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2007年03月30日

はじめまして

はじめまして。メディアファイブの北畠です。このたび、ブログをスタートすることになりました。

 私は昭和35年6月、埼玉県さいたま市(2005年までは「浦和市」)に生まれました。昭和35年というと、戦後15年が経ち、ちょうど高度成長期が始まり、ようやく世相が明るくなり始めたころです。2歳ぐらいから記憶があるのですが、子供のころ、よく母に上野のデパートに連れて行ってもらいました。浦和から京浜東北線に乗って、車窓を眺めると、川口あたりで、鋳物工場が数多く立ち並び、キューポラという煙突から煙が流れているのが印象的でした。今ではほとんど見当たりません。

 上野へ着くと、白い服を着た傷痍軍人と呼ばれている人たちが、駅前でアコーディオンを弾いていました。なぜかいつも物悲しい曲だったように記憶しています。そしてデパートの屋上の遊園地で遊ぶのがとても楽しかったのを覚えております。帰りにコロンバンのマーブルケーキや不二屋の三色アイスを買って帰りました。今でも私は、その当時の面影を残す上野や御徒町界隈が大好きです。

 私は本が好きで、小学生になると学校帰りにいつも県立児童図書館に入り浸っていました。狼王ロボやファーブル昆虫記、ガリレオやニュートン、コロンブスなどの偉人伝、先ほど述べた川口を題材とした「キューポラのある街」などの児童文学、滝平二郎氏の季節感豊かな挿絵が美しい絵本、また太平洋戦争での本当につらい思いを描いた絵本が数多くおいてありました。原爆で親を失った子供の話、空襲で本当に恐ろしい経験をした話などずいぶんと読みました。絵本ですから、写真以上にその当時の恐怖や悲しみがじかに伝わったように思います。最近ではそういう絵本はあまり見かけないようです。戦後60年という歳月がそうさせているのかもしれません。

 私は幼稚園から中学まで一貫校にいました。学校での授業は、常に感受性を高め、子供たちに考える喜びを教えるものだったと思います。幼稚園のときは紙芝居やカルタをみんなで作ったり、小学校で印象にのこっているのは4年生の音楽の授業で、バッハのフーガト短調を聞いて大変感動したことです。
 「学ぶ」ということは、人が子供から大人へと続く人生のなかで、常に連続して体得していくものだと思います。そのなかで、その時代の背景、土地、親、先生、友人、図書館、本などあらゆる「学び」を演出する人やものや環境から影響を受けます。しかし私自身は「学ぶ」ということが、中学、高校になるに従い、「受験」という競争へまきこまれ、無味乾燥になっていくことだと感じました。もちろん「受験」を避けることはできません。「競争力をつける」という、社会でもっとも大切なことを教えてくれるものでもあります。

 しかし「受験」の弊害を少しでも取り除き、その人、その人の様々な学問の連続性や社会と「学び」とのつながりを感じさせ、自分の「学び」の足跡を残し、社会に出てから自分の「学び」の歴史が大きく役立たせる道具に、パソコンがなりうるかもしれない、と思いました。

 パソコンを「学び」に利用することは、賛否両論様々あります。けれども人それぞれが、自分の「学び」を思う存分社会に役立たせることができたなら、それはとてもすばらしい人生になるのではないでしょうか。メディアファイブでは、そういった観点から生涯学習を目指し、教育ソフト教材を開発しております。みなさんも、子供のころの本や教科書、ノートなどがのこっていたらぱらぱらめくりながら、一度、自分の「学び」の歴史をノートとかパソコンに記録してみませんか?

2007年09月29日

5年前ファーストフードで

5年ほど前の朝、ファーストフード店でこんな情景にでくわしました。
いかにも朝帰りとわかる、髪を金髪に染めた制服の女子高生二人が、私の隣の席に座って話をしていました。一人の女の子の携帯電話が鳴り、どうも友達からの電話だったようです。声が大きいので聞かずとも聞こえてくるのですが、電話している女の子の親が、その通話の相手である友達に電話をかけ、昨日の女の子のアリバイを確かめたようです。逆切れした女の子は母親に電話し、延々と罵倒し続けていました。

