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2007年09月 アーカイブ

2007年09月17日

パソコンを利用した教育はシュタイナーに学ぼう

20世紀は肉体の機械化の時代でした。

人間の足の何十倍、何百倍の速さで移動できる自動車や飛行機。人間の力の何百倍、何千倍のパワーを持つトラックやクレーン車。生活圏、経済圏の規模は飛躍的に増大しましたが、頭脳はアナログのままでした。そこには、頭は人間の原寸大、体はキングコングといったいびつな形の20世紀の人間像がありました。

文明は専門特化され、先鋭化し、古代哲学のような科学と芸術、哲学の融合という本来の学問の本質は捨て去られました。専門家を増産するため、学校ではペーパーテスト中心の試験で高得点の人間だけを選別し、企業に入っても、より現実の目に見える利益をあげることが最優先にされ、その貢献度を点数化し、ふるいにかける。本来集団で活動する本質的な協業は失われ、人をけ落とすことで自分の出世を計る。道徳は形骸化し、若者を育てる精神は失われ、年老いては無用とばかり切り捨てる。

20世紀後半に入り、コンピュータが発明され、パソコンが普及し、21世紀に入るとインターネットが生活に入り込んできました。今こそアンバランスに小さい頭を成長させる時なのです。

みなさんはシュタイナーという人をご存じですか。19世紀から20世紀にかけて活躍したオーストリアの思想家、教育家です。今日の教育学、教育現場に多大な影響をもたらし、彼の教育理論は教育のバイブルと言っても過言ではありません。

やや乱暴にかいつまんでいえば、彼の理論は、理想的な大人になるために、幼児期、児童期、少年期、青年期それぞれにおいてどのように教育していったらよいかを、その年代の視点に立って述べています。幼児期の教育理論を読むと、われわれは幼児の視点に戻って教育を考えさせられ、少年期のものを読めば、少年期を思い出します。その理論では、理想的な大人とは、社会に貢献する意志を持ち、創造性に富み、正義と勇気と道徳心を兼ね備えた人間ととらえられているようです。

思えば20世紀の教育は、専門的な部分にのみ重きを置き、道徳や創造性をむしろ軽んずるものでした。本来、社会、とくに資本主義下では、人々は協力しあい、安定した経済のなかで繁栄が築かれるはずです。ところが多くの人が利潤追求に走り、道徳を失い、自己欲求ばかり満たそうとするあまり、戦争が起きたり、貧富の差が増大したり、バブル経済が生じたりするのです。

放送法に守られたテレビと大新聞のみが情報伝達手段を握り、国民が偏った情報しか得られないことや、人口の急増に伴うマス教育と得点主義の教育の弊害などは、20世紀の人間が、肉体ばかり肥大(つまり機械化)して頭脳がアナログだったがための悲劇です。

シュタイナーは次のようなことを述べています。授業には算数や数学のように概念で考えるものと、体育や音楽のように手足を使って学ぶものがあり、実は双方が関連づけされて、理想的な教育が生まれると。これを簡単に言うと、「学ぶことと実技の融合」です。つまり企業でいうOJT(仕事をしながらその仕事の技術を学ぶこと)が最も理想的な教育なのです。

これを学校の学習で実行させるには、パソコンを使った学習が最も有効です。学んだことに関して、自分なりの整理をしたり、じぶんなりの考えを書き込んだり、いろいろな視点で情報加工したりするのです。

またシュタイナーはまったく異なる分野を関連づけて学ばせることの重要性も強調して示唆しました。たとえばエジプト文明を学びながら、生体における肝機能も学ぶ。それによって歴史的認識が身近なものとなり、生体への認識が歴史的継続であることを把握するでしょう。大切なことは知識ではなく、そういった皮膚感覚で認識をすることなのです。こういう教育は20世紀に入り、西洋科学の偏重、専門特化の追求、知識の偏重により忘れ去られてきました。歴史すらも日本史、世界史と分離して学習しています。

私はパソコンでこのような学びの本当の喜びを回帰させようと考えました。メディアファイブではワールドヒストリー(日本史と世界史を結びつける)、死地則戦(孫子の兵法、戦争シミュレーション、経営戦略、シェイクスピア、コンピュータビジネスの攻防を結びつける)の商品開発を通し、まったく異なる分野を結びつけることによる新しいコンセプトを生み出そうとしました。OJTが最も理想的な教育と言いましたが、企業こそ、最も人生で重要な教育機関になるべきだと思います。

メディアファイブでは20世紀には埋もれさせられていた理想的教育を復活させるために、コンピュータを使い、幼児には自然への回帰、小学生には学習の楽しさ、中学生以上には学問への能動的アプローチ、社会人には企業研修のなかで道徳教育こそビジネス教育の基本、というコンセプトで商品を世の中に広めていくつもりです。

企業教育は、社会において最も重要な要素であり、重要な商品であり大きな社会的意義を持つものという位置づけができるでしょう。そのために、まず私たち自身が本当に有益に活用できる研修システムを構築しようと考えました。その本質は利益の正当な配分です。いかに働き、社会に還元し、利益を出すか。これが仕事における「学び」の最も重要なことではないでしょうか。社会での正当な働きに対する評価が確立されていなければ、高等教育をはじめ、成人になるまでの教育がいかにすばらしいものでも、その存在価値を失いなわれます。

そのような観点で開発したのが、人材育成型グループウエア「Next Revolution」です。社員があげた付加価値やカイゼンしようとした仕事を、正当に評価できるシステムなのです。

「クイーン」という映画を見て

 「クイーン」という映画を久しぶりに地元の映画館で見ました。これは1997年8月31日パリでダイアナ妃が交通事故死したことから始まる映画です。偶然にもこの事故から2週間後、私はパリとロンドンに行っていました。まだ事故現場は生々しく、バッキンガム宮殿の門前には花束が数多く置かれていました。

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(97年9月バッキンガム宮殿の前 ダイアナ妃への花束が門に積まれている。)

 映画は、ダイアナ妃に同情するイギリス国民からの非難に悩みながら、王室を守ろうとするエリザベス女王の心の葛藤と、それを助けようとする就任したばかりの若きブレア首相とのやりとりを描いたものです。エリザベス女王はイギリス国民の良心を信じながらも、大衆を心情的に煽る大衆紙に傷つきます。

