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2007年11月 アーカイブ

2007年11月05日

失われた「自分の居場所」

10月14日、NHKのドキュメンタリー「21世紀のドストエフスキー テロの時代を読み解く」を見ました。最近、世界中でドストエフスキーの本がベストセラーになっているそうです。19世紀後半、ロシアはテロと犯罪が蔓延する社会で、ドストエフスキー自身テロリストとして処刑の一歩手前までいきました。万人の心の底にある悪を描き出し、2001年におきたアメリカの前代未聞のテロ、9.11以降、現代社会を考える、というテーマの番組でした。

一番印象に残っているのは、映像作家が、「攻撃はセキュリティのためにすることが多い」という一言でした。自分や家族や仲間を守るために、先制攻撃をしかけるのが攻撃だ、と言うのです。

確かにマズローは欲求の段階を説き、もっとも強いのは生理的欲求、次に安全の欲求、そして集団帰属の欲求、自我の欲求、最後にもっとも高尚なのが、自己実現の欲求といっています。普通に暮らしているうちは飢餓はありませんから、いかに安全の欲求が社会生活で強いか、ということです。


9.11で、米国民がアフガニスタンやイラクへの出兵を支持したのはまさに第2、第3の9.11が起こることへの不安からでしょう。つまり安全の欲求からブッシュ大統領の戦争を支持したのです。9.11の3ヶ月後に私が書いた文章があります。ちょっとご紹介します。

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有事における処世術  2001.12.12
ワールドトレードビル爆破テロの中継は多くの人に衝撃を与え、誰もがみな第3次世界大戦を予感した。その日以来世界の株価は暴落し、世界同時不況の様相は深刻さを日増しに増していった。それに関係があるのかないのか定かではないが、いままで不況知らずだった当社のソフトの注文も大幅に減った。取引先の流通の商品部長は「昨年同月期の4割減で、今月は過去最低の売上実績だった。」とぼやいていた。

大衆紙ではある芸能人が「あの事件以来、10日以上たつというのに、無力感と虚無感が心を占めるばかりで、なにをやっても身が入らない」といっているが、多くの人の実感ではないか。この虚無感は年配の人には、敗戦直後を思い出させるらしい。焼け野原の故郷に立ち尽くし、ほとんどの国民は無力感に打ちのめされている。

しかしいち早く前向きに生きようとした人たちが大きなチャンスをものにしていった。不良債権処理は遅々として進まず、ITバブルは崩壊し、そして倒産ラッシュにリストララッシュ。そこへきて今度のテロ事件。泣きっ面に蜂どころの騒ぎでない。しかしあれだけ壊滅的な敗戦を食らっても、10年で復興し、20年で成長期に入り、30年で世界有数の経済大国になった日本である。この景気は日本人が本気になればあっという間に回復できるであろう。正義を貫き、隣人と協力し合い、真剣に生きること、仕事、家庭や人間関係を考えれば、次の世代こそ日本のための時代になると思う。

今回のテロは第3次世界大戦にはならない。なぜなら国家間戦争は20世紀の遺物であり、21世紀情報化社会では、ナンセンスだからである。20世紀までのリソースは石油であり、土地であり、金であった。土地や資源が中心の経済は領土が必要である。情報化社会のリソースはITであり、人である。本当は軍隊や戦争などいらないのだ。日本は戦争放棄を憲法でうたっている。まさに21世紀的憲法だ。

半年前、こんなことがあった。駐車場に車を入れようとしたら、小さな蛇の尻尾を車で轢いてしまった。ちょうどその日は私の娘が生まれた日で、しかもその年は蛇年なので、できればその蛇を逃がしたかった。しかしそのもがいている蛇の頭は逆三角形で模様が横に入っている。マムシである。もしこの蛇を今逃がしたならば、家の前の神社に逃げ込み、そこに来る近所の子供たちにでも噛み付いたら大変である。結局、断腸の思いで殺してしまった。それ以来、毎年娘の誕生日には、そしてその蛇の命日には、その死骸を捨てた神社の側溝に塩と酒をまいて、手を合わせている。

