« 2008年03月 | メイン | 2023年08月 »

2008年04月 アーカイブ

2008年04月02日

「殺生石」と夢

私はあまり夢は見ないのですが、人生のなかではっきり覚えている夢がいくつかあります。
先日お話した、小学3年生の時、アニメの「殺生石」を見た日の夜、そのアニメの女狐がとても強烈な印象だったのか、へんな夢を見ました。

夢の中身はこういうものです。

その薄幸そうな女の人は白い着物を着ていました。とても悲しそうな顔をして私を見つめていました。あたり一面雪景色でした。その女の人はふっと後ろに振り返ると、静かに山のほうへ歩いていったのです。私も黙って後をついていきました。その女の人の後を追って山を登っていくと、広い頂にでたのです。

彼女はすうっとしゃがみ込み、いつのまにか持っていた小枝で雪面に自分の躰のまわりにまあるく円を描くと、そのまま横たわりました。そして目をつむり深い眠りに落ちたのです。女の人が死んじゃう、そう心の中で叫びながらも、私は彼女がつけた円のなかにはけっして入ってはいけないと感じていました。

しばらく雪は激しくなり、その人の躰にどんどん雪がつもっていくのです。雪で躰が見えなくなりそうになってきたとき、その躰に異変が起きました。その躰がだんだん、昆虫のさなぎのような黒っぽくて堅い殻で覆われ出したのだ。みるみるうちに堅い殻は膨れ上がり、大きなさなぎになってしまいました。私はしばらく呆然とその大きなさなぎを見つめていました。

沈黙の時の流れを表現するように、雪はどんどん降り積もり、半時ほどもたったろうか、すでに、雪でその物体が覆われそうになった時、突然さなぎの殻が破れ、どす黒い醜い昆虫のような躰をした大きな化け物がでてきたのです。

私はびっくりして、あわてて麓へ向かって逃げ出そうとしましたが、金縛りにあって動けません。その化け物が間近まで近づいてきたとき、かろうじて足が動いたのです。あとは一目散に足を雪に取られながらも、もときた道を走り出しました。麓へ下り、街に入っても化け物は追いかけてくるのです。ものすごい恐怖感をつのらせて逃げていたつもりが、いつのまにか、自分と自分を追いかけている化け物を空から見ている。

私はそこで目がさめました。背中が、びっしょりかいた汗でひんやりしました。

皆さんも子供のころ、こういう夢を見た経験はおありでしょう。桜→殺生石つながりでこんなことも思い出しました。あまり意味はありませんが。

%E5%9B%BD%E5%8F%B8%E3%81%AE%E9%A4%A8.jpg

2008年04月03日

桜と能

「殺生石」つながりで、もう1節。能には桜をテーマにした題材が数多くあります。テレビでもよくあるように、酒宴に能が数多く催され、やはり酒宴といえばお花見だからでしょう。それは昔の武士も公家も庶民も現代とおなじでしょう。桜の花の下で

たとえばもっとも有名なのが西行桜。これは世阿弥の作品で、京都のはずれに西行の庵があり、その境内の桜がとても赴きのよいものだから、桜が咲くと、多くの人が見物に訪れるようになりました。

ある年、せっかくの桜を静かに見たいので、西行は桜見物を禁止してしまいました。そしてその夜、静かな庭で、「花見んと群れつつ人の来るのみぞ あたら桜のとがにはありける」
(花を見る人が多くくるのは、やたらに桜が美しいことの罪なのだ)
といいながら、桜の木の下で横になりながらお花見をしていました。すると一人の老人が現れ、
「埋もれ木の人知れず身と沈めども 心の花はのこりけるぞや」と口ずさむ。そして西行にむかって自分はこの桜の精で、「あたら桜の科にはありける」とはどういうことだ、という。

そして翁は、「春の花は上求本来の梢にあらはれ 秋の月 下化冥闇の水に宿る」と歌いながら舞う。(春の桜はやさしい菩薩の姿を仰ぐものとして眺め 秋の月は愚鈍な下界を菩薩が照らす理知の光である)

気がつくと西行は桜の木の下で眠ってしまい、夜もすっかりあけてしまいました。というお話です。
%E5%8B%9D%E6%8C%81%E5%AF%BAHP.jpg
(西行の庵 勝持寺)

