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2013年05月 アーカイブ

2013年05月06日

霊山神社

5月6日、ゴールデンウイークの最終日、日帰りで福島の霊山神社へお参りに行ってきました。東北大震災の前年、家族で、福島の第1原発にほど近い、楢葉町にある天神岬に家族でキャンプをした帰りに、霊山神社の春の大祭に行って以来です。3年ぶりのお参りです。

P1010086.JPG(霊山神社春の大祭 数年前の画像)
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霊山神社は南北朝時代の1333年11月に、北畠顕家卿が鎮守府将軍として多賀城に赴任し、1336年足利尊氏の謀反のあと、討伐のための遠征隊を終え、その後北朝が盛り返し、関東、京都での攻撃態勢の拠点として霊山という絶壁の山頂を拠点としたのです。

霊山神社は霊山から5キロ離れ、明治維新に明治天皇の指示で作られた神社で、別格官幣社という国家直轄の神社として創立しました。ただ、もともとは顕家卿の支城で、江戸時代、白河藩主松平定信によってこの地を祭っていたそうです。

今、八重の桜で、西田敏行演じる西郷頼母が宮司様になったことでも有名です。

ご祈祷をいただく前に足立宮司様に様々貴重なお話をいただきました。足立宮司様は福島神社庁の責任者をお勤めになっていて、震災ではそれはそれは大変ご苦労されました。宮司様は国際政治にも明るく、大変有意義なお話をお聞きできました。宮司様の背後に顕家卿の御影が飾られており、経営に悩み、迷っている自分に、宮司様のお声を通して、顕家卿が、自分に語り掛けて頂いているようでもありました。

その中で、最も心に残ったのは、経営において、鳥の目、魚の目、そして虫の目が大切というお言葉でした。遠く空から俯瞰するような鳥の目をもって、物事を眺め、魚の目をもって世の中の潮の流れを感じ取り、虫の目をもって目先の経営も大切にする。

まさに、今の自分に本当にしみいるお言葉でした。また、目まぐるしく激変する経営環境に、必至に方向転換にもがく自分に、まさに必要なお言葉でした。

そのあと、本殿にてご祈祷をいただき、それはそれは、ものすごく強い霊力いただいた感じを受けました。

自分のような才なく器なく、薄学非才の輩でも、ご先祖様に多少なりとも許容していただけたような気になりました。

以前のブログで書きましたが、当社の誕生は様々な偶然が重なっています。
http://blog.media-5.jp/kitabatake/cat27/ (歴史 南北朝 参照 →)
会社起こして20年。ただ、自分はご先祖様の小間使いとして、その指示のもと、少しでも日本の教育に貢献できれば、と思いつつ、いまだその指示を達成できていません。

もうすぐ5月22日(新暦で6月10日)は顕家卿の命日です。父親房卿の思いを一心に背負い、20歳の尊命を、1338年のその日、堺の石津川で散らしてしまいました。

厳しい経営環境のなかとはいえ、たかがちっちゃい会社を切り盛りするのに四苦八苦し、すでに52の齢をいたずらに重ねている自分は、とても非力で情けなく感じます。

ご祈祷が終わり、こんな立派な宮司様の後を、お継ぎになる方がいらっしゃるのだろうか、とふと思い、失礼を顧みず、そのことを尋ねると、じつは、後を託すはずのご子息は4年前、交通事故で他界されたそうです。

大正期、八甲田山の陸軍の雪中行軍の遭難碑慰霊祭にご祈祷のために出かけて、高速道路での事故だったそうです。27歳のお若さでのことだったそうです。

ちょっと、その時、僕が困った表情をしたのでしょう。でも宮司様はにっこり笑って、あの震災はとても大変でつらかったけど、諸事に忙殺されることで、息子への悲しみを忘れることができたのです、と涙を浮かべておっしゃいました。

そのとき、僕は親房卿の短歌が思い浮かびました。

「さきだてし、こころもよしな中々に 浮世のことも思い忘れて」
(息子に先立だれたのも、悪いものではない。あまりに酷い世の中を一瞬でも忘れることができるから)

僕は、顕家卿を失った親房卿の思いを真近でみてしまった気がしました。

どんなにつらくても、今の自分のつらさなんて本当にちっぽけなものだ。自分は自分に課せられた使命を、可能な限り、全うしなければいけないんだ、という決意を秘めて、帰路につきました。

