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2008年02月03日

陵王の舞

北畠顕家を、もう少し紹介させていただきます。顕家が歴史上はじめて登場するのは増鏡です。1331年3月、後醍醐天皇が北山(今の金閣寺、中宮の実家)へ行幸の折、宴会で顕家が陵王の舞を舞い、それが実にけなげであった、と記されています。顕家13歳の時でした。
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「暮れかかるころ、桜の花の木の間に、夕日が華やかにうつろい、山の鳥もしきりに鳴いて、陵王の舞人が輝くような美しさで舞い出でてきたのは、ほんとうにすばらしい光景でありました。そのとき、天皇も御引直衣(ひきのうし)で椅子に座り、笛を吹かれました。いつもよりさらに雲井までに響いておりました。その舞人、宰相中將顯家は陵王の入綾を実に見事に妙技を尽くして退場するのを、お上は呼び返し、前関白に自らの紅梅の表着・二色の衣を渡させました。顯家はその衣を左の肩にかけ、少し舞って退場しました。右大臣が太鼓を打ち、その後源中納言具行(北畠具行、顕家の叔父)が採桑老を舞いました。具行も紅の衣をお上からいただきました。」(増鏡 下 北山行幸)

陵王の舞とは昔、中国の北斉に蘭陵王で知られる将軍がいました。眉目秀麗な名将であった蘭陵王が、美貌を獰猛な仮面に隠し、戦に挑み見事大勝したため、兵たちが喜んでその勇士を歌に歌ったのが曲の由来とされています。しかし陵王は謀反の嫌疑をかけられ、粛清されてしまいます。

粛清まではされなかったものの、その後の顕家の運命を暗示させる舞いでした。

話は飛びますが、1991年NHKの大河ドラマ「太平記」で後藤久美子が顕家を演じていました。このときの舞も桜の季節で、ちょうど顕家の舞から660年前になります。神武暦と西暦は660年だから1331年当時は神武暦1991年になるのです。ちょっとした偶然です。16歳までは学問と芸術にのみ従事し、建武の親政になるや否や、いままで訓練もしたことのない弓矢を持たされて、いきなり氾濫で荒れ狂う東北の地へ放り込まれたのです。ところが不思議なことに武家の棟梁である北条氏も持て余した東恵比寿たちを,舞のほうが似合っている公家のいたいけな少年が治めてしまったのです。それはそれは苦労したでしょう。その苦労は前回ご紹介した遺書ともとれる奏文にあります。

「小臣、もと書巻を執りて軍旅の事を知らず。忝(かたじけな)くも ふっ詔(しょう)を承り、艱難の中に跋渉(ばっしょう)す。再び大軍を挙げて命を鴻毛に斉(ひとし)うす。幾度か挑み戦いて身を虎口に脱(のが)れし、私を忘れて君を思い、悪を却け正に帰せんと欲するの故なり。」(顕家奏文 7条)

(私はもともと文官であり、軍事の知識はまったくありませんでした。しかしもったいなくも
お上よりの命令をいただき、困難の中を、山を乗り越え、水の中をわたりまくりました。大軍を挙げて鴻毛のごとく何度も危ない目に会いました。私心を捨てて、君を思い、悪を退け正義をとりもどそうとしたいからこそ、なんども身を虎口に逃れる羽目になっても、幾度も大きな敵に戦い挑んできたのです。)

NHKの大河ドラマで太平記を見ていたのは私が31歳のころでした。ちょうど今のメディアファイブをつくるきっかけとなる、教育ソフトビジネス研究会のコンソーシアムを、当時勤めていたシンクタンクで立ち上げて、1週間に3日徹夜していました。今のメディアファイブの教育ソフトのラインナップは当時の構想がベースとなっています。あまりの無理がたたり、私は網膜はく離になってしまいました。そして5月22日に入院し、すぐに手術をし、6月9日の日曜日、つまり私の誕生日に目は包帯をしていてほとんど見えなかったので、顕家の戦死のシーンを病院の大部屋のベットで、イヤホンをテレビにつなげて聞いていました。

その次の日6月10日は、前回も申しましたが、旧暦に直すと5月22日、顕家の命日なのです。
NHKがわざと顕家の命日を意識して、戦死のシーンをこの日にしたかどうかは定かではありませんが。

創作 石津

 顕家の戦死のときの心境を想像してみました。

 何時間たったろう。もうなにも感じない。水平線から40度の位置にある太陽は立ち上る煙で霞んでどんよりよどんでいる。いやもう日に赤みがさしている。夕方に近いのかもしれない。砂浜に寄せる波の音が静かに響く。いや雲も出てきたようだ。 いやな午後だ。こんな退廃的な気分でいるのは久しぶりだ。初めて大負けした般若坂の戦いのときもこのような気分だった。こんなどんよりした天気だったのかもしれない。左手に神社が見える。小さなほこらが立っている。

 後ろから矢がひゅうっ、ひゅうっと2,3本飛んできた。振り返ると、一斉に矢が飛んでくる。立ちこめる煙の中からものすごい量の矢がこちらめがけてとんでくる。敵だ。しかし敵の姿は見えない。いやこんな大量の矢がとんでくるとしたら、敵陣かもしれない。向きをくるりと変え、馬に備え付けている盾をとった。

 通り雨が振り出した。さっきまで太陽が顔を出していたのに、時雨かな。父上が時雨を歌によく詠んでいたなあ。お胴にあごを乗せる。紐や金具があたりざらざらする。雨にまじった血と唾の匂いがなにか生臭い。

 左足に鈍い痛みを感じた。膝に矢が刺さった。供のものは何人いるだろう。この敵陣を突破しなければ吉野へはいけない。とても突破できる気はしない。顕家にとって、かれを阻んでいるものはもはや敵という「人」のあつまりではなかった。義を阻むなにか人間の救いようのない欲望の壁のように感じた。この壁を突破するにはこれから何百年とかかることを確信した。何回も転生を繰り返さなければこの壁は突破できない。 ここが死に場所だ。父上、おさらばでございます。 煙の立ちこめた彼方から、とぎれることなく無数の矢は飛んでくる。琵琶の音のように鋭く乾いていた音で横をかすめる。しかし静かだ。心臓の音だけが低く、ゆっくりと、しかし確実なリズムで地の底から響くように聞こえる。どど どど どど どど どど どど 。顕家は娘を思い浮かべようとして、やめた。あまりにも悲しすぎる。宗広、親朝、頼んだぞ。そして気持ちを振り切るかのように腹の底から叫んだ。「出撃!」。すると「おう!」と思いもかけない大きな歓声がわき起こった。こんなにも味方はいるのか。そんなはずはない。しかし、もうまわりを見合わす余裕もない。血で視界もままならない。しかしこのつわものたちはこの先何百年も自分についてきてくれる頼もしさとありがたさを感じた。

 矢はあいかわらず横殴りの雨のようにふってくる。「どう」と馬の腹を蹴ると 矢の方向に向けて突撃した。左目の上に矢が刺ささった。兜のつばを突き抜けてのことだから、脳までは鏃は達してはいまい。まだ意識はある。でもどんどん視野が狭くなる。かすかに左手に松の木の林が見える。

ふと木の陰からなにものかが襲いかかる。「我こそは越生左右衛門丞四郎である。そちらにおわすは北畠顕家公とお見受けいたす。尋常に勝負」前方で叫んでいる言葉もとぎれとぎれに聞こえる。もう体は動かない。地べたにたたきつけられる衝撃を感じた。そしてたぶん背中から何度も刺されているのだろう。痛みはもう感じない。ただなぜかなま暖かい液体が鎧のなかに流れてくるのがわかる。もうだめだろうな。そう思っている時間が限りなく長い。だれかもう一人近寄ってくる気配があった。背後が騒がしい。遠くから「殿」と叫ぶ声が聞こえる。あああれは南部の声だ。生きていたのか。よかった。 そう思った瞬間、首になにかひやりとあたった。そしてその冷たさがゆっくりと右から左に流れた。なぜか松の枝と煙の間から青空が少し見えた。そして記憶はそこで途絶えた。

 何時間たっただろう。何日たったのか。何年か。今伊勢の山の中にいます。静かだ。限りなく静かだ。ああ自分は死んでよかったのだろうか。取り返しのつかないことをしてしまった。 父上の思想をひろめることこそ自分の役割ではなかったのか。戦いに勝ち、権力を御上の手に取り戻すことばかり考えていた。自分は戦が得意であったばかりに、戦に勝つことばかりを考え、戦にかつ最大の目的は民の安寧にあり、後醍醐帝のもとではそれがかなわないのではないか、という絶望感から死を選んでしまったようだ。もちろん長きにわたる戦いに疲れてもいた。思想など安定した社会を実現してはじめて可能なことだ。戦いの最中にはそんなものは無力に思えた。

 たとえ権力は尊氏に奪われても、思想を確立しておくことがもっとも大切だったのではないか。父上のお考えになる天下を維持することは難しいかもしれない。しかし伊勢や吉野だけでも確保し、維持させるのはそう難いことではない。そうして父上の思想をしかるべき世のために確固たるものにしておくべきだった。私の戦略は時間を背に展開してきた。時間に追いつかれた時が負けだと思っていた。般若坂の時もそうだった。石津のときもそうだった。私は生まれてからいつも時間より先に生きた。

