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2008年03月 アーカイブ

2008年03月16日

私が、ただ、ひたすら伝えたいこと。

私は、もちろん専門家ではないのですが、多少は政治経済のことは知っているつもりでした。大学時代はゼミで戦後政治をくわしく勉強し、卒論は憲法変遷論でした。この年になるまで、日本の経済史や、政治関係の、それこそ何百冊という本も読みました。

しかし私は、政治的センスがありません。私の考えは一般世論と同じレベルです。私が投票する人や党は大抵勝ちます。(これは自慢ではなく、自分の政治レベルが大衆レベルであるということ)郵政民営化の選挙のときも、賛成に投票しました。今、そのことをだれかに正直に話すと、大抵「お前は政治がわかっていない」、と馬鹿にされます。

確かに、小泉政治は、大企業だけが豊かになり、国内経済、特に地方の経済は大変な落ち込みをもたらしました。

でも当時私は、日本人が、いつまでも高速道路やダムのなどの補助金に頼って生活しているのではダメだと思ったのです。個人が自分に投資することに目覚め、みんなで知恵を出し合い、力を合わせて仕事をすれば、日本人ならば、世界に通用する仕事ができるのではないのか、と思ったのです。

ところが結果は、地方は疲弊し、格差はひろがり、個人はやる気をなくし、自分への投資をやめ、パソコンに背を向け、いわゆるひきこもる人が増えてしまいました。

ただ国民に、国を頼る傾向は少なくなってきたことだけは確かです。あとは国民が「やる気」と小さな「成功体験」を持つことです。

私が教育ソフトメーカーをはじめたのも、人と知恵を育てるグループウエア開発しているのも、ただひたすら、この世の中が、みんなで知恵を出し合うことが富を生み出す社会に早くなって欲しいからです。

もっと具体的に言うと、組織に属していても、個人でも、自分に「投資」することで、自分の収入を増やし、豊かな生活を送る術を個人個人が身につけることにあります。

経済の専門家は、人口の増えない社会に経済発展はありえない、といいます。
しかし消費市場に「投資」という概念が持ち込まれれば、市場は無限に広がると思います。この考えを私は大学時代から持っていました。

消費市場は、人の生活における消費は有限ですが、個人が「投資」にめざめれば、そこで利益が生まれ、再生産されるからです。個人における「投資」はITの普及とともに可能になります。市場の川下である消費市場が広がれば、川上である生産財市場も拡大します。だから早く知価社会へ産業革命しなければならないのです。

農業社会では単なる道具である、鋤や鍬のような工業製品の市場が拡大して、工業化社会になったのと同様に、知恵や知識が従来の産業と結びつくことで、市場が拡大して、知価社会になるのです。

もともとイギリスで起きた産業革命は燃料不足による社会不安から起き、戦争が工業化社会への牽引となりました。知価社会は人口の急増(19世紀以前にくらべ)による弊害、先進国における人口のいきづまり、工業化社会経済のいきづまりから派生し、環境問題や高齢化社会、ITの普及が牽引になるでしょう。

私の身近な人が、3年前に亡くなったのですが、元は農林省の家畜衛生試験場の技官で、退官後は、ザンビア大学やモンゴル大学の教授として第3国の獣医学やウイルス、DNAの研究の指導に当たっていました。

しかし70歳になってからは、引退し、毎日将棋や言語学や仏教の勉強をしていました。時々、家へ遊びに来たのですが、大抵私と、そういった話で盛り上がりました。さすが東大出の研究者だけあって、それはそれは、あらゆる分野の知識や知恵は大変なものでした。

私は、そのうち本を書いたり、学問の仕方などで、会社の仕事も手伝ってもらおうと思っていたのですが、急死してしまい、日本の学問、文化にとっても本当に残念でなりません。特に長年研究してきたDNAと日本語の言語の起源と、仏教文化の関係を書いてもらいたかった。

定年を迎えた人が、その経験や知恵を生かす場所が、今の日本になかなかありません。ITを活用すれば、そういう人の人財を有効に活かせるはずです。

年配の人だけではありません。運悪く社会で活躍できない才能は、日本中に数多く眠っているはずです。たとえその仕事には就いていなくても、あなたの中にもだれにも負けない才能が眠っているかもしれません。

私はメディアファイブで、人々の才能を掘り返し、利益につなげるための道具を開発してきました。

プレミアシリーズで、世の中で初めて五感で学べ、携帯電話やiPodとの連携を強め、いつでもどこでも人々の才能を活かし、さらに勉強好きにするシステムを開発しました。

そして、人々の能力を正当に組織で活かし、利益をもたらすためのシステム「則天」を開発しました。

私は今年、完成した「則天」をベースに、そういう情報交流や仕事ができるSNSを作ろうと思います。老若男女みな参加してください。自分の可能性をそこで追求できれば、と思います。

