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レッドクリフ(赤壁の戦い)と現代PC戦略

西暦208年北方の袁紹を破り、中原を制覇した曹操は、ついに天下統一のため南征の軍を起こす。

折しも荊州の劉表が死ぬ。これに乗じて曹操は荊州を我がものとする。
その時、曹操の大軍に大敗し荊州に身を寄せていた劉備は荊州を脱出。呉の孫権と組んで曹操に立ち向かおうと、劉備の軍師、諸葛孔明が孫権説得のために呉へ赴く。

孫権の重臣はみな曹操への降伏派であったが、ただひとり周瑜は「中原出身の曹操軍は水軍による戦いに慣れておらず、土地の風土に慣れていないので疫病が発生するだろう。それに曹軍の水軍の主力となる荊州の兵や、袁紹を下して編入した河北の兵は本心から曹操につき従っているわけではないのでまとまりは薄く、勝機はこちらにある」と諸葛孔明を支持した。孫権は開戦を決意した。

孫権は周瑜を総司令官に任命。
周瑜は出撃し、曹操軍と長江をはさんで対峙する。
その数曹操軍80万に対し、孫権、劉備軍合わせて5万ともいわれていた。

呉の武将黄蓋は焼き打ちを進言し、これを実現するために策略をめぐらす。
彼がとった策略は次の通りであった。
・まず黄蓋がわざと周瑜の言うことに反対し、周瑜を非難する。
・周瑜は皆の面前で黄蓋を百たたきにする。
・曹操軍のスパイはこのことを曹操に報告する。
・ころあいを見て黄蓋が曹操に寝返りたいと密書を送る
・そして寝返りと見せかけて船で敵地に赴き火をかける。

そして東南の風の日が来た。
黄蓋は快速船10そうに油をかけた枯草を積み、予定通り曹操の陣に近づく。曹操軍は黄蓋の寝返りを疑わない。
黄蓋は曹操の陣営の近付くとすかさず敵陣に火を放つ。
折からの強風で、次々と曹操軍の船に火が燃え移り、水上はたちまち炎の海となる。
曹操は大混乱の中、なんとかかいくぐり、本拠地の許にたどりつく。


(解説)
そもそも孫氏の兵法は

「敵の十倍の兵ならば、相手を包囲し、五倍ならば攻撃し、二倍ならば敵を分裂させ、等しければ戦い、少なければ退却し、話にならなければ隠れながら逃げる。」を戦争の基本としている。(謀攻編)→孫子の兵法 謀攻編リンク

しかし孫権の部下、周瑜は味方の勝算について
①中原出身の曹操軍は水軍による戦いに慣れていない。
②土地の風土に慣れていないので疫病が発生するだろう。
③曹軍の水軍の主力となる荊州の兵や、袁紹を下して編入した河北の兵は本心から曹操につき従っているわけではないのでまとまりは薄く、勝機はこちらにある。
と述べている。

南船北馬といわれるように、北部出身の曹操は、水上戦は得意ではなかった。
苦手な戦争の場合、この戦いは、不得意な水上戦で敵の策略にはまってしまった。
どうしても苦手な勝負は受け身になりがちである。雌雄を決する勝負は、トップの最も得意とするところで行わなければならない。
善く戦う者は 人を致して人に致されず(虚実編)→孫子の兵法 虚実編リンク

80万対5万では、通常ならば、「話にならなければ隠れながら逃げる数」である。恐らく8万対5千であったら、彼らは逃げていたであろう。まずは数の多さによる指揮の難しさを最大のウイークポイントにしたのであろう。
そこは行軍編で述べられている。
「兵は多ければいいというものではない。ただ、勇敢に進めばいいわけではない。司令官と兵士とが力を合わせ、敵の兵力を調べ、適切な兵力を整えるのがよい。だが、敵を侮っていては、捕虜にされてしまうだろう。」(行軍編)→孫子の兵法 行軍編リンク

大軍の指揮をするには、
「大軍を治めることを小隊を治めるようにするには、人数を分けなければならない。
大軍を小隊のように思うように戦わせるには、形が重要である。
大軍を敵に当たらせ、絶対負けないのは、奇襲と正攻の兵法である。
石で卵を割るように攻撃するのが虚実の兵法である」(勢編)→孫子の兵法 勢編リンク
とある。