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(般若坂から東大寺の裏手に出る)

 しかし時間をまつことも大切だ。こんど生まれる機会を与えられたら、待つことの得意な人間になろう。待つことの得意な人生。老齢になるまで、世に知られず、普通の人生をおくり、当たり前の暮らしをし、時間をかけて父の教えを広めるのだ。そして時を待つのだ。人が人として生きる世を待つのだ。

 ああそういう暮らしをしてみたかった。そういう人生をおくり、学問を整え、確立することが、本当に世の中のためになるのかもしれない。自分は歌らしい歌すらも残さなかった。もう今となってはどうにもならない。そうおもうと悔しさで胸がいっぱいになった。父に申し訳ない、あれだけ偉大な知識人を父に持ちながら、自分は父の思想を広める立場にいながら、なにもできずにしんでしまった。滅びの美学は、死んでみると底が浅いように思える。いいようのない後ろめたさが残った。

ここに顕能はまだおるのか。もう館はないぞ。草もぼうぼうではないか。

そしてそこでまた記憶はとぎれた。

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(霧山城跡)

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(霧山城跡から望む)

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(現在の堺市石津川)

世の中万事塞翁が馬

先日、母校である埼玉大学の授業で話す機会がありました。自分の出た研究室の三輪先生に挨拶にお伺いしたら、ちょうど今教養部で(1年生)「社会を覗く」、とかいう授業をやっていて、地元の中小企業に就職するのも面白いぞ、という講義をしており、ちょうど君はそれに当てはまるから、少し授業で話してくれないか、とおっしゃいました。私は社員募集のお願いに来たものだから、是非話をさせてください、と二つ返事で引き受けました。

話は、自分がなぜこの大学に入り、学び、就職し、今日に至ったか、そして今日の自分がいかに偶然の重なりの上にたっているか、ということです。そもそも学生でおもいつく職業は限られていて、学生時代の将来の志望なぞあてになるもではありません。
その辺のところをお話させていただきました。下記の内容は話した内容をもう少し詳しく言及しています。

私は高校時代、いわゆる「文学少年」でした。1年生のとき剣道部をやめてから、毎日の生活は、学校の登下校時は文庫本を読み、家に帰ると古典全集を読み、フルートとピアノを弾き、剣道の素振りを3千回おこなう、というのが日課の変な高校生でした。ただ数学だけは好きで、大学への数学だけは毎日解いていました。白いノートに鉛筆で解答を書くことがとても面白かったのです。

とにかくうだつのあがらない、変な文学少年であった私は、一生本を読んで、フルートを吹いて人間関係のしがらみから離れた,哲学者ショウペンハウエルのような人生を送ることを夢見ていました。そこで最初は三島由紀夫の「午後の曳航」という小説にあこがれて船乗りになろうと思い、商船大学を目指そうと、理系に入ったのですが、入試の応募条件が視力1.0以上でないとダメ、ということで、あきらめました。次に北杜夫のドクトルマンボウ航海記を読んで、船医になろうと医学部を目指しましたが、当時医学部は受験ブームで、最難関で、学力が追いつきませんでした。音楽大学を目指そうとも思いましたが、それほど才能があるとも思えず、結局将来やりたいこともわからず、聞こえのよさそうな大学をミーハーに受けては落ちて、そうこうしているうちに2浪目に突入しました。そして受験科目が私の得意な数学と国語、という理由だけで埼玉大学の教育学部を受けました。当時校内暴力に中学、高校は荒廃していて、そのような中にいくのはいやだ、と思い、小学校国語を第1志望にしました。なにか劇団ひとりのエッセイのようになってきましたが、高校時代から大学にかけて、私は世の中すべてから否定されている感覚がありました。ただただ自分の文学や勉強の世界だけが自由だと思っていたのです。

大学1年のとき、一般教養科目で、数人でおこなう授業がありました。なぜかそこで法学特別講義に参加しました。ここではハンスケルゼンというドイツの法哲学者の「民主主義と国家」という英文テキストを数人で勉強しました。もともと数学が好きだった私は法学の、論理を組み立てる学問にたちまち魅了されました。ただちに長尾龍一先生が訳されたケルゼン全集を買いあさり、読み始めました。そして単純にも、法律がこんなに面白いのならば、弁護士になろうと考え、高い通信教育講座の教材を親に買わせました。しかし3日坊主とまではいかなかったものの、3ヶ月ぐらいで放り出してしまいました。

大学2年になり、教育学部の法学特講を受け、社会科に転科しようと思い、試験を受け、3年から三輪先生の法学研究室に入りました。当時、社会科学分野は経済学、倫理学、法学、社会学の4分野あり、合同合宿もあり、みんな議論ばかりしていました。法学研究室のテーマは終戦後の新憲法制定から始まり、高度成長期の法的問題、改憲問題、そして著作権法の改正問題などでした。

肝心の教育学部の授業は当時あまり興味がわかず、睡眠学習でした。ただ教育学部の必須の授業は出欠をとるものが多く、授業には出席しました。当時家庭教師をいくつもかけもちをしており、妙に具体的にあの子にこう教えようか、ああ教えようかと、知行合一的に身についたようです。

また小学校課程だったので、全教科を授業で学ばなければなりませんでした。しかし当時の授業を受けたことは、教育ソフトのプロデュースをしている今日、大変重要な私の財産になったのでした。卒論は憲法変遷論でした。このことについては別途また書きます。

クラブはジャズ研とワンダーフォーゲル部に入りました。最初剣道部に入ったのですが、2浪がたたり、閉ざされたくさい空間で4年すごすのが嫌になり、ワンゲルに変えました。だいたい昼ごろ学校に来て、昼食をワンゲルの部員がたむろしている第2生協に行き、研究室の授業がなければ、マージャンをするか、図書館でレポートを書いているか、デートをしているか。夕方からは家庭教師のバイトか、ワンゲルのトレーニングか、ジャズ研の練習にもときどき顔を出していました。ワンゲルのトレーニングはマラソンとサッカーでした。ワンゲルの当時の部長は中村次郎先生で、教育工学の大家であり、今や中村次郎賞なるものがあります。

研究室でのテーマは憲法制定過程の検証、戦後高度成長期の政策、憲法改正、著作権法の改正などでした。著作権法の改正は、当時、通産省と文化庁で、コンピュータプログラムの著作権の権利の範囲をめぐり、論争が活発化されていました。通産省はプログラムの進歩には著作権をある程度弱くしなければならない、と主張し、文化庁はプログラムの著作権を厳格に保護すべきだ、という主張でした。結論からすると、当時日本メーカーによる、IBMのメインフレームのプログラムコピー問題が大問題となり、米国の圧力で文化庁の案が採択されました。このとき高度情報化社会について徹底的にしらべ、僕は
ネット社会では直接民主制をはじめ、今日の社会の弊害を取り除けるのではないか、という希望をもちました。ネット革命論なる論文を書いたのを覚えています。ネット社会になれば、いろいろな社会の矛盾も解消し、人間性豊かな社会を実現できるのではないか、という内容でした。今自分がやっていることはこのときの構想がベースになっています。それで、いまやっているプロジェクトを「NextRevolution」となずけているのです。その当時の内容についても別の機会でお話します。

当時研究室では、三輪先生の方針で、本や資料にこだわることなく自由にみんなで議論しました。社会科学分野なので、経済学研究室、社会学研究室、倫理学研究室と合同でゼミや合宿をすることもありました。いろいろな視点から同じテーマを議論しあうのはとても楽しく勉強になりました。とにかく議論ばかりの大変活気のあるゼミでした。この4年間は大変私の財産になりました。

まあクラブを掛け持ちし、好き勝手に勉強したり、マージャンもよくよくやっていたので、1年のときは9単位、2年のときは22単位しか取れませんでした。3年、4年であとの全単位を奇跡的にとり、一応外資系の保険会社にも内定はしたのですが、ちょうど秋も深まる11月ごろ、学務から一本の電話がありました。「あのう、一般教養で単位が1単位足りないのです。」私は学校にすぐに飛んで行きました。なんと一般教養科目で「心理学」が必修なのに、間違えて「倫理学」をとってしまっていたのです。目の前が真っ暗になりました。しかし結局、国立大学では、単位のお目こぼしは「法律違反」となるので、留年になりました。

まあ仕方なく留年になったのですが、2浪1留ではどこの企業にも入れない、と落ち込みました。ならば学科試験のあるところを狙おう、ともちろん教育学部だったので、小学校の採用試験、国家上級試験、新聞社などいろいろ受けたのですが、全部落ちました。ただ一箇所ひっかかったのが、コナミというゲーム会社でした。いまやコナミはゲームソフトのトップ企業として大企業になってしまいましたが、当時はまだ60人の社員に60人のわれわれ新入社員がはいったくらいの会社だったのです。会社説明でカスタムLSIとかなんとか説明があるのですが、なにをやる会社なのか、僕にはさっぱりわかりませんでした。
最初に配属されたのは本社の総務部でした。もちろん不動産の管理、文書の管理、いろいろな雑務もやるのですが、文書管理規定をつくったり、食堂の赤字を減らしたりとか、当時、コナミは大阪新2部という今でいうマザーズのようなところに上場していて、公募増資の準備や株主総会の手伝い、マーケティングなどもやらさせていただきました。総務部の男は課長と自分しかいなかったので、しかも私がいたこの3年で1部上場までいったのですから、本当にダイナミックで勉強になりました。

