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2017年07月 アーカイブ

2017年07月01日

仙洞御所

先日、京都出張のついでに土曜日、京都を散策しました。

まず出町柳で降りて、妙音観音堂という出町柳のお堂をお参りしました。
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(妙音観音堂)

この近くは、北畠発生の地であることを、5年前、急な雷雨で雨宿りついでに入った本能寺に展示してあった、中世の古地図で見つけました。
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(中世古地図)
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(google map現代地図)
それ以来京都へ来ると、近くにある妙音堂にお参りにきております。
もっとも、この妙音堂を建てたのは北朝の公家の筆頭である西園寺家なのですが。

通り道に、鯖バッテラのお店があり、三貫だけの小さなお寿司のお弁当を買い、それを食べようと京都御所に行ったら、立派な門の前で、なにやら警察官立会いの元,キャンペーンのようなことをやっていました。近づいてみると,仙洞御所を当日拝観できる,という受付でした。僕はこれは、と思い、3時半の予約をしました。

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(京都御所)

僕は今から25年前桂離宮を拝観し、今度は仙洞御所に行ってみたいなって思いながら、あっという間に25年が経ってしまっていました。本当に浦島太郎のような気持ちです。

なぜ、仙洞御所に来たかったというと、隆慶一郎の「花と火の帝」という後水尾上皇を主人公の小説を読んでいたからです。

この25年は、人様以上に激動の25年だったはずなのに,いったい何をしてきたのだろうか?記憶がない。ないといえば嘘になるだろうけど、光陰矢の如しでもう五十代を半ば過ぎた自分がいます。

仙洞御所は、退位した天皇つまり、上皇が住まわれる御所を意味し、京都御所内にあるこの仙洞御所は、ご水尾上皇が建てたそうです。

そのほかには、光源氏のモデルといわれた源融が、光源氏のような屋敷をつくり、源融が亡くなった後、その息子が、宇多天皇に隠居後の御所として進呈したのも、当時、仙洞御所といわれていました。いまは東本願寺所有の渉成園として残っています。

大覚寺も亀山天皇が上皇になったとき、移り住んだので、仙洞御所と呼ばれたのでしょう。

最近では、今上天皇が退位した暁には仙洞御所に住んで欲しいという嘆願が京都市民よりあったそうですが、今上天皇は早若き日に住まわれていた東宮御所をご所望とか。

仙洞御所は、明治時代にすでに焼けて、もう一度再建しなければならないことを考えれば当然のご判断でしょう。再建するにはそれは莫大な費用がかかることでしょう。


さて、まずは、醍醐寺へ二年ぶりにお参りに行きました。醍醐寺はよく行くお寺で、春の桜も、秋の紅葉もいきました。特に春の桜会結願柴燈護摩法要は偶然に、立ち合えてよかったです。夏のこの季節は、とりたてて繁る青葉以外に特徴はなく、だから訪れる人も少なく、そのおかげで、実に静かにお参りができました。
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(醍醐寺庭)

醍醐寺からまた取って返し、地下鉄東西線で烏丸御池で降り,途中応仁の乱の二年前から京都で商いをしているという尾張屋という蕎麦屋で蕎麦を食べ仙洞御所へと戻りました。そのお蕎麦屋さんの今の当主は16代目と言います。

僕も人生 の半ばから後半に入ろうとしているわけですが、こんな感じの時間の感覚を15代遡ると,大河ドラマの花の乱の舞台の応仁の乱が繰り広げられていたのですね。これから行く仙洞御所を作った御水尾上皇は10代前くらいなのですかね。

歴史は本当に無常に、光陰矢の如しで過ぎ去ります。自分の過ごした50年もあっという間なので、これが10回続いてもあっという間でしょう。

「火と花の帝」は、後水尾上皇の生涯を、徳川幕府に屈服した悲劇的な人生として描いていました。しかし、この壮大な御所を見ると、とてもとても栄華を極めた人生としてしか思えません。

確かに後水尾上皇は、天皇の後継に、自分の望んだ後継を幕府に認めてもらえず、抗議の意味を含めて退位しました。

しかし、退位後も数多の愛妾に囲まれて、光源氏以上の暮らしをしてきたのだから、それはそれは一介の庶民とは比べるものではないでしょうが、実に羨ましいかぎりです。

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(仙洞御所手前の京都御所南にある九条家茶室)

確かに足利義満の金閣寺から比べれば、地味かもしれませんが、孫の義政の銀閣寺に比べれば、格段の規模とグレードです。
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(仙洞御所)

上皇の奥方が、上皇がなくなったあと移る大宮御所は、現在では、外国の要人の宿泊所になっているそうです。
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(大宮御所)
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(要人宿泊施設)
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(宿泊施設から眺められる竹林)

外見は、いかにも江戸時代に建てられた御所そのものですが、中は洋式だそうです。

この年になると、人の一生は、ほんとうにはかない、一瞬のものだなあって感じます。

能を見る時間が日増しに増えていくのも、あっという間に過ぎ去った人生を、霊界から見る劇だからでしょう。

そういえば、仙洞御所内で、在原業平の屋敷跡というのがありました。業平は、当時超イケメンで、伊勢物語の主人公といわれており、伊勢斎宮との密会事件を起こしたり、能の筒井筒という演目にも登場します。

