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2018年02月 アーカイブ

2018年02月12日

貧困家庭における教育問題と資本主義の終焉

先日、知人の紹介で、「私たちは子どもに何ができるのか」(英治出版)という本を読みました。

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この本は、米国内のボランティアで、貧困家庭の親の支援を10年くらいしている著者が、貧困家庭の教育問題をデータにもとづいて、指摘することが主題の著作物です。

しかし私は、相変わらず自己流の解釈から、この本を二つのテーマからとらえました。

一つは貧困の問題ともう一つはディープラーニングの問題。

貧困の問題は情報と金融が一握りの人に握られることによる資本主義の終焉へと向かう中での格差社会で、貧困層の増大とともに、攻撃的な反社会性の人間を増産し、やがては彼らが向こう見ずな暴動から資本主義の終焉へと向かうことの現実をはじめて実感した気分です。

著者は、貧困層の拡大は、豊かな感受性やクリエイティブな脳を作る、非認知的教育が損なわれる、と警告しています。そして科学的に分析しています。

最近NHKで「欲望の経済学」という番組やってて、欧米のノーベル賞級の経済学者が、みんなこれから資本主義が終わり共産主義に変わるって言ってて驚きました。

ほんとかなあ、インターネットと金融を握る、グローバル資本家は、かなり長い歴史を支配できるのでは、って考えていましたが、この本読んでわかりました。

なんたって米国の半分が貧困家庭ですから。その貧困が暴力革命を起こす戦士を製造するって話です。日本でも足立区や新宿区では三分の一が生活保護家庭だといいます。

そして、著者は貧困家庭で育った子供に、非認知教育をおこなうことで、反社会性の大人をつくることが防げる、と説いています。家庭を超えた、自律性、そして明確な目標設定を作って学習をするディープランニングなるものを提唱しています。

ただ、僕は、ディープラーニングの場合、所詮作り事の目標に対する学習ということより、実際の働きの中で、どう学習して生産性を上げていくか、という実践的な学習が本当の学習(ディープランニング)なのではないかなって思います。

僕はそれをITを使ってどう教育をするか、というのを至高の学習と究極の経営という二冊の本で書きました。資本主義を終焉させないためには、繰り返しの主張ですが、中間層の復活が必需です。

中間層は体制に従順です。しかし、貧困層は、体制に暴力的です。

ターミネーター4は2018年を舞台にしています。マトリクスにしてもターミネーターにしてもグローバル資本家が生み出した人工知能に、人間が支配される、という映画です。

こうなりたい、という人はいないとおもうけどなあ。


憲法改正と憲法変遷論

最近、憲法改正に関する話題が増えてきました。

あなたは、憲法改正に賛成ですか?反対ですか?

その答えに自信もって答えられる人が何人いるでしょうか?

ぼくも答えられません。

最近、マスコミ出身の政治家が、ネット動画で、憲法学者なんかいらない、憲法はそのまま正確によめれば、それでいいんだ!と暴言を吐いていました、歴史をみれば、それがあまりに暴言であることがわかります。

理由は簡単です。憲法は、その文言通りの政治にはならない、どういう政治状況になるか、まったくわからないからです。

フランスの法哲学者メインは、憲法は国家の入れ物で、政治はそこに入っている水と表現しました。

史上初の最も民主主義的な憲法であるワイマール憲法下で、あの独裁者ヒットラーは堂々と選挙に勝って、独裁政権を打ち立てました。政権握ってから、憲法を停止しましたが。

日本だって、明治憲法は、天皇に大権があるのに、明治天皇は、自分の反対する日露戦争をすら止められませんでした。そして、日露戦争の開戦が決定したとき「よもの海 みなはらからと思ふ世に など波風のたちさわぐらむ」とおもいっきり御前会議で歌をよみました。

もともと明治憲法は、薩長政治を有効におこなうために、天皇の大権の決定には内閣の「輔弼」つまり助けが必要、とちょこっと記入されただけで、薩長政治に政治実権は、握られてしまいました。