しかし2年目になると、早く東京に戻りたいために、営業を志望し、東京の営業本部に行きました。そこでパソコンゲームソフトの販売を担当したのです。今メディアファイブの主力であるパッケージソフトビジネスはここで覚えたことがベースとなっています。ソフトバンクさんとのお付き合いもこのときからです。当時のソフトバンクはまだ100人たらずで、まさか今のような日本を代表する企業になるとは夢にも思いませんでした。あれから23年、毎年ソフトバンクさんにお伺いするたびに、巨大化し、一流化、グローバル化していくさまは本当に驚嘆でした。最もコナミの急成長振りも同様ですが。コナミもソフトバンクも日本を代表する天才IT経営者で、身近でその手法を実感できたことは私にとって本当に幸運でした。

営業ではよく土日に家電量販店の店頭でゲーム大会を開きました。当時、コナミの主力商品である「グラディウス2」「サラマンダ」は大変な人気で、店頭でイベントをすると大変多くの子供たちが集まってきました。ゲームをチャンレンジして失敗するとまた後列に並びなおし、グラディウスの絵が書かれているテレホンカードをとれるまで何回でもチャレンジする子が本当に多かったです。私はこの有様を見て、このゲームに学習する機能がついたら、どれだけ子供たちは勉強がすきになるだろう、と強く思いました。それが教育ソフトに携わりたい最初の動機でもありました。しかしコナミは当時教育ソフトプロジェクトを撤退する方向であり、私は、これは一社で開発するのは難しい、と考え、今の日本総研の前身である「住友ビジネスコンサルティング」というところを応募しました。

「住友ビジコン」は当時、住友グループのシンクタンク的存在で、私のキャリアではとても入れなかったでしょうが、ちょうどバブルの絶頂期であり、ソフト化ということが注目されていて、当時の総合研究部長が非常に柔軟な方でもあって、奇跡的に合格しました。まあいわゆるバブル転職組です。

入ると、すぐに4週間の宿泊研修がありました。ここで、経営コンサルティングするためのあらゆるノウハウを学びました。人事管理、簿記、会計、思考法、ディベート、プレゼンテーション、生産管理、システム、マーケティング、貿易、経営、組織論などなど。MBAんの2年間でやるようなことを4週間で凝縮してやるので、本当にハードでした。しかし寝る前になると皆で議論し、本当に楽しい研修でした。立場や専門の異なる優秀な人たちとの議論は本当に勉強になります。しかし、振り返ると、埼玉大学での研究室での4年間も、議論ベースで皆が勉強し、田舎の大学ながら、すごいものがあったなあ、といまさらながら思いました。

最初についたリーダーは三石玲子氏でした。昨年残念ながら50歳の若さでお亡くなりになりましたが、これまた三石玲子賞なるものができるほどインターネットの世界では有名なかたです。当時はカードの専門家でした。なぜ僕は、パソコンソフトビジネスを行うために入ってきたのに、カードビジネスを手伝わなければいけないのか、と内心不満をもっていたのですが、今考えると、三石さんに指導していただき、非常に贅沢で、ありがたいことでした。もっとも彼女がご存命でおられたら、あまりそんなことを考えなかったのですが。

私は当時いろいろな人にお世話になったのに、本当に若気のいたりで不義理をしました。今の若い人でやはり自分の都合ばかり考えている人もたまに見かけますが、自分のことを振り返ると、まったく人のことは言えず、赤面の至りです。ただもしもっと自分に徳や義理があれば、今の状況はもっとよいものになっていたでしょう。

彼女が常日頃おっしゃっていたことは「背伸びしてはだめ。なにごとも基本が大事。」「ライフスタイルで考えること」「もっとよく考えなさい。世の中はそんなに甘くはないのよ」でした。

最近では彼女の書かれたものを手元に置き、いろいろ仕事に迷うと本を手にとってぺらぺらめくっているのですが、いつもそんな声が聞こえてきそうです。

メディアファイブは住友ビジコン時代に生まれました。その詳細は次の「メディアファイブ創業秘話」に書きますが、98年までの5年間は、会社の了解を得て、二束のわらじをはいていました。

95年、住友ビジコンは住友銀行と日本情報サービスと合併し、日本総研にかわりました。いまでは日本最大級のシンクタンクだそうです。

私はまだ発展途上にあり、成功を語る資格はありません。しかし周囲の成功された方を見ていると、世の中に成功術なる術はないと思います。ドラゴン桜は人の作った入試だから、それを突破する術はあるでしょう。でも人為の及ばぬ社会や人の一生に、こうすれば確実に成功する、という術はあろうはずもありません。誰が阪神大震災を予想しました?だれがバブルの崩壊を予想しました?だれが911を予想しました?現実は小説より奇なり、といいます。

今昔物語に「谷底に落ちても平茸をとる話」というのがあります。信濃の国司が任官から京へ帰る途中、山中でがけから落ちました。崖下から縄をおろせ、と声がするので、家来が言われたとおりにすると、こんどは引き上げろ、という。家来が引き上げてみると、中にきのこをいっぱい抱えながら、国司が乗っていました。そして「受領(国司)は倒れても土をつかめというではないか」と涼しい顔でいいはなったという話です。中学校の教科書などにのっていた話でご存知の方も多いと思います。成功のエッセンスはこういうところにあるのではないでしょうか。

私は最近数多くの成功している経営者に会う機会が増えましたが、成功している人の共通点は、素直で、与えられたチャンスや義務に誠実に、精一杯取り組み、失敗や不幸にも誠実に、精一杯乗り越えて、それをプラスに活かそうとしています。そして一生懸命、目の前のことを一つ一つ取り組んでいながら、すこしずつ自分の天命が理解できるようになっていくようです。

反対に失敗する人の共通点はどこか斜に構え、策略や陰謀を好み、自分だけが得することばかり考え、目先の判断で自分の人生を変えていこうとすることです。

世の中万事塞翁が馬とはよく言ったものです。それが成功の秘訣なのかもしれません。

メディアファイブ誕生秘話

それはある、研究会から始まりました。当時、住友ビジコン総合研究部(現日本総研)に属していた私は大手ハードメーカーや大学と組んで教育ソフトの研究会を主宰していました。そこに堺の教材会社の社長さんが参加しておりました。そしてそれがご縁で、その教材会社の新規事業のコンサルテーションをさせていただくことになりました。教育ソフトの開発です。初めてその会社にお邪魔してその帰り道、偶然に私と同じ苗字の地名を見つけました。そして北畠公園というのを見つけました。その奥にお墓があり、公園の3分の一をその墓の囲いで占められていました。柵の扉がしまっていたのでその前でなんとなく手を合わせながら、ひょっとしてこのコンサルティングが自分の人生を大きく変えるかもしれない、と予感しました。その墓は北畠顕家の墓でした。

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(北畠公園 顕家の墓)

顕家のことは、福島県岩瀬郡にある父の実家の村の会報誌や、父の話で知っていました。ただなぜかそのことは実家の方たちは、皆あまり話したがりませんでした。無関心なだけだったからかもしれませんが。

顕家は1318年に後醍醐天皇の側近である北畠親房の長子として生まれました。北畠家は村上源氏庶流であり、和漢をつかさどる家とされていました。以前玄象という能について書きましたが、そのなかで村上天皇が登場しています。その村上天皇を祖とし、臣下にくだされた家系が村上源氏の流れです。まあ今で言うと文部省と文化庁をあわせた役所の役人ということでしょう。顕家は1338年5月22日(旧暦)に足利尊氏方の高師直に堺の石津で討たれました。そして阿倍野の、今は公園になっているこの場所に葬られたそうです。

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(堺 石津川)
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(顕家慰霊塔 石津川ほとり)

教育ソフトの研究会は任天堂のスーパーファミコンがCD-ROMプレーヤーを出す予定にしていたので、そのフォーマットで出すことを念頭においた研究会でした。ところ任天堂は、CD-ROMプレーヤーのOEMを受け持つソニーとけんか別れし(その結果ソニーはプレーステーションを出したのです)、教育ソフトの研究会も存続の意味がなくなりました。そこで堺の教材会社の社長さんが、せっかくここまで研究してきたのだから、教育ソフトの専門の会社を作ろうよ、とおっしゃっていただき、私の勤めていた会社の了解もとり、メディアファイブは誕生しました。

