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関ヶ原の戦い

1593年豊臣秀吉が没する。もともと豊臣政権内では様々な対立があった。そのなかで、石田光成は淀殿派、吏僚派、中央集権派の中心であり、家康は高台院派、武断派、地方分権派に支持されていた。

この状況に均衡を保たせていたのは、前田利家であったが、1599年に死去する。
利家の死後、彼の力で抑えられていた武断派と吏僚派の対立が激化し、武断派である加藤清正、黒田長政らが光成を襲撃しようとした。

このとき光成は家康の屋敷へ逃げ込んだ。

1600年9月15日(新暦10月21日)早朝、石田三成は関ヶ原西北部笹尾山に陣を敷き、午後5時には西軍総兵力8万数千が布陣を終えた。

東軍は、家康から出陣命令が出されたのは午前2時。総兵力7万5千が布陣を完了したのは午前6時であった。

東軍の先鋒は福島正則。しかし家康の四男松平忠吉の後見役、井伊直政は自ら精兵30騎を率いて最前線に出て、宇喜多秀家隊に発砲する。これをきっかけに午前8時、合戦の火ぶたが切られる。直政のぬけがけに怒り、正則もすかさず攻撃に入る。

この時点での兵力は、西軍の毛利、小早川が動かず、東軍6万、西軍3万5千と東軍が圧倒的に優勢。だが西軍は善戦し、開戦から2時間は接戦であった。

家康は本陣を戦場近くに移す。しかし戦局はこう着状態が続く。

三成はここを総攻撃の好機と見て、松尾山、南宮山に待機している小早川秀秋、毛利秀元らに向けて狼煙で合図を送る。

しかし毛利は一族の吉川が家康と通じていて動こうとしない。小早川隊は家康にとっても不安材料であったが、家康が小早川軍へむけて一斉射撃で威嚇すると、小早川は家康に味方することを決断、西軍に向けて突撃を開始した。

この小早川隊の寝返りにより、傍観を決め込んでいた武将がつぎつぎに東軍に寝返り、西軍は一気に崩れる。
午後2時、三成の本陣もついに崩れ、ここに天下分け目の戦いは勝敗が決する。敗走する軍勢への追撃中止命令が伝えられ、すべての戦闘が終了したのは午後4時であった。

→ 軍形編

明治時代、ドイツの軍人メッケルは日本に軍事教育に招へいされ、日本陸軍を指導しました。そのとき、関ヶ原の戦いの布陣を見て、石田光成の西軍側の勝利を断言しました。

この布陣のとおりに戦争が進んでいたら、石田光成の勝利でした。しかし小早川秀秋が裏切り、石田光成に攻撃をはじめ、吉川広家ははじめから家康の味方を主張し、毛利本陣の入り口に陣取り、全く動かなかったのです。そして毛利本体も動かなかったのです。つまり西軍は半分ぐらいしか戦いに参加せず、しかも小早川は西軍を裏切って攻撃したのだから、西軍の負けは仕方のないものでしょう。

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2008年12月06日 16:56に投稿されたエントリーのページです。

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