あからさまに武器を持ち、周囲に威嚇することは、自分も危険にさらされるのである。トップクラスの軍事力を持たない国が、20世紀的軍隊を持ち、外交的手段として威嚇や攻撃に利用することはかなり危険なことです。

日本人は勤勉で教育熱心で、共同体を得意とする国家です。今こそ、日本人一人一人は自信を取り戻し、正義を取り戻し、世界にお手本になる情報化社会国家をつくっていこうではありませんか。
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それ以来、6年の歳月が過ぎました。もちろん第3次世界大戦は起きませんでしたが、アフガニスタンでは今もテロは続き、イラク戦争は泥沼化の様相を呈し、戦火は周辺地域へ拡大しています。しかし中国、インドに代表されるようにアジア圏は好景気に沸き、日本も海外需要の増加で不景気から脱却し、戦後最長の好景気が続いている、といわれました。しかし景気がいいのは海外市場を得意とする大企業ばかりです。

日本は世界のお手本になる情報社会どころか、ITに背を向け、ホワイトカラーの生産性は先進国でも最下位となり、子供の学力は低下し、中小企業やIT企業にとっては依然として厳しい状態は続きます。格差社会は広がり、けっして好景気の明るい様相は巷にはありません。むしろ人々は会社や学校や家庭にそのよりどころや、自分の居場所を次々と失ってきているようにも見受けられます。

この日のドキュメンタリーを見て、私は、自分の思考の盲点を見つけたように思います。いままで私は、ITを活用して、人がいかに能力を高めることができるか、そういうシステムを開発することばかり考えてきたのです。人はいかに記憶をよくできるようになるか、人はいかにして学習を楽しくできるか、学習をいかにすぐ社会に役立てられるか、組織がいかに有効に活動できるか、そのようなことばかり考え、商品やシステムをアピールしてきました。

しかしその前に、人間には「自分や家族や、仲間、属している組織を守るために」行動する、という絶対的な感覚があります。「自分と仲間の居場所を守る」感覚なのです。自分の居場所が失われようとしている今日、まずそのニーズを満たすことが大切なのかもしれません。

2007年11月06日

自分の居場所はどこ?

 先日ブログで「失われた自分の居場所」についてお話しました。今日はどこに現代人の「居場所」があるのかを探りたいと思います。

SNS(ソーシャル・ネットワーク・サービス)の普及は、自分の居場所を見失っている現代人の駆け込み寺かもしれません。マンガやゲームの集まりなど「おたく」文化も、実は自分の居場所を失った若い人たちの「居場所」を求める憩える場なのでしょう。もちろんSNSはおたくだけのものでなく、一般の人々に急速に普及してきていますが。

「自分の居場所」とは、自分の存在価値を確かめる場所ではないでしょうか。「おたく」文化は、自分がマンガやゲームではまりこんだ世界への感動や体験を、同じようなものに興味を持った人と共有体験することに存在価値を見出しているのではないでしょうか。

しかし本来、自分の趣味や友人の世界で共感しあえるだけでは、本当の意味で、存在価値を見出したことにはならないと思います。たぶんSNSだけに没頭するのでは、なにかしらのむなしさがぬぐいきれないのではないでしょうか。さらに30代、40代、50代と年配になるにつれて、さまざまな社会の責任が重くのしかかってくると、趣味の世界だけに走るわけにも行かず、なかなか自分の居場所が見つかりにくくなるものです。

やはり自分の社会的意義を見出すことが、本当の意味での存在価値を見出すこと、すなわち「失われた自分の居場所」を見つけることになると思います。

たとえば当社のソフトのシリーズに「メディアファイブ プレミアシリーズ」という、資格、語学、中学・高校の学習ものがあります。このソフトは、編集機能がついていることが特長として挙げられます。

学習する人が、自分の考えた内容を書き込んだり、インターネットで収集した情報をこの編集機能を利用して取り込むことで、自分なりの参考書ができます。こうした行動を通して、今、勉強している学問が、自分にとってどのように社会と関わっているかがわかり、どうやって社会に生かしていこうかと視野が広がります。