ちょうど父が建設会社を役員定年で退職したのをきっかけに、社長に就任してもらいました。当初、父とは本当にぶつかりました。建設会社とソフト会社では、その経営手法が正反対だったからです。ソフト会社は大きな投資はあまり必要なく、当初、私は銀行との付き合いをあまり重要なものとは思ってませんでした。しかし父は、もちろん建設会社時代から、銀行との関係づくりを重視していました。私は当時そんな父を見て、ソフトビジネスがまったくわかっていないな、と思っていましたが、それが大変な思い違いであることを8年後に思い知らされました。2001年の9.11のときです。株価は半分になり、上場していた家電メーカーが一斉に翌年の3月に大量の商品の返品をしてきたのです。社内の社員の造反にもあい、3分の1の社員に退職され、しかも同じような会社をつくって妨害もされ、有効な手もなかなか打てず、その次の年から2年間連続して赤字を出してしまいました。こんなとき、日ごろから銀行との付き合いから、当社は運転資金に余裕があったので、のりこえることができました。世の中は本当になにがおこるかはわかりません。会社とは自分とのタイプの違い、年齢も異なるさまざまなタイプの人間がチームワークで働くことが大切であることをそのとき、しみじみ感じました。

会社登記は1993年11月25日です。実はこの日も偶然があります。先日お話した建武の親政は神武暦1993年5月22日に鎌倉幕府滅亡とともに誕生しました。神武暦1993年11月25日は顕家が陸奥将軍として仙台の近くにある多賀城についたころなのです。つまり顕家が歴史に登場する日なのです。

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(多賀城)

当時、私は歴史にはまったく興味がありませんでした。記憶力の悪い私は、大学受験の共通一次試験も最初理系志望だったこともあって、社会は倫社・政経を選択しました。ところが歴史にのめりこむようになったのは次のようなことがきっかけでした。

堺の教材会社でコンサルティングは始まり、まずどのような教科から作ろうか、ということのミーティングで、パソコンで学習するメリットをチェックしました。すると歴史は、授業などでもまず四大文明があり、縄文時代があり、奈良時代があり・・・と教科書で勉強すると、時間軸、空間軸がめちゃくちゃで、よくわかりませんでした。私は、そもそも、なんでもう終わったことを覚えなければならないのか、特に年代を覚えるなんてナンセンスだとずっと考えてきました。しかし時間軸、空間軸を整理し、時代と世界の流れを立体的に把握できれば、歴史からなにか発見できるものがあるのではないか、とそのとき感じました。

時間軸、空間軸で歴史を立体的に把握することは、本で読むのではできないことですし、しかも小・中学校だけでなく、一般の人にも教養ソフトとして販売できるので、そのような歴史のソフトを作ることになりました。それがメディアファイブで最初に開発した「ワールドヒストリー」です。ただ私は当時歴史をまったく知らなかったので困りました。本当に一から勉強しながらこのソフトを作成していったのです。

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(ワールドヒストリー)

そこで、一冊の本に出会いました。ポールケネディの「大陸の興亡」です。1500年から2000年までの大国、ヨーロッパ諸国、中国、日本、米国の経済と軍事行動の相関関係を的確につづったものです。とくに驚いたのは、中世では、中国文明がものすごく発達しており、活字による印刷が発達し、大量の書物が出回り、古くから大きな図書館がいくつもあったことです。11世紀末には7世紀あとの産業革命時のイギリスをはるかにしのぐ製鉄を生産していました。活版印刷の発明は学問を広め、広く全国から秀才を集め、官吏を登用し、その権限が強化され、それが国を富ます原動力になっている例として明王朝が栄えたことは特筆すべきことでしょう。

しかし明王朝も時間がたつにつれ、マイナスの部分も出てくるようになりました。1400年代に入ると中国も世界に目を向け、鄭和をはじめ遠征が盛んに行われました。彼らはヨーロッパの遠征者とちがって、各地の住民を略奪したり、殺傷したりはしませんでした。しかし再びモンゴルの脅威が増大してくると、そこにまわす資金を節約するために、遠洋航海は禁止されました。儒者による保守的な官僚体制は軍需を嫌い、市場経済が栄えるのを嫌い、その結果、派手な商人に干渉して財産を没収したり、軍需を切り詰めて、万里の長城などハコモノの需要創造をおこなって失業対策したり、まるで今日のどこかの国とそっくりなことをしていたのです。

もちろん功罪はありますが、400年にわたる白人優位の時代が続くのは、彼らが常にグローバル戦略をとり続けてきたことにあります。先日の、知事との懇談会でも申しましたが、日本の中小企業の最大の課題はグローバル戦略です。あの世界最強の企業、トヨタでさえも日本国内は売り上げに苦戦しているのです。

メディアファイブも、今後の中心課題はグローバル戦略です。当社のパテントは米国特許や国際特許を中心にとっております。教育こそ日本が海外に誇れるノウハウであり、グローバル化できる切り札と考えています。人材育成型グループウエア「則天」や、多機能学習ソフト「メディアファイブ プレミア」は、これだけのソフトはまだ存在しておりません。

今の日本を見ていると、この先は明の衰亡と同じ道をたどれるのではないか、と強く感じてしまいます。
経営者と政治家の懇親会でも、経営者たちはハコモノを要求します。おそらくすぐに自分たちのビジネスに直結するからでしょう。しかしなによりも今、中小企業の経営者が手がけなければならないことはグローバル化だと思います。そういう私もけっして英語が得意ではありません。自社の「英語すらすら」を、思い出しては三日坊主で英語日記をつけている体たらくです。でも英語で日記をつけ、ワードチェックをしてもらい、それを音声読み上げファイルに落とし、携帯電話やiPODに入れて持ち歩き、時間のあるときに聞いたりするのは、結構英語の即戦力になると思います。みなさんも一度お試しください。

話を元に戻しますが、私はこの「ワールドヒストリー」の製作を通じて、歴史を学ぶ意義がはじめてわかりました。いつの時代も人間は当然一生懸命に生き、様々な判断や選択で歴史的な結果になるのです。歴史を勉強することは実は人間そのものを勉強することであり、未来へのビジョンを把握するためにも大切なものなのだなあ、と強く感じました。

実は北畠親房や顕家がなにをした人かもそのとき初めて知ったのです。親房の書いた「神皇正統記」も歴史を通して未来や国家のビジョンを語るものでした。よくこの「神皇正統記」を古事記や日本書紀の焼き増しに過ぎない、悪口を言う人がいますが、そういう人は実際はよく読んでいないのです。この書物は歴史を通してどう生きるべきか、ということが中心に書かれているのです。現在でも十分読み応えのある書物だと思います。「神皇正統記」という題名が現代ではきわめて不適切なのでしょう。

この「ワールドヒストリー」も、未来のビジョンを語れるほどの商品にしたいなあ、と思いましたが、まだまだ歴史の勉強を始めたばかりの当時の私にとってとても無理な話でした。

前回も触れましたが、特に顕家が戦死する1週間前に後醍醐天皇に書いた奏文は、①分権統治 ②コスト意識の徹底 ③公正平等な登用 ④システムの構築 ⑤公私混同の排除 の5つの抗議からなり、これは670年たった今日においても、経営や組織運営にもっとも重要なものなのだと思います。これをよく20歳の若者が書いたなあ、と驚嘆しました。

次にラジオ短波と組んで「死地則戦」というソフトをつくりました。当時テレビで「カノッサの屈辱」というビジネスと歴史を結びつけるパロディ番組をやっていて、とても面白く見ていました。歴史とビジネスを孫子の兵法で結びつけてソフトにすればおもしろいだろうな、というところからスタートしたのです。もちろん孫子の兵法を勉強するのも始めてです。

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(死地則戦 メイン画面)

あとで知ったのですが、北畠家は漢家(中国の学問を学ぶ家)であり、親房や顕家は孫子の兵法の専門家だったようです。これも偶然といえば偶然です。

またラジオ短波と平行して漢字検定協会の仕事もしました。漢字のゲームソフトをつくることと、もうひとつは当時平安遷都1200年で、それにちなんだソフトをだすことです。京都には難しい地名が多く、その地名の漢字をあてるゲームソフトをつくりました。ある手違いで私が京都中の寺や風景を撮る羽目になり、2週間かけて100箇所以上まわりました。おかげで京都の地の利は大変くわしくなりました。そこで発見したのが、北畠という地名が洛北、伏見、長岡京に3つ存在していました。そこは親房や顕家の屋敷があったところだそうです。もっとも嵯峨野にも屋敷があり、1326年に火事になったという記録があります。

こういう仕事の偶然は、意図的にできるものではありません。当時会社で開催した、「パソコンソフトビジネスセミナー」や「マルチメディアビジネスセミナー」で私のつたない講演を聴いてくださった社長さんやリーダーの方たちが、私の考えに関心をお持ちになり、仕事を発注していただきました。それが全部今日のメディアファイブのベースとなり、気がつくと北畠親房や顕家を学ぶきっかけとなっているのです。

1998年に私は日本総研をやめ、メディアファイブの社長に就任しました。1998年の6月に父が入院したのでした。その結果、私は日本総研かメディアファイブかを選択しなければなりませんでした。本当は日本総研を辞めたくはなかったのですが、メディアファイブを閉じるわけにもいかず、決めました。辞表を本部長に提出する時1週間ためらいました。神武紀1998年の5月22日に顕家は戦死しました。私も西暦1998年、自分にとって人生最大の転機といってよいでしょう。

