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戦記 アーカイブ

2008年11月17日

レッドクリフ(赤壁の戦い)と現代PC戦略

西暦208年北方の袁紹を破り、中原を制覇した曹操は、ついに天下統一のため南征の軍を起こす。

折しも荊州の劉表が死ぬ。これに乗じて曹操は荊州を我がものとする。
その時、曹操の大軍に大敗し荊州に身を寄せていた劉備は荊州を脱出。呉の孫権と組んで曹操に立ち向かおうと、劉備の軍師、諸葛孔明が孫権説得のために呉へ赴く。

孫権の重臣はみな曹操への降伏派であったが、ただひとり周瑜は「中原出身の曹操軍は水軍による戦いに慣れておらず、土地の風土に慣れていないので疫病が発生するだろう。それに曹軍の水軍の主力となる荊州の兵や、袁紹を下して編入した河北の兵は本心から曹操につき従っているわけではないのでまとまりは薄く、勝機はこちらにある」と諸葛孔明を支持した。孫権は開戦を決意した。

孫権は周瑜を総司令官に任命。
周瑜は出撃し、曹操軍と長江をはさんで対峙する。
その数曹操軍80万に対し、孫権、劉備軍合わせて5万ともいわれていた。

呉の武将黄蓋は焼き打ちを進言し、これを実現するために策略をめぐらす。
彼がとった策略は次の通りであった。
・まず黄蓋がわざと周瑜の言うことに反対し、周瑜を非難する。
・周瑜は皆の面前で黄蓋を百たたきにする。
・曹操軍のスパイはこのことを曹操に報告する。
・ころあいを見て黄蓋が曹操に寝返りたいと密書を送る
・そして寝返りと見せかけて船で敵地に赴き火をかける。

そして東南の風の日が来た。
黄蓋は快速船10そうに油をかけた枯草を積み、予定通り曹操の陣に近づく。曹操軍は黄蓋の寝返りを疑わない。
黄蓋は曹操の陣営の近付くとすかさず敵陣に火を放つ。
折からの強風で、次々と曹操軍の船に火が燃え移り、水上はたちまち炎の海となる。
曹操は大混乱の中、なんとかかいくぐり、本拠地の許にたどりつく。


(解説)
そもそも孫氏の兵法は

「敵の十倍の兵ならば、相手を包囲し、五倍ならば攻撃し、二倍ならば敵を分裂させ、等しければ戦い、少なければ退却し、話にならなければ隠れながら逃げる。」を戦争の基本としている。(謀攻編)→孫子の兵法 謀攻編リンク

しかし孫権の部下、周瑜は味方の勝算について
①中原出身の曹操軍は水軍による戦いに慣れていない。
②土地の風土に慣れていないので疫病が発生するだろう。
③曹軍の水軍の主力となる荊州の兵や、袁紹を下して編入した河北の兵は本心から曹操につき従っているわけではないのでまとまりは薄く、勝機はこちらにある。
と述べている。

南船北馬といわれるように、北部出身の曹操は、水上戦は得意ではなかった。
苦手な戦争の場合、この戦いは、不得意な水上戦で敵の策略にはまってしまった。
どうしても苦手な勝負は受け身になりがちである。雌雄を決する勝負は、トップの最も得意とするところで行わなければならない。
善く戦う者は 人を致して人に致されず(虚実編)→孫子の兵法 虚実編リンク

80万対5万では、通常ならば、「話にならなければ隠れながら逃げる数」である。恐らく8万対5千であったら、彼らは逃げていたであろう。まずは数の多さによる指揮の難しさを最大のウイークポイントにしたのであろう。
そこは行軍編で述べられている。
「兵は多ければいいというものではない。ただ、勇敢に進めばいいわけではない。司令官と兵士とが力を合わせ、敵の兵力を調べ、適切な兵力を整えるのがよい。だが、敵を侮っていては、捕虜にされてしまうだろう。」(行軍編)→孫子の兵法 行軍編リンク

大軍の指揮をするには、
「大軍を治めることを小隊を治めるようにするには、人数を分けなければならない。
大軍を小隊のように思うように戦わせるには、形が重要である。
大軍を敵に当たらせ、絶対負けないのは、奇襲と正攻の兵法である。
石で卵を割るように攻撃するのが虚実の兵法である」(勢編)→孫子の兵法 勢編リンク
とある。

そもそも曹操が官渡の戦いで袁紹を破った原因は、袁紹の部下の寝返りにあった。袁紹の疑い深い性格が部下を寝返らせ、それを曹操が受け入れたための、彼の器の大きさの勝利であった。

今回、その成功体験が、逆に仇となり、ほとんど黄蓋の策にはまってしまったのである。

成功体験は成功へのノウハウとは限らず、逆に敵に付け込まれる弱点となることも多い。
日清戦争、日露戦争で戦勝した日本が、常識では勝ち目のない太平洋戦争に突入してしまったのもそれが原因といえるだろう。

よって兵の形の究極は、無形にすることである。戦いに勝っても二度と同じ陣形はとらず、無限に変化する。(虚実編)→孫子の兵法 虚実編リンク

劉備、孫権側もよく曹操と戦う決心をしたものだと思う。これだけ曹操との間に軍勢の差があれば、スパイも入るだろうし、寝返りも出てくる。現に周瑜は寝返りを利用して黄蓋と図り、曹操をだますことに成功した。劉備、孫権ともにぎりぎりのところの死地則戦の状態であったろう。(九地編)→孫子の兵法 九地編リンク

曹操の失敗は
1、急激に膨れ上がった自軍の軍勢を一つにまとめられなかったこと。
2、曹操自身が、水上戦を苦手としていたこと。
3、官渡の戦いでの成功体験が敗因を作ったこと。

戦上手の曹操は、孫子の兵法の解説者でもあり、80万の大軍を擁して5万の敵を相手にすることで、まさか敗れるとは思ってもいなかったであろう。


ビジネス解説 IBMとマイクロソフト

1981年、IBMはPC市場に参入した。エントリーシステム部門のドン・エストリッジの指揮のもと、12名のエンジニアとデザイナーで構成されたチームによって開発された。
このころすでにベンチャー企業のアップルがappleⅡを発売し、成功していた。IBMは商品化を急ぐため、基本ソフトにマイクロソフトのPC-DOSを使用したほか、外注7割という、内部調達を通例とするIBMにとっては異例の事業スタイルをとった。そして、オープンアーキテクチャー路線(基本システムのソースコードの公開)をとり、瞬く間にパソコン市場を席巻したのである。IBMはおそらくパソコンをメインフレームの端末という位置づけで販売し、自社パソコンのOSが世の中の標準になることがメインフレームの販売に有利に働くと考えたのだろう。

当初、IBMチームはOSをゲイリー・キルドール率いるデジタルリサーチに依頼しようとしたのだが、マイクロソフトはこのOSを無料でIBMに供給し、採択された。IBMは半ば実験のつもりで製品化したにちがいない。ところがそのIBM-PCが爆発的にヒットしてしまったため、途中でOS/2という自社OSに切り替えようとしたが、その広がりを止めることはできなかった。

マイクロソフトはこのDOSを他のメーカーにもMS‐DOSのという名称でライセンス供与し、その結果、IBMの互換機が爆発的に普及するのである。

1984年アップルの創業者スティーブ・ジョブスはJスカリーにアップルを追放され、ドン・エストリッジも事故死し、ビルゲイツの強敵は偶然いなくなった。

ただ1985年、ビル・ゲイツはアップルのスカリーに、マッキントッシュのOSを標準OSにすることを提案する。自社でのOS開発も本気で凍結する気でいたようだ。しかしアップルの社内の猛反対に遭い、それは実現しなかった。

強力なライバルがいなくなったマイクロソフトはマックOSを目標とし、1995年Windows95、1998年Windows98を出して、パソコン市場での地位を不動のものにする。

コンピュータ業界を三国志になぞらえば、IBMとマイクロソフトそしてあと一つはオラクル、アドビ、DELL、Netscape、Yahoo!と変遷し、そして今やGoogleといったところだろう。