つまり、学ぶことを目的として、その学ぶ対象を自分なりに社会にどう役立てるかカスタマイズすることを通して前向きに、社会における自分の存在価値を感じることができます。そういう意味でも、学習上でのカスタマイズ、インタラクティブ性は自分の存在価値を見つける大切な要素なのではないでしょうか。

また12月上旬に発売される「メディアファイブ プレミア3.0」では、3分間の学習法としてラーメン学習(カップラーメンのお湯を注いで待つ間)、はみがき学習(はみがきしている間)、トイレ学習、寝る前3分学習なるものをご提案します。目的をもった勉強を、少しの工夫で日々の生活のなかに取り込むことで、自分を磨きながら毎日を楽しむ。それも「自分の居場所」かもしれません。

ブログでたびたび紹介しました「Next Revolutionv2 則天」では、自分の仕事の履歴が残り、自分の生産性や、スキルの向上がリアルにわかり、しかも自分のスキルを記録して、他の社員に利用してもらえるシステムです。会社における疎外感は、自分の評価を上司にのみ依存し、それが必ずしも公平に行われていないところから生じます。「則天」を利用することで、日々の仕事が適切に整理され、組織の中でいかに動くかが明確にわかり、自分の仕事を、自分なりに丁寧に工夫して積み重ねることで、客観的に評価されて自分の報酬につながっていく。そうした中で、職場で自分の居場所を見つけていくことは、大変幸せなことだと思います。

仕事の「見える」化がどれほど自分の居場所を見つけてくれるか、ということです。一見管理されて窮屈に思えるのですが、自分の仕事の形が見え、部下の仕事の形が見え、そして会社や組織全体の仕事の形が見えることは、社員も経営者の視線に近づいて会社をみることができます。そうなると、管理するより社員にまかせたほうがよほど的確な仕事ができるのです。つまり社員は自由に自分の仕事を全体の中から判断して行動し、その結果が会社に反映され、ひいては社会に反映され、大きなやりがいを感じるのです。その結果、自分の居場所をはっきり確認することができるのです。


 話は変わりますが、20年前、携帯電話の携帯メールが爆発的に普及するとはだれが思ったでしょうか。文字にする面倒さを考えれば、電話するほうが早いとだれもが思ったでしょう。しかし実際には携帯メールは、完全にコミュニケーションの主要手段として定着しました。その理由は、直接相手と話すと、感情面で様々に気を使わなければならないからです。メールであれば、時間的にも拘束されずに、いつでも好きなときに冷静に相手の意向を読むことができます。むしろテレビ電話のように、感情が直接的に伝わるもののほうが、どんなに身近になっても普及が遅れています。

時として人の感情はコミュニケーションを阻害します。新入社員が社長に直接話すには勇気がいります。しかし自分の意見を掲示板に書くことは、比較的スムーズにできます。部下を評価するとき、すべてをアナログ的に評価することは、間違いが起こりやすいし、それを知った部下は恨んだり、恩を感じたりしなければなりません。それが政治的に悪用されたり、不公正な評価になったりすることも多々あります。ある程度システマティックに評価されるほうが、人のしがらみから離れ、納得できるのではないでしょうか。

社会組織の中では絶えず人と人の感情のぶつかり合いが起こっています。自分の利益にかかわる職場ではなおさらです。その中で、人は傷つき、怒り、悶々とすることも多いと思います。現代人にとっては、時として感情とは無縁の、「システム」の中に身を置くことも、自分の居場所と感じられるのかもしれません。そこにほっとする場所があれば、それも時代の流れであり、新しい文化として肯定しなければならないのではないでしょうか。

最近、職場で心を患う人が増えているそうです。そういう人への対策としてメンタルヘルスが注目されています。しかしその原因は、必要以上に感情的なぶつかり合いの多い職場の中にあって職場の仕事やシステムに自分の居場所を見出せない人が、心の行き場所がなくなっていくことにあるように思われます。

今、職場やその中のシステムに、自分の居場所を見つけられるようにすることが、求められているのではないでしょうか。

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