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2007年10月 アーカイブ

2007年10月01日

バーチャルとリアル

ゲームソフトや携帯電話に代表されるITのツールが教育によくない、という識者の意見をよく耳にします。残酷な暴力シーンの多いゲームソフトは、子供の犯罪を助長する、とか、携帯電話や携帯メールは援助交際を助長する、とか、ゲームばかりすると脳が退化する、などなどです。確かにごもっともな意見だと思います。

資本主義の世の中では、当然ITをめぐっても、人の欲望や享楽を満たす市場が拡大することは仕方のないことです。まずその市場が拡大し、目立ち、問題が起きるのは、資本主義国家での新しいビジネスのたどらなければならない道だと思います。自動車が普及を始めた昭和30年代、カミナリ族は公道をマフラーを抜いて、暴走していました。ITの一時欲求的な利用方法からなかなか抜け出せないところに問題があるのです。

世界の人口がビックバンのごとく急増した今日、人間のコミュニケーションはITの活用なくしては不可能だと思います。ただITに関する精神面、文化面での議論がまったく進んでいないことが、今日のITの弊害をことさら、増大しているのだと思います。暴力シーンの多いゲームソフトは相手がゲームであるから、ゲームキャラクターの感情を考える必要がない。こういうゲームに慣れてくると、生身の人間に対してもその人の感情を考えなくなる人が増えてくる。しかし本来、ITはより人の気持ちを理解したり、コミュニケーションを密にしたり、人と人の関係を円滑にするためにあるべきなのです。そういった人と人の精神面、そして文化面でどうITを利用して、よりよい関係や世の中を築いていくかを考えていかなければなりません。

ITの問題、すなわちバーチャルとリアルの問題は実は大昔からあるのです。色即是空 空即是色という般若心経の有名な一節があります。形あるものはすなわち無であり、無はすなわち形あるものとなる、という意味なのですが、平家物語の諸行無常のように形あるものはいつか滅びて無になる、ということだけを言っているのではないと思います。これこそバーチャルとリアルの関係、デジタルとアナログの関係なのではないでしょうか。

孫子の兵法は、いかに気の流れを読み取り、それを生かして、戦いに勝つか、ということが本質なテーマです。戦上手は戦う前から勝敗を理解できます。つまり孫子の兵法は、まず心の中にコンピュータをもって、バーチャルなシミュレーションをしろ、ということなのです。バーチャルの中で勝てれば、リアルでも勝てる、というノウハウ集なのです。

ビジネスでも人間関係でも、心があり、人が動き、形ができる。IT社会になるまでは、この過程の時間が長かった。インターネットが人々の生活の主流になると、ネット上でのあらゆる活動がそのままビジネスに直結する、という点で本当にバーチャルが魔法のように現実(リアル)に影響するようになりました。ソフトバンクの孫正義氏は、リアルなビジネスは限界があるけれどバーチャルなビジネスのインパクトは無限大だ、と言っています。
リアルなビジネスで苦労して会社を上場させ、バーチャルなビジネスで飛躍した初代の成功者の至言だと思います。

しかし、バーチャルなビジネスには参入しやすく、ちょっとしたことですぐにひっ繰り返されもします。だから玉石混交であらゆるものが参入し、マネーロンダリングの温床となり、ある意味、胡散臭いイメージが生じてしまいます。しかしそれは新しい時代に対する警戒や嫉妬も含めた世間のイメージなのかもしれません。

大化の改新後、中大兄皇子は10年も天皇になれませんでした。平清盛はなりあがり者として最後まで公家に陰口を叩かれ、頼朝は権力の中心である京都から離れて鎌倉に新しい都をつくりました。建武の親政は失敗し、世間からさんざん落書きされました。信長はうつけとされ、秀吉は猿とののしられ、家康はまったく世間に人気がなかった。明治維新の元勲たちは田舎侍の西欧かぶれと言われ、戦後、第2位まで経済大国に押し上げた日本のビジネスマンたちは世界から働きねずみとののしられました。世間の嫉妬は、実はバーチャルな最も強大なパワーなのかもしれません。

石橋湛山によれば太平洋戦争は、日清戦争で自信をつけ日露戦争でつけあがった日本国民全体の責任、と指摘されていますが、まさにそのとおりでしょう。ITが普及するにつれ、世間のバーチャルな意志がリアルに実現できる可能性が高くなる、ということは、より多くの人に富をもたらすチャンスでもあるのでしょう。しかしその一方で深くものを知り、考え、慎重な条件で行動しなければ、失敗や敗北に遭遇しやすいということです。その意味では、脳機能ブームで思考力、判断力を鍛えるのもひとつの方法かもしれません。

