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2008年05月 アーカイブ

2008年05月20日

報告書「ルーツを探る」

このゴールデンウイークで、温泉旅行も兼ねて、父母らと福島に行ってきました。

今回、このブログを出版する、という話になり、それなら、この際ルーツをしっかり調べないといけない、と周囲の人が言うので、このゴールデンウイークを使って、父の実家に行ってきたのです。

最近ルーツの詐称問題や、戦後すぐ後南朝天皇問題などいかがわしいルーツにかかわる事件があったので、私のルーツは果たして親房や顕家とつながっているか、ここまで調べ、これ以上はわからない、ということを明記するほうが良い、ということなのでしょう。

皇室関係のルーツは社会的に大きな影響を与えるかもしれませんが、民間の氏は、しかも中世に活躍した氏のルーツなど、まったく社会的意味はないと思います。

私はルーツにこだわっていません。ただ北畠親房を歴史上もっとも敬愛する思想家、文学者で、顕家はもっとも敬愛するリーダーであり、武将であると思っています。それは私にとって本居宣長や山鹿素行、西行、実朝、世阿弥、徳川家康を敬愛するのと同じことです。

ただ、私は、今日、上に挙げた人物に比べ、親房や顕家はあまりにも無視され、誤解され続けているように思えてなりません。世間が無視しているのか。或いは自分のDNAが親房、顕家とつながっているから、好みや思考パターンが似ていて、身内びいきになっている、という可能性もあります。

北畠家のルーツを探ることは、後南朝問題そのものです。戦後、父の実家の人たちはそのことにあまり触れたがりませんでした。戦前は神皇正統記には、不徳な天皇は降ろしてしまうほうがよい、とか後鳥羽上皇を迎え撃った北条泰時を支持したり、右翼から攻撃を受ける可能性が高く、戦後は逆に、やはり神皇正統記が右傾学者の東大教授の平泉澄博士などに支持されたので、GHQから田畑を取り上げられるのでは、という恐れを抱いたようです。

親房やその子顕家、顕能の末裔である伊勢北畠は1576年織田信長に滅ぼされ、浪岡北畠も1578年に津軽為信に滅ぼされました。そして信長も為信も一族を根絶やしにせんと掃討作戦をおこない、北畠家の末裔は名字を変えて、安東や秋田家などに臣下として入り込むか、山岳地帯で農林業や狩猟などを営むか、信長に内通した北畠の庶流、木造氏はそのまま信長の家臣となりました。

一説によると、大日本史を水戸光圀公が編纂したとき、北畠関係の資料を焚書にした、ということも伝えられています。

いずれにしろ、歴史の表舞台からは、15世紀を待たずして消え、しかし南朝の問題は明治や戦後も含めて微妙な問題を数多く含んでいるので、その子孫を名乗るのは、百害とまで言わなくても五害あって一利なしであると思われます。

したがって、私の小さいころから、父の田舎では、先祖のことは誰一人無関心かつ、なんとなくタブー視をしておりました。誰かが「先祖のことは外の者は調べてもよいけれど、内(その地域)の者は調べられない」と言っておりました。

とにかく、今回、自分のルーツを調べられるだけ調べました。親房、顕家の末裔である確証はありません。資料からわかった状況証拠を公表します。

1、天栄村広報誌に顕家の末裔として親戚の家が紹介されました。

2、父の実家の丸に三柏の家紋が福島では村上源氏を祖とする、と家紋辞典に載っています。(都道府県別 姓氏大辞典 柏書房 2004年)

3、長沼の寺の過去帳では実家の北畠の名前は室町時代の大永2年(1523年)から見られます。

4、江戸時代も、墓には北畠という苗字が示されており、認められる古いもので、元禄16年の記載がああります。(そのほか、両脇の墓は、享保、文政など1700年から1800年代が中心)

5、父の実家や親戚の先祖は庄屋、本陣、脇本陣、組頭で、ともに牧之内村の役場を中心に隣接しており、村の運営を担う一員だったようです。

6、牧之内村は立石山と大里城の間1里(4km)の間にあります。
 ・立石山は1360年ごろ、護良親王の子である興良親王が立てこもっていたところです。
 ・大里城は北畠親房が建てた城で、おそらく結城親朝が保護していた顕家の娘がかくまわれていたところです。
 ・親朝は1347年に死んでいますが、その息子顕朝の「顕」は顕家の名前からとったものと推定できます。したがって顕朝も親房には離反しても、顕家に対しては親近感をもっていた可能性もあります。
 ・顕家の娘は安東家に嫁ぎ、何らかの理由でこの地に戻ってきたか、もしくはその子孫が戻ってきたか、が推定できる。安藤(この辺りではこちらの字を使っている)という苗字もこの地域に多い。
 ・天保期の小文書では北畑となっており、この「畑」は津軽の北畠が一時名乗っていた姓であり(姓氏家系大辞典 1963年角川書店)、 顕家の娘が嫁いだ安藤家は津軽に本拠を置いていました。