お花見は菩薩様のやさしい御姿を拝むためにあったのですね。知らなかった。

能に限らず、文語調のものはたいてい5・7調になっていてリズム感があります。特に顕著なのは、絵本です。最近絵本の復刻版を買ったのですが、文語調でもリズム感があるのでとても読みやすいのです。文のリズムはその文章の深みをつける上でも大切なものです。

話は飛びますが、早くも桜が散り始めました。私のすきな桜をうたった句をもう少しご紹介します。

桜花散らばちらなむ散らずとてふるさと人の来ても見なくに 惟喬親王
(桜の花よ 散りたければどんどん散ればよい。どうせ里人は来ても見てくれないでしょう。)

惟喬親王(これたかのみこ)は844年に文徳天皇の皇子として生まれました。幼いころから聡明で文徳天皇からも立太子に望まれたのですが、時の権力者、藤原良房により阻止されました。28歳のころ、出家し、今の京都の愛宕に隠せいし、54歳でなくなりました。法華経の経典から轆轤(ろくろ)を考案し、椀やこけしなど地場産業を起こしたそうです。

自分の境遇をはかなむと同時に、世間の醜さを少し恨めしく感じている皇子の気持ちがよく現れている歌です。

花は散り その色となくながめれば むなしき空に春雨ぞ降る。 式子内親皇
式子内親王は後白河法皇の第3皇女です。この人の代表的な歌、
山深み 春とも知らぬ松の戸に たえだえかかる雪の玉水 も素敵です。
式子内親王は藤原定家とひそかに恋のちぎりをしていたといわれています。その物語が能「定家」に描かれています。

ある僧が定家ゆかりの時雨亭に雨宿りで立ち寄ったとき、謎めいた女性が現れて、僧を蔦葛のびっしり生えている墓に誘います。その古い墓は式子内親王のものであり、自分はその化身だという。そして式子内親王が死んだあと、定家は嘆き、その心が蔦葛となって式子内親王の墓を埋め尽くしたのだという。そして今でも二人が成仏できずに苦しんでいるので供養をしてくれ、といって消えました。僧が夜、墓を訪ねると、式子内親王が生前の姿で現れ、僧が法華経の薬草喩品を唱えると、蔦葛がほどけ、内親王は苦悩から解き放たれました。そして僧にその礼として舞いを舞って消えました。

式子内親王は、源平の動乱期を生き、後白河法皇という史上まれにみる怪物的法皇を父親に持ち、本当に純粋な心の持ち主だったのではないでしょうか。

その父親の怪物後白河法皇は、平家滅亡の後、大原に、息子の嫁であった建礼門院を訪ねて
池水の汀の桜散り敷きて 波の花こそ盛りなりけれ と口説きました。
(池の水面に散った桜の花びらこそもっとも美しいのとおなじように、若さを通り越した女性であるあなたこそもっとも美しいのです。)

女性はともかく、私も水の面を流れる桜の花びらに、もっとも感動したのを覚えています。5年前だったか、桜が散る時期だったので、桜吹雪の中、銀閣寺から南禅寺の裏手に抜ける哲学の道を歩いていました。脇を流れる琵琶湖疏水の水の面を桜の花びらが水面を埋め尽くすように流れていました。その間、30分くらいだったでしょうか。気の遠くなるような幻想的な時間でした。
%E5%93%B2%E5%AD%A6%E3%81%AE%E9%81%93HP.jpg
(桜の季節の哲学の道)

2008年04月19日

渋沢栄一とお花見

私は埼玉ニュービジネス協議会という、主にベンチャー企業の経営者の集まりに属しております。その中で、交流委員会、渋沢委員会、IT・教育委員会というものがあり、私はIT ・教育委員会をコーディネートさせていただいております。

先日渋沢委員会で渋沢栄一資料館の見学とお花見を王子飛鳥山でおこない、私も参加させていただきました。

%E9%A3%9B%E9%B3%A5%E5%B1%B1.jpg

%E6%B8%8B%E6%B2%A2%E4%BA%AD.jpg

渋沢栄一資料館は10年ぶりに訪れました。10年前、どうしてビジネスはなかなか巧くいかないのだろう、と思い悩みながら電車に乗っていると、飛鳥山が目に入り、そういえば、ここに渋沢栄一の邸宅があったと思い、思わず見たくなって途中下車しました。

10年前は冬の夕暮れだったので、暗いイメージが記憶に残っていましたが、今回はお天気で、桜も満開で、飛鳥山はお花見で賑わっていました。館長さんに案内していただき、いろいろと説明を受けました。