日本人はものすごく高い知恵とエネルギーと大和魂を持っているはずです。元寇の危機のときも、江戸の元禄文化も、明治維新だって、戦後の焼け野原のときだって、高度成長期だって世界に類のない奇跡を起こしてきたではないでしょうか。

今度は個人、一人ひとりが、企業ひとつひとつが、国に頼らず奇跡を起こす番です。それは民間ベースで、地方ベースで「IT共同体」をつくればよいのです。

是非みなさん一緒に力を合わせて、もう一度奇跡を起こしましょう!自分の才能を見つけ、目標を持ち、その目標を目指して命をかけて働き、考え、知恵を絞れば、かならず利益を出せるはずです。

2008年03月24日

土筆

最近、夜早く寝て、早朝仕事をする機会が増えてきました。今日(3月22日)は休日で栃木にゴルフへ行く日だったので、ウォーミングアップも兼ねて、近くの河川敷にマラソンに行きました。家は、朝4時半に出たので、行きは薄暗かったのですが、帰りは明るくなっており、私のマラソンのメインコースである、河川敷の土手には土筆がちらほら生えていました。いくつかつまんでポケットに入れて持ち帰りました。帰りに、家の前の神社ではすでに枝垂桜が咲き始めていました。椿とのコントラストがとてもすばらしいのです。今日、はじめて春の訪れを実感しました。

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おいしい土筆は茎がしっかりしていて、はかまの一箇所をはがし、あとはくるりとはがすことができます。少し湯がいて、鰹節とみりん、しょうゆで味付けし、(私は隠し味としてそうめんのつゆをそこにいれます。)おひたしにしたり、卵とじにしたりします。

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私は小さいころから土筆が大好きで、遠足や自転車で河川敷に行っては土筆を取って、自分で料理していました。

そういえば、土筆といえば、今から19年前の、印象に残るニュースを思い出しました。昭和天皇の崩御の一週間前、天皇は土筆を食べたい、とおっしゃり、まだ真冬だったので、周囲の人が一生懸命に探し、少し口にしていただいた、というニュースでした。

日清、日露の戦勝の栄華な時期の日本と、そして敗戦による焦土となった日本と、そして高度成長期による復活した日本と、「邯鄲の夢」の逆バージョンの栄枯盛衰を二度にわたり体験した天皇は、今わの際に、邯鄲の青年のように、本当は、今までの人生が全部夢であればよいのに、とお思いになったのではないかと、この「土筆を食したい」というニュースを聞いて思いました。

寒さが和らいだ頃、田んぼのあぜ道や河川敷で春の知らせをもたらす土筆は、昔から庶民の暮らしとともにあったのでしょう。

花をのみ待つらん人に山里の雪間の草の春をみせばや(藤原家隆).

土筆は室町時代から、蔬菜として食されていることが記録され、一説によると花粉症にも効くらしいそうです。

今日はお天気もよく、ゴルフの成績も超へたくそな自分としてはまあまあで、そういえば、花粉症も出ずに、なかなか気持ちの良い1日でした。

2008年03月25日

蔵の中

3月3日の夜中、「蔵の中」という映画を中古DVDで買ってきて見ました。これは1981年の映画で、横溝正史の原作なのですが、最初テレビで少し見て、自分の好みの映画だなあ、とおもっていたところ、家電店の中古DVDコーナーにありました。ある小間物問屋の子供に笛二という弟と小雪という姉がいました。小雪はとても美しい娘なのですが、5歳で耳が聞こえなくなり、娘盛りの年に胸を病み、人に病気を伝染さないようにと、家の蔵に暮らしていました。ところが弟の笛二は姉を異常に愛しており、姉と一緒に蔵の中で暮らし始めました。ある日笛二は蔵の中で望遠鏡を見つけ、蔵の天窓から覗いていると、隣の未亡人宅に、作家風情の男が出入りしていました。笛二は声の出ない姉の言葉を読み取る術をすでに身につけていたので、未亡人と男の会話を口の動きから読み取っていました。ふたりは首絞め遊びをしていて、ある日、男はその未亡人の首を絞めて殺してしまったのを目撃してしまいました。笛二は蔵の中の姉との生活や、窓から覗いた未亡人宅の話を、小説にして、その作家に届けました。その作家は驚いて笛二の家を訪ねて、使用人の娘に問いただすと、その家は笛二だけで、娘はいない、ということでした。つまり笛二の幻想の世界の小説だったのです。笛二が自分と幻想の姉を作り出し、最後は女装して自害したのです。