母親は泣きながら電話を一方的に切ったようです。そのとき、ふと女の子の悲しみが伝わってきたように感じました。女の子がもし本当に母親を憎んでいたら、自分から電話を切ってしまうでしょう。いつまでも母親に罵声を浴びせ続けているのが、なんとなく心では母親に助けを求めているように聞こえたのです。

おそらく電話の相手の母親は団塊の世代か、もしくは私と同じくらいの年齢でしょう。当時、もし私に25で子供ができていたら、このような不良少女になっていたのではないかと思ったのです。
私の年代は昭和一桁世代の親を持ちます。彼らは青少年時代を戦中、戦後の貧しい生活下で生きてきました。彼らは国家のために、という教育を受け、自分の子供には、自分たちのような貧しい思いはさせたくない、という自己犠牲のもと、子供中心の生活を続けてきたのだと思います。

私たちの世代は権威を嫌い、自己犠牲を知らずに育った年代です。子供はかわいい、という動機で接し、友達のように育て、忙しくなったり手に負えなくなると自分の都合で責任を放棄し、無視してきたのではないでしょうか。若ければ若いほど、遊びたい欲求は強く、その傾向は増していくでしょう。秋田で自分の子供を欄干から突き落としたとされる痛ましい事件も、まさにそれゆえでしょう。

子供の側からすれば、そうした親の姿勢に深く傷ついていると思います。おそらく自分の親が他人であるかのような感じを子供の頃から受けていたのではないでしょうか。これも親の同志的教育の悲劇的な結果なのかもしれません。援助交際をする女子高生は、自分を買う愚劣きわまりない大人を大変軽蔑していると聞きます。これはその愚劣な大人を親に見立てた、親に対する、自分を傷つけてまでする、大変憎しみのこもった復讐なのでしょう。

父親の威厳が必要な時代といわれます。三島由紀夫は父親をテーマに扱った小説を数多く残しています。これは私の独断ですが、彼は日本社会における父親像の原形を、明治の元勲に象徴される明治男に求めています。

「春の雪」では主人公の父親である松枝公爵は権力の象徴であり、主人公の松枝清秋はその対局にある優雅と美の象徴として描かれていました。「奔馬」では昭和初期の右翼の少年が主人公なのですが、その父と子を不純と純粋という対比で描いています。「絹と明察」では高度成長期の織物会社の経営者である主人公は父親の象徴的人物として描かれ、社員すなわちわが子に思考することを許しませんでした。「午後の曳航」では母子家庭で育った子供が、あこがれている船乗りの男がいざ自分の父親になると、そのあこがれの存在が堕落したとして殺害してしまう物語です。つまり父親は世間から子を守るための力(権力)としたたかさ(不純)をもつものと定義しています。

三島の近代能楽集のなかに「邯鄲」という小品があります。これは邯鄲という枕に寝る人は人生がむなしくなり失踪するという話をききつけた主人公が、その枕で寝てみると、夢の中で、世の中の富と名誉と美女を手に入れる体験をし、普通の人では人生に意味を感じなくなるところ、彼は常に大人になることを拒否していたために、なにも変わらず目が覚めた、という話です。ホリエモンが逮捕されたときの「邯鄲の夢」という新聞の見出しが印象に残ります。

三島の小説は、父親を既成権力、妥協、欲望、愚鈍、旧体質として描き、子供を美、未完成、創造、理性、新しい概念としてとらえ、むしろ子供を主役におき、父親の醜さをコントラストに描き、彼の美学を表現します(彼の小説は常に既存価値=父親を破壊する子供という形で芸術を表現するものが多いのです)。しかし彼の死の直前に完成した「天人五衰」で、最後に美が醜い形で消滅する姿を描き、彼の美学にピリオドを打っています。

彼は自身の求める時代とずれた時代に生きたことを大変くやしく思っていることは間違いありません。彼が求めていた時代は今だったのかもしれません。改めて今日読んでみると、彼の作品は今の時代のために創った時限爆弾だったと気付きます。彼の芸術は、「父親=既存権力」に立ち向かう「子=新しい概念」という形で成り立つ美学の構築物なのです。彼が生きた戦後、高度成長期は彼が対立しなければならない父親=既存権力が根こそぎ崩壊していき、もはや彼はそのなかで創作を生み出すことが不可能となり、彼自身が父親=既存権力となってがんこ親父が子供にげんこつを喰らわすように、死を持って社会に恫喝したのです。彼が最後に残した「豊饒の海」4巻が30年隔てた今日、破裂するように仕組んで死んでいったのです。