 法哲学者長尾龍一氏はケルゼン選集のあとがきにこのように書いています。
「民主主義とは絞首台に登らされる自由でもある」と。
つまり大衆は時として判断を間違える。間違えた判断により絞首台に上ることもあるのです。ナチスを選んだのも民主主義憲法下のことだし、文化大革命もソ連時代のスターリン支持も大衆の選択ミスで数千万人の命が失われました。

 大衆とはとても不思議な「意思」です。10人集まると意見はばらばら。それが1万人、100万人、1000万人・・・・と増えてくると、結構また大衆という人格が見えてくる。これは人であって人でない。意思であって意思ではない。大衆が受け入れればすぐに何億、何百億という金が動く。どんなにチープなテレビ番組でも、視聴率10%で1000万人が見、億という広告料が動く。

 太平記と同時代に北朝の花園院は「太子を誡める書」のなかでこう言っています。
「民衆は暗愚であるからこれを教導するには仁義をもってし、凡俗は無知であるからこれを統治するに政術をもってする」。そして仁義や政術を身につけるには「学びに学んで経書を身につけ、正しい知識、正しい判断ができるように日々自分を評価し、反省しなければならない」と。

 「クイーン」では女王がタブロイド紙の過激な記事に傷つきます。ある意味ダイアナ妃を死に追いやった張本人であるタブロイド紙が、まったく反省する様子もなく、今度はダイアナ妃の味方をして王室の存続の否定を国民に煽る。すべては新聞が売れるため、部数を伸ばすためという理由で、命や生活を脅かされるほうはたまったものではない。

 リーダーが判断を誤ったならば、毅然とその過ちを正すのはよいと思います。しかし目上だろうが、同僚だろうが、部下だろうが、節度、というものがあります。マスコミには人としてのその節度を忘れた報道が目に付くと、私は思います。人の痛みを考えない報道に、なんの真理があるのでしょうか。相対立する立場の双方に立って真理を追究するのがマスコミであり、あまりに節度を欠いた報道姿勢は非難されるべきだと思います。

 民主主義体制は国民の教養レベルが一定水準であることを前提として存在可能な国家のシステムです。また「自然法」にのっとった国家システムです。「自然法」とは正義にのっとる、ということです。正義という価値判断が機能せず、「利」という価値判断で国家が動き始めたならば、これも民主主義の危機といえるでしょう。

 私は、日本人は、消費という観点からは世界でトップレベルの国民だと思います。日本人は、お金を払う段になると、商品やサービスに対する目の厳しさは大変なものです。それは、日本の市場に供給する企業の商品やサービスの品質向上能力を磨きます。それゆえに、世界の市場で、日本の商品の品質レベルが通用するのでしょう。しかし政治、文化、生活といった点では、日本人はけっこう鈍感になってきているのではないでしょうか。

 ただ、「クイーン」を見て、あれだけ国民の文化水準の高いといわれている英国民の弱点を垣間見た気がします。そこにちょっとイギリスへの親近感と安堵と、もしかして追いつけるかも?という野心が芽生えました。
 
 でも、イギリスを始め、ヨーロッパの教育のイノベーション(特に IT化)は進化のさなかにあるそうです。日本にとっては、今が一番その背中に近づいているのかもしれません。このままでは、これからの10年、日本は西欧に大きく引き離されてしまう可能性があります。これは行政の問題ではありません。行政はむしろ焦っています。国民のITへの敬遠、パソコン離れに起因することが大きいと思います。

やっぱりまた不安になりました・・・・。どうしたらITはみなさ んに受け入れられるのでしょうか。映画を見ても、けっきょく最後は日 ごろの私のテーマに行き着いてしまいました。

シアトル雑感

 今年5月、マイクロソフト様のご招待でシアトルに行かせていただきました。行きの機内ではなるべく寝ていくつもりだったのですが、自社の「3週間で英語スラスラ」を夢中でやっていたら、時間を忘れ、ほとんど寝られませんでした。3時間では、英語スラスラにはなかなかなりません。でもなかなかいいソフトですよ。

 到着後は、私のような時差ボケ症状を慮ってか、市内視察という粋なスケジュールでした。最初の視察はボーイングの元本社に隣接する航空博物館で、いきなりその過激さ、迫力に面食らいました。ポールケネディの「大国の興亡」を思い出しました。

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(航空博物館)

 1783年独立戦争で勝利したアメリカは、その肥沃な農地と工業で都市が急成長し、賃金は19世紀に入ると西ヨーロッパの3割も高くなり、移民が殺到し、1816年に850万人の人口が1860年には3140万人まで膨れ上がりました。そして20世紀に入るとダントツで世界最大の工業国に躍り出ました。さらに1861年〜1865年の南北戦争で急激に軍事大国へと変身していきました。材木会社を経営していたW.ボーイングが海軍技師ウェスターバレットと作った飛行機会社がボーイングです。どおりで初期の工場は製材所を思わせます。

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 太平洋戦争においては、空軍があるかないかが、日本軍と米軍の戦場の現場で大きな違いとなったようです。そういう意味ではアメリカの繁栄の武器となる、20世紀初頭のボーイングと20世紀後半に設立されたマイクロソフトがともにシアトルにあることは、偶然の一致としては趣き深く感じました。

 さらに面白いのは、博物館の前に妙な合金の塊が大事そうにモニュメントとして飾ってあり、これは日本の三菱とボーイング社で共同開発した合金だそうです。これがつい何日か前に、日本で完成し、シアトルに運ばれ、地元の新聞ではこの合金と日本の技術の賞賛とに6面をさいて特集したそうです。シアトルという街はなぜか職人的なものに敬意を払っているようです。

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 シアトルは大正時代まで、日本人街がありました。というより、シアトルは日本人が作った街でもあるそうです。それが大正から昭和にかけて、移民法が制定され、日本人はシアトルから追い出されてしまいました。日本人の米国への反感はこのとき、大きく顕在化されたそうです。

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(日本人がつくったマーケット)

 明治天皇はサンフランシスコ大地震のとき、かなり多額の私財を、地震の救済のために米国に寄付しました。逆に、関東大震災のとき、米国はさらに多額の寄付を日本にしました。このようなやりとりがあるにもかかわらず、移民法の制定は日米の関係を一途に悪化させました。

