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2008年01月 アーカイブ

2008年01月08日

ビジネスは戦いにあらず。「則天去私」の心で

あけましておめでとうございます。今年は9日間お正月休みがあり、ゆっくりさせていただきました。年末、掃除をしながらテレビで「華麗なる一族」を見ました。主人公は新興財閥である万俵財閥の長男、万俵鉄平です。

彼は万俵財閥総帥で阪神銀行頭取である父、大介より、祖父の子であると疑われ、子供のころより冷遇されてきました。そして鉄平は東大工学部を出て、祖父がもっとも大切にしていた製鉄所のあとを継ぐ。研究を重ねて世界に通用する鉄を開発するが、はからずも父にその会社をつぶされる。敗れた鉄平は父大介に涙ながらに言う。「なぜビジネスは戦わなければならないのですか。良いものをつくり、みんなが豊かになるのがビジネスではないのですか」と。

今から80年前、同じようなことを言った人がいました。渋沢栄一です。「商売は商戦にあらず」。今の言葉では、「ビジネスは戦いにあらず」でしょう。偶然、浦和の小さな古本屋で見つけた、昭和3年発行の「処世の王道」という渋沢の著書の中に書いてありました。野村徳七を例に出して、相場は儲かった人がいれば、損をする人も必ず出るが、買った人も、売った人もみんなが得をするのが商売だ、と言いました。私はこの言葉が渋沢の言葉の中で一番好きです。

1993年以降、米国は金融のグローバル化を強め、世界中に実業の10倍近い金が動きました。金融界の英雄であるジョージ・ソロスでさえ、金融が資本主義を滅ぼすと警告をしました。企業は常に買収におびえ、株価の維持に固執するあまり、本来、山あり谷ありの業績をいかにうまくコントロールするかが経営の手腕のはずなのに、右肩あがりの経営に終始させることにより、企業組織の破壊、社員の心理的破壊、企業間の破壊、市場の破壊を招く結果となるのです。

ドラマのなかでも父万俵大介は自社の合併のために息子を自殺に追い込みました。単なる数字だけの合併やスクラップアンドビルドのなかだけでのリストラや乗っ取りといった、人のいままでの努力や人生を踏みにじる結果しか生まれません。

最近、米国のサブプライムローン問題に端を発し、金融市場のグローバル化にかげりが出始めているようです。私たちはいまこそ実業と金融の関係をもう一度見直す時期にきているのではないでしょうか。

本来金融は実業を発展させるための潤滑剤のはずです。近代の先物取引は江戸幕府が大阪堂島にひらいたのが先駆けといわれていますが、これも初めは米の値段を、安定的に取引するための手段だったはずです。渋沢栄一や万俵鉄平のように、みんなが得をする経営者を応援するために金融市場はあるべきです。

企業経営は波乗りです。つまりいかに人を育てるか、お金をいかにうまく生み出し、投資し、社員や社会に還元していくか、を私心なく采配できる経営者にお金が集まるべきでしょう。なぜならそういう経営者こそ本当の付加価値を生むことができるのだから。

人と人は争うのではなく、協力しあうほうが絶対得です。競争したり、戦ったりする暇があれば、お互いの良いところを見出し、より良いものを作るほうが良いはずです。企業もしかりです。そのための切り札は組織における情報共有と公平平等な分配、そして人材教育です。甘い?と思われる方もいるかもしれません。しかしその考えは間違いです。協力しあいながら本当の付加価値を出すことのほうが、はるかに地道な努力と時間と忍耐と覚悟が必要なのです。

だれでもみな手持ちの金と時間は限られています。そのなかで付加価値を出すことは並大抵なことではないのです。その学習は、人が生きるうえでもっとも難しく、もっとも重要なのだと思います。その学習こそ、「経営」です。「経営のコツここなりと気づいた価値百万両」と松下幸之助は言いました。「経営」は経営者だけでなく、社員一人ひとり、いえ国民一人ひとり皆が学ぶものなのではないでしょうか。

経営者は、私心なくお金をあるべき自然の流れに従って流さなければなりません。自然を「天」と置き換えれば、「則天」です。つまり「則天去私」が経営者のめざすべき心がけなのだと私は思っています。
この言葉は私の中学時代からの座右の銘でもありました。