太古より、戦争により国を奪い、富を得られる時代には、体が大きく、一騎打ちが強い男が尊ばれたでしょう。奈良平安時代は宮廷内の政争に強く血筋のよいものが尊ばれたでしょう。鉄砲の時代になると、秀吉のように頭脳と人間的魅力が重要になってきます。近代にはいると、秀吉のような人間がますます要求されてきました。

ところがIT時代になると、黎明期では、ネット上での成功がすべてを制してきました。そこには人間的魅力が介在しなくてもよいのです。頭だけでネット上でアピールすることが成功に結びつくのです。モーツアルトのように人間はめちゃくちゃでも、音楽は神の手にゆだねられたごとく、ネット社会でもそういう人間が出現したら、そこに富が集まるのでしょう。

しかしIT社会も成長期に入り、成熟期に近づいてくると、国民ひとりひとりが大人として責任をもち、二律背反的な判断でなく、常に学び、慎重に考えながら生きていける国家こそが繁栄するのだと思います。わかりやすく片方の意見を切り捨てれば、そのなかに隠れている真実も切り捨てられるのです。IT社会こそ二律共存的な生き方が可能なのではないでしょうか。


今日、日本と欧米でのITにおける技術格差はそれほどあるとは思いません。深刻に差がついているのはITにおける教育、文化、哲学面だと思います。欧米の人々はITを通して二律共存的な発想をしている人が多くなっているように感じます。先日ご紹介したSaas(9月19日「高田屋嘉兵衛とシリコンバレー」)は、みんながどんどんビジネスのアイデアを出し合って、自由に利用する、という発想です。昔のように自分だけがシステムを囲い込む方法は、時代遅れになってきているのです。

でも実はその二律共存の発想の原点は日本にあるのです。江戸時代の循環社会、職人の技術、アイデア、和の精神、などなど。

これからわれわれが目指すITの教育、文化、哲学の家元は日本なのです。それをすでに欧米の人たちのほうが気づいている。日本でもせっかく一昨年くらいから和への回帰ブームになっているのですが、単純な懐古主義的なブームで、それをITと結びつけるどころか、かえってITを敬遠している人たちが増えているように感じます。

ITを教育や仕事、家庭でいかに利用するか、より日本の多くの方々に深く、深く考えていただきたいと思います。そして世界にそれを問うことを目的として英語を勉強すれば、英語も身につくのではないでしょうか。みなさんの経験や人生観を世界中の人が待っているような気がします。

2007年10月23日

玄象

先週、国立能楽堂で玄象を見た。玄象とは弦上とも書き、弦の神様という意味です。

ここへきたのは10年ぶりで、懐かしい思いがこみ上げてきました。

若和布というなまめかしい狂言のあとに、その能は始まった。

太政大臣藤原師長は琵琶の名手で、日本国内には自分以上の名手がいない、と思い、ひそかに唐土(中国)に渡ろうとした。須磨の浦まで来ると、日も暮れて、塩屋の主に一夜の宿を頼んだ。主は恐縮しながら師長を家へ入れると、主と姥は、師長に琵琶を一曲頼んだ。

琵琶を弾いていると、浜風の音や小屋の屋根板に打ちつける雨の音が琵琶の音に合わず、師長は弾くのを止めてしまった。姥は苫をとりだすと、板屋に葺き、雨の音を琵琶の音に合わせてしまった。

師長が、そなたたちはただものではないとお見受けした、是非とも琵琶をお聞かせ願いたい、と言うと、主は琵琶を、姥は琴を奏で、あまりのすばらしさに、師長は驚いた。

「自分がこの国で一番の琵琶の名手と思っていたが大変な思い上がりだった」。師長がそうつぶやいてその場を立ち去ろうとすると、姥は師長の袖を引き、とどめようとした。

師長が、そなたたちは何者なのですか、と尋ねると、主は「玄象の主、村上天皇とは私のことだ。この姥は梨壷の女御である。そなたが唐土へ渡るのを止めに参った」と告げてしばらく消え、村上天皇在りし日の姿となって再び現れた。

そして師長に三面の琵琶を渡すと、それを師長に奏でさせた。天皇も合わせて奏でると、竜神が現れて激しく舞った。その竜神につられ天皇も舞った。

その天皇の舞いは、観世宗家である清和氏が舞いました。宗家の舞はいつも神々しく美しい。白い貴人の衣装を身にまとい、上品な面をつけ、その舞は本当に神のようだった。

能であるから、能管と大鼓、小鼓、太鼓だけで演奏をしているのだけれども、頭の中で藁葺きの板間に打ち付ける雨音をBGMに激しく琵琶の音が鳴っていた。村上天皇はその琵琶のなかで、徐々に舞の激しさを増していった。