2013年05月16日

5・15

5月15日というと、みなさん515事件を思い浮かべる人が多いでしょう。

僕は5・15というと、延元3年5月15日を思い浮かべます。それは1338年5月15日北畠顕家が、後醍醐天皇に抗議の手紙を送った日なのです。

その内容は5年前(2008年1月 「5月22日」)のブログでも触れましたので、簡略すると

① 権限の分権化しなければならない。②コスト意識をもって、浪費を抑えるべし。③公平平等な人材登用で、友達や取り巻き、女性をみだりに登用しない。④法令の徹底、組織システムの構築。⑤公私混同の排除 の5つです。

この日、顕家は後醍醐天皇に上記に文面を抗議文としてしたため、その1週間後の5月22日に堺の石津川で戦死しました。

後醍醐天皇といえば、このときは足利尊氏の謀反で、吉野で隠遁されていたものの、現代から見ても、時代を率先して変えた稀代の盟主です。

それはそれは、思いつめて、死を覚悟してでなければ、大王に20歳そこそこの若僧が抗議文を出すはずはありません。最後に平謝りに失礼な手書きを書いたことを詫びます。

以前条々、言(もう)すところ私にあらず。およそそれ政をなすの道、治を致すの要、我が君久しくこれを精練したまい、賢臣各々これを潤飾(じゅんしょく)す。臣のごときは後進末学、なんぞ敢て計い議せんや。しかりといえども、あらあら管見の及ぶところを録し、いささか丹心の蓄懐(ちくかい)をのぶ。書は言を尽くさず。伏して冀(ねがわ)くば、上聖の玄鑑(げんかん)に照して、下愚の懇情を察したまえ。謹んで奏す。     延元三年五月十五日従二位権中納言兼陸奥大介鎮守府大将軍臣源朝臣顕家上る
(いろいろご注進させていただいたことは、私心から出たものではありません。政治をおこなう方法、民を治めるにあたり大切なこと、お上が切磋琢磨し、優秀な部下たちがそれを実行するものです。私のような学問もまだ浅いものがこんなことを申しても恐縮ですが、今の世の中の現状を鑑みて、どうしても申し上げたいことがございました。書いたものは言を尽くさずですが、是非お聞き入れください)

南朝に忠節をつくし、最後は絶望のなかで、後醍醐天皇に抗議文を送り、憤死した顕家。南朝のリーダーである後醍醐天皇、その亡き後の指導的役割を果たした、顕家の父である北畠親房。勝利者となった北朝のリーダー足利尊氏とどこが異なってるのだろうか。

決定的な違いは南朝のリーダーは国家のあるべき姿、そして国家を構成する民族のあるべき姿をトップダウン的にこだわったこと。そして、北朝は、国家的コンセプトはなく、反南朝として、武士による、武士のために土地を分配する、武士の利益を優先する国家であったことです。

結果はご存知の通り、北朝が実質勝利し、人情家で、私欲のない尊氏は土地を仲間に与えすぎたために、室町幕府は、最後まで安定した政治を行うことができずに、最後はばらばらとなり、戦国時代に突入してしあったのです。

そもそも創業者である足利尊氏と弟の直義でさえ対立し、観応の擾乱で最初は直義が南朝に走り、次に足利尊氏自身も南朝に下る、という前代未聞の事件がおきたのです。つまり北朝系の内部対立で、形勢が悪くなると、南朝に走ることが始まったのです。

それ以降も、足利幕府の意向からはずれると、南朝に助けを求め、特に全国の武士の一族の跡目争いには必ず、それに敗れると、南朝に助けを求めるようになりました。

5年前は、僕は、理想を掲げて天皇親政を打ち立てた後醍醐天皇が主導する南朝が、目先の利益を追求する北朝に敗れたのは、その後270年間日本が戦争状態になってしまったことをかんがえると、日本の歴史の悲劇と考えました。

南朝の敗因は、後醍醐天皇がこともあろうに子息で、鎌倉幕府打倒の公家最大の功労者である護良親王を、とらえて足利尊氏に渡してしまったことだとも思いました。

しかし、今は、北朝の勝利は必然でなのかもしれない、と思っています。どんなに理想的なコンセプトを掲げていても、人は利益に靡くのが現実です。

僕の中で、この5年間でなにが変わったか、といえば、それは「大衆」に対するとらえ方です。当時の武士にあたるのが、現代における「大衆」でしょう。民主主義の現代において「大衆」はじつに強大なパワーを持ち、現実主義で気まぐれでわがままな飽きっぽい独裁君主です。

