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2022年11月 アーカイブ

2022年11月13日

半世紀の亡国へのカウントダウン

亡国へのカウントダウンがはじまりました。
もう、あらゆることで、今年、それがあらわになりつつあります。
でもここでお話させていただくことは、亡国へのカウントダウンが始まったから、軍備増強をしろ、だとか、隣国を敵対視しよう、だとか、憲法を改正しよう、だとか主張するつもりはありません。

政治も、経済も、社会も絶望的なこの世の中でのあきらめムードこそ、危険なのです。
日本に戦争を起こさないように、しっかり政治を監視し、必死に働いて自分の周りの経済を動かし、多様化する情報のなかから、多角的視野にたって、真実をみつめよう!というお話です。

まずは政治・・・

日中国交正常化は、いまから50年前の1972年9月22日でした。

僕は小学6年生でした。

小学校4年生の時、三島由紀夫が市谷駐屯地に突入して、日本の亡国を憂いて割腹した二年後でした。その時は、まだ戦後まもない頃で、戦争への嫌悪は社会中に満ち溢れていたので、とても奇妙で、怖い印象がありました。
しかし、10年前くらいから、ようやく三島由紀夫の絶望と嘆きが、身に染みてわかるようになりました。(ただし、その行為は肯定できるものではありません。三島も10歳の時に経験した2.26事件は、その事件をきっかけに太平洋戦争へと突入したことは事実です.)


最近読んだ田中角栄本によると、この時、毛沢東は、田中角栄に屈原の「楚辞の歌」を送ったそうです。

「楚辞の歌」は、高校時代、漢文の教科書に載っていて、ちょうど、1975年くらいに授業で習ったのです。

これは紀元前、秦が中国統一するころ、秦が、楚の国の皇帝に甘い言葉で、同盟を結ぼうと呼びかけたとき、楚の宰相だった屈原は、もう一つの大国斉と組み、秦との同盟に反対したのですが、楚の皇帝は屈原を解任し、秦と組んだばかりに、楚は滅び、屈原は、5月5日に川に飛び込み自害したのでした。

なぜか、この日が端午の節句になったのです。

そもそも、男の子の成長を祝うのに、なぜ屈原の命日を記念日にしたのか、わかりませんが、
毛沢東は、秦を米国になぞらえ、斉の国を中国になぞらえ、このまま米国に追従すると国が滅びますよ、という意味で、「楚辞の歌」を送ったのでしょう。

まあ現代からみれば、もし屈原の言う通り、楚が斉と同盟を結んだら、斉という国が中国を統一し、同じように楚が滅びていたかもしれません。

しかし、こうもみることできます。毛沢東は、実が秦は中国で、いずれ世界征服しますよ。屈原のような部下を生まないでくださいね、というおおいなる皮肉を込めた贈り物だったかもしれません。

いずれにしろ、今、日本は亡国の一歩手前にいます。
つい最近まで、巨大化した中国にODAの援助を日本はし続けていました。
なぜ、援助をし続けていたのか、それは、最近元大王製紙の会長だった井川氏が、暴露していましたが、中国の要人に、耳元で、日本の政治家と組んでODA案件を作ってくれれば、30%のマージンを送ります、とささやかれたそうです。

これは衝撃的な告白です。田中角栄も、3000億円のODA援助を中国に約束して実行しましたが、300億円のキックバックがあった、という噂があります。

なぜ日本はバブルはじけた後も、ODAばかり積極的におこない、まじめな産業育成をしなかったか。そのキックバックが欲しくて、政治家や官僚がむらがっていたというならば、それは空恐ろしいことです。

さらに、私も、シンクタンクの研究員時代、知人がODA案件で中国出張いっているときに、ハニトラにあったと、30年ぶりに告白されました。

ましてや、政治家、マスコミ幹部には、間違いなくハニトラは当然の接待として用意されていたことが想像できます。

今、野党はもちろん、公明党、自民党も、人権侵害のある中国を一切批判しません。これは上記のようなハニトラだけではなく、戦前から日本の共産化ははじまりました。

ゾルゲ事件も、近衛文麿首相の側近グループの摘発事件です。その一人である西園寺公望の孫は、逮捕後、すぐに釈放されましたが、戦後、中国にわたり、文化大革命で日本に戻されると、朝日新聞に入社しました。

田中角栄の日中国交回復は朝日新聞が主導したそうです。

戦前の上流階級やインテリ階級、戦後の安保世代にわたり、マルクス主義を信奉する若い人が多くいました。その理由は、自由主義の無駄や矛盾に満ちた衆愚政治より、より効率の良い政治体制にあこがれるからなのでしょうか?それが今日のITにおける監視技術の向上で、中国のように、より最適な統治国家が生まれやすくなるのかもしれません。

その思想はトロッキズムと言い、ソビエト連邦樹立の立役者であるレーニンの後継者であり、スターリンの政敵であるトロッキーの主張で、今米国の民主党を中心にグローバリストの中心思想のようです。