 われわれは、相手の国を見るとき、人と同じように、単純化された関係でその国を見ます。しかし、当然のことながら国は多くの人の意思や利益で成り立っているのです。自分たちの国との関係も単純な見方は、正しいものではないでしょう。国を擬人化すること自体危険なことなのかもしれません。

 話を戻します。航空博物館に圧倒されつつシアトル市内に入りました。シアトルは趣のある古い町で、緯度も高いせいかヨーロッパを思わせます。中心街以外は木の高さ以上のビルをつくることを禁じており、また循環社会を標榜していて、この落ち着いた美しい街は本当にアメリカの余裕を感じさせるところでした。白人居住率も70%を超え、アメリカでもっとも白人の割合が多い街だそうです。この街がアメリカのめざす理想の未来都市なのかもしれません。しかしこの静かな、美しいなかに秘められている圧倒的なスケールとパワーは、この博物館に代表される、世界最大の軍事力を背景に、全世界の主導権を握り、全世界を下請け工場と市場にしているアメリカならではの余裕でしょう。

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(シアトル中心部)

 シアトルの中心街でステーキを食べ(時差ボケにはステーキがよいそうです。)ワシントン湖のクルーズに行きました。ここの湖畔にはマイクロソフトのビル・ゲイツをはじめ、アマゾンのジェフ・ベソスなど世界的な富豪の邸宅が並んでいます。「風と共に去りぬ」に出てくるような邸宅が小さく見えるくらい、豪邸が並び、当たり前のようにクルーザーとか水上飛行機とかが置かれていました。

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(クルーザーがあたりまえな豪邸群)

 その後、シアトル郊外のマイクロソフト本社に行きました。ここは「キャンパス」と呼ばれ、木の高さ以上の建物を建ててはならず、なんとマイクロソフトは3階建てのオフィスが200棟近く建っているそうです。一見大学の構内に見えるので通称キャンパスと呼ばれるのです。ここに世界中から優秀な技術者が集まってくるのだから、あらゆるソフトはここで開発が可能なのではと思いました。

 今回の出張のテーマは、いかにマイクロソフトのサードパーティーとしてビジネスができるか、というものでした。マイクロソフトの方向性は「インフラ」です。OSをはじめ、ワープロや表計算、データベースなど汎用的なアプリケーションやソフトはマイクロソフトが作る。日本のソフトベンダーはそれと共存したニッチ、たとえば業種特化したものを作ってください、ということなのです。それが、いかにアメリカという巨大国家と共存して日本が生きるか、ということとリンクしていて大変考えさせられるものでした。

 アメリカは航空博物館に象徴されるように、強大な軍事力を背景に基幹ビジネスを展開していきます。ソフト業界も世界情勢も当分この状況を変えられるものではありません。日本のIT業界は「浮利は追わず」で、地域に根ざし、自分たちが普通に暮らしていけるだけの利益をめざしてビジネスをしていけば、アメリカやアメリカの企業と競争する必要はないのです。そしてそれこそニッチなビジネスを、極めれば、それを世界中に紹介していけばよいのです。

 「浮利は追わず」はもともと住友家の家訓なのですが、お金というものは、汗を流した仕事にしか集まらないのではないでしょうか。ちょうど私が会社を興したころ、一代で会社を上場させた社長さんからお聞きしました。「自分の成功は人のやらないところをやったからだと思う。3K。つまり、きつい、きたない、きけんな仕事に取り組んだからだ」。

 そんなことを思い出した出張でした。

「ミヨリの森」を見て

 先日、フジテレビで「ミヨリの森」というアニメを見ました。偶然、テレビをつけたら、宮崎駿の新しい映画でもできたのか?と思い、しばらく見ていると、とてもいい感じなので最後まで見てしまいました。途中から見たので、あらすじは正確にはわかりませんが、東京っ子ミヨリは母親が自分を捨てて家出した後、祖父母の住む田舎で暮らし始めます。そこで、村の子供と最初はなじまないのですが、だんだん打ち解けていく。またミヨリの祖母に霊能力があり、その能力がミヨリにも備わっていて、森の精霊や座敷童などとも友達になる。ある日、ダムの計画でその村が水没する危機に見舞われる。それを森の精霊たちと救う物語です。印象的なのは一本桜の精がミヨリに水の循環を教えたところです。

 われわれの血はもとをただせば、海のプランクトンから始まるのです。それが魚になり、陸に上がり、哺乳類が生まれ、猿が現れ、人間へと進化する。その間中にも雨は降り、川に流れ、地下へと浸透し、海に流れ、水蒸気となって上がり雲となる。その循環は地球が誕生して海ができてから延々と続く。その映像を見ながら、8月に登った福島の宇津峰山のことを思い出しました。

 ここは須賀川市と郡山市の境にあり、南北朝時代、南朝の後醍醐天皇の孫である守永親王や北畠親房の次男である顕信が立てこもり、東北での南朝最後の軍事拠点となりました。標高677メートルのこの山の600メール付近で湧き出る清水を飲んだとき、とてもおいしくて感動しました。

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この清水がいつから湧き出たかは知りませんが、少なくとも600年もの昔、自分と血縁である人たちもここに立てこもって、この水を飲んでいたのです。当時は血なまぐさい戦乱のさなかで、水も食事も思うように手に入りにくく、この湧き水にどれほど立てこもっていた人は感動していたことでしょう。「水のおいしさ」という感覚が600年前の人々との共感として伝わってきます。今は野草の花が咲き乱れ、黄アゲハやオニヤンマが涼しげに飛んでいました。

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 人の死はDNAを新鮮に保つために存在する、という論がありますが、DNAに意思があれば(そのようなことは当然想像の世界だけですが)、人は親から子、孫と肉体を移り変わらせながら、いろいろなことを感じるはずです。また親の代でできなかったことを子供の代や孫の代で実現させたいと思うでしょう。歴史はそんな気持ちで学んだり、感じたりして楽しむものだと私は思います。

 「ミヨリの森」は循環する自然の大切さを主題としたものでしたが、5月に訪れたシアトルでの経験「シアトル雑感」(このひとつ前のブログ)にも通じるものでした。ヨーロッパはすでに多くの国が循環型社会そのものです。もちろんビジネスにも循環思想が取り入れられるべきでしょう。ビジネスが永遠に右肩上がりであることは幻想です。かならず波があるはずです。あらゆるものに歴史があり、よいときもあり、悪いときもあり、寒暖があり、悲喜こもごもです。人はそういった感覚を取り戻すことで、生を謳歌できるのかもしれません。