いざメディアファイブ1本になって見ると、この後、会社を続けていくことができるのか不安でした。しかしそれ以上に当時の社員の不安が相当なものだったろう、と入ってみてつくづく感じ、申し訳なく思いました。2足のわらじでの仕事は無意識のうちにどちらも逃げていたのです。それがよくわかりました。最初の半年は無給でしたが、とにかく夢中で仕事をしました。あまりに不安で、夜になると、むかし宗教団体の活動に熱心な友達にもらった法華経を探し出し(私は宗教団体に属したことはありませんが)、一生懸命唱えていました。

最初はわけもわからず唱えていたのですが、だんだん意味を知りたくなって、いろいろ新書など読み漁っているうちに、こんなたとえ話がありました。ある日、こどもたちが毒を飲んで苦しんでいました。名医である父親がよい薬を与えようとしたのですが、子供たちはその薬が苦そうで、飲みませんでした。そこで父親は一計を案じ、そのまま旅にでて、旅先で死んだとうそをついたのでした。風の便りに子供たちはそれを聞き、びっくりして父親からもらった苦い薬をのんで、毒害から救われました。父親も旅から戻ってみんなめでたしめでたし、というまあチープなわけのわからないたとえ話なのです。法華経、如来寿量品第十六のなかにあります。

ところが私の父は奇跡的に手術もしないで治ってしまいました。これも不思議なことなのですが、ある日私は、テレビで平幹二郎氏が、喉頭がんをやって、それを治すために玉川温泉で療養している番組を見ました。そこで私は父に玉川温泉を勧めました。ちなみにこれも後で知ったのですが、平幹二郎氏はNHKの大河ドラマの太平記のとき、北畠親房の役でした。ところが病気のため、降板し、近藤正臣氏になったのです。玉川温泉での療養が父の病を治したかどうかは、わかりませんが。

この一連のできごとで、恥ずかしながらいままで私は、大企業に勤めていたこともあり、競争原理のもと、自分のことばかり考えていたのが、人のためになにかをすることの重要性を初めて知りました。そしてこの如来寿量品第十六のたとえ話が大変尊いものに感じました。まさに私は、父の病を通してで、社会とのつながりを教えられたのです。今でも法華経や般若心経を、自己流ですが、とぎとぎ唱えております。

しかし法華経と般若心経を多少なりとも理解すると、日本の古典が本当におもしろくなります。平家物語でも本当にいろいろな武将が法華経を唱えるところが出てきます。平惟盛が那智の沖で入水するとき、法華経を唱えて入水しました。以前は、古典を読んでいると、「昔は科学が発達していないからすぐ神がかりだよ。」としらけていたのですが、いまではその心境をしみじみ感じて読むことができるようになったのです。

ただ660年前に、私と同じ姓の人が、日本を文化国家にしようとして理想を掲げ、無念にも果たせなかったことに、自分のことのように残念に思い、自分なりに調べ、考え、いろいろなことを自分なりに発見しました。よく調べてみると、本当に誤解されていることが多いのに驚かされました。もし自分の先祖でなければ、親房、顕家親子のことを、私だって世間のイメージ以上の関心は示さなかったでしょう。

さまざまな失敗や経験、また、たまたま就職するためにした勉強だったり、趣味だったり、仕事で学んだりしてきたことのすべてが、いまのメディアファイブのプロデュースという本流に流れ込む支流だったのです。ひとつひとつはいきあたりばったりの偶然だったのが、後から振り返ると見事に整然とその経験の積み重ねが今に繋がっているのです。

「世の中万事塞翁が馬」でも申しましたが、学生時代、自分が将来、なにをしたいかは、よくわかりませんでした。社会人になってもまだよくわかりませんでした。私は自ら経営者になりたい、と考えたことはありませんでした。いろいろな、当時一見無関係なあちらこちらの支流を流れながら、気がついてみたら、メディアファイブという他には存在しない、オンリーワンの会社を経営していたのです。

今回開発した人材開発型グループウエアは先ほど触れた顕家の奏文を目指して作ったのですが、そのきっかけは社員の造反にありました。会社が急成長する時期は何度かありますが、どうしても人手がほしいときは、あまりレベルの高くない、旧知の人間を仕方なく入れるものです。そういう時、そういう人間に悪意があると、とんでもないことになります。IT・ソフトビジネスは投資もいらないので、参入は比較的簡単です。しかしそれだけ競合も増えるのです。しかも市場はつねに激変します。昨年100売れたものが、今年半分になったりするのです。こういうなかで継続させることは本当に難しいのです。そのなかでけソフトビジネスの成功を見て、そのビジネスを奪いたくなり、ほかの社員や部下に「自分たちの会社をつくろうよ」とけしかける輩がでるものです。とくに中間管理職にそういう人間が出ます。

当時私は社長室をもっていました。若い社員とは直接の接触はありませんでした。すべては中間管理職が私の意向を部下に伝えて、ビジネスが動くのです。こういうとき、その人間に悪意があると、社長にも、部下にも指示や報告を自分の都合のよいように変えてしまうのです。私には、卑屈にぺこぺこしている人間が、ちがう部屋ではボスのようにえばり腐っていたりするのです。そういう人間が、影で人をいじめたりおだてたり、弱い立場の部下や女子を感情でつって味方につけるのです。そして取引先にもうそを塗り固めて、その商権を奪おうとするのです。

若い社員も情報を知らされてなく、直属の上司に殺生与奪の権利を握られていると、その上司に依存します。

当時、私は一生懸命集合研修をおこなっていました。そこでいくら啓蒙しても、感想文で社長にここちよい文章を書くのが関の山です。俺についてこい、型の感情をあおりながら組織を引っ張る経営は、感情で裏切られるのです。だれでも夫婦や子供とだってすぐ喧嘩をします。

だから経営はシステムで管理しなければならないのです。飲みにケーションは根本的な解決にはなりません。社員一人ひとりに会社のビジョンを明確化し、情報共有を徹底し、公正平等に評価するシステムをつくらなければならないのです。

私は社員の造反という苦い経験から、こういうことをおこさないシステムを作ろうと決心しました。完成まで5年がかりでした。膨大な投資もしました。いざ作ってみると、こういうシステムが本当に大切なのが後からわかりました。人がもっとも学習する場所は仕事をする場所です。こういう場所で卑怯なことをして成功する人間がリーダーとなる組織では、その下で働く人も腐ります。そしてそういう人の子供も腐ります。どんなに教育を変えても、まず経営が変わらなければ、世の中からいじめも犯罪も減りません。

私は自分の血筋を自慢するためにこういうことを書いているのではありません。600年で一組の夫婦から400万人の子孫ができるそうです。つまり、だれもが必ず歴史に残る先祖をもっているはずです。逆に、私自身、600年以上前のDNAなど本当につながっているかさえ怪しいものです。それは単なる偶然かもしれません。また私の深層心理がそういう方向へ結びつけているのかもしれません。神が本当にいるかどうかすら、私には定かではありません。

もちろんスタッフに恵まれたこともあります。阪神大震災も景気におおきく影響しました。マザーズができました。9.11で株価が半減すると、家電量販店は在庫圧縮をおこない大量の返品が発生しました。さきほど触れた造反にもあいました。現実は小説より奇なり、といいます。だれが世界最強の米国のニューヨークやペンタゴンが攻撃される、と考えるでしょう。

いろいろなことが起こりながら、それでもいろいろな人に助けられながら、県や市にも大切にしていただきながら、大変幸運にも15年間、当社は存続してきました。おかげで教育ソフトの専門会社ではトップになりました。

ビジネスは個人の小手先の発想だけではとても成功はしないとおもいます。たぶん個人の想定する範囲でビジネスの成功はむりでしょう。ましてやいい加減な人間や評論家的人間が生き延びられる可能性は少ないと思います。われわれは自分の考えうる限りの範囲内で、できる最大限のことを地道に精一杯仕事をするだけです。でもそれだけでは成功にはいきつけません。

精一杯の努力に、なにか目に見えない、自然界に導かれて、はじめてその努力は活かされるのでしょう。それを「神の意思」と擬人化されて感じるのでしょう。いや本当に神の意思なのかもしれません。私は記憶力が悪く不器用です。ひとつひとつのスキルでは多くの人たちにかないません。しかし私が失敗してきたり、拒絶されてきた数多くの学問や仕事や人との経験をとおして、あらゆることが、今のメディアファイブの経営に生かされています。私はそれを天命と呼ぶのだと思います。

おそらく先祖であるであろう親房や顕家は、自分のやりとげられなかった無念の一部を、DNAを通して私にさせているのかもしれません。(ちがうかもしれません。) ただ私は親房や顕家の思想や行動に、とても共感し、尊敬し、歴史上受けてきた彼らの誤解を解き、彼らの実現させたかった世界の構築に、少しでも役に立てたらよいと思っているのです。

