NHKの大河ドラマ 鎌倉殿の13人も佳境にさしかかり、北条義時がますます悪人に、泰時のさわやかさが、ますます引き立ってきています。
2006年に発刊された山本七平の「日本の歴史 上下」(ビジネス社)に北条泰時のことが載っていました。そもそも、この本は、日本の歴史の全般を述べる本ではなく、「日本とはなにか」を南北朝と歴史と、夏目漱石の「こころ」をうまく対比しながら述べた書物です。
まず、最初に、中国の竹と、日本の竹では、なんとなく異なり、竹と同じように、日本文化には独特な文化があることを示します。
そして、その独特な文化の一例に漱石の「こころ」を紹介します。
その内容は・・・
主人公の私は、ひょっとしたことから、先生と知り合います。そして先生から色々な話を聞きます。若いころ、先生は未亡人と娘の二人暮らしの家に下宿します。
そして自分の親友Kもその下宿に誘います。
その親友Kは、医者の家に養子に行き、しかし、養家の反対を押し切って、大学は哲学科に入学しました。それにより、養家から絶縁されていました。とても意志の強い男として、先生は親友Kを尊敬していました。
先生は下宿屋の娘に恋をしており、その娘も、母親も先生を気に入っています。同じく下宿している親友も、その娘に恋をして、先生に告白します。
先生は、親友の告白を後ろめたく思いながら、下宿屋の娘との結婚の約束をしてしまいました。
先生が、そのことを親友Kに話す前に、下宿屋のおかみさんが、親友Kに、今度うちの娘と彼が結婚するからお祝いしてくださいな、と先に言ってしまいました。
親友Kはその夜、自分の部屋で頸動脈を切って、自殺をしてしまいました。
そのあと、先生は罪の意識を感じながらも下宿屋の娘と結婚し、時々Kの墓参りにいっていました。
明治の終わりの今、先生は知り合ったばかりの私にそのことを告白し、自殺するのです。
ここで山本七平は、親友Kを後鳥羽上皇に例え、先生を北条泰時に例えています。ちなみに「私」は慈円というところか。
北条泰時は明恵上人に「なぜ、あなたのような人格者が、後鳥羽上皇に弓を引くという大罪を犯したのですか?」という問いに対し、もし、上皇が先頭にたって兵を率いていたなら、弓矢を折り、ひれ伏して、打ち首にもなったでしょう」
後鳥羽上皇の側にいた慈円も、それから40年後に生まれた北畠親房の神皇正統記にも、後鳥羽上皇の承久の乱は、否定的でした。
天皇になった人でいくさで敗れて流罪になったは、後鳥羽上皇、後醍醐天皇がいます。山本七平は、後醍醐天皇も、親友Kになぞらえていました。そして先生が足利尊氏、傍観している「私」が北畠親房。
明確な意思を持って、断行していく天皇はうまくいかないのかもしれません。
あまり歴史的事件にはなりませんでしたが、孝明天皇、大正天皇も意思をはっきりさせて悲劇を招いたかもしれません。
孝明天皇は、攘夷を断行しようとし、しかもあくまで幕府と融和的な政治を行おうとし、急死しました。大正天皇は、タブーのひとつではありますが、山縣有朋から政権を奪取しようとして、病気になり、昭和天皇が摂政につき、実質的な交代をさせられました。
日本の天皇は、いつの時代も象徴的な存在であり、それを逸脱すると、悲劇が起きることがわかります。しかし、逆に古くは、道鏡、足利義満、織田信長など、天皇に取って代わろうとするリーダーも急死や失脚をしています。
大変不思議ではありますが、天皇というものが、古来より継続され、この体制が続いてきたことは、これが、日本の国民性の成せる結果なのかもしれません。
北条泰時は、そういう意味では、日本の権力を手中にしながら、自分の地位は低く、自分の所領は少なく、しかも質素な生活をし、御成敗式目を定めて、国内より戦争を極力なくしたことは、歴史上、徳川家康と並ぶ、優れたリーダーの筆頭だったといえるでしょう。