よいときを謳歌するのは当たり前です。悪いとき、寒いとき、悲しいときを謳歌する術を身につけるにはどうしたらよいのでしょう。

遅ればせながら、今年の春の話

毎年の桜の季節は、私の場合、家の前の神社の枝垂桜から始まります。2月くらいから藪椿が咲き始め、3月中旬くらいから枝垂桜が咲き始めます。そして2,3週間ほど咲くと、また椿だけになります。枝垂桜の散り始め、境内の地面に桜の花びらのじゅうたんができ、そこにぽつ、ぽつっと椿の花が転がっているのは比類なく美しい。私は、結城に下駄をはき、神社のお社の縁側に座り、枝垂桜を眺めながら、骨董市で買ってきたがらくたの青磁でちびりちびり日本酒を飲むのが、この時期の休みの過ごし方の定番です。

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しかし今年は、事件が起きました。枝垂桜が咲き始めた3月19日の翌朝、この境内で縊死された方がおりました。枝垂桜の下にある小さなお稲荷様の祠の軒に縄をかけたのだそうです。37,8歳の男性の方だったそうです。どういういきさつかは存じませんが、ご冥福をお祈りします。この話を私が知ったのは、1か月後だったのですが、それを聞いたとき、そういえば、この神社を題材にした短編小説があるのを思い出しました。水上勉の「崖」という初期の短編小説です。

水上勉は昭和25年ごろ、この神社の近くの農家の離れに3歳になる娘さんと暮らしていました。そのころの生活をモチーフにしたもので、主人公の「私」は会社が倒産して、その退職金で、妻と、農家の離れで暮らしていました。しかし家を買おうと、妻は新橋のキャバレーに勤めに行きました。そして高台にある神社のふもとの小さな家を買いました。しかし妻はあいかわらずキャバレー勤めを続け、「私」は毎晩終電のころ、旧中仙道を16分歩いて浦和駅まで妻を迎えに行きました。

ところがある日、妻は終電で帰ってこなかったのです。それ以来、「私」は妻の不貞を疑い、浮気現場を捕まえようと、旅へ出る、と言って縁の下に隠れていました。すると車の音がし、しばらくすると、外人と妻が睦む声が聞こえ、その声が収まったころを見計らって飛び出すと、妻は首を絞められて殺されていました。
亭主である「私」は疑われて一度は逮捕されたのですが、証拠不十分で釈放されました。しかしそれから数日後、「私」であるその主人公は神社の境内にある木で縊死していたのを発見されました。なぜ「崖」という題かというと、この地域は大宮台地の先端で、当時は崖になっていたのです。

私が小さいころ、この神社は遊び場だったのですが、まだ崖がありました。武蔵野線を作っていて、砂利が広々とした土地に山高く盛られていて、そこの上から見る夕焼けが印象的だったのを覚えています。神社は薄暗く、よく遅くまで遊んでいると、神隠しにさらわれるぞ、と周りの人に脅かされました。

まあ、ブログにのせるにはいかがなものかな、の話かもしれませんが、神社は人々の生活にかかわりながら、何百年、もしくは千年以上も続いてきました。そのなかで、人は育ち、お祝いごとをし、祈り、時として命を絶つこともあります。そうやって何百年もそこに神社があるのです。

この付近の「白幡」の由来は、平安時代、京都から清和源氏の祖である源経基が地元の郡司武蔵武芝との争いのおり、ちょうどこのあたりに陣をはったそうです。源氏の旗が白だったので「白幡」と名づけられたそうです。この神社も大宮台地の先端にあるので、おそらく出城か陣、もしくは物見やぐらなどに利用されたのでしょう。

この神社は明治に入り、廃仏毀釈のおり、近所の神社と統合されました。そのため、社が5つもあります。

以前、家の前に迎えに来てくれたタクシーの運転手さんが「この神社は百済系だな」と言っていました。本当かどうかわかりませんが、渡来の歴史にさかのぼって神社の由来を調べてみるのもおもしいかもしれません。

2007年09月19日

高田屋嘉兵衛とシリコンバレー

もう、何年も前の話です。北海道出張で函館に行ったときのこと。帰りの列車までまだ時間があったので、元町のバカラ美術館に行きました。場所がわからずうろうろしていると、高田屋嘉兵衛資料館というのがありました。この名前は聞いたことがある程度で、「おろしや黒務箪」という緒方拳さんの映画があったかなあ、という程度。あまり関心はなかったがバカラ美術館の場所を聞けると思い、入ってみました。ところが高田屋嘉兵衛なる人は江戸時代最大の商人で、幕府のお取りつぶしに遭った時には1200万両蓄財していたということでした。これは現代で換算すると国家予算の4分の1だそうで、江戸三大豪商のひとり銭屋五兵衛でも300万両だからいかにすごいか、ということです。

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(小樽にしん御殿より湾を望む。昔ここににしんを追い込んで漁をしました。高田屋嘉兵衛も海産物の貿易で巨万の富を作りました。)

この人が歴史で有名になったのは、1800年初頭、ロシアの軍艦が日本に漂着し、その乗組員が函館にある松島藩に2年にわたり幽閉された、「ゴローニン事件」です。ロシアは日本に対して武力で乗組員の奪還をはかろうとしたが、たまたま函館沖で高田嘉兵衛がロシア海軍に拉致され、その事情を知り、幕府に掛け合い、ロシアの乗組員の解放に成功しました。

これは日本とロシアの戦争を回避することにもつながり、もしこのとき戦争をしていたら、当時のロシア帝国はもっとも隆盛を誇っていた時期でもあり、日本は占領されていた公算が大きいようです。にもかかわらず、高田嘉兵衛は、その家を幕府に取りつぶされました。その死後であったのがせめてもの救いです。あまりに強大になったからです。江戸時代、大商人はみな取りつぶされました。淀屋橋で有名な淀屋、銭屋、高田嘉兵衛、紀伊国屋文左衛門などなど。三井、住友は徹底的に質素な暮らしと、幕府への献納で現代まで生き延びましたが、これは奇跡に近いそうです。

