合わされました。彼は女は薄情だけどおかまは裏切らない、とわけのわからないことを言っていました。
ただそのとき、そのおかまたちは、とても美しく、男とは思えませんでした。またとても気配りがあり、精神的な温かみを感じました。彼の言っている意味も一理あるなあ、と納得していたことも記憶しています。

このおかまバーのように、公家は男も化粧をしていたので、相手を女性と見立てて擬似恋愛をしたのかもしれません。武家社会では、男の鎧姿はとても美しく、ナルシズムも混ざっているのかもしれません。

そういえば、旧ソ連やロシアでも政界幹部の親睦はサウナでおこない、お互いの一物を握り合う、という話も聞いたことがあります。

いずれにしろ、人を自由に殺せる時代には、肉体関係が心の絆の一手段として使われていたのでしょう。

女性が一見夢見がちなロマンティストに見えて、実は徹底的なリアリストであることが多いのと同様、公家社会も、短歌や歌舞音曲に彩られた王朝の雅を栄華した文化のようで、実は徹底的な現実主義的な世界だったのかもしれません。

公家から武士への権力移行は、源氏物語に象徴される、公家という女性的文化から、平家物語という両性具有的な文化を経て太平記や信長記、太閤記などの男性的文化へと変質していったことは確かです。

戦前までは、武士文化の延長だったようです。戦後、戦争放棄を憲法に掲げながら、高度成長を経て経済大国になった日本は一見公家文化へと回帰してきたようにも見受けますが、それにしては今日の日本は夢や文化が無さすぎます。位置づけが難しいですね。

今、テレビでは「おかま」という人たちが数多く活躍されています。藤原頼長は公家政権の終焉に出てきました。プラトンはギリシャ共和国の終焉に出てきました。今の日本はなにが終わろうとしているのでしょうか。その領域をまったく理解できない凡人の私にはわかりません。

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2008年03月25日 14:29に投稿されたエントリーのページです。

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