雌雄を決する勝負は、トップの最も得意とするところで行わなければならない。
善く戦う者は 人を致して人に致されず(虚実編)→孫子の兵法 虚実編リンク
パソコンビジネスでは、メインフレームの得意なIBMよりマイクロソフトがうまく立ち回ったのだろう。

兵の形の究極は、無形にすることである。戦いに勝っても二度と同じ陣形はとらず、無限に変化する。(虚実編)→孫子の兵法 虚実編リンク
ハードに固執したIBMやアップルに比べ、もともとソフトメーカーであるマイクロソフトが展開は有利であった。

2008年12月06日

実際の戦争と孫子の兵法とビジネス 

孫子の兵法は実際の戦争で活用されました。ナポレオンもクラウゼビッツも孫子を愛読書としていました。戦争とビジネスは異なります。

戦争は、敵を倒す、という意味でサッカーや野球などスポーツに近いと思います。ビジネスはライバル会社はいるものの、直接的にはお客様にいかに受け入れられるか、にかかっています。

私は戦争は好きではありません。でもスピードの遅いビジネスの、成功、不成功を決める判断にとって人、もの、金をいかに投入し、いかに活用するか、という点では参考になると思います。

以下ナポレオン戦記、日本戦国時代、古代中国、シェイクスピアが題材としたばら戦争についてご紹介したいと思います。

これは1993年、戦争シミュレーションとビジネス戦略をリンクした経営ソフト「死地則戦」をリメイクしたものです。

ナポレオン戦記 アウステルリッツの戦い

アウステルリッツ会戦
イギリスとフランスの間で結ばれた和平条約であるアミアン条約がイギリスにより破棄され、ナポレオンはイギリス本土上陸作戦を計画した。これに対抗してイギリスは1805年にオーストリア、ロシアと第3回対仏大同盟を結ぶ。1805年、ナポレオンはトルファーガーの海戦でネルソン提督率いるイギリス海軍に敗れ、イギリス上陸を諦めた。
その後、ナポレオンはオーストリアをウルムの戦いで破り、ウイーンに入城した。
そしてオーストリア皇帝フランツ2世はロシアのアレクサンドル1世とクトゥーゾフの率いるロシア軍と合流した。

1805年12月2日午前8時、オーストリア・ロシア連合軍9万は、アウステルリッツ西方のプラツェン高地へ進出し、フランス軍6万8千と対峙した。

ナポレオンは、後方との連絡線確保のうえで重要な右翼(南側)をわざと手薄にしました。アレクサンドル1世はこれを好機とみて、主力軍隊をプラツェン高地からフランス軍右翼へと向かわせた。

ロシアのクトーゾフ将軍は、ナポレオンのペースに巻き込まれるのを警戒し、プラツェン高地から軍隊を離すことをやめるようにアレクサンドル1世に進言したが、却下された。

フランス軍右翼を守るダヴーの第3軍団は攻撃に耐え切れずに押し下げられたかに見え、さらに多くのロシア・オーストリア連合軍隊がフランス軍の陣前を横切ってフランス軍右翼へ殺到した。

そこでナポレオンは、手薄になった連合軍の中央部にスルトの第4軍団を突入させた。中央を守っていたクトゥーゾフはロシア近衛軍団を投入し、フランス軍と激戦を繰り広げたが、ベルナドットの第1軍団の援護とナポレオンによる親衛隊の投入によってプラツェン高地の連合軍は突破された。

中央突破に成功したスルト軍団は、ダヴー軍団と協力して、フランス軍右翼へ殺到していた連合軍部隊を挟撃した。連合軍は氷結した湖を通って退却しようとしたが、フランス軍の大砲が湖の氷を割ったため、将兵の多数が溺死した。他の連合軍部隊にもランヌの第5軍団とミュラの騎兵軍団が襲い掛かり、夕刻までに、連合軍は3万以上の死傷者を出し、敗走した。
まずロシア・オーストリア軍の敗因のひとつは、この戦い全体を通してナポレオンのペースで戦争がはじまり、戦争が終わった点だ。連合軍はプラツェン高地を陣取り、行軍編にある「軍は高きを好みて」、そして数でもナポレオン軍に優り、孫子の兵法の基本では、有利であるはずだった。しかし二人の皇帝を擁する連合軍のリーダーシップの機能低下を狙い、しかもロシアのアレクサンドル1世は若く、皇帝についたばかりだったので、ナポレオンは罠をかけやすいと考えたのだろう。

軍争編
故に兵は詐を以て立ち、利を以て動き、分合を以て変を為す者なり。
ビジネスの場合、騙し合い的なことが戦略上成功することはあまりない。短期間で勝負をつける戦争は、瞬時の判断が大きく影響するが、ビジネスの場合、そういう判断で成功、不成功が決まることはあまりない。むしろだますことは、信用の問題から損な場合がほとんどである。


虚実編
いくさ上手は自分が主導権を握り、相手に主導権を握らせない。
敵を自分から来させるのは、彼らに利益があると思わせるからだ。
敵が自分から動かないのは、動けば害になるとおもわせるからだ。
敵を自分から来させるのは、動けば害になると思わせるからである。

ビジネスでも、主導権を握ることが有利に働く。マイクロソフトはパソコンOSで主導権をとったために、インターネットブラウザでも主導権を握ることに成功した。最初、イリノイ大学のマーク・アンドリューセンたちがモザイクというブラウザを開発し、それが、インターネットで広がり、ネットスケープナビゲーターとして普及した。しかしマイクロソフトは自社のブラウザ、エクスプローラを開発し、自社OS標準搭載にすると、ブラウザのプラットフォームの座をマイクロソフトにとって代わられた。

中小企業でも、なにかニッチな部品の一部でもシェアトップになり、そのシェアが独占に近くなると、パーツとしてのプラットフォームとなる。地方企業で、優良企業として大企業化する企業のステップは、まずニッチマーケットのオンリーワンとなり、それを必要とする大企業パートナーを探し、大企業のグローバル化に伴い、業容を拡大するケースが多い。
プラットフォームは大企業のものだけではありません。

敗因の二つ目は、連合軍であったことである。しかも両国の皇帝が参加していたために、全軍のリーダーシップがとれなかった。さらに皇帝の参加は、戦争の専門家である将軍が軍の指揮をとれなかったことにある。

→謀攻編 
君主が軍に対し、心配なところは3つある。軍が進むべきでないところで進めと言い、退却すべきところでないのに退却しろと言う。これをビグンという。軍隊のことを知らずして軍隊の運営に強く口出しをすれば、兵は惑う。

ビジネスの場合、トップが口を出すべきところと、出すべきでないところはケースバイケース。しかし大勢や方向性まで口がだせないようではリーダー失格である。アレクサンドル1世とクトーゾフ将軍の場合、戦争は極めて国を左右する重要なものである、という観点からは、王族の子弟によくあるように陸軍幼年学校に入り、小さいころより軍事教育をすべきだったのでしょう。

イエナの戦い

イエナの戦い
プロイセン軍 ブリュッヘルの指揮する1万5千はカッセル付近に待機。フランクフルト方面より進軍してくると想定されるフランス軍に備える。
ブラウンシュワイヒ率いる7万はエルフルト付近に集結。ウェルツブルグ方面に進撃する。
左軍ホーエンローエの指揮する5万はイエナ西南のブラッケンハイムに集結。
予備兵団1万5千はマグデブルグ付近で待機。

ナポレオン軍 プロイセン軍はウェストファーレン地方よりライン河の下流に出てフランス軍の背後に回りこむと想定。
少数でこの方面を牽制しつつ、全力でフランケン森に集結。ザクセンを経由してベルリンに向かう。そうすれば敵の背後に回り込め、ロシアとプロイセン軍の合流を阻止できると考えた。