7、牧之内村は名馬の産地で、古くは八幡太郎義家の愛馬「薄墨号」、熊谷次郎直実の名馬「権太栗毛」は牧之内村の産地であった。つまり馬のブランド産地であったのです。馬の産地は、実は戦国時代までは大変重要で、有名な武田信玄の騎馬軍団がなぜ強かったか、というと甲斐が有数の馬の産地で、良質の馬と、馬の扱いに慣れた兵が多かったからといわれています。南朝再起の拠点としてはうってつけの場所だと思います。

8、父の実家の菩提寺であった正法寺というのは真言宗であった。そのお寺に詳しい家系図や過去帳があったようですが、明治期に焼失し、資料が喪失したそうです。親房は著作「真言内証義」で、真言宗を第1とした。また正法寺は大変古く、747年から757年の開山ではないかといわれています。
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9、興良親王に付き添っていた武将立石、木村、森の姓がこの付近に多い。また父の実家は長い間、左記の姓の人たちや、同姓の人たちと姻戚関係を父の代まで繰り返してきました。

10、この岩瀬郡の周辺は、最後まで須賀川の宇津峰城を中心に南朝の奥州拠点であり、南北朝以降、氏内分裂や多くの氏が北朝に転向したとはいえども、結城、伊達、二階堂、田村、南部など顕家の側近の子孫が多く、江戸以降は新田の末裔を自称する徳川家に近い松平家が統治しているので、北畠を名乗っても問題はなかったのではないでしょうか。

11、近隣の村にある寺の過去帳では、北畠家は、戦国時代の大永(1521年~1527年)から存在します。おそらく父の実家の裏の真言宗の寺が消失したときに、多くの過去帳は消失したのでしょうが、近隣の村へ嫁いだ娘や、養子に出した子供が死んだときの記録が残っているものと思われます。
%E4%BA%AB%E4%BF%9D%E9%81%8E%E5%8E%BB%E5%B8%B3.PNG(享保年間に卒した過去帳)

なによりも、北畠家が、江戸時代以降、農業や脇本陣などを営み、武士でなかったこと,牧ノ内自体、馬の名産地としての重要拠点でありながら、会津街道からかなり山奥であり、いざというときは山に逃げ込めることも幸いしたのでしょう。

牧之内村と立石山、大里城は東西に1里(4K)離れています。これらの事実をもとに、これ以降は推測なのですが、顕家の娘は、1340年代つまり生まれてから、安東氏に嫁ぐまでは、結城親朝の保護下、ここにいた可能があります。

しかし1360年代にまた安東氏の一族の一部の人たちとここに戻ってきたのではないでしょうか。というのは1360年代に興良親王が、吉野を逃れて立石山にこもったのは、いとこである顕家の娘を頼ってのこととも考えられます。それゆえに、この一帯に北畠、安藤、立石、木村、森という苗字が多いのではないでしょうか。1360年以降消息を絶った興良親王も、この地で亡くなったのかもしれません。(九州へ落ちた話もあります。)

今回のゴールデンウイークでの調査でわかったことはだいたいこんなところです。写真や資料は膨大な量を集めましたので、今後、この報告書に追加記入してまいります。

そもそも自分のやろうとしていることが親房、顕家のしようとしたことと重なることがわかったのは、会社を興した後のことです。たとえ自分と親房、顕家と血がつながっていなかったとしても、何ら今の自分の立場や考えが変わるわけではありません。

それよりも、今回のルーツ探しでもっとも興味をもったのは農村における村落共同体のメカニズムの素晴らしさです。「天栄村史」は全4巻、4500ページを越す膨大な資料です。この資料を徹底的に読んでみて、特に江戸時代から明治にかけて、村落共同体として、村人たちが実に生き生きと、自主的に暮らしているのです。

次回のブログでそれをご紹介します。

日本を創ったのは武士道でなく、農村共同体かも

天栄村の村史を調べていくうちに、村の自治、農民の工夫、田畑以外の新規事業の工夫、古文書が豊富に残っているなど、農村の自治レベルの高さに驚きました。

考えてみれば、農家、つまり当時の百姓は土地を持ち、自力でビジネスをし、税を収め、再投資する。まさに理想的な中小企業共同体です。

彼らは季節を利用し、村という組織を利用し、村長の知恵を利用し、けっこう豊かな暮らしをしていたようです。中級武士が年収100万円のところ、下級農民でも年収300万円あった、という説もあります。