日本人は今日、ますますその幼稚化が進行しています。もっとも幼稚化しているのはまずテレビや大衆新聞です。不二家の賞味期限改ざんの問題は、もともと不二家が社内でプロジェクトチームを作り、業務改善しようとしたときに挙げられた問題が世間に流れたのです。賞味期限を改ざんしたこと自体は、確かに問題があります。しかし、そういった問題を明示化して改善しようとした矢先に、社会に表面化したのです。この問題で不二家が窮地に立つのならば、逆に業務改善する会社は今後より問題を隠蔽する方向に進むでしょう。テレビ報道は不二家をただ糾弾するばかりで、そこに世間をよくしよう、という意識は感じられません。まるで中学校のクラスのいじめをみているようでした。

日本の幼稚化は、団塊の世代の権利の主張に起因する、と言う人が結構います。それは敗戦でゼロから出直した日本が、「戦争という過去を断ち切り、個人の権利を主張する」という新しい国家のコンセプトでスタートしたからです。そして団塊の世代の、断ち切る「過去」とはすなわち自分たちの父親だったのかもしれません。少なくとも自分たちは「父親」というイメージにネガティブな感覚をもっていたのではないでしょうか。「父親」という権力、権威を破壊し、自分たちの自由と権利を謳歌する。高度成長を遂げ、世界第2位の経済大国になった今でも、まだこの国全体が同じコンセプトを持ち続けているように感じます。当然です。団塊の世代の子供たちが今の若者なのだからです。

しかし戦後60年たつと、日本はすでに成熟した国家に突入したのです。日本という国を人にたとえると、体はすでに中年に入ってきているのに、いまだに赤ちゃんプレイをしているようなものです。

成熟国家では「過去を大切にし、個人の義務を履行する」コンセプトでなくてはなりません。「個人の義務」とは社会の責任、とくに子供や若者を育てる義務です。情緒的にいうのならば、日本における新しい「父親」像を明示しなければならないのです。米国にもヨーロッパにもそういう「父親」像は強く感じます。
そのためには「どうして断ち切らなければならない過去を起こしたか」ということ、つまり「なぜ、あのような悲惨な太平洋戦争が起きたか」というところからスタートしなければならないのではないでしょうか。太平洋戦争があるから、過去を大切にできない。60年たった今日はその過去を徹底的に分析し、日本人の糧へと変えていかなければならないと思います。

ファーストフードの女子高生はもう成人していると思います。今、なにを考えて、どうしているのでしょうか。

2007年11月05日

失われた「自分の居場所」

10月14日、NHKのドキュメンタリー「21世紀のドストエフスキー テロの時代を読み解く」を見ました。最近、世界中でドストエフスキーの本がベストセラーになっているそうです。19世紀後半、ロシアはテロと犯罪が蔓延する社会で、ドストエフスキー自身テロリストとして処刑の一歩手前までいきました。万人の心の底にある悪を描き出し、2001年におきたアメリカの前代未聞のテロ、9.11以降、現代社会を考える、というテーマの番組でした。

一番印象に残っているのは、映像作家が、「攻撃はセキュリティのためにすることが多い」という一言でした。自分や家族や仲間を守るために、先制攻撃をしかけるのが攻撃だ、と言うのです。

確かにマズローは欲求の段階を説き、もっとも強いのは生理的欲求、次に安全の欲求、そして集団帰属の欲求、自我の欲求、最後にもっとも高尚なのが、自己実現の欲求といっています。普通に暮らしているうちは飢餓はありませんから、いかに安全の欲求が社会生活で強いか、ということです。


9.11で、米国民がアフガニスタンやイラクへの出兵を支持したのはまさに第2、第3の9.11が起こることへの不安からでしょう。つまり安全の欲求からブッシュ大統領の戦争を支持したのです。9.11の3ヶ月後に私が書いた文章があります。ちょっとご紹介します。

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有事における処世術  2001.12.12
ワールドトレードビル爆破テロの中継は多くの人に衝撃を与え、誰もがみな第3次世界大戦を予感した。その日以来世界の株価は暴落し、世界同時不況の様相は深刻さを日増しに増していった。それに関係があるのかないのか定かではないが、いままで不況知らずだった当社のソフトの注文も大幅に減った。取引先の流通の商品部長は「昨年同月期の4割減で、今月は過去最低の売上実績だった。」とぼやいていた。