この笛二の幻想の、小雪という姉役がとても色っぽい女優で、松原留美子という人でした。ところが、なんとこの人男だったのです。1981年当時、ニューハーフの走りはこの人が作ったそうです。今から27年前のことですから、いまではいいおじさんでしょう。

この映画を居間のテレビで見ていたのですが、ちょうど5段飾りの雛人形が飾ってありました。この蔵の中という映画は実に公家文化に近いものを感じます。橋本治の「双調平家物語」を初めて読んで、公家の世界は、両刀遣いの多い世界でびっくりしました。
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保元の乱の首謀者である藤原頼長は、その日記に男色の活動を赤裸々に書いていることでも有名です。ちなみにこの息子が琵琶の名手、藤原師長で、前にも述べた「玄象」の主人公です。

ところが貴族の世界で「男色」が流行るのは、プラトンも言及しているようです。ハンス・ケルゼンというドイツの法哲学者の著作で「プラトンのエロス」(ケルゼン選集7 「神と国家」に収録)というのがあります。

その論文によると、プラトンは人を愛し教育し、教育しつつ愛してその共同体を愛の共同体とすることにあこがれ、人間形成と社会改造をその目標としました。

プラトンの思考の対象は教育と国家であり、その至上の問題は善と正義でした。ところがその情熱のベースが同性愛なのだそうです。そのころプラトンの住んでいるアテネの貴族社会には同性愛者がけっこういたそうです。この同性愛は異性との性生活を否定するものではなく、それを拡大し、豊かにするものだそうです。

昔、倫社の教科書で、ソクラテス、プラトンを言及する項目で、アテネの貴族たちが、ベッドの上で食事をしながら哲学的議論をするシーンがあるのを覚えていますか?あれはたぶん同性愛の行為もセットになっていたのではないでしょうか。

ただこれは公に認められているものではなく、アテネの刑法も同性愛を抑圧する態度で臨んでいるそうです。プラトンはその同性愛の肉欲部分を排除し、精神的なものへと昇華させました。そしてそこに芸術や哲学を生む土壌をつくったのでしょう。

おそらく日本の公家の同性愛も退廃的なものだけでなく、プラトン的な文化的意味も含まれていたことが想像できます。公家文化は短歌や漢学、歌舞音曲を中心とする学問芸術によって成り立っていました。その中で、男女の恋愛と政争があり、その延長上に同性愛があったのでしょう。

同性愛を昇華した例は近現代でもトーマス・マンの「ベニスに死す」や、アンドレ・ジイドの「狭き門」「田園交響楽」、日本では三島由紀夫が代表例でしょう。

もともと人は輪廻を男女交互に転生していくもので、前世のなごりの強い人が男同士や女同士で好きになったりする説もあります。そう考えるとちょっとロマンティックですね。残念ながら私にはそのところはさっぱりわからないのですが、そういう説明はなにか夢があっていいかな、とも思います。

日本とイギリスのもっとも大きな違いは、イギリスの貴族は率先して武器を取り、土地や王権を争い、血で血を洗う戦いをしていたのが、日本では、元来大化の改新以降、源平合戦まで大きな戦いはなく(平治の乱でも1000人規模の戦いだったそうです。)いかに日本の支配者層(公家)が戦争嫌いだったか、ということだと思います。ただ先ほど述べた藤原頼長も、暗殺は積極的におこなっていたので、陰での死闘は当然繰り広げられていたのでしょう。

もっともイギリスだって、1308年に即位したエドワード2世は男色家で有名で、側近を全部自分の恋人で占めて、フランス王の娘であるイザベラ王妃と対立し、最後は肛門に火箸を突っ込まれて、王妃に殺されました。亭主の男狂いを相当恨んでいたのでしょう。恐ろしい話です。

シェイクスピアのベニスの商人も、正義と友情のテーマに隠れて、実は男色家の話なのです。バッサニオに金を貸したアントニオは、自分の船の遭難により、その金を用立てたシャイロックに返済を迫られる。アントニオはバッサニオのために、シャイロックに殺されることを是とし、その覚悟をする。しかしこれは、実は友情ではなく、アントニオはバッサニオを愛しており、バッサニオの言う「妻より全世界より君の命が尊いと思うよ」と言う。この言葉は愛する男から聞いて死ねることが衆道のきわみだそうです。