思えば士農工商どの家にも四書五経が置いてあり、国民の7割が字を読めました。こんな国家は世界中なく、大変優れた国家であったのは疑いありません。しかし隆盛を誇った企業をつぶすという愚挙は江戸幕府の寿命を大きく縮めたと思います。経済は信用で成り立っています。それなのに、商人が儲かると、幕府が難癖つけて店をつぶす、ということは、経済自体を破壊しているわけです。その場では膨大なお金が直接入るでしょうが、ひとつの経済のポンプをつぶすことにより、お金の流れは何倍もの勢いをなくします。

江戸時代の役人は現代の役人と通じるものがあります。企業と国家の問題は大変重要な政治問題でもあります。アメリカは強い政府という印象を与えながらも、企業の売り込みまで政府がおこないます。むしろ企業が主で国家が従であるという印象すらあります。日本は官主導で、国家予算を補助金や受注としてうまく取り込める企業が成長してきました。建設、医療、教育、通信、米をはじめとする食品、農業などなど・・・。

そういう意味では、戦後から高度成長までは、ほんとうに巧く経済が成長していったのだと思います。そして世界第2位の経済大国になったことはもちろん有史以来はじめてでしょう。江戸時代の経済政策とは雲泥の差です。江戸時代は、せっかく戦国時代を経て安定した政治や開墾の奨励で大幅に生産高を上げたのに、中期以降は農民の締め付けで、貧農といわれる人を多く生み、彼らは農業を捨てるようになり、大幅に生産高は減少していきました。それに比べ、戦後の復興計画は、満州での15年にわたる国土建設の体験をもとに国土計画を立て、着実に経済復興を遂げました。

オイルショックを乗り越え、円高不況を乗り越え、80年代後半に入ると、経済成長は成熟期のいきづまりを打破できなくなりました。そこでバブルというマジックで好景気をつくり、バブルがはじけ、未曾有の不良債権が発生しました。そのいきづまりを打破するために、構造改革がおこなわれ、戦後日本のビジネスの構造は一変されてしまいました。
どう変わったか、というと、より自由競争が活発化されたのです。

これからは本当に企業経営を真剣に考えなければなりません。実は今、サンフランシスコに来ています。ドリームフォース07というイベントの視察です。これはgoogleに次ぐ成長を遂げているセールスフォースというIT会社が主催しているイベントです。日本ではまだなじみは薄いのですが、ネット上でシステムを利用するSaas(Software as a Service)というビジネスモデルの大成功例です。ネット上でシステムを改良していくので、システム上の工夫をどんどんできることが特徴です。このイベントに参加するには一人500ドル、ブースに出展するには日本の実に10倍の金額にかかわらず、5000人以上の人が世界中から集まり、300社のサードパーティが出展しました。

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(ツインピークスよりサンフランシスコを望む)
今、世界中で経営革新に経営者やリーダーは注目しているのです。より自由化された市場では、個人や企業のイノベーションは必須です。特にいかにもアメリカらしくマーケティングのツールが多く出展されていました。

当社も「NextRevolution」というSaas型経営支援ツールを開発したので、先行しているアメリカの状況を把握するのが視察の主目的でした。当社のシステムは、個人の生産性が企業内でいかにあがっているかをリアルタイムに把握でき、そのために個人はいかに組織を有効に活用し仕事を工夫して生産性をあげるか、という人材開発のツールなのですが、このようなものはまだ世界中にはないようです。まさにジャパニーズマネジメントシステムなのです。

もともとサンフランシスコは、小さな漁村だったところに、1848年に金鉱脈が発見され、
世界中の人が押し寄せ、金鉱脈だけでなく、ジーパンのリーバイスなど発掘する道具や衣類の産業も大きく栄えたそうです。また稼いだ金の保管などで、銀行も栄えたそうです。現在は近郊にシリコンバレーがあり、まさにゴールドラッシュならぬITラッシュとなっているわけです。

日本企業もビジネスマンも、早くビジネスツールの工夫に関心を持たないと、世界中に遅れをとることになるのではないでしょうか。10年前、米国コムデックスのイベントの時には、日本とアメリカのITの進歩の距離はそれほど離れていない気がしました(市場規模という点では離れていましたが)。しかし、今、アメリカともヨーロッパとも大きく距離が開けられたように感じます。とくに企業でも個人でも学校でも、お客様の意識という視点で。そういう意味では、明治維新のとき同様、海外視察は大変重要な行為になってしまったのかもしれません。こんなにも情報が発達したにもかかわらず。

日本ではITはもしかして必要ない、と思っている人も多いのではないでしょうか。
私たちメディアファイブは、企業はもとより、ビジネスマン個人の方々にも、学校関係者の方々にも、今年リタイアする個人の方々にもビジネスイノベーションを一緒に考え、お手伝いさせていただきたいと思います。近々そういうサイトを作成する予定です。是非皆様もご参加ください。

ジョージ・ルーカスと教育

サンフランシスコに来て今日で4日目です。昨日、ジョージ・ルーカスが講演しました。講演内容は意外にも「教育」でした。彼はジョージ・ルーカス教育ファンドというものを作っていて、いろいろな活動をしています。その観点は次の5つです。

1.子供たちに、プロジェクトを立て、それにそって実行する能力をつけさせる。
2.組織やチームでコラボレーションする能力を身につけさせる。
3.学校で学ぶ理由、社会のなかでどのようにその学問が役立つかを認識させる。
4.学校現場の先生にどうしたら教育のイノベーションをしていただけるか。
5.家族や友達との関係を学ぶ。

この5つの観点から、ITを使って教育のイノベーションを行う、ということです。今までの歴史上の人たちを全員よみがえらせても、現代の人数の5%にしかならない。(20世紀に入り、天文学的に人口が急増した、ということ)そんな環境の激変するなかで200年前と同じような教育をおこなっていたらだめだ、といいます。

1については、社会において物ごとを実行するには計画を立て、それにそって実行することです。それを子供のうちから学ぶことは、社会でもっとも基本的なことだそうです。
2は、社会に出れば、組織やチームで協力しあうことによって、仕事を成功させることができます。ところがペーパーテストで他人に勝つことしかしない現在の学校教育は問題が大きいことを指摘します。
3の「学校で学ぶ理由」では、宇宙ロケットの仕事をしたいなのなら微分が必要になるし、ファンドマネージャーなら、映画をつくるなら何が必要か、というように、
社会の仕事や現象からその学問を教えることにより、その学問を学ぶ意義を伝えることができる、といいます。
4の、どうしたら教師にITを使ったイノベーションの理解を得るか。ルーカスは自分の学生時代の経験や視点を思い出し、教師に語って聞かせるそうです。
5は、1と同様、家庭での教育も大変重要であり、親、兄弟との関係、それから友達との関係も学ぶ必要があるということです。