大衆紙ではある芸能人が「あの事件以来、10日以上たつというのに、無力感と虚無感が心を占めるばかりで、なにをやっても身が入らない」といっているが、多くの人の実感ではないか。この虚無感は年配の人には、敗戦直後を思い出させるらしい。焼け野原の故郷に立ち尽くし、ほとんどの国民は無力感に打ちのめされている。

しかしいち早く前向きに生きようとした人たちが大きなチャンスをものにしていった。不良債権処理は遅々として進まず、ITバブルは崩壊し、そして倒産ラッシュにリストララッシュ。そこへきて今度のテロ事件。泣きっ面に蜂どころの騒ぎでない。しかしあれだけ壊滅的な敗戦を食らっても、10年で復興し、20年で成長期に入り、30年で世界有数の経済大国になった日本である。この景気は日本人が本気になればあっという間に回復できるであろう。正義を貫き、隣人と協力し合い、真剣に生きること、仕事、家庭や人間関係を考えれば、次の世代こそ日本のための時代になると思う。

今回のテロは第3次世界大戦にはならない。なぜなら国家間戦争は20世紀の遺物であり、21世紀情報化社会では、ナンセンスだからである。20世紀までのリソースは石油であり、土地であり、金であった。土地や資源が中心の経済は領土が必要である。情報化社会のリソースはITであり、人である。本当は軍隊や戦争などいらないのだ。日本は戦争放棄を憲法でうたっている。まさに21世紀的憲法だ。

半年前、こんなことがあった。駐車場に車を入れようとしたら、小さな蛇の尻尾を車で轢いてしまった。ちょうどその日は私の娘が生まれた日で、しかもその年は蛇年なので、できればその蛇を逃がしたかった。しかしそのもがいている蛇の頭は逆三角形で模様が横に入っている。マムシである。もしこの蛇を今逃がしたならば、家の前の神社に逃げ込み、そこに来る近所の子供たちにでも噛み付いたら大変である。結局、断腸の思いで殺してしまった。それ以来、毎年娘の誕生日には、そしてその蛇の命日には、その死骸を捨てた神社の側溝に塩と酒をまいて、手を合わせている。

あからさまに武器を持ち、周囲に威嚇することは、自分も危険にさらされるのである。トップクラスの軍事力を持たない国が、20世紀的軍隊を持ち、外交的手段として威嚇や攻撃に利用することはかなり危険なことです。

日本人は勤勉で教育熱心で、共同体を得意とする国家です。今こそ、日本人一人一人は自信を取り戻し、正義を取り戻し、世界にお手本になる情報化社会国家をつくっていこうではありませんか。
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それ以来、6年の歳月が過ぎました。もちろん第3次世界大戦は起きませんでしたが、アフガニスタンでは今もテロは続き、イラク戦争は泥沼化の様相を呈し、戦火は周辺地域へ拡大しています。しかし中国、インドに代表されるようにアジア圏は好景気に沸き、日本も海外需要の増加で不景気から脱却し、戦後最長の好景気が続いている、といわれました。しかし景気がいいのは海外市場を得意とする大企業ばかりです。

日本は世界のお手本になる情報社会どころか、ITに背を向け、ホワイトカラーの生産性は先進国でも最下位となり、子供の学力は低下し、中小企業やIT企業にとっては依然として厳しい状態は続きます。格差社会は広がり、けっして好景気の明るい様相は巷にはありません。むしろ人々は会社や学校や家庭にそのよりどころや、自分の居場所を次々と失ってきているようにも見受けられます。

この日のドキュメンタリーを見て、私は、自分の思考の盲点を見つけたように思います。いままで私は、ITを活用して、人がいかに能力を高めることができるか、そういうシステムを開発することばかり考えてきたのです。人はいかに記憶をよくできるようになるか、人はいかにして学習を楽しくできるか、学習をいかにすぐ社会に役立てられるか、組織がいかに有効に活動できるか、そのようなことばかり考え、商品やシステムをアピールしてきました。

しかしその前に、人間には「自分や家族や、仲間、属している組織を守るために」行動する、という絶対的な感覚があります。「自分と仲間の居場所を守る」感覚なのです。自分の居場所が失われようとしている今日、まずそのニーズを満たすことが大切なのかもしれません。

2007年11月06日

自分の居場所はどこ?