そして驚くことに、シェイクスピアも男色家だったそうです。この話は長尾龍一氏の法哲学入門(講談社新書)に書かれていました。

大切なことは日本の公家たちが、いかに自分の縁故を天皇の后や傍女にすることが最優先課題で、恋愛ばかりして、地方への赴任にあまり行かなかったことが、武士の台頭を許し、公家政権は滅亡し、世の中を、南北朝時代以降戦乱続きにしてしまったことでしょう。当然といえば当然の結果かもしれません。アテネでもこのあとアレキサンダー大王のマケドニア王国にアテネはその独立性を失いました。

とにかく公家に限らず日本の歴史上の支配階級には男色家が多いようです。武田信玄と高坂昌信の手紙は有名だし、織田信長と前田利家、そして葉隠れにもそういうことが書かれています。

繰り返しになりますが、この手の話は私にはさっぱりわかりません。ですから、衆道を理解できない人間の推測なので間違えているに決まっていますが、たぶん主従のつながりは、昔は、お互い命がけだったのだと思います。お互い裏切られることは、すぐに死につながります。だから武士の時代以前は、肉体関係だけが信頼の証しであるのは男も女も変わらないのかもしれません。

そういえば、私の友人で奥さんに逃げられた人がいますが、当時は何度か、おかまバーにつき合わされました。彼は女は薄情だけどおかまは裏切らない、とわけのわからないことを言っていました。
ただそのとき、そのおかまたちは、とても美しく、男とは思えませんでした。またとても気配りがあり、精神的な温かみを感じました。彼の言っている意味も一理あるなあ、と納得していたことも記憶しています。

このおかまバーのように、公家は男も化粧をしていたので、相手を女性と見立てて擬似恋愛をしたのかもしれません。武家社会では、男の鎧姿はとても美しく、ナルシズムも混ざっているのかもしれません。

そういえば、旧ソ連やロシアでも政界幹部の親睦はサウナでおこない、お互いの一物を握り合う、という話も聞いたことがあります。

いずれにしろ、人を自由に殺せる時代には、肉体関係が心の絆の一手段として使われていたのでしょう。

女性が一見夢見がちなロマンティストに見えて、実は徹底的なリアリストであることが多いのと同様、公家社会も、短歌や歌舞音曲に彩られた王朝の雅を栄華した文化のようで、実は徹底的な現実主義的な世界だったのかもしれません。

公家から武士への権力移行は、源氏物語に象徴される、公家という女性的文化から、平家物語という両性具有的な文化を経て太平記や信長記、太閤記などの男性的文化へと変質していったことは確かです。

戦前までは、武士文化の延長だったようです。戦後、戦争放棄を憲法に掲げながら、高度成長を経て経済大国になった日本は一見公家文化へと回帰してきたようにも見受けますが、それにしては今日の日本は夢や文化が無さすぎます。位置づけが難しいですね。

今、テレビでは「おかま」という人たちが数多く活躍されています。藤原頼長は公家政権の終焉に出てきました。プラトンはギリシャ共和国の終焉に出てきました。今の日本はなにが終わろうとしているのでしょうか。その領域をまったく理解できない凡人の私にはわかりません。

2008年03月30日

また桜の季節がやってきました。
先週の金曜日、新人歓迎会も兼ねて近くの公園でお花見をしました。毎年、この催しをおこなっているのですが、いつも寒い思いをしています。なぜお花見をする日に限って寒いのでしょうか。2001年の春などは大雪が降りました。満開の桜に降る雪はとても美しかったのを覚えています。

よしの山 さくらが枝に雪ちりて 花おそげなる 年にもあるかな 西行
(吉野山の桜の枝に雪が舞い 今年は寒いので開花が遅れる年なのかな)
桜を背景にする春の雪は、いつの時代も人に感動をあたえます。

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(吉野山の桜)

土曜日には両親と河川敷のゴルフ場へハーフをやりに午後から行ったのですが、桜のほかにも桃や菜の花、ゆきやなぎが咲き乱れ、さながら桃源郷のようでした。

桜はとても美しいのだけれど一筋縄にはいかないようです。あまりにきれいなので、お花屋さんで枝を買ってはつぼに生けたり、鉢を買ったり、庭に植えようともしましたが、あまり縁起がよくないようなのでやめました。

桜は手に入れたりしてはいけない、なにか崇高な花なのかもしれません。
やはり神社の桜を時々眺めるのが一番安全で、気楽な楽しみ方のようです。

桜をテーマにした私の好きな短歌をご紹介します。

やはり始めは、百人一首で有名な

久方の ひかりのどけき春の日の しずこころなく花のちるらん  紀友則
(永遠にふりそそぐ のどかな春の日の光のなかで 静かに、無心に花がちっていきます)

西行はもちろん桜で有名な歌人です。

ほとけにはさくらの花をたてまつれ我がのちの世を人とぶらはば(私が死んだなら 桜を供養にたむけてください)

