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沈黙 宗教とはなにか

昨日、「沈黙 SILENCE」という映画を見ました。

これは、遠藤周作の代表作で、1971年にも日本で映画が作られましたが、最近また米国で、スコセッシ監督が作ったのを見ました。

この映画について、数か月前に、NHKで特集され、興味をもっていたのですが、今回、テレビをつけたら、偶然放映されていてラッキーでした。

ストーリーは、時は江戸時代初め、イエスズ会に所属するポルトガルの若い神父二人が、日本で自分の師であるフェレイラ司教が消息を絶ち、彼を探すために、鎖国になった日本に、危険を顧みず渡航して、隠れキリシタンとなっている長崎や五島列島周辺の村民に助けられながら、しかし、香港から手引きしてもらった軟弱な隠れキリシタン、キチジローに裏切られ、長崎奉行につかまり、主人公である、ロドリゴ神父は棄教を迫られる。

しかも彼が棄教すれば、隠れキリシタンの村民を助ける、といわれ、彼が、抵抗すればするほど、捉えられた村民が、目の前で虐殺される。

そうこうしているうちに、一緒にに来たガルペ神父もとらえられ、簀巻きにされ、海に役人に投げ込まれる村民と命をともにしました。

そんな中、これほどまでに、深い信仰心をもって命を削っているのに、なぜ神は沈黙するのか、とロドリゴ神父は絶望します。

殺されるより辛いその拷問に苦しめられる中、ロドリゴ神父は、探していたフェレイラ神父に、長崎奉行に会わせられます。かれは、すでに棄教し、キリスト教を邪教とする書まで書かされていました。

自分の尊敬する師が、棄教するということに直面し、ロドリゴは絶望します。

さらに、追い打ちをかけるように、拷問をうける隠れキリシタンの農民の前に、フェレイラにも説得され、ついに、ロドリゴは棄教を決意し、踏み絵に踏み切ります。

そこではじめて、神は沈黙を破り、ロドリゴに神は語りかけます。「それでいいんだ」と。


そのシーンを、20年前、ロンドンでのことを思い出しました。ちょうどダイアナ妃が事故死して2週間後にロンドンにいました。当時、会社起こして5年たち、色々なことで苦労していました。ロンドンのホテルで、早く起きて、ビクトリア駅周辺を散歩していたのですが、ウエストミンスター寺院という、有名な教会とは別の教会なのですが、朝、パイプオルガンと讃美歌が開いた入口から流れてきました。

ぼくは思わず入口に入り、祭壇の前でひざまずき、自分のしていることは本当にいいのか、と神様に問いました。そうしたら、頭の中で、日本語で「それでいいんだ」という声をはっきり聴きました。

それを聞いたとたん、涙がとめどなくでてきて、自分でも初めての神秘体験を経験しました。
ただ、いま振り返って、その時以上にいまは苦労していて、なにがいいんだろ、という疑問が残ります。

ぼくは、神道も、キリスト教も、仏教も、みな信じます。
いまは、密教の勉強をしているので、仏教のお祈りを朝晩していますが、自分の苦労は、仏様から与えられた修行なんだと思わなければいけない、と教えられます。

だから、ロドリゴの苦悩は、自分のことのように共感します。
神も仏もなかなか答えてはくれません。
どんなに苦労しても「沈黙」されます。

この映画は、あまりの信仰の過酷さを表現しています。
棄教することも、信仰をより深める一手段だと。
命を犠牲にすることはもちろん、それ以上に過酷な信仰もあるのだ、と。

神を信じることは、苦労を乗り越えるには、重要です。しかし、神に祈る時間も、苦労の対策にあてれば、無神論者のほうが勝てるのでは、ということも頭をよぎります。

神は存在するのか。やはり、あの日本の生んだ天才三島由紀夫の言葉が思い起こされます。

三島由紀夫の絶筆、豊穣の海の最後の天人五衰のラストシーンで、月照寺の住職となった、綾倉聡子が、元々転生なんてなかったのでは、という話、神はいないのでは、という話、つまり密教も人間の空想が作り出したかもという話、僕は今のところ密教も神も信じているけど、本当のところは死んでみないとわかりません。

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2018年02月12日 11:24に投稿されたエントリーのページです。

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