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五つの落城の物語、そして神皇正統記

9月2日の日曜日、弟と茨城の霞ヶ浦近辺にドライブしてきました。

いいおじさん二人でドライブを楽しんだ訳ではありません。北畠親房の常陸での足跡を確かめたいと弟が言うので、車で連れて行きました。

外環、常磐道を通り、まずは294号線、常磐バイパスを北上してまずは大宝城へ向かいました。
そしてその後、関城へと向かいました。

実はこの北上するルートが、それから10日後、9月10日に台風で鬼怒川の決壊で水没してしまうのです。
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北畠親房は1338年8月、東北地方を抑えるため、後の後村上天皇となる義良親王を旗印に大船団を、伊勢湊から出発したのですが、遠州灘で暴風に合い、親房は霞ヶ浦より常陸へ、宗良親王は伊井野谷へ、そして北畠顕信と義良親王は吉野へと戻ったのでした。

伊勢湊より出航したのが8月17日、台風に巻き込まれて遠州灘で遭難したのが9月11日です。ただこれは旧暦なので新暦に直すと20日あまり後になります。

親房はまずは小田治久に迎えられ、その支城である神宮寺城に入り、そこへ北朝方の佐竹軍が攻め寄せ、陥落し、その後そこから数キロ先の阿波城に入り、そこも数ヶ月で陥落しました。さらに小田治久の本拠である小田城へ迎えられましたが、小田治久は北朝への降伏を決断し、親房は関城へ移りました。
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神宮寺城址
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阿波崎城址
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小田城址

神宮寺城、阿波城へ親房が立てこもった時、兵糧米や城の備えに村人が協力し、神宮寺じょう、阿波城が落ちた時、その協力した地域の名主十三人が北朝方に斬首され、十三塚がその供養の塚だそうです。

またほーい地蔵というのがあり、それは12人の名主が首をはねられ、1人留守をしていた名主が戻ってきて、自分だけ生き残るわけにいかぬ、と首をはねた北朝方が帰路についた船に向かい、ホーイホーイとその名主は呼び止め、自分も首をはねられたそうです。その名主を祀ってホーイ地蔵と言うそうです。

とても悲しいお話です。
1343年11月、最後まで親房を支持して圧倒的不利の中を、関城は陥落して、関一族は滅びました。親房は辛うじて脱出し、吉野へ戻りました。同時に同じ南朝方として戦っていた大宝城も陥落し、その城の主、下妻一族も滅びました。
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関城の坑道址(関城を攻めた高師冬が籠城をする南朝方に、トンネルを掘って攻め込もうとした址。この作戦は地盤が弱く、トンネルが崩落して成功しなかったそうです。)

僕と弟は親房の辿った城を、なぜか時間軸で逆に進みました。

しかし五つの城が自分のために陥落し、地元の人々や一族が滅びていく犠牲のなかで、神皇正統記は描かれました。建武の親政の崩壊とともに、先祖代々伝わる京都の家を失い、1338年5月に長男顕家に戦死され、9月には東北の挽回のために大船団で出向し、台風に会い、常陸にたどりつけばこのような運命が待っていました。この間も、藤氏一揆などで、味方にも裏切られ、50の齢の時に、命からがら吉野に戻らざるを得ず、その思いはいかばかりのものだったでしょう。

いつの世も、人の世は、苦しみと悲しみであふれています。
親房がこの常陸の五つの城を落城させながら味わった苦しみと悲しみは、
あらゆる時代の世の中で、これに勝る思いはないのでは、と感じます。

神皇正統記はそういう中で書かれました。

最後にこの度の災害で被害を受けた方々にお悔やみを申し上げます。
一日も早い復興をお祈り申し上げます。

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2015年09月27日 21:22に投稿されたエントリーのページです。

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