最後に、ルーカスは、人が生活し、子供を育て、普通に生きる以上のお金は、人を幸せにしない、といいます。pleasure(快楽)とjoy(喜び)の違いを認識してほしい。pleasureは利己的で、一時的な喜びであるのに対し、joyは永久に残るものだ、と。

とてもすばらしい講演でした。私もまったく同感です。ルーカスの掲げた5つのコンセプトは、おこがましい言い方で恐縮ですが、メディアファイブの開発方針とぴったり一致しています。

まず私は本当に記憶力が悪く、いかに記憶を苦痛なく、確実にできるか、という観点でエデュカートリッジシステムを開発しました。そして自分なりに学習内容を整理するために編集機能をつけ、携帯電話やI-podとの連携に努めました。そしてプロジェクト管理やチームをコラボレーションするグループウエアも作りました。当社のe-Learningは任天堂のwiiでも利用できます。そして今年、家族で使えるグループウエアも開発します。さらに社会の必要性、という観点からコンテンツ開発をおこなっております。家族の絆を深めるファミリーナレッジも開発中です。

なによりもお金に関する考え方には同感です。お金を余分に持つ人は、そのお金を社会に再配分する責任を負っているのです。企業経営者は投資を的確に行い、社員に的確に配分し、さらに成功をおさめ余剰のお金ができたら、社会に対し再配分する義務を負っていると思います。

米国社会は9割の富を1割の人が独占している、といいます。
その1割の人が、ベンチャーに資金を提供して、新しいビジネスが始まります。
そして圧倒的な軍事的優位と、ほぼ世界共通語となる英語をもって世界中に市場を広げることができ、成功するベンチャー企業はあっという間に大企業に変身するのです。
成功して余剰資金ができれば、教育を中心に社会奉仕をおこないます。米国では特に教育に対する奉仕は徹底しています。

今日、米国は、個人も企業も社会のイノベーションが加速度的に進んでいるようです。Saas(Software as a Service)のビジネスは、それを進めさせる重要なツールなのです。日本において、システムを改良するのは大変お金のかかるものです。しかしインターネット上でおこなうサービスならば、常に低価格で改良が行われ,しかもそのアイデアをほかの企業でも活用できる、ということです。それにより、企業におけるシステムの改良スピードが加速します。もちろん米国といえどもシリコンバレーのあるサンフランシスコが特別、というのはあるでしょう。10年前、コムデックスUSAという当時米国最大のPCの展示会に行きましたが、そのときは日本と米国との格差をそれほど感じませんでした。しかし、今回、そのイノベーションに対する意識において、日本企業と米国企業は圧倒的な差を感じました。そのことについては、また書きます。

とにかく昨日は、また崇敬できる賢人を一人みつけたことに大きな喜びを感じた1日でした。

2007年09月29日

リスクと霊感

私は特定の宗教を信仰した経験がありません。ましてや若いころは無神論者でした。フロイスの「日本記」にも、日本の一般の人々は無神論者が多いと書かれております。年とともにすこしずつ、神社でもお寺でも教会でも、手を合わせるようになりました。漠然とではありますが、若いころから、どうも経営者といわれる人は宗教に入ったり、神がかり的な人が多いなあ、と思っていました。
また日本にはいたるところに神社仏閣があります。ほんとうに昔の人は神様が好きだな、とも思います。ただ、昔は科学が発達していなかったから仕方がないかな、とも感じました。

ところが最近、もしかして、危険に近いところにいる人間ほど、神や霊の存在を感じるのかな、とはたと気づいたのです。
そう、それは25年前のことです。
私は大学でワンダーフォーゲル部に所属していました。毎年ワンゲルでは夏合宿を行いますが、私は北海道の日高山脈ばかり登っていました。当時の日高はまだまったく開拓されておらず、「ここが日本か」と思うぐらい未開の地でした。登山道はすぐに藪でおおわれ、多くは道らしき道もなく、沢づたいに山を登り、尾根からは見渡す限り人家はなく、ここで怪我でもして歩けなくなれば、1 週間は救援隊がくるのを待たなければならないだろう、というようなところです。

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(日高山脈の尾根)

熊と出くわしたこともあります。雨の中で後輩が倒れ、動けなくなったり、岩場から転げ落ちたことも何度かあります。谷にかかる雪渓はいつ落ちるかわからず、その上を歩くか、その下をくぐるか選択して渡らなければなりません。まさに地雷原を、命をかけて歩くようなものです。こんな厳しい自然の中で山脈を踏破しようとなると、それはもう体力も精神力もぎりぎりのところでした。

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(雪渓を登る)

そんな環境の中に2週間もいると、厳しい自然の機嫌が伝わってきます。自然が絶対的な神に見えてくるのです。五感以外の第六感というものが本当についてきたように感じるのです。たとえば夜中、どんなに熟睡していても、動物がテントに近づく気配を察して飛び起きたり、滑落しても気を失いながら、崖の木の枝をつかんでいたり、それは都会の中にはない感覚や能力が備わります。そうなると、さまざまな厳しい自然の危険から身を守り、生き抜くことができます。

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(日高山脈)
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(七ノ沢カールにて)

5年前、出張のついでに土日を利用して、20年ぶりに日高に行きました。当時と変わらず、道は狭くなり、砂利になり、藪が覆い、人の気配もありませんでした。しばらくすると、当時の野性的な感性を思い出してきました。ところが、驚いたことにこの感性は、ここ最近、自分のなかにある経営者の感性に大変似ているのです。今の自分が、日高の自然以上に厳しい環境におかれているからかもしれません。
会社を興して以来、自分にとって大きなリスクをしょって会社を経営してきたことは、縄文人に戻るのかもしれない。昔はまったくの無神論者だった私が、今は特定の宗教はないけれど、神社や教会やお寺に行くと、敬虔な気持ちで手を合わせます。自分が日々社会に活かされていることを感謝します。

会社営むことと、会社に属して働くことのもっとも大きな違いは、藪の中に道を作るか、人の作った道を役目をもって通るか、の違いです。これはどちらがよいか、えらいか、という問題ではありません。役割の問題です。藪の中に道を作る人は、自分自身は、仕事ができなくてもよいのです。正確に危険を回避して道をつくる能力が必要なだけです。これこそ縄文人的能力、すなわちより強力な第六感をもっていなければならないのではないでしょうか。