1806年ナポレオンは18万の兵を3隊に分け、フランケン森北方のブラウェンとザールフェルトを結ぶ線に向かって前進を開始。

プロイセン軍はフランス軍がザクセンに向かうものと判断し、全軍をザーレ湖畔に集結。同時に1個師団をフランケン森の北の出口のホーフに派遣する。

プロイセン軍の動きを知ったナポレオンは包囲作戦を展開。プロイセン軍は包囲を脱出するために北方へ退却を開始する。

ナポレオンはプロイセン軍に完勝するために、イエナの高地を乗り越える作戦に出る。なぜならプロイセン軍は、ナポレオンがイエナを迂回する、という想定のもとで退却するのだから、その常識を破ることが、ナポレオンに勝利をもたらすのである。
ナポレオンのこのときの有名な言葉が、「我が辞書に不可能という文字はない」ということです。

この機をとらえたフランス軍はザーレ河を渡り、プロイセン・ホーエンローエ軍を撃破。さらに北方ではダブー軍団2万6千がプロイセン中軍ブラウンシュワイヒ軍と交戦し、これを破る。

プロイセン軍は敗走し、10月27日ベルリン入城。

兵勢編 正をもって合い、奇をもって勝つ
だれもが成功したいのである。だれもが思いつく成功までの至る道を進んでいては成功しない。だれかが追い落とされるから。だれもが不可能だと思うことを成功させることが、成功への近道である。

松下幸之助語録に「成功とは成功まで継続することだ」というのがある。ビジネスは利益を追及するものである。だれもが利益を得たいと考える。しかしみんなが儲かる、と思っているものは、儲からない。みんなが儲けるのは不可能だ、とあきらめているビジネスを成功させることが本当に儲けることができる。

ワーテルローの戦い

ワーテルロー
ロシアの侵攻に失敗し、ヨーロッパ全土に反ナポレオン勢力の元、ナポレオンは退位し、エルバ島に流されました。しかし2年で脱出し、またフランス皇帝に返り咲いた。これに対し、イギリス、オーストリア、プロイセンドイツ、ロシアなど同盟諸国はウィーン会議でナポレオン追放を宣言、決戦に備えた。

1815年6月18日
1815年2月26日、エルバ島から脱出したナポレオンはフランスのジュアン湾に上陸し、パリへ進軍した。途中、ネイ元帥やスルト元帥を従え、7,000にふくれ上がった軍隊を率いて3月20日パリに入城し再び皇帝となった。

ナポレオンはイギリス・オランダ連合軍とプロイセン軍がまだ合流しないうちに各個撃破を計画し、12万4,000の兵を率いて連合軍に戦いを挑むべくベルギーへ向かった。ベルギーに布陣していたのはウェリントン公率いるイギリス・オランダ連合軍の9万5,000とブリュッヒャー元帥率いるプロイセン軍12万であった。

プロイセン軍ブリュヒャーはシャルルロワ北東のリニー3個軍団を急派。その間ウェリントンはワーテルローモンサンジャン高地に軍隊を終結させる。

ナポレオンは軍隊を二分し、自ら63000の兵を率いてリニーを攻撃する一方、ネイ元帥をブリュッセルへ向かわせる。

6月16日、リニーの戦いでナポレオンはプロイセン軍と戦い、死傷者1万6,000の損害を与えたが、完全な撃滅はできなかった。ブリュッヒャーは重傷を負い、参謀長のグナイゼナウが代わりにプロイセン軍の指揮を取った。ナポレオンはプロイセン軍が東へ退却したと誤認し、翌朝グルーシー元帥に3万の別働隊を与えてプロイセン軍を追撃させた。ナポレオン自身は7万2,000の兵を率いてブリュッセルを目指したが、ラ・ベル・アリアンスで6万8,000のイギリス・オランダ連合軍と対峙した。

前夜からの雨で地面がぬかるみ、大砲の動きがとれないと判断したナポレオンは、部下の進言を退けて戦闘開始を昼まで延期した。イギリス軍の方針はフランス軍を防ぎつつ時間を稼ぎ、プロイセン軍の来援を待つことだった為、この判断は大きなミスだった。戦闘開始を延期した理由については、雨のためフランス軍の戦場への到着がそもそも遅れていたので、やむを得なかったとの異論もある。

ネイ元帥はウェリントン軍の前衛部隊と戦い、これをモンサンジャンまで後退させる。リニーでプロイセン軍を破ったナポレオンはここでネイ元帥と合流。ウェリントンと対峙する。

ウェリントンはソワーニュの森を後ろにしてモンサンジャン高地に布陣。全面にウーグモン城館、ラエーサント、バブロット農園による保塁が構築。

ナポレオン軍は弟ジェロームがウーグモントを攻撃するが、終日勝敗は決せず、中央ではネイ元帥がラエーサントを攻撃するが撃退される。

ネイはラエーサントに対し、新たな攻撃を開始。高地のイギリス戦線を打破すべく大規模な騎兵攻撃をおこなう。

防備の天才ウエリントンはこれを凌ぎ、ネイの躍進を阻止する。

ナポレオンは右翼からプロイセン軍が迫るのを発見。ここでプロイセン軍を牽制しつつ、同時にイギリス軍から高地を奪取しようとする。

ナポレオン軍がモンサンジャンの尾根に猛撃を開始。しかし射程外である反対側の斜面に移っていたウェリントン軍はたいした被害を受けなかった。

ウェリントン軍の反撃、ナポレオン軍本隊に迫ったが撃滅。さらに騎兵突撃の援護のため、ナポレオンは砲撃を開始。

ウェリントンは裏斜面の防御陣地まで撤退したため、これを敵の退却とみたネイ元帥は5000人を率いて尾根に押し寄せる。
これに対しウェリントンは方陣隊形に兵を並べて応戦。ネイ元帥は幾度と突撃を繰り返したが方陣隊形に歯がたたず撤退。

ナポレオンはウェリントンへ直接突撃を決意。しかしウエリントンはナポレオンの作戦を読んで身を隠す。ようやく尾根に辿り着いたナポレオン軍の虚を突きイギリス近衛団が攻撃する。

ナポレオン軍は丘のふもとで立て直しをはかるが、再び反撃され撃退され、退却する。

→軍形編 敵の勝つべきを待つ
軍形篇
いくさ上手は、まず自分の態勢を固めてから、
じっと敵に勝つ機を待つ。
負けない態勢は自分でつくるものであり、こちらの勝機は敵がつくる。
だからいくさ上手はなかなか勝てなくても、
決して敵に勝たせたりはしない。
だから勝ちは知るものであり、行為ではない。

ワーテルローはまさに軍形編のお手本となるべき戦いである。ナポレオンのここぞ、というときの猛攻に対し、ウェリントン軍は2度も撤退し、三度目の攻撃には方陣隊形でこれを撃退する。この方陣隊形はレッドクリフの映画のなかでもみられた。

ビジネスもベースを作ったならば、市場で勝てる、と感じるまでは、積極的なビジネス展開をするべきではない。人を増やし、広告宣伝を積極的におこない、さらに設備投資をする、という行為は、かなり市場でそのビジネスの売上が上がってからでないと危険である。
戦争でいう「攻撃」を、ビジネスでいう「投資」と考えれば、まず市場で成功するのが確かめられるまでは、インターネットを活用するとか、プレスリリースとか、お金のかからない宣伝展開や、お互いメリットがあるであろう企業と提携してビジネス展開をしていくことが大切である。

桶狭間の戦い

1560年5月18日、今川軍の先鋒が、尾張領内の沓掛に到着する。これを迎える織田信長の兵力は5千。兵力2万5千の今川軍への対抗策として織田家臣はみな籠城を進めるが、信長はこれを退ける。

5月19日未明、今川軍が丸根砦と鷲津砦への攻撃を開始ししたとの報を受けた信長はただちに清州城を出て、善照寺へ。ここを本陣に見せかけて行動を開始する。信長の動きから明日の対陣を意識した義元は朝方沓掛城を出発。