10年前には、なぜ渋沢栄一が成功したか、よくわからなかったのですが、今思うと、次のようなことではないでしょうか。

1、徳川慶喜の家来となり、その側近である平岡円四郎に認められたこと。
2、幕府使節団としてパリへ行き、資本主義のあるべき姿を知り、必要なものを日本に作った。
3、「共存共栄」の思想が、周囲の人と金を集めた。
4、家が商家であり、しかも小さい頃から論語を学んでいました。そのことがマックスウエーバーのいう、ヨーロッパとピューリタンと似たような、日本武士道と論語という資本主義を成長させるための教育を、渋沢は偶然うけてきた。

前にも触れましたが、私は渋沢栄一の「処世の王道」という昭和3年発刊の古本を偶然古本屋で見つけました。この本は大正12年に発刊しようとしたのですが、関東大震災で紙型が焼失し、それ以後絶版になっていたものが、渋沢の米寿の祝いに改めて昭和3年、発刊したものです。

その内容を要約すると、
1、なぜ論語を学ぶのか
・論語は父、年長の従兄から学んだ。
・論語は実践しやすい
・維新前の商工業者には素養がない。維新後、外国との交流も始まったので、品位を高めなければならない。

2、徳川慶喜の家来になる
・幕府は早晩つぶれるので、慶喜公の将軍就任には反対
・豪族政治になると思っていた
・パリ万国博に大使として派遣される
・静岡で商工会を開く
・勝海舟は慶喜公を静岡におしこめる
・函館戦争に榎本武明にさそわれる
・大久保利通に嫌われる。識見卓抜で、その才能たるや、底の見えぬ気味悪さ
・西郷隆盛は賢愚を超越
・木戸孝允は文学の趣味が深く、考えも組織的
・勝海舟はこの三公の器まで行かない
・祖先崇拝は温故知新
・江藤新平と黒田清隆は自分の意見を押し通す
・伊藤博文は議論好き。論理的かつ博覧強記で相手を説得。

3、富貴は正道をもってする
4、算盤の基礎を論語の上におけ
5、西郷は情に流され、江藤新平は残忍にはまる。大久保利通はその間。
6、商売は商戦にあらず
戦いは相手を倒すことにあり(+―)商売は相手も幸せにする(++)。

7、西洋と東洋と道徳のちがい
西洋:よいことはなるべく人に勧める
東洋:己の欲せざることは人にすることなかれ
というものです。

とくに幕末の偉人が等身大に描かれていて、とても面白かった。

%E6%96%87%E5%BA%AB.jpg

話は渋沢記念館の見学に戻りますが、今回の見学で、もっとも印象に残ったのは、館長さんがとくに強調していたのが、栄一が政治の道を選ばず、経済の道を選んだ、ということです。

私も世の中を良くするのは経済だと思っています。特に、15年前、ポール・ケネディの「大国の興亡」を読んだとき、いかに経済が歴史を作ってきたかを痛感しました。

渋沢が作った企業群は現在も日本経済の中心を担っている企業が多く、もし今日、グループ化すれば、もちろん日本一のグループになるでしょう。しかし渋沢は会社を作っても、私物化をしませんでした。戦後、財閥解体のとき、GHQは渋沢一族が、財閥と見られている割りに、財産があまりに少ないことにびっくりしたそうです。

渋沢に私欲がなかったから、渋沢に金と権力が集まったのでしょう。ひょっとしたら維新の英雄より、渋沢のほうが、よほど今日の日本の礎を築いた人なのかもしれません。

お花見の帰りの居酒屋では皆大変盛り上がりました。

2008年04月27日

ショーケンⅠ

昨日、「ショーケン」という本を買って、一気に読みました。ショーケンとは当然萩原健一さんのことです。先日文藝春秋の阿川佐和子さんの対談で、大河ドラマ「元禄繚乱」の徳川綱吉役はシェイクスピアのリチャード3世をイメージした、と言っており、ちょっと気になっていたところ、偶然本屋で目にしたのです。

