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5・15

5月15日というと、みなさん515事件を思い浮かべる人が多いでしょう。

僕は5・15というと、延元3年5月15日を思い浮かべます。それは1338年5月15日北畠顕家が、後醍醐天皇に抗議の手紙を送った日なのです。

その内容は5年前(2008年1月 「5月22日」)のブログでも触れましたので、簡略すると

① 権限の分権化しなければならない。②コスト意識をもって、浪費を抑えるべし。③公平平等な人材登用で、友達や取り巻き、女性をみだりに登用しない。④法令の徹底、組織システムの構築。⑤公私混同の排除 の5つです。

この日、顕家は後醍醐天皇に上記に文面を抗議文としてしたため、その1週間後の5月22日に堺の石津川で戦死しました。

後醍醐天皇といえば、このときは足利尊氏の謀反で、吉野で隠遁されていたものの、現代から見ても、時代を率先して変えた稀代の盟主です。

それはそれは、思いつめて、死を覚悟してでなければ、大王に20歳そこそこの若僧が抗議文を出すはずはありません。最後に平謝りに失礼な手書きを書いたことを詫びます。

以前条々、言(もう)すところ私にあらず。およそそれ政をなすの道、治を致すの要、我が君久しくこれを精練したまい、賢臣各々これを潤飾(じゅんしょく)す。臣のごときは後進末学、なんぞ敢て計い議せんや。しかりといえども、あらあら管見の及ぶところを録し、いささか丹心の蓄懐(ちくかい)をのぶ。書は言を尽くさず。伏して冀(ねがわ)くば、上聖の玄鑑(げんかん)に照して、下愚の懇情を察したまえ。謹んで奏す。     延元三年五月十五日従二位権中納言兼陸奥大介鎮守府大将軍臣源朝臣顕家上る
(いろいろご注進させていただいたことは、私心から出たものではありません。政治をおこなう方法、民を治めるにあたり大切なこと、お上が切磋琢磨し、優秀な部下たちがそれを実行するものです。私のような学問もまだ浅いものがこんなことを申しても恐縮ですが、今の世の中の現状を鑑みて、どうしても申し上げたいことがございました。書いたものは言を尽くさずですが、是非お聞き入れください)

南朝に忠節をつくし、最後は絶望のなかで、後醍醐天皇に抗議文を送り、憤死した顕家。南朝のリーダーである後醍醐天皇、その亡き後の指導的役割を果たした、顕家の父である北畠親房。勝利者となった北朝のリーダー足利尊氏とどこが異なってるのだろうか。

決定的な違いは南朝のリーダーは国家のあるべき姿、そして国家を構成する民族のあるべき姿をトップダウン的にこだわったこと。そして、北朝は、国家的コンセプトはなく、反南朝として、武士による、武士のために土地を分配する、武士の利益を優先する国家であったことです。

結果はご存知の通り、北朝が実質勝利し、人情家で、私欲のない尊氏は土地を仲間に与えすぎたために、室町幕府は、最後まで安定した政治を行うことができずに、最後はばらばらとなり、戦国時代に突入してしあったのです。

そもそも創業者である足利尊氏と弟の直義でさえ対立し、観応の擾乱で最初は直義が南朝に走り、次に足利尊氏自身も南朝に下る、という前代未聞の事件がおきたのです。つまり北朝系の内部対立で、形勢が悪くなると、南朝に走ることが始まったのです。

それ以降も、足利幕府の意向からはずれると、南朝に助けを求め、特に全国の武士の一族の跡目争いには必ず、それに敗れると、南朝に助けを求めるようになりました。

5年前は、僕は、理想を掲げて天皇親政を打ち立てた後醍醐天皇が主導する南朝が、目先の利益を追求する北朝に敗れたのは、その後270年間日本が戦争状態になってしまったことをかんがえると、日本の歴史の悲劇と考えました。

南朝の敗因は、後醍醐天皇がこともあろうに子息で、鎌倉幕府打倒の公家最大の功労者である護良親王を、とらえて足利尊氏に渡してしまったことだとも思いました。

しかし、今は、北朝の勝利は必然でなのかもしれない、と思っています。どんなに理想的なコンセプトを掲げていても、人は利益に靡くのが現実です。

僕の中で、この5年間でなにが変わったか、といえば、それは「大衆」に対するとらえ方です。当時の武士にあたるのが、現代における「大衆」でしょう。民主主義の現代において「大衆」はじつに強大なパワーを持ち、現実主義で気まぐれでわがままな飽きっぽい独裁君主です。

「大衆」に目をかけれらたものだけが、多くの富を手にします。多くの場合無視されます。そしてそれに逆らうものは残酷に八つ裂きにされます。

これがITの成熟社会の特徴でしょう。

というより、ITという道具は、「大衆」に巨大な権力をもたらしたのです。

顕家の抗議文も、5年前は後醍醐天皇の行動に対する抗議と思っていました。しかし今はそうは見えません。大衆、すなわち大勢の人々の心を慎重に対処してほしい。そのために、権限の分権化、コスト意識の徹底、公平平等な人材登用、システムの構築、公私混同の排除を訴えたのだと思うようになりました。

もしかしたら、昔から、いつの時代でも「大衆」は大きな力を持っていたのかもしれません。しかしITがインフラになることで、それがより目に見える形で、物凄いスピードで世界を変えるようになったのかもしれません。

きっとそうでしょう。

ビジネスとは人の心を捉え、いかに日常で必要とされるか、だと思います。

当社が開発しているネクレボをはじめ、当社の商品が、そのようなものになるまで、昼夜問わず考え、試行錯誤を続け、改良していく所存です。

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2013年05月16日 17:46に投稿されたエントリーのページです。

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