私は、嫌中派ではありません。むしろ、その文化、歴史を通して、中国は好きです。しかし、そのあまりにプラグマティックな考え方や、行動力、深い洞察力、一国の支配権を背景に深慮遠謀な政策を持つことができたこの国の国民性を考えると、今の平和ボケした日本は、無防備な鶏くらいにしか見えないかもしれません。そうなると、それは接収対象にならざるを得ないのです。

日本で経営している知り合いの中国人の経営者は、日本人は働かない、頭を使わない、って嘆いています。そのくらい、中国は競争過多で教育も社会も厳しい中、日本は教育も社会も中国人から見れば、とてもゆるい社会に見えます。

それは、けっして悪いことではありません。医療制度、介護制度、年金制度も本当に国民ひとりひとりに優しい、素晴らしい制度です。物価上昇率の低さも含めて、世界中で、今日、もっとも生活しやすい国家であることは、誇りにできることだと思います。

政治家も官僚も上記の問題はあっても、このような福利厚生に厚い国家を作っていることは、かれらが、他の外国諸国にくらべて、きわめてすぐれていることは、確かです。

戦後日本の教育は、あまりに平和主義で、しかも愛国をタブー視する、記憶力中心の教育であることと、住みやすい、弱者へのサポートが手厚い社会であることが、今の日本の状況を作っているように思います。

ただ、文科省も、ICT教育の普及をきっかけに、大きく探求学習教育へ舵を切り始めました。

次は経済・・・

1995年以降、円高に拍車がかかり、中国の高成長市場もあって、日本の大企業はこぞって日本の下請け中小企業を捨てて、中国との合弁製造企業をつくり、中国に製造を移しました。

確かに中国市場は巨大で、最初のうちは、儲かりましたが、合弁した中国企業は次第に、そのノウハウを吸収し、ファーウエイやハイセンスなど巨大家電メーカーが誕生し、日本のシャープ(これは、台湾企業のフォンハイ)、東芝、パナソニックの一部など、多くは中国企業に飲み込まれていきました。

そして世界に名だたる家電メーカーといえるのは、かろうじてゲーム市場を押さえているソニーくらいになりました。

中国で合弁企業を作っても、日本へその利益をもってくることができません。しかし連結決算としては計上できるので、大企業の雇われ社長は中国市場内で再投資し、日本での投資はなるべく凍結していました。

その結果、日本経済は世界で唯一、経済成長することができず、日本のあるべき経済成長は中国に上乗せされて、中国の経済成長を大きく助けることになったのです。
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さらに日本の大企業による国内投資の凍結は、内需を弱体化し、中小企業の成長に直撃しました。

そしてそれに追い打ちをかけるように消費税の導入、課税率のアップは、中小企業の利益をさらに直撃しました。

なぜこのようなことが起きたのでしょうか?

それは著名な経済学者がこぞって、日本のバブル崩壊以降の経済の低迷を、日本の市場の閉鎖性を理由にしていたのです。

米国のレガノミクス、イギリスのサッチャーイズムを例に、日本の市場開放を声高に要求しました。

その結果、証券市場は、4半世紀の業績開示など、外資ハゲタカファンドに有利なレギュレーションに変更され、大企業の雇われ社長は、さらに見せかけの業績アップを株主総会で披露することになったのです。

その結果、日本的な経営の良さは失われ、優良な中小企業は激減し、非正規雇用は増大し、長期的経営、十分な研究開発は国内ではできなくなりました。

なによりも、日本の大企業は、必死に生き残る中小企業の能力に依存していたのですが、その中小企業が弱体化し、生存が厳しくなるにつれ、日本の産業は、衰退の一途をたどります。

そして社会・・・

社会的な問題のもっとも深刻なのは、マスコミの反日報道。

これは、日本の内需の弱体化に大きく影響されるマスコミは、民間の広告に依存しているため、国内産業が弱体化すれば、まずは広告費から削減されていきます。
そこに外資の大きな資金が流入すれば、外国の意向を優先してしまうのは仕方ありません。


このように、今、日本は、完全に免疫を失った、末期か、死期の近づいた患者そのものです。

防衛力は、GDPが世界三位のために、費用的には上位に位置していますが、中国、ロシアという軍事大国と北朝鮮という専制国家に囲まれ、十分な装備も弾薬も少なく、ただただ、日米安保という米国の軍事力に依存して、肩身の狭い思いをしている自衛隊の今の現状も、サイレントインベーションがすでに完了している日本国内において、さらに、我々国民の主権はせばまり、生きづらくなりつつあります。

なぜこのようなことになったのでしょうか?
これは、明治維新で開国した日本が、富国強兵のスローガンのもと、国家が強力な中央集権の中で、日清、日露戦争で勝利し、米国に噛み付いて、無条件降伏したことにより、日本人の独立心を削ぎ落とす政策をGHQが行ったことが原因でしょう。特に教育において。

そして、どうしたら、日本は復活できるのでしょうか?


