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桶狭間の戦い

1560年5月18日、今川軍の先鋒が、尾張領内の沓掛に到着する。これを迎える織田信長の兵力は5千。兵力2万5千の今川軍への対抗策として織田家臣はみな籠城を進めるが、信長はこれを退ける。

5月19日未明、今川軍が丸根砦と鷲津砦への攻撃を開始ししたとの報を受けた信長はただちに清州城を出て、善照寺へ。ここを本陣に見せかけて行動を開始する。信長の動きから明日の対陣を意識した義元は朝方沓掛城を出発。

信長は今川の本陣が狭いくぼ地である桶狭間で急速をとる様子を見ると、ひそかに2戦の兵を率いて桶狭間へ向かった。

そこへにわか雨が突然激しく降り出し、義元の身辺警護が手薄となる。

そこへ織田軍が今川本陣めがけて襲いかかり、今川方は300人が義元を囲んで退却しようとしたが、2000人が義元めがけて集中したために次々倒された。

およそ2時間を激しい混乱の後、小田郡毛利新介が義元の首をあげ、織田側の勝利に終わる。
この奇襲を可能にした要因は二つある。

ひとつは信長の2000の兵は専門に訓練された軍隊であるのに対し、今川軍は旧来の半農半兵の軍隊であったこと。
信長の最高の報償は義元の首をとったものではなく、義元の場所の情報を提供した兵にであった。

また従来首の数で恩賞をきめていたシステムを廃止し、目標に向かって組織一眼となった敏速に機能的に動くことを目指しました。

孫子 虚実編 実を避け虚をつく。兵とは勢いである。

コアコンピタンスという言葉がある。他社には真似できない、会社の中核的価値、すなわち技術や価値をいう。企業はこの力を様々な顧客に発展的に展開していく。たとえばNECや富士通は始めNTTの電話機交換システムを製造していた。そのうちその通信技術を活用してコンピュータを開発製造し、パソコンを作った。それを家電店から一般消費者に提供したり、学校に導入させたりした。企業・公共向けに培った技術を学校や消費者市場へ展開した例である。

市場は大きく分けて 一般市場、学校、企業、公共とある。最初はどこか一つの市場で事業は成功する。そして企業は、そのノウハウを他の市場へ展開することで売上、利益を伸ばしていく。ただ他の市場への展開はなかなか成功しない。そのコアコンピタンスの技術やノウハウが強力で、かつ従来の市場とのシナジー効果があれば参入しやすい。

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2008年12月06日 16:50に投稿されたエントリーのページです。

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