信長は今川の本陣が狭いくぼ地である桶狭間で急速をとる様子を見ると、ひそかに2戦の兵を率いて桶狭間へ向かった。

そこへにわか雨が突然激しく降り出し、義元の身辺警護が手薄となる。

そこへ織田軍が今川本陣めがけて襲いかかり、今川方は300人が義元を囲んで退却しようとしたが、2000人が義元めがけて集中したために次々倒された。

およそ2時間を激しい混乱の後、小田郡毛利新介が義元の首をあげ、織田側の勝利に終わる。
この奇襲を可能にした要因は二つある。

ひとつは信長の2000の兵は専門に訓練された軍隊であるのに対し、今川軍は旧来の半農半兵の軍隊であったこと。
信長の最高の報償は義元の首をとったものではなく、義元の場所の情報を提供した兵にであった。

また従来首の数で恩賞をきめていたシステムを廃止し、目標に向かって組織一眼となった敏速に機能的に動くことを目指しました。

孫子 虚実編 実を避け虚をつく。兵とは勢いである。

コアコンピタンスという言葉がある。他社には真似できない、会社の中核的価値、すなわち技術や価値をいう。企業はこの力を様々な顧客に発展的に展開していく。たとえばNECや富士通は始めNTTの電話機交換システムを製造していた。そのうちその通信技術を活用してコンピュータを開発製造し、パソコンを作った。それを家電店から一般消費者に提供したり、学校に導入させたりした。企業・公共向けに培った技術を学校や消費者市場へ展開した例である。

市場は大きく分けて 一般市場、学校、企業、公共とある。最初はどこか一つの市場で事業は成功する。そして企業は、そのノウハウを他の市場へ展開することで売上、利益を伸ばしていく。ただ他の市場への展開はなかなか成功しない。そのコアコンピタンスの技術やノウハウが強力で、かつ従来の市場とのシナジー効果があれば参入しやすい。

長篠の戦い

1572年武田信玄は三方が原の戦いで織田、徳川連合軍を撃破、京へ上がる途中、53歳で死去する。信玄の死後、武田勝頼は信玄の遺志を継ぎ三河、遠江方面に進出。

1575年5月8日勝頼長篠城を包囲し、連日にわたる猛攻を繰り返す。15日白を脱出した使者からこの報を受けた家康じゃ、来援した織田信長とともに出発。

家康は弾正山に、設永は極楽寺山に着陣し、到着と同時に連子川沿いに2キロにわたる馬防ぎの柵を築き始めた。

5月20日勝より、清井田へ。両軍は連子川をはさんで対峙する。兵力は連合軍側3万8千に対し、武田川1万3千。

21日夜明け。家康、設永は弾正山北部へ。勝よりは才の神の丘に布陣。午前6時、郷有を誇る武田騎馬隊は家康の右翼向けて突進。が咲くに阻まれ馬が立ち遅れたところへ、連合軍の鉄砲が一斉に射撃をする。

連合軍は右翼に徳川隊、中央に織田本隊、左翼に佐久間信盛を置き、3000挺の鉄砲を3組に分け3段連射で武田騎馬隊を撃破する。

この戦いの勝因は鷹巣山の奇襲策にあった。馬防柵を築いた信長は、いかにしてここに武田騎馬隊を誘い込むか、問いただした。家康の家臣酒井忠次がこの奇襲策を注進した。
ところが信長は「そのような小策が武田軍団に通用するか」と激怒した。

一同無策のまま散会したあと、信長はひそかに忠次を呼び戻し、「先ほどの策は妙案だが、敵がたに漏れたらまずいからああふるまった。」と詫び、兵3千を忠次に与え、鷹巣山奇襲を命じた。

武田軍はこの奇襲で退路を断たれたと思い、正面攻撃を断行した。

孫子九地編 「敵の愛するところを奪え」である。

信長は同じ戦術を二度使った試しはない。柳の下にドジョウは2匹いないのである。三国志で有名な曹操は官渡の戦いで敵の離反作戦で成功し、赤壁の戦いで同じ作戦で敗退した。
戦略や戦術は手順ではない。

ビジネスで成功する人は、戦略を毎回新しく組みなおすので、常識や過去にとらわれない。仕事のできない人の共通点は、つねに手法にこだわり、こういう場面ではこうすべき、という手法を取ろうとする。
孫子でもけっして小が大に戦いを望んではならない、と言いながら背水の陣や死地則戦など一か八かの策も述べる。
戦略はそのビジネスの時期、タイミング、状況で正反対の行動をとらなければならないことがある。従って戦略を過去の経験や常識にとらわれずに組み立てられる人を戦略立案の部署に配置しないと、組織そのものが行動を過つ。
組織が50年、60年と長期的安定を迎えると、戦略企画部門に事務管理的なエリートが増え、その結果、誤った戦略で組織を過った行動へもっていくことが多い。
戦前の日本軍隊はその典型であろう。

策は状況に応じて選ぶものではない。これしかない、というぎりぎりの状況で決断するものである。答えは最終的には自然とひとつ残るものなのである。

長久手の戦い

1584年3月徳川家康、織田信雄連合軍1万5千は小牧山城に、羽柴秀吉は10万の大軍を楽田城に本陣を置き対峙。こう着状態が続く。

秀吉側の池田恒興は2万の兵を率いて南下を開始。戦局打開のために徳川の本国三河を襲う作戦である。これを知った家康は自ら1万の兵を率いて信雄とともにあとを追う。池田軍は丹羽氏重守岩崎城を攻撃、2時間で落城させる。

4月9日家康軍、大須賀隊がひそかに大将豊臣秀次の陣に迫る。急を突かれた秀次は大混乱に陥る。秀次隊の潰走を聞いた池田恒興は急きょ長久手に向かうが、家康軍の攻撃に秀吉側は総崩れとなる。

この敗戦を聞いた秀吉は、ただちに全軍を率いて救援に向かう。家康はあらかじめ秀吉の行動を予想し、小幡城に撤収。秀吉は兵を引き返した。

秀吉は山崎の戦いで明智光秀を破り、獅子が谷の戦いで柴田勝頼を破り主権を握った。しかし本来、信長の家臣である秀吉にとって、本来ならば信長の子供達に主権をゆずるべきなのが、自分がその座に居座ってしまった。信長の息子である信雄と組んだ家康に、正当性はある。

この戦いは、家康の風林火山の戦いである。まず動かざること山の如しで、小牧山に布陣し、早きこと風の如し、静かなること林の如く秀次軍に近づき、これを壊滅させ、その動揺をついて家康が侵略すること火のごとく池田恒興軍を破った。

いかに秀吉が大量の軍隊を擁していても、正当性の弱さが秀吉にとってこの戦いのウイークポイントであろう。

軍争編
兵の動きは敵にさとられないようにし、
自軍に有利になるように動き、臨機応変に動く。
風のように素早く動き、林のように静かに止まり、
火のような勢いで侵攻し、
影のように敵に察知されないようにし、山のように落ち着いて、雷のように敵に攻撃をする。奪った領土は地元の民衆に分け与え、利益を士卒で分け、すべて利益があると見て行動する。遠回りと近道の使い方を知っているものが勝つ。これが、戦闘の方法である。

これは孫子のもっとも有名な風林火山の項目である。スピード、静か、猛攻、勝機が訪れるまでは動かない。大軍を少人数の如く臨機応変にこのように動かすには実はこのあとの「領土を民に分け与え、利益を士卒に分ける」というくだりが重要なのである。公平平等の利益分配があるから、風林火山の動きが可能なのである。さらに必要なのは道すなわちコンセプトこれを三国志の曹操は命令と教育によって導く、としました。次に天すなわち正義・時節・運です。その次は地、すなわちマーケティング。そして将すなわちリーダーシップ。最後に法すなわち秩序を守るためのシステムである。このようなことが常日頃から組織に導入されていて初めて風林火山の動きができる組織が生まれる。