そういう意味では私は、親房や顕家の小間使いの一人である、という考えでメディアファイブを経営しております。

私は宗教的なことは、門外漢なので、コメントする資格はありません。ただ私にとって、神様は依存する対象ではないと思います。お願いする対象でもありません。天命を感じたならば、それに向かい、一生懸命に世の中のために尽くすことなのだと思います。何かをしてもらうことを期待するのではなく、自分が世の中に役だたさせていただくことを感謝することなのだと思います。そのなかで、生活や仕事の中で、ささやかな幸せを感じたならば、それが神様からの報酬なのでしょう。

ただ、こういう考えにいたったのは先にも書きましたが、98年の38歳以降からです。若い人がこういうものを読んでも違和感を感じるかもしれません。私も若いときは、こういう話に関心も理解もできませんでした。ただ若い人たちには、自分の世界がすべて、と考えないでいただきたいと思います。まだまだこれから一山もふた山も三山も乗り越えなければならない困難が待っているのです。そしてだんだん大きな社会責任を負っていくのです。残酷な現実と直面することもあるでしょう。そのなかで、必死に、はいつくばってでも前向きに生きなければ「神様」は現れてくれないと思います。

親房や顕家のことは私のきわめて個人的な問題です。社員にもほとんどこの話はしません。しかし、親房や顕家が目指したことは、つまり、「人々が不毛な争いをやめ、日本の和を尊ぶ歴史文化を尊重し、公平平等の社会のなかで自己実現を行い、みんなで協力しあいながら付加価値を生み出し、自然を敬い、子供たちを育て、教育していく」ということは、いつの時代でも永遠普遍の理想です。

その理想国家の実現が、今の日本に特に一番必要なことだと思います。

メディアファイブはそういった国家の実現に少しでも寄与するために、存在させていただいているのだと思うのです。

メディアファイブのファイブはどういう意味があるのですか?とよく人に聞かれます。建前では、五感、陰陽五行、孫子の兵法の、道天地将法などすべて重要な世界は5から成立する、ということを説明しております。

しかし本当は5は私のラッキーナンバーなのでした。幼稚園も高校も大学も受験番号が、5番、25番で合格しました。生まれた場所も育った場所も今の私の住所も電話番号も末尾は5番です。

今は、私の心の中でのみに限ってのことですが、顕家が後醍醐天皇に残した奏文を書いた日 延元3年5月15日 の5だと信じています。

ただ、660年前のできごとと比較するのは、科学的根拠も多少はあると思います。マクロ的な経済循環(コンドラチェフ)は60年ごとで、660年もさらに大きな経済循環として考えられることかもしれません。
平安末期から室町初期にかけて、貨幣が急速に普及しました。武士の台頭は、経済が物々交換から貨幣に移ったことも大きな要因だったようです。今日、インターネットの発達による、情報の開放は、この時代と似た社会状況をつくりだしているのではないでしょうか。

似たような時代に、家柄や能力は月とすっぽんでも、同じDNAの人間が、スケールはちがっていても、似たような行動をとるとしても不思議ではないのかもしれません。だから歴史から未来を考えるヒントはあるのかもしれません。

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(21世紀への提言 「頑張り応援宣言」2001.12.10刊)

670年前の悲劇

デュマの巌窟王を読んだことがありますか。14年間無実の罪に陥れられ、モンテクリスト伯としてよみがえり、自分を陥れた人たちを復讐するフランスの小説です。しかし日本に670年間も誤解され、無視されつづけた最強の巌窟王がいます。北畠親房です。

北畠親房というと、どうも右寄りの思想と見られています。その原因は「神皇正統記」を書いたからでしょう。この書は1339年、戦場のなかの常陸の大宝城や関城で書かれました。しかしこの内容は、実は、とても右寄りの人には受け入れられない本なのです。戦前は右翼の攻撃対象にもなっていました。なぜなら武烈天皇や陽成天皇の例を出し、行いや心持ちの悪い天皇は廃嫡してしまえ、と述べているのです。さらに陽成天皇を廃嫡した藤原基経や、承久の乱で朝廷に反旗を翻して後鳥羽上皇を隠岐に流した北条泰時の徳を褒め称えているのです。さらに親房は、日本人はみな元を正せばアマテラスにいきつくから皆兄弟なのだと言っています。(「人はすなわち天下の神物である。ゆえに人たるもの精神の正しさを失ってはならぬ」日本の名著9神皇正統記上P371)、(「天下の万民はすべて神の子である。神は万民の生活が安らかにするこおを本願とする。」同下P431)

かといって神を限定するわけでもなく、人間みなその心はそれぞれなのだから、いろいろな宗教があるのを認めなければならない、と言っており(「ひとつの宗派に志ある人が、他の宗派を非難したり低く見たりすることはたいへんな間違いである。」同中P395)いかにリベラルだったかがわかります。

そもそも読者の中には「神」ということばも抵抗がある方が多いのではないでしょうか。親房の「神」はすなわち八百万の神、イコール自然や天という言葉で置き換えて差し支えないと思います。宮崎駿のトトロやもののけ姫、千と千尋の「神」と同じイメージです。

親房は山間の村人たちに政治意識、国家観念を啓蒙していきました。もちろん武家を敵に回したための、戦闘要員として村人たちを引き入れた、という理由もあるでしょう。しかし、親房が従来思われている、天皇崇拝、公家の権益を守るだけの人間であったならば、そのような行動にはでないでしょう。なぜなら北朝と和解し、良い暮らしをしようと思えば、いくつもチャンスはあったのだから。親房が実現したい国家、それは国民すみずみまで学問と日本の伝統文化を大切にする文化国家の建設だったのです。

賀野生には親房の理想国家の建設に共鳴し、武器をとって命をおとした村人の慰霊碑が親房の墓のとなりに建っています。

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(村人たちの慰霊碑)

先日、経済団体での上田知事との懇談会で、知事が日本国内の需要の低さを嘆いていましたが、私は国民の独立心と向上心に火をつけなければならない、と思い、メディアファイブを作ったとき、資格試験のソフトの開発に力を入れました。消費市場を投資市場に変えていかなければならないのです。その辺のことは2001年に刊行した頑張り応援宣言の中に収録されている、「21世紀への提言」をご高覧ください。911の年、日本経済はどん底になり、失業者が増加したときに、皆さんに資格をとって頑張っていただこう、と無料で配布したものです。

もうひとつ親房の誤解を解かねばなりません。彼が血統を重視したことです。なぜ血統を重視したか。ひとつは上記にあるように日本人はみなアマテラスに行き着く、という文化国家の建設にありました。
もうひとつは、これがもっとも大問題なのですが、いままでブログに書いてきた、報酬の分配の問題です。彼は上古を例にとり、(「まず勲功があるからといって官位をあげることはしませんでした。そのかわり勲位という制度をつくり、それ相応の待遇をうけることができたのです。」同下P443)今でも勲一等というのはこの名残なのです。(「そして官職を選ぶ基準はまず行いの正しい人。そしてその次に才能のある人を選びました。また徳義、清廉、公平、勤勉の4つを重点として人を選択したそうです。」同下P445)

当時報酬は土地でした。しかも建武の親政になり、北条政権が滅びると恩賞の問題で日本中大混乱に陥りました。親房がいいたかったことは、(「土地は政治の基であり、恩賞ではな」ということ。同下P447)もともと武士は朝廷の一官職であったのが、平氏の台頭から北条政権にかけて朝廷から離脱を始め、殺し合いで土地を奪うようになってしまったことを親房は思わず「武士は長年にわたる朝敵」と言ってしまったのです。まあこういうことを宣言すれば武士は味方から逃げていくでしょう。親房の失敗と誤解はここにあるのだと思います。親房はあまりに人間を信じすぎ、理想高く、人々の理性に期待していたのです。だから日本人はみな神の子だ、という神皇正統記を書いたのでしょう。

しかしこれはもてるものの、高い地位にあるものの思い込みだと思います。大部分のもてない人々は奪い合い、殺し合い、ぎりぎりのところで生き延びているのです。人々の欲望を理性で制限させようとする政治はいつの時代でも失敗します。田中氏が以前のブログで指摘したように宗教しかその解決の手段は当時なかったのでしょう。

それでは親房はどうすればよかったのか。息子の顕家が尊氏を破って都を奪還したとき、恩賞をとらずに、みなの手本にさせるぐらいが関の山だったでしょう。欲望を抑えろといっても、当時ではどうすることもできなかったのです。

やはり力で欲望への配分を制限するしかなかったのです。つまり「公家の武家化」を実現するしかなかった。しかし南朝の公家で武士を指揮できるのは、護良親王と顕家しかいなかった。なぜ後醍醐天皇は自分の息子であり、建武の親政第一の功労者である、護良親王を足利尊氏に渡してしまったのか。護良親王なきあと、顕家の戦死で建武の親政は実質終わったことになってしまうのです。

それから300年近く、欲望を力で奪い取る、戦乱の世が続きました。徳川家康や天海の出現で、ようやく乱れたる世にピリオドを打つことができたのです。もちろん宗教という手段も使いますが、徳川幕府は欲望を合い反する2つの勢力を共存させることで、みなの欲望をそいできました。つねに二律背反なものを同居させました。士農工商という階級をつくり、商人など金持ちほど低い位にする。またこの時代にもまだ南北朝の対立の流れは存在していたのですが、それも温存する。譜代、外様と藩を分け、徹底した分権統治と、外様同士を争わせ、あらゆる社会で2律背反を同居させることにより、徳川幕府を脅かす巨大な勢力が誕生しないようにしたのです。その結果270年近い安定した社会を生み出しました。