私はつくづくテレビッ子だったと思います。この本は、その時代時代をリアルに思い起こさせてくれます。まず私が初めてレコードを買ったのは、小学校4年生のとき、ショーケンがボーカルをやっているテンプターズの「エメラルドの伝説」だったのです。当時シングルレコードというのがあり、1枚500円だったと思います。「君の瞳のエメラルド・・・」というこの歌のイメージが、その当時コカコーラのスプライトのコマーシャルで、緑色の森と湖のほとりを白馬にまたがった、白い服を着た髪の長い少女のイメージと結びついたのです。そしてその少女のCMのシーンはそのまま東山魁夷の、緑の森と湖のほとりをさまよう白馬の版画のイメージに結びついたのです。僕は小学校5年生で初めて東山魁夷の画集を買いました。それだけをとりだすと早熟に見えますが、なんてことはない、テレビCMと流行歌が好きだからその画集を買ったのです。

私はいまでも酒場で酔っ払うと「エメラルドの伝説」を歌います。

「太陽にほえろ」でショーケンが出ていたのは小学校6年のころです。ちょうど、春休みに入ったころ、夜行バスでスキー合宿へ行く直前までこの「太陽にほえろ」を見ていて、母に「遅れるよ」とせかされたのを覚えています。夜行バスではなかなか寝つけませんでしたが、うとうとしていると明け方になり、気づくとあたり一面紫色の雪景色でした。バスのラジオから、まだ結成したばかりのグレープの「雪の朝」が流れていて、さだまさしの声がとても美しく明け方の雪景色のBGMとして溶け込んでいて感動しました。

NHK大河ドラマ「勝海舟」は私が中学2年のときです。勉強も思うように行かず、悶々としているときでしたが、このテーマソングがとても壮大で気に入っていました。海舟が静岡に送られる慶喜の後姿に向かって「おさらばでございます」と言ったラストシーンは忘れられません。しかしこのときの岡田以蔵役の萩原健一は本当に狂気さを秘めていて怖かったです。

「傷だらけの天使」は再放送を大学浪人中に見ました。落ちこぼれのこの二人の生活が自分にダブって、なんかやるせなかったです。さらに2浪のときは、お正月に「寅さん」を見たりすると、コメディ映画なのに、社会に属さない寅さんの孤独やさびしさがひしひしと伝わってきました。

「影武者」は大学生のとき、新聞でオーディションを大々的におこなっているのを見て知りました。そのとき新米俳優ばかり集めて映画を撮ってもたいした映画になんないだろうな、と感じたことを覚えています。しかし後にテレビで放映されたとき、その映像の迫真さ、異様さにはとても凄みがありました。特にショーケンのいっぱいいっぱいの演技は武田勝頼そのもののような気がしました。あまりに偉大な大企業のカリスマ社長のあとを継いだジュニアはまさにこんな感じなのでしょう。

「元禄繚乱」は99年で、日本総研を辞めて2年目となり、当社1本で必死にやれば何とかなる、と思った時期でした。でもまだまだ不安でした。確かにショーケンの演技は激しからず、穏やかならず、けれど狂気さを含んでいたのが印象的でした。綱吉は身長が130センチ台で、当時としても小さく、だからこそ勉学に熱中し、この時代、元禄文化がさかえ、山鹿素行を輩出し、赤穂浪士の討ち入りがあり、こういう時代を綱吉が作ったことに納得しました。それをショーケンがリチャード三世をイメージして演じたことは、私のこの時代のイメージを刷新してくれました。

私が、山鹿素行を夢中で読んだのは、そういえばこのころでした。なぜ素行が好きか、というと、彼は兵法家でありながら、策略や陰謀を嫌ったからです。私も小さいころから策略や陰謀が大嫌いでした。組織の中で自分の存在感を引き出すために、人を恫喝し、威圧し、攻撃して自分のほうが、立場が上であることを示す人が、特に大企業のエリートに多く見られます。そして夜、飲みにケーションで陰謀や策謀をめぐらし、そういうことを高度な戦略や戦術と勘違いしているのです。

孫子の兵法で「詐をもって立つ」というのがあります。これをまじめに解釈してビジネスは騙しあい、と本気で思っている人もいます。私は幼いときからそういうことが大嫌いでした。いじめ問題もそういうところから発生すると思っています。「詐をもって立つ」とは現代的解釈をすれば、工夫をしろ、ということです。既成概念の正攻法だけでビジネスをするな、ということです。孫子の兵法は戦略ブログで述べさせていただきますので、この場では割愛させていただきます。