徳川家康という人は織田信長、豊臣秀吉と比較されるが、現代でもそうであるが、戦国時代の当時、もっとも民衆に人気がなかった。どことなく、信長、秀吉が英雄視されながらも、天下をとったあとも、地味だったそうだ。なにを考えているか分からない「狸おやじ」のイメージがあるが、実は秀吉と比較しても大変まじめで誠実だ。秀吉は信長の死後、信長の子供を、自害させたり、追放したり、部下にしてしまったが、家康は、生前の秀吉の約束を守り、天下を取った後も、17年間大阪城で主家としてその存続を認め、本心では豊臣家を大和郡山に移し、存続させるつもりだったという。(山本七平「徳川家康」)
地味で、戦争は生涯三方が原の一敗のみ、天下統一後は、武家諸法度などの政治システムの構築に努め、道、天、地、将、法をすべてわきまえた家康こそ孫子流の理想的リーダーなのだろう。

織田信長も豊臣秀吉も短命な政権に終わったのに、なぜ徳川政権だけが260年も続いたのか。それは家康が政治のシステムを構築したからだろう。武家諸法度を作り、鎖国をし、長崎と平戸に外国との交流を限定させ、参勤交代の基をつくり、御三家と直参旗本、譜代、親藩、外様大名を分け、士農工商の身分制度をつくり、学問を制定した。

企業もコンセプトを定め、利益を公平平等に分配するシステムを作り、自発的に研修できるシステムをつくることが組織安定のポイントとなる。

「商売は商戦にあらず」。今の言葉では、「ビジネスは戦いにあらず」でしょう。偶然、浦和の小さな古本屋で見つけた、くしくも大恐慌の1年前、1928年発行の「処世の王道」という渋沢の著書の中に書いてありました。野村徳七を例に出して、相場は儲かった人がいれば損をする人も必ず出る、だが買った人も、売った人もみんなが得をするのが商売だ、と言いました。私はこの言葉が渋沢の言葉の中で一番好きです。
人と人は争うのではなく、協力しあうほうが絶対得です。競争したり、戦ったりする暇があれば、お互いの良いところを見出し、より良いものを作るほうが良いはずです。企業もしかりです。そのための切り札は組織における情報共有と公平平等な分配、そして人材教育です。甘い?と思われる方もいるかもしれません。しかしその考えは間違いです。協力しあいながら本当の付加価値を出すことのほうが、はるかに地道な努力と時間と忍耐と覚悟が必要なのです。
だれでもみな手持ちの金と時間は限られています。そのなかで付加価値を出すことは並大抵なことではないのです。その学習は、人が生きるうえでもっとも難しく、もっとも重要なのだと思います。その学習こそ、「経営」です。「経営のコツここなりと気づいた価値百万両」と松下幸之助は言いました。「経営」は経営者だけでなく、社員一人ひとり、いえ国民一人ひとり皆が学ぶものなのではないでしょうか。
経営者は、私心なくお金をあるべき自然の流れに従って流さなければなりません。自然を「天」と置き換えれば、「則天」です。つまり「則天去私」が経営者のめざすべき心がけなのだと私は思っています。?この言葉は私の中学時代からの座右の銘でもありました。
金融資本が世界中を跋扈し、穀物にも手を伸ばし、それがため、餓死する人もでる始末です。天はこの狂える人間の愚行に天罰を加えたのでしょう。つまり金融というバベルの塔を壊したのです。
それでは次はなにか。もちろんまた悪魔の手品(マジック)が現れるかもしれません。しかし、今言えることは、「実ビジネスは壊れない」ということです。まじめに働き、身の丈に合った利益を出し、常に改善をおこないながら再投資する。この資本主義の原点のビジネスはこの危機に一緒に崩壊することはないでしょう。
それではいままでのように働いていればよいのか?否です。原点のビジネスを維持し続けられないから、問題がおこるのです。
大切なことは、利益を出すシステムを整備することです。それはなにか?資本主義の原点から考えれば「イノベーション=改良」です。
「もの」が付加価値を生み出す時代は終わったのです。否、「もの」が付加価値を生み出すのは若い急成長国家です。日本においては価格競争から「もの」だけでは利益を出しにくくなるでしょう、これから付加価値を生み出すのは、人に依存するサービスであり、知恵によって作られた商品です。
 また、破たんする会社の特徴は売上やニーズより、投資や開発を先行させる傾向があります。 まず売上をあげること、ニーズを発掘することを全社が一丸となって進めることが重要ではないでしょうか。
企画部門、開発部門、総務部門など内勤でもSEO対策やメールで新規開拓も可能です。しかしその活動が継続的かつ効果的なものにするためには、内務者の明確な活動記録や評価するシステムが必要です。

日本における中小企業で、いきなりグローバル戦略は難しい。自社商品やサービスを究極まで質を上げ、そのノウハウを海外展開することが重要。
そのためには改善提案が必要。グループウエア上でも、日報の記入にしても、改善提案しやすいシステムをつくることが必要。
ノウハウや技術をシークレットにすることは、その普及に歯止めがかかります。これからは技術をオープンにし、みんなが活用できるようにし、自分たちはその進化力の速さとクオリティで他の企業との差別化をすることが必要で、一人一人が常に仕事の改善改良を続けるシステムに、組織をかえていかなければなりません。
そうはいってもなかなか、通常の業務のなかに改善提案やシステム導入はできません。理由は評価システムが大雑把だからです。人は自分の働きが、報酬に見合わなければ働きません。それを年に2回、中間管理職まかせで決定することは企業の進歩を促進しません。
採算、人事、学習、技術といった項目で定常的に評価することが、人をまじめに一生懸命に働くのです。

ヒットが出ますように、儲かりますように、という運頼みの経営から全員が知恵を出し合い、どうやって利益がでるかを工夫しあいながら、粘りの頭脳経営をしなければなりません。
なぜ経営は実態を把握しずらいのでしょうか。まずバランスシートで本当に利益があがっているかどうか、把握することはできません。その商品やお客様、サービスが利益を上げているかどうかは、通常の販売管理ソフトでは、期をまたいでいるので解りにくいのです。
従って、その商品やサービスがスタートしてから、どれだけのコストと時間がかかり、どれだけの利益をだしたか、明確になるシステムが必要です。
そしてそのプロジェクトが利益を出しているかどうか、だれが、どの程度貢献しているか、という参加している人の貢献シェアが明確にならなければなりません。
だれかが仕事をしたら、その結果が明確にならなければ、仕事のイノベーションは生まれません。しかし従来の経営手法では一人一の仕事の結果が明確化されていないのです。
個人の仕事の結果を明確化する個人生産性のシステムが必要なのです。上司によるいい加減な評価は、人材の資源を有効に活用することはできません。

「行き詰ったら原点に帰る」昔から言われている原理原則です。巷では、億万長者になれる、とか楽して儲けるとか甘い言葉の散乱した本が店頭に並べられています。しかし今度の金融危機はそういう甘言がみなまやかしであることを証明しています。当たり前のことをコツコツすることが大切なのでしょう。
改善改良の継続、公平平等の分配、個人生産性の向上。もちろんなかなか実行することは難しいです。当社でも3年前から取り組んではいますが、なかなか理想的な状態にはなりません。
しかしたとえば当社では間接部門でもメール営業やSEO対策をおこなってもらっています。それもきちんとそういう行為が実を結べば、結果として評価される仕組みなので、みな続いているのだと思います。
そして自分の仕事の結果が出て、報酬として受け取ったとき、働くよろこびとモチベーションにかわるのでしょう。

関ヶ原の戦い

1593年豊臣秀吉が没する。もともと豊臣政権内では様々な対立があった。そのなかで、石田光成は淀殿派、吏僚派、中央集権派の中心であり、家康は高台院派、武断派、地方分権派に支持されていた。

この状況に均衡を保たせていたのは、前田利家であったが、1599年に死去する。
利家の死後、彼の力で抑えられていた武断派と吏僚派の対立が激化し、武断派である加藤清正、黒田長政らが光成を襲撃しようとした。