 先日ブログで「失われた自分の居場所」についてお話しました。今日はどこに現代人の「居場所」があるのかを探りたいと思います。

SNS(ソーシャル・ネットワーク・サービス)の普及は、自分の居場所を見失っている現代人の駆け込み寺かもしれません。マンガやゲームの集まりなど「おたく」文化も、実は自分の居場所を失った若い人たちの「居場所」を求める憩える場なのでしょう。もちろんSNSはおたくだけのものでなく、一般の人々に急速に普及してきていますが。

「自分の居場所」とは、自分の存在価値を確かめる場所ではないでしょうか。「おたく」文化は、自分がマンガやゲームではまりこんだ世界への感動や体験を、同じようなものに興味を持った人と共有体験することに存在価値を見出しているのではないでしょうか。

しかし本来、自分の趣味や友人の世界で共感しあえるだけでは、本当の意味で、存在価値を見出したことにはならないと思います。たぶんSNSだけに没頭するのでは、なにかしらのむなしさがぬぐいきれないのではないでしょうか。さらに30代、40代、50代と年配になるにつれて、さまざまな社会の責任が重くのしかかってくると、趣味の世界だけに走るわけにも行かず、なかなか自分の居場所が見つかりにくくなるものです。

やはり自分の社会的意義を見出すことが、本当の意味での存在価値を見出すこと、すなわち「失われた自分の居場所」を見つけることになると思います。

たとえば当社のソフトのシリーズに「メディアファイブ プレミアシリーズ」という、資格、語学、中学・高校の学習ものがあります。このソフトは、編集機能がついていることが特長として挙げられます。

学習する人が、自分の考えた内容を書き込んだり、インターネットで収集した情報をこの編集機能を利用して取り込むことで、自分なりの参考書ができます。こうした行動を通して、今、勉強している学問が、自分にとってどのように社会と関わっているかがわかり、どうやって社会に生かしていこうかと視野が広がります。

つまり、学ぶことを目的として、その学ぶ対象を自分なりに社会にどう役立てるかカスタマイズすることを通して前向きに、社会における自分の存在価値を感じることができます。そういう意味でも、学習上でのカスタマイズ、インタラクティブ性は自分の存在価値を見つける大切な要素なのではないでしょうか。

また12月上旬に発売される「メディアファイブ プレミア3.0」では、3分間の学習法としてラーメン学習(カップラーメンのお湯を注いで待つ間)、はみがき学習(はみがきしている間)、トイレ学習、寝る前3分学習なるものをご提案します。目的をもった勉強を、少しの工夫で日々の生活のなかに取り込むことで、自分を磨きながら毎日を楽しむ。それも「自分の居場所」かもしれません。

ブログでたびたび紹介しました「Next Revolutionv2 則天」では、自分の仕事の履歴が残り、自分の生産性や、スキルの向上がリアルにわかり、しかも自分のスキルを記録して、他の社員に利用してもらえるシステムです。会社における疎外感は、自分の評価を上司にのみ依存し、それが必ずしも公平に行われていないところから生じます。「則天」を利用することで、日々の仕事が適切に整理され、組織の中でいかに動くかが明確にわかり、自分の仕事を、自分なりに丁寧に工夫して積み重ねることで、客観的に評価されて自分の報酬につながっていく。そうした中で、職場で自分の居場所を見つけていくことは、大変幸せなことだと思います。

仕事の「見える」化がどれほど自分の居場所を見つけてくれるか、ということです。一見管理されて窮屈に思えるのですが、自分の仕事の形が見え、部下の仕事の形が見え、そして会社や組織全体の仕事の形が見えることは、社員も経営者の視線に近づいて会社をみることができます。そうなると、管理するより社員にまかせたほうがよほど的確な仕事ができるのです。つまり社員は自由に自分の仕事を全体の中から判断して行動し、その結果が会社に反映され、ひいては社会に反映され、大きなやりがいを感じるのです。その結果、自分の居場所をはっきり確認することができるのです。


