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「江戸の教育力」を読んで 2

秀吉の刀狩り、太閤検地により、兵農分離が進みました。それを引き継いだ家康の時代、武士は城下町で官僚化し、農村では庄屋や組頭が選ばれ、自治や自律が進みました。そして年貢などの統治に関することは文書により、やりとりされました。その結果、農村でも急速に文字文化が発達しました。

たとえば元禄時代以前、幕府は農村に五人組を対象とする法令を制定するなかで、村内に田畑を持たなくても、読み書きや算術を教えるものは、代官に報告し、村中で援助するように指示しているそうです。

子どもたちは、7,8歳になると手習所に通わせ、最終的には「小学」「四書」「五経」など儒学を習わせていました。

元禄時代、武士、庶民とも教育への理解が高まり、「現実性、合理性、人間性の尊重」が特徴の文化でした。この時代、都市では三井、鴻池、住友など庶民を相手にする新しいタイプの商人が活発化し、農村でも生産力が増大し、農民の生活水準は向上しました。

その背景に商人や農民のための教科書が執筆され、「商売往来」「百姓伝記」「会津農書」「農業全書」など多くの経営の書物が刊行されました。

政治的には文治主義が主導でした。これは武力ではなく、儒学の普及、浸透によって社会の安定をめざす政治でした。

徳川家康から4代家綱まで歴代将軍の侍講を務めた朱子学者林羅山は上野に家塾を設立しました。5代将軍綱吉はこの塾を湯島に移し湯島聖堂をつくりました。林羅山の孫、信篤は大学頭に任命されこの学問所を統括しました。

諸藩でも学問所の設立は盛んに行われ、会津藩主保科正之は山崎闇斎に学び、水戸藩主徳川光圀は江戸小石川藩邸に彰考館を設けて大日本史を編纂しました。

このように各地に藩校が設立され、幕末までに276校あったそうです。また幕府や藩は庶民教育のために郷学も設立しました。

8代将軍徳川吉宗は江戸前期の高度成長の行き詰まりの停滞期に将軍に就任し、享保改革を行いました。そのなかで、教育改革も断行しました。


享保改革は、幕府財政を再建し、国民生活の維持安定のために「大きな政府」「強い政府」による国家再建を行いました。

そのために1、徹底した法の整備、2、下層官僚でも幹部に登用できるよう、官僚機構の改編、3、公文書システムの確立を行いました。

吉宗は教育改革にも力を入れ、儒学を基礎とする国民教育を振興することにより、社会を安定させました。従来の幕府の教育方針は武士が儒学を修め、徳のある政治を行い、社会を安定させようとしたのに対し、国民全体に儒学の振興普及を図ったのです。

幕府主催の儒学の講義を庶民にも開放しました。湯島聖堂は偶数の日は直参、旗本などが学び、奇数の日は庶民に開放しました。しかしもっと気軽に学問ができるように郷学、寺子屋、といった小さい私塾を全国に普及させていきました。

その結果、明治の初めには75000の寺子屋と6500の私塾ができたそうです。今日の全国の小中学校が33870校であることを考えれば、学問する場所が実に庶民の身近にあったのがわかります。

このようなことから、日本全国の平均識字率は80%を優に越え、識字率という点においては、世界最高の文化国家であったことがうかがわれます。

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2008年06月21日 15:48に投稿されたエントリーのページです。

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