このとき光成は家康の屋敷へ逃げ込んだ。

1600年9月15日(新暦10月21日)早朝、石田三成は関ヶ原西北部笹尾山に陣を敷き、午後5時には西軍総兵力8万数千が布陣を終えた。

東軍は、家康から出陣命令が出されたのは午前2時。総兵力7万5千が布陣を完了したのは午前6時であった。

東軍の先鋒は福島正則。しかし家康の四男松平忠吉の後見役、井伊直政は自ら精兵30騎を率いて最前線に出て、宇喜多秀家隊に発砲する。これをきっかけに午前8時、合戦の火ぶたが切られる。直政のぬけがけに怒り、正則もすかさず攻撃に入る。

この時点での兵力は、西軍の毛利、小早川が動かず、東軍6万、西軍3万5千と東軍が圧倒的に優勢。だが西軍は善戦し、開戦から2時間は接戦であった。

家康は本陣を戦場近くに移す。しかし戦局はこう着状態が続く。

三成はここを総攻撃の好機と見て、松尾山、南宮山に待機している小早川秀秋、毛利秀元らに向けて狼煙で合図を送る。

しかし毛利は一族の吉川が家康と通じていて動こうとしない。小早川隊は家康にとっても不安材料であったが、家康が小早川軍へむけて一斉射撃で威嚇すると、小早川は家康に味方することを決断、西軍に向けて突撃を開始した。

この小早川隊の寝返りにより、傍観を決め込んでいた武将がつぎつぎに東軍に寝返り、西軍は一気に崩れる。
午後2時、三成の本陣もついに崩れ、ここに天下分け目の戦いは勝敗が決する。敗走する軍勢への追撃中止命令が伝えられ、すべての戦闘が終了したのは午後4時であった。

→ 軍形編

明治時代、ドイツの軍人メッケルは日本に軍事教育に招へいされ、日本陸軍を指導しました。そのとき、関ヶ原の戦いの布陣を見て、石田光成の西軍側の勝利を断言しました。

この布陣のとおりに戦争が進んでいたら、石田光成の勝利でした。しかし小早川秀秋が裏切り、石田光成に攻撃をはじめ、吉川広家ははじめから家康の味方を主張し、毛利本陣の入り口に陣取り、全く動かなかったのです。そして毛利本体も動かなかったのです。つまり西軍は半分ぐらいしか戦いに参加せず、しかも小早川は西軍を裏切って攻撃したのだから、西軍の負けは仕方のないものでしょう。

井けいの戦い

これは項羽と劉邦の物語です。

井けいに趙軍は20万の大軍で陣を構える。対する韓信は1万2千の兵で対峙する。
数の上では圧倒的に不利な韓信は、別動隊2千を残し、自分は本体を川べりに背水の陣を敷いた。

夜明けを待って韓信軍は陽動作戦を開始。井ケイに攻め入り、ころ合いを見て退却する。逃げる韓信軍を趙軍が追撃する。

河岸の陣地に着くと、韓信軍は反撃を開始する。

そのころ韓信軍の別動隊は手薄となった趙軍陣地を襲い、占領する。

韓信軍の思わぬ反撃に苦戦した趙軍はたいてい立て直しを図り、自陣へ撤退を開始する。
ところが目指す自陣は既に敵に占領されており、趙軍は大混乱に陥れる。
あわてる趙軍を韓信軍は前後から襲いかかり、趙軍は壊滅する。

官渡の戦い

西暦200年春、本拠地許州を守る最終防衛ライン官渡に陣を構えた曹操と、それを攻める袁紹との歴史的な決戦が始まる。

曹操は許州を守る最終防衛ラインである官渡で守りを固める。
袁紹軍は、敵の守りが固いことを知り、高い櫓を作って、その上から敵陣に向かい一斉に矢石の攻撃を加える。

それに対し曹操も石を発射する装置を作らせて反撃。袁紹軍の高櫓をことごとく粉砕する。
次に袁紹軍は坑道を掘り、敵陣に入ろうとする。曹操軍は陣のまわりに濠を掘り、水を注いでこれを防ぐ。

食糧が少なくなった曹操軍は許州に急使を出すが、その急使を出すが、その急使が袁紹配下の許ように捕らえられる。

許ようは袁紹に報告するが、袁紹はこれを疑い、許ようが曹操に内通していると決め付けたため、許ようは袁紹のもとを離れ、曹操に寝返る。

許ようの進言により曹操は敵の食糧が鳥巣に集積されていることを知り、自ら五千の兵を率いてこれを攻撃。奇襲が功を奏し、鳥巣は曹操軍に制圧される。

これを知った袁紹は張ごう、高覧に官渡を攻撃させる一方、一万の兵を与え鳥巣救援に向かわせる。

しかしどちらも曹操軍に惨敗し、張ごうと高覧は袁紹の罰をおそれて、曹操軍に降伏。袁紹軍は混乱状態に陥る。
この機に曹操は総攻撃をかけ、袁紹軍は崩壊。

博望ヒ

劉備軍、諸葛孔明は夏侯惇軍十万に対し、次のような布陣を引く。
「張飛は千の部隊を指揮し、博望城西側の予山に隠れ、敵が来ても決して戦わず、その前進を見過ごし、南方に火の手が上がったら、戦闘部隊に続行してくる部隊を襲いなさい。」
「関羽は千の部隊を指揮し、博望城東側の森林内に潜みなさい。

戦わず、南方に火の手が上がったら、博望城内の食糧集積所を襲いなさい。」
「関平と劉封、五百の部隊を指揮し、博望城南方、山間の草地に隠れ、敵の戦闘部隊が入ってきたら火攻めにしなさい。」

「趙雲は民兵を指揮して博望城北方に進出し、敵に遭遇したら負けたふりをして逃げなさい」
「君(劉備)は趙雲隊の後方を前進していただきたい」
「夏侯惇が十万の兵を率いて、多数のちゅう重車を従えて博望城の北に現れる。趙運の貧弱な部隊を嘲笑し、一蹴して今夜の宿営地新野の城に入ろうと駒を急がせる。」
「博望付近で劉備が合流。劉備、趙運はさらに敗走を続ける。」

「夏侯惇が罠に気付く。しかし事情を知らない後続部隊から後から押し寄せてくるので下がろうにもさがれない。」

「関平、劉封が火攻めを行う。夏侯惇は多数の死傷者を残して逃げていく。」
「後方では、張飛が部隊を襲い、関羽が食糧集積所を襲撃していた。劉備軍が勝利する。」

九地編 狭い地では謀をめぐらせ。大軍相手に勝つには狭い地での奇襲が有効である。

五丈原の戦い

蜀の皇帝劉備亡きあと、諸葛孔明は劉備の子、劉禅の後見として呉との関係を回復した後、南方の平定をおこなった後、227年ついに北伐を決意。魏軍を率いる司馬仲達とはじめて相まみえることとなる。
こうして三国志を代表する軍師諸葛孔明と司馬仲達と最初で最後の戦いが始まる。
第1次北伐 孔明は趙雲の別動隊により、敵を牽制、本隊はき山をおさえるべく行軍する。

孔明は敵の総司令官が仲達だと知ると、必ず攻めてくるであろう街亭を守るために腹心の馬謖を派遣する。街亭を奪われると、孔明軍が分断され、個別撃破されるからである。

ところが馬謖は孔明の指示を無視し、自軍を南側の山上にあげてしまう。
これを仲達は見逃さず、馬謖はあっというまに仲達に包囲される。水をたたれた馬謖は山を下り、白兵戦を挑み、破れてしまう。