 話は変わりますが、20年前、携帯電話の携帯メールが爆発的に普及するとはだれが思ったでしょうか。文字にする面倒さを考えれば、電話するほうが早いとだれもが思ったでしょう。しかし実際には携帯メールは、完全にコミュニケーションの主要手段として定着しました。その理由は、直接相手と話すと、感情面で様々に気を使わなければならないからです。メールであれば、時間的にも拘束されずに、いつでも好きなときに冷静に相手の意向を読むことができます。むしろテレビ電話のように、感情が直接的に伝わるもののほうが、どんなに身近になっても普及が遅れています。

時として人の感情はコミュニケーションを阻害します。新入社員が社長に直接話すには勇気がいります。しかし自分の意見を掲示板に書くことは、比較的スムーズにできます。部下を評価するとき、すべてをアナログ的に評価することは、間違いが起こりやすいし、それを知った部下は恨んだり、恩を感じたりしなければなりません。それが政治的に悪用されたり、不公正な評価になったりすることも多々あります。ある程度システマティックに評価されるほうが、人のしがらみから離れ、納得できるのではないでしょうか。

社会組織の中では絶えず人と人の感情のぶつかり合いが起こっています。自分の利益にかかわる職場ではなおさらです。その中で、人は傷つき、怒り、悶々とすることも多いと思います。現代人にとっては、時として感情とは無縁の、「システム」の中に身を置くことも、自分の居場所と感じられるのかもしれません。そこにほっとする場所があれば、それも時代の流れであり、新しい文化として肯定しなければならないのではないでしょうか。

最近、職場で心を患う人が増えているそうです。そういう人への対策としてメンタルヘルスが注目されています。しかしその原因は、必要以上に感情的なぶつかり合いの多い職場の中にあって職場の仕事やシステムに自分の居場所を見出せない人が、心の行き場所がなくなっていくことにあるように思われます。

今、職場やその中のシステムに、自分の居場所を見つけられるようにすることが、求められているのではないでしょうか。

2008年04月27日

ショーケンⅡ

先日、「蒼き狼 地果て海尽きるまで」というチンギス・ハーンの映画をDVDで見ました。チンギス・ハーンは普通のイケメン俳優では難しいでしょう。関係者からの又聞きですが、最初渡辺謙にしようとしたのが、「ラスト サムライ」の成功で彼のギャラが膨大に膨れ上がり、変更せざるを得なかったそうです。

過去に見た映画で、英雄や歴史上の人物を見事に演じたと思うのは、西洋では「アラビアのロレンス」のローレンス・オリビエ、「アマデウス」のトム・ハルス、サリエリ役のF・マーリー・エイブラハムもすごかった。「リチャード3世」のアル・パチーノ、「クイーン」のヘレン・ミレンです。

日本ではまずなんと言ってもNHK大河ドラマの「太平記」で足利尊氏を演じた真田広之。当時はだいこんと評価はさんざんでしたが、私は足利尊氏というのはこういう人なのだ、と今ではとても強く感じます。尊氏の無私で純粋で優柔不断なやさしさが、武士を引き付け、はからずも、もっとも敬愛する後醍醐帝に謀反してしまい、心ならずも建武の新政をひっくり返し、弟や実の息子に離反されてしまった。その並外れた尊氏の魅力を真田広之は見事に表現していました。今では「太平記」はNHK大河ドラマの最高傑作とも言われています。(ウィキペディアで)

その次にショーケンの武田勝頼と徳川綱吉、仲代達也の平清盛も印象的でした。「春の坂道」で柳生宗巨を演じた萬屋錦之助、「花の乱」で日野富子を演じた三田佳子、ヨーロッパの合作映画「太陽」で昭和天皇を演じたイッセー尾形も天皇の孤高をよく表現していると思います。

役者が歴史上の英雄を演じることは難しいと思います。そのカリスマ性を表現することももちろんできないし、なにより性格がまったく異なる場合、大きなミスマッチをおこします。唐突ですが、私は今、チンギス・ハーンを演じられるのは、朝青龍しかいないのではないかと思います。同じモンゴル人というのもあります。ハーンは少なくとも朝青龍以上の気性の激しさはあったと思います。それをどんな器用でも普通の人間では演じきれないでしょう。

私は好きな俳優やアスリートは、真田広之、山崎勉とイチローです。満ち溢れる才能を、強い意志で統率し、孤高に自分の世界を構築していく。そのストイックな姿に、自分の道を厳しく突き進む求道者の風格があります。