そしてこういった経営を実現させるために3年がかりで開発した人材育成型グループウェア、「NextRevolution」のアップバージョンを明日ようやく発売します。

「則天」と命名しました。

2008年01月24日

旭山動物園の奇跡

 先日、旭山動物園にいきました。旭川という辺境の地にあるこの動物園が、上野動物園の入場者数を越えたというニュースは、よほど特別なものがあるのだろうと想像していました。しかしいざいってみると、普通の動物園なのです。規模でいえば、けっして大きい動物園ではありません。埼玉の坂戸にある県立動物園のほうがはるかに規模は大きい。むしろシンプルな動物園です。しかし3時間という短い時間ではありましたが、実に、どの檻でも動物のドラマティックな動きを目にすることができました。

 まずチンパンジーは折の中を実に活発に飛び回っていました。高いところから飛び降りたり、実に俊敏に動いているのです。

白熊はとても美しく、上野動物園でみた白熊は毛などもぬけてとても汚かったので、旭川の白熊が活発にぐるぐる回っているのはとても感動的でした。以前雑誌で、この動物園の白熊が柱の陰から観客席を覗いている写真があり、白熊から見ると人間は水に浮かんだアザラシのように見えて、食べるために狙っている、と記事にあり、それがとってもユニークに感じたのを思い出しました。
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ゴマアザラシはとても毛並みも美しく、気持ちよさそうにのびのびと泳いでいて、しみじみゴマちゃんは泳ぐのが本当にすきなのだなあ、と時間のたつのも忘れて見入っていました。

トラにいたっては本当に活発で、人間が見ているところをいったりきたりして、足を上げたり、ほえていて、ガラスを隔てていても、小さい子供はおびえるぐらい迫力がありました。
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ペンギンもいきいき泳いだり、陸地であるいたりしていて、なんとはじめて交尾も見ることができました。それも3カップルぐらいしているのです。

アムールひょうはおりの上にいっぴきねむっていましたが、そこへ別のしろひょうがくると仲間争いの威嚇をはじめました。檻の下から観察ができるので、下からそのバトルをみると、その臨場感にとても迫力がありました。
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最初、これらの動態は客の前で、見せるしぐさをしているように調教されているのかと思いました。そのくらい、どの檻も動物はその野生の活発な姿を観客に魅せます。ところがこれは行動展示といって動物の自主性や自由度を増す工夫で檻を設計したり、飼育をした結果なのだそうです。

たとえば先ほど述べた白熊の展示にしても、本来人間に見られるだけでストレスになるものを、人間をエサにみえるようなしかけにすれば、白熊にとってドーパミン?が出て、常に生き生きと野生的でいられるでしょう。

このノウハウが動物を生き生きと活動をはじめさせ、結果、日本一の動物園になってしまった、ということのようです。私もこうも生き生きとしている、美しい動物を見ていると、とても元気になる気がしました。いままで私は動物園は苦手で、臭いし、汚いし、いつも隅っこで寝ているし、なにが面白いのだろう、と思っていました。どうも都会という檻のなかで、仕事や生活や人間関係に追われている自分のいやな部分と重なっていたのかもしれません。

旭山動物園のホームページで園長は行動展示を、「野生動物の特徴的な行動を展示することによって観察者に特徴的形態の意味が分かって貰えるし,何よりも野生動物そのものに感動して貰うことである」ということであり、「すべての行動は動物たちの意志でなければなりません。強制するようなことがあっては絶対に駄目」と言っていました。

 今回、私はこの動物園のプロモーションという観点に興味がありました。なぜこの偏狭な地にある、つぶれかけた動物園が、見る見る日本全国で旋風を巻き起こしたか、どういうプロモーションのからくりがあるのか、ということです。

しかし初めて訪れて、これはプロモーションという小手先のものでないことがよくわかりました。この動物園がこれほどブームになるのは、抑圧された現代人の一服の清涼剤になっているのではないでしょうか。それは心の阻害と人間不信と管理されつづける今日の社会への警笛なのかもしれません。檻のなかにいないのにもかかわらず、檻にはいった動物のように日々のしがらみに元気のないわれわれは、やはり自主性や自由を回復し、生き生き生きられる工夫をしなければならないのではないでしょうか。
旭山動物園の行動展示は動物をいきいきとさせる「システム」を作ったのです。