「大衆」に目をかけれらたものだけが、多くの富を手にします。多くの場合無視されます。そしてそれに逆らうものは残酷に八つ裂きにされます。

これがITの成熟社会の特徴でしょう。

というより、ITという道具は、「大衆」に巨大な権力をもたらしたのです。

顕家の抗議文も、5年前は後醍醐天皇の行動に対する抗議と思っていました。しかし今はそうは見えません。大衆、すなわち大勢の人々の心を慎重に対処してほしい。そのために、権限の分権化、コスト意識の徹底、公平平等な人材登用、システムの構築、公私混同の排除を訴えたのだと思うようになりました。

もしかしたら、昔から、いつの時代でも「大衆」は大きな力を持っていたのかもしれません。しかしITがインフラになることで、それがより目に見える形で、物凄いスピードで世界を変えるようになったのかもしれません。

きっとそうでしょう。

ビジネスとは人の心を捉え、いかに日常で必要とされるか、だと思います。

当社が開発しているネクレボをはじめ、当社の商品が、そのようなものになるまで、昼夜問わず考え、試行錯誤を続け、改良していく所存です。

2013年05月19日

なぜ今エンディングコーディネーター? リスクマネジメントのひとつとお考えください。

最近、あるお客様から一通のメールをいただきました。その内容は、「この頃、エンディングコーディネーターの案内メールばかりくる」とおしかりのメールです。

なぜ今、当社はエンディングビジネスに力を入れるのか?

それはお客様のお問い合わせや、講習会の申し込みが急増しているからです。

なぜか?それはみなさんがこの世の中に不安をお感じになっているらでしょう。


先日新潮社より「日本最悪のシナリオ 9つの死角」という本を買いました。「尖閣衝突」「国債暴落」「首都直下地震」「パンデミック」「サイバーテロ」「核テロ」「エネルギー危機」「北朝鮮崩壊」「人口衰弱」この9つが起きたらどうなるか、という本です。

このほかにも、富士山や箱根山の爆発、東南海地震などもあります。

みなさんの記憶にもいまだ鮮明だと存じますが、9.11やリーマンショック、東日本大震災などが起きたときは、一瞬、経済は止まりました。

ところがです。新潮社の本に書かれている、9つのシナリオが起きたら、どうなるでしょう。

9.11やリーマンや東日本大震災の比ではありません。本当の天変地異です。

しかもこの9つのことは、残念ながら、いつ起きてもおかしくないほど間近に迫っています。

私はアベノミクスが成功することを節に祈っています。しかし、その一方、万が一でも上記の一つでも勃発すれば、経済は間違いなく大混乱です。

経済の大混乱は、通常の資格だけではなかなか食べていけません。

資格は、ビジネスへの入り口です。まずは資格をとることで、そのビジネスを必要としている人は耳を一回は傾けてくれます。あとは皆さんの演技力と素質と努力で、そのチャンスをお客様の満足に変えるのです。そこであなたはその仕事で食べられる切符を手に入れられる。