その対極にいるのがショーケンや朝青龍でしょう。常にあらゆる感情やアイデアがあふれ出ていて、それを自分の理性でコントロールすることができない。

小林秀雄は「林房雄論」で、林房雄のことを、もてあました才能の軍団を引き連れながら、いつも逆らわれたり、小馬鹿にされている大将のようだ、と表現しています。おそらくショーケンや朝青龍も同じなのでしょう。

私のタイプといえば、たぶんショーケンや朝青龍タイプなのでしょう。もちろん彼らのようなルックスや肉体は持ち合わせていなく、林房雄のような大評論家になるような頭脳を持っているわけではありません。なによりも彼らのような社会的ステイタスがありません。

しかし私は自分で言うのもおこがましいのですが、質はともかくアイデアや発想はいつも湯水のようにあふれます。だからいろんな人から尋ねられると、どんどん自分のアイデアを公表します。人にとられる、とか心配しません。どうせ空気のように出てくるのだから。人に喜ばれ、物事が解決するならば、ただで結構です。それよりもアイデアを出すことで、人とブレーンストーミングでき、さらに次のステップのことが考えられることのほうが楽しいのです。

けれども、私も年には勝てず、おそらく頭の回転、アイデアの創出は15歳のころの2分の1になってしまっていました。15歳のころは、本当に想念を自分でコントロールすることができず、またあまりにその想念が拡大しすぎて、人に伝えたり、言葉として表現することができませんでした。

だから私はみんなから、何を言っているのかさっぱりわからない、とよく言われていました。勉強でも机に向かって国語のテスト、たとえば大好きな小林秀雄の文章や川端康成の文章なぞ出てくるものなら、すぐ想念で頭がいっぱいになり、勉強がまったくはかどりませんでした。数学の幾何の問題を解いていると、本当に芸術に接しているかのような感情で頭がいっぱいになりました。こんなことだから2浪もしてしまうのです。

徒然草で「つれづれなるまゝに、日ぐらし、硯にむかひて、心に移りゆくよしなし事を、そこはかとなく書きつくれば、あやしうこそものぐるほしけれ」とあります。私の場合、中学生のころから、つれづれなるままに、一日中、机に向かって、心に浮かぶことを考えたり、本を読んだりしているとだんだん怪しくものぐるおしくなっていくのでした。そんな生活が大学に入る20歳まで続きました。

大学生や社会人になると、酒を飲みながら友達と議論することが多くなり、しばらくすると「あやしうこそものぐるほしけれ」状態になり、酒場であばれてまわりの人に迷惑をずいぶんかけました。

私は28歳でコンサルタントになったのですが、なりたての頃、上司の三石玲子さんに書いたレポートのことでよく怒られていました。「あなたねえ、思いついたことをレポートにするだけでは小学生と一緒でしょう。プロは削って削って、本当にシンプルな本質に行き当たるまで削ることなのよ」と何度も言われていました。

年をとるごとに、ようやく頭の回転も遅くなり、想念の量も少なくなることで、自分の感情を少しはコントロールできるようになり、他の人に理解していただこう、という欲も出て、このようにブログで皆さんに、私の考えや体験を、多少なりとも読んでいただけるようになったのです。

しかし私は、いまだに「心に移りゆくよしなし事を、そこはかとなく書きつくれば」、まだ三石さんの言う、プロの境地に到達できていません。だから、私の場合、コンサル的なご相談はタダで結構です。そのかわり当社のソフトを買ってください。お孫さんやお子さんへの学習ソフトでもかまいません。

2019年01月01日

新年あけましておめでとうございます。

新年あけましておめでとうございます。

ことしもよろしくおねがいします。


昨年、プレミア6シリーズ全て、AI搭載になりました。。

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これは、まだまだ本当にお客様のご満足いくには、改良が必要です。
お買い上げのみなさんは、システム更新でどんどんステップアップしていきます。まさに成長する商品です。

最終的に、AI「ルナ」がほんとうにみなさんの勉強のパートナーにさせることが、目標です。
そうなるために、もう少し時間がかかりますので、お待ちいただければ、と存じます。

AI「ルナ」の目指すことは、たとえば、通信教育で、ユーザーが三日坊主とはいわなくても、1っか月で挫折する人は実に7割以上にのぼります。そういう人たちが、やる気をおこして、自分のペースで勉強をはじめ、その熱の入れ方に応じて勉強方法を変え、より多くの人を試験日までに、合格点がとれるようにナビゲートすることです。