山鹿素行は徳川秀忠末期に生まれ、綱吉の元禄期まで生き、まさに徳川幕府の最盛期を生きた人です。ここでおそらく急成長の大企業よろしく、武士たちは、本来の士道を忘れ、策略や陰謀に走り、素行はその武士の文化に大変な危機感を持ったのだと思います。しかし幕府(当時の実権は保科正之が握っていました。)は政権の安定化から、本来の武士道から、幕府の権威付け、組織安定のための学問へとシフトさせていました。その中で素行の思想は危険に映ったのです。素行は赤穂藩に配流になりました。

さすが名君と言われた保科の直感は当たります。配流とはいえ、赤穂藩は素行を手厚くもてなし、師として多くの藩士が素行から学びました。素行が配流された36年後、あの有名な赤穂浪士討ち入りが起きたのです。まさに綱吉という権謀術数の好きな将軍の下で、経済的に華やかなりし政治体制の中で、吉良上野介という格式の高い家柄の武士が、浅野内匠守という素行の思想にどっぷりつかった若い武士をいじめる。浅野は吉良を切りつけ、即日切腹。そしてお家断絶。この一文の徳にもならない、ただ義を貫いたあだ討ち事件を世間は拍手喝采しました。世間では腐敗した世相にうんざりしていたのでしょう。もちろん素行も保科もこの世にはいません。しかし保科の恐れたのはこういうことだったのです。

ショーケンはこのような歴史背景を直感的に理解し、綱吉をリチャード3世のごとく演じたのでした。本当の名優というのはこういう人のことを言うのでしょう。

ショーケンⅡ

先日、「蒼き狼 地果て海尽きるまで」というチンギス・ハーンの映画をDVDで見ました。チンギス・ハーンは普通のイケメン俳優では難しいでしょう。関係者からの又聞きですが、最初渡辺謙にしようとしたのが、「ラスト サムライ」の成功で彼のギャラが膨大に膨れ上がり、変更せざるを得なかったそうです。

過去に見た映画で、英雄や歴史上の人物を見事に演じたと思うのは、西洋では「アラビアのロレンス」のローレンス・オリビエ、「アマデウス」のトム・ハルス、サリエリ役のF・マーリー・エイブラハムもすごかった。「リチャード3世」のアル・パチーノ、「クイーン」のヘレン・ミレンです。

日本ではまずなんと言ってもNHK大河ドラマの「太平記」で足利尊氏を演じた真田広之。当時はだいこんと評価はさんざんでしたが、私は足利尊氏というのはこういう人なのだ、と今ではとても強く感じます。尊氏の無私で純粋で優柔不断なやさしさが、武士を引き付け、はからずも、もっとも敬愛する後醍醐帝に謀反してしまい、心ならずも建武の新政をひっくり返し、弟や実の息子に離反されてしまった。その並外れた尊氏の魅力を真田広之は見事に表現していました。今では「太平記」はNHK大河ドラマの最高傑作とも言われています。(ウィキペディアで)

その次にショーケンの武田勝頼と徳川綱吉、仲代達也の平清盛も印象的でした。「春の坂道」で柳生宗巨を演じた萬屋錦之助、「花の乱」で日野富子を演じた三田佳子、ヨーロッパの合作映画「太陽」で昭和天皇を演じたイッセー尾形も天皇の孤高をよく表現していると思います。

役者が歴史上の英雄を演じることは難しいと思います。そのカリスマ性を表現することももちろんできないし、なにより性格がまったく異なる場合、大きなミスマッチをおこします。唐突ですが、私は今、チンギス・ハーンを演じられるのは、朝青龍しかいないのではないかと思います。同じモンゴル人というのもあります。ハーンは少なくとも朝青龍以上の気性の激しさはあったと思います。それをどんな器用でも普通の人間では演じきれないでしょう。

私は好きな俳優やアスリートは、真田広之、山崎勉とイチローです。満ち溢れる才能を、強い意志で統率し、孤高に自分の世界を構築していく。そのストイックな姿に、自分の道を厳しく突き進む求道者の風格があります。

その対極にいるのがショーケンや朝青龍でしょう。常にあらゆる感情やアイデアがあふれ出ていて、それを自分の理性でコントロールすることができない。

小林秀雄は「林房雄論」で、林房雄のことを、もてあました才能の軍団を引き連れながら、いつも逆らわれたり、小馬鹿にされている大将のようだ、と表現しています。おそらくショーケンや朝青龍も同じなのでしょう。