しかし、世の中は絶えず変化します。ひとつの仕事でビジネスを継続するのは難しいのです。一つの方法でビジネスを拡大していくことはなお難しいのです。

私は、常に7割の本業と3割の新規事業を心がけています。勿論新規事業はとても難しい。簡単にはいきません。

だから
エンディングコーディネーターなのです。

行政書士、宅建、社労士、FP,ケアマネージャーなどがこの資格を持てば、どんな天変地異が起きても、自分のお客様に頼りにされます。

9つのシナリオはだれでも想定できます。勿論起きないに越したことはない。でも起きることの準備をすることは、起きた後の行動で180度違います。

予防接種をするようなものです。いえそれをしなければなりません。

リスクマネジメントは大切です。

当社は当社のお客様が生き抜くためのIT道具づくりを使命と心しています。

今後当社はNPO法人エンディングコーディネーター協会の活動の一つとして、人々のビジネスのリスクマネジメントの研究にも力を入れたく思います。

いつの時代もこの世は修羅というブログを先日書きました。

戦後60年、日本は本当に豊かで、平和だったのです。歴史的に見れば、奇跡です。江戸時代は平和でも餓死者のでる飢饉はなんども訪れました。

だから、今、日本人はいざ、というときの行動が弱いのです。

日本がローマのように滅びるのか、復活するのかは、国民のみなさんすべてが、この9つの最悪のシナリオについて、対策を一生懸命に考えることでしょう。

そういう意味では、当社のお客様は本当に見識が高く、リスクマネジメントに敏感だ、ということです。そのお客様で構成されているSNS学習サイト「ネクレボ」はまさに人材の宝庫です。

まだ見られていない皆様に、ぜひ拝見していただきたく存じます。

備えあれば憂いなし。ピンチはチャンスです。

2013年05月22日

2013 5.22-6.10 とAKB48総選挙

1338年5月22日、堺の石津川の河口付近の浜で、北畠顕家は戦死しました。新暦でいうと6月10日なのですが。

以前のブログでも書きましたが、23年前、堺の教材会社さんとの仕事がきっかけで、当社を創業したのです。最初、その会社に伺った帰り、北畠という地名が目に飛び込み、タクシーを止めてもらったところが北畠公園という顕家の墓だったのです。

これも以前のブログでも書きましたが、僕は運命的な偶然を感じ、墓の前で手を合わせたのです。

当時、僕には歴史の知識もなく、当然、歴史的にもマイナーな北畠親房や顕家の知識もありませんでした。ところが、この堺の教材会社さんと歴史のソフトをつくり、放送会社さんと孫子の兵法のソフトを制作することになったことにより、親房や顕家の考えを少しづつ知ることになり、いつしか親房や顕家の思想を知ることになりました。

そして、以前は、この会社を通して、少しでもかれらの思想を世の中に広げられれば、と考えていました。2007-8年にかけたブログのときは、そう思っていました。

その間、顕家の奏上を「則天」に託し、神皇正統記をまだ全然未完成でも「ネクレボ」に託してきました。

しかし、それが最近、誤りであると感じてきました。

話は飛びますが、今、僕は、毎年恒例のAKB48の総選挙を見ながらこのブログを書いています。

話を元に戻すと、その誤りとは、僕は、世の中に、必要なものを作ろうとしたのです。

それが間違いなのです。

正確にいうと、世の中に必要だと思ったことが間違いなのです。


事業として必要なのは、言い換えると、世のなかに受け入れられるものは、

世のなかの大勢の人が、本当に欲しい、と感じているものを世の中に提供することなのでした。

以前、この2008年のこのことに関するブログを書いているころ、AKB48はブレイクしました。モバゲーがアイテム課金で成功しはじめたのもこのころでした。


当時僕は、これらのブレイクは、20年にわたる不況の結果、大衆が自信をなくし、逃避行動としてアイドルを育てることや、ゲームの世界でヒーローになることに夢中になるのだ、と思っていました。


しかし、そう考えていること自体が、今思えば、僕自身大変な思い上がりであり、経営者失格でした。


事業として大切なのは、みんなが欲しいと思うことや、ものを行い、結果としてお金が回って、組織を維持発展させることなのです。

大衆がすでに、必要と感じていることをビジネスにしなければならないのです。

この20年の内需縮小の社会のなかで、9割の会社が10年で潰れる、ということは、ビジネスの成功は1割に満たない、ということです。

より多くの人が日々食べていくことの難しさを痛感し、暗い現実のなかで、多くの人にとって確実にAKB48やモバイルゲームは人々を勇気づけ、自分がいきるための存在価値となっているのです。

今、この教育というジャンルで、どうしたら、世の中の人にとって必要と感じる教材を提供することができるのだろうか。


それは、いつでも、どこでも気軽に学べて、いつもとても楽しく、単純でわかりやすく、そしていつのまにか自分や家族や生徒のためになっている、教材を開発することなのだと思います。


私は今、この会社で、そのようなものを作ろうと、大幅に方向転換を始めています。


そうこうしているうちに目の前のテレビで、AKBの総選挙は、まさかの「指原」が1位になりました。昨年、週刊誌にスキャンダルをすっぱ抜かれ、博多に左遷されたアイドルが、1年でトップに返り咲いたのです。しかも、お笑いキャラを演じている子が。