理論どおりにビジネスが成功すれば、経営学者が一番成功するはずです。第六感は大きなリスクのなかでしか芽生えません。危機に敏感であると同時にプレッシャーに強いなど、生まれつきのものもあると思います。会社を興すためには、ビジネスモデルでの理論上の成立は当たり前であり、それでも成功率は3割でしょう。その3割に入るのは、経営者としての第六感と強力な「運」が必要になるでしょう。ビジネスをはじめたら何とかなる、と考えるのは、船の上から冬の海に飛び込むようなものです。暖かい船の上にいると、なんとか泳げそう、と思うのですが、実際冬の海にとびこむと、あまりの寒さにみるみる体が動かなくなり、薄れゆく意識のなかで暗い海の底に沈んでいくのです。私はなんどもそういう人たちを見てきました。

経営者でなくても責任感の強いリーダーや学者、文化人にはそういう第六感を持っている人は数多くいます。評論家の神様といわれる小林秀雄は、まさにその代表格でしょう。
その文章のなかでは、直接的に霊や神に言及することはほとんどありませんでしたが、講演のなかでは、常に霊の存在に触れていました。「神様がいるかって?いるに決まっているじゃないか」とその流暢なべらんめいで語ります。経営者はリスクを負う環境になるので、凡人でも神を感じるのでしょうけれど、そういう環境になくても感じられる人々はまさに天才なのでしょう。

そういう観点からすると、昔のその土地土地の為政者たちは大変なプレッシャーのなかにあったと思います。いつ殺されるか、いつ戦争で一族が滅亡するか、つねに命の危険にさらされているのですから。為政者たちが競って神社仏閣を建てるのは、科学が発達していなかったからではなく、常に危機と隣りあわせだったために神を感じられたから、なのでしょう。そういう観点からあらためて神社仏閣を見ると、時代時代の為政者たちの一族を率いる責任感とその重圧、恐怖がじかに伝わってきそうです。

再生と進化

NHKから出ているDVD「遺伝子 4.命を刻む時計の秘密」を見ました。
ちょっとその内容をご紹介しましょう。

私たちの体は60兆の細胞からなっています。そのひとつひとつの細胞のなかに、核があり、その核の中に螺旋形のひものようなものがあります。そのこの螺旋形のひもがDNAです。

人はなぜ、不老不死がかなわないのか。それは生物の進化に関係があるのです。
大腸菌は不老不死です。そして親とまったく同じものを増殖させていきます。
酵母菌はオスとメスの交接により、両親のDNAを結合させて新しい組み合わせの遺伝子をつくり、新たに再生します。そのかわり、組み換えがおこるなかで遺伝子は傷つき、親は新しい生殖細胞を残すと死を与えられるようになりました。しかし新しい細胞は進化し、そのうちに多細胞生物をつくりだし、多様な地球生物をつくってきました。その進化の結果、人間が誕生したのです。

その進化の過程は宇宙とも関係します。生物は、隕石が地球に降る量が増える3億年前から急激に進化しました。地球への隕石落下により気象環境が激変したため、生きるのが困難になった生物は、その環境に適応しようと進化したそうです。

生物はもともと螺旋からなるDNAによって作られ、そして死と引き換えに、誕生→結合→死→誕生・・・という螺旋の進化を生み、環境の変化が進化を早める。これが生物そのものの生きるためのシステムです。生物そのものが、困難を克服して進化するものなのです。地球上で最高度に発達した人間も例外ではありません。私たちは宗教や哲学を持ち出すまでもなく、生物学的に困難に克服して螺旋状に進化する生き物なのです。

以上がその内容です。
このDVDを見てとても感銘を受けたことは、人は生と死を繰り返し、環境変化の波の中でこそ進化がある、ということです。世の中万事塞翁が馬、苦あれば楽ありです。波のない、右肩上がりだけの人生や会社など、ありえないし、実は進歩がないのではないでしょうか。
世の中は相変わらず、右肩上がりの企業を評価し、失敗のないエリートを評価し、失敗をしないための教育が行われる。本当に必要なのは、行き詰ったら、いかに打破するか。上昇中はいかに慎重になるか、下降のときはどう行動すべきか、どん底をどう生きるか、そういうことを小学生には小学生なりに、中学生には中学生なりに、高校生には高校生なりに大学生には大学生なりに、社会人には社会人なりに教えていくことではないでしょうか。

私は、人は未来だけでなく、過去も変えられると思います。その経験がどんなにつらくても、苦しい過去でもその経験が未来に生かされれば、その思い出は宝物になります。
自分の過去をいかに生かすか。こういうことを試みたことがありますか? リーダーが社員ひとりひとりの能力を生かすように、自分ひとりでも、自分の過去、小学生時代、中学生時代、高校生時代、大学生時代、社会人新人時代・・・・を思い出し、現在の仕事や生活に生かすことはできるのではないでしょうか。

次回以降、私の小学生のころからを振り返ってその挫折について考えていきたいと存じます。

5年前ファーストフードで

5年ほど前の朝、ファーストフード店でこんな情景にでくわしました。
いかにも朝帰りとわかる、髪を金髪に染めた制服の女子高生二人が、私の隣の席に座って話をしていました。一人の女の子の携帯電話が鳴り、どうも友達からの電話だったようです。声が大きいので聞かずとも聞こえてくるのですが、電話している女の子の親が、その通話の相手である友達に電話をかけ、昨日の女の子のアリバイを確かめたようです。逆切れした女の子は母親に電話し、延々と罵倒し続けていました。

母親は泣きながら電話を一方的に切ったようです。そのとき、ふと女の子の悲しみが伝わってきたように感じました。女の子がもし本当に母親を憎んでいたら、自分から電話を切ってしまうでしょう。いつまでも母親に罵声を浴びせ続けているのが、なんとなく心では母親に助けを求めているように聞こえたのです。

おそらく電話の相手の母親は団塊の世代か、もしくは私と同じくらいの年齢でしょう。当時、もし私に25で子供ができていたら、このような不良少女になっていたのではないかと思ったのです。
私の年代は昭和一桁世代の親を持ちます。彼らは青少年時代を戦中、戦後の貧しい生活下で生きてきました。彼らは国家のために、という教育を受け、自分の子供には、自分たちのような貧しい思いはさせたくない、という自己犠牲のもと、子供中心の生活を続けてきたのだと思います。

