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五丈原の戦い

蜀の皇帝劉備亡きあと、諸葛孔明は劉備の子、劉禅の後見として呉との関係を回復した後、南方の平定をおこなった後、227年ついに北伐を決意。魏軍を率いる司馬仲達とはじめて相まみえることとなる。
こうして三国志を代表する軍師諸葛孔明と司馬仲達と最初で最後の戦いが始まる。
第1次北伐 孔明は趙雲の別動隊により、敵を牽制、本隊はき山をおさえるべく行軍する。

孔明は敵の総司令官が仲達だと知ると、必ず攻めてくるであろう街亭を守るために腹心の馬謖を派遣する。街亭を奪われると、孔明軍が分断され、個別撃破されるからである。

ところが馬謖は孔明の指示を無視し、自軍を南側の山上にあげてしまう。
これを仲達は見逃さず、馬謖はあっというまに仲達に包囲される。水をたたれた馬謖は山を下り、白兵戦を挑み、破れてしまう。

諸葛孔明は命令を無視した馬謖を切り、「泣いて馬謖を切る」はここから生まれた。

第2次北伐 孔明が陳倉を攻めると予想した仲達は故芽衣の破城攻撃に対抗するため、弓の名人かく昭を派遣する。

わずか千人のかく昭軍は数万の蜀軍と20日以上も渡り合う。

孔明は敵の大軍が近づいてきたことを知り、さらに食糧が尽きてきたこともあり、退却を開始する。

このとき、孔明を追ってきた王双は白兵戦で敗れ、殺されてしまう。

第3次北伐 まず魏が第1次南伐をおこなった。

しかし40日にわたり降り続く豪雨が魏軍の進攻を阻む。この隙に孔明は魏延に涼州方面を攻略させる。

涼州攻撃の帰り道、魏延は魏軍の郭准と遭遇し、孔明軍との挟みうちでこれを壊滅させる。

第4次北伐 孔明の死が近いと気づいた仲達はひたすら守りの体勢をとっていたが血気はやる配下達や諸将を抑えきれず、き山に進軍することになる。

戦略的には仲達が勝っていたが、戦術的には孔明が勝っていたので、孔明軍の圧勝に終わった。

食糧が尽きかけたので、退却を始めた孔明軍を、仲達は張こうに追撃させるが、孔明の伏兵に襲われ、張こうはあっけない最期を遂げる。

第5次北伐 孔明は五丈原に陣を構える。しかしどんな挑発にも仲達は乗ってこなかった。対峙して3か月。孔明は女物の服などを送りつける。仲達陣営の諸将たちはこの侮辱に怒り、一触即発となるが、仲達は帝に出陣の打診を送るが、帝は老臣をよこし、諸将たちをなだめた。

234年孔明が死に、臨終に臨んで、後を託した楊儀に策を遺言する。
蜀軍は退却し、仲達は追撃するが、蜀軍は反撃の形勢を示し、司馬懿は慌てて軍を退いた。この事を聞いた人々は「死せる諸葛、生ける仲達を走らす」などと噂した。
司馬仲達は「私は生者を相手にする事は得意だが、死者を相手にするのは苦手だ」と論語の一節、「未だ生を知らず、焉くんぞ死を知らん」にかけて語ったという。

蜀は劉備なきあと、劉禅が王となった。劉備は死に際に、諸葛孔明に、劉禅に皇帝の才能なくば、孔明がそのあとを継ぐように、遺言したのだが、孔明は劉禅に忠誠を誓った。

街亭の戦いでは、孔明の腹心であった馬謖を起用したのだが、馬謖は自分の才能に過信し、孔明の指示をきかなかったばかりに率いた蜀軍を全滅させてしまった。孔明はカリスマ的リーダーであるが、どうも後継者を育てるのは得意ではないようだ。また同じく腹心であった魏延と楊儀は孔明のあとめを争い、魏延は殺され、楊儀は失脚した。カリスマ的な天才リーダーの傍で働いていると、時としてそのスタッフは自分の能力を過信し、決断を誤ることが多い。大企業でばりばり働いていた人が、いざ独立したり転職したりすると、思うように働けないことにいら立つケースもこれに該当する。

五丈原で、孔明が死んだとき、その死を隠し、撤退したことは「詐を以て立つ」典型であろう。ビジネスでも常に理想的な状態でビジネスを行えるわけではない。顧客に理想的な状態をアピールし、納品する時まで、もしくは段階的に理想的商品を納品するケースもある。

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2008年12月06日 19:12に投稿されたエントリーのページです。

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