現代劇だったならば、そこに琵琶と雨の音の効果音がことさら大きく入ると思います。しかし能ではその音を観客に想像させることで、単純なものから最大限、その存在感を引き出させます。つまり「秘めたるは花なり」、これこそ能の醍醐味でしょう。

しかし私は、いつも観世流宗家の舞を見る日は、偶然にも嫌なことが起こります。不思議とこの大きな感動を、毎回のように、暗澹たる気持ちの中で味わっている。きわめて美しい女性と付き合うと運が悪くなる、といわれますが、それに近いのかもしれない。いまでは自分は美と心中する気概はないので、大人になってからは、そういうものを避けてきました。こういうことが、こう何度も続くと、宗家の舞を見ることが、少し恐ろしくなりました。これからは心して見なければなりません。

そのようなことを考えていると、私は高校時代を思い出しました。女性にはおくてでしたが、当時、わけもわからず美や芸術のことで頭をいっぱいにしていたからです。特に小林秀雄の文庫本はいつも鞄に入っていました。

そのなかでも「当麻」という能を書いた文章は、当時繰り返し読んでも意味はわからなかったのですが、一番好きでした。今、改めて読み返すと、初めて理解できたような気がします。

簡単に言えば、世の中はどんどん複雑になりはしたけれど、中世のシンプルな生き方が、それは史家からは乱世とは呼ばれているが、もっとも健全なのだ、ということです。

本文にある有名な一句「美しい花はあっても、花の美しさはない」とは、花の美しさを分析しても意味はない、現代社会は分析ばかりするが、それは現実を複雑にするばかりだ、といいたいのでしょう。

私は複雑になりすぎたこの現代社会を、ITという未来の申し子を利用して、中世のシンプルな生き方に戻せる道具を作ろうとしているのです。

時代そのものは元には戻りません。未来をシンプルに生きることが、これから私たちが目指すべき人間の理想的な生き方なのだと思います。

それは宗家の舞う能のように、美しい夢幻の世界のように思えますが、必ず実現させよう、と決意を新たに秋の深まりを感じさせる、肌寒い夜道を帰りました。

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2007年10月24日

15の夜

久しぶりに、三重の美杉村という山奥で弟の自動車に乗る機会がありました。アウディのオープンカーで、BGMに尾崎豊の曲が流れていました。山間の秋風がとても心地よいものでした。このような自然のなかで聞いたからかもしれませんが、久しぶりに聞くその歌唱力が、とても魅力的なのに驚きました。特に、「15の夜」という彼の代表作を1曲全部聞いたのは初めてですが、その歌詞に改めて驚きました。「盗んだバイクに乗りながら、自由を求める・・・」という歌詞です。

戦前は権威に支配され、地域の共同体があり、お国のために、という義務をまず押し付けられ、すべてがなくなった戦後、若者は、「15の夜」に代表される「自由」と「自分」を模索する青少年時代を送るわけです。

NHKスペシャルで、「学徒兵 許されざる帰還」というものを見ましたが、パイロットを希望した学徒兵が、拒否してもむりやり特攻隊に組み入れられ、使い古した訓練機で特攻に行かされ、死ねないで戻ってきたら寮に隔離して、罵倒されながら次の特攻に行かされる、という実態でした。戦後、人々は自由社会の中、利己主義に走り、モラルの荒廃が嘆かれますが、戦前のように軍人や憲兵が不当に威張り、役人が威張り、町内会の長が威張り、リーダーたちが本当に威張っていた時代よりはましだと思います。

権威は道徳も強制しますが、そういうものがなくなれば、当然社会から道徳も希薄になるでしょう。規範や道徳は、個人が組織の中で有形無形に強制行動するためのシステムといっていいでしょう。現代人にとっては、道徳が個人の利益につながる場合ならば、それを受け入れられるでしょう。

以前、テレビをつけたら偶然幻冬者の社長、見城徹氏がインタビューで尾崎豊のことを話していました。尾崎は見城氏に対し、絶対的な愛を要求し、常に愛情を確かめるために踏み絵をさせ、意にそぐわないと暴れまわったそうです。

だれでも若いころは、感覚が鋭敏なため、自分の感情を持て余した経験はあると思います。それが尾崎ほどの天才になると、自分の感情に収集がつかなくなるのでしょう。天才が若死にするのは、暴れまわる感情が肉体を蝕むからだと思います。

そういう意味では、戦前は、不当な強制が外部から強烈にあるので、自分の感情を暴れさせている暇はなかった。特に軍隊では環境が肉体的にあまりにも苛酷だと、根本的欲求、つまり食欲と睡眠欲しか沸かないものです。大学時代、ワンゲルの夏合宿で日高など険しい山を2週間はさまよいましたが、食べたい、休みたい、怖さから逃げたいという欲求以外はまったく起きませんでした。下界でちまちま悩んでいたことが、とてもちっぽけに思えます。