私たちの世代は権威を嫌い、自己犠牲を知らずに育った年代です。子供はかわいい、という動機で接し、友達のように育て、忙しくなったり手に負えなくなると自分の都合で責任を放棄し、無視してきたのではないでしょうか。若ければ若いほど、遊びたい欲求は強く、その傾向は増していくでしょう。秋田で自分の子供を欄干から突き落としたとされる痛ましい事件も、まさにそれゆえでしょう。

子供の側からすれば、そうした親の姿勢に深く傷ついていると思います。おそらく自分の親が他人であるかのような感じを子供の頃から受けていたのではないでしょうか。これも親の同志的教育の悲劇的な結果なのかもしれません。援助交際をする女子高生は、自分を買う愚劣きわまりない大人を大変軽蔑していると聞きます。これはその愚劣な大人を親に見立てた、親に対する、自分を傷つけてまでする、大変憎しみのこもった復讐なのでしょう。

父親の威厳が必要な時代といわれます。三島由紀夫は父親をテーマに扱った小説を数多く残しています。これは私の独断ですが、彼は日本社会における父親像の原形を、明治の元勲に象徴される明治男に求めています。

「春の雪」では主人公の父親である松枝公爵は権力の象徴であり、主人公の松枝清秋はその対局にある優雅と美の象徴として描かれていました。「奔馬」では昭和初期の右翼の少年が主人公なのですが、その父と子を不純と純粋という対比で描いています。「絹と明察」では高度成長期の織物会社の経営者である主人公は父親の象徴的人物として描かれ、社員すなわちわが子に思考することを許しませんでした。「午後の曳航」では母子家庭で育った子供が、あこがれている船乗りの男がいざ自分の父親になると、そのあこがれの存在が堕落したとして殺害してしまう物語です。つまり父親は世間から子を守るための力(権力)としたたかさ(不純)をもつものと定義しています。

三島の近代能楽集のなかに「邯鄲」という小品があります。これは邯鄲という枕に寝る人は人生がむなしくなり失踪するという話をききつけた主人公が、その枕で寝てみると、夢の中で、世の中の富と名誉と美女を手に入れる体験をし、普通の人では人生に意味を感じなくなるところ、彼は常に大人になることを拒否していたために、なにも変わらず目が覚めた、という話です。ホリエモンが逮捕されたときの「邯鄲の夢」という新聞の見出しが印象に残ります。

三島の小説は、父親を既成権力、妥協、欲望、愚鈍、旧体質として描き、子供を美、未完成、創造、理性、新しい概念としてとらえ、むしろ子供を主役におき、父親の醜さをコントラストに描き、彼の美学を表現します(彼の小説は常に既存価値=父親を破壊する子供という形で芸術を表現するものが多いのです)。しかし彼の死の直前に完成した「天人五衰」で、最後に美が醜い形で消滅する姿を描き、彼の美学にピリオドを打っています。

彼は自身の求める時代とずれた時代に生きたことを大変くやしく思っていることは間違いありません。彼が求めていた時代は今だったのかもしれません。改めて今日読んでみると、彼の作品は今の時代のために創った時限爆弾だったと気付きます。彼の芸術は、「父親=既存権力」に立ち向かう「子=新しい概念」という形で成り立つ美学の構築物なのです。彼が生きた戦後、高度成長期は彼が対立しなければならない父親=既存権力が根こそぎ崩壊していき、もはや彼はそのなかで創作を生み出すことが不可能となり、彼自身が父親=既存権力となってがんこ親父が子供にげんこつを喰らわすように、死を持って社会に恫喝したのです。彼が最後に残した「豊饒の海」4巻が30年隔てた今日、破裂するように仕組んで死んでいったのです。

日本人は今日、ますますその幼稚化が進行しています。もっとも幼稚化しているのはまずテレビや大衆新聞です。不二家の賞味期限改ざんの問題は、もともと不二家が社内でプロジェクトチームを作り、業務改善しようとしたときに挙げられた問題が世間に流れたのです。賞味期限を改ざんしたこと自体は、確かに問題があります。しかし、そういった問題を明示化して改善しようとした矢先に、社会に表面化したのです。この問題で不二家が窮地に立つのならば、逆に業務改善する会社は今後より問題を隠蔽する方向に進むでしょう。テレビ報道は不二家をただ糾弾するばかりで、そこに世間をよくしよう、という意識は感じられません。まるで中学校のクラスのいじめをみているようでした。

日本の幼稚化は、団塊の世代の権利の主張に起因する、と言う人が結構います。それは敗戦でゼロから出直した日本が、「戦争という過去を断ち切り、個人の権利を主張する」という新しい国家のコンセプトでスタートしたからです。そして団塊の世代の、断ち切る「過去」とはすなわち自分たちの父親だったのかもしれません。少なくとも自分たちは「父親」というイメージにネガティブな感覚をもっていたのではないでしょうか。「父親」という権力、権威を破壊し、自分たちの自由と権利を謳歌する。高度成長を遂げ、世界第2位の経済大国になった今でも、まだこの国全体が同じコンセプトを持ち続けているように感じます。当然です。団塊の世代の子供たちが今の若者なのだからです。

しかし戦後60年たつと、日本はすでに成熟した国家に突入したのです。日本という国を人にたとえると、体はすでに中年に入ってきているのに、いまだに赤ちゃんプレイをしているようなものです。

成熟国家では「過去を大切にし、個人の義務を履行する」コンセプトでなくてはなりません。「個人の義務」とは社会の責任、とくに子供や若者を育てる義務です。情緒的にいうのならば、日本における新しい「父親」像を明示しなければならないのです。米国にもヨーロッパにもそういう「父親」像は強く感じます。
そのためには「どうして断ち切らなければならない過去を起こしたか」ということ、つまり「なぜ、あのような悲惨な太平洋戦争が起きたか」というところからスタートしなければならないのではないでしょうか。太平洋戦争があるから、過去を大切にできない。60年たった今日はその過去を徹底的に分析し、日本人の糧へと変えていかなければならないと思います。

ファーストフードの女子高生はもう成人していると思います。今、なにを考えて、どうしているのでしょうか。

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