大正天皇は、天皇になるやいないや、その薩長政治の大権を天皇に権力を集中しようとして、山形有朋に、かえって実質的権力をはく奪されてしまいました。

昭和天皇は、明治天皇や、大正天皇を見て、よりうまく天皇大権を使おうと努力しましたが、満州における張作霖爆殺事件では、白川首相を更迭し、満州における陸軍の暴走をとめようとしたことが、逆に、満州事変を引き起こし、中国との戦争を引き起こすきっかけを作ってしまいました。

さらに、2.26事件では、天皇大権を取り戻そうとする、青年将校たちを、まっこうからその征伐に乗り出し、かえって、軍部の権限を増大させてしましました。

これだって、当時、尊皇派と統制派という、尊皇派は天皇中心の政治をおこなうことを主眼とする派閥と、憲法に基づいて、機能的におこなう派閥との陸軍内での対立で、昭和天皇は自分の権限強化より、憲法重視の政治を行うことを希望していたのです。

それは、天皇が皇太子時代に留学した、イギリス的君主国家を望み、そういう国家の実現を切望したいたのです。

しかし、2.26事件は首相は難を逃れたものの、多くの閣僚が、虐殺されたのですから、陸軍にたてつく文官が少なくなってしまいました。


今回の問題は、改憲派は、日本の国土は日本の軍隊がしっかり守るべき、という至極あたりまえのことをするには、押し付けられた憲法ではできないのでは、という話です。

勿論、軍隊を強化することは、国としての存在感の維持と、外交は、有利に働きます。


しかし、現実問題として、今の日本の軍事力は、実は世界でもかなり優位にたっている、ということです。

核にしたって、全国に原子力発電所があり、核兵器になりうる核燃料もたくさん国内に存在し、きわめて短期間での核兵器開発が可能なのも周知の事実です。

たしかに憲法は軍隊を持つことを禁じています。しかし、憲法より、国際法が優さるという世界の不文律のなか、一国を守ることは、基本的な国家の権利ではあるので、軍隊を増強するのは、憲法違反かもしれませんが、違反だから、すぐにやめなければならない、ということにはならないのです。

平たく言えば、人間に生存権があるように、国家も生存する権利があるのです。「国の交戦権はいかなる理由でも認めない。」という条文があっても、自国を侵略を準備する国家があれば、相手国家に攻めていき、先手攻撃しても、憲法に優越する事態における政治的行為として、一時的には許されることだと思います。

憲法は入れ物です。入れ物の間口を大きくすることは、憲法の存在意義をも低下させることでもあるのです。

したがって、僕は、憲法改正しなくても、憲法違反のままでも、今のままの憲法の方が都合がいいのではないか、とおもいます。

憲法改正をすれば、いの一番で、世界の紛争に巻き込まれ、イスラム圏の恨みを買って、日本の治安も悪くなる可能性も高くなるからです。

でも、それなら僕は、憲法改正反対とは、言いきれません。

なぜか。それは三島由紀夫が、憲法改正を訴えてクーデーターを起こし、自決したからです。

三島由紀夫は45歳で死にました。しかし、彼の残した出版物のありとあらゆる著作物は、あまりに頭脳明晰、すごすぎるのです。

先日家族で鎌倉にドライブに行ったとき、助手席に乗った、高校生の娘がモーツアルトは、人間が出せない波長の音楽を作曲した、という話をしていましたが、僕より、一回り若くして死んだ三島由紀夫は、あまりにも天才すぎて、しかも、かれは東大法学部出で、法律の専門家でもあったのです。

その三島由紀夫が命を懸けて、憲法改正を訴えた、ということは、常人では測れない、憲法の欠陥がこの憲法にあるのでしょう。

たぶん、国家の免疫なるものかもしれません。

いまの日本国憲法では、国家の尊厳もなく、愛国精神もない日本人を増加させ、日本国は免疫不全を起こす、ということなのでしょう。

しかし、ネトウヨと呼ばれる、愛国主義の人は増えている今日、三島由紀夫がこの状況をみれば、どうお考えでしょうか?