だからといって、都会の便利さや安全に囲まれた、食べ物に不自由しない、下界での悩みがチープだというつもりはありません。苦しみは同じなのです。なんのよりどころもない社会であることが、人々を不安にさせるのです。ヒトラーは「大衆は支配されたがっている」といいました。これはこう解釈するとわかりやすい。「大衆は依存することができるから、支配されたがる」。よりどころがほしいのです。よりどころは人々のつながりによって成り立ちます。

心のよりどころは、自由な社会でも、独裁的な支配社会でも必要なのです。極端な言い方をすれば、個人の心のよりどころが満たされていれば、どのような環境下でも人は前向きに生きられるのかもしれません。尾崎豊の場合は、人との愛だったのでしょう。

自分のよりどころを見つけることも、学習しなければならないのかもしれません。自分のよりどころとは、「自分を活かせる場所」ではないでしょうか。「自分を活かす」とは自分の能力、自分の性格、自分の過去、自分のネットワーク、自分の外見などなど。より自分を「活かす」には、今列挙した自分を磨くことも大切ですが、どう今の自分を「活かす」かが、もっとも重要なのではないでしょうか。

それは恋愛のパートナーとでもあるし、学校のクラスでもあるし、スポーツやクラブのチームでもあるし、会社の中でもあるでしょう。また不特定多数でも、お客様が喜ぶ商品を提供することもその中に入るでしょう。家族や組織の中でどう活かすか、ということでしょう。

前にも「ジョージ・ルーカスと教育」で述べましたが、今日生きている人間の数は、過去生きてきた人間すべての数の20倍といいます。そのような異常事態の中では、当然人々が自分の居場所を見出すことは難しくなっているのだと思います。

それを解決する可能性があるのがITというコミュニケーション革命だと思います。ITをいかに活用したら、人々は自分の居場所を見つけるか。自分を活かすことができるか。これが現代人に与えられたもっとも大切なテーマのひとつだと思います。

私はその鍵を「分配の法則」にあると思います。そのことはまた次の機会にお話したいと思います。

分配の法則

先日、ある人との会話でこのようなことがありました。その人いわく、メディアファイブは「小学生、中学生に教材を提供して、何十年か後に世の中がよくなることを目指せばいい」と言うのです。私は即座に否定しました。生徒を啓蒙するのは先生の役割です。当社はソフトメーカーです。小、中学校では先生が必要な「道具」を提供する以外は越権行為です。

たとえば、クラスで学習意欲をなくした子供がいれば、能力別出題や、繰り返し学習の苦痛を取り除くためのゲーム学習、授業の復習をスムーズに行うために、家庭用ゲーム機でも学習できるしくみ、対戦モードで授業を盛り上げ、授業についていけない子供がいれば、学年を超えた学習ができるリメディアル。

なによりも是非みなさんにお試しいただきたいのは「編集機能」で、自分の関心をもつ事項をネットやデジカメで集めてのオリジナルな教材づくりを、児童、生徒一人ひとりに行っていただきたいのです。そういうところから社会と学校での学習とのつながりを発見し、勉強が楽しくなり、世の中で役立てる勉強もできるようになるのです。メディアファイブは学校現場、家庭学習の現場での問題点を分析し、それを解決するために学習する方法やノウハウなどの「システム」を提供する会社なのです。

しかし当社が取り組んでいる、もうひとつ大きな事業があります。それは利益を「分配」するシステムの開発です。企業において、人の評価はすなわち分配するための評価といって過言はありません。これがとても難しいのです。社員の不満も、会社の問題も、重要なものはほとんどここから派生します。

富(利益)の分配はあらゆる歴史上、あらゆる社会でもっとも重要な問題です。いかに富の分配を的確にするかが、国の、社会の、企業の盛衰を決めます。日本の影の絶対権力が旧大蔵省であることは周知の事実です。税金を配分する省に国家権力は集中します。会社や官庁でも規模が大きくなるほど人事部に権力が集中していることがままあります。人事とは役職だけでなく報酬も決定するからです。

その「利益の分配」において、社員の不満を少なくし、組織を向上させ、社員も向上させ、それを通して社員のよりどころを作るシステムを開発しました。人材開発型グループウエア「Next Revolution」です。

その特長をご紹介しましょう。これは当社で導入実験して2年目になりますが、とても大きな効果が出ています。一見社員の管理が徹底され、社員はやりづらそうなのですが、実は社員の「心の安定」に大きく貢献しているところです。このシステムで、社員一人ひとりの1年間の実績や仕事の足跡、努力をすべてもらさず、公平に評価できます。不満があれば、その足跡を見せながら、上司に訴えればよいのです。評価を人に頼っている今までのやり方だと、どうしても偏った評価になります。上司はもっと部下に働いてほしいと思うし、部下は自分の上司にもっと自分の仕事を認めてほしい、と思うのです。