われわれも自主的で個性を活かせるシステムを仕事上で工夫しなければならないと思います。

「則天」はそういったことを目指して開発しているシステムです。
2年間利用した社員の声をご紹介します。

開発部:一つ一つの業務は別々のようですが、過去の何かしらの業務とつながっていることも少なくありません。以前の状況を振り返ることで、現在直面している業務がこなし易くなることもあるのではないでしょうか。

開発部:当時の状況を詳しく思い出したい時に結構活用しています。また、今後も必要な作業手順を、専門スキルに記録できるので便利です。

総務部:掲示板があるので、意見を言いやすくなり、会社に参加している意識が高まったと思います。

営業部:私が主に使用している機能は、日報や業務の詳細、掲示板機能です。これだけでも、自己管理と組織とのつながりが明確になり、便利です。

5月22日

私は京都、鎌倉が好きです。ついでにいうと軽井沢も好きです。最近なかなか行けないのですが、その手の雑誌はすぐに買ってしまいます。昨年の秋のことですが「歴史を歩く 京都、鎌倉と北大路魯仙人」という雑誌を店頭でみつけ、面白い記事が載っていました。芥川賞作家の柳美里氏が書いていたのですが、最近、鎌倉に家を買ったそうです。占い師に見てもらったら鎌倉は戦争がよく起きるから、土地を買うのはよくない、といわれたのですが、扇が谷に大変気に入った物件があり、その占い師のいうことを無視して購入したそうです。事件は晩春に起きました。夜中に、柳氏が仕事をしていると、お子さんがとつぜん顔面蒼白で起きて来たそうです。そしてなにもない壁に向かって、「誰かいる、たくさんの人がここにいる」と硬直しながら言ったのです。柳氏はその日、つまり5月22日に、昔な何かあったんだと次の日、本屋で調べたら、鎌倉幕府滅亡の日だったのです。
P1010012.JPG(瑞泉寺境内)

1333年5月22日、後醍醐天皇は鎌倉幕府を滅ぼし、建武の親政をひきました。しかしこの幕府も足利尊氏の反乱で2年とは持たず、その後日本は南北朝という2つの政権に60年間割れたのでした。鎌倉幕府滅亡の原因は、直接の原因はマクロ的に見れば、貨幣の市場における流通量の急激な増加から地頭、荘園という従来の経済システムが急激に崩れていったこと、そして政治的には2度の元寇が国内におおきな精神的傷跡を残し、鎌倉幕府のような分権統治型政府より中央集権的政府の必要性が強まったことが言えるでしょう。
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(顕家像 霊山神社)

しかしなぜ建武の親政は2年で崩壊したのでしょう。ひとつには元の衰退により、外圧がなくなったことがあげられます。つまり国家的危機がなくなったので、中央集権的な国家を作る必要がなくなったのです。二つ目はこれが直接の原因だと思いますが、まさに後醍醐天皇のリーダーシップの問題です。

そのあたりのいきさつが良くわかる資料が残されています。側近が後醍醐天皇にあてた奏文(抗議文)です。それを残したのが、天皇の側近三房といわれた吉田定房、万理小路藤房、北畠親房の長男顕家です。側近中の側近の全員とその息子が徹底的に抗議しているのだから大変なものです。

吉田定房は後醍醐天皇が2回目に乱を起こそうとしたとき、北条氏を討つ正当な理由がない。いたずらに乱を起こせば、民衆が苦しみ、いたずらに血が流れるだけだ、と言い、北条氏に内通までしました。まさにそのとおりになったのです。

万里小路藤房は建武の親政の恩賞の配分が非常に不公平であることを後醍醐天皇に具申し、そのまま失踪しました。もっとも功績のあるものは護良親王、赤松円心、楠正成、足利尊氏、新田義貞であることを指摘し、天皇の息子である護良親王は政敵足利尊氏に引渡し、結果殺されてしまいました。また赤松円心は、はやくから北条氏に謀反し、親政誕生に大変な功績があったのに、前政権で、守護職だったものを、地頭職にまで降格してしまったのです。赤松円心は後に足利尊氏につき、足利政権確立におおきな立役者になりました。また宮中の内裏の造営も、政権が安定する前にそういうことはやめるべき、とも具申した。