そもそも曹操が官渡の戦いで袁紹を破った原因は、袁紹の部下の寝返りにあった。袁紹の疑い深い性格が部下を寝返らせ、それを曹操が受け入れたための、彼の器の大きさの勝利であった。

今回、その成功体験が、逆に仇となり、ほとんど黄蓋の策にはまってしまったのである。

成功体験は成功へのノウハウとは限らず、逆に敵に付け込まれる弱点となることも多い。
日清戦争、日露戦争で戦勝した日本が、常識では勝ち目のない太平洋戦争に突入してしまったのもそれが原因といえるだろう。

よって兵の形の究極は、無形にすることである。戦いに勝っても二度と同じ陣形はとらず、無限に変化する。(虚実編)→孫子の兵法 虚実編リンク

劉備、孫権側もよく曹操と戦う決心をしたものだと思う。これだけ曹操との間に軍勢の差があれば、スパイも入るだろうし、寝返りも出てくる。現に周瑜は寝返りを利用して黄蓋と図り、曹操をだますことに成功した。劉備、孫権ともにぎりぎりのところの死地則戦の状態であったろう。(九地編)→孫子の兵法 九地編リンク

曹操の失敗は
1、急激に膨れ上がった自軍の軍勢を一つにまとめられなかったこと。
2、曹操自身が、水上戦を苦手としていたこと。
3、官渡の戦いでの成功体験が敗因を作ったこと。

戦上手の曹操は、孫子の兵法の解説者でもあり、80万の大軍を擁して5万の敵を相手にすることで、まさか敗れるとは思ってもいなかったであろう。


ビジネス解説 IBMとマイクロソフト

1981年、IBMはPC市場に参入した。エントリーシステム部門のドン・エストリッジの指揮のもと、12名のエンジニアとデザイナーで構成されたチームによって開発された。
このころすでにベンチャー企業のアップルがappleⅡを発売し、成功していた。IBMは商品化を急ぐため、基本ソフトにマイクロソフトのPC-DOSを使用したほか、外注7割という、内部調達を通例とするIBMにとっては異例の事業スタイルをとった。そして、オープンアーキテクチャー路線(基本システムのソースコードの公開)をとり、瞬く間にパソコン市場を席巻したのである。IBMはおそらくパソコンをメインフレームの端末という位置づけで販売し、自社パソコンのOSが世の中の標準になることがメインフレームの販売に有利に働くと考えたのだろう。

当初、IBMチームはOSをゲイリー・キルドール率いるデジタルリサーチに依頼しようとしたのだが、マイクロソフトはこのOSを無料でIBMに供給し、採択された。IBMは半ば実験のつもりで製品化したにちがいない。ところがそのIBM-PCが爆発的にヒットしてしまったため、途中でOS/2という自社OSに切り替えようとしたが、その広がりを止めることはできなかった。

マイクロソフトはこのDOSを他のメーカーにもMS‐DOSのという名称でライセンス供与し、その結果、IBMの互換機が爆発的に普及するのである。

1984年アップルの創業者スティーブ・ジョブスはJスカリーにアップルを追放され、ドン・エストリッジも事故死し、ビルゲイツの強敵は偶然いなくなった。

ただ1985年、ビル・ゲイツはアップルのスカリーに、マッキントッシュのOSを標準OSにすることを提案する。自社でのOS開発も本気で凍結する気でいたようだ。しかしアップルの社内の猛反対に遭い、それは実現しなかった。

強力なライバルがいなくなったマイクロソフトはマックOSを目標とし、1995年Windows95、1998年Windows98を出して、パソコン市場での地位を不動のものにする。

コンピュータ業界を三国志になぞらえば、IBMとマイクロソフトそしてあと一つはオラクル、アドビ、DELL、Netscape、Yahoo!と変遷し、そして今やGoogleといったところだろう。

雌雄を決する勝負は、トップの最も得意とするところで行わなければならない。
善く戦う者は 人を致して人に致されず(虚実編)→孫子の兵法 虚実編リンク
パソコンビジネスでは、メインフレームの得意なIBMよりマイクロソフトがうまく立ち回ったのだろう。

兵の形の究極は、無形にすることである。戦いに勝っても二度と同じ陣形はとらず、無限に変化する。(虚実編)→孫子の兵法 虚実編リンク
ハードに固執したIBMやアップルに比べ、もともとソフトメーカーであるマイクロソフトが展開は有利であった。

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2008年11月17日 13:19に投稿されたエントリーのページです。

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