まずは内需拡大するしかありません。

どうしたら内需拡大するのでしょうか?
それは国民一人一人が自立することです。
これはありえないことではありません。
江戸時代、日本の従事者の9割は農民でした。
農民こそ、今の中小自営業者と同じ感覚です。
そして、米には半公半民という高い税金はかけられていましたが、
新たな開墾や野菜などの作物には税金がかかりませんでした。
つまり新規事業にはお金がかからなかったのです。
そして農民の経済力を高めた原動力が寺子屋なのです。
ほぼ多くの国民が、寺子屋で文字を学び、四書五経を学び、歴史を学んだことが
日本の明治開国後の日本の発展を作りました。
しかし、残念ながら、特に戦後日本の教育から、哲学と、思考力と、日本の歴史や政治などを勉強することが、軽んじられました。

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2022年11月20日

北条泰時が日本人の生き方のお手本?

NHKの大河ドラマ 鎌倉殿の13人も佳境にさしかかり、北条義時がますます悪人に、泰時のさわやかさが、ますます引き立ってきています。

2006年に発刊された山本七平の「日本の歴史 上下」(ビジネス社)に北条泰時のことが載っていました。そもそも、この本は、日本の歴史の全般を述べる本ではなく、「日本とはなにか」を南北朝と歴史と、夏目漱石の「こころ」をうまく対比しながら述べた書物です。

まず、最初に、中国の竹と、日本の竹では、なんとなく異なり、竹と同じように、日本文化には独特な文化があることを示します。

そして、その独特な文化の一例に漱石の「こころ」を紹介します。
その内容は・・・
主人公の私は、ひょっとしたことから、先生と知り合います。そして先生から色々な話を聞きます。若いころ、先生は未亡人と娘の二人暮らしの家に下宿します。

そして自分の親友Kもその下宿に誘います。
その親友Kは、医者の家に養子に行き、しかし、養家の反対を押し切って、大学は哲学科に入学しました。それにより、養家から絶縁されていました。とても意志の強い男として、先生は親友Kを尊敬していました。

先生は下宿屋の娘に恋をしており、その娘も、母親も先生を気に入っています。同じく下宿している親友も、その娘に恋をして、先生に告白します。

先生は、親友の告白を後ろめたく思いながら、下宿屋の娘との結婚の約束をしてしまいました。

先生が、そのことを親友Kに話す前に、下宿屋のおかみさんが、親友Kに、今度うちの娘と彼が結婚するからお祝いしてくださいな、と先に言ってしまいました。

親友Kはその夜、自分の部屋で頸動脈を切って、自殺をしてしまいました。

そのあと、先生は罪の意識を感じながらも下宿屋の娘と結婚し、時々Kの墓参りにいっていました。

明治の終わりの今、先生は知り合ったばかりの私にそのことを告白し、自殺するのです。

ここで山本七平は、親友Kを後鳥羽上皇に例え、先生を北条泰時に例えています。ちなみに「私」は慈円というところか。

北条泰時は明恵上人に「なぜ、あなたのような人格者が、後鳥羽上皇に弓を引くという大罪を犯したのですか?」という問いに対し、もし、上皇が先頭にたって兵を率いていたなら、弓矢を折り、ひれ伏して、打ち首にもなったでしょう」

後鳥羽上皇の側にいた慈円も、それから40年後に生まれた北畠親房の神皇正統記にも、後鳥羽上皇の承久の乱は、否定的でした。

天皇になった人でいくさで敗れて流罪になったは、後鳥羽上皇、後醍醐天皇がいます。山本七平は、後醍醐天皇も、親友Kになぞらえていました。そして先生が足利尊氏、傍観している「私」が北畠親房。

明確な意思を持って、断行していく天皇はうまくいかないのかもしれません。

あまり歴史的事件にはなりませんでしたが、孝明天皇、大正天皇も意思をはっきりさせて悲劇を招いたかもしれません。

孝明天皇は、攘夷を断行しようとし、しかもあくまで幕府と融和的な政治を行おうとし、急死しました。大正天皇は、タブーのひとつではありますが、山縣有朋から政権を奪取しようとして、病気になり、昭和天皇が摂政につき、実質的な交代をさせられました。

日本の天皇は、いつの時代も象徴的な存在であり、それを逸脱すると、悲劇が起きることがわかります。しかし、逆に古くは、道鏡、足利義満、織田信長など、天皇に取って代わろうとするリーダーも急死や失脚をしています。

大変不思議ではありますが、天皇というものが、古来より継続され、この体制が続いてきたことは、これが、日本の国民性の成せる結果なのかもしれません。

北条泰時は、そういう意味では、日本の権力を手中にしながら、自分の地位は低く、自分の所領は少なく、しかも質素な生活をし、御成敗式目を定めて、国内より戦争を極力なくしたことは、歴史上、徳川家康と並ぶ、優れたリーダーの筆頭だったといえるでしょう。

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