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2011年03月 アーカイブ

2011年03月22日

未曾有の大震災に直面して

3月11日(金)に発生した東北地方太平洋沖地震にて被災された方、そのご家族・関係者の皆様には、心よりお見舞い申し上げます。


ほぼ、1年ぶりにブログを書きます。

私は本当にみなさんにお伝えしたいことしかここでは書かないので、長期に渡るご無沙汰をお許しください。

今、日本は歴史上、まれにみる国難に遭遇しています。663年の白村江の戦いでの敗戦、1274年、1281年の元寇、植民地支配の恐れのあった1868年の明治維新、1923年の関東大震災、1930年の昭和の大恐慌、1945年の敗戦。今回の国難はこれらに匹敵するかもしれません。史上最大級の地震と津波。そして史上最大級の原発事故。

私は2011.3.11 14:46 この時間、会社の近くにある、浦和駅前にある、デパートに入っている本屋でこの地震と遭遇しました。あまりに大きな揺れに、居合わせた人々みなかなり驚いていて、これだけの揺れは初めての経験でした。こんな頑丈なビルでもこれだけ揺れるのだから、外はかなり被災しているのではないかと、会社のこと、家族の事が思い浮かび心配でした。揺れはかなり長時間にわたり異様に続き、その長さが少しづつ経済のダメージを実感しつつありました。

会社につくと、エレベーターは止まっていたので、非常階段で3階にかけ上ったところ、社内は普段のまま、まったくものも落ちていませんでした。私の部屋は本箱を重ねておいてあり、ちょっとした地震でも倒れそうな場所なのですが、まったく大丈夫でした。

しかしすぐに家人から連絡があり、下の娘が保育園の遠足で葛西臨海水族館に行っている、という。会社の安全の確認がとれたので、私はすぐに自宅に車で戻ろうとすると、道路も水が噴き出し、今回の地震の大きさを物語っていました。そして途中でまた大きな地震が始まりました。車道は渋滞し、電信柱が大きく揺れて、道行く女子高生も立っていられないのか、手すりをつかんでしゃがみこんでいました。私は電線が落ちてこないか、心配でした。

家に戻ってみると、家人は青い顔して、こんどは千葉に近い茨城で地震があり、10メートルの津波が千葉に来ている!と泣き叫んでいました。テレビでは津波は家や車を押し流す、信じられない映像がリアルタイムに映し出されています。私はすぐには事の重大さを実感できず、デパートでの大揺れの時に、すでに経済におけるダメージの重要性は実感していたのですが、家族の命の危機という実感はできないでいました。

頭が真っ白になりながら、この危機になにもできない自分がもどかしくなり、地震でめちゃくちゃになっているという3階に、おろおろと上がり、私の書斎を確認すると、本箱がひっくり返り、もっとも大切にしていた骨董も割れ、ガラスが散乱している始末でした。どうも地震がくると、大切な骨董から壊れるのです・・。

しかし今、家族に起きようとしていることに比べれば、こんなことはどうでもいいように思えました。むしろ大切な骨董が娘の身代わりになってくれるのでは、という無力な神頼みに近い考えをうつらうつら思っていました。ただ、仕舞い忘れたひな壇が跡形もなく壊れて、散乱している本の上に投げ出されているのが悲しく感じました。

すぐに1階に戻り、テレビ画面は宮城沖、福島沖でヘリコプターからの巨大津波の映像が映っていました。まさに私が小学生の頃見た、豪華客船がひっくり返る映画「ポセイドンアドベンチャー」のワンシーンを見ているようでした。今朝、娘が、遠足へ行くことがうれしくてはしゃいでいる姿が目に浮かび、これが悪夢であることを切に願いました。

しかししばらくして、娘の乗ったバスが、水族館を離れた趣旨を保育園から聞き、またテレビでヘリコプターが葛西臨海公園を映していて、液状化はおきているものの津波の被害はなさそうだったので安心しました。娘は5時間遅れで、夜11時ごろ帰ってきました。娘を抱き締められる幸運を神に感謝しました。

思うに、デパートでの大揺れから、家に戻って、あのポセイドンアドベンチャーのような津波の映像をリアルタイムに眺めている間に、私が動顛しているまさにその時に、家族を、家を、職場、人生を、命を一瞬に失った方々が多数いらっしゃるのです。


今、世界中でもっとも固唾をのんで注目されている福島原発の近くに、天神岬というキャンプ場があります。昨年のゴールデンウイーク、私は家族とここでオートキャンプをしました。とてもきれいな岬です。
%E5%A4%A9%E7%A5%9E%E5%B2%AC.jpg(原発そばの天神岬)

そしてここから二つの巨大な原発のある海岸線を通り、宮城との県境にある松川浦という岬へ潮干狩りに行きました。いわきから相馬にいたるこの海岸線はすべて今回の巨大津波に飲み込まれてしまったのです。見たことのある風景が巨大津波にのみ込まれる映像がテレビで映っていました。
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(相馬の海岸線の林 津波がこの林の二倍もある高さで襲ってきたのをテレビで見ました。)
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(同じく相馬の海岸沿いの道路。左手が海。ここで木々の二倍の波が襲ったかと思うと・・)
souma.png(松川浦)