人は当然、自分のために働きます。そのもっとも大きな原動力は「報酬」です。仕事はすべて「報酬」に直結していなければ、おろそかになります。いろいろな人が集まる組織で仕事をする場合、あらゆる構成要素を「報酬」に直結させることこそ、マネジメントの重要なものといえるでしょう。

仕事の構成要素には、利益追求、経費節減、職場や仕事の改善・工夫、技術や仕事を磨く(学習)、部下への教育、リーダーシップなどがあります。しかしこれらの要素のうち、利益追求以外は、ほとんどが人事評価というシステムでひとくくりされます。それはリーダーに頼った、実に大雑把で問題ある評価なのです。それが働く人たちの不安や不満をつくってきたのではないでしょうか。システムによって、働く要素をきちんと定めた角度から評価できれば、個人の成長は見違えるほどのものになるでしょう。

三国志で有名な曹操は「道とは教令をもってこれを導く」といっています。つまり会社の方向性は教育と命令によって動かさなければならない、ということです。普通は命令だけですが、命令と教育によって組織も、人も成長させることを目指したのでしょう。それゆえに曹操は、最後は三国の中の勝者となって中国に魏を打ち立てることができたのでしょう。

「教」とは単に人や組織を成長させるだけのものではありません。人によりどころを作ることができるのです。自分はこの組織に使われるだけでない、ここで成長し、活かされている、と感じれば、そこはよりどころとなるのです。しかも公正な報酬が得られるならば、さらに前向きに活動することができると思います。

冒頭で小、中学校のシステムについて触れましたが、社会が腐敗していれば、どのように小、中学校のときにすばらしい教育がなされても意味がありません。長尾龍一氏の「憲法問題入門」の序文に「サラリーマン川柳傑作選」というのが載っていました。
やれ打つな頭はそんなに出ていない
肩書きがなくてアイデア横取られ
尻尾ふるポチに自分の姿見る
・・・などなど。

今の日本では、夢と希望をもって社会に入っても、幻滅する度合いが増えるだけです。まずは企業や社会での分配の法則がきちんと確立されることが、教育の第1歩だと思います。つまりお父さんの教育がまず必要なのだと思います。

2007年10月26日

分配の法則2:君主論から学ぶ

マキャベリの君主論を読んだことがありますか? 君主を社長に、国を会社に置き換えると次のようになります。特に現代に通用しやすい内容を抜粋しました。( )内は私の勝手な解釈です。

抜粋1
会社を安定させるもっとも有効な対策のひとつは、社長がオフィスや現場に机をおくこと。こうすれば、社内は安定する。
(現場の雰囲気や会話は経営上の大切な定性情報です。また社長が現場にいると、野心家は企みにくくなる。野心家は社長への情報伝達を、いつも自分の有利な言い方で行います。可能ならばその人の仕事ぶりを直接見て評価するに限ります。)

抜粋2
社長が与える給料や報酬に対してそれなりの感謝を期待しても、社員は不満を持つ。その理由は、報酬を与える側の傲慢と、受ける側の傲慢が、報酬の値段について折り合えないためである。
(分配の最も難しいところです。)

抜粋3
社長は陰謀からわが身を守ろうとするならば、自分がえこひいきしていた人物こそ、十分警戒をしなければならない。
(不平等は、損する人に不満を与える危険性以上に、得する人を甘やかし、理不尽な考えを抱かせる危険性のほうが怖い。)

抜粋4
社長は自分に関わるあらゆる人に重大な侮辱を加えないように心がけなければならない。
(上から下への侮辱は、気がつかないうちに水面下で重大な問題を引き起こす原因となる。特に上がジョークと思って言っていることが、下には大変な侮辱として取られ、強く恨まれるケースは多い。)

抜粋5
反乱はほとんど成功しない。それは反乱が一人ではできないからである。つまり誘う人に、現状以上の成功報酬の約束をしなければならないが、実際、反乱を実行することすら困難なのに、実行後に成功報酬を満足に出すことはほとんど不可能なのである。
(永遠の真実)

抜粋6
社長が注意しなければならない相手は、少数の野心家だが、彼らの野心に対する対策には、いろいろな手段があり、それほど難しくはない。
(しかしそれを知っている人は、そのノウハウを絶対人に公開しないでしょう。でも私は公開します。Next Revolutionを導入しましょう!)