武士は、藩主のために忠誠することを第一とし、農民は生産を第一とする。目的が稼ぎになれば、当然農民のほうが年収は上がるものです。

また年貢も五公五民と言われていますが、実際は、農家はターゲットとなる米は五公五民でも税の対象にならないものを新規事業で開拓していたから、幕末ごろには、実際は1割の税金で済んだ、という説もあります。

農家はなにより自然を大事にしました。昼と夜、春夏秋冬、川と山、陰陽に木、火、土、金、水という五行を駆使し、陰陽五行が生活や仕事の中にあふれていました。

また農民は、税を払っていれば、ほとんど武士に口出しされませんが、税を払わないと、大変な罰を受けます。また五人組という制度があり、一人でも罰を受けるとあとの四人も同罪ということがあり、これはまさに五人が命がけで助け合って、知恵を出し合う社会でした。

この5人組の手法は現代でも活用されているところがあります。バングラディッシュです。ここのグラミン銀行は、貧しい農民を対象に融資をする銀行として設立しました。その手法はお金を借りる5人に連帯保証をさせて貸し出すのです。一人でもお金を返せなくなると、あとの4人に債務が発生するので、みな必至に知恵を出し合って、協力してお金を返済しようとします。返済率は98.9%で通常の銀行と遜色ありません。この銀行は2006年、ノーベル平和賞をとりました。

話をもとに戻しますが、江戸時代は8割から9割が農民で、その多く(8割くらいか)は大小はあるにしても自作農なのです。自分の責任が明確で、他人と助け合わざるをえず、実に見事なビジネスのしくみなのです。

しかも農村における教育も熱心で、まさに実学を地でいっていたのが村落共同体だったのです。

そういえば、明治維新で活躍した伊藤博文や西郷隆盛も郷士(半農半士)出身、山形有朋は中間の子、勝海舟も三代前の米山検校は貧農の生まれで、高利貸しまで出世しました。
坂本竜馬も三菱の祖となる岩崎弥太郎も郷士です。なにより近代経済に最も影響のあった渋沢栄一は大農家の生まれです。

明治維新の後、武士道が日本の資本主義を導いた、と言われていますが、本当でしょうか?
儒学は十分農村でも普及しておりました。文盲率も農村ですでに5割を切っていました。
ベンチャースピリットは農村に存在していたのではないでしょうか。

藩も解体され、一割しかいない、しかも商売をどちらかというと侮蔑していた武士たちが、近代日本を作っていった、というのは表面的かもしれません。近代日本を創った西郷も伊藤も山形も渋沢も岩崎も純粋な武士階級出身ではありません。

西郷隆盛が純粋な武士たちを率いて西南戦争を起こし、農民を中心に組織した政府軍に敗れたの象徴的な話です。


農民のベンチャースピリットのレベルの高さは二宮尊徳のことばで明言されます。
二宮尊徳いわく、
私の教えは書籍を尊ばず、天地を経文としている。
 私の歌に
   音もなく香もなく常に天地は 書かざる経をくりかえしつつ
これは、学問の真髄なのではないでしょうか。

世の中、花の咲き散る、人の栄枯盛衰、生き死になど万物循環する。
このような自然の理を逆らわなければ、自然と豊になる
。」と言っています。

しかし現代社会では、自然の理に反することで平然と富を得ていることも多く、なかなか尊徳のようにはいきません。それは明治に入り、資本主義が発達し、多くの人や企業が、大企業や大組織の部品として存在することにより、そして目先の利益を追求することにより、自然の理からかい離するようになったのです。

そういう意味では、江戸時代における藩と農民の関係は、大企業と地方の中小企業の関係に近いのかもしれません。違いは藩は政治をおこない、農民を保護する義務がありますが、大企業は利益追求を目的とし、中小企業を保護する義務はありません。

武士の役割は、闘って土地を奪うことにあり、農民は人と助け合って土地から穀物や果実を生むことが役割です。今の大企業は市場、金融市場のシェア争いを目的とし、中小企業は下請け的な仕事を中国に奪われながらも、なかなか地域におけるビジネスの助け合いができていません。

しかし、より多くの人が部品化する、大企業中心の社会は限界にきてしまいました。やはり自然の理が働き、反作用にぶれていくでしょう。それで最近資本論ブームなのですが、私が思うに、資本主義の反対は社会主義ではありません。東西冷戦は資本家と労働者のイデオロギーの対立、つまり利益の対立であり、構造の対立ではありません。資本主義の反対は、農本主義だと思います。人が、社会や組織の部品の一部か、自然の一部かの対立です。資本主義下で農本主義を取り戻すもの、この手段のひとつに当社のつくった人材育成グループウエア「則天」があります。