このあまりにも恐ろしい自然災害に直面して、私は26年前に登った日高山脈を思い出しました。このことは以前のブログに書きましたが、人が少ないがゆえに、道はすぐに配松に覆われ、歩行路に浸食した崖に足を踏み外し、あやうく100メートルの崖を落ちそうになったり、沢と配松を伝って移動する登山は雨が降るとすぐに歩行困難になり、やっとの思いでカールにつくと、熊が近くに来たりと、あまりに未開な自然は巨大で、偉大で、それは恐ろしいものでした。まさにそこには人智を超えた神のような存在を感じました。下界に降りると、いつもなにげなく生きている都会は、いかにコンクリートに囲まれた、ちっぽけで人工的な、いつわりの安全な世界で固められていたことか、と感じました。

ところがその安全で人工的な世界に、さながら山麓にあらわれた巨大熊のように、全長500キロメートルの巨大な竜のような地震が襲ったのです。あり得ないことです。あの阪神大震災や9.11、リーマンショックでさえ、軽い出来事のように思えるような今回の地震、この事件が起こす経済的な災難は想像を絶するものとなるでしょう。

子供や親が生きているかいないかで、家や職場を失うかどうかで、人の人生は、すべてが一変します。でもその境はほんの僅かなのです。もうちょっと茨城沖の地震が南にずれていたら、確実に津波は娘をおそったでしょう。昨年、原発の近くでキャンプをしていたときに、今度の地震が起きたかもしれません。地震国家日本において、あらゆる天災は生活における表裏一体なものです。

95年、阪神淡路大震災の時、発生から1ヶ月後、御影という神戸三宮の手前の駅に降りたのですが、一面見渡す限りなにもなかったのです。日常なにも変わっていない大阪から電車でたった30分走ると、少しづつ、車窓は倒壊した家屋が増え始め、御影に降りるとあたり立っている建物はなにもなく、まるで戦災で焼け野原になった時代にタイムスリップしたようでした。今回の震災は本当に終戦直後に匹敵する大災害でしょう。少なくともその覚悟が必要です。

この災害自体も未曾有なものです。しかしこの後にくる大型の経済の落ち込み、これも大変な問題です。復興需要を期待する向きものありますが、従来の経済危機のなかでの、今後数ヶ月は日本の経済の要である東京を中心とする電力不足による企業の停滞、食、住以外での消費マインドの冷え込み、これは9.11、リーマンショックをはるかに凌ぐ経済危機を誘発する危険があります。ハイパーインフレや国債の暴落のリスクも現実のものとして迫ってきています。

私は、自分の過去を振り返ると、他の経営者と異なり、目標を掲げて自己実現するのではなく、偶然と挫折の連続で、むしろ挫折や失敗を生かして今まで生きてきたのです。ピンチには強いタイプかもしれません。わかりやすく言うと、ピンチをどのように良い方に持って行くか、を見つけるのが得意なのです。

しかし今度のピンチはいままでで、遙かに最大級のピンチです。経済がどこまでストップするかわからないからです。日本のもっとも売りであった安全神話が根底から崩れたのです。この信用こそが日本最大の財産と思っていたものが。長期的には確かに土木、建設など復興需要は莫大にあるでしょう。しかし今年は大変厳しい経済環境になることはまちがいありません。

今考えることは、まず衣食住というライフラインを守るか。つまりどうやって生き残るか、次に各人の最低限の収入を確保するか、ということです。つまり企業は組織をどうやって確保、維持していくか、です。

ただ95年の阪神淡路大震災の時と大きく異なることがあります。それはITの力です。このころは、ITの萌芽期であったために、大幅にITの活用は減退しました。しかし今回は、被災者が、救援や安否確認にツイッターやメールをかなり活用して役に立った報道が頻繁になされ、報道を見る立場の人間も、テレビでの情報の他、インターネットでの内外の情報も多角的に入手することができました。各国の情報を瞬時に翻訳していくれる多言語解析のサイトは大変効果的です。

最近の日本人は、画一的な報道にはみな疑心暗鬼になっていて、あらゆる多角的な報道をインターネットで把握する人が増えてきたようです。それとともに、テレビでも過去の大震災の時のようにお涙ちょうだい的な情緒的な報道が少なくなってきたように感じます。日本人一人一人のなかには、経済大国のなれの果てのいきづまりから、知らず知らずのうちに欲と無気力と他人依存が蔓延していたのです。今、有史以来最大級の国家危機において、この国の国民が、そこから目を覚ましつつあるように感じます。

われわれは、もはや地震と放射能の危険にさらされているこの国土で安穏と生活することは許されなくなりつつあります。ユダヤの民をお手本に、だれでもがIT、金融、マネジメント、語学そして教育に堪能になり、世界にビジネスを求めていかなければならないのです。なによりも得意とするチームワークを活用して。

私たちは、この大震災をきっかけに、安全神話の崩れたこの国で、目を覚まし、戦後の焼け野原にたった日本人のように、もう一度立ち上がることができるかもしれません。

いえ、立ち上がらなければなりません。2011.3.11に一瞬で失われた数万の命のためにも。

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