諸葛孔明は命令を無視した馬謖を切り、「泣いて馬謖を切る」はここから生まれた。

第2次北伐 孔明が陳倉を攻めると予想した仲達は故芽衣の破城攻撃に対抗するため、弓の名人かく昭を派遣する。

わずか千人のかく昭軍は数万の蜀軍と20日以上も渡り合う。

孔明は敵の大軍が近づいてきたことを知り、さらに食糧が尽きてきたこともあり、退却を開始する。

このとき、孔明を追ってきた王双は白兵戦で敗れ、殺されてしまう。

第3次北伐 まず魏が第1次南伐をおこなった。

しかし40日にわたり降り続く豪雨が魏軍の進攻を阻む。この隙に孔明は魏延に涼州方面を攻略させる。

涼州攻撃の帰り道、魏延は魏軍の郭准と遭遇し、孔明軍との挟みうちでこれを壊滅させる。

第4次北伐 孔明の死が近いと気づいた仲達はひたすら守りの体勢をとっていたが血気はやる配下達や諸将を抑えきれず、き山に進軍することになる。

戦略的には仲達が勝っていたが、戦術的には孔明が勝っていたので、孔明軍の圧勝に終わった。

食糧が尽きかけたので、退却を始めた孔明軍を、仲達は張こうに追撃させるが、孔明の伏兵に襲われ、張こうはあっけない最期を遂げる。

第5次北伐 孔明は五丈原に陣を構える。しかしどんな挑発にも仲達は乗ってこなかった。対峙して3か月。孔明は女物の服などを送りつける。仲達陣営の諸将たちはこの侮辱に怒り、一触即発となるが、仲達は帝に出陣の打診を送るが、帝は老臣をよこし、諸将たちをなだめた。

234年孔明が死に、臨終に臨んで、後を託した楊儀に策を遺言する。
蜀軍は退却し、仲達は追撃するが、蜀軍は反撃の形勢を示し、司馬懿は慌てて軍を退いた。この事を聞いた人々は「死せる諸葛、生ける仲達を走らす」などと噂した。
司馬仲達は「私は生者を相手にする事は得意だが、死者を相手にするのは苦手だ」と論語の一節、「未だ生を知らず、焉くんぞ死を知らん」にかけて語ったという。

蜀は劉備なきあと、劉禅が王となった。劉備は死に際に、諸葛孔明に、劉禅に皇帝の才能なくば、孔明がそのあとを継ぐように、遺言したのだが、孔明は劉禅に忠誠を誓った。

街亭の戦いでは、孔明の腹心であった馬謖を起用したのだが、馬謖は自分の才能に過信し、孔明の指示をきかなかったばかりに率いた蜀軍を全滅させてしまった。孔明はカリスマ的リーダーであるが、どうも後継者を育てるのは得意ではないようだ。また同じく腹心であった魏延と楊儀は孔明のあとめを争い、魏延は殺され、楊儀は失脚した。カリスマ的な天才リーダーの傍で働いていると、時としてそのスタッフは自分の能力を過信し、決断を誤ることが多い。大企業でばりばり働いていた人が、いざ独立したり転職したりすると、思うように働けないことにいら立つケースもこれに該当する。

五丈原で、孔明が死んだとき、その死を隠し、撤退したことは「詐を以て立つ」典型であろう。ビジネスでも常に理想的な状態でビジネスを行えるわけではない。顧客に理想的な状態をアピールし、納品する時まで、もしくは段階的に理想的商品を納品するケースもある。

タウトンの戦い

1461年、戦死したヨーク公の息子エドワードは、ランカスター側の大軍を破り、父の仇を取ったのち、ロンドンに入場し、国王を宣言した。

ロンドン入城したエドワードは、北方に退いていたランカスター側のヘンリー6世の王妃マーガレットの軍を追って進軍を開始した。

王妃軍はその数4万とも8万ともいわれる大軍勢をもってタウトンの丘陵地帯に布陣し、エドワードを迎えうつ。

こうしてばら戦争中最大規模の決選の火ぶたが切って落とされた。
ヨーク軍は降りしきり雪と追い風に乗じて弓矢戦に出る。

第1矢を放つと直ちに射程距離の外に退避、敵軍の矢の浪費を誘う策である。
逆風に加え、雪のために視界の利かない中、やみくもに矢を放ったランカスター軍は矢を使い尽くし、数にまかせて進撃するが、両軍に横たわるくぼ地を越えたところを、待ち構えていたヨーク軍に矢を射かけられる。

しかし兵の数で上回るランカスター軍は、ヨーク軍の左翼カスル・ヒル森に伏兵を配置していた。

戦いは歩兵戦に、続いて白兵戦となっていく。前線の兵士が倒れると、後部の者がとってかわる。勝敗の帰趨は四段を許さない。

ヨーク軍は敵の圧倒的な兵員数やカルス・ヒル森の伏兵のために後退を余儀なくされ、一時劣勢に陥る。

しかしやがて後続のサフォーク軍が戦場に到着し、味方の右翼となって戦列に加わり始める。

次々到着するサフォーク軍は、敏速にランカスター軍の左翼を脅かす。
サフォーク軍の加勢は両軍の士気に微妙な影響を及ぼし、ランカスター軍は、前線離脱する兵が現れる。はじめは単独で、やがてグループで、その波紋は急速に広がり、ついにランカスター軍は総崩れとなる。

ヨーク軍は退却する敵を追撃する。
敗走するランカスター軍は、タウトンを抜け出し、コック側にさしかかる。ところがそこは切り立った崖と川幅いっぱいに溢れる水で敗走兵の行く手を阻み、大混乱となる。屍は川の水をせき止めて堤となし、追跡軍はその上を踏み越えて走る。ここを越えても、この先のタドカスターの渡り場でも同様な惨状が繰り広げられる。

ランカスター側の敗因は、最高司令官が戦争には素人のマーガレット王妃がリーダーシップをとったことがあげられる。

数の上では優勢でも、司令官にリーダーシップがなければ組織は維持することはできない。

逆風下で戦争の口火を切ったという基本的なミスも犯している。
バーネットの戦い
エドワード4世はかつての腹心ワリックにより王位を奪われ、フランスへ逃亡の身となるが、半年後には英国上陸を果たす。

今やランカスター側に与するワリックは、これを知り、ロンドンを目指し、南進するエドワードを追うが、エドワードはロンドンに入城を果たし、ワリックを倒すべく北進した。
1471年4月 両者はバーネット北方に広がる原野で対峙する。
その日は一帯に濃い霧が立ち込めていた。

エドワードを中心とするヨーク軍は中央に王自ら陣取り、右翼に王の弟グロスター公、左にへースティング卿、対するワリックを中心とするランカスター軍は中央にモンタギュ候、左翼にエクセター公、右翼にオクスフォード伯という布陣で、ワリックは中央後部に予備軍を従えて全軍を統括する。

エドワードはラッパを吹奏させ、総進撃が開始された。
緒戦は先ず飛び道具で始まるが、霧のため双方ともやみくもに打ち合い、両軍とも損害はほとんど受けなかった。

エドワード軍は白兵戦に移る。
兵力はエドワード軍10000、対するワリック軍は15000.
ワリック軍右翼オクスフォード伯は敵軍へースティング隊に迫り、これを撃破。
しかし、この状況は、霧が幸いして味方に伝わらず、エドワード軍に敗走の連鎖反応は起きなかった。

ワリック軍左翼のエクスターがグロスターの猛攻に押される。ワリック軍は予備軍の一部を向けて援護する一方、中央でのエドワードの進撃に対して持ちこたえる。
逃走する敵を追って南下したオックスフォード伯は、800の残兵を集めて戦線に復帰。敵の背後を突こうとするが、霧のため誤って、オクスフォード軍が戦場を出て行ったあとをカバーしていた味方のモンタギュ軍を攻撃してしまった。モンタギュ軍はオクスフォード軍が寝返ったと思い、ワリック軍は大混乱に陥った。

エドワードは敵軍のこの混乱を見逃さず、全軍に進撃の号令を下し、予備兵を和リック軍左背の「死者の谷」に送り込む。

エドワード軍右翼グロスターも進撃し、大勢はエドワード軍勝利に決する。
ワリックは敗戦を悟り、戦場を抜け出し、北へのがれるが、追手に捕らえられて殺される。
ワリックはキングメーカーと呼ばれていた。エドワード4世を王位につけたのも、ヘンリー6世を復権させたのも彼の力によるところが大きかった。