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(在原業平屋敷跡)
本当に、若いころは、人生の長さに、ゆとりや希望を持ちますが、五十も半ばを過ぎると、
邯鄲の物語のように、人生が、午睡の一瞬(昼寝のようにちょっとした時間)であることをつくづく感じます。

仙洞御所は、そういう趣を漂わせる庭園でした。

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(仙洞御所 茶室)
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(茶室からの眺め)

北畠親房の晩年の歌に
「嘆けとて 老いの身にこそのこしけめ あるは数々あらずなる世に」
というのがあります。
これは、自分だけが生き残って、何時も思うのは、もうこの世にいない人のことばかりだなあっていう心境を読んだのでしょう。

親房は61歳で他界したので、肉体的には、その歳に近づきつつあります。しかし、当時の平均寿命が50代と考えると、今の80歳くらいの心境なのでしょう。
親房の老境をうたった歌をほかにも紹介します。

山深く 結ぶ庵もあれぬべし 身のうきよりは世を嘆くまに

幾里の 月にこころをつくすらむ 都の秋をみずなりしより

昔みし 平野にたてるあや杉の すぎにけりとてわれなわすれそ

いたずらに 過ぎる月日をせめてなど まてとばかりも契らさりけむ

かよいこし 人は軒ばの夜はの月 たのまぬ松の木のまにぞみるえる

年へし 波の枕のよるの夢 さめれば花のうてななりけり

小山田の 猪苗代水のひきひきに 人のにごる世ぞうき

幾里の 月に心をつくすらむ 都の秋をみずなりしより

これもみな わすれがたみになりぬべし 思いのほかの柴のかり庵

僕も老境がひたひたと近寄ってきた証なのでしょうか。
テラスで、休日は、ささやかな坪庭づくりに、興じております。
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2017年07月25日

銀座の恋の物語と現代

先日、石原裕次郎特集で、「銀座の恋の物語」という映画をダビングしていたので、ちょっと見てみました。

主演は、石原裕次郎と浅丘ルリ子です。この二人については、石原慎太郎の「弟」や浅丘ルリ子の私の履歴書で読んでいるので、結構人物の背景は理解していました。さらに小樽にある裕次郎記念館にも行ったので、裕次郎という人となりも感じるものがありました。

裕次郎というと、西部警察や、太陽にほえるという単純娯楽路線のドラマが有名ですが、記念館に行って、実際、彼が書いた絵や、趣味のものとかを見ると、繊細な芸術家肌のように感じました。

話はずれましたが、この銀座の恋の物語ができたのは、1962年です。

映画としてみる関心は、あまりないのですが、当時の社会現象的な大ヒットしたこの映画を、当時の社会の記録とみると、とても面白いものがあります。

ぼくも5歳くらいから映画に登場した松屋デパートに母に連れられた記憶があるので、なんとなく舞台の雰囲気はわかります。当時は傷痍軍人が白い服を着て座って、四丁目交差点とかで座ってアコーディオンとか弾いてたのをなんとなく覚えています。

ただ、銀座は、あまりにも今とはかけ離れて、規模の小さい町であったことは確かです。

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米国はこの時から、ダントツの経済大国でしたが、日本は他国とほぼ同じで、1970年代に抜きんでるので、1962年はまさにこれから、っていうときです。一人当たりの所得もこの時、年間13%の伸びで、1974年の28%増をピークに、うなぎのぼりに国民所得が増加していく時代でした。

1965年に東京オリンピックがありましたから、ちょうどその三年前です。敗戦より20年が経ちました。

今年も、オリンピックの三年前ですので、比較すると面白いですね。1985年のプラザ合意を起点として、1990年経済の失速が加速し、米国に経済で敗北し、早20年、ちょうど、1962年とおなじ立ち位置にいます。

しかし、3年後にオリンピックがあろうとも、もう1970年代のような経済の急成長はありえません。

理由は急速に人口が減少するからです。
米国もヨーロッパも人口は増加するのに、日本の人口減少は日本経済にとって経済に重大な影響を及ぼします。

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銀座の恋の物語の時代は、急速に人口も経済も成長する時代です。

現代は急速に人口も経済も縮小する時代です。

当時は、浅丘ルリ子演じるヒロインの目の前で、両親が空襲で火だるまになって死んでいくトラウマを抱えている、というような傷は、現代の日本人には多くはありません。

確かに東日本大震災は、日本人全員に大きな心の傷を残しましたが、死者の数字では、先の敗戦で民間合わせて312万人なので、それはそれは大きなことだったでしょう。


私が生まれた1960年は、東京空襲や原爆からたった15年しか経っていません。
いま、敗戦から70年以上経ち、今の時点から見ると、私が生まれた1960年は、限りなく戦争時代に近くなりました。

子供のころ、原爆の物語や空襲の絵本を見ると、かぎりなく昔のできごとのように思えていたのですが。

私たちは、生活する時代の流れの中で感じる感覚と、経済力を現す数字の上で見る感覚と、立ち止まって昭和を振り返ってみる感覚とでは、実に大きくずれているのがわかります。

石原裕次郎特集は、そのずれを気づかせてくれるうえで、一見の価値はあるとおもいます。

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