抜粋7
乗っ取る会社内の社員を利用して会社を手に入れた場合、それに荷担した社員は後々問題をおこす。なぜなら新社長はとうてい彼らの期待する報酬に応えられないから。 それに裏切りやすい性格の人材は誰も危なくて使えないでしょう。経営者は、多少無能でも信頼できる人間を社員に選びます。
(裏切りやスパイ行為を他社から誘われてどんなに成功しても、あとで切り捨てられるのが離反スパイの末路であることは、いつの時代でも変わらぬ真理。だからこれだけは確実に身の破滅。)

抜粋8
上記のことから、元の会社に不満をもち、そのために乗っ取る側の社長に通じ、乗っ取りに手を貸した人々を味方にするよりは、旧政権に満足していて、新社長を敵視した人々を味方に引きつける方がはるかに安全である。
(前の会社の社長の悪口を言う人物を採用すると、たいてい失敗します。)

抜粋9
もっとも懸念しなければならないのは、お追従者である。自己愛こそはあらゆる追従者のなかで、もっとも気をつけなければならない。人間は自分のこととなると、実に身びいきである。この点をつかれると人にだまされる。
(お追従者を引き連れて、いつも飲み歩いている社長は必ず滅ぶと思います。)

抜粋10
天の使命を感じなければ、社長になってはならない。天の使命を感じている間は、社長は天の使用人になれる。
(至言ですね)

社長やリーダーの方はご参考になったでしょうか。君主論を書いたマキャベリは15世紀から16世紀にかけてのイタリアの政治思想家です。ローマの歴史を丹念に分析してまとめ、メディチ家のロレンツオに献呈した政治論です。有史以来、組織の中の人間の感情と行動はまったく変わらない、ということでしょう。

人間は感情的な生き物です。そして組織の中で自分を有利な立場に持っていこうとすることは人間の本性です。争いや分裂や陰謀はそういう人間の本性のぶつかり合いでおこります。

陰謀家は人の恨みやコンプレックスを巧みに利用します。そして人情家を装い、同情やおだてで人を誘います。極め付きの言葉は「僕たちの会社を作らない?」と周囲を誘います。しかし野心家はだれよりもあくなき野心をもっています。最後は、その周囲の人たちを蹴散らし、「僕」の会社にしてしまうのです。

シェイクスピアの「ジュリアス・シーザー」は読んだことがありますか? カシアスはシーザーの暗殺の企てにブルータスを誘うとき、まずブルータスが、いかに民衆から人気があり、求められているか煽てます。そして次に正義と平等を前面に出し、シーザーのささいな欠点を責めます。シーザーが溺れかけたことや、発作をおこして醜態をさらしたことなどです。

ブルータスはシーザーにかわいがられていたにもかかわらず、シーザーにどこか嫉妬心を持っていたのでしょう。シーザーはブルータスをかわいがり、カシアスを嫌っていました。カシアスが陰謀を持つのは当然としても、ブルータスはシーザーの寵愛を受けているがゆえに、自分の能力や魅力を過信してしまったのです。トップからかわいがられることに慣れると、自分はトップ以上の能力を持つ、と錯覚するのです。本来リーダーの仕事能力と実務の仕事能力は別物です。つまり抜粋3の教訓です。カシアスはブルータスの心の隙間に情をもって入り込みます。そしてシーザーの暗殺は実行され、あの有名な「ブルータス、おまえもか」ということになります。

抜粋6で野心家を封じるには、「Next Revolution」を利用することをお勧めしました。
君主論で言っていることは、トップは公平、平等に組織を治めなければならない、ということです。極論をいえば人よりシステマティックに組織を治めることが理想かもしれません。だから「Next Revolution」こそ、組織を公平、平等に治めるためのツールなのです。

人と人の関係は、目に見えないシステムで結ばれています。親と子、妻と夫、部課長と部下、社長と社員、経営者と株主、会社と顧客などなど。そしてそのコミュニケーションは言葉や文章で伝達されます。しかしコミュニケーションが届かないところがあります。そういうところは人間の信頼関係や正義感、理屈や道理で補います。しかし野心家が、ひとたび悪用しようとすると、確実なコミュニケーションの届かないところを狙います。だからそこをITで補う必要があるのです。

なぜそんなこと言い切れるか、ですか?
そう、読者の皆さんはもうお気づきかもしれません。私は5年前、社員の造反で、本当に痛い目に会いました。組織を感情や正義で治めることの限界を知りました。そして5年がかりでこのシステムを開発したのです。今はすばらしい社員たちと目標をひとつにして、仕事にまい進しております。

2007年10月28日

分配の法則 番外編 「富の再配分について」

富の再配分」について
企画営業部・田中 祥平

北畠社長と雑談の折、ひょんなことから「富の再配分」について愚説を披瀝したところ、早速、それを我がブログに書くべし、との命を受け、僭越ながら、述べさせていただく次第です。