この戦いの勝負の最大の原因はオックスフォード伯の軍勢が、濃い霧のために間違えて味方のモンタギュ軍を攻撃し、裏切りと勘違いしたモンタギュ軍と同士討ちをはじめたことである。
地形編では、軍兵には次の6つの欠点が存在することを指摘する。
逃げ足の速いもの、緩んでいる者、落ち込む者、混乱するもの、かってに撤退するもの、そして戦いでこれらの欠点が露呈するのは天地の禍ではなく、将たるものの過失である、と。

へースティングの部隊を打ち負かしたあと、オクスフォード伯の軍隊は勝ちに乗じて略奪するものや、帰参するものが出て、収拾がつかなくなった。ようやく軍兵を集めて戦列に加わったものの、同士討ちになってしまった。自然という偶然が勝敗をつけたように見えるが、孫子流にいえば、リーダーシップの問題といえるだろう。

ヘンリー6世 5幕2場 「死と敗北」
バーネットの戦いで瀕死の重傷を負ったワリックの独白である。いかに輝かしい栄光があろうとも死ぬ時は自分の体の大きさしか自分の所領はない、と生のはかなさを嘆いていま

デュークスベリの戦い

フランスに亡命していたヘンリー6世の王妃マーガレットは、皇子エドワードと南英ウェーマスに上陸。バーネットでの味方の敗北を知るが、再挙を決意しウェールズ入りを目指す。

エドワード4世はこれを阻止しようと、王妃軍を追い、デュークスベリ南方に広がる原野での決戦となる。

マーガレット王妃を中心とするランカスター軍はデュークスベリの町を背に右翼をソマセット公、左翼にデヴォンシャ伯、中央に17歳の王子エドワードという布陣。しかし中央で実際に指揮をとっていたのは、寝返りの常習犯ウェンロック卿である。

一方エドワード4世率いるヨーク軍は右翼へースティング、左翼グロスター、そして中央にはエドワード4世が弟クラレンスを従えて全軍を指揮する。
また200の槍部隊を予備軍として左翼後方に配する。

戦いは砲撃戦で始まる。

ランカスター軍右翼のソマセット公が、側面からの奇襲を図り、右手の小山の外側を回って密かに軍を進める。
王エドワードは、この小山の西の高台に敵が伏兵を置く危険を考え、ここを占領させるために一隊を送る。この一隊はソマセット軍と遭遇するが、身を隠してこれをやり過ごし、引き返して奇襲を受けながらも陣容を立て直した見方とともにソマセット軍を挟み撃ちにする。

ソマセット軍に呼応して正面から攻撃をかけることになっていたウェンロックが動かず、ソマセット軍は大敗を喫する。

辛うじて陣地に戻ったソマセット公はウェンロックの裏切りに憤激してこれを殺害。

リーダーを失ったランカスター中央軍は敗走。これに連鎖して全軍は総崩れとなり、勝敗は決した。

これもランカスター側はフランス人の傭兵に依存するという寄せ集めの組織力の弱さが、現場での混乱を招いた。

傭兵であり、寝返りの常習犯であるウェンロックを中央軍の司令官にしていたことも問題である。

謀攻編 勝ちを知るに5つあり。
 戦うべきかを見極められるものは勝つ
 軍の多寡に応じて用法を用いられるものは勝つ
 司令官と兵が一心同体のときは勝つ
 思慮分別のあるものがないものと戦えば勝つ。
 司令官が有能で君主がよけいな口出しを、しないことをわきまえていれば勝つ。
敵を知り己をしれば百戦危うからず。

ボズワース

エドワード4世の弟グロスター公は、次兄クレランス公を謀反の罪で陥れ、処刑させ、エドワード4世が死去すると、その幼子であるエドワード5世の摂政になるも、すぐにロンドン塔で、その兄弟を殺し、リチャード3世として王位についた。

そこでランカスター側はこれに対抗して挙兵。フランスのヘンリーテューダもリチャードを倒すためにイギリスに上陸する。

リチャード3世は諸侯に集合かけ、兵を集めるも、弟がヘンリー側に与していることに不安を感じる。

両軍はボズワースの原野に進撃する。

リチャード軍は先陣をノーフォーク公、後陣をノーサバラント伯が務め、王自身は中央で全軍を指揮する。
一方ヘンリー軍はオクスフォード伯が全軍を統括。中央にヘンリー、左右にサー、ジョン、サベージおよびギルバートタルボットという布陣。

戦いはボズワースの丘陵に突き出た「アンビエン・ヒル」の争奪戦に始まりました。リチャードはノーフォーク公にアンビエントヒルの占領を命じ、王もこれに続く。

一方ヘンリーも全軍に進撃を命じるが、目指したアンビエントヒルはすでにノーフォーク公に占領され、また進路が湿地帯に阻まれたため北に転進する。

ヘンリー軍が陣容を整え、攻撃に転じ、アンビエンヒルの斜面を登り始める。

ノーフォーク軍は丘をかけ下り、斜面の中腹でヘンリー軍を押し返す。しかしノーフォーク公は戦死する。

王はノーフォークの戦死によりヘンリーとの勝負を決めようとし、ヘンリーの前の厚い護衛層を突破しようとし、ノーサバラント伯に出動命令を送る。しかしノーサバラントはスタンリの動きが挙動不審なのを警戒して動かず。
このときスタンリー卿はヘンリー側に寝返り、リチャード軍の側面に迫る。

王はこの裏切りを知ると親衛隊を終結し、斜面をかけ下り、スタンリ軍めがけて突進するも、湿地帯に馬の脚を取られ、立ち往生し、敵に囲まれる。

リチャード三世は戦死する。
リチャード3世 1幕1場「平時と非常時のリーダー」
長い薔薇戦争は赤い薔薇側のヨーク家が勝利し、、容姿端麗な兄のエドワードが王座につきました。後のリチャード3世、弟のグロスターはランカスター家との戦いの日々では、存在価値が大きかった自分が、平和の時代が来ると、居場所を持たないのに気づきます。そこで兄のエドワード王と次の兄のクラレンスを倒し、自分が王座につこうと企みました。安定した時代はバランスのとれた毛並みのよいエリートがリーダーとなり、変革の時は異端児がリードして体制をひっくり返す。いつの時代でも平時と非常時のリーダー像はエドワードとリチャードのように対象的です。非常時のリーダーが平時で地位を保つのは難しい。ナポレオン、ヒトラー、織田信長、西郷隆盛はその典型といえるでしょう。

リチャード3世 5幕3場「戦わずして負ける」
孫子の5つのキーワードのひとつに「天」というのがあるが、その「天」の一つであろう気、運勢を呼び込むことも重要な戦略です。リチャード3世は兵力では圧倒的に有利でした。にもかかわらず戦争の前夜、野営のテントでリチャードが寝ていると、亡霊が出現しました。彼は気が動転し、状況は一変した。悪の限りを尽くし、策略をめぐらし、地位を獲得しても、そこに正当性がなければ、気や運を呼び込むのは難しいものです。
これは「天」に逆らって戦う前から負けてしまっている人間の独白です。ビジネスでもリーダーの姿勢は常に顧客に対しては誠実であり、社員に対しては正義を貫く姿勢が大切です。濡れ手に粟の商売をしたり、社内に派閥を作ったり、不公正な人事はどんなに自分の立場が強くても、いずれは崩壊の憂き目をみるようです。正義や誠実さはすきをつくらず、前向きの姿勢が運をよぶのでしょう。正義と誠実は比肩するもののない最高の戦略なのです。

リチャード3世 5幕3場「戦わずして勝つ」
リッチモンド伯、後のヘンリー7世はリチャード3世との戦いの前夜、はればれとした明るい気持ちで部下と戦略を討議していました。自分の正当性を信じ、前向きな明るく余裕のある状況は、リチャード3世とは対照的です。兵の数では不利でも運勢が見方しているので、悲壮な暗さはみじんもない。運気を追い風に、つまり「勢い」にのって一気に決戦を挑もうという「人事を尽くして天命を待つ」状況はすでに戦わずして勝つ状態なのです


始計編
リーダーには常に理論と公正さが必要。

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