たかおでら あわれなりけるつとめかな うつろい花とつづみうつなり
(高雄寺でなんとういう趣き深いおつとめをされているのでしょう。桜の散る中で鼓を打つとは)

風にちる花のゆくへはしらねども をしむ心は身にとまりけり
(風に散る花びらがどこへいくのかはわからないけれど その散る花びらが 散るのを惜しむ心のように私の身にとまります)

いかでわれこの世のほかの思ひいでに風をいとはで花をながめん(どうしたことか 私はこの世の思い出に 強風をいとわず桜が散るのを見ていたい)

西行は前のブログでご紹介した藤原頼長と同時代の人です。もともと鳥羽院につかえていましたが、50歳のおり、鳥羽院の息子で保元の乱で敗れた崇徳上皇の霊を鎮魂するために讃岐をまわっています。そして藤原頼長の息子で琵琶の名手の師長は保元の乱で一度土佐に流された後、1164年に許され都に帰り、1177年に太政大臣になりましたが、1179年の平清盛のクーデターで尾張に流されました。平家物語の「大臣の配流」の項目です。

平家物語といえば、

平忠度の
さざ浪や 志賀の都は あれにしを 昔ながらの 山ざくらかな

というのが有名です。
埼玉県岡部町の岡部六弥太が忠度を討ち取った際、よろいについていた一首が上の句でした。

私は、
ゆきくれて木のしたかげをやどとせば 花やこよいのあるじならまし
が好きです。

平家物語つながりでいえば、
後白河院が建礼門院を寂光院にたずねたとき、
池水に 水際の桜散りしきて 浪の花こそ さかりなりけれと読みました。

今日はここまでにしておきます。

2008年03月31日

桜の思い出 「殺生石」と篤姫ゆかりの薩摩屋敷別邸

もう3年も前のことだと思います。3月29日に、旧薩摩屋敷別邸であった白金台の般若苑で観世流宗家が「殺生石」を薪能で舞いました。かつてその場所で、今話題の篤姫も住んだことがあるのでしょうか。生憎、その年は寒い春で、まさに「花おそげなる 年にもあるかな」でした。 残念ながら桜は開花せず、つぼみの下で宗家は舞いました。

「殺生石」は、小学校3年生のころ、埼玉県立図書館の児童映画の上映会のアニメで見ました。とても美しい女性に化けた金狐の末路が、悲しく、せつなく感じたのを強く記憶しています。そして小学校5年生のとき、林間学校で那須に行き、殺生石を見て、その映画を思い出し、林間学校そのものがせつない思い出になってしまいました。なぜか私には、その女狐が気になっていたのでしょう。

この物語は昔、御深草院のころ、玄翁という禅僧がおり、那須の怪しげな石の前を通り過ぎようとすると、にわかに女性が現れて、この石に近づくと命をとられる、という。わけを聞くと、「この石は玉藻前という、鳥羽上皇に寵愛された女性で、実は金狐の化身であり、それを陰陽師の安部泰成に見破られ、朝廷を転覆するものとして追われ、東国の武士に那須で討たれました。そしてその石の霊になったのです」。そういうと、その女性はその石にすうっと入っていきました。玄翁はその石に「成仏せよ」と一喝すると、石はふたつに割れて精霊が現れ、身の上話をし、最後に引導を渡してくれたことを玄翁に感謝して消えうせました、という物語です。

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その35年後に、旧薩摩屋敷別邸で、「殺生石」を宗家の舞で見たのです。薪の火に照らされて、精霊の若女の面をつけた宗家の舞は本当に美しいものでした。底冷えする、つぼみの桜の下で、満開の桜を想像しながら見ることが、かえって能の美しさを引き立てたかもしれません。

私にとって、幼いころの殺生石の体験を思い出させてくれる、本当にすばらしい一夜でした。般若苑はその夜が最後で、取り壊しになりました。この般若苑の由来は、奈良の般若寺の建物の一部を移築したことからついたそうです。

般若寺は南朝ゆかりの寺で、護良親王が本堂の櫃に隠れて、あやうく北条からの追ってから逃れたエピソードや、この寺の周辺の般若坂で、北畠顕家が初めて戦闘で敗れたエピソードがあります。ちょうど桜が咲くか咲かないかのころでしょう。

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(春の雪の般若寺)

鳥羽院といえば、保元の乱のとき、藤原頼長と崇徳院を排斥した帝です。また深草院は南北朝の対立の元を、弟の亀山院とつくった帝です。

歴史の時間と空間はいろいろなところでつながっていますね。

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