この稿では、人間の歴史にとって、「富の再配分」という課題が如何に重要であったか。また、その解決法に如何にして人々は腐心してきたかを、簡潔に纏めたいと思います。いささか抽象的なお話しになることを、お許し下さい。

人間は、群れを作って生き抜いてきました。自然の猛威や獣害から身を守るため、或いは、他部族からの攻撃を避けるために。そのような共同体を「利益共同体」と呼ぶことにします。貨幣経済の発達した現代では、すべてが金銭価値に換算されます。しかし、物々交換が当たり前であったいにしえには、生きるための食料確保が、最優先されたことでしょう。

「利益共同体」の単位は、我が国では、日本国、都道府県、市町村、会社法人など様々な様式があります。そこにおいては、「富」という形で生きる糧となるものが集積されます。

我が国の歴史上、超有名人と言ってよい聖徳太子は、当時の大陸・朝鮮半島が絡んだ血みどろの争いを何とか解決しようと腐心しながらも、結局、各部族を融和させるには至らず、「夢殿」に籠もってしまったと言われています。六世紀から七世紀にかけての頃です。(現在、奈良・法隆寺にある夢殿は、太子の宮跡に再建されたものです。まだ法隆寺を訪れたことのない方は、是非一度、参拝されることをお勧めします。我が国初の世界文化遺産です。)

よく知られている「和をもって貴しとなす」と伝えられた太子の言葉は、僕には、問題を解決しえなかった太子の苦衷・心の叫びに聞こえます。

このような内乱は、幾つかの要因に分析できるでしょうが、「富の再配分」を巡って生じたものと見ることもできるでしょう。「富の再配分」とは、そのように戦争の原因にもなる重大な課題なのです。

聖徳太子は、解決策として「仏教」の導入を選択されました。この場合の「仏教」は、「システム」と読み替えたほうがいいでしょう。見方を変えれば、仏教の歴史は、そのような解決策を模索する過程であったと申せるかも知れません。解決策を別の言葉で表現すれば、「欲望のコントロール」ということになるでしょうか。

少し時代は下って、平安時代(八~九世紀頃)、弘法大師・空海が中国・唐からもたらした「鎮護国家(ちんごこっか)」という「法」(システム)がありました。そのシステムは、国を平安ならしめ、民の安寧を計る目的を持ったものです。広義には、「密教」と呼ぶことができます。これも、「富の再配分」を解決する方法のひとつと言えるでしょう。(京都・東寺を訪ねれば、その装置<システム>の一端をかいま見ることができます。)

また、鎌倉時代(十二~十三世紀頃)には、「絶対他力(ぜったいたりき)」を説く阿弥陀信仰が隆盛しました。簡単に申せば、現世における栄達や繁栄を諦め、来世での幸福を阿弥陀如来に全面的に委ねる、というものです。「諦める」ことで、無用な摩擦を避けて、争いの元になる「欲望」を押さえ込み、平安な状態を保とうとしたと思われます。それも、「富の再配分」という課題を解決するための欲望のコントロール法のひとつ、と言えるのではないでしょうか。

さて、人の「欲望」とは、何でしょう。生命体が本来持っている生存欲、子孫を残すという生命力そのものが、「欲望」の源泉です。そこから、食欲・性欲・睡眠欲などが派生すると見ることができるでしょう。つまり、生きるためには、「欲望」を全面的に否定することなど不可能ということになります。そこで、コントロール法が重要な課題となるのです。

それはさておき、少し話題がそれるのをお許し頂きたく思います。ITを宗教の歴史の中にどのように位置づけるか、というテーマです。何を頓狂なことを、と仰らずに、もうちょっと耳をお貸し下さい。
「ウェブ(インターネット)空間」と「仮想現実空間」に的を絞り、要点を整理してみます。

仏教には、この世に存在するすべては、網の目のように結ばれている、という考え方があります。それを「天網」と呼びます。密教に伝えられた曼荼羅(マンダラ)には、天網の考え方が、判りやすく図示されていると見ることもできるでしょう。ウェブ空間は、そのような天網思想の一部分を現実化したものと、僕は理解しています。

また、仏教には、「瞑想」(メディテーション)という技術(メソッド)が伝えられています。そのメソッドは、この世とあの世を含めた追体験法と言えるもので(あの世があるかないか、という議論は、ここでは措いておきます)、明確な映像・イメージを伴った方法です。「セカンドライフ」などの仮想現実空間は、そのような瞑想技術が、パソコン上で実用化されたひとつの事例と考えています。「マインドマップ」などの思考技術も、その延長線上にあるものと見ていいかも知れません。

