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タウトンの戦い

1461年、戦死したヨーク公の息子エドワードは、ランカスター側の大軍を破り、父の仇を取ったのち、ロンドンに入場し、国王を宣言した。

ロンドン入城したエドワードは、北方に退いていたランカスター側のヘンリー6世の王妃マーガレットの軍を追って進軍を開始した。

王妃軍はその数4万とも8万ともいわれる大軍勢をもってタウトンの丘陵地帯に布陣し、エドワードを迎えうつ。

こうしてばら戦争中最大規模の決選の火ぶたが切って落とされた。
ヨーク軍は降りしきり雪と追い風に乗じて弓矢戦に出る。

第1矢を放つと直ちに射程距離の外に退避、敵軍の矢の浪費を誘う策である。
逆風に加え、雪のために視界の利かない中、やみくもに矢を放ったランカスター軍は矢を使い尽くし、数にまかせて進撃するが、両軍に横たわるくぼ地を越えたところを、待ち構えていたヨーク軍に矢を射かけられる。

しかし兵の数で上回るランカスター軍は、ヨーク軍の左翼カスル・ヒル森に伏兵を配置していた。

戦いは歩兵戦に、続いて白兵戦となっていく。前線の兵士が倒れると、後部の者がとってかわる。勝敗の帰趨は四段を許さない。

ヨーク軍は敵の圧倒的な兵員数やカルス・ヒル森の伏兵のために後退を余儀なくされ、一時劣勢に陥る。

しかしやがて後続のサフォーク軍が戦場に到着し、味方の右翼となって戦列に加わり始める。

次々到着するサフォーク軍は、敏速にランカスター軍の左翼を脅かす。
サフォーク軍の加勢は両軍の士気に微妙な影響を及ぼし、ランカスター軍は、前線離脱する兵が現れる。はじめは単独で、やがてグループで、その波紋は急速に広がり、ついにランカスター軍は総崩れとなる。

ヨーク軍は退却する敵を追撃する。
敗走するランカスター軍は、タウトンを抜け出し、コック側にさしかかる。ところがそこは切り立った崖と川幅いっぱいに溢れる水で敗走兵の行く手を阻み、大混乱となる。屍は川の水をせき止めて堤となし、追跡軍はその上を踏み越えて走る。ここを越えても、この先のタドカスターの渡り場でも同様な惨状が繰り広げられる。

ランカスター側の敗因は、最高司令官が戦争には素人のマーガレット王妃がリーダーシップをとったことがあげられる。

数の上では優勢でも、司令官にリーダーシップがなければ組織は維持することはできない。

逆風下で戦争の口火を切ったという基本的なミスも犯している。
バーネットの戦い
エドワード4世はかつての腹心ワリックにより王位を奪われ、フランスへ逃亡の身となるが、半年後には英国上陸を果たす。

今やランカスター側に与するワリックは、これを知り、ロンドンを目指し、南進するエドワードを追うが、エドワードはロンドンに入城を果たし、ワリックを倒すべく北進した。
1471年4月 両者はバーネット北方に広がる原野で対峙する。
その日は一帯に濃い霧が立ち込めていた。

エドワードを中心とするヨーク軍は中央に王自ら陣取り、右翼に王の弟グロスター公、左にへースティング卿、対するワリックを中心とするランカスター軍は中央にモンタギュ候、左翼にエクセター公、右翼にオクスフォード伯という布陣で、ワリックは中央後部に予備軍を従えて全軍を統括する。

エドワードはラッパを吹奏させ、総進撃が開始された。
緒戦は先ず飛び道具で始まるが、霧のため双方ともやみくもに打ち合い、両軍とも損害はほとんど受けなかった。

エドワード軍は白兵戦に移る。
兵力はエドワード軍10000、対するワリック軍は15000.
ワリック軍右翼オクスフォード伯は敵軍へースティング隊に迫り、これを撃破。
しかし、この状況は、霧が幸いして味方に伝わらず、エドワード軍に敗走の連鎖反応は起きなかった。

ワリック軍左翼のエクスターがグロスターの猛攻に押される。ワリック軍は予備軍の一部を向けて援護する一方、中央でのエドワードの進撃に対して持ちこたえる。
逃走する敵を追って南下したオックスフォード伯は、800の残兵を集めて戦線に復帰。敵の背後を突こうとするが、霧のため誤って、オクスフォード軍が戦場を出て行ったあとをカバーしていた味方のモンタギュ軍を攻撃してしまった。モンタギュ軍はオクスフォード軍が寝返ったと思い、ワリック軍は大混乱に陥った。

エドワードは敵軍のこの混乱を見逃さず、全軍に進撃の号令を下し、予備兵を和リック軍左背の「死者の谷」に送り込む。

エドワード軍右翼グロスターも進撃し、大勢はエドワード軍勝利に決する。
ワリックは敗戦を悟り、戦場を抜け出し、北へのがれるが、追手に捕らえられて殺される。
ワリックはキングメーカーと呼ばれていた。エドワード4世を王位につけたのも、ヘンリー6世を復権させたのも彼の力によるところが大きかった。

この戦いの勝負の最大の原因はオックスフォード伯の軍勢が、濃い霧のために間違えて味方のモンタギュ軍を攻撃し、裏切りと勘違いしたモンタギュ軍と同士討ちをはじめたことである。
地形編では、軍兵には次の6つの欠点が存在することを指摘する。
逃げ足の速いもの、緩んでいる者、落ち込む者、混乱するもの、かってに撤退するもの、そして戦いでこれらの欠点が露呈するのは天地の禍ではなく、将たるものの過失である、と。

へースティングの部隊を打ち負かしたあと、オクスフォード伯の軍隊は勝ちに乗じて略奪するものや、帰参するものが出て、収拾がつかなくなった。ようやく軍兵を集めて戦列に加わったものの、同士討ちになってしまった。自然という偶然が勝敗をつけたように見えるが、孫子流にいえば、リーダーシップの問題といえるだろう。

ヘンリー6世 5幕2場 「死と敗北」
バーネットの戦いで瀕死の重傷を負ったワリックの独白である。いかに輝かしい栄光があろうとも死ぬ時は自分の体の大きさしか自分の所領はない、と生のはかなさを嘆いていま

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2008年12月06日 19:19に投稿されたエントリーのページです。

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