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長篠の戦い

1572年武田信玄は三方が原の戦いで織田、徳川連合軍を撃破、京へ上がる途中、53歳で死去する。信玄の死後、武田勝頼は信玄の遺志を継ぎ三河、遠江方面に進出。

1575年5月8日勝頼長篠城を包囲し、連日にわたる猛攻を繰り返す。15日白を脱出した使者からこの報を受けた家康じゃ、来援した織田信長とともに出発。

家康は弾正山に、設永は極楽寺山に着陣し、到着と同時に連子川沿いに2キロにわたる馬防ぎの柵を築き始めた。

5月20日勝より、清井田へ。両軍は連子川をはさんで対峙する。兵力は連合軍側3万8千に対し、武田川1万3千。

21日夜明け。家康、設永は弾正山北部へ。勝よりは才の神の丘に布陣。午前6時、郷有を誇る武田騎馬隊は家康の右翼向けて突進。が咲くに阻まれ馬が立ち遅れたところへ、連合軍の鉄砲が一斉に射撃をする。

連合軍は右翼に徳川隊、中央に織田本隊、左翼に佐久間信盛を置き、3000挺の鉄砲を3組に分け3段連射で武田騎馬隊を撃破する。

この戦いの勝因は鷹巣山の奇襲策にあった。馬防柵を築いた信長は、いかにしてここに武田騎馬隊を誘い込むか、問いただした。家康の家臣酒井忠次がこの奇襲策を注進した。
ところが信長は「そのような小策が武田軍団に通用するか」と激怒した。

一同無策のまま散会したあと、信長はひそかに忠次を呼び戻し、「先ほどの策は妙案だが、敵がたに漏れたらまずいからああふるまった。」と詫び、兵3千を忠次に与え、鷹巣山奇襲を命じた。

武田軍はこの奇襲で退路を断たれたと思い、正面攻撃を断行した。

孫子九地編 「敵の愛するところを奪え」である。

信長は同じ戦術を二度使った試しはない。柳の下にドジョウは2匹いないのである。三国志で有名な曹操は官渡の戦いで敵の離反作戦で成功し、赤壁の戦いで同じ作戦で敗退した。
戦略や戦術は手順ではない。

ビジネスで成功する人は、戦略を毎回新しく組みなおすので、常識や過去にとらわれない。仕事のできない人の共通点は、つねに手法にこだわり、こういう場面ではこうすべき、という手法を取ろうとする。
孫子でもけっして小が大に戦いを望んではならない、と言いながら背水の陣や死地則戦など一か八かの策も述べる。
戦略はそのビジネスの時期、タイミング、状況で正反対の行動をとらなければならないことがある。従って戦略を過去の経験や常識にとらわれずに組み立てられる人を戦略立案の部署に配置しないと、組織そのものが行動を過つ。
組織が50年、60年と長期的安定を迎えると、戦略企画部門に事務管理的なエリートが増え、その結果、誤った戦略で組織を過った行動へもっていくことが多い。
戦前の日本軍隊はその典型であろう。

策は状況に応じて選ぶものではない。これしかない、というぎりぎりの状況で決断するものである。答えは最終的には自然とひとつ残るものなのである。

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2008年12月06日 16:54に投稿されたエントリーのページです。

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