つまるところ、IT時代における「富の再配分」という課題を解決するシステムのひとつとして、【Next Revolution】(仮称)が編み出された、と位置づけることができるでしょう。

最後に、重要なポイントに触れておきたいと思います。どのように優れたシステムでも、その運用次第で善にも悪にもなる、ということです。要するに、運用する「人」次第、というのが、システムが背負う宿命と言っていいでしょう。それは、人間の歴史が証明しています。

2007年10月29日

分配の法則3 ITを活用して評価するメリット

先の「番外編」における、「歴史上の多くの為政者が、富の再配分を宗教の力で解決しようと考えた」という弊社・田中部長の指摘は、なるほどと思います。端的に言ってしまえば、「神はあなたの行動をすべて見ています。あなたの行いに対する報酬が、現世で不足していたのならば、来世で払いますよ。」ということでしょう。歴史上世界中で、多くの為政者たちが部下や領民に対して、そういう形で宗教を利用し、欲望をコントロールして不満を抑えてきたことは確かでしょう。

宗教における富の再配分と、人が行う富の再配分と、ITが行う富の再配分はどのような点で異なるのでしょうか。人が富の再配分を行う際、それを満足いくように行うには、大変な能力と慎重さが必要です。そしてかつては宗教の力で、人を評価・判断する人間の能力の限界を補いました。

戦後、高度成長期の日本では、終身雇用、年功序列、企業ブランドという会社教が、宗教の代わりをしたのかもしれません。若いときに安月給でこき使われても、長い年月我慢して働けば、出世もでき、年金ももらえるということで、サラリーマンは我慢してきました。

しかし、年功序列、終身雇用、年金までもが崩壊しつつある日本の企業社会で、人が行う不正確な評価への不満を解決することはもはや不可能です。ITの活用で、少しでも正確な評価を心がけることが大切です。

ITの活用は、人間が判断する能力の限界を補います。たとえば「Next Revolutionv2 則天」は自分の活動した仕事の履歴が残ります。どのような仕事を何時間したか。どのくらい経費を使ったか。どのように仕事を改善したか。仕事の能力を向上するためにどのくらい努力したか。これを単に自己申告で「報告」するのではなく、実際、チームのなかでこのシステムを活用しながら計画を立て、仕事をするので、正確な個人の仕事の履歴が残るのです。

そしてその仕事の履歴結果が、どのような利益をもたらすのかが、ひとつひとつの仕事ごとにわかります。リーダーはその定量的データに、仕事の質という定性データを「評価」という形でインプットすれば、自動的に配分が決まります。

つまり利益の配分はシステムに仕組まれているので、リーダーは仕事の定性的評価だけをすればよいのです。
今まで、リーダーに気に入られるよう心がけ、リーダーの前でだけは完璧に仕事をし、結果さえ出せれば、よい評価をもらえました。しかしそれでは本当の仕事の評価にはなりません。自分の仕事の履歴が残ることにより、自分の仕事の積み重ねの歴史が残り、それはどんなリーダーが上につこうと、会社のシステムに変わることなく存在するのです。

ひとつ注意しなければならないのは、リーダーシップに欠け、つねに会社を自分のためだけに利用しようとする中間管理職ほど、このシステムに抵抗することです。なぜなら自分で部下を評価する裁量が減るため、部下への強制力が弱まると感じ、自分の権限が維持できなくなると考えるからです。

派閥を作るうえでもこのシステムは不都合に働きます。また下の人のアイデアを横取りしたり、下の人間の考えを曲折して上へ伝えたりすることも、掲示板という存在があるためにできなくなります。そういう姿勢の中間管理職こそ、組織にとってもっとも問題です。

君主論で述べた造反はこういう社員が起こします。それを未然に防ぎ、排除できることもこのシステムの最大の長所でしょう。

ITが万能とは思いません。しかし組織的な行動の訓練や、思想教育、宗教教育を受けていない日本では、チームで付加価値を上げる、そしてリーダーシップを高めるシステムをいち早く導入することが不可欠のように思います。

今、人事システムや営業支援システム、経営システムを連結させる動きが、大企業を中心に出始めています。来春にはじまるJ-SOXの施行は、それに拍車をかけています。しかし企業の中で既存のシステムを連結させることは膨大な費用と時間がかかります。またSaasの出現は、従来のシステム構築の意義をゼロベースから考えさせるインパクトがあります。まずはCSV形式などで、気軽に売上げや経費のデータを取り込めるシステムを利用して、社員の生産性を毎月提示し、改善や生産性の向上にひとりひとり励んでいける土壌をつくることが大切だと思います。

「Next Revolution」をぜひ、お気軽におためしいただけたら、と存じます。


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