私のタイプといえば、たぶんショーケンや朝青龍タイプなのでしょう。もちろん彼らのようなルックスや肉体は持ち合わせていなく、林房雄のような大評論家になるような頭脳を持っているわけではありません。なによりも彼らのような社会的ステイタスがありません。

しかし私は自分で言うのもおこがましいのですが、質はともかくアイデアや発想はいつも湯水のようにあふれます。だからいろんな人から尋ねられると、どんどん自分のアイデアを公表します。人にとられる、とか心配しません。どうせ空気のように出てくるのだから。人に喜ばれ、物事が解決するならば、ただで結構です。それよりもアイデアを出すことで、人とブレーンストーミングでき、さらに次のステップのことが考えられることのほうが楽しいのです。

けれども、私も年には勝てず、おそらく頭の回転、アイデアの創出は15歳のころの2分の1になってしまっていました。15歳のころは、本当に想念を自分でコントロールすることができず、またあまりにその想念が拡大しすぎて、人に伝えたり、言葉として表現することができませんでした。

だから私はみんなから、何を言っているのかさっぱりわからない、とよく言われていました。勉強でも机に向かって国語のテスト、たとえば大好きな小林秀雄の文章や川端康成の文章なぞ出てくるものなら、すぐ想念で頭がいっぱいになり、勉強がまったくはかどりませんでした。数学の幾何の問題を解いていると、本当に芸術に接しているかのような感情で頭がいっぱいになりました。こんなことだから2浪もしてしまうのです。

徒然草で「つれづれなるまゝに、日ぐらし、硯にむかひて、心に移りゆくよしなし事を、そこはかとなく書きつくれば、あやしうこそものぐるほしけれ」とあります。私の場合、中学生のころから、つれづれなるままに、一日中、机に向かって、心に浮かぶことを考えたり、本を読んだりしているとだんだん怪しくものぐるおしくなっていくのでした。そんな生活が大学に入る20歳まで続きました。

大学生や社会人になると、酒を飲みながら友達と議論することが多くなり、しばらくすると「あやしうこそものぐるほしけれ」状態になり、酒場であばれてまわりの人に迷惑をずいぶんかけました。

私は28歳でコンサルタントになったのですが、なりたての頃、上司の三石玲子さんに書いたレポートのことでよく怒られていました。「あなたねえ、思いついたことをレポートにするだけでは小学生と一緒でしょう。プロは削って削って、本当にシンプルな本質に行き当たるまで削ることなのよ」と何度も言われていました。

年をとるごとに、ようやく頭の回転も遅くなり、想念の量も少なくなることで、自分の感情を少しはコントロールできるようになり、他の人に理解していただこう、という欲も出て、このようにブログで皆さんに、私の考えや体験を、多少なりとも読んでいただけるようになったのです。

しかし私は、いまだに「心に移りゆくよしなし事を、そこはかとなく書きつくれば」、まだ三石さんの言う、プロの境地に到達できていません。だから、私の場合、コンサル的なご相談はタダで結構です。そのかわり当社のソフトを買ってください。お孫さんやお子さんへの学習ソフトでもかまいません。

高村光太郎と私

私は中学時代から好きな詩がありました。

高村光太郎の「さびしきみち」です。

かぎりなくさびしけれども
われは
すぎこしみちをすてて
まことにこよなきちからのみちをすてて
いまだしらざるつちをふみ
かなしくもすすむなり

・・・・・・・そはわがこころのおきてにして
またわがこころのよろこびのいずみなれば

わがめにみゆるものみなくしくして
わがてにふるるものみなたえがたくいたし
されどきのうはあぢきなくもすがたをかくし
かつてありしわれはいつしかにきえさりたり
くしくしてあやしけれども
またいたくしてなやましけれども
わがこころにうつるもの
いまはこのほかになければ
これこそはわがあたらしきちからならめ
かぎりなくさびしけれども
われはただひたすらにこれをおもう

%E9%AB%98%E6%9D%91.JPG

私は中学生のとき、この詩を知ってから今に至るまで、毎日のように心の中で念仏のようにとなえています。

About 2008年04月

2008年04月にブログ「北畠謙太朗 ブログ」に投稿されたすべてのエントリーです。過去のものから新しいものへ順番に並んでいます。

前のアーカイブは2008年03月です。

次のアーカイブは2023年08月です。

他にも多くのエントリーがあります。メインページアーカイブページも見てください。

ブログパーツ

Powered by
Movable Type 3.34