そして黒船の出現とともに、また強力な中央集権国家の存在が必要となり、その対応が柔軟にできなかった徳川幕府は倒れ、明治政府が誕生しました。そして中央集権のもと、個人と組織の競争はまた始まりました。

日本は軍部の派閥争いから、危うく国を滅亡させる寸前まで陥りました。

戦後、自由主義の下、個人の競争、会社の競争の元で、日本は大きく高度成長を遂げました。
しかしその成長もだんだん行き詰まりつつあり、環境問題も表面化し、競争原理だけで本当にいいのか、新しい突破口を皆が模索しはじめました。

そして今、ITの出現とともに、組織と個人のシナジーが可能になったのです。ようやく親房の理想が実現できる世の中が到来したのです。

2008年02月04日

雪にちなんだ短歌

今日、雪が降りました。私の好きな雪をテーマにした短歌をご紹介します。

ふりにける身にぞおどろく淡雪の つもればきゆる色をみるにも
(自分の身にふりかかかる淡雪が、すっと消える様を見ると、自分のまわりから死んでいった人たちを思い出し、いまさらながらはっとむねがさわぎます)

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(吉野神宮)

ふみわけてとふ人あらばふりつもる 雪より深きあとはみてまし
(こんな深い雪をおして 私を訪ねる人もなくなりました。もう私を必要とする人はいないのかもしれません。)

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(美杉村 北畠神社)

あつめこし雪も蛍も年を経て 消えぬばかりの身ぞのこりける
(蛍雪の労というが、どんなに苦労してもただ老いて消えかかるこの身だけが残ってしまった。)

降る雪にまやの板間も埋もれて 月だにもらぬ夜半のさびしさ
(降る雪に真屋の板間も埋もれて 月の光さえ漏れてはこない、しんとした本当にさびしい夜だ)

いおりさす宿は深山のかげならば 寒き日毎にふるみぞれかな
(この庵は深山の影であるから 毎日ふるみぞれが、いおりに吹き込み、つらいなあ)

以上の句はみな北畠親房の作です。短歌の解釈は私が感じた勝手な解釈です。間違っているかもしれません。

以前、5年ほど前のことですが、西吉野の賀野生(あのう)というところへ行きました。奈良駅でレンタカーを借りて、当麻寺を通り、ずっと南下するとその地はありました。北畠親房の墓がある、と聞いて行ったのですが、その山村に近づくにつれて、通る車も少なくなり、人影もなく、しまいにはちらほら雪が降ってきました。奈良からは、途中当麻寺に寄ったこともあり、到着したときにはもう夕暮れになってしまいました。夕暮れといっても4時ごろだったのですが、山間の夕方は早いのかもしれません。そこにこの歌のような淡雪がだんだん数を増して降ってきたのです。

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(賀野生 伝親房墓)

吉野朝廷を高師直に焼かれ、賀野生に逃げ、そこに粗末な皇居や親房の住まいをつくり、そんななかで読んだ歌でしょう。

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(賀野生 南朝皇居)

親房は後醍醐天皇亡き後、後村上天皇の父親と言う意味の(准后)という位を授かりました。この位を授かったのは歴史上親房と足利義満だけです。同じ位とはいえ、南朝と北朝ではなんという違いでしょう。

親房はこの山奥で、ほとんど普通の人と同じ生活をしながら、自分の地位と生活のギャップにさぞかし嘆いていたでしょう。

ただ雪を見ると、顕家の後見として陸奥に赴任していったときのことを思い出し、息子を失った悲しみと、残ってしまった年老いた自分への嘆きがこれらの句から伝わってきます。

ほんとうにさびしいお参りでした。

2008年02月12日

日本とイギリス

仕事の上で、あるいは生きていく上で、様々な考察が必要ですが、その考察を深める、もしくはより正しい方向に導くためには、ベンチマーク(比較検討)という手法が良く用いられます。僕の場合、時代では、現代と南北朝。地理的には日本とイギリスです。

日本とイギリスはとてもよく似ています。太平洋の東端にある日本。大西洋の東端にあるイギリス。人口の増加率もほぼ同じだといいます。

そもそも国家の成立からして似ています。日本は、弥生時代もしくは大和政権自体が大陸から、九州から東北地方までを征服していったことです。イギリスは1066年ノルマンディー公ウイリアムにより、征服されました。

しかも1000年以上も続いた皇室が現代も存在している点も似ています。この皇室が中世に、二家に分かれて、半世紀以上も争ったのも同じです。日本では南北朝(大覚寺統と持明院統)、イギリスでは赤バラ白バラ(ランカスター王家とヨーク王家)。
そしてその詳細は、日本では「太平記」「増鏡」「神皇正統記」と言う名著が残り、イギリスではシェイクスピアの歴史劇として残っています。

日本における南北朝時代は1333年後醍醐天皇が北条氏を倒したときからはじまり、足利義満の時代両朝の統一の1392年までの約60年間、1467年から1477年の応仁の乱など戦乱の日々がつづきました。

イギリスでは1337年から1453年までの1世紀以上、フランスとの間で百年戦争がおこり1455年から1485年にイギリスの内乱であるばら戦争がおきました。

日本における南北朝は大覚寺統と持明院統という皇室の争いから始まりました。結局は足利尊氏と後醍醐天皇という武士と公家の争いになりましたが。また応仁の乱は足利将軍家の跡継ぎ争いです。

シェイクスピアは日本でいうと戦国時代に生きた人でした。太平記の成立は室町時代なので150年から200年の時代差があります。

しかし内容でいうと、王室をめぐり、何代にもわたる戦いにつぐ戦い。裏切り、寝返り。あらゆる意味で太平記とシェイクスピアの歴史劇は似ています。大きく異なるのは、シェイクスピアの歴史劇は時の統治者エリザベス女王に劇を献上していたことであり、太平記は全面的に南北朝への公平な批評精神でかかれており、特に足利政権にことさらかたよった記述はしていないところが特徴です。

イギリスと日本は非常に類似点の多い国です。島国であり、侵略も少なく、清潔で、人口もイギリスでは18世紀前半まで、日本は18世紀後半まで出世率が死亡率を少し上回るところで、安定していました。他地域では人類の急増による、戦争、飢饉、疫病が多発していました。環境のよいなかで、イギリスは意図と偶然の中から、産業革命がおきました。日本は江戸時代から勤、倹、譲の精神で安定した社会を鎖国という閉鎖的な経済のなかでやりくりしてきました。

「クイーンを見て」でも触れましたが、私は97年9月にイギリスとフランスに行きました。ちょうどダイアナ妃がパリで不慮の死を遂げた一ヶ月後です。ちょうど10年経ち、当時の旅行を振り返ってみると、とてもイギリスとフランスの関係を知る上で、貴重なときに、重要な場所に行きました。まず、イギリスではロンドン塔とグリニッジ、バッキンガム宮殿、大英博物館、ウエリントン博物館、ウエストミンスター寺院、ビクトリア駅、中部のレスター市とその郊外にある、リチャード3世終焉の地、ボズワースです。フランスはモンマルトルにベルサイユ宮殿、ルーブル美術館にノルマンディー地方にあるモンサンミッシェルです。

旅行中とても面白かったのが、イギリス人はフランスのノルマンディー公に征服されたことにあまり触れたがらず、フランス人は年中、ノルマンディー公がイングランドを征服したことを、一にもなく二にもなく説明しているところです。

ちなみにフランスに征服された当時、イングランドの支配層はフランス語が日常会話となり、英語に戻ったには1300年代になってからだそうです。

これはけっこうイギリスのトラウマになっていて、その後の英仏百年戦争もこういうことが、根にあったのかもしれません。

ノルマンディーにある、モンサンミッシェル寺院に行ったときですが、「バイユーのタピストリー」の模造品が非常に安価で、寺院への道のおみやげ物やで売っていました。
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(97年9月 バッキンガム宮殿 ダイアナ妃への花束)
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(モンサンミッシェル)
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(バイユーのタピストリーのおみやげもの)

これはノルマンディー公がイングランドを征服したことをタペストリーにしたものです。縦50センチ、横70メートルに及ぶ、壮大な絵巻物で、今でこそフランスの国宝で、バイユー大聖堂に飾ってあるのですが、ナポレオン革命のとき、武器箱の上にかぶせる布として使われていたものを、地元の弁護士が気づいて国宝にしたものだそうです。

これから何回かに分けて、日本とイギリスそしてイギリスとフランスについて考えていきたいと思います。

2008年02月20日

倫敦塔

1997年の旅行記を今書くのは、あれから10年たち、私自身の知識や経験も以前よりは異なっていることです。「クイーン」という映画を見て、当時のことを振り返り、10年たっていろいろ思うところを述べさせていただきます。