本来、その人の性格や知能によって、もしくは家庭環境によって、だいたい学歴は決まってしまいます。しかし、その性格や知能を、コンピュータが察知して、またその時の気分も察知して、その人にあった学習法や教材を提供できれば、自分の能力を超えた結果が出せる可能性はあります。

昨日、NHKスペシャルで、「衝撃の書」が語る未来ーサピエンス全史・ホモデウスというドキュメンタリーを放映されていました。

サピエンス全史は今年の夏に読みました。ホモ・デウスは知りませんでした。
サピエンス全史は、人類が誕生してから今日までの歴史を包括的に述べています。ホモ・デウスは、サピエンス全史を踏まえながら、これからの人類の未来の予言の書です。

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ホモ・デウスによると、人類はグローバル、統一へ向かう、という話です。

まずサピエンス全史では、狩猟時代から、農業時代になり、いつでも安定的に食料を供給できる、とおもいきや、そこで、はじめて、国家がうまれ、支配者と被支配者、貧富の差が生まれる、ということを説明しました。

これはどんどん時代が移るに従い、その格差は広がるばかりです。

それが、情報、金融、知能の革命が起きると、一部の人間は神になり、つまり「ホモ・デウス」となり、その他大勢は、無用者になる、ということです。

情報と金融が、AIを活用することにより、確実に富と権力は、米国を本拠とするグローバル資本家に集中してきました。

そして世界は、GDPで断トツの米国と、それに追従する中国と、GDPは低いが強い軍事力を持つロシアの三つに分権化されています。

そのなかで、日本は、情報、金融、流通まで米国に支配されつつあり、大企業は、外資に占められ、日本の企業ではなくなりつつあり、中小企業は、消費税や社会保険など高い税金と厳しい雇用政策により、重たい錘をつけながら、縮小する内需の海で溺れかかっています。

今、日本全体が「無用者」になろうとしているのです。権力を持った三国のエージェント以外は。

だから、AIに関しては、独自のものを使わなければなりません。情報、金融は仕方ないかもしれません。しかしAIまで、考えるところまで、すでにホモ・デウス、つまり神になりつつあるグローバル資本主義にゆだねたら、あとは、徐々、利益の源泉を吸い上げられ、無用者になるしかないのです。

それは、いまから25年前、いかなる商売も、インターネットで販売を開始しましたが、多くの小売店は消え、今やアマゾンにどんどん吸収されていきます。

アマゾンは1995年、書籍流通の物販からはじめました。97年にナスダックに上場し、2001年にようやく黒字転換しました。

いまや、あらゆるものを販売し、書籍も古書から、電子書籍にいたるまで、あらゆるものを飲み込み、18兆円という世界トップクラスの企業になりました。いまやキンドルで、出版社も通り越し、著者と直接結び付く事業もやっています。

スマフォのシェアもアップルが実に、日本では68%です。

勿論トヨタ、ユニクロ、ソフトバンク、任天堂、ソニー、楽天、zozoなど、儲かっている日本企業も多々あります。しかし大企業化した企業は、海外に拠点を移し、より外資が多く入り込み、外国系企業に近くなっていくでしょう。

公務員や大企業、外資系企業に籍をおかなかった、いわゆる一般的な日本人が将来に渡って生き抜いていくには、グローバル資本が届きにくい、ニッチな分野しかできないでしょう。

そのひとつは士業にかかわることだと思います。士業は昨今国内内需の疲弊をもろに影響を受け、それほど魅力ある仕事ではなくなりました。

しかし、士業こそ、日本の法律に守られ、グローバル資本の手がおよびません。

そこで、今年は、当社でスクールを開催します。
「士業の業界におもてなしの取り組みを」
「中国ビジネスへの御誘い」
士業の人で中国に進出して成功した人が多いそうです。

講師は中小企業診断士で松尾大社祭事 神子舞、株式会社紅椿社中代表の入江プロデューサーです。
詳しい内容はこちらです。

小人数で、参加者の方と議論を進めていきながらおこなうセミナーです。

セミナー概要
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入江プロデューサープロフィール
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メディアファイブ会議室で行いますので、ふるってご参加ください!
日時費用は追ってご連絡します。

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