ただ、ただその一点だけで、僕は憲法改正に賛成か、反対かわかりません。

三島由紀夫には、生きててほしかったなあ。

沈黙 宗教とはなにか

昨日、「沈黙 SILENCE」という映画を見ました。

これは、遠藤周作の代表作で、1971年にも日本で映画が作られましたが、最近また米国で、スコセッシ監督が作ったのを見ました。

この映画について、数か月前に、NHKで特集され、興味をもっていたのですが、今回、テレビをつけたら、偶然放映されていてラッキーでした。

ストーリーは、時は江戸時代初め、イエスズ会に所属するポルトガルの若い神父二人が、日本で自分の師であるフェレイラ司教が消息を絶ち、彼を探すために、鎖国になった日本に、危険を顧みず渡航して、隠れキリシタンとなっている長崎や五島列島周辺の村民に助けられながら、しかし、香港から手引きしてもらった軟弱な隠れキリシタン、キチジローに裏切られ、長崎奉行につかまり、主人公である、ロドリゴ神父は棄教を迫られる。

しかも彼が棄教すれば、隠れキリシタンの村民を助ける、といわれ、彼が、抵抗すればするほど、捉えられた村民が、目の前で虐殺される。

そうこうしているうちに、一緒にに来たガルペ神父もとらえられ、簀巻きにされ、海に役人に投げ込まれる村民と命をともにしました。

そんな中、これほどまでに、深い信仰心をもって命を削っているのに、なぜ神は沈黙するのか、とロドリゴ神父は絶望します。

殺されるより辛いその拷問に苦しめられる中、ロドリゴ神父は、探していたフェレイラ神父に、長崎奉行に会わせられます。かれは、すでに棄教し、キリスト教を邪教とする書まで書かされていました。

自分の尊敬する師が、棄教するということに直面し、ロドリゴは絶望します。

さらに、追い打ちをかけるように、拷問をうける隠れキリシタンの農民の前に、フェレイラにも説得され、ついに、ロドリゴは棄教を決意し、踏み絵に踏み切ります。

そこではじめて、神は沈黙を破り、ロドリゴに神は語りかけます。「それでいいんだ」と。


そのシーンを、20年前、ロンドンでのことを思い出しました。ちょうどダイアナ妃が事故死して2週間後にロンドンにいました。当時、会社起こして5年たち、色々なことで苦労していました。ロンドンのホテルで、早く起きて、ビクトリア駅周辺を散歩していたのですが、ウエストミンスター寺院という、有名な教会とは別の教会なのですが、朝、パイプオルガンと讃美歌が開いた入口から流れてきました。

ぼくは思わず入口に入り、祭壇の前でひざまずき、自分のしていることは本当にいいのか、と神様に問いました。そうしたら、頭の中で、日本語で「それでいいんだ」という声をはっきり聴きました。

それを聞いたとたん、涙がとめどなくでてきて、自分でも初めての神秘体験を経験しました。
ただ、いま振り返って、その時以上にいまは苦労していて、なにがいいんだろ、という疑問が残ります。

ぼくは、神道も、キリスト教も、仏教も、みな信じます。
いまは、密教の勉強をしているので、仏教のお祈りを朝晩していますが、自分の苦労は、仏様から与えられた修行なんだと思わなければいけない、と教えられます。

だから、ロドリゴの苦悩は、自分のことのように共感します。
神も仏もなかなか答えてはくれません。
どんなに苦労しても「沈黙」されます。

この映画は、あまりの信仰の過酷さを表現しています。
棄教することも、信仰をより深める一手段だと。
命を犠牲にすることはもちろん、それ以上に過酷な信仰もあるのだ、と。

神を信じることは、苦労を乗り越えるには、重要です。しかし、神に祈る時間も、苦労の対策にあてれば、無神論者のほうが勝てるのでは、ということも頭をよぎります。

神は存在するのか。やはり、あの日本の生んだ天才三島由紀夫の言葉が思い起こされます。

三島由紀夫の絶筆、豊穣の海の最後の天人五衰のラストシーンで、月照寺の住職となった、綾倉聡子が、元々転生なんてなかったのでは、という話、神はいないのでは、という話、つまり密教も人間の空想が作り出したかもという話、僕は今のところ密教も神も信じているけど、本当のところは死んでみないとわかりません。

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