これこそが、今大衆が求めているものなのかもしれません。    「復活」

今年は、かつてみなさんが、在りし日の夢を抱けた日本の社会の「復活」を夢見ようとしているのかもしれません。  アベノミクスしかり。


それはこの1位になった「指原」のように、軽い、ウイットに富んだ、でも挫折からひょい、っと這い上がってきた女の子のように。


そこには、努力も、根性もありません。あまたを使い、楽しみながらの復活です。


当社も、そんな世界を当社の教育SNSサイト「ネクレボ」やゲーム教材やスマフォコンテンツの中で作っていく所存です。

みなさんにとって必要なスキルの教材を、気軽に楽しく身近に使いながら、知らず知らずみなさんの人生や生活が「復活」するような、そんな教材やツールやサイトやシステムを作ってまいります。


南朝が北朝に敗れたのは、親房がコンセプトで南朝の正当性を訴えたのに対し、足利尊氏はただ武士の現実をつかんでいたのです。恩賞としての「土地」の提供という。

その結果、徳川幕府になる270年後までは、全国で、土地を、血を血で争い奪い合う騒乱状態が続いてしまいました。


当時の武士に匹敵するものが、今日における大衆です。大衆に受け入れられれば、すぐに何百億、何千億という大金に膨れ上がり、大衆にそっぽを向かれれば、いかなる大企業といえども生きていくことはできません。

なにが、正しく、なにが間違っているか、それは歴史の流れには関係がありません。
理屈ではなく、現実的な歴史の流れの中で、人はいかに生きるべきかを問い続けることが必要なのでしょう。

今日、AKBの総選挙で「指原」が優勝したことが、まさにそれを物語っているような気がします。


顕家は奏上文で常に民という言葉を強調しています。以下は難しいので読まなくていいです。ちょっと眺めていただけたら幸いです。

第2条
右、連年の兵革、諸国の牢籠、苟しくも大聖の至仁にあらざれば、黎民の蘇息を致しがたし。今より以後三年は、偏えに租税を免じて、民肩を憩わしめよ。・・・・三ヵ年の間は万事興作を止め、一切に奢侈を断ち、しかる後、宮室を卑くし以て民を豊かにして、仁徳天皇の余風を追い、礼儀を節し俗を淳うして、延喜聖主の旧格に帰せば、たたむきを垂れて海内子のごとくに来り、征せずして遠方賓服せん。

第5条
臨時の行幸および宴飲をさしおかるべき事

右、帝王のいたるところ、慶幸せずということなし。風俗を移し、艱難を救うの故なり。世澆季にのぞみ、民塗炭に墜つ。遊幸・宴飲まことにこれ乱国の基なり。

第7条
政道の益なき寓直の輩を除かれるべき事

右、政のためその得あらば、芻蕘の民といえどもこれを用いるべし。政のためその失あらば、閥閲の士といえどもこれを捨つべし。・・・道路目を以てし、衆人口を杜ぐ。これ臣鎮に在るの日、耳に聞きて心に痛むところなり。それ直を挙げて枉に措くは、聖人の格言なり。・・・陛下諫に従わざれば、泰平期するなからん。もし諫に従わば、清粛の日あるものか。小臣、もと書巻を執りて軍旅の事を知らず。かたじけなくも ふっ詔を承り、艱難の中に跋渉す。再び大軍を挙げて命を鴻毛にひとしうす。幾度か挑み戦いて身を虎口に脱れし、私を忘れて君を思い、悪を却け正に帰せんと欲するの故なり。もしそれ先非改めず太平致しがたくば、符節を辞して范蠡の跡を逐い、山林に入りて以て伯夷の行を学ばん。

以前条々、言すところ私にあらず。およそそれ政をなすの道、治を致すの要、我が君久しくこれを精練したまい、賢臣各々これを潤飾す。臣のごときは後進末学、なんぞ敢て計い議せんや。しかりといえども、あらあら管見の及ぶところを録し、いささか丹心の蓄懐をのぶ。書は言を尽くさず。伏して冀(ねがわ)くば、上聖の玄鑑に照して、下愚の懇情を察したまえ。謹んで奏す。

延元三年五月十五日
従二位権中納言兼陸奥大介鎮守府大将軍臣源朝臣顕家上る

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