農本主義といっても農業に回帰するのではありません。自分を畑とし、それを耕し、自分の体調、運気、季節、年齢、景気など様々な自然要因を考え、右肩上がりのビジネスを考えるのではなく、人や社会の循環や波にいかにうまく合わせるか。つまり調子の良い時は頑張り、調子の悪い時はスキルを磨く。農本主義というより、人本主義というのかもしれません。そういうビジネスへ、世の中は回帰しはじめたのではないでしょうか。
Capitalism (資本主義)から Agriculturism(農本主義) →からagriをとり culturism。
私はこれを、あえて人本主義といいたいです。

「則天」は人の生産性を算出します。組織にいながら個人が自営的なビジネスな可能となり、自分の能力を磨きながら、生産性を上げて、暮らしをよくすることができます。まさに人本主義を実現させるツールなのです。

2008年05月25日

五月の短歌

春風にけづりもみやらぬ神なびの みむろの岸の青柳のいと

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五月まつ山ほととぎすうちはぶき 今もなかなん去年の古声

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五月雨物思いすればほととぎす 夜深きなきていづちゆくらむ 紀貫之

わが宿の池の藤なみ咲きにけり 山ほとどきすいつかきかなむ

五月待つ花橘の香をかげば 昔の人の袖の香ぞする

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うたたねの夢にはきつるほととぎす 思い合わせる一声もがな

昔みし平野にたてるあや杉の すぎにけりとてわれなわすれそ
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8年へし波の枕のよるの夢 さめれば花のうてななりけり

我が上に月日は照らせ神路山 あおぐこころにわたくしはなし

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ことわれよ神々ならばゆうだすき かけてちがひし末の言の端

八百日ゆく浜のい真砂の数知らず 悟れる人もありけるものを

いづかたの道ある御代もちかければ またも越えなむ白河の関

2008年05月31日

日本人の宗教観

5月31日、読売新聞で、日本人の宗教観についての世論調査の記事が出ていました。特定の宗教を信じている人は全体の26.1%。で、30年前の33.6%と比べると大幅ダウンしているようです。

しかし「自然の中に人間の力を超えた何かを感じるか」という問いには「ある」と答えた人は56%、ないは「39%」でした。

祖先を敬う気持ちがあるか、という問いには94%が「ある」で、4.5%が「ない」です。

この世論調査に宗教学者の山折哲雄氏が「日本人の信仰は、多神教で、しかも自然の中に人間の力を超える祖先を感じるもので、高い宗教心、信仰心がうかがえる」と評しています。

この世論の結果はまったく私も同感です。特定の宗教はなんとなく窮屈に見えるし、でも確かに自然に逆らうと運が良くなくなる気もします。政治でもそうですが、本当に私は世論と同じ「並み」の思考パターンだと思います。

私は20代前半までは、大学のクラブでの登山では、そういう「自然の中に人間の力を超えた何か」を感じることはあっても、それ以外ではまったくの無神論者でした。30代になり、当社を創業するにあたり、「何か」を感じたことがありました。30代後半からそういう思いは少しずつ強くなっていきました。

人は年をとるごとに、さまざまな苦労を重ねるたびに、人智を超えたなにかを感じる経験が多くなっていくのでしょう。

だからこの結果は私の人生に当てはめてみると、とても納得がいくのです。そしてこの宗教観は日本人にとって昔から 皆こんな感じだったのだと思います。

戦国時代に日本に来た宣教師ルイス・フロイスは日本人の宗教観についてこのようなことを言っています。
「われわれは教えに背いたものは背教者になるが、日本人はころころと宗教を変えても少しも不名誉と思わない。」
「日本人は神に現世の幸福を求め、仏には救霊だけを願う。」と言っています。

北畠親房の神皇正統記でも、「日本には八十万の神があり、人間の機根もいろいろであるから、教法もいろいろである。」と言っています。

昨今、日本人の心に、宗教観が薄れたのではないと思います。各家庭で知らず知らず、お正月の松飾、節分、桃の節句、端午の節句、田植え月、七夕、盆、菊月、十五夜、大晦日など生活の節目や話題、家の行事としてお供えをしていると思います。

これらの行事の古来からの意味は、八百万の神がそれぞれの季節に舞い降りてきて、そのためにお供えをして敬う日だそうです。

子供のいる家庭では、けっこうこういったお供えなどをやっているのではないでしょうか。季節のイベントとして、たとえ一人暮らしでも、こういうことを趣味にしたら、心もほぐれるし、運も良くなるかもしれません。

少し難しい本ですが「陰陽五行と日本の民俗」(人文書院 吉野裕子著)などお勧めです。

また「節季の室礼~和のおもてなし~」(二木屋主人 小林玖仁男著 求龍堂出版)もあわせて読まれると具体的に日本の季節の行事なども楽しく学べます。二木屋さんは、さいたま市の北浦和にある懐石料理のお店ですが、季節ごとの日本の室礼を、実にすばらしい演出で楽しませてくれます。

浦和に、京都の名旅館にも負けない和のおもてなしができる店があることは、とてもうれしいことです。

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