まず最初に、ロンドン塔に行きました。当時、死地則戦Ⅲを開発するために取材をかねて行きました。死地則戦にはシェイクスピアの歴史劇が出てきます。夏目漱石も留学してすぐにロンドン塔に行きました。シェイクスピア研究の第1人者である漱石はロンドン塔に行くのは、当然といえば当然でしょう。その経緯が「倫敦塔」に書いてあります。漱石もシェイクスピアが好きで、まずその舞台に行きたかったのでしょう。この文章を書くときに、漱石の「倫敦塔」を読むと、当然ですが、この作家の筆力のすごさに改めて驚きました。しかも私の関心ごとと漱石の関心ごとがぴったり一致していたことには驚きました。

ロンドン塔で印象に残ったのは、なんて冷たい建物なのだろうか、ということです。こんな冷たいところで、生活するイギリス人は本当にストイックだなあ、と感じました。もっとも途中から宮殿というよりは、政治犯の牢獄であった歴史のほうが長いからそういう感じをうけるのも、当然といえば当然でしょう。

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(倫敦塔遠景)

ロンドン塔は、1078年、初代のノルマンディー公ウイリアムがまず、ロンドンを外敵から守るために要塞を建て、歴代の王がその周りに城を築き、ヘンリー3世で今の姿になったそうです。

メルギブソン主演のブレイブハートという映画があるが、スコットランドの英雄ウイリアム・ウォレスが車さきの刑に処されたのもこのロンドン塔だそうです。当時は処刑は見世物でもあり、どうもアングロサクソンの人たちは血が好きなのかもしれません。ロンドン塔からテムズ川を渡る対岸に「ロンドン・ダンジョン」という蝋人形館があり、ロンドンの歴史で処刑のシーン、たとえばスコットランド女王メアリーの処刑シーンや切り裂きジャックの犠牲者の遺体などの蝋人形がこれでもか、というくらい展示されていました。

またリチャード3世で、リチャードが兄王エドワード4世の二人の子供をロンドン塔に幽閉し、殺害して王位を奪った話がありますが、1674年に子供二人の遺体がロンドン塔から出て、その話を裏付けたことで近年話題になりました。こんな冷たい石の部屋に幽閉され、大人に殺された13歳と9歳の子供は本当にふびんだなあと感じました。

ヘンリー8世の鎧は実に巨大でした。いかにヘンリー8世が太っていたかが、わかる様な鎧でした。もっとも漱石はこれをヘンリー6世といっていますが、確かヘンリー8世だと思います。

イギリスの歴史はイングランドとスコットランドとの対立の歴史、スコットランドを併合すると、アイルランドとの闘争が現代までも続く。

エリザベス女王の母、アンブーリンの処刑場は中庭だったそうです。アンブーリンはヘンリー8世の2番目の妻で、キャサリン王妃の侍従でした。ヘンリー8世は6人の妻を持ち、そのうち2人をロンドン塔で処刑しています。もう一人はキャサリンハワードで、処刑の前に刑吏から逃れ、叫びながら逃げ回り、刑吏は3度目で首を落としたそうです。

ロンドン塔は幽霊がでることでも有名です。アンブーリンの首ナシの幽霊やキャサリンハワードの叫び声とかリチャード3世に殺された兄弟の子供の霊がさまよう、といいます。

まあ、これだけ血塗られた歴史なら、そういう逸話がでてくるのもやむをえないでしょう。

この旅行で、私は、フランスでは霊写真をとってしまいました。ノルマンディー地方にあるモンサンミッシェルでです。モンサンミッシェルはこのロンドン塔を建てたウイリアムの曽祖父が、もともとケルト人の聖地であったモン・トンブという島に修道院を建てたのが始まりだそうです。それ以降とくに英仏百年戦争時代はフランスの要塞だったそうです。さぞかしエドワード皇太子やヘンリー5世の時代は、英仏での城の争奪戦で凄惨な現場だったのでしょう。

どんな因果かしりませんが、この写真の壁を写し、そして帰国後、写真屋さんでプリントしたとき、この壁いっぱいに、逆三角形のドラキュラみたいな顔をした修道僧が怖い顔をして写っていました。
けれどもデジタルデータにはこのように写っていませんでした。

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(この壁に怖い修道僧が写っていました)

2008年02月29日

3月2日

北畠顕家は1318年3月2日に生まれました。新暦に直すと、4月3日です。ちょうど桜の満開の季節です。以前ご紹介した北山で顕家が陵王の舞を舞ったのも桜の季節でした。1338年2月28日(新暦3月20日)の奈良坂の戦いで、初めて負け戦をしたのも桜の咲き始めの頃でしょう。

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(般若坂近景)

親房は桜を読んだ短歌をたくさん残しています。おそらく顕家の死後、息子の思い出が桜とともにあるからでしょう。幼くして華やかに歴史の表舞台に登場し、あっさりこの世を去って行った顕家が、まさに桜の花のような人生に思い、桜の散りざまを見て、息子の不憫さを感ぜずにはいられなかったのでしょう。

男山昔の御幸思うにも かざしし花の春を忘るな
(男山の花見に天皇の行幸に随行したとき、(子供たちが)桜の枝を日にかざしてはしゃいでいた春をわすれることはないだろう)

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(男山八幡宮の桜)

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(男山八幡宮麓付近)

1324年後醍醐天皇は京都の南にある男山に行幸されました。増鏡にそのときのことが詳しく出ていて、公家の子供たちも着飾って大そうにぎやかだったようです。おそらく顕家や顕信もそのなかにいたのでしょう。6歳の顕家が桜の花をかざしていた時のことを回想した歌だと思います。
(ただし、この歌は1335年の行幸を回想したとされる説もあります。)

春をへて涙ももろくなりにけり ちるをさくらとながめせしまに
(毎年、桜の花の散るのを見るたびに、涙もろさが年々強まってきます。)
顕家の死のことを思い出すのでしょう。桜の花の散るのを見るたびに涙もろさが増していったようです。

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(吉野山の桜)

いかにして老いのこころをなぐさむる 絶えて桜のさかぬ世ならば
(もし桜の花が咲かない世になったならば、どのようにして老いの心をなぐさめようか)
そうは言っても桜の季節には顕家があの世から戻ってきて、老いた自分を慰めてくれる気がするのでしょう。

しかし一方で、京都の頃の栄光は忘れられず、

いかにせむ 春の深山の昔より 雲井までみし世の恋しさを
(どういうことでしょう。吉野の山奥に随分と長いこと暮らしていますが、((桜を見ると))天上人でいた京都の頃がいつまでも恋しく思います。)
という歌も歌っています。

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(吉野南朝皇居吉水神社)

この歌は平清盛の娘、建礼門院徳子が平家滅亡の後大原の寂光院で歌った

思いきや、深山の奥に住まいして 雲井の月をよそに見むとは
(思いもよりませんでした。天上人の私がこのような深い山奥であのときと同じ月を見るとは)
を思い出し、親房がその不遇を建礼門と重ねて歌ったのではないでしょうか。

九重の御階のさくらさぞなげに昔にかえる春をまつらむ
(今は吉野で幾重にも重なる大きな桜を見ているが、いつか京都に帰り、桜をめでたいものだなあ)

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(京都御所 右近の桜)

くれずとも花の宿かせたまほこの 道行きぶりににほう春風
(日が暮れる前に、桜の花の下を宿としようか。この道を歩いていると花の香りが春風に運ばれ、ここちよい)

この歌は1323年の続現葉和歌集に載っているので、まだ親房が32歳の京都にいる頃の歌です。

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(般若寺境内)

ひとりみてなぐさみぬべき花になど しずこころなく人をまつらむ
(一人で慰められる桜の花だけれども しずかに無心で人を待っているのだろう)

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(吉野 金峰山寺)

これに対し、宗良親王は

わればかりみるにかひなき花なれば 憂身ぞいとど人もまたるる
(ひとりで見ても見るかいのない花をながめると、とても憂鬱になり、会いたい人を知らず知らず待っています。)
と歌を返しました。

二人が待っているのは、顕家だと思います。春になると親房は顕家の化身が桜となって帰ってくると思い、宗良親王も桜を見ると、かつて戦友であった顕家を思い出し、親房と同じ気持ちであることを伝え、彼を慰めているのでしょう。

さそはるる はなの心はしらぬとも よそにぞという 春の山風
(風にのってにおいで誘ってくる桜の花の本音はわからないけれど 山風にのってにおう桜は昔の京を思い出すなあ)

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(醍醐寺の桜)

これも若き日の親房の歌なのですが、後年この歌を、思い出しているのではないかと思います。
醍醐寺は顕家の奏文が保管されています。もともと醍醐寺は南朝の拠点でもあり、村上源氏のゆかりの寺でもあるそうです。有名なのは豊臣秀吉の醍醐の花見ですが、私が訪れたときは、本当に桜の季節は見事な桜が数多く華麗に咲き誇っていました。

親房は、顕家の供養のため、正平七年四月一日(1352年5月22日)、安芸国海田庄の地頭職を高野山蓮華乗院に寄進しています。桜が散った頃に供養する親房の気持ちが伝わります。

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(高野山境内にある西行桜)


この数年、桜に季節には、親房の短歌を思いながら、大原や北山、男山、醍醐寺や奈良や吉野を歩いていました。

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