北畠親房の長男顕家は16歳から鎮守府大将軍として東北の経営を任されていました。しかしもともと統治のいきとどいていない東北の地を収めるのは、並大抵のことでなく、当時の漢家(文部官僚)であった顕家は、まったくお門違いの弓矢をとって氾濫の鎮圧ばかりしなければならなかったのです。ところが、漢家であるから孫子の兵法が得意からなのか(武田信玄で有名な風林火山ののぼりは、親房顕家親子が初めて使ったのです)、いくさではほとんど負けずに軍神にまであがめられ、足利尊氏が京都を占領したとき、それを取り返したほどでした。しかし根本的な親政の過ちがなおらない中、奈良坂の戦いではじめて戦に破れ、だんだん追い詰められていきました。そのような中で下記のような抗議文を後醍醐帝に送ったのです。

1、権限を分権化すること。当時全国のトラブルや政治の裁定を全部中央でおこなっていたため、つねに裁定の滞りとずさんさが目立ち、後醍醐政権へのふまんが爆発していました。顕家は陸奥のほか、関東、九州、北陸に裁定する場所を分権化し、京都を含めた5箇所で政治をおこなうことを提案しました。

2、まず奢侈をやめ、税を低くして、民の安寧をはかるべきである。特に万理公路藤房もいったように内裏の造営はそのころの民衆の生活を非常に圧迫したようです。

3、いたずらに能力の低い人に高い位を与えることをやめさせる。そういう人は報奨金で対処すべきである。地位と報酬は別物、ということです。これは現代でもいえることですが、報酬をけちって地位を渡すととんでもないことになります。無能なリーダーほどその悪影響は大きいものですから。

4、つまらない取り巻きを作らないこと。そういう人物に大禄を支払わないこと。そして昔からの土地をもっている人にはその土地を返すこと。

5、民衆が塗炭の苦しみのなかにいるのに、酒宴やパーティーばかりやってはいけない。

6、朝令暮改をしないこと。行政をおこなうベースとなる法律、つまり「システム」はきちんと作らなければ、混乱をまねくことになります。

7、くだらない公家や官女や僧侶を重用しないこと。そして位の低いものでも有能ならば登用すること。

つまり現代的に言ってしまえば、
① 権限の分権化、②コスト意識、③公平平等な人材登用、④システムの構築、⑤公私混同の排除 の5つです。簡単にいえば、建武の親政はこれがまったくできていなかったのです。

現代の企業でもこの5つが成長と繁栄への永続の条件なのだと思います。

実は、私は「則天」の開発を進める上で、強く念頭にあったのはこの顕家の奏文です。
奏文の最後にこのような文章がかかれています。

以前条々、言(もう)すところ私にあらず。およそそれ政をなすの道、治を致すの要、我が君久しくこれを精練したまい、賢臣各々これを潤飾(じゅんしょく)す。臣のごときは後進末学、なんぞ敢て計い議せんや。しかりといえども、あらあら管見の及ぶところを録し、いささか丹心の蓄懐(ちくかい)をのぶ。書は言を尽くさず。伏して冀(ねがわ)くば、上聖の玄鑑(げんかん)に照して、下愚の懇情を察したまえ。謹んで奏す。     延元三年五月十五日従二位権中納言兼陸奥大介鎮守府大将軍臣源朝臣顕家上る
(いろいろご注進させていただいたことは、私心から出たものではありません。政治をおこなう方法、民を治めるにあたり大切なこと、お上が切磋琢磨し、優秀な部下たちがそれを実行するものです。私のような学問もまだ浅いものがこんなことを申しても恐縮ですが、今の世の中の現状を鑑みて、どうしても申し上げたいことがございました。書いたものは言を尽くさずですが、是非お聞き入れください)

北畠顕家はこの奏文を書いた一週間後、1338年5月22日、堺の石津で、20歳の若さで戦死しました。
死んでいくときの顕家の心中はいかばかりのものだったでしょうか。
あれから670年たった今でも、多くのまじめで有能なビジネスマンが、社長やリーダーに対し、こういう思いで働いていることと思います。

1333年5月22日に鎌倉幕府は滅亡し、ちょうどその5年後の5月の22日に顕家は戦死したのです。私はこの日が建武の親政の終わり、と考えます。なぜなら天皇親政は護良親王が軍隊を率い、それに全国の武家が呼応して旧政権を倒したのが始まりならば、大軍を率いて戦える最後の公家である北畠顕家の戦死をもって、南朝の求心力は失われたからです。5月22日の因果とでもいえるのでしょうか。

この日を新暦に直すと、6月10日になります。あまり関係はありませんが、私の誕生日は6月9日です。
だから5